#PRLTの生みの親ーおかはるかの原点と大切な想い、広報PRの道で生きるワケ

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第138回目となる今回は、#PRLT代表でありフリーランスPRディレクターとして活躍するおかはるかさんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

中学校の美術の授業で感じたコンプレックスを機にマスコミ業界に目を向け、大学はメディア系の学部に進学。広報をテーマにした講義に感銘を受け広報職に興味を持ちます。21歳のとき父の癌が判明し余命半年の宣告を受け、大学卒業直前に死去。生前の父の想いを引き継ぐべく、医療系のベンチャー企業へ初代広報として入社し、新卒ながら広報部門立ち上げを経験。PRパーソンとしての人生をスタートさせます。

2015年11月、母の危篤をきっかけにフリーランス広報へ転身。母の回復後、2016年4月よりレバレジーズ株式会社で1,000人規模のミドルベンチャーでの広報部門立ち上げを経験。同年7月、広報PRコミュニティ『#PRLT』を発足し広報LT大会を主催。現在までに1,500名以上が参加しおよそ150本のLTが誕生。2018年10月、適応障がいが判明し休養に専念するため退社。2019年3月よりフリーランスPRとして再始動し、活躍の幅を広げています。

新卒から広報として第一線で走り続けるおかさん。活躍の背景にある苦労した過去、そして広報PRにかける想いと描く未来について伺いました。

 

フリーランスPR ”おかはるか” の今

ー本日はよろしくお願いします!現在のお仕事や活動について教えてください。

よろしくお願いします!現在は主に3つの肩書きを持ち、2019年からフリーランスPRとして活動しています。

あたらしい広報PRを発掘・発信する日本最大級の広報PRコミュニティ『#PRLT』の代表、正社員としてヘルステックスタートアップのUbie株式会社でPRに従事する傍ら、フリーランスとしてベンチャー企業のPR支援や、広報PRのナレッジを発信するWebマガジン『PR TIMES MAGAZINE』編集部でインタビュー企画や記事の編集を担当しています。

 

ー肩書きが3つも…!#PRLTはどのような活動をしているコミュニティなのでしょうか?

PRと向き合おうとするすべての”PRパーソン”の明日の一歩をつくるコミュニティで、活動の中核は「広報LT大会」の開催です。「地球全体の広報PRナレッジ・思考を発掘する」ことを目指し、2016年7月に発足。約2ヶ月に1回の開催を続け、総参加人数は1,500名以上、これまでに150本を超えるLTが発信されてきました!『LT』とは『ライトニングトーク』の略称で、特定のテーマに沿って5分程度のプレゼンを行い、日頃の学びや気付きをシェアし合うことで広報PR活動と向き合うきっかけを提供しています。広報PRの経験年数や職種に関係なく、成功事例も失敗事例も悩んでいることもオープンにアウトプットしてもらっていることが#PRLTの特徴ですね。LT大会の他には、不定期で地方のアクセラレータープログラムで経営者向けにPR入門キャンプを実施しています。

イベントレポート

 

ー広報PRについて身近な学びを得ることができるんですね!なぜ、気づきをシェアできるようなコミュニティを創ろうと思ったのでしょうか?

私は新卒でベンチャー企業の広報として就職しました。その頃から現在まで一貫して広報PRに関わっていることもあり、ベンチャーやスタートアップ界隈では、広報PRに関する身近なナレッジがほとんど出回っていないと気づいたんです。PRパーソンとして有名な方や著名な企業の成功事例を有したセミナーはあったのですが、土俵が違うため、自分が明日から自社で実践できるアクションにはつながりにくくて…。ベンチャーやスタートアップならではの悩みやPRに関するナレッジをシェアできる環境があったらいいな、と思ったのが始まりです。

 

ー現在は複数の活動を並行して担当されていますが、共通して大切にしているポイントはありますか?

コミュニケーションで相手との適切な関係性をつくり続けるというPR=パブリック・リレーションズの考え方はどの職種、立場のひとにも欠かせないものです。なので、より多くの方にPRを身近に感じてもらうことで、「自分の足でPRと向き合う」気持ちを持つきっかけになることを意識しています。

PRに興味のある人がいろんな話を聞くことで少しでも次の一歩がクリアになるように、「明日できること」を明らかにする場が#PRLT。PR TIMES MAGAZINEは、記事の中からナレッジやヒントを見つけることで読者の次の一歩を変えることを心がけています。

ーなるほど!広報PR分野への興味関心が、次のアクションにつながるような働きかけを行っているんですね。正社員として勤務されているUbieではいかがですか?

組織に根付く持続可能なPR体制を築くために、PRの標準化・可視化・最大化に目を向けています。例えば、導入先の医療機関を含めて誰でも取材対応や情報発信が十二分にできるようルールやフローを整備したり、メディア掲載実績やセールスへの貢献度合いなどPRチームの成果や進捗が部署を超えて必要なときに誰でも確認できるよう整えたり。万が一広報・PRの担当が不在になったとしても、組織が何の問題もなく広報機能を継続できる仕組みを作っています。

PR戦略立案やメディアリレーションズ、ペイドパブリシティ対応、パブリック・アフェアーズの実行、インターナルコミュニケーションの改善などPRは業務が多岐にわたります。UbieではPRチームを形成し、本人のスキルやWillをベースに担当範囲を決めているため、私はいわゆる「仕組み化」と「推進」にフルコミットしています。PRパーソンの中では珍しいポジションかもしれませんね。

 

マスコミ志望から広報へ。自分が信じるモノを伝えたい

ー現在は広報PRとして活躍されているおかさんですが、大学生の頃はマスコミ志望だったと伺いました。いつ頃からマスコミに興味があったのでしょうか?

中学生の頃ですね。当時、モノをゼロから創り出せない自分にコンプレックスを持っていたんです。この特徴が顕著に現れたのは美術の授業。アイディアを出して創作することは苦手だったのですが、写生のように既に存在するものを美しく表現することは大得意で、「私は何かを創り出すよりも、既にあるモノの存在を伝える方が好きで向いているんじゃないか」と思うようになったんです。

 

ーコンプレックスが原点だったんですね。マスコミを意識し始めたのは、何がきっかけだったのでしょうか?

当時好きだったアーティストをより多くの人に知ってもらうために、あの手この手で情報発信を始めたことです。運動会でダンス曲の候補に入れてもらったり、移動教室の際はクリアファイルに彼らのCDフライヤーを差し込んで見せて回ったり、友人をライブに連れて行ったり、ケータイでファンページを作ったり…。実際にファンになってくれた子もいて、私は「自分がいい」と思ったコトやモノを伝えることが好きなんだ、と気づいたんです。

何かを広める仕事が向いてるのでは、と考え頭に浮かんだのは広告制作かマスコミでした。そこから、より自分が向いていそうなマスコミに焦点を絞りましたね。

 

ーその後、どのような経緯で広報PRに興味を持たれたのでしょうか?

引き続きマスコミの仕事に興味を持っていたので、大学ではメディア系の学部に進学を決めました。基本的には、新聞のつくりかた、広告の成り立ちやコミュニケーションの歴史などを学んだのですが、4年間で一度だけ広報に関する講義があったんです。この1時間が転機となりました。

マスコミは、公平な視点から世の中にとっていいものを切り取って伝える側面が色濃く出ますが、広報は「自分が信じたモノの魅力を伝えていく仕事」だと、そのときの講義を通して理解しました。このとき、好きなアーティストを広めていた自分の姿と、自分の信じるモノを広める広報の特徴がリンクしたのでしょう。「私が本当に進みたかった道は、広報職かもしれない」と思ったんです。ちなみに、このときは「PR(パブリック・リレーションズ)」という概念はほぼ理解しておらず、広報としてキャリアを重ねる中でPRを知ることとなります。

 

ー一度の講義がおかさんの運命を変えたんですね…!それから新卒で広報を目指すようになったのでしょうか?

はい、ですがいろいろと調べていたところ、当時は新卒で広報を採用している会社がほとんどないと知りました。特に大企業の場合、営業など現場で数年間の経験を積み、コーポレート部門へ異動してはじめて広報として働けるパターンが多い。営業として就職する道は考えていなかったので、いわゆる知名度のある会社や大企業の広報を目指すことは難しいと悟りました。新卒でも広報になれる方法を模索した結果、ベンチャー企業の広報であれば可能性が高まるのでは、と。

 

ーベンチャー企業の中でも、どのような会社を目指していましたか?

新卒でベンチャー広報になろうと思ったものの、具体的にどのような会社を選ぶかいまいち決め切れていなかったのですが、最終的には医療に関わっている企業に決めました。

実は、私が大学4年生のときに父が癌になり余命半年の宣告を受けて、大学卒業の直前に亡くなったんです。

 

突然おとずれた父との別れ。見えてきた「医療×広報」の道

ーそんな出来事が…。

父の死によって企業選びの観点が大きく変化しました。

父は私が3歳の頃から躁鬱病にかかっており、亡くなるまでの約20年間ずっと病と闘っていました。「躁鬱病でありながら癌患者でもある、そんな人はそう多くないだろうから、僕が亡くなった後は僕の臓器を徹底的に調べて医学の発展に役立ててほしい」。こうした遺言を残しながら、父は入院している病院でどのような治療を行っているかやその病院の体制などを詳細に記録していたんです。

そんな父の姿に強く感銘を受けました。「医療の発展に役立ちたい」そんな想いを私が受け継いでいくことが、当時の私にできる唯一の親孝行かな、と…。こうして、医療系の会社を目指す意思が固まりました。

 

ーお父さんとの別れが、その後の進路選択に大きな影響をもたらしたんですね。

そうですね。現在も、AI×医療という切り口で事業を展開しているUbie社に務めていますし、前職はレバレジーズ株式会社というヘルスケアの人材紹介事業を展開している会社でした。

 

ー今改めて振り返ると、このときの出来事はおかさんにとってどのような意味を持つターニングポイントだったと考えられますか?

「社会人としてありたい姿」「どこに向かって貢献することが自分らしいか」を決めるきっかけとなりました。

異業界への転職を考えたこともありますが、どうしてもヘルスケア業界が率直な想いを伝えやすかったんですよね。医療系の会社に務めている人は、私と同じようにご家族や大切な方を亡くした経験を持っている方も多くシンパシーを感じやすいので、彼らとなら多少の辛いことも乗り越えられる、と思えるんです。「どのような志を持った仲間と働きたいか」に気づくポイントにもなりましたね。

 

ーその後、新卒ではどのような会社に就職されたのでしょうか?

株式会社エストコーポレーションという医療系のサービスを展開しているベンチャー企業へ広報として入社しました。

 

ー念願叶って広報に!企業とはどのようなきっかけで出会ったのでしょうか?

大学生の頃、学びを深めるために人材系のベンチャー企業で広報としてインターンを務めていました。ある日、社長が「インタビュー記事を書いてみなさい」と私を指名してくださったんです。「若くて勢いのある医療系の会社の社長さんに取材をするから、あなたも同行しなさい」と。取材当日インタビューで伺った社長さんのお話に感銘を受け、その日のうちに取材先の新卒採用エントリーボタンを押しました(笑)

 

ー偶然のような奇跡…!

最終面接で社長と再会したとき、広報として働きたい旨を伝えました。こんなにも素晴らしい会社にもかかわらず、インターン先の社長の紹介がなければこの会社を知らなかった自分。もちろん、私の友人や家族でも知っている人はおらず、それがすごく悔しくて…。「私が会社を広める役割になりたい。ここで広報になりたい」と強く思いました。すると、たまたま広報の立ち上げを考えていたようで、「そんなに熱い想いがあるならやってごらん」と挑戦させてもらうことができたんです。

ー社会人1年目で広報部門の立ち上げとはなかなか珍しい経験。どのような学びが心に残っていますか?

広報のやり方は、会社によって、フェーズによって正しいこと正しくないことがあると学んだこと、そして人より多くの場数を踏み自分なりに自社のやり方を模索したことは、よい学びでした。

当時は広報として自分が何をすべきかわからず、自社外の人に積極的に助けを求めていました。勉強会やセミナーに足を運び、そこで知り合った人からベテラン広報の方を紹介していただくことも。とにかくさまざまな人と会い、その人や他社なりの広報のやり方を学びました。もちろん、全てのアドバイスを鵜呑みにするのではなく、自社に置き換え僅かでもアレンジを加える必要があります。得た情報を元に工夫しながら実践し、失敗も成功も含めて量をこなすことを意識していましたね。

 

ー社内だけでなく社外にも情報を求めるとは、すごい行動力ですね。

私はベンチャー企業への就職を選んだので、失敗を恐れていてはここに来た意味がないな、と。同期の多くは営業として毎日お客さまに電話して、訪問して、着実に成果を上げていきます。そんな中、広報として入社した私がずっと社内に閉じこもって右往左往していても「何をやっているんだ」と思われて当然です。失敗したときのことを考えている場合じゃない、何かあれば社外に助けを求めながら試行錯誤を繰り返していましたね。

 

フリーランス転身を経て再就職。母の危篤が教えてくれたこと

 

ー仕事に邁進されていたおかさんですが、2年目の秋に再び大きな転機となる出来事が…。お母さん危篤の一報を受け即座に会社を辞められたそうですが、この決断にはどのような想いが込められていたのでしょうか?

2つあります。

1つは、親孝行する間もなく父と別れ「このまま何もできずに母も失えば、親不孝になってしまうのではないか」という恐怖心があったことです。実はメディア関係者との会食で遅く帰った日に、玄関先で母が倒れていたんです。「あと10分あなたの帰りが遅かったら助かっていなかった」と医師に言われて頭が真っ白になりました。それからは、いまは仕事に時間を費やすよりも少しでも長く母のそばにいたい、そう思っていました。

もう1つは、高校生の頃からフリーランスという働き方に憧れがあったことです。女性の社会進出が叫ばれる中で「〇〇会社のおかはるか」ではなく「おかはるか」として仕事を請け負う生き方に、一人の女性としてかっこよさを感じ、これを機に挑戦してみようと思いました。

 

ー退社を即決した裏には強い想いがあったんですね。フリーランスとしていつ頃まで活動されていたのでしょうか?

2015年11月〜2016年4月まで、知人の会社のPR支援やライターとして働いていました。母が倒れてから半年後、奇跡的に回復の兆しが見えてきたこともあり、改めて自分のキャリアについて考える時間が生まれた結果、フリーランス活動に一度終止符を打つことを決めました。

 

ー憧れていた働き方から一転、どのような心境の変化があったのでしょうか?

当時24歳の私が持っている経験値のままフリーランスとして働き続けると、良くも悪くも「やばいな」と思ったんです。

会社員時代に社外の方と積極的に交流していたこともあり、ありがたいことに「週1回でいいからうちで働かない?」と声をかけてくださる方もいました。そのため、仕事で雲行きが怪しくなることはなく、むしろ会社員の頃の収入を上回るまでに。一方で、当時の私が広報として働いた経験は一社で得た経験ひとつだけ。ここで得た学びを糧にフリーランスとして働き続けるには、あまりにも貢献できる幅が狭いですよね。今は仕事にありつけていても、この先どこかで頭打ちを迎えるだろうと察しました。

ならば、1社目の小さなベンチャー企業とは異なる規模の会社で経験を積み、「広報としてプロフェッショナルだと思える自分になろう」と思い、母に元気が戻ったタイミングでもう一度就職を決意。先に前職を辞めた同期から紹介されたレバレジーズ株式会社に転職したんです。

ーご自身の専門性をアップグレードするための決断だったんですね。レバレジーズでも広報として入社されたのでしょうか?

はい、レバレジーズは私が転職した当時の社員数が1,000人弱と、比較的規模の大きいベンチャー企業だったのですが、広報部がありませんでした。この規模感ではなかなか珍しいこと。私が1社目で広報部門を立ち上げた経験を鑑み、当時の役員から「広報をやってみないか」とお声がけいただきました。

 

ー1社目と同じく、とはいえ規模の異なる会社で広報部門の立ち上げを経験されて、大変だったことはありましたか?

1社目と比べて社員数に圧倒的な違いがあったので、最初の頃は孤独でしたね…。社長や各事業部長との距離感や温度感を掴むのも苦労しましたし、Webマーケティングに強い会社だからこそ定量的な成果を求められる場面が多く、説明に難しさを感じることもありました。広報活動はすぐさま目に見える結果が出るものばかりではありません。過去のプレスリリースや記事がきっかけとなり、ある日突然問い合わせが届くこともあります。このときの経験から、広報担当者だけでなく社員にも広報PRを知ってもらう、広報PRがどれだけ会社に貢献できているかを可視化する仕組みづくりの必要性を実感しました。

 

 「広報PR業界にもシェア文化を」#PRLTの誕生と忍び寄る影

ー現在の仕事にも繋がる「仕組み化」はこのときの学びから来ているんですね。転職から3ヶ月後には#PRLTの初開催を迎えますが、レバレジーズでの取り組みと#PRLTの誕生には何かつながりがあるのでしょうか?

「レバレジーズに転職していなかったら、#PRLTの活動は生まれなかった」と言い切れるほど密接に関係しています。

実は、レバレジーズに入社して最初の配属先は新規事業部だったんです。社員数1,000人弱に成長するまで広報機能を持たなかった会社なので、さすがに入社していきなり広報部門の立ち上げは難しく…。役員の図らいで「新規事業部で広報PRとして成果を上げれば、社長も広報部門の立ち上げを認めてくれるだろう」と見込んでくれ、まずは彼と新規事業部で一緒に働くことになりました。

 

ーそうだったんですか!?

『teratail』というITエンジニア特化型のQ&Aプラットフォームサービスを作っている事業部に配属となり、エンジニアをターゲットとした広報活動がメイン業務になりました。エンジニア知識に乏しい私が企画案を出せるはずもなく、まずはエンジニアの勉強会に参加。日々新しい技術が生まれ続けるエンジニアの世界では、ブログや勉強会を利用して彼ら自身が成功事例や失敗事例を積極的にシェアしていることを知りました。全員の総力を駆使してひとつの技術をよくしようと集う姿に、強く感銘を受けたんです。

エンジニアが大切にしている『情報をシェアする文化』『ナレッジを共有する文化』が広報業界には足りなかったのだと気づきました。これらの文化を広報PRにも取り込んでみよう、と思い誕生したのが#PRLTなんですよ。

 

ーエンジニアのシェア文化が発端だったとは驚きです。#PRLTの初回開催を通して、当時のおかさんが思っていた参加者のニーズとリアルの間にギャップを感じることはありましたか?

いい予想外で、社外にアウトプットしたいと思っている人は多いことを実感しました。

当初は、5名くらいで全員が発表し合う小さめのLT大会になればいいな、と思っていたのですが、なんと初回から60名もの方が参加してくださったんです…!

ーすごい!大反響ですね!

加えて、Facebookで開催を告知したところ、運営の協力や発表者の立候補が数多く寄せられて。当時はまだ広報業界でLTという単語すらあまり認知されていない状況でしたが、アウトプットしたい気持ちや、ベンチャー広報にまつわる情報不足に共感してくれる人がこんなにいたんだと驚きました。シェアする機会がないだけで、自分の取り組みや成功、失敗談を伝えたい欲求があると知りましたね。

 

ー#PRLTの運営や本業に邁進するおかさんですが、次第に体調に異変が見られるように…。何があったのでしょうか?

転職して2年が経った頃、実績や活動量が認められ正式に広報部の立ち上げが決定。すると、全事業部から広報の依頼が来るようになり、全ての期待に応えていた私は完全にキャパオーバーしてしまったんです。事業部によっては営業やマーケティングのリソースを半分に割き、一緒に広報の企画を考えてくれる心強い仲間も増えたものの、最終的なスケジューリングや記者会見の準備、プレスリリースの確認などは全て私が担当していました。その結果、次第に仕事が追いつかなくなっていったんです。

 

ー一人で全ての業務をこなしていたんですね…。

出社した途端に頭痛がしたり、仕事をしているとなぜか涙が止まらなくなったり、明らかに調子がおかしくなってきた頃、親友や上司から病院へ行くように言われました。診断結果は適応障がい。医師からはしばらく会社を休んで安静にするよう言われました。

とはいえ最初は休むことになってしまった自己嫌悪からくる申し訳なさに苛まれ、2週間で復帰すると決めていました。会社としても、休んでもらわなければならない一方で唯一の広報が席を空けると困った事態になるのは当然のこと。月末月初の対応だけは自分でやると決めてなんとか会社に戻り、一時的に引き継いでくれる社員を探して仕事を託しました。

ー身体が壊れるまで全力で仕事に取り組んでいたとは…。その後はどうされたのでしょうか?

3ヶ月の休職制度を利用して、本格的に仕事をお休みすることになりました。ですが、休んでしまったことに対する申し訳なさや引き継いだ仕事が心配で全く気が休まらず、調子が戻らなかったんです。そのまま期限を迎え、会社から体調を確認する連絡が…。

この調子だといつ回復するか見通しを持ちにくいだけでなく、仮に復帰できたとしても以前のように社員から気兼ねなく仕事の相談が来るとは考え難い…。互いに気を遣って仕事を依頼する関係性になってしまっては誰の得にもならない、そう思った結果、思い切って退社を決意しました。

 

ーここで辞める決断をしたんですね。

いざ辞めてみると、「辞めたんだから元気にならなきゃ」という想いが湧いてくるようになったんです。彼氏や家族、友達などたくさんの支えがあってこそですが、ご飯を食べることから始まり、時間をかけて少しずつ元気を取り戻していきました。

 

再出発に込めた想いとPRパーソンとして描く未来

ーおかさんにとって休む決断に踏み切ったこと自体が、非常に勇気のいる一歩だったのでは、と思います。休息期間中はどのようなことを考えていましたか?

元気になってまた仕事をしたいと思っていました。

実は退社後も息抜きを兼ねて、自分の存在意義を確かめ自己肯定感を高める場として#PRLTの開催は継続していたんです。みんなにあたたかい目で見守っていただきながら、2ヶ月に1回の開催を守り続けていたことが復活を後押ししてくれましたね。いろいろと大変な思いもしたけれど、やっぱり私はPRという仕事や一緒に働く仲間がすごく好きなんだ、と認識することができました。

 

ーおかさんにとって#PRLTは欠かせない居場所になっているんですね。本格的に仕事を再開されたのはいつ頃ですか?

前職を辞めて1年が経った頃でしょうか、不思議なもので元気になり始めると同時に少しずつお仕事のお誘いをいただくようになり、再始動を意識するようになりました。「月に2回でいいから、新人広報を指導してくれないか」「少しでも仕事に前向きな気持ちがあればぜひ手伝ってほしい」そんな話がタイミングよく集まってきたんです。これは「そろそろ働いても大丈夫」というお示しかなと思いましたね(笑)周囲からの背中押しもあり、フリーランスとして再出発を決めました。

 

ーフリーランスと企業広報、どちらも経験されているおかさんから見る両者の違いは、どのようなところにあると思われますか?

業務内容が異なるのはもちろんのこと、物事を見る視点が違いますね。

フリーランス広報として企業と関わると、外部かつプロフェッショナルな視点で限られた情報の中から最適解を見つけることが求められます。同じ目標に向かうメンバーでありながらも、社内にいる人より一歩後ろから会社や社会全体を見つめる必要があるんです。複数のプロジェクトや会社の案件が同時に進行していくため、一度にさまざまな業界と向き合う楽しさもあれば、全ての業界や会社ごとに異なる文化への理解が必須となるプレッシャーもあります。

一方、企業広報も社員の中では一歩引いた視点が必要ですが、社内に転がっている情報の種を積極的に見つけて花を開かせる能動さも求められます。社員を巻き込みながら物事を前進させる力や、必要に応じて社外のスキルやリソースを借りて完遂するディレクション力が必要。そのため、表面的なPRスキル以上に、推進力を求められるのが企業広報だと認識しています。

 

ー広報PRという仕事の魅力をどのように捉えていますか?

「常に社会と接読している感覚があること」は大きな魅力であり、接続先がひとつではない点もこの仕事が持つ特徴だと思いますね。

『PR』は『パブリック・リレーションズ』の略称であり、社内外のあらゆるステークホルダーと関係を持ち続け、自分や相手そして社会にとっていいこととは果たしてなんなのか、を考え続ける仕事なんです。自分や自社のことだけを考えるのではなく、常に自分、相手、社会の3つの視点を持つ必要があります。すると必然的に、常時3点とつながっている感覚を味わえるんですよね。この仕事に携わる上で最も難しいポイントでありながら、やりがいや楽しさ、醍醐味でもあります。

 

ー複数の接続点を持っている、とはたしかにおっしゃる通りですね!

もちろん、3つの視点はさらに細分化されます。例えば「相手」は社員、お客さま、株主、行政、地域社会など。常にさまざまな人と接することで自分の考え方やあり方を見直す必要が出てきますし、コミュニケーションに課題を持っているステークホルダーが居続けるからこそ、企業には広報PRが必要だと思うんです。自分の発する一言が誰かの人生を変える可能性があると思うと、非常にやりがいのある仕事だと思いますね。

 

ーPRパーソンとして活動を続ける上で大切にしていることはありますか?

「目の前の人の次の一歩をよくすること」を意識しています。今の私の活動は全てこの想いに起因しているんですよ。

広報ひとりで社会や世界を変えることはできませんし、個人で大きな目標を成し遂げることにあまり興味がないんです。その代わり、私を通じて広報PRの仕事や関わっている企業・団体の取り組みに面白さを感じ、広報PRとしてのキャリアをスタートしたり、困っていることが確実に解決できたりすれば本望です。目の前の人をエンパワーメントし、どんなに小さな一歩でも着実に相手や世の中の前進につながることを実践できるように意識しています。

 

ーPRパーソンとして向かいたい方向性や今後について考えていることを教えてください。

永続的な組織活動のためにPRパーソンとして私が残すべきことを明確化し、目の前の人、目の前の組織、そして社会の課題解決になる仕組みを作り続けたいと思っています。

企業によっては広報担当者が1〜2名しかいない場合も多く、広報PRは非常に属人的な仕事です。やりがいを感じやすい反面、担当者がいなくなった途端に企業としての広報活動が出来なくなることも往々にしてありえます。誰でもPR業務ができるような仕組み化のみならず、PRパーソンとしてのマインドをどのように形成すればよいのかを模索しながら形にしていきたいですね。企業が正しく企業活動を続けていくためにも、社内外における全ての対話プロセスに関与し、人とモノと社会をつなげ、前に進める人になりたいです。

ー本日はありがとうございました!おかさんのさらなる活躍を応援しています!

 

取材・執筆:青木空美子(Twitter/note
デザイン:五十嵐有沙(Twitter