難しさとやりがいを感じながら、好きなことで生きる。LIFE IS ROSE 稲川雅也

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第870回目となる今回は、一般社団法人『LIFE IS ROSE』の理事として組織の運営をする傍ら、スナックの責任者兼店長業務もこなす稲川雅也さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

「海外渡航の経験を通して、生き方を見直すようになった」と語る稲川さん。逆境でも行動し続け、、時代に順応してきた稲川さんに、好きなことをして生きるために学んだことを伺ってきました。

理想の大学に合格するも現実を突きつけられ落胆

ー簡単に自己紹介をお願いします。

稲川雅也と申します。1995年生まれの27歳です。現在は一般社団法人 LIFE IS ROSEの理事をしています。

主な仕事は銀座8丁目に開いたスナックの運営責任者兼店長業務です。昼間は団体の業務もあるため、デスクワークもしています。

―スナックのコンセプトを教えてください。

コンセプトは「多世代コミュニケーションスナック」です。男女関係なく日によって違う人が1日店長を担当し、20〜60代までの幅広い世代の方が利用しています。様々な世代が交流しながらお酒を片手に語り合う場所となっています。

ー昼の活動について教えてください。

埼玉の川越でクラフトビールを製造するメーカー『COEDO BREWERY』とコラボして、無農薬のバラを材料にしたクラフトビールを作っています。また、ソーシャルグッドアクションを行うNPO団体等のアドバイザーなどもしています。

―LIFE IS ROSEとビール作り、スナックなどの関係性を教えてください。

バラのビール制作に至ったのは、「バラ色の人生を歩める人を増やす」という弊社のコンセプトからです。ビールなら、スナックでも提供できるので相性もよいです。

このビールは「本音で語り合いたいときに飲むビール」として販売しています。スナックを通して、人が出会う空間を提供できればよいなと。ちなみに収益の一部は、提携するNPO団体に還元されるようになっています。

人と人が出会ったり仲間と楽しくお酒を飲んだりした時間が、助けを必要としている人の明日につながるのです。

―学生時代のことを教えてください。

大学受験を必死に乗り越え、第一志望の大学に入学することが出来ました。大学では多様な価値観を持つ仲間と繋がることができ、熱の入った授業が受けられると輝かしい未来を想像していました。

―大学入学してからのことを教えてください。

自分が思い描いていた理想とかけ離れていて、落胆したのを覚えています。友達もあまりできず、授業の形式も自分が思っていたものとは違いました。今思えば、自分が上手く順応できなかったことが大きな原因だと思っています。

理想と現実のギャップに心と身体が追いつかない状態で、入学してすぐ大学に行けなくなってしまいました。このまま大学に行かなくなって、人生どうなるのだろうと考えて鬱気味になってしまったこともあります。

ー当時はほかにどのようなことを考えていましたか?

大企業に就職する以外の選択肢を知らず、当時は卒業すらできない可能性があったため「人生終わったな」と思っていました。同時に「なにか自分を変えなければ」と感じていました。

初の海外渡航をきっかけに既存の価値観が覆される

ー海外渡航のことをお聞かせください。

大学1年の夏に1人で海外へ初渡航しました。日本から逃げる形で訪れたのは「フィジー共和国」です。フィジーでは学歴や地位にとらわれず、幸せに生きる人々と出会いました。

当時は中高大と進み大企業に就職するのが普通だと思っていたため、フィジーに渡航してからは、その「普通」が馬鹿らしく思えたのです。現地では人によって生活スタイルが異なっていました。その中でも衝撃をうけたのは自給自足で生活している人や、1週間生きられるだけのお金しか稼がない人たちです。

現地人の生活スタイルを見て「自分ももっと自由に生きてよい」ことを学びました。自身の悩みの小ささを実感してからは、より広く世界について知りたくなり、東南アジアをまわった後はアフリカにも行きました。

―どうしてアフリカを選んだのですか?

フィジーのように、日本とまったく価値観が違う場所を探して最終的にたどり着いたのがアフリカでした。東南アジアで旅慣れしたため、アフリカに行く不安はありませんでした。大学の長期休みを使って年に2回訪れ、大学中退後も繰り返し行っていましたね。その中でタンザニア教育支援団体を立ち上げ、現在も東京支部と大阪支部の学生たちが運営してくれています。

―アフリカのどのような点に惹かれたのですか?

人の温かさです。現地に行くと皆とても親切にしてくれ「無償の愛」を感じました。このことがきっかけでアフリカのことが好きになり「この人たちと人生を共にしたい」と思うようになったのです。

―アフリカ関連のプロジェクトを立ち上げたそうですね。

現地で学校を建てるプロジェクトを立ち上げたり「東京アフリカコレクション」というアフリカをテーマにしたファッションショーを開催する団体を法人化したりしました。このショーは、私が惚れた「かっこよいアフリカ」をもっと日本人に知ってもらうために開催したものです。

現地からデザイナーやモデルを日本に誘致して日本のモデルたちとコラボする形でショーを開催。当時は外務省やJICAの協力も得ながらの開催でした。ちなみにプロジェクトに専念するために、大学を中退したのはこの頃です。

―中退できたのはどのような心の変化があったからですか?

海外生活を通して「生き方」や「働き方」はもっと多様でよいと思うようになったからです。私がやりたい事業は、大学の看板がなくてもできますからね。

すべてリセット。コロナをきっかけに生きがいと職を失う

ー24歳のときに起きた出来事について教えてください。

アフリカの事業を法人化して3年が経ち、毎年少しずつ事業を拡大させていたときでした。コロナの感染が拡大して、すべての事業ができなくなったのです。短期間で生きがいと職を失いました

―当時はどのように行動しましたか?

このままではダメだと思い「海外×オンライン」の事業を始めました。とはいえ、私がやりたいのは海外の魅力を生で知ってもらうことであるため「これが自分のやりたいことなのか」と疑問をもちました。当時は葛藤の日々だったと思います。その後、仲間と一般社団法人を立ち上げ、これまでしてこなかったクライアントワークに携わるようになりました

以前は自分の好きなことだけしかやってきませんでした。クライアントワークの「人から求められた仕事をする」経験によって、生まれて初めて社会勉強をしたのです。自分の苦手なことに向き合ったり、客観的に見ると自分の得意分野であることも見えたりしました。コロナを通して、好きなことだけしていたら学べなかったであろうことを学べました。

―般社団法人の活動をする上で学んだことを教えてください。

アフリカのことわざで「早く行きたければ一人で行け、遠くへ行きたければ皆で行け」というものがあります。私の場合、20代前半はやりたいことを1人でしていたため、スピード感がありました。

しかし、最近は「組織の動き方」を学ぶにつれ、長い目で見ると仲間と一緒に行動するほうが1人で行動するよりも高い成果をあげられるのではないかと考えられるようになりました。