ロービジョンフットサル選手の中澤朋希に聞く、見えないからこそ見えた景色とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第626回目となる今回のゲストは、ロービジョンフットサル選手として活躍されている、中澤 朋希(なかざわ ともき)さんです。

難病が発覚してからロービジョンフットサルと出会い、夢をもつに至った経緯について幼少期から振り返って伺いました。

日韓ワールドカップをきっかけにサッカーを始める

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。

ロービジョンフットサルという、弱視者向けのフットサルをしている中澤朋希です。6年前からロービジョンフットサルを始め、現在は選手としての活動だけでなく、学校授業やサッカーイベントも行っています。本日はよろしくお願いします。

ーロービジョンフットサルの特徴を、もう少し詳しく伺いたいです。

ロービジョンフットサルは、視覚障がいの中でも弱視に該当する選手4人と、晴眼者であるゴールキーパー1人の5人で行います。

弱視といっても「視力障害」、「視野障害」、「色覚障害」と、様々な見え方の選手がいるのです。

視覚障がい者のサッカーと聞くと、アイマスクや音の鳴るボールを使うブラインドサッカーをイメージされる方が多いと思いますが、ロービジョンフットサルではそういった装具は使わず、通常のフットサルコートやフットサルボールを使用します。

ー本日は、中澤さんがロービジョンフットサルを始めるに至った経緯や、現在の価値観が形成されたきっかけを伺えればと思います。子供の頃はどのような経験をしてきましたか?

5歳の頃、ちょうど日韓ワールドカップが日本で開催されていて、その試合をテレビで見て「サッカーをやりたい!」と思い、幼稚園からサッカーを始めました。

小学校ではサッカーだけでなく、テニスや水泳、空手もやっていましたが、なかなか続かなくて。自分がやりたいのはやっぱりサッカーだと思い、中学では私立の中高一貫校で勉強を行う傍ら、サッカーを続けていました。

ー中高一貫校では勉強にサッカーにと、忙しく過ごしていたのですね。

中学の頃はサッカー部に入ったのですが、高校では勉強中心であまり部活ができるような状況ではありませんでした。

とはいえスポーツは好きだったので、部活に入れないのであれば自分でチームを作ろうと思い、高校内でフットサルチームを作って友達と練習して、自分たちのペースで大会に出ていました。

ーなぜサッカーではなくフットサルのチームを作ったのでしょうか。

サッカーの場合は最低でも11人は必要ですが、フットサルであれば5人から始められるので、フットサルを選びました。

突然難病に。それでも「自分にはサッカーしかない」と思う

ーご自身でフットサルチームを立ち上げて活動していた高校時代。印象に残っている出来事はありますか?

高校2年生の1月、冬休み明けに数学のテストを受けていたときに、「テストの残り時間はどれくらいだろう?」と思って時計を見ると、数字がぼやけていて……。

そのときは「視力が落ちたんだな」と思っていたので、眼鏡かコンタクトを作るために眼科へ行って視力を測ると、これは異常だと言われました。

大学病院や大きな病院へ行くように案内され、検査入院を経て、視神経の難病「レーベル遺伝性視神経炎症」であることがわかったのです。

ー突然視力が落ちたのでしょうか。

そうですね。模試から1か月後に、1.5あった視力が0.01になりました。高校2年生の2月なので、半年後には願書を出さなければいけない時期に難病が発覚。

もともと進もうと思っていた建築のコースは視覚障がいがあると難しいので、進路を変更せざるを得なくて将来が不安でした。

ー不安を抱えている中で、どのように立ち直ったのかお聞かせください。

高校2年生の3月に、たまたまテレビで見ていたサッカー日本代表の試合で選手たちがものすごく輝いていて。その姿を見て、「もう一度サッカーがやりたい」と思いました。

当時、友達や家族の顔、教科書や黒板の字が見えないなど、日常生活が見えないものであふれていて将来に不安を感じていましたが、休み時間は友達とサッカーをしたり、サッカーについて話したりすることが多くて「やっぱり自分にはサッカーしかない」と思ったのです。

徐々に前を向いていけるようになり、障がいと向き合うきっかけとなったフットボールに恩返しをしようという新しい夢ができました。

ー高校生の頃、難病のことは先生やお友達には話していましたか?

障がいについて伝えることで偏見が生まれるのではないかという怖さがあり、3月までは1人の友達を除いて伝えていませんでした。

ただ、唯一伝えていた友達自身も受験があるので負担をかけたくないと思い、学校の先生を通じてみんなに伝えてもらったのです。すると、思いのほか偏見はまったくなく、周りの友達や先生にたくさん助けてもらいました。ただの私の誤解でしたね。

ロービジョンフットサル選手として一流を目指す

ー高校時代に進路変更を余儀なくされたということでしたが、大学ではどのような進路に進んだのでしょうか。

将来が完全に不透明になってしまい不安な状況が半年間くらい続いていたときに、高校の校長先生から、日本に唯一視覚障がい者だけが通える国立の大学があると教えていただきました。

建築コースへ進むのは難しく、やりたいことがなくなったのでとりあえずそこへ行くことを決意。行ったら何かが見つかるんじゃないかという気持ちでした。

学科は、鍼灸と情報システムと理学療法の3つがあり、当時から発展していて今後も発展していくであろう情報システムの学科へ進むことにしました。

ー実際に大学へ進学し、いかがでしたか?

大学でロービジョンフットサルのサークルがあると知って競技を始めたので、大学進学は私にとって大きな転機でした。

大学1年生の頃にサークルへ入り、2年生で埼玉の社会人チームへ移籍して1年間活動し、3年生でまた大学のサークルチームへ戻って2年間プレー。大学4年生の頃に自分のチームを立ち上げる準備をして、社会人1年目のタイミングで社会人チームを作りました。

ー埼玉の社会人チームへ移籍した背景について教えてください。

埼玉のチームにすごくリスペクトしている選手がいて、その方たちと一緒にプレーしたいと思ったのが大きなきっかけです。

ーどのようなところをリスペクトしていたのでしょうか。

まず、フットサルに対する姿勢や想いをものすごく強く感じましたし、実はフィールドの選手は私と同じ病気だったのですが、そうとは思えないほどプレーがうまくて。

その選手に学んで、その選手を超えようという想いで埼玉へ移籍し、学んだことを大学のチームへもち帰りました。

日本と世界での “障がい理解の差” を実感する

ー社会人1年目でご自身のチームを立ち上げることになった経緯について、お聞かせください。

20歳の頃、日本代表の強化指定選手に選んでいただき、スペインへ遠征したのがきっかけです。いろんな国の選手や監督、地域の方と話していく中で、障がいに対する意識の違いを強く感じました。

このまま何もせずに過ごせば、日本と世界の差はどんどん広がっていってしまうと思って。帰国後にフットサルチームを通じて障がい理解にコミットメントしたいと思い、社会人1年目のタイミングでチームを立ち上げました。

ーそこで感じた意識の違いとは?

ヨーロッパでは、健常者と障がい者を区別しないのです。ただ目が見えづらいだけ、ただ車いすに乗っているだけで、それは障がいではないという感覚。

例えば、スポーツが苦手な子や、勉強が好きじゃない子がいるように、苦手なことはみんなでカバーしていけばいいという文化でした。

ーヨーロッパのように、障がいは多様性のうちの1つという認識を広めていくために、ご自身のチームを立ち上げたのですね。

そうですね。チームの設立以外に、一般の学校で授業をして障がいの理解を深めています。

将来の日本を創るのは今の子供たちで、子供たちが変われば日本の社会も変わると思うので、学校授業で子供たちと触れ合うことで子供たちの意識や認識を変えていきたいですね。

日本で障害がある方は約936万人いて、実は日本の名字ランキング1〜7位を総計した数と同じくらいなのです。周りに佐藤さんや鈴木さんがいるように、障がいがある方は意外と身近にいると知っておくだけでも、意識は変わるのかなと思います。

ー子供たちと触れ合うことで、何か変化はありますか?

最初は子供たちが純粋な好奇心で、目の前で指を何本か立てて、「これ何本?」としてきました。ただ、翌年も子供たちから「中澤選手にもう一度来てほしい」と要望があり、再度授業をしたときに、子供たちの姿勢が一変していたのです。

1年前は「これ何本?」と言っていた子たちが、「駅の階段の手すりに点字があるんですよね」「硬貨の横のギザギザで種類を判断しているんですよね」と、自主的に勉強した内容を報告してくれて。たった90分の授業でも、与えられる影響はあると実感しました。

ー学校授業をするうえで、気をつけていることはありますか?

障がいの伝え方を間違えると、「かわいそう」という同情につながってしまうので、言葉選びには細心の注意を払っています。

日本中の人が、夢に向かってワクワクできるように

ー社会人になってから、転機となる出来事はありましたか?

昨年の7月に、フットサル元日本代表選手と一緒にLiROADという全国サッカーイベントを立ち上げました。

「フットボールを通じて子供たちの明るい未来への道標になる」という活動理念のもと、障がいの有無に関わらずすべての子供たちが一緒にボールを蹴り、交流する機会づくりを全国で実施しています。

7月にクラウドファンディングで資金を集めてから活動を始めたので、まだ1年も経っていないですが、まずはフットサルを通じて障がいを知るということが広がった半年間でした。

ー中澤さんの今までの経験を振り返って、29歳以下の世代に伝えていきたいことがあればお聞かせください。

やっぱり子供たちには、夢に向かってワクワクしてほしいです。私自身、夢に向かってものすごくワクワクしていますし、ワクワクしていると夢は叶うと思っていて。

例えば、テストで100点を取りたいという夢があったとして、「また宿題出たのか」「早く授業終わらないかな」という気持ちで取り組むのと、「また宿題出た、ラッキー」「もっと授業したい」という気持ちで取り組むのとでは、達成スピードは違うと思うのです。

ー子供だけでなく、大人でもワクワクしていない方はいると思うのですが、どうすればワクワクすることを見つけられるのでしょうか。

いろんな方と出会っていろんな話を聞いたり、いろんな本を読んだりすると、価値観や夢を見つけるきっかけになるのかなと思います。

ー中澤さんが今まで取り組んできたロービジョンフットサルについて、お伝えしたいことはありますか?

私自身、フットボールのおかげで障がいと向き合ってこれたので、フットボールの可能性はとても大きいと感じています。

私は障がいを通じて、サッカーやフットサルはボール1つあれば誰でもできるということを知れたので、フットボールを通じて子供たちに還元していきたいです。

ー最後に、中澤さんの今後の夢についてお聞かせください。

7年前に難病が発覚してから、葛藤して苦しんだ時期もありましたが、見えないからこそ見えた景色もありました。

いろんな景色を見てきた中で、今はロービジョンフットサルで世界一になること。また、子供たちに夢に向かってワクワクしてもらえるよう、学校授業や全国でのイベントを継続していくことが夢です。

ー中澤さん自身がご活躍されるだけでなく、子供たち、ひいては社会に影響を与えていくのがとても楽しみですね。本日はありがとうございました。中澤さんの今後のご活躍をお祈りしています。

取材:ともTwitter
執筆:もりはる(Twitter
デザイン:高橋りえ(Twitter