「社会の境界線を溶かす」というライフパーパスのもと活躍するWORLD ROAD共同代表・平原依文の人生の転換期

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ、第170回はWORLD ROAD共同代表の平原依文さんです。8歳の頃から単身で中国渡り、小学校・中学校・高校・大学のほとんどを海外で過ごしてきた平原さん。そんな平原さんのこれまでの人生を振り返り、ご自身の転機となった出来事・出会いについてお話いただきました。また、最後には自分の「軸」から始まる持続可能な社会と働き方を追求しながら、日本の教育変革を目指している平原さんの今後の展望についてもお伺いしました。

教育×SDGsで日本の教育を変えていく

ー現在のお仕事について簡単に教えてください。

幅広い世代へのSDGs教育のため「地球を一つの学校にする」をビジョンに掲げるWORLD ROADを設立し、現在はWORLD ROADでの仕事をメインに働いています。新卒ではジョンソン・エンド・ジョンソンに入社し、営業を3ヶ月経験した後、デジタルマーケティングの仕事を経験しました。その後転職したプロノイア・グループでは広報、マーケティング、ブランドコンサルティングなどのお仕事をしていました。先月まではプロノイア・グループでのお仕事をしながら、WORLD ROADの活動をしていました。

ーWORLD ROADでのお仕事内容についても少し教えていただけますか。

WORLD ROADでは主に2つの事業を行っております。

1つは法人向けにSDGsに関連したコンサルティング・ブランディング事業です。多くの企業ではSDGsの取り組みをしているものの、形だけとなっていることがあります。そんな企業さんのSDGs達成に向けてどのような新規事業開発ができるかなどのご相談にのらせていただいています。

もう1つは教育機関向けの事業となり、こちらの事業は共同代表である市川が中心となって進めております。現在はSDGs×夢をテーマに世界196か国で社会貢献活動されている方々の夢を集めた本の作成に取り組んでいます。この本をいずれは教育機関に教材として使用してもらう予定です。

ー世界中の人の夢を集めた本とは面白い企画ですね!

実は京都にある、いろは出版さんが過去に47都道府県の高校生の夢をまとめた本「47都道府県47人の高校生の夢」を出版されており、その世界版を作りたいと直接ご連絡させていただき実現することとなりました。青年版ダボス会議のOne Young Worldの繋がりなどを駆使し、現在170か国まで集まっています!

強くなりたくて8歳で単身中国へ

ーこれまでの平原さんの過去のターニングポイントを教えていただけますか?

私の母は私が3ヶ月の時に血のつながらない父と結婚したのですが、シングルマザーとして私を産んだため、母(文子)に依存するということから「依文」と名付けられました。そんな名前の由来とは反対に私は8歳で単身で中国に行きました。これが私の初めのターニングポイントです。

小学校1年の時、私はいじめられていたのですが、2学期になって中国人の女の子が入学してきたことによりいじめの対象がその子にうつりました。私も自分を守りたくて、その子とは仲良くしないことを選んだのですが、それでも彼女はめげずに話しかけてくる強い女の子だったんです。

なんで彼女はこんなにも強いんだろうと思い、彼女に聞いてみたところ「中国は日本みたいにに安全じゃないし全員が良い教育を受けられるわけではない。人口が多い分チャンスが回ってくることも少ないからみんな必死なの。」と言われたんです。これがきっかけで私も中国に行ったら強くなれるのかもと思い、両親にお願いして上海に旅行に連れて行ってもらいました。

ー上海に行ってみていかがでしたか。

実際に行ってみると、何を言っているかわからないものの現地の人たちが皆みんな喜怒哀楽豊かに話しているのが伝わってきてびっくりしました。それまで自分のこと、自分の気持ちを表現することは悪だと思っていた節がありましたが、表現をするのって大事だなと感じたんです。これまで自己表現や自分のやりたいことを伝えることを避けてきた私が初めて「中国の学校に通いたい!」とその時思い、その場で両親に伝え、旅行中に全寮制の学校を見つけることができ転校が決まりました。

ーそういった経緯があったんですね。中国での学校生活は楽しかったですか。

中国人と朝鮮人しかいない学校だったので、楽しいことはもちろん、大変なこともいっぱいありました。特に歴史の授業では日本と中国の戦争の話になると辛かったです。日本の加害者である一面を強く認識するようになりました。

それでもたくさんの良い先生や友人との出会いがありました。中でも、仲良かった友人がカナダ国籍を持っていたのですが、彼女の「カナダはいろんな国の文化や歴史が混ざっている」の一言が私にとって2度目の人生のターニングポイントとなりました。

カナダで見つけた理想の生き方と働き方

ー中国の次はカナダに目を向けられたのですか。

はい。英語圏で英語を勉強したいと思っていたことと、多様性溢れる国をみてみたいと思ったことが重なり、12歳でカナダのバンクーバーに移りました。カナダではホームステイをしていたのですが、そのホームステイ先のお父さんが国会議員でありながらワイナリーを持ち、ソムリエをしながら働いていたのが今の私の生き方への価値観に繋がっています。

お父さんは「自然と都会が入り混じった場所だからこそ作れる社会、届けられる幸せを政治とワインで伝えたい」と言い、その軸の元、複数の仕事に就いているのを見て、「こんな生き方をしたい。自分の軸を持って自分の名前で生きていきたい」と思ったんです。

ー複数のお仕事を両立されていたり、転職を決められたりした背景にはカナダでの出会いも影響しているんですね。その後はカナダでずっと過ごされていたのですか。

16歳の時にカナダから交換留学でメキシコに行きました。それまでは1年に1回しか日本に帰らず、日本の家族・友人とは基本文通で連絡をとっていたのですが、メキシコに留学中に急に母から「お父さんが胆管癌になってしまった。手術してみないと助かるかわからないからとにかく帰ってきて欲しい」と電話がありました。

急いで飛行機を予約し、日本に帰国したのが2011年3月11日。東日本大震災は日本に着いてバスで移動していた時に起こりました。緊急停車した後、結局は空港に再び戻り、空港で一晩を過ごすこととなりました。

翌日もほとんど電車が動いていなかったため、ヒッチハイクをして父の病院まで行くことにしました。その時に車に乗せていただいたおばあちゃんとの出会いが私の人生における次のターニングポイントになります。

出会いと別れがきっかけとなって選んだ道

ーおばあちゃんとの出会いについて詳しく聞かせていただけますか。

メキシコから帰ってきたという話をしたところ、おばあちゃんに「メキシコだったら同じようにヒッチハイクしていた?」と聞かれたんです。

「メキシコだったらしていない」と答えたところ「じゃあなんで日本ではできたんだと思う?」と言われました。そして「日本は安心安全な国だからできたんだと思うけど、その安心安全な日本はどうやってできたと思う?」とも。

「若者はすぐに外に出ようとするけれど、私たちの世代が頑張って今の安全で安心な国に日本を作ってきたことを理解して欲しいし勉強してほしい」そうおばあちゃんに言われた私はそれまで海外ばかりに目を向けていたことに気づきました。この出会いが私にとってとても印象に残り、「私は日本にどうやって貢献できるだろう ?」と考え始めるきっかけとなりました。

今でもこの考えるきっかけをくれたおばあちゃんにはたまに会ったりしており、私の人生での貴重な出会いになっています。

ーなるほど…確かに考えさせられますね。

はい。日本にもっと目を向けたいと思ったことと、病気で痩せ細ってしまったものの手術がうまくいった父ともっと時間を共にしたいと思ったことがきっかけで日本に帰国することを決めました。大学は早稲田大学に進学したのですが、21歳の時、父が回復していたこともあり再び海外に行きたい欲が…当時スペイン語を勉強していたこともあり交換留学制度を活用してバルセロナへ留学することにしました。

ー4か国目の留学を決められたんですね。スペインはいかがでしたか。

Airbnbで知り合った30代半ばの建築士の彼女と大学院でヨットの研究をしている彼氏のカップルと3人でシェアをして住んだり、友人からFCバルセロナの日本人向けツアーのマーケティングを任せていただいたり、充実した留学生活となりました。

バルセロナで驚いたことは、まだまだ物々交換の文化が残っていたこと。バルセロナでは近所の人に足りないものをもらって、代わりに違うものを何かあげるというのが日常茶飯事で行われていました。バルセロナでの経験で、人との繋がりでも経済が回るんだなと実感しましたね。

ーその後就職活動となるかと思いますが、どのように企業選びをされたのでしょうか。

教育を変えたいという思いがあったので、大学卒業後は戦略コンサルタントとして経験を積んでから独立をしようと当初は考えていました。コンサルティング会社から内定もいただいたいてのですが、ちょうど22歳の時に父が残り2週間の余命宣告を受けたんです。

父は製薬会社で働いていたのですが、闘病生活中も常に自分が症例としてどう役立てるかをお医者さんと話すような人でした。そんな父の姿をみて私も病気で苦しんでいる人の選択肢を少しでも増やしたいと思い、父からの助言もありジョンソン・エンド・ジョンソンへの就職を決めました。

複数の業界で境界線にアプローチ。次は念願の教育業界で。

ー新卒で入社した会社からその後プロノイア・グループに転職された理由は何だったのですか。

ジョンソン・エンド・ジョンソンでは横断型プロジェクトを担当させていただき、充実した生活を送っていたのですが、会社の看板をとっても何か成し遂げられるようになりたい、自分の名前でゼロから何かやりたいと思ったことが転職のきっかけとなりました。

たまたまプロノイア・グループの代表が大学時代からの知り合いだったこともあり、「誰もが自己実現できる社会」を目標にしている点に共感して転職を決意しました。

ーそしてWORLD ROADを立ち上げられ現在に至るかと思いますが、これまでのお仕事で平原さんが共通して持っている思いは何になるのでしょうか。

私のライフパーパスは社会の境界線を溶かすことだと思っています。国境などの境界線もそうですが、日本国内だけを見ても様々な境界線がたくさんあります。そしてそれは可能を不可能にしてしまっている境界線だと思うんです。

ジョンソン・エンド・ジョンソンにいた時は医療業界の境界線、プロノイア・グループにいた時は働き方の境界線、今は教育の境界線にアプローチしています。私自身がパラレルキャリアを続け、それを発信することも働き方・生き方の境界線がなくなることに繋がると思っています。境界線が無くなっていけばたくさんの可能性が生まれると信じているんです。

ー現在は教育の境界線と向き合っているとのことですが、今後教育業界で平原さんが実現したいことはありますか。

今の日本の教育は、就職のため・受験に合格するための教育になっているのが現状です。私は教育の主軸が受験・就職ではなく「自分」にあるべきだと考えています。なので受験制度を廃止することを目標に、そのための活動をこれから進めていきたいです。

受験制度は日本が経済を発展させるために必要だった制度といえると思いますが、これからは個々に合わせた教育、選べる教育が必要だと思っています。「なぜ」を問い続ける、それぞれがライフパーパスを見つけられる教育こそがこれからの日本には必要なのではないでしょうか。

DoingではなくBeingの教育を広めること。これが今の私の目標です。

取材者:増田稜(Twitter)
執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter
デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter