嘘偽りない「そのままの自分でいよう」本音の先にある自由「そのまんま荘」オーナー・荒木孝文

ユニークな大人が集まり、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第173回のゲストは、一般社団法人zingzing代表でシェアハウス「そのまんま荘」を運営する荒木孝文さんです。

「そのまんま荘」は、多くの子供たちが笑顔になれる社会の実現をビジョンに掲げています。現在手掛けるのは、上京中の就活生を受け入れるシェアハウス事業。会員同士の密なコミュニケーション、視野を一気に広げる貴重な出会いを通して、自分らしさを見つめ直すことのできる環境作りを目指しています。

運営者である荒木さんの志の原点は、難病の子どもたちを笑顔にする米国のNPOの活動を知った小学校の授業でした。

「自分より辛い境遇にいる子供たちを幸せにしたい。そんな場所を僕が作らないといけない」

韓国にルーツを持つことを理由に受けた差別や偏見に苦しんできたからこそ、荒木さんの義憤や使命感の炎はこの時から燃え続けています。

「嘘偽りないそのままの自分を起点にしてほしいです!」

学生たちに日々語りかける荒木さんのこれまでの歩みを伺いました。

自分が欲しかった「居場所」が今日も誰かを支える

ーご自身と活動の紹介をお願いします。

地方から上京して東京で就職活動をしている学生さんたちを対象とした、自分らしさを大事にできる居場所を提供するシェアハウス、「そのまんま荘」を運営しています。そのまんま荘は、就職活動中の学生さん以外に、僕を含む運営者や住人(ユニークな生き方をしている社会人)など、現役高校生から大学生、社会人まで多様なメンバーが集う場所です。就活生はメンバーとの対話や雑談を通して視野を広げ、自分自身を深く理解したり、楽しい時間を過ごすことができます。学生さんたちにとってそのまんま荘は「第二の実家」のような場所みたいですね。

2018年の4月に恵比寿の一室でェアハウスを始め、早いものでもうすぐ3年になります。

ーそのまんま荘を始めたきっかけをおしえてください。

きっかけは、地方から上京して都内で就職活動をした頃、「上京す若者同士が繋がれて、情報交換できるような居場所」があったらいいな〜と思ったことでした。欲しくて仕方なかったことです。

東京に本社機能が集中していて、魅力的なインターンも都内に多いため、大学のある関西から夜行バスを使って上京し少しでもお金を節約するためにネットカフェやビジネスホテルに泊まっていたんですよね。夜行バスを使ったりただでさえ、地方から上京するためにお金めっちゃかかってお財布苦しいところに、自分でホテルを探したり、謎の合同説明会にでて疲れ果てたり、東京での就職活動は、地元での就活以外にやらなきゃいけないこと、考えなきゃいけないことが山のようにあり疲れ果てていました。

財布が苦しい中、大都会東京、馴染みのない土地で一人ぼっちの戦いを強いられる‥。めっちゃくちゃ心細いな‥と思ったんです。あと、東京に人材会社溢れているのですが、自社利益のために地方就活生を商売道具として見ている雑なところもあって、全然フラットじゃないし、情報の非対称性ヤベぇな・・と。

ー就職活動中に「シェアハウスを作ろう」と思い立ったのでしょうか。

「誰かのための居場所を作る」こちらは僕自身の原体験から生まれ出てきたものした。実は日本人と韓国人のハーフなんですけど、幼少期からクラスや放課後、言葉に言い表せられない疎外感を感じていました。

昔の自分のように孤独を感じている方々のための居場所を作りたい、という願いというか、決意みたいなモノをずっと温めてきました。

当初のイメージでは、夢の国「東京ディズニー・ランド」のような楽しくて素敵な場所を思い描いていました。小3の時に両親と訪れた際、サイッコーに最高で、もう絶対ここだな!と。その後、大学生になってからキャストとしてもアルバイトさせて頂きました。

何よりもみんなが本来持っている根っこの、魂の美しさを大切にできる場所を創りたかったんです。鋭い疎外感があった分、誰もが輝いて欲しいと強く思っていました。居場所がない不安定な状態だと、なかなかその人本来の輝きは放たれずらいです。誰しもがその人にしか持ち合わせていない超絶美しさがあって、それが引き立つのって等身大そのまんまの自分を受け入れ開花させていてる時だと思うんですよね。

昔の自分が喉から手が出るぐらい欲しくても絶対手に入らなかった「居場所」を通してで、関わるみんなが笑顔で安心しながら歩む姿に、過去の自分を救いたかったのかもしれません。

ー荒木さんの原体験にも繋がる幼少期について教えてください。

僕は韓国で生まれ、5歳の時、両親の転勤で日本に引っ越して来ました。

引っ込み思案だったのもあり、初めての日本でのコミュニケーションに漠然とした捉え所のない恐怖感にびびっていたのをよく覚えています。今振り返ると爆笑なのですが、幼いながらにちゃんと生きていけるか不安で仕方なくて、自分というをちっぽけな何かを守るため殻に閉じここもりがちになっていました。

ー小学校時代について教えてください。

漠然とした心の中の不安が目の前にガーーーんと「本物」になって苦しみまくった時期でした。自身の引っ込み思案に加え、日韓のハーフであることを理由に同級生に石を投げられたり、「韓国帰れ」「死ね」などドギツイ言葉を浴びせられてメンタルが死にまくっていました。「このまま死んだら、親悲しむだろうな〜」みたく。

周囲と仲良くしたいけど、「きっと無理なんだろうな〜」と諦めていた時期でしたが、今後の人生に大きな影響を与えた出来事がありました。10歳の頃、道徳の授業であるNPO(Give Kids The World)に関する教育ビデオを見せられた時でした。このNPOはコカ・コーラなどの大企業から70億円の寄付を受け、その資金で余命宣告を受けた子供達が家族とアメリカのDisneyやUSJで1週間のハッピーで安心で、最高なバケーションを過ごせる取り組みをしている団体でした。

晴れ間がないというか、人生に絶望する辛気臭い毎日を過ごしていたのですが、そんな自分よりも(おそらく)遥かに苦しんでいるであろう命さえ危うい子供が世界にいることを初めて知り、天地がひっくり返るような衝撃を受けました。死んだら、おしまいじゃないですか。

でも、一番嫌だったのは「欧米にはそういう場所があるけど、アジアにはない」という事実を知ったことでした。報われる機会も無いまま日本では年間およそ30万人の子供達が余命宣告や深刻な難病宣告を受けているそうです。なんだかチッポケな自分だけに悩むことが馬鹿らしくなりました。

自分がいじめられても、命は取られないけど、彼ら/彼女たちは命さえ危うい最悪の状況で、それでも必死に生きている同世代のたちが、アジアでも幸せになれる場所が絶対に必要だと思ったんです。枕に涙しながら「日本に絶対このNPO持って帰ったんねん」と自分自身に誓っていました。

ゲーム依存から一転、生徒会長に選ばれる

ー中学時代についておしえてください。

周りとの人間関係に絶望していた地元から離れたくて中学受験の勉強に励み、晴れて自分のことを誰も知らない私立の中高一貫校に入学できました。

入学した当初は全然勉強ができなかったです。最初の定期試験ではクラスの40人中38位の成績でめちゃくちゃ焦りつつも、勉強を放置してしまいました。いや、勉強なんかじゃなくて安心できる場所を作らないかんし、自分自身安心したいんや・・・と。とにかく劣等感の塊でしたね。

ーどんな劣等感でしたか?

「この世界全員、僕を受け入れてくれやしない!!(涙)」という寂しすぎる固定概念を持っていました。地元を離れさえすれば人生が劇的に変わり、すぐにでも友達が増えると勘違いしていました。でも、全然そんなことなくて。中学デビューを期待していたのに、ダメな自分に対して劣等感ループで死にたいぐらい退屈な毎日ばかりでした。なかなか他人に心を開けなくて、みんなとの距離を縮められなかったです。

結果、学校生活がしんどくなり、ネットゲーム(以下、「ネトゲー」)に現実逃避しちゃいました。「メイプルストーリー」というキノコを倒し続けるオンラインゲームがあったのですが、そのゲームの中だけが僕にとっての安心できる場所でした。休みの日には15時間ぐらいやってて、朝始めたのに気づいたら深夜なこともしばしばでした。

ーいつまでその生活が続きましたか。

中学3年生くらいの頃までです。高校進学を前に、このままゲーム依存した状態が永遠に続くのは「流石にまずいだろうなぁ〜」と危機感が芽生え始めていました。

「周囲を見返してやりたい」「みんなに受け入れられる人になりたい」という募り募った気持ちが先走りまくった結果、なぜか生徒会長に立候補することにしました。ネトゲーに籠っていたオタクが一大決心から一歩外の世界へ踏み出すことができた奇跡的な瞬間でした。

対抗馬もいなかったので、なんなく生徒会長に選ばれました。すると、妙な自信がつき「俺は出来るんじゃないだろうか!?」という勘違いから成績も徐々に上がっていき、ネトゲーの沼からも抜け出て、「おっ、これはいい感じでは!?」という良い流れに乗っていくことができました。

ー高校時代についておしえてください。

好きだった世界史で学年10位以内取ったり生徒会で全校集会で喋ったりなど小さな成功体験を積み重ねるうちに、少しずつモチベーションが上がっていきました。気づけば、世界史を筆頭に文系組で校内で10番以内をキープ出来るまでになっていました。

それから「受け入れてくれない周りの奴らを見返してやりたい」「みんなに受け入れられる人になりたい」という承認欲求的パワーを原動力に、高校2年生の時に再度、生徒会長に立候補したんです。今回は対抗馬もいたのですが、なんとか勝利を収め、中学時代より周りを巻き込んでいけている感覚もあり自分なりの成長を実感していました。

ー大学受験はどんな選択をしましたか。

同志社と早稲田に合格して、内心、早稲田大学に行きたかったのですが同志社大学に進学することになりました。主な理由は、宗教上の理由でした。ちょっと特殊なのですが、同じ宗教の人としか交際してはいけないというルールがある厳格なキリスト教に入っていた関係で、誘惑の街、東京への進学を断固として許してもらえなかったんですよね。今となっては、それも宿命だと受け入れています。

「周りの奴らを見返してやりたい」マインドから社長になりたいと思っていたので、社長になるための最短ルートっぽい経済学部をすごく安直に選びました。

ー大学生活について教えてください。

中学デビューが上手くいかなかったのを後悔していたので華々しい大学デビューをしたかったのですが、全くもって思うようにいかなかったです。華やかなイメージのある軽音とダンスサークル(よさこい)に入ったのですが、なかなか上手く心のうちを話せず、かつ劣等感が根っこにあったので、スムーズに周りと馴染めずにいました。

当時は、心の中では「仲良くなれるかな?変に思われていないかな?」と不安で一杯なのに他人には悟られないよう武装しまくっていました。周りと壁があったりするのって空気になって伝わるじゃないですか、そのためなかなか気の許せる友達ができませんでした。

結局、軽音もダンスも長続きせず、大学外で「先生のいない修学旅行」という学生団体を立ち上げたりしていました。居場所に飢えていたんだと思います。

冒頭で少し触れましたが、USJとDisneyで1年間ほど働いていました。大学3年生で休学して東京ディズニーランドで働いていたのですが、浅草にある「トビタテハウス」というシェアハウスに住んでいました。この時に得られた共同生活の体験が今の事業にも活きていると思います。

大学4年生になって、トビタテ留学JAPANという奨学金を知り、小学生からの念願のNPO「Give Kids The World」に1年間留学することもできました。

ーどうしてそこまで行動力を発揮できたのでしょうか。

劣等感の塊で自分を受け入れてくれる人を死ぬ気で求めていたからだと思います。頑張ったら受け入れてくれるんじゃないだろうか、死ぬ気でやるしかない、と。

一人でいるときには、どうしても孤独感や虚無感が胸を侵食してきました。でも、挑戦している時って、応援してくれている誰かがいて、なんだか周りに受け入れられたと感じるし、シンプルに誰かに喜んでもらえると幸せで満たされた気持ちにもなります。

あと、キャストとして働いていた時、お客さんから「お兄さんに会えたからここまで来てよかった」と言われて存在意義を証明できた感じがして、死ぬほど嬉しかったです。

多分、劣等感から頑張りまくった結果、誰かが喜んでくれるようになって、それがめちゃくちゃ嬉しかったから、行動し続けているんだと思います。この頃は、とにかく「自分で」頑張るというのが究極の目的のようにありました。

あとこの頃は、なんだか何かに縛られている感じがずっとあって、とにかく自由になりたくて仕方なかったんです。抑圧されてきた心が弾けたがっていたんだと思います。

8ヶ月連続MVPも挫折感で終えたインターン

ーアメリカのNPOではどんな活動をされましたか。

こちらのNPOの目的は、子供達に残されたわずかな命の時間を限りなく楽しいイベントを通して、最高のプレゼントとして家族の思い出として提供することです。いつ亡くなるか分からないため、毎週クリスマスやハロウィンといった季節イベントが開催されていました。

僕の担当は、子供さんとご家族の迎え入れや各部屋へのプレゼント配り、車椅子の子供への食事の配膳などをシフトで回っていました。。普段、病からクラスメートと隔離されたりしているような子供達がこの場所では「安心しながら笑顔でいれている」この事実に深い喜びと強いやりがいを感じていました。

またせっかくなので、日本文化も武器にしたく「折り紙マスター」として子供たちの英名を漢字にして折り紙に習字でプレゼントしていたのですが、両親含め、みな最高に喜んでくれました。最高に嬉しかったです。

ー印象的な出来事はありますか。

ボランティア7000人の中から10人が選ばれる月間MVPに、8ヶ月連続で選んで頂いたんですよね。日本人として初みたいでした。。大変名誉で誇らしかったのですが、けど、内心すごく落ち込んでいました。僕はインターン先のNPOを日本へ、アジアへ持ち帰りるのが夢だったんですよね。

インターン先で出会った子供たちにこの安心できるゆりかごで、少しでも笑顔になってほしい、楽しんでいってほしい、という思いが常にありました。1年間の活動の中で、その思いはどんどん強くなっていたんです。でも「究極に自分が頑張っても」自分1人の力ではそのような大きな施設を作ることなんて、とてもじゃないけど無理だと気付き、どうしようもない無力感から泣きながらホームステイ先に帰ったことを覚えています。 

ーこの留学を通してどんな変化がありましたか。

まずは、子供達に安心できる場所を提供して喜んでもらいつつ、安心な雰囲気のNPOだったため、他人の基準で自分自身を評価しまくっていた自分が、ただ自分でいることにちょびっと安心出来るようになりました。

お互いの違いを認め合うアメリカならではの雰囲気のお陰で、居場所をずっと探していた僕が初めて「個性を受け入れてもらえている!」「そのまんまの自分でいいんだ!」と腹の底から感じることができました。

また、大学まで突き進んできた1人の力だけじゃ、どうしようもない挫折があったのも大きな学びでした。留学先で関わった人たちとは今でも連絡を取り合っています。コロナで心配ですが、帰ってこいよと今でも連絡が来るので恋しいです。

ー帰国後はどう過ごしましたか。

インターンを終えて帰国しても、先ほどの挫折感や無力感はなかなか消えませんでした。むしろ、これまであった自信が崩れてしまい、日に日に落ち込んでいってました。自分は何も成さずに帰って来てしまった…と暗雲たる気持ちで、自己嫌悪と自己卑下を繰り返していました。

いつまでもグジグジしてられず、NPOの立ち上げのための手段の一つとして、就職活動を始めたのですが、ふとしたキッカケで、気持ちが一気に晴れることになりました!

大人数がいる就活イベントで「質問がある人!」と言われ手を挙げた際、なぜか逆質問で「学生時代に何を一番頑張りましたか」という質問を受けました。面食らってしまい「留学のインターン先でMVPに選ばれはしたものの結局、自分の無力さに落ち込みまくっています」とバカ正直に答えてしまいました。

しかし面接官(社長)からの評価が下がるのでは!?とビビった僕は咄嗟に「無力さを感じましたたが、僕は仲間と取り組めばうまくできると思っています」と付け加えました。すると、面接官だった社長に「それは‥、君」「めちゃくちゃすごくいい経験を積んできたんだねぇ‥」とシミジミ深いいフィードバックを頂きました。

社長の言葉を聞いた後、会場のトイレで泣きました。結果、この一言をキッカケに「仲間を巻き込んで自分のしたいことを形にしていこう」と根本から意識が変わることになりました。

また、ある企業の最終面接で「君が入ると社風が壊れるから来ないでほしい」と強烈に言われてしまいました。この時に自分は組織に属すのが向いてないと痛感してから起業の道へと進むことになりました。その際、選んだテーマが冒頭に述べた「上京する若者同士で支え合い、情報交換が出来る居場所作り」でした。それが、現在1000名近くの若者に利用されている「そのまんま荘」になっています。

本音をかき消すのは「評論家の自分」

ーそのまんま荘に来る学生さんとどのように向き合っていますか。

僕自身は一人一人と本音で向き合うようにしています。中高の自分みたく殻に閉じこもっていても、人とは繋がれないので。

多くの就活生を見て思うのは、留学後の自分のように挫折したり、立ち止まる時期があっても、最終的に、何かのキッカケでみんなまた前に進んでいってるなーと。その姿を見て、人間って強くて美しいなと思います。また、そういうキッカケは「ふとした会話」の中に隠れていることが多く、そういう偶発性をコミュニティ内で大切にしています。

そのために、そのまんま荘には様々なバックグランドを持った方が住んでいて、学生さんの悩みや疑問1一つに対しても多様な角度、視点でフィードバックが返って来るのがポイントです。

ーこれから挑戦したいことを教えてください。

進路を模索するため上京している学生さんと、学生さんの滞在先として部屋を開放できる方々をマッチングするプラットフォームを作ることを目指しています。主なホストは、子供達が成人して家を出たため部屋が余っているご家庭です。学生さんは知らない土地で心細い思いをせず、、就職活動やインターンを経験することはもちろん、ホストとの交流を通じて人として大きく成長できる仕組みにしたいと考えています。

このサービスをアプリで展開し、オンラインサロンも設けてグランドルールなどを広めていきたいです。

ーご自身の事業を通じてどんな社会を作りたいですか。

全人類が自分の本音で生きられる社会を作りたいです。誰もが自分の中にもう1人の自分を持っていると思います。僕はこのもう1人の自分を「評論家の自分」と呼んでいます。「評論家の自分」は周りからどう見られるかを気にしていて、多くの人は本当にしたいことや進みたい方向性を押し殺してしまいます。就活生を例に挙げるなら「外資系企業に行けば周りが『すごいね』って言ってくれる。本当に進みたい道ではないけど選ぼう」という風にです。

弱い自分を守るために「評論家の自分」が必要な人もいるかもしれないです。でも、それで本音が分からなくなってしまうと結局苦しいのはその人自身だと思います。

自分の本音で生きることは、とても無防備で怖いことかもしれないです。厳しいフィードバックが飛んで来るかもしれないし、不安や焦りも付きものです。でも実は、自分の本心を取り繕っているよりも安心感を持って生きていけるはずです。

ー就職活動中の学生、就職活動を控える学生にメッセージはありますか?

そのままの自分を大切にしてください。

これまで多くの就活生と話してきました。ほとんどの就活生は、自分じゃない自分、世間や周りの人が評価する人間になろうとして本音を押し殺しています。どうかそのままの自分を見失わないで欲しいです。

ありのままの自分を尊重できれば、周りと良い関係を築きながら、その人のバリューを社会に還元できると思うんです。他人の評価ばかり気にしていると、マウンティングして自分のエゴを満たすような、みっともない人になってしまいます。前者の生き方をした方が幸せになれると僕は思うんです。これは僕自身が身をもって体験してきたことで、これから進路を選ぶ方達には飾らないありのままのの自分を大事にして欲しいと伝え続けていきたいです。

ーあっという間でしたが、今日は心に響くお話を本当にありがとうございました。荒木さんの今後のご活躍を応援しています!

執筆:Yuka(Twitter
インタビュー:高尾有沙(Facebook/Twitter/note
デザイン:五十嵐有沙(Twitter