好奇心は自分の内側にある。金田謙太が語る、自分との向き合い方とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回は、withly代表の金田謙太さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

幼いころからさまざまな経験を通し、自分と向き合ってきた金田さん。好きなことや、純粋な気持ちを見つけ、自分らしく生きるための想いを語っていただきました。

好奇心を持ちつづける

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。

金田謙太です。現在はwithlyという会社を経営し、5期目となります。会社の事業は2つあり、ブランディングデザイン事業と、新規事業の伴走支援を手掛けております。それから会社の活動以外にも、個人で創作活動を行っています。

ー小学生、中学生のときに熱中していたことがあれば教えてください。

当時はさまざまなスポーツに取り組んでおり、特にバスケットボールに熱中していました。それから、僕は転校生が来るのが大好きで、必ず自分から声をかけに行っていたのを覚えています。

大人になって「あのとき最初に声をかけてくれたね」と当時の転校生から言われることもあり、多くのことに興味を持つ子どもでした。

ー純粋に、当時の金田さんは好奇心で様々なものに触れていたのでしょうか?

小さい頃は何も考えずに好奇心で動いていました。大人になると、社会からの見られ方を気にして、ブレーキがかかりやすくなります。現在は「やってみなくちゃ分からない」を常に自分に言い聞かせ、好奇心にストップがかからないようにしています。

16歳でオーストラリアに留学

ー留学を決意したきっかけを教えてください。

中学2年生のとき、友人の紹介でアメリカ人の方と話す機会があり、拙い英語でもコミュニケーションが取れたことに感動しました。

その経験から、海外の学校と提携している学校へ進学することを決意し、オーストラリアと交流がある高校に進学して、語学留学に至りました。

ーどのくらい留学されていたのですか。

そのときは2ヵ月間の短期留学でした。

ー印象に残った出来事はありましたか。

衝撃的だったのが、裸足でショッピングモールに入ることと、水着でバスに乗っていたことです。日本では見たことがない景色ですし、今までの概念を覆されました。日本の枠で生きていたらまずいなと危機感を抱く留学でした。

ー帰国後、モチベーションが下がった時期があったそうですが、何があったのでしょうか。

日本は良くも悪くも和を重んじる文化があります。オーストラリアで良いと思ったことや海外の文化を共有できなかったり、受け入れられなかったりして、自分の中で葛藤がありました。

高校の授業中に、僕はお弁当を食べたことがあります。先生の授業がつまらないからではなく、お腹が空いていたら力が出せず、集中力も続かないと思ったので食べました。笑

温厚な先生の授業中に弁当を食べて叱られたことが、学校で話題になりました。いけないことをしてしまったという思いはありましたが「どうして弁当を食べてはいけないのですか?」と先生に聞いたのです。

そのとき明確な理由はなく、「それがルールだから。」という返答に、オーストラリアで抱いた危機感が蘇りました。理由もなくルールだからの一言で、いろいろなことが止められていると悟った瞬間でした。

20歳でフロリダへ移住

ーフロリダへ移住した理由を教えてください。

高校卒業後、シアトルやワシントンにいましたが、僕がイメージしていたアメリカと少し違っていました。もっと多様なルールや文化のある地域がないかを探し、フロリダに移住しました。

フロリダはアメリカのなかでも文化が多様です。例えば、授業中にお祈りに行く人がいても、人それぞれに文化があるので、途中で帰ったとしても先生が怒ることはなく、互いに責め合うこともありません。

フロリダで生活したことで、日本で感じていた窮屈さから解放されました。

ー帰国後はDeNAに就職したとお伺いしました。DeNAへの就職を決めた理由を教えてください。

大学を卒業する年にトランプ大統領が就任し、ワークビザの取得が難しくなりました。ニューヨークの企業から内定をいただいたものの、国がビザを出せない状況でした。

アメリカには5年半いましたが、帰国を余儀なくされてしまって。帰国後に外資系企業に勤めることは、他の人とプロセスが同じになってしまうので、それでよいのかと考え始めました。海外の知見を日本に活かしたかったのです。

日系企業で日本に還元できるものを探しはじめたところ、DeNAから内定をいただいて。優秀な人に囲まれた環境で働き、良いものはすべて自分のものにするのだと決めて入社しました。

DeNAではプロフェッショナルに触れ、働くうえで大切なマインドセットができました。DeNAで学んだ「論理的に考えること」は、現在の基盤となっています。

グループ会社への出向がありましたが、DeNAには2年間在籍しました。

ーご自身でも事業を立ち上げていますが、これはDeNAを退職された後のことでしょうか。

実は在籍時と被っており、25歳でDeNAに所属しながら、事業を立ち上げました。きっかけは渋谷のスクランブル交差点で、思い出を片手にスマホで自撮りをしている外国人を見かけたことです。

何十時間もかけて日本に来たにも関わらず、スマホの自撮りだけで自分の国へ帰るのはもったいないなと感じたのです。

より思い出に彩りを与えることができるのではないかと思い、観光客向けの撮影事業を立ち上げました。1年間で42ヵ国ものお客さまと関わり、様々な文化に触れて生活をする毎日でした。

ーDeNAを退職して、次のステップに行こうと考えるようになったきっかけは何だったのでしょうか。

何かを決めるにあたって、規模が大きな会社だと、どうしても人を介する回数が多くなってしまいます。ピュアな思いを会社で表現することが難しかったのです。

誰かの承認を得てから通すのが嫌で、自分の思いをそのまま表現するため、起業しました。

ー現在行っている事業内容はイメージできていたのでしょうか。

起業当時、事業内容はまったく考えていませんでした。ブランディング事業は、DeNA在籍時の思考が影響しています。ロジカルに考えることは重要ですが、その一方で、窮屈さがあります。データで語れない想いをより表現するために、ブランディング事業を立ち上げました。

新規事業の立ち上げも、企業の想いに寄り添えるように、提案を行っています。