様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第461回目となる今回のゲストは、株式会社ZENKIGENでセールスや採用、バリュー策定など幅広い業務を担当している関 愛生(せき よしき)さんです。
ネパールへの移住をきっかけに人生が大きく変わり、ZENKIGENで働くことになった関さん。そんな関さんが、「世界の不条理を変える」というビジョンをもち、行動に移していった過程についてお話しいただきました。
ネパールに魅了され、単身移住を決断する
ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。
株式会社ZENKIGENの関愛生と申します。中高時代にタイやネパールに移住し、大学時代は国際政治や国際協力の勉強をしていました。
それからいろんな経緯があり、ZENKIGENのCEOである野澤と出会い、大学4年生のときに入社することになりました。本日はよろしくお願いいたします。
ー野澤さんがZENKIGENで働くことになった経緯を、幼少期にさかのぼって詳しくお伺いできればと思います。幼少期は、どのように過ごしましたか?
幼少期は新潟で暮らしていましたが、父の仕事の都合で小学5年のときに東京へ引っ越し、中学3年になるタイミングでタイへ引っ越しました。
ータイへ移住後は、どのように過ごされたのでしょうか。
タイでは現地校に行きたかったのですが、前例がないという理由で日本人学校へ入学することになりました。それからしばらくして、ネパールへ1人で移住したのです。
ーネパールへ移住されたのはなぜ?
きっかけは、父の一声です。タイの日本人学校は進学校だったので、高校受験のときに周りはみんな猛勉強していて。一方で私は、将来どうしたいという想いもなく、勉強をせずにテストを受けたりしていました。
するとある日、父に「お前はこれからどうしたいんだ」と本気で怒られたのです。父からあまり怒られたことがなかったので、衝撃でした。
そのときに父から、一度自分の人生と向き合うためにネパールへ旅行することを勧められ、1人で1か月間ネパールへ行くことを決意しました。
ーネパールで1か月間生活してみて、いかがでしたか?
ネパールに着いた瞬間は、信号がなくて毎日停電するようなカオスな環境に、かなりショックを受けました。初日はホテルから出られないほどでしたね。
ただ、徐々にいろんなところへ行って、いろんな方とお話するうちに慣れていきました。会う人はみんな優しくて、お店で休んでいると「今日私の家にご飯食べにおいでよ」「泊っていきなよ」と話しかけてくれるオープンな空間がものすごく心地よくて。
「ネパールに住みたい」と思い、そのまま父に相談したのです。人生で初めて、「私はこうしたい」と意思表示できた瞬間でした。
ーご両親から反対はされましたか?
まったくされなかったです。旅行から帰ってきたその日に「ネパールに1年間住んでみたいんだけど、どうかな?」と相談すると、二言返事で「いいんじゃない。行ってきなよ」と言ってくれました。
親友・カルナとの出会い。貧富の格差に言葉を失う
ーネパールへ単身移住してから、どのように過ごされたかお聞かせください。
ネパールの首都、カトマンズに着いてから、数か月間はポカラという街で暮らしました。その後、ネパールの中でも特に貧しい村へ移住したのですが、学校はポカラにあったので、村とポカラを行ったり来たりする生活を続けていました。
ー毎日、村からポカラへ通学していたのですか?
学校は途中からほとんど行かなくなりました。私が通っていた時期は、ちょうどみんなが国家試験の勉強をしている時期で、ネパールは国家試験の点数によって就ける職業が決まってくるので、勉強漬けの日々が続いていて。
「せっかくネパールに住んでいるのに、一日が勉強だけで終わるのはもったいない」と思い、学校へ行かずに村で過ごしていました。
ー村ではどのように過ごしていたのでしょうか。
朝5時くらいに起きて、往復2時間ほどかけて山へ水を汲みに行き、その後は農作業を手伝ったり、幼い子向けの学校で授業の手伝いをしたり、いろんな方のお家へ訪問してお話したり……そんなことをしていると、気づいたら一日が終わっていましたね。
あと、村で知り合った同い年の友達と常に一緒にいました。彼は私の人生を変えるきっかけになった人でもあります。
ーお友達との思い出を、もう少し詳しく聞かせてください。
当時私は15歳で、同世代の友達はあまりいない中で唯一仲良くなったのが、当時の親友・カルナでした。彼は15歳で既に奥さんがいて、奥さんは妊娠していました。
奥さんが妊娠しているので仕事をしなければいけないのですが、村には仕事がなくて。街へ出て工事現場の仕事をしても、一日数百円しかもらえない状況で。それでは生計が成り立たないので、ネパールの若い村人たちは発展している国へ出稼ぎに行っていました。
この出稼ぎは、「21世紀の奴隷制度」と呼ばれるほど危険なものでした。出稼ぎに行って亡くなってしまう方がたくさんいるので、ネパールの空港では毎日悲しいお見送りが繰り広げられると同時に、何体もの遺体が運ばれてきていました。
ーカルナさんも出稼ぎに行ったのですか?
一番危険な仕事をさせられるのは貧しい国の、貧しい人だったので、カルナも同じように出稼ぎに行きました。同じ立場だと思っていたのに、生まれた場所が違うだけで、こんなにも過酷な運命をたどらなくてはいけないという事実にショックを受けました。
それ以上に、自分はこの現状を何も変えることができないだけでなく、彼一人の人生を変えることすらできないということがショックでした。彼が出稼ぎに行ってからは、ずっと1人で山を見ながら物思いにふけっていました。
そんなある日、天から急にメッセージが降りてきたのです。
ーどんなメッセージでしょうか。
「恵まれた人生を歩めているのは偶然ではなく運命で、この恵まれた人生を世の中の発展のために使っていかなければいけない。それは自分の義務なんだ」というメッセージです。
それから、人生が一転しましたね。
世界の不条理を変えるため、ZENKIGENへ入社する
ー突然メッセージが降りてきて、どのような行動をとりましたか?
目の前にある問題に対して、今自分ができることを一生懸命やるしかないと思ったので、村の清掃活動をしたり、学校でいくつか授業を担当させてもらったり……小さな行動から始めました。
そんな活動を行っているうちに、当時住んでいた農村地域に詳しい存在となり、日本のボランティア団体から支援活動の現地コーディネーターとしてのお仕事をいただけるまでになったのです。アクションを起こし続けるうちに、少しずつ出来ることが広がっていったような感じですね。
ーネパールにはいつまで暮らしていたのでしょうか。
高校1年生まで住んでいて、日本へ帰国してからは高校に編入しました。高校へは必要最低限通いつつ、高校生向けの団体の立ち上げや長期インターンへの参加など、いろんなアクションを起こしました。
ー帰国後、いろんな活動をされているときに、将来やりたいことのイメージはありましたか?
ネパールで社会の貧富の格差に気づいてから、世界の不条理を変えたいと思っていました。そのためには世の中の仕組み全体を変える必要があると思い、政治家を本気で目指していた時期もありましたが、政治では自分のやりたいことは実現できないと思ったのです。
ーなぜそう思ったのでしょうか。
実際に政治家の方の活動を間近で見させていただいて、政治家として影響力をもつまでには10~20年は必要なように思えたからです。
一方で、ビジネスの世界を見渡してみると、2~3年で業界が変化し、数年間で会社の規模が大きくなっていて、効率が良いと思いました。そんなときに出会ったのが、私が今勤めている会社ZENKIGENの創業者である野澤でした。
ー野澤さんと出会い、ZENKIGENに入社しようと決めた理由を教えてください。
理由は2つあります。1つは、ZENKIGENという社名に込められた想いに惹かれたからです。ZENKIGENとは禅の世界の『全機現』という言葉からきていて、「人の持つ能力の全てを発揮する」という意味を含んでいます。
誰もが能力を発揮できる社会の実現は、私が掲げていた「世界の不条理を変える」というビジョンと一致していたので、とても魅力的に思えました。
もう1つの理由は、野澤についていって一緒に世の中を変える体験をしたいと思ったからです。野澤が語る、業界を変えてしまうほど大きなビジョンや、それを実現するために描いた明確なロードマップに圧巻されましたね。
人生初めての挫折。できない自分を受け入れ、再起する
ーZENKIGENに入社してからのお話についてお聞かせください。
大学時代まではアクティブにいろんな行動を起こしてきて、褒められることが多かったので、会社でも余裕で活躍できるだろうと思っていたのですが、何も成果を出せませんでした。
人生で初めて周りの人よりできない存在になってしまい、完全に心が折れてしまいましたね。しばらくの間、何もできない自分から目をそらし、何となく日々を過ごしました。
ーそこからどのように立ち直ったのでしょうか。
会社の先輩方の存在が大きかったですね。私が本気で悩んでいたときに、先輩方が毎日1on1ミーティングをしてくれたり、飲みに連れていったりしてくれました。
仕事の話だけでなく、プライベートの他愛もない話までして、たくさん私と向き合ってくれたことで、できない自分を少しずつ受け入れられるようになったのです。
あと、コロナの影響も大きかったですね。ZENKIGENではWEB面接サービスを提供していて、コロナがきっかけであらゆる企業からの需要が増えました。
朝8時から夜8時までノンストップで商談し続けるくらい仕事に向き合ったことで、成果も出せましたし、自分が変わるきっかけにもなったと感じています。
ーできない自分を受け入れるのは、ものすごく難しいと思うのですが、どうすれば受け入れられるようになりますか?
できない部分しか見ていないと、ただネガティブになっていくだけですが、「伸びしろがある分、ここからどこまででも成長できる」と思うことが大事です。
周りの期待に応えられないのではないかと不安に思う方もいるかもしれないですが、周りは思っている以上に忙しいですし、案外自分のことを気にしている人はそれほどいないと思うのです。
「自分のペースで成長して、自分らしいバリューをしっかり社会に還元できるようになれば、それでいいじゃん!」と考えることで、できない自分を受け入れられるようになるのではないかと思います。
社員全員が全機現できるカルチャーを作り、社会に貢献していく
ーZENKIGENで働くうえで、意識していることはありますか?
会社のカルチャー作りを意識しています。会社が数百人、数千人になったときにどういう会社でありたいかというカルチャーを作るのは、自分の役割の1つだと認識していますね。
ー関さんはどんなカルチャーを作っていきたいのか教えてください。
まず、会社としては「テクノロジーを通じて、ヒトと企業が全機現できる社会の創出に貢献する」というビジョンがあります。
そのビジョンを実現するには、ZENKIGENで働いている社員自身が全機現していないと、社会に還元できるものはないと思っているので、一人ひとりが能力のすべてを発揮できるようになってほしいです。
自分のポテンシャルを発揮できる仕事に取り組んでほしいですし、好きな場所で好きなように働いてほしいですし、家族との時間も大事にしてほしいです。生き生きとしている、ありのままの姿を受け入れることができる会社でありたいと思っています。
ーカルチャー作りのために取り組んでいることはありますか?
会社のバリューを策定するプロジェクトのリーダーをしていたり、ワーケーションの一環で茅ヶ崎オフィスの設立を行なったりしています。
私自身、茅ヶ崎に移住して新しいワークスタイルを実現しながら、自分の人生が豊かになるのを毎日感じてます。
ー関さんが、ZENKIGENで次に実現したいことについて教えてください。
ZENKIGENのグローバル展開です。どの国に展開するか明確には決まっていないですが、私自身アジアが好きなのと、アジアの市場が大きくなっていると実感しているので、まずはアジアから攻めたいなと考えています。
ー関さんはいつもやりたいことに対して全力で走っている印象を受けました。なかなか走り出せない方に対して、アドバイスがあればお願いします。
なかなかやる気が出なかったり、今後の自分のキャリアについて悩む方はたくさんいると思うのですが、自分のためのキャリアではなく、社会のために自分はどう貢献できるかという視点に変えるだけで、行動は変わってくると思います。
世の中にある課題をどう解決していきたいか、どんな課題であればモチベーションを感じるかを考えてみると、やる気が出てくるかもしれません。自分の人生を終えたときに後悔しない生き方について、ぜひ一度考えてみてください。
ーネパールへの移住経験をした関さんならではのアドバイスですね。本日はありがとうございました。関さんの今後のご活躍を楽しみにしています!