様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第533回目となる今回は、カンボジア、スリランカのサッカープロリーグでプレイされてきた林遼太さんをお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。
自らの実力ではJリーグには及ばないと自覚しながら、サッカーを続けること以外考えられなかったという林さん。そんな時に目を向けたのがアジアの海外リーグでした。今しか出来ないことを人生の最優先事項と捉え、ひたむきに突き進む林さんの価値観に迫ります。
強さではなく楽しさを求めてきたサッカー人生
ーまずは自己紹介をお願いします。
26歳(インタビュー当時)のサッカー選手、林遼太です。現在は香港のプロリーグのチームに加入する手続きのために一時帰国していますが、つい最近まではスリランカに住んでいました。
ー海外のチームに在籍されていたのですよね?ご経歴を伺えますか?
一番最初はカンボジアで2年ほどプレイしていました。ケガのためにクラブを離れることになってしまいましたが、1年ほどのリハビリを経て、今度はスリランカのクラブでプレイすることになったんです。
しかし、コロナ禍のためにスリランカのサッカーリーグでは試合数が激減しています。満足にプレイできない状況が続いている中、香港のクラブから誘いがあり現在に至っています。
ー林さんとサッカーの出会いはどのようなものだったのでしょうか?
始めたのは6歳の時です。日韓ワールドカップでサッカー熱が高まっていた時期でもありましたが、たまたま通っていた幼稚園にサッカーチームがあったから、というのが本当の理由ですね。
負けず嫌いな性格だったので、先に始めていた他の子たちに負けないように必死になっているうちにサッカーにのめり込んで行きました。
その後も小中学校ではクラブチームでプレイし、高校ではサッカー部に入りました。
ー高校ではどのような経験をされましたか?
その後の大学や海外リーグで、自分が自信をもってプレイし続けられる軸を見つけられた時期でしたね。
高校生のころから、自分は他の選手に比べれば下手だという自覚があったんです。監督には「誰にも負けない武器を作れ」といわれました。武器を作ることで、自分よりもレベルの高い選手と張り合えること教えてもらったんです。
今でも得意とするヘディングや空中戦は、この時に身に着けました。
ー大学はどのように選ばれたのですか?
法政大学の付属高校に通っていたため、部活のセレクションを受けるチャンスを得られたんです。本当ならスポーツ推薦でしか入れないような部だったので、周りはレベルの高い選手ばかりでしたね。
練習に励みましたが、ほとんどの期間はBチームでプレイしていました。正式な試合に出れたのは4年間で半年程度でしょうか。ただ、それが嫌だということはまったくなかったんです。
もちろんトップチームに入って勝ち負けにこだわることもサッカーの醍醐味だと思います。しかし、Bチームでリラックスしてプレイすることでサッカーのおもしろさをあらためて知ることができました。
サッカーを続けてきてしんどいと思ったことは一度もありません。どんなにつらくても投げ捨てたくない感覚というのがあるんです。それがサッカーのおもしろさでしょう。
うまさは関係ない。サッカーを続けたいからこそ選んだ海外リーグ
ー海外のクラブでプレイしようと考えた理由は何でしょうか?
大学の先輩が東南アジアのプロリーグでプレイしていて、インスタグラムを通じてその活躍を追っていました。現地の人との交流を楽しんでいる姿に、こんな生き方もあるのかと感銘を受けたのです。何よりどこの国にもサッカーはあるんだということに気付かせてくれました。そこから、海外にはどんなサッカーチームがあるのかというのを調べるようになったんです。
大学在学中は実際に海外へ行く機会も増えました。フィリピンのセブ島では、ホテルの名前も忘れて一人迷子になってしまったのですが、現地の人が親切に道を教えてくれて事なきを得たこともあります。
海外へ行く度に、こうした場所でサッカーをやってみたいと思うようになっていったんです。
ーJリーグに行こうとは思いませんでしたか?
正直、自分の実力ではJリーグのセレクションを突破することは難しいという自覚がありました。しかし、自分はまだサッカーに本気になれていない、まだまだサッカーを続けるべきだという考えが頭の中を占めていたんです。
就職はいつだって出来ますが、体が資本であるサッカーは今しか出来ない。そう思い至った時に、海外でプレイすることを決意しました。
ーどのようにしてプレイするクラブを探したのでしょうか?
最初に契約したカンボジアのクラブは運命的な出会いでした。大学4年生の時、プレイするクラブを探す前に、現地の雰囲気を調査したいと思って海外への視察を計画したのです。
行き先をカンボジアに決めたのは、ただアンコールワットが見たかったから。その観光の途中で現地のクラブに連絡を取ってみたところ練習に招いてくれたのです。そのまま話が進み、帰国するころには契約が決まっていました。
ーカンボジアのサッカーは日本に比べどうでしたか?
気候の違いなどはありますが、それよりも現地の人達が醸し出す空気感に独特なものを感じました。サッカーのレベルよりも、むしろそうした空気の違いを味わえることが海外でプレーする楽しさでしょう。
プレイする環境も日本ほど整備されていませんでしたが、泥臭いプレイスタイルの自分にとっては、そうした環境のほうが合っている気もしました。
ーカンボジアでは何年プレイしましたか?
2年ほどです。ある時、試合中に前十字靭帯を切るケガをしてしまいました。復帰するまでに最低半年はかかるケガです。契約期間の満了も近づいており、更新は難しいだろうと判断し、帰国してリハビリに専念することにしました。
ー復帰出来るのかという不安はありましたか?
ケガで落ち込んだのは痛みを感じた直後の3秒間程度でしょう。「まだサッカーを辞められない」という想いのほうが強く、すぐに手術を決意しました。同じようなケガをして復帰されている選手はたくさんいます。むしろ強くなれるチャンスだと思い、日本では肉体改造に励みました。クラブについても、なんとかなると楽観視していました。
ースリランカのクラブに入ったきっかけは?
知り合いの選手がスリランカのクラブの選手を探していたんです。スリランカといえばスパイス、スパイスといえば遼太だと思ったと話していましたね(笑)。僕はスパイスカレーを作るのが好きで、YouTubeでその模様を発信したこともありました。
これから加入する予定の香港のチームも、YouTubeがきっかけで声をかけてくれました。記録を目的に自分のプレイ動画をアップしていたのですが、それを見てくれたようなんです。
コロナのために、セレクションを現地で受けることが困難な時代なので、こうしたスカウト方法が根付いてきていると感じますね。
海外だからこそ得られる経験がある
ースリランカではサッカーだけでなくビジネスもはじめられたとか?
フルオーダーメイドのユニフォームを作るスリランカ発のアパレルブランドを立ち上げました。社名は『AMBICIÓN』、スペイン語で「大志」や「野望」という意味を持つ言葉です。
きっかけは、現地のユニフォーム工場のオーナーに出会ったことです。個人的に作ってもらったユニフォームの質の高さに驚き、「この商品はどこで販売しているのか?」と尋ねたところ、スリランカの国内だけ、しかもかなりの小規模でしか販売していないと答えられました。
それはあまりにもったいないと想い「日本で売りたいがどう思うか?」と相談してみると、「ぜひお願いします!」とギラギラした眼差しで食いついてきたんです。その期待に応えたいと思い、すぐにブランドを立ち上げました。
ー海外リーグでプレイされていることもそうですが、そのような行動力の源泉はどこにあるのでしょう?
「いましか出来ないことからやる」と心に決めています。やりたいことはいくらでもあります。コーヒーショップもやってみたいですね。でもそれは今じゃなくても出来る。サッカーは今じゃないと出来ないし、アパレルブランドを作る事もスリランカにいる時にしか出来ませんでした。
ー今後の展望はありますか?
とにかく世界中いろんな国をサッカーをプレイしながら渡り歩いて行きたいです。どこでやりたいかなんて選べません。求められる所に行くだけです。
そうした生き方を続けたいと思うのは、サッカーだけが理由ではありません。現地の人と関わることがとても楽しいからです。そこで生活し、サッカーをし、現地の人に応援してもらえる。その幸せを噛み締めています。
過去を振り返ることも先を見通すこともありませんが、何か壁にぶつかった時は、今しか出来ないことを選択し続けることで人生は切り開かれていくと思うのです。