様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第976回目となる今回は、大下 真実(オオシタ マミ)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。
約1年半のキャリアブレイク期間を経て、現在は障がい者支援活動を行っている大下さん。学生時代に没頭したことやキャリアブレイク期間のエピソード、U-29世代へのメッセージなどをお話していただきました。
学生時代はピアノに没頭!周りと切磋琢磨する日々
ー簡単に自己紹介をお願いいたします。
大下真実です。新卒で入った会社で携帯ショップ店員として1年半ほど働いた後、1年半ほどは定職に就かずにいろんな挑戦をし、生き方を模索していました。
現在は、福祉事業を展開している一般社団法人暮らしランプで、正社員として働いています。就労継続支援B型と呼ばれる事業所に所属しており、様々な理由から一般就労の難しい、10代〜70代までの幅広い年代の方々とともに活動しています。アート活動をしているみなさんのモチベーションアップや、より快適に過ごせるための施策づくりをしていますね。
この仕事には絶対的な正解がないので、日々試行錯誤しながら様々な調整をしていくのが難しくもあり楽しいところでもあります。
1年半ほどキャリアブレイクしていた頃は自分自身にフォーカスが向いていましたが、今は私と関わる周りの人たちに目が向くようになりました。
ー学生時代のエピソードから教えていただけますか?
中学生までの頃は委員長をやったり、勉強を頑張ったりと楽しく過ごしましたね。高校では、音楽教室の講師をやっている親の勧めで、音楽学校に入学しました。
中学時代は「ピアノを弾けるなんてすごい!」という環境だったのに、高校ではピアノが弾けて当たり前で、毎日練習をする学生に囲まれて、環境ががらりと変わりました。ピアノはそれまで大好きだったのですが、周りとのレベル差を痛感したり、評価される環境が苦しくなり、学校に行けなくなってしまったことも。
そんな中、転機になったのは高校1年生のときの演奏会です。あまり練習せずに本番に臨んだため、演奏途中で暗譜が飛び、止まってしまったのが悔しくて。ピアノの先生から笑われたり、親からは「いつまで泣いてんねん」と怒られたりして、見返してやる!と思って。
その後は生活も一変し、朝から晩まで練習するようなピアノ漬けの日々になりました。兼ねてから「学校に行きたくない、ピアノがつらい」と相談していた友人たちの支えもあって、練習を頑張れましたね。
ー悔しい経験をバネに努力したのですね。
はい。その後2年間は、一心不乱に練習に励みました。
高校3年生の頃には、大きなホールでの公開実技試験で、1曲10分ほどの長い曲の演奏をしようと挑戦を決めました。初めてYouTubeでその曲を聴いたときに涙が出るほど感動して、この曲を弾くぞ!と決意して。
周りから「絶対に無理だ」と言われたくらい難しい曲でしたが、その1曲のために半年近く練習を頑張って、試験当日にやっと初めて納得のいく演奏ができましたね。
上位数名しか選ばれない次の演奏会の機会もいただけて、挑戦してよかったなと感じました。それまではこんなにも1つのことに没頭する機会がなかったので、自分の成長を実感することができて。こんなに頑張れるんだと自信にも繋がりました。
今でも、あの演奏中の景色や気持ちは忘れられないですね。「ミスしないように」と怖がるのではなくて、「こんな演奏にしたいな」という前向きな気持ちで演奏できたことを覚えています。これまでの高校生活とピアノを重ねながら、穏やかな気持ちで弾ききりました。
この経験から、1つのことをコツコツと続ける大切さに気付いて、何かを始めたら諦めずに納得するまで続けたいと思うようになりました。
素敵な人たちとの出会いが、今の私を作ってくれた
ー大学でもピアノを続けたのでしょうか?
自分で演奏するというよりも、人に音楽の良さを伝えていきたいと思い、大学では音楽教育や音楽療法を学ぼうと決めました。
サークルの人たちと過ごす時間やピアノを弾く時間も持って充実した生活を送っていたのですが、サークル内でトラブルが起こったり、突然ピアノとも上手く向き合えなくなったりと、なんだか色々しんどいことが重なってしまって。あとは、音楽教師になる夢もあったのですが、実習で実際に現場に入ったときに、なんだかイメージと違うと思ってしまったんです。
だんだん自分から何もなくなってしまっていることに気付き、つらかったですね。ただ、このタイミングでいろいろな人たちとの出会いがありました。
ーどんな方との出会いだったのでしょうか?
地域の場づくりなどをされている藤本遼さんという方にTwitterで偶然出会いました。藤本さんのnoteでは、人間の複雑で繊細な感情もうまく言葉で表現されており、それが当時の私の悩みとも重なって感動して。
私はそれまでずっと想いを言語化するのが苦手だったのですが、藤本さんのように表現することもできるんだと感銘を受けました。
その後は連絡を取って、実際に藤本さんに会えることになって!芸能人に会いに行くような感覚で、すごく楽しみでした(笑)。
お会いしたときは、実際にお会いできたうれしさと、上手く自分の想いを言葉で伝えられないもどかしさが混ざり合って、思わず泣いてしまいました。ただ、このまま藤本さんと関わり続けたら、こんな私でも変われるかなと思ったんです。
その後はインターン生として活動することになり、藤本さんが中心となって企画されたプロジェクトの運営や、インターン生の受け入れ窓口を担当させていただいたりしました。
多様な方々と関わる中で、どこの所属の誰、ということではなく、個人個人で人とつながることができたり、みんなでひとつのものを作り上げていくという経験は、とても豊かで楽しかったですね。
この頃はバイト先の先輩に紹介してもらった会社に内定をもらってはいたものの、藤本さんの活動も一緒にさせていただいていました。
ー新卒での就職はどうだったのでしょうか。
ベンチャー企業に就職して、携帯ショップの店員をやっていました。実際に働き始めると違和感もあって。
例えば、目の前のお客さんにはAプランが合っているのに、自分の売上のためにはBプランを推さなくてはならないなど、実績重視の環境にモヤモヤすることも多かったです。実績を伸ばしていくことは楽しくもありましたが、自分の感性に蓋をして、実績のために動くことは本当に私がやりたいことなのか?と自分で自分に問いかける毎日でした。
自分の心に正直になれていたのは、ピアノを通して自分の心と向き合えていたからだと思います。ピアノを弾いているとき、心境が明らかに音にも表れていたので、自分の心には敏感だったかもしれません。
このまま違和感を抱いたまま仕事を続けるか、それとも退職するか悩みましたが、それぞれでメリットデメリットを全部書き出してみたり、これから先の人生を想像したときに、辞める方向へと気持ちが傾いている自分に気づきました。
ただ、中途半端なところであきらめたくはなかったので、貯金額の目標を達成する、営業成績で1位をとるなど、自分の中でのラインをすべてクリアした段階で辞めることに。すべての目標を達成したとき、未練なく卒業というような形でスパッと辞めました。
ー転職活動はしなかったのですか?
一旦肩書きも何もない自分として過ごしてみようと思い、、あえて次は決めずに辞めました。退職後の1週間は天国でしたね(笑)。2週間目から、この後どうしようと焦りが出てきました。例えば美容院のカルテに「無職」とチェックをするのもなんだかウッとなって……自分が何者でもないことに不安や怖さを覚えました。
ちょうどこの頃に、北野貴大さんというキャリアブレイクに肯定的な方と出会い、座談会などに参加しました。この出会いのおかげで、その後はキャリアブレイク期間がマイナスに感じない環境で過ごせましたね。自分が興味のあることはとにかくやってみようと、週1〜2回ピアノの先生をしたり、島にインターンに行ったり、気になるカフェで働いてみたり、間借りのカレー屋さんをしたり……。いろいろなチャレンジをしました。
ただ、いろんなことに挑戦しすぎて、この先の進路を1つに選べないかもしれないと苦しくなることもあって。そんなときは、趣味レベルでいいものとお仕事としてもやってみたいことを整理し直してみたり、フリーランスのような働き方か、ある程度時間や仕事内容の枠組みがある会社員としての働き方のどちらが心地よいかなど、小さなところから選択を始めようと心がけました。当時は神戸在住だったのですが、京都に住みたいという思いもあり、「京都移住計画」に掲載されていた現職の求人記事を見て興味を持ち、いまの勤務先に決めました。
現職の選考では、1年半の空白期間を肯定的に認めてくださいました。また、「無理のない範囲で来てもらえたらいいよ」と勤務時間を調整してくださったり、事業所を利用されている方々も笑顔であたたかく出迎えてくださったりと、自然に社会と接続し直す第一歩を踏み出すことができました。
仕事するぞ!と意気込んで働くというよりは、日常からひとつなぎの場所として過ごせるような会社だなと思っています。
もしも空白期間がなかったら「社会人ってこんなものか」と諦めつつ働いていたかもしれません。安定した生活や高い給料も大事ですが、人との関わりや日々の彩りなど、自分が働く中で大切にしたいことに気付けた期間だったと思います。