ASEAN HOUSE代表・佐々翔太郎がU-29世代に送るメッセージは「欲望に忠実に生きろ!」

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第237回は株式会社リクルートで働きながら、東南アジア人と日本人が一緒に暮らすシェアハウス「ASEAN HOUSE」を運営されている佐々翔太郎さんです。

「ド底辺からのスタートだった」とこれまでを振り返って語る佐々さんが、海外に目を向けることとなったきっかけや、起業経験を経て、就職・シェアハウス設立に至るまでのお話をお伺いしました。

一般企業で働きながら、シェアハウスを設立

ーまずは簡単な自己紹介をお願いいたします。

ASEAN HOUSEの代表として東南アジア人と日本人が一緒に住むシェアハウスを運営しています、佐々翔太郎です。本業は新卒で入社した株式会社リクルートで新規事業としてホテル・旅館向けの業務効率化システムの開発に携わっています。また、大学時代にはミャンマーの若者向けキャリア教育・進学情報メディアLive the Dream Co., Ltdを立ち上げ、代表として働いていました。

ーASEAN HOUSEについてもう少し詳しく教えていただけますか。

ASEAN HOUSEは外国人が暮らしやすい社会を創ることを目的にスタートさせたシェアハウスです。

私自身がミャンマー滞在時に、食事が合わなかったり、現地の方に騙されたりとミャンマーに対してネガティブな印象を持ちつつあったものの、一緒にシェアハウスをしていたミャンマー人の友人のおかげで結果的にはミャンマーを好きになることができました。現在日本では東南アジアからの移住労働者が増えていますが、その方達にできるだけ日本を好きになって欲しい、日本での生活をサポートしたいという思いからシェアハウスを運営しています。自分自身がシェアハウスの友人がきっかけでミャンマーを好きになったように、東南アジアの方が日本を好きになるきっかけを増やせたらと思っています。

中高時代、野球が心の支えだった

ー佐々さんの過去についても教えてください。どのような幼少期・中高時代を過ごされていましたか。

父が転勤族だったため、幼少期は定期的に引っ越す生活を送っていました。内気な性格だったのですが、引っ越す度に新しい環境で友達を作らないといけないこともあり、嫌々ながらも話す力は鍛えられたのかなと思います。

人生の大きな転機となる出来事が起こったのは14歳の時でした。もともと喧嘩の多い家庭ではあったのですが、両親が突如離婚し、家を出て行った父と連絡が取れなくなりました。ドラマの世界での出来事だと思っていた離婚が現実に起こったことが衝撃だったのを覚えています。

そして離婚の結果、相対的貧困に陥りました。当時は裕福な家庭が多い中高一貫校に通っていたため、周りと比べて貧乏なことにコンプレックスを抱くようになりました。またそれがきっかけでいじめを経験し、「なんでこんな環境に生まれたのか」と考えるようになり、自分のアイデンティティについて考えるようになりました。

ーそんな中、何をモチベーションに頑張られていたのでしょうか。

母が自分を育てるために必死になっている姿を見て、少しでも母を喜ばせたいという気持ちがモチベーションになりました。当時は野球部に所属していたので、ひたすら野球に打ち込み、甲子園に行くことを目標としていました。母を喜ばせたいという思いもありましたが、テレビに映って父に自分の姿を見せたいという思いもありましたね。

ーその結果、甲子園には出られたのですか。

それがレギュラー落ちしてしまい…周りから「あいつは口だけ」と言われ、さらにコンプレックスが増えてしまいました。

野球では目標を達成することができなかったので、大学受験では成功してやろうと、東大を目指して勉強に取り組むようになりました。しかし野球にずっと打ち込んでいたのでとても東大を目指せるレベルの偏差値ではなく…周りを見返したいというネガティブな思いだけで取り組んだ受験は結果うまく行かず、浪人もしましたが、東大には受かることができず、中央大学の法学部に進学しました。

 

フィリピン留学がきっかけで喜怒哀楽が豊かに

ー大学に進学してみていかがでしたか。

野球でも受験でも目標を達成できず、周りからは「口だけ野郎だ」と言われ、かなり落ち込んだ状態で大学に進学したので、初めは全然周りに馴染めませんでした。

そんな大学生活が変わるきっかけになったのはフィリピン留学でした。たまたまサークルの先輩がフィリピン留学に行っており、彼女との共通の話題を作りたいという思いだけで同じ奨学金プログラムに応募し合格。特に英語や海外に興味はなかったのですが、フィリピンに行くことになりました。

語学留学が目的ではあったのですが、休日はNPOのボランティアへの参加が必須となっていたため炊き出しや日本語を教えるお手伝いを行いました。フィリピン人と触れ合う中で、彼らがどんなに辛い状況でも常に明るく、笑顔で目の前のことに一生懸命に取り組んでいるのに対して、彼らより恵まれた環境にいる自分が下を向いて生きていていいのかと情けなくなりました。

今振り返ると、当時は甲子園に出場することや東大に合格するという名声を得ることが自分にとっての成功だったのですが、フィリピンでの生活がきっかけで人生を明るく楽しく生きることこそが人生における成功なのではないかというのがわかったのだと思います。

ー帰国後は具体的に何か行動をされたのですか。

自分は恵まれた環境にいるのだからもっと頑張らなければという気持ちと、フィリピンの現実を知ったからには何か行動しなければという勝手な義務感から国際協力について興味を持って調べるようになりました。

フィリピンに限らず、東南アジアに関する文献を読んだり、各国のスラム街を実際に訪れてみたりする中で出会ったのが貧困層から抜け出す人をサポートするための金融サービス、マイクロファイナンスでした。そしてその話を大学の教授にたまたま話したところ、ミャンマーでマイクロファイナンスに取り組まれている会社を紹介され、大学のプログラムを活用して初めてミャンマーに訪れました。

ーここで初めてミャンマーが出てくるんですね!

はい。マイクロファイナンスを活用することはいいことなのですが、貧困層の方の多くは複数の会社からお金を借りてしまい、結果的に自分の首を閉めてしまうというこがあります。マイクロファイナンスに関連した手続きの多くは紙媒体で管理されていたため、そういった問題が起きやすい現状があったのですが、それをIT化することで防ごうという取り組みを株式会社リンクルージョンという会社が行っていることも現地で知りました。ITというアプローチからも貧困層を変えることができるということを知り、それからITや起業に興味を持つようになりました。

 

ミャンマーで雇用を生み出せた成功体験

ーその後またミャンマーに行くことになったきっかけは何だったのでしょうか。

NPO法人e-Educationで働くことが決まり、トビタテ留学JAPANの制度を活用して大学4年次に再びミャンマーに訪れました。

e-Educationは十分な教育を受けられる環境にいない途上国の子供たちに映像授業を届ける事業を行っています。その事業のミャンマー現地責任者としてミャンマーでも最貧困地域と言われているチン州に映像授業を届けるべく、現地政府と交渉や、カリキュラム開発を担当させていただきました。当時のミャンマーはまだインターネット環境が整っていなかったので、現地スタッフと一緒にUSBに入った映像授業をバスで30時間かけて届けていましたね。

ーそこから起業を決意した経緯について教えていただけますか。

映像授業を届けて、学生の教育環境を整えるという活動を行う中で、教育環境を整える前に学生の勉強に対するやる気をアップさせる必要があると感じるようになったのが起業を決意したきっかけです。

ミャンマーの学生の多くは、どんな大学があるのかや大学に進学するメリット、大学卒業後のキャリアへのイメージを持てておらず、それが勉強へのモチベーションにも影響を与えていました。そこでまずは大学情報やキャリアに関する情報を提供するべきだと思ったのですが、調べてみるとそういった情報を提供しているサイトは全て英語で、ミャンマーのほんの一部の学生にしか届いていないことが分かったんです。であれば、ビルマ語のキャリア教育・進学メディアを自分で立ち上げようと決意しました。

ーそのような経緯ではじめられたメディアLive the Dreamの反響はいかがでしたか。

ミャンマーで活躍されている方々の波乱万丈なサクセスストーリーをビルマ語で録画したロールモデルストーリーは多くの方にみていただくことができ、ユーザー100万人規模のメディアにまで成長しました。これが野球・受験と失敗続きだった自分にとっての初めての成功体験となりました。

もちろん、そこに至るまでには現地従業員にストライキされるなど大変なこともたくさんあったのですが、メディアに取り上げられるレベルにまで成長したことは自分の自信になりました。しかし何よりも嬉しかったのは、インターン生を新卒で採用したところ、「ここで働けているおかげで弟の大学の学費を出してあげることができた」と感謝されたことです。雇用を生み出すことがもしかしたら一番の長期的な国際協力なのかもしれないと思うようになりました。

また、フィリピンでボランティアした際に、訪れた地域の限られた人しか助けることができないことに違和感を感じていましたが、メディアであればより多くの人にアプローチできるという点からもビジネスとしての国際協力の可能性を感じました。

 

自分を鍛えるため就職。再び世界で勝負することが目標。

ーメディア事業が順調だった中、帰国後就職を選ばれた理由は何だったのでしょうか。

ミャンマーだけに留まらずもっと大きい会社を作って、世界中にたくさんの雇用を生みたいと思ったのですが、そのためにはまだまだスキルと経験が足りないという実感がありました。あえて就職を決意したのは自分を鍛えて、世界で勝負できる起業家になるためです。やっぱりやるからには上を目指したいので今はそれに向けてスキルを身に付け、経験を積んでいるところです。

ーなるほど。現在に至るまでの経験を通して、U-29世代に伝えたいメッセージなどがあればぜひお願いします。

やりたいことがなくて悩んでいる人も多いかと思いますが、そんな方には欲望に忠実に生きてみて欲しいなと思います。といのもコンプレックスだらけだった自分がここまでやってこられたのも、決してポジティブな要因だけではありませんでした。「周りを見返したい」という思いや「テレビに映りたい」、「サークルの先輩ともっと仲良くなりたい」などといった人間の本質的な欲望に対して素直に行動し続けた結果が今に繋がっていったんです。

やりたいことが思い浮かばなくても、好きなものは絶対にあると思うんです。その好きなものと向き合い、一生懸命欲望に対して貪欲に頑張り続ければ自ずと道が見えてくると思います。

ー最後に、今後の目標があれば教えてください。

今はコロナの影響もあり、正直足踏み状態ですが、これを絶好の充電期間と捉えてインプット量を増やし、30歳までに世界でもう一度勝負してたくさんの雇用を生み出せる企業を作りたいと思っています。目指すからにはとにかく大きな目標を持って、欲望に忠実に一生懸命これからも頑張りたいと思います。

取材者:あおきくみこ(note/Twitter
執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter
デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter