ルワンダ産豆の大学生起業家・山田果凜。救えなかったアルソンくんのために

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第217回目のゲストは、大阪大学在学中の起業家、山田果凜(やまだかりん)さんです。

小学4年生で、日本からタイのバイリンガルスクールに転校。小学校卒業時点で、通う目的のない学校に葛藤を覚え、入学からわずか3週間で不登校に。インドで救えなかった男の子との別れ、バイリンガルスクールの退学、沖縄への移住、両親の離婚、自殺未遂、新型コロナウイルス感染症の影響を受けても人生を諦めなかった、山田さんの強い精神力に迫りました。

母と私と弟のタイ生活

ー自己紹介をお願いします。

大阪大学人間科学部1年生で、株式会社Familicの代表を務める山田果凜です。小学校4年生からタイに移住しました。現在は沖縄県読谷村波平に在住し、カフェ「Tobira Cafe(トビラカフェ)」を経営しています。大学の授業をリモートで受講し、大学とカフェを両立しているんです。

ー忙しそうですね…小学生で海外移住は、めずらしいですよね。

そうかもしれません。私と母と弟3人で移住したんですよ。「世界で活躍する子どもたちに育ってほしい」という親の願いがあって。英語を学べる環境づくりをしたかったそうで、タイのバイリンガルスクールに入学しました。アメリカに家族6人で移住するか、日本のインターナショナルスクールに入学するかも候補だったそうですが、経済的に難しかったみたいなんです。

小学校4年生の私は、「世界中の人たちが日本語を話せて、日本語でコミュニケーションがとれる」と思っていました。私と出会う人たちは、私の出身国をよく知っているとさえ考えていましたね。しかし、英語の授業で、ガラッと価値観が変わりました。「Where are you from?」と聞かれ、答えに行き詰まっていると、もう一度「Where?」と先生から質問が。日本を指さそうと世界地図をパッと見ると、日本がない。日本は、他国から眺めると、こんなにちいさな国なのか…と、驚きました。

英語って、何のために学ぶの?

同じ小学校のクラスメイトや先生と並ぶ果凜さん(左から2番目)

ー世界における日本の位置付けを、タイで実感されたんですね。日本とタイの文化の違いで驚かれたことはありましたか。

ありましたね。
私の将来の夢は、「小学校の先生」だったんです。自分のロッカーの扉に、自己紹介として書き出していました。

すると、隣の男の子が、「That’s so normal.」と、ニヤニヤしながら話すんです。どれだけすごい夢なんだ、と疑問に思い、彼の夢を見せてもらうと、「アメリカ合衆国大統領」の文字が。「ん?タイ人なのに、アメリカの大統領なのか…?」といぶかしげに彼を眺めていても、彼は表情を変えません。書き終わったみんなの夢を見せてもらうと、びっくり。「世界のアイドル」「ハリウッドのスター」「プロサッカー選手」など、どれも大きな夢ばかり。

そこで、ハッと気づきました。日本で生活していたときは、夢が大きければ大きいほど、言えなかったんだ。自分の夢を、大きな声で周りに伝えるクラスメイトはかっこよかったなあ。

ー生徒一人ひとりの夢を、のびのびと語る場所があったんですね。

そうですね。そして必死に勉強して、住んでいた地域で一番の進学校である公立中学校に合格しました。

でも、私は学校への興味を失ってしまったんです。
「学校の中に、自分が求めている“世界への貢献”のヒントはあるのか?」に悩みましたね。2〜3週間だけ通学して、学校に通わなくなりました。

インドのアルソンくん

インドの観光地を訪れる果凜さん(右)

ー学校に行かないとすぐに決めるのは、凄い決断力ですよね。それからどうなって行ったんでしょう!?

人生を変える出会いがありました。中学校2年生の夏のことです。父親がインドに出張に行きがてら、タイの家で引きこもっていた私を連れ出したんですよ。「嫌だ!」と、抵抗したのですが、あっけなく無視されました。

しかも、父親は仕事。私は観光ツアーのバスに送り込まれ、タイムスケジュール通りに観光地めぐり。到着したタージ・マハルを物珍しそうに眺める他の参加者から離れ、もやもやした気持ちで、フラフラと歩いていました。しかし敷地の外に出ると、ストリートチルドレンに囲まれたんです。「まずい、どうしよう…」と困っていると、「ほらほら、お姉さんが困ってるだろ?」と、救いの声が。その声の主は、子どもたちのまとめ役である、7歳のアルソンくん。「ごめんね、鉛筆を売らないと、今日のご飯をもらえないんだ。お姉ちゃん、日本人でしょ?」と、流暢な日本語で話しかけられました。5ヶ国語を話せる彼に、私は魅了されたんです。

「今日、学校はないの?」と尋ねると、「行きたいけど、行けないんだ」と答えるアルソンくん。「なぜ、学校に行きたくない私が行けていて、学校に行きたいアルソンくんが行けていないの?」と同情は募るばかり。ここで生活する理由も、ギャングにさらわれて、帰る家がわからないから。後ろ髪を引かれつつも、「バイバイ」と別れを告げると、「お姉ちゃん、僕を連れ出して!」と、最後にまっすぐな瞳で遠慮がちに話すアルソンくん。助けてもらったのに、助けられない私。何も言えず、その場を立ち去りました。

必死に訴える目が頭を離れず、数日間、タージ・マハルに訪れ、周辺を探しました。しかし、彼を見つけられませんでした。それでも諦めたくない。そこで、父親に「アルソン君を養子にしてほしい」と頼むことに。熱弁する娘に困り果てたのか、父親は国連に勤務していた経験のある友人に相談します。私は、アルソン君が置かれた環境と、才覚について、声を荒立てながら懸命に話しました。しかし、父親の友人は、目の前の私に、こう言ったんです。

「アルソン君が、100人いたらどうするの?もし、アルソン君を1人だけ連れ出して、彼は本当に幸せだと思う?」と。
私は、「違う!そうじゃない。アルソン君を助けたいんだ!」と思いました。
だけど、その次の瞬間、タージ・マハルの周辺で生活していた他の子どもたちの姿が頭をよぎりました。あの子たちは、どうなるのだろう?教育も収入も十分に受けられず、年老いていくのだろうか…
それは、ダメだ!と思い、「子どもたちを助けたいけど、どうしたらいいの?」と、想いを打ち明けました。

その友人は、「父親の力を借りるのではなくて、あなたが力をつけなさい。そのために、ボランティアを紹介するからインドにもう一回行ってみたら?」と提案してくれたんです。
「そうします!」と答えた3ヶ月後。中学校2年生の私は、インドを再訪しました。

孤児が教えてくれた「勉強する意味」

孤児院の子どもたちと並ぶ果凜さん(中央)

ー子どもたちを助けるために、自分に力をつけようと思われたのですね。

1ヶ月間、500人の孤児が生活する孤児院で、ボランティア活動をしました。私は、日本語の先生でしたが、子どもたちから教わることが多かったです。孤児は、インド政府に名前を登録されていません。そのため、どんなに勉強を頑張っても、公立学校に入れないし、ワクチンがあっても、病院で受付してもらえない。しかし、子どもはエネルギーをたくさん持っているんです。

ある日の授業で、「幸せ?」と尋ねると、小学校2年生の女の子は、「うん!だって、勉強ができるんだもん!」と答えました。私が、「なぜ、勉強ができると幸せなのか」を聞くと、「私の村は、学校に行きたいけど行けない子どもが、たくさんいたんだよ。私は、勉強をできるチャンスをもらってるんだ。だから、幸せなの!」と話していたんです。

愕然としました。学校に行けることを、当たり前だと思っていた私。しかし、両親のいない、この少女は、感謝している。「自分の村に戻って、私が学校を創るんだ。この人生で、頑張るんだ!」と、目をキラキラと輝かせながら夢を語る姿に、胸を打たれました。
そして、決意しました。私は学校に行ける。行かなければならない、と。

売春婦の少女、食料探しの少年

孤児院の子どもたちと並ぶ果凜さん(前列の右から3番目)

ー孤児に出会ったことで、学校に行ける価値を教わったんですね。

しかし実は、一般の学校に通っていても、問題を抱えている子も多かったのです。家庭環境で、学校に来れない子どももいましたね。
私が所属していたバレーボール部の先輩を最近見かけないなあと、心配になって友人に相談すると、家を追い出されて学校に通えなかったそうで。大きな会社が、彼女の家がある土地を購入したんです。収入源の農園を失い、住む家を追い出されて。物乞いでは生活していけないから、先輩は売春婦として働くことに。女子中学生が、家を失い、お金に困り、家族のために働く世界があるのか…と悲しくなりました。

同級生の男の子も、急に学校に来なくなったので、「どうして、学校に来ないの?」と聞いてみました。「家族に、ご飯を持ってくるためだよ。僕が学校でご飯をもらっても、おじいちゃんとおばあちゃんは、ご飯を満足に食べていないんだ。僕は、賢くないから、収入が高い仕事に就けない。そしたら、今の家族にご飯を持ってくることの方が、大切なんだ」と。

自分ができることで、家族に貢献する男の子。家族の食事が心配で、学校で勉強することを諦めてしまうのか…と、胸がキュッと苦しくなりました。

ータイの公立学校でも、学校に行ける価値を再認識するようになったんですね…

母親の責任は、引きこもりだった自分にある

しかし、私も学校に行けない環境に追い込まれてしまったんです。いつものように学校に登校した朝、校長先生に呼び出されました。「あなた、転校するの?」と問いかけられたんです。はじめは、意味がわからなくて、頭にクエスチョンマークが浮かびました。話をよく聞くと、母親が数日前に退学届を提出したそうなんです。校長先生と別れ、すぐにバスで自宅に帰りました。

子どもの学費を抑えたいと話す、ネグレクトの母親。日本で暮らす父親に相談し、「お母さんなんて、もういらない!」と言い切りました。
でも、押し寄せてきたのは罪悪感。
「もし、私が引きこもりにならなかったら…? 学校に通えていたら?」
私は、責任を感じ、母親を受け入れ、母と弟3人で別の地域に移住。そして、学校も転校しました。父親は、家族の生活費を稼ぐために日本に留まることを決断します。

ところが、転校先の学校で、三男がいじめに遭い、私の同級生が違法ドラッグを使用しているのを目撃。登校初日で、学校を退学しました。さらに、母親に借金があることが発覚。日本に帰国せざるを得ない状況でした。
それでも、勉強は諦めたくない!と強く願い、日本のインターナショナルスクールに直談判しました。一本一本、電話をして、支払える学費を伝え、入学を交渉したんです。
よく相談に乗っていただいた沖縄のインターナショナルスクールが入学を許可し、私と家族は、沖縄に移住することになりました。

15歳だから、家族だけで生活はできないんだよ?

ようやく勉強ができる。私はホッとしました。
しかし、沖縄に移住しても、状況は悪化していったのです。
育児放棄の状態が続き、父親との離婚が決まり、母親はどこかに行ってしまいました。

自宅が静かになると思った矢先、今度は里親保護団体の職員が、毎日訪れるようになりました。「果凜ちゃんは15歳だから、家の責任者にはなれない。弟3人を含めて、保護する必要があるんだよ」と、説明を受けました。しかし、ドアの鍵を閉めて、息を潜めて、ビクビクしてましたね。保護されたら、里親に引き取られる。弟たちを引き裂かないで…と、四六時中、心が落ち着きませんでした。私たちの状況を聞きつけた父の姉が、沖縄に移住を決断。弟たちを守ることができて、ほっとしました。

同時に、頑張るのに疲れてしまって、生きる気力を失っていました。
インターナショナルスクールに通っていましたが、自殺したいと考えていたんです。沖縄の毒へびに噛まれて自殺しようと、通学前や放課後に、ハブを探し歩いていました。
それくらい私は、追い詰められていたんです。

たくましい長男の一言

2度目に訪れた孤児院で、授業を受ける子どもたちと果凜さん

ー張り詰めていた緊張が解けて、すでに精神は崩壊していたんですね…

父親と離れ、異国の地で4人の子どもの未来のために奮闘していた母親の後ろ姿。やっぱり母親は、世界にひとりだけなんですよね。「大好きな母親がいないと、3人の弟が不幸になる」と思ったので、悲しかった。でも、母親は戻ってこないんですよ。周囲の大人やインドの子どもたちの言葉を思い出して、母親のいない弟たちの苦しみを補おうとしましたが、やっぱり気持ちは前向きになれなくて。すると、長男が声をかけてくれたんです。

「果凜がお母さんと話しているときに、何も言わなくてごめんね。でも、俺らもお兄ちゃんになったよ。だから、お姉ちゃんが思っているよりも、俺らの心配をしなくていいよ」と。私は、一気に解放された気持ちになりました。「母親がいなくなったから不幸になったんじゃない。タイから沖縄に移住して、家族がバラバラになったけど、幸せになれた!と言える生き方をしよう」と、心に決めたんです。

ーご兄弟が、果凜さんを支えてくださったんですね…。波乱を越えて、またポジティブさを取り戻せる果凜さんの強さ、尋常ではないです。

前向きになれたからこそ、インドの孤児院で、二度目のインターンをすることにしました。2019年、18歳の夏です。前回と同様に、日本語の先生として訪れた学校。また、キラキラと輝く子どもの瞳からは想像できない衝撃の事実が発覚します。「ここに来れなかったら、餓死してたの」。私は、いてもたってもいられません。すぐに、学校経営者に相談に行きました。

「1ヶ月の食費は、いくらですか?」。逆算すると、1食で15円が必要でした。「だったら、私が働こう」。そう思って、学校創設者に、話に行ったんです。

「日本で、義務教育を終えたら、ここで就職して働きます!」

しかし、拒否されたんです。

「何を言っているの?あなたは、日本に生まれたことを自覚しなさい。私たちが、一生欲しいと思うものを、あなたは持っているのよ。それを活かして、一回りも二回りも成長して帰ってきなさい」

そこで、気づいたんです。私は、目の前の人を助けるのに必死で、持続的に助ける方法を知らない。私ともうひとりが孤児院にご飯を届ける役割を担っていました。しかし、私たちが現地に半永久的に滞在しなければ、明日の子どものご飯はないんです。問題は、一時的に解決していくのではだめで、継続的にご飯を食べられるためにはどうすればいいのか、ということ。

しかし、当時の私は、解決できる手段を持ち合わせてはいませんでした。孤児院にご飯をとどけるためのお金を、稼げなかったんです。子どもたちが継続的にご飯を食べるためには、稼ぐ仕組みを作るをしかない。そう考えて、インターネットの広告で見かけた、アフリカ起業プログラムである「KOBE STARTUP AFRICA in Rwanda」に応募。19歳の夏に参加しました。

ー自分で、子どもたちのために資金を稼ごうと思われたんですね。

私は、ボランティア活動を継続することで、子どもたちに食料を届けようと考えていました。プログラムの参加者にも、「お金を稼いで海外で生活したい。そうすれば、空いた時間で、ボランティア活動ができる」と伝えていました。私は、慈善活動でお金をもらってはいけないと考えていたんです。

しかし、「ボランティア活動ではなく、事業として仕組みを考えてはどうか」と、ある参加者からソーシャルビジネスという考え方を聞きました。

ビジネスの手法を用いて、地域社会の課題解決を目指すのが、ソーシャルビジネス。インドの孤児院に、ソーシャルビジネスを立ち上げられれば、子どもたちを救える。私は、仕組みを考えられる人になりたいなと、強く思うようになりました。

ソーシャルビジネスの作り手になるために、19歳で始めたクラウドファンディングは、ルワンダの伝統工芸の技術を活かして、アクセサリーを作るというものでした。アクセサリーは日本で販売して、販売利益はシングルマザーが得る。仕事の無いシングルマザーの生活を支える仕組みを作ったんです。目標金額が116万円に対して、支援総額が160万円。

ーその年齢でクラウドファンディング、しかも160万円を集めきるって、新世代の申し子って感じですね。

「このビジネスは、成功させられる!」と自信を持ちました。
しかしその矢先、新型コロナウイルス感染症が世界規模で流行。アクセサリーを生産するための技術を伝えるためには、私ともう1人のプロジェクトマネージャーが現地に渡航する必要がありました。さらに、販売体制を整えるためには、新しい作り手を探す必要もあったんです。
アクセサリーの販売は、一旦、中断しました。

ーそこまでの準備が水の泡。きっと辛かったでしょう。

正直、悔しかったですね。
でも、それをバネに他のソーシャルビジネスを考えました。

ー本当に立ち直りが早い!

考えたのは、アフリカ産のコーヒー豆を、日本に輸入し、カフェで得た収入を、現地の農家に還元する仕組みです。

きっかけは、アフリカの起業プログラムで大学病院の看護師、ビアに出会ったことです。彼女は、農園の食料をシングルマザーの子どもに無料で配布していたんです。アフリカの子どもの致死率が下がらないのは、栄養不足。栄養価の高い農作物を家庭に供給することで、子どもの健康を支えていたんです。

しかし、新型コロナウイルス感染症の流行が拡大し、農園を経済的に支えていた国からの支援が打ち切りに。彼女は、農園の運営に困っていました。そこで、私は彼女にお金をとどける仕組みを考えました。

「困窮した農園を、経済的に支えてほしい!」と、寄付をただ呼びかけるだけではだめだ。なぜなら、支援者がお金を渡す仕組みでは、農園を継続的に支えられないからです。私が抜けたら、インドの孤児院で暮らす子どもに明日のご飯を届けられないのと同じように、支援金が継続的に集まらなければ、根本的な解決にはならないんです。

ー継続的な支援の仕組みが、カフェの経営につながるんですね。

「支援者が、お金を出してでもほしいと思う価値はどこにあるのか?」と考えたときに、ピン!と思いついたのは、コーヒー豆でした。コーヒー農園の経営者と、アフリカの起業プログラムで出会っていたんです。

ルワンダは内陸国なので、輸出入が盛んではない。そのため、年間何百トンも捨てられている。しかし、コーヒー豆の品質は、他国の豆と比較しても香りが香ばしく、味もスッキリとしています。そこに目をつけました。

コーヒー農園の言い値で、豆を買い付けし、日本のカフェでコーヒーを販売。売り上げの5%をビアの農園に寄付しています。

ー今後、果凜さんがやりたいことを教えてください。

得意なことで、好きなことで、さらに社会貢献につながることがしたいです。それこそが私にとって幸せなんです。具体的には、世界中の子どもたちが、自由に自分の未来を描ける社会をつくることなんです。

子どもたちが、目的意識を持って、課題解決に取り組める社会を実現したい。私自身がインドで見つけたように、学校の勉強にどんな価値をあるのかがわかると、自分でどんどん行動していけると思うんですよね。

ーこれからも行動力を武器に活躍される姿を楽しみにしています! ありがとうございました!

取材者:えるも(Twitter/ブログ
執筆者:津島菜摘(note/Twitter
編集者:杉山大樹(note/Facebook
デザイナー:五十嵐有沙
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