アウトソーシングは最適解!デサインから始まったパラレルワーカー、伊美沙智穂

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第293回のゲストは、一児の母でありパラレルワーカーのムラキさんこと伊美 沙智穂(いみ・さちほ)さんです。

父親の転勤で小学4年生から中学2年生までをシンガポールで過ごしたムラキさん。日本に帰国した時に違和感を覚え、周囲になじもうとコミュニケーション能力の向上のため努力しましたが日本での人間関係には頭を悩ませたといいます。趣味でイラストやデザインを始めてSNSにアップすることで、徐々にファンが付くようになり、大学生の時には受託でイラストやデザインを制作するなど、経営者との繋がりができ始めました。就職で一時デザインから離れるも、育休を境に再びデザイン・ライターとしてパラレルワーカーになったムラキさんにお話を伺います。

 

海外で形成した価値観

ーまずは簡単な自己紹介をお願いいたします。

ムラキはビジネスネームで、本名は伊美と申します。UIデザイナーやデザイナーとしていくつかの事業会社に関わらせていただいて、主には株式会社キャスターでUIデザイナーをやっています。それとは別の肩書で、去年からBusiness Insider Japan(アメリカ資本で日本にも支部を持つ経済メディア)でライターとして年に何本か記事を執筆したりもしています。

 

ーデザイナーやライターはそれぞれどのくらいされているんですか?

デザイン自体を始めたのは19歳、大学2年生の時でした。その頃は、制作会社の下請けの下請けのようなポジションでイラストを書いたりしていました。大学がデザイン系の学部ではなかったので、趣味程度(お小遣い稼ぎ程度)の感覚で大学4年生まで続けました。

その時は社会人としての経験もなく、結果的に色々と痛い目を見まして、その経験からデザインに関連する就職はせず、前職のドコモに総合職として入社しました。

ドコモには去年の4月まで在職していたのですが、退職する半年前(2019年8月)くらいから現職の株式会社キャスターに副業デザイナーとして、週に上限の時間を設けてジョインさせてもらっていました。なので大学から数えれば仕事歴は7〜8年くらい、正式なデザイナー歴は去年の4月くらいからになります。UIデザイナーとして自己紹介するならばざっくり1年半くらいですね。

ライターは去年の2月くらいにnoteで書いた記事がBusiness Insider Japanさんの賞を受賞したことをきっかけに始めたので、ちょうど1年くらいです。

 

ームラキさんは、SNS(Twitterを中心とした)でのバズが印象として強いのですがご自身としてはどのSNSでバズったのが印象深いですか?

3年前にちょうど子供が生まれて育休に入りました。新生児育児ってめちゃめちゃ大変で、保育園に入ったら会社に復帰できるのかなと考えていた時期に「こどもを3人産むべきか」という議論が話題になりました。(ちょうど世の中で子供を3人産むべきか産まないべきかの議論があった時期で、政治家が言っていた時期でもあった)そこで、私がもし3人産むとなるとどういうスパンで産むのがいいのかを考えるようになりました。大学を卒業してからコンスタントに3人産んでキャリアも構築するとなるとこういうスケジュールになるよって流れを図解にしたのが結構バズりました。手書きの図解だったのですが、それを見たスタートアップの経営者の方からデザインができないか???という話が出てお声がけいただいたのが今のキャリアに繋がっています。その時バズったツイートがきっかけで、今働いている会社とのご縁もできました。

 

ー幼少期や小学校など、19歳より前のことをお聞かせください!

特筆することはないのですが、親の都合で転校が多く、海外生活をしたこともありました。。小学校2年生くらいの時に父がシンガポールに海外赴任することになり、いきなりの転校は難しかったので1年遅れで付いていくことになりました。小学校4年生〜中学校2年生までの5年間、シンガポールに住んでいました。頻繁に転校があったことやこの海外生活が、今の私自身の価値観形成に大きく影響を与えました。

 

ー具体的に、どのようなことがムラキさんに影響を与えたのでしょうか?

意識的に感じるようになったのは最近ですが、私は割と家事のアウトソーシングなど、色々なことを外部に出して人に頼っていくというスタンスをとっています。おそらくこの価値観のベースになっているのが海外生活(シンガポール)で、大前提として屋台文化がアジア(シンガポール)にはあることが大きいと思います。自宅で料理することは日本ほど多くありません。現地の学校には屋台(ホーカー)があって、そこで朝ごはんを食べたりします。食を家庭外に委託するのがなじみ深い環境でした。

また、アジア圏では一定の所得がある家庭では運転手やメイドを雇う風習があり、家事の業務委託は日本よりも身近でした。メイドといっても日本でイメージされるフリフリのメイド服ではなく、いわゆるお手伝いさんがいて、契約内容によって業務は異なりますが、家族以外が家の掃除や子供の送迎をしている家庭を身近に見て育ちました。またスクールバスで学校に通っていたんですが、バスの中にはアンティーといわれる方が居て、気分が悪くなったりすると介助をしてくれました。その他にも、学校のセキュリティを担う警備員に当たる方もいました。

日本では家族の人としか関わる機会がない時間も、私にとっては外部の人が生活に溶け込んでいることが当たり前だったことが、価値観の形成に大きく影響を与えました。

 

日本は閉鎖的に感じた

ー日本に戻ってからのギャップはありましたか?

日本に帰ってきたのは中学3年生だったのですが、そのときはすごく閉鎖的な感覚がありました。コミュニティだけではなく、建物自体の造りにも同じように感じる部分がありました。おそらくなのですが、シンガポールは熱帯雨林気候と呼ばれる、日本よりも高温多湿な環境で、吹き抜け構造など、開放的な建物の造りが適していたんだと思います。

シンガポールで通っていた小学校は開放的で、外から中が見える作りになっていて、気軽に話しかけられるオープンな場になっていました。それに対して日本の学校は塀が高く、植物や壁に囲われていて学校自体が一つの敷地内にある異世界のような、閉鎖機な空間だと感じました。気候と文化は繋がっているのだと感じました。

大人になってから感じた違和感も「閉鎖」に関わる事柄なのですが、家族の枠組みについて話です。全てのことを家の中で完結させようとすることや、親戚との付き合い、あまり外部に頼ろうとしない部分など、徐々に若干の価値観のずれを感じる部分が出てきました。

 

ー幼少期での違和感として感じた「オープンではない」はどういった部分が主だったのか教えてください!

これは日本とか海外とかではなく、単に学校の特色だと思いますが、私が通った日本の中学校は人の入れ替わりがほとんどなく、小学校の友達とそのまま5〜6年前のことを話すのが普通の光景でした。それに対して、海外生活で過ごした小学校は、転勤族の子供が多く1年に何十人も人が入れ替わる学校だったので、定期的に人間関係が一新されるといった状況でした。そこでのオープンさ、後から入っていた人に対してコミュニティを開くという文化と比較すると、大きな違いがあってとまどいました。

 

ーそんな違いの中でどのように日本の学校の中で溶け込もうとしましたか?

クラスの中にヒエラルキーのようなものがあったのですが、転校生の帰国子女という存在は少し異質で、ヒエラルキー外のポジションでした。

色々なグループに誘われては入りましたが、最終的に気が合ったのは私と同じく転校を繰り返していた人になりました。そもそもヒエラルキーが好きではないのでしんどさはありましたね。

 

デザインとしての原点

ーその後の制作活動の開始についてお聞きできますか?

(自己紹介のときに大学生からと言いましたが)厳密に言うと中学3年生くらいから活動していました。元々絵を描くのが好きだったからです。その時期は、モバゲーやミクシィの全盛期で、既存のコミュニティ以外でも、新しいコミュニティができるサービスが出始めた時期でした。その当時モバゲーに入っていて、お絵かき投稿のコミュニティで投稿をすると美大生やお絵かきの先生とも呼べる人たちがアドバイスをくれるようになっていました。その後、モバゲーがエブリスタという作品投稿サービスと連携して、モバゲー内に組み込まれたタイミングがあったので、今までの作品を全部アップしたら2000〜3000人くらいの方にファンになっていただけました。このときの経験が創作活動の原点になっています。その後も、人からの反応が来るのが楽しくて高校生まで続けていました。

大学に入ると、周りの友達と比べてもそこそこイラストが上手い状態になっていたので、「イラストが描けるならデザインもできるだろう」というノリで、バンドサークルでフライヤーを作ってほしいと頼まれました。気軽に請負ったものの、その時点ではデザインの制作スキルが全くなかったので、adobeのデザインソフトであるIllustratorが使える先輩に頼んで、教えてもらいながら作り始めました。それからは独学で学びつつ、アナログで描いていたイラストをIllustratorで制作したりして、イラストをアップデートしていきました。とある日、知らない人からFacebookのメッセージで「貴女の絵をうちの名刺に使わせてほしい、権利を買わせて貰えないか?」という相談がきて、2万円くらいで買ってもらったことがあります。当時、時給800円くらいのファミレスでバイトをしていたのですが、2万円で絵を買われたことがとても衝撃的でした。それと同時期にフリーペーパーサークルに勧誘されたり、業務委託のお誘いがあったりと五月雨式に仕事が舞い込んできました。

 

ームラキさんが、個人受託をするきっかけになったことはなんですか?

もともとFacebookによく描けた作品を友達や知人に見せるために挙げていたのですが、同時期に別のフリーペーパーサークルからも勧誘を受けました。フリーペーパーサークルではデザイナーを担当していていて、コワーキングスペースを取材するということを行っていました。

取材をしたらFacebookも交換するみたいな流れになり、そこで私の作品を知ってもらう機会も増えていきました。(Facebookのアルゴリズム上)そのコワーキングスペースの人たちが私の投稿にいいね!すると、その友達の知り合いや経営者の人たちのタイムラインにも表示されるようになります。それが数珠繋ぎのように上手いこと噛み合うようになって仕事になっていきました。

 

ーネット上から仲良くなったりビジネスを通じて経営者と仲良くなったのは、単純に気が合ったからですか?

よくわからないんですよね(笑)気が合ったというよりは、お互いの利害が一致したという方がしっくりきますね。当時の私の技術レベルが高かったとはお世辞にも言えないので、若い女の子が載っているとか、大学生が使っているほうがインプレッションが取れるとか、そういう打算のようなものもあったかもしれません。

 

就職は安定性と働きやすさで

ーその後の進路決定では安定性や働きやすさを重視してNTTドコモを選ばれたんですか?

2〜3年制作の受託を続けているとヤバい案件が多々ありまして…。社会人経験のないまま個人で何十万円の案件を受けるとなってくると、当然のことながらトラブルになるケースもあります。相手側がバックれたとか、契約金額が振り込まれないとか、リテイク(修正)の回数がすごく多かったなどの経験があり、(今ではそう感じませんが)その当時は創作活動ってめっちゃしんどい…って思ってました。もし今後やりたくなったとしても、学生をやりながら並行してできていたので、会社員をしながらでもできるんじゃないかと思ったんですね。。。

当時の私は「デザインの仕事」というと、広告代理店⇒制作会社⇒下請けに流れるという一連の構造しか知らなかったので、私自身の性格や今後のライフスタイルを考えると、デザインは好きだけど、仕事にするのは無理なんじゃないかと思ったんです。そういう観点で事業の安定性、モバイル領域という将来性、福利厚生などの様々な要素を勘案して、結果的にドコモに入社することになりました。

 

ー実際に入社した後でものづくり(制作活動)してみたいと思ったことはありますか?

入社した後に配属されたのが法人営業で、Slerとコンサルとセールスを混ぜ合わせたようなポジションでした。通信回線に関わる全ての相談を受けて(なにか通信で業務を改善したい・人員を減らすけどそのカバーをしたい・新規事業を行うけど形にしたい、など)解決する役割でした。この職種をしていたときに感じたもどかしさが、私は結局のところ物を売りにきた人間でしかなく、本当に本質的な問題解決には至れないということでした。持ちうる手札の中でなんとかご相談を解決できるように動きますが、結局のところ私は通信会社の営業社員でしかないので、例えば人材研修をした方がいいんじゃないかとか、店舗に什器を導入したらいいんじゃないかとか、そういう領分を超えたご提案が必要な時にも、十分に動ききれない感覚がありました。私自身が通信回線を売り上げたとしても、ただただ売上に貢献しただけで終わってしまうという感覚もありました。そこで違和感を感じていて、本質的に自分が何がしたいのかを考えるようになりました。

いろいろ考えたのですが、結局のところ「自分でものがつくりたかった」んじゃないかと思います。営業の立場では、すでに用意された商品を売る、というアプローチにならざるを得ないので、自ら事業を行っている事業会社に、作り手として関わらなければならないといけないと感じました。一方で、その時の私のスキルセットは、セールストーク・僅かな通信知識・僅かなデザイン知識のみだったんです。転職するほどのスキルもない、営業の仕事も(人と話すのが好きだったので)楽しいし、転職するような大きなきっかけもなく、自分の仕事にやや違和感を覚えながらも過ごしていました。

 

ー23歳で結婚をしていますが、どうして早くに結婚をなさったんですか?

まず、夫は同期の人です。付き合って3ヶ月で結婚しました(笑)

元々友人として仲がよく、飲み会ついでに価値観をすり合わせていったら存外に気が合い、このまま思い切って結婚した方がよくないか?という感覚になり、思い切って結婚しました(笑)。あとは、結婚すると家賃補助の金額が上がったので、早く結婚した方が得だねという打算もありました(笑)

 

アウトソーシングの始まりとは

ー家事をアウトソーシングすることが嫌な人もいると思いますが、パートナーと意見の違いなどはありましたか?

事前にたくさん話せる機会があってよかったと思います。私達は結婚する前が恋人でなかったからこそフラットに話せたと思います。

 

ー夫婦同時育休を取ったとのことですが、迷いはなかったですか?

迷いはなかったです。「男性」育休という概念をそこまで認識していなかったからです。子どもが産まれたら育休は取るもの、みたいな考えでした。同じ会社で同じ制度を使えるから休むのだと思っていて、夫と「育休、取らないの?」という話になった時に、男性は育休が取れないでは?という疑問が生まれました。そこで初めて男性育休はメジャーではないと知りました。私の実家は近くはないし夫の実家はもっと遠いので、夫以外に子育てで頼れる相手がいないことなどを話し合って、最終的にダブル育休を取ることにしました。

 

ームラキさんは自分のできないことにはどう向き合っているのでしょうか?

いろんな手段をフルに検討すれば、できないことはないと思っています。困っているなら、何かしらの手段を講じて、必ず解決するスタンスです。ただ、そこは共同生活なので、一緒に暮らす夫とたくさんのことを話し合いながら決めています。育児休業や家事のアウトソーシングも、やりたいこととできることを勘案した上で、お金や時間などのリソースの話、外部を頼ることに忌避感がないかという価値観の話をして、最終的な解決策を決定しました。例えば、夫が家に他人を入れたくないとなったら別の手段を考えると思います。

自分たちが持っている問題の中で、どの選択肢が最も良いのかを突き詰めているだけです。だから、あまりできないことと向き合うのが大変だと思ったことはなくて、できないものことはできないと思っています。よくお母さんとしての葛藤を聞かれることがありますが、「お母さんに掃除や洗濯をして欲しい」って子供や夫が言ったとして、それって実際には何を求めていると思いますか? その言葉の裏には、清潔な環境で暮らしたい、温かいご飯を食べたい、一家団欒を求めている、そういう本質的な願望があると思うんです。私達の場合は、美味しい料理がみんなで食べられればそれだけでよかったんです。それを達成する手段として最も効率が良かったのがアウトソーシングだっただけの話です。

 

ーゴールや目的を見据えて最適解を当てはめるということですか?

そうですね。何かができないということは決してマイナスなことではなくて、ただその能力のリソースが自分のところにはないというだけです。携帯を持ってないから電話ができない、みたいなことと同じだと思います。持ってないから電話はできないけど、別の手段を模索してなんとかメールで連絡したり、公衆電話で電話をかけたりすれば、結果的には問題ないですよね。

 

ームラキさんが今後どうなっていきたいのかお聞きできますか?

展望などは正直ないのが正しいです。その時々でこれがやりたい、やりたくないは出てきます。可能な限りやりたいことだけをやっていたいです(笑)。人生と健康とお金と周囲が許す限り、自分がやりたいことだけを送れる人生でありたいと思います。

 

ー本日はありがとうございました!ムラキさんのこれからを応援しています!

ムラキさんが関わっている会社はこちら
株式会社キャスターの詳細はこちら。
株式会社RYM&CO.(サービス名:POTLUCK)の詳細はこちら。
株式会社10Xの詳細はこちら。
Business Insider Japanの記事はこちら。

______________
ムラキさんのSNSはこちら
Twitter:https://twitter.com/u_vf3

note:https://note.com/u_vf3

______________

取材者:吉永 里美(Facebook/Twitter/note
執筆者:タイツさん
編集者:松本 唯(Facebook/Twitter/Instagram
デザイナー:五十嵐 有沙(Facebook/Twitter/Instagram