サッカー選手から伝統工芸発信の担い手に。萩原雅之が語る伝統工芸の魅力とは?

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第414回目となる今回は、伝統工芸の魅力を伝える「モノゴト」の代表を務めていらっしゃる萩原雅之(はぎわら まさゆき)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

「モノゴト」の代表として「伝統工芸」にフォーカスした幅広い活動に取り組んでいらっしゃる萩原さん。そんな萩原さんは幼少期からサッカーひと筋で、全国大会優勝や、オーストラリアでプロ選手の経験もあります。そんな萩原さんが、現在なぜサッカーではなく「伝統工芸」に向き合っているのか、なぜ「伝統工芸」なのか。その背景を萩原さんの半生とともに紐解いていきます。

伝統工芸の職人とサッカー選手の意外な共通点

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします!

初めまして!萩原雅之と申します。名古屋生まれで、現在は国際基督教大学を休学しています。これまではずっとサッカーをしていました。現在は伝統工芸に興味があるので、職人さんや作り手の方を訪ねつつ、その魅力を伝えるサービスを作っています。

現在は主にInstagramとYouTubeといったSNSで伝統工芸の魅力を若者や海外の人に発信中です。また、オフラインでも伝統工芸品を絡めたイベントを開催しています。

ーなぜInstagramとYouTubeを選ばれたのですか?

伝統工芸を見たときに最初にいいなと思ったのが「ビジュアル」だったので、そのかっこよさを伝えたいなと。

僕自身、もともと「伝統工芸=ダサい」というイメージがありましたし、若い人の中には古臭いイメージを持っている人もいると思っています。だからInstagramやYouTubeで画像や動画を発信することで、その固定概念が変わったり、伝統工芸の魅力が一番伝わるのではないかと考えました。

ーこれまでにどんな反響がありましたか?

SNSで声をかけてもらうことが増えましたね。クラウドファンディングでも声をかけてもらえるようになったので、SNSはまさに人と繋がれるツールだなと。

また「見ていてかっこいい」「興味が湧いた」とも言ってもらえましたね。

ー素敵な反響があったんですね!また、伝統工芸の職人さんとサッカー選手が似ているとのことですが、どんなところが似ているのでしょうか?

「一見同じことを繰り返しているように見えても、その中で楽しみや改善点を見つけているところ」だと思います。

サッカー選手の場合は、筋トレやシュート練習など。職人さんの場合は、日々の制作活動。一見これらは単純に反復しているように思えますが、そうではありません。その中で楽しみや改善点を見つけて次に繋げているんですよね。

サッカーに一途だった小中高時代

ーサッカーはいつ頃に興味を持って始められたのでしょうか?

2002年の日韓ワールドカップで興味を持って。小学校低学年のうちに自分のサッカーの才能については気づいたものの、高学年の時に諦めはじめてしまい(笑)。

というのも、僕は小中学生の頃は優勝するほどの強いチームにおり、他のチームの人と比べたら自分が上手だと思っていました。でも、実はチームメイトがすごく上手かったんですよね。だから「こういう人にはかなわない」「こういう人がプロになるんだろうな」となんとなく諦めていました。

ー当時、悩んでいたことは親御さんには相談をされていましたか?

していないですね。ただ、僕自身、サッカーが優先順位の1番に来る進路選択だったので、サッカーに対してはたくさん応援してくれていました。一方でサッカーだけをしてほしいとは考えていなかったとは思います。

ー高校生までサッカーひと筋だった萩原さんですが、挫折する経験は多かったですか?

そうですね、いろいろありました。上手すぎる子がいること、先発メンバーに入れないこと、チームとして勝てないこと。あとは個人的に「このプレーが上手くいかない」「最近調子が悪い」と思うこともしばしばありました。

ーそんな時はどのように乗り越えられたのでしょうか?

常に目標を持ってサッカーをしていたことで、いつも乗り越えられた気がします。また、どういうところで何が原因で挫折したのかというのは常に考えていました。逆に、中学生の時は目標設定が上手くいってなかったので、サッカー自体と上手く向き合えなかったのかなと思いますね。

やっぱり、挫折があっても目標があるから乗り越えられるなと。同じ環境で戦っているメンバーと話したり、想いを話し合ったりしながら進んでいましたね。

ーさて、ここまで小中高と一気にお話を伺ってきましたが、この時期に印象的だった出来事はありますか?

実は親に半分騙された感じで中学受験をして、中高一貫校に通ったんですよ(笑)。というのも、中学受験をすると高校受験をしなくていいからサッカーに打ち込めるぞと言われたので受験しました。

これでも、中学までは良かったのですが、高校は強豪校でサッカーをしたいと思ったんです。自分のいた中高一貫校は強豪校ではなかったため、他の高校に行きたいと思うようになりました。

ただ、学校側としては生徒が減るからと推薦状を書いてくれなかったんです。その時に、担任の先生と副校長の先生に自分の想いを伝えたら、その想いを汲み取ってくれて応援する、快く送り出すと言ってもらえましたし、親も先生方を説得してくれました。

「自分の意志に対して親身になってくれたり、協力してくれたりする人がいるんだ」と気づけたことが、この出来事が印象に残っている理由ですね。

ー今振り返ってみて、当時サッカーを通じてどんなことを学ばれましたか?

特に「組織やチームとしてどういう風に目標を立て、そのためにどう動くか」ということを考えられるようになりました。課題が出ても、それを組織としてどう改善していくかを模索する中でたくさんの学びを得られたと思います。

そして、それをいろんなレイヤーでできるのが面白かったですね。個人ではどうやったら上手くプレーできるのか、また高校では副キャプテンだったのでチームとしてどうそれぞれの力を活かせるかを考えていました。

バックパック中に再認識したサッカーの魅力

ー大学はどのような軸で選ばれたのでしょうか?

将来は何かしらサッカーに関する仕事ができたらと考えていました。でもその「サッカーに関する仕事」といってもすごくいろいろあるんですよね。

だから何か自分で興味のある学問を見つけられたらいいなと思い、リベラルアーツの大学に入りたいなと。リベラルアーツの方がいろんな授業を取る中で専門性を高めていくことができるので。

また、欧州サッカーに興味があったので、将来的に選手ではなくてもクラブと仕事をしたり、内部での仕事ができたりしたらいいなとも思っていました。そう考えると、海外や英語が話せたり留学できたりするところがいいとなって、結果的にICU (国際基督教大学) を選びました。

ーそうなんですね!プロにはならないなと思った時、他にどんな選択肢を考えたのですか?

サッカーに関われればベストとは思っていました。やっぱり選手以外にもいろんな関わり方があるなと思っていたので、それが何かを模索していきたい気持ちでした。

サッカーではないことへの興味も一瞬湧きましたが、ずっとサッカーひと筋だったので、やっぱりサッカーに戻りましたね(笑)。ただ、サッカーではない他のものも見つけられたらというのはありました。

ーいつ頃からプロとしてやりたいと思うようになられたのでしょうか?

中学からの知り合いがドイツでサッカーをしていたのですが、その子は高校卒業後、単身ドイツで生活している子で。僕が大学の長期休みにバックパックをしていたので、いろんな国を旅行するついでにドイツを訪れ、その子がいるチームの練習を見たり、少し参加させてもらったりしている中で、プロへの憧れがあることに気づきました。

その時に「海外」で「サッカーという共通のスポーツ」をしたい欲が出てきました。これがもう一度海外でプロとしてやれるなら努力してみようと思えた経験でした。

ーそうだったんですね。その後どんなことをされたのですか?

もう一度、本気で練習を始めました。一旦本気でサッカーをするのは高校で辞めていて、大学では先のキャリアを考えずになんとなくサッカーをしていたので、社会人チームに入ってがっつりと練習するようになりました。それ以外にも自主練をしたり、海外サッカーの情報を集めたり。基本的には平日に練習し、休日のどちらかに試合という生活でしたね。

オーストラリアでプロ選手に。しかし突然の不当解雇

ーそしてついにアースとラリアでプロサッカー選手になられたということですが、それまでにはどんな経緯があったのでしょうか?

まず、オーストラリアを選んだのはいくつかの条件からです。英語圏であることや、給料や待遇面がいいか、日本人の需要があるか、治安はいいか、過ごしやすい気候か、などですね。

また、僕は高校・大学と有名な選手ではなかったので、自分から行動を起こす必要がありました。一般的には代理人についてもらい、エージェントの人にチームを紹介してもらうのですが、僕はそこ含めて自分でやってみたいと思いました。

そして自分のプレー動画を作ってメールを送ったり、現地でサッカー関係の知り合いを作り、その人にチームを紹介してもらったりしました。他にもチームに直接電話をかけたり、練習にいろいろ参加したりしましたね。

その後、練習に参加できたクラブの練習会に複数回参加して先方に興味を持ってもらえたので、契約内容を提示してもらい、契約するという流れでした。

ーそうなんですね!営業はどんな風に始められたのでしょうか?

圧倒的な実力があればチームから注目されますが、そもそもチームに知ってもらえていない場合は自分からアピールする必要があると思ったので営業を始めました。

具体的には「監督が何を求めていて、どんな選手を欲してるのか」「それに対して自分はどういうことを提供できるのか」というように相手のニーズに自分がマッチしていることを示すようにしていました。同時に相手の意思決定者に対してアプローチすることを意識していました。

やはり、やみくもに「なりたい」と言ってても叶えられないので、戦略的にする必要があると考えたのでこのような営業に辿り着きましたね。

ーそんななか、突然クビを言い渡されたそうですが、その時の心境はどうでしたか?ちょうどコロナの影響でプレーができなくなった時でもありますよね。

ダブルで落ち込みましたね……。クビになった時は人生の中でも大きな出来事でした。そして、また頑張ろうかなと思えたときにコロナ禍になってしまい……。わざわざオーストラリアに来たのに、日本に帰らないといけないのはしんどかったです。

ーその状況からどのように立ち直られたのでしょうか?

クビに関しては、頭が真っ白になり、自分の頭では処理しきれず、1人では対処できないと思ったのでいろんな人に電話をしました。その中で整理できたのでようやく前に進めましたね。また、そこで人に頼ることを覚えたと思います。

そしてコロナで帰国せざるを得なかったのは、本当にやるせなくて悔しかったです。しかし、圧倒的に仕方がない外部要因だったので「もうしょうがない、次に進むしかない」と考えました。この状況は外部要因によるものなので「もっとこうしたらいいのに」というのを考えるのは無駄だと思ったんです。だから「その状況での最善を選びたい」という思考方法で乗り切りました。

ー気持ちの区切りを付けられたのはいつ頃でしたか?

実は帰国後もサッカーを続けるつもりでした。しかし、最初の数ヶ月で早々にコロナの長期化が予想できたとともに、スポーツをしている誰しもが「そもそもスポーツが生活上必要のないものだ」と気づいてしまったんですよね。

その時に「今後もサッカーを続けること」と「それ以外の可能性を模索すること」を天秤にかけた結果、後者をとり、ようやく割り切れました。

ーそうだったんですね……。幼少期からサッカーを始めて、現在までサッカーへの想いにどんな変化がありましたか?

サッカーへの想いはその都度変わっています。今は、めちゃくちゃ好きですし、何かしらの形で一生関わりたいと思っています。

プレーすることももう1回してみたいなとも。次はヨーロッパでしてみたいです。また機会があれば半年から1年、街クラブに入ったりおじさんたちに混じったりもでもいいので、ヨーロッパでやってみたいですね。

そして、サッカークラブを作れたらとも考えています。僕自身、サッカーを通して学んだこともたくさんありますし、何よりその空間が楽しかったので、教育やコミュニティとしてのサッカークラブを作っていけたらなと。

日本に戻り、伝統工芸の魅力を伝える活動

ーサッカー以外の可能性を模索するとなった時、なぜ「伝統工芸」を選ばれたのでしょうか?

実は昔から盆栽やお城など、ぼんやりと日本文化に興味があったんです。小学校の頃は親と一緒に全国の城をめぐっていましたし、小中学生の時はなぜか盆栽が好きで、近くの盆栽屋さんのおじいちゃんに話を聞いていましたね(笑)。

盆栽やお城だけでなく、日本文化の「モノ作り」への興味はありました。そしてバックパックで海外をいろいろ周る中で、日本について知りたいと思うようになりました。

僕自身バックパックを好きなのは「自分と異なるBGの人と話すのが好きだから」「いろんな場所に行くのが好きだから」です。しかし、オーストラリアから帰ってきてからはずっと実家でオンライン授業を受け、サッカーもできない状況で「これは人生つまんないな」と思ってしまったんです。

「もっと各地を移動して、いろんな人の話を聞く生活がしたい」と考えたときに、ぼんやりと興味を持っていた「伝統工芸」はその1つフックになるなと思いました。でも当時は、こんなにのめり込むと思っていませんでした(笑)。

ーなるほど!最初はどんな風に活動を始められましたか?

ネットで調べたり、地域のコミュニティの人と仲良くなって紹介してもらったりして職人さんたちのもとを訪ねていました。当時はオンラインで授業を受けたり、インターンをしたりしたので、「アドレス」という月4万円を払うと日本中どこでも住めるサービスを利用しました。

また、もちろん断られることもありました。でも「この人面白いし、話をしてくださりそう」という方はのところは何日か滞在し、迷惑にならないよう意識しつつ毎日訪ねていました。

ー最初から休学を考えられていたのでしょうか?

いえ、最初は考えていませんでした。もともと伝統工芸を広めるために始めたわけではなく、自然や伝統工芸が好きというだけだったんですよね。「いろんな場所に行って、いろんな話を聞くのが好き」というようにライフスタイル的な自由さが好きだったので、休学は考えていませんでした。

ー本格的にやろうと思ったのはいつ頃で、その背景は何だったのですか?

発信する中で興味を持ってくれる人が増えたことが大きいです。「もっと知りたい、何か役に立てたら」という想いが出てきたのでよりのめり込んでいきました。やはり後継者問題であったり、文化の消滅を目の前で見ることが多かったりしたので、そのために何かできないかと思うようになりました。

伝統工芸は、まだまだ可能性を秘めている

ー冒頭で伝統工芸の魅力としてビジュアルを挙げてくださいましたが、他にも萩原さんが感じる伝統工芸の魅力はありますか?

職人さんたちのかっこよさです。生き様や考え方のような哲学がアスリートに近いなと思うんですよね。

アスリートと違う点は、その向き合っている物事について考えている時間が圧倒的に長いことだなと。アスリートは30代あたりになると引退し、長くても20~30年くらいしかやっていない場合が多いと思っています。

一方で職人さんは10代の頃から始めて、50年60年と続けて70歳や80歳くらいになっていることが多いんですよね。そうすると自ずと出てくる言葉の重みやチョイス、その裏にある考え方に深みがあって。それは自分も社会も変わる中で、同じ事をし続けてきているからだと思います。だから職人さんたちの考え方や生き方のかっこよさという魅力もあると考えています。

また、僕が伝統工芸に惹かれた部分として「いろんな要素が裏に潜んでいるんだな」と感じたことがあります。やっぱり数百個、数千個ある各地の工芸品の1つ1つに歴史や背景があり、「この土地のこの場所じゃないとできない」というように、素材・歴史・文化的・地理・政治・商業などが複雑に絡む中で「その土地土地にユニークなものがある」ということに惹かれました。

ー本当に素敵ですね!萩原さん自身、伝統工芸の今後の可能性をどのように考えていらっしゃいますか?

市場規模的には縮小していますが、これから可能性しかないと思っています。例えば「サステナブル、エシカル消費」という点です。そもそも自然素材で手作りされていて究極にエコで、長く使い続けられるのがやはり魅力の1つでもあるので。

それ以外にも「海外に向けての可能性」とあると考えています。まだうまく発信しきれていない部分があるので、インバウンドが復活する中でより注目される可能性があるのではないかと思っていますね。

あとは「生き方の質」という部分でも注目されそうだなと。やはり「豊かさ」に回帰するとき、にキーワードとして「手作り」「エコ」「地域」「地方創生」「作っている人の想いが分かる」などがあると思うので、それらを満たしている伝統工芸に目を向けてもらえかなと考えています。

ー最後に、萩原さんが今後やりたいことがありましたら教えてください!

「モノゴト」を立ち上げ、いろんな人が関わり期待してくれて良い意味で後に引けないので、いろんな人がハッピーになるようなシステムを作り、持続的に取り組みができるようにしていきたいです。

また、現在はInstagramとYouTubeでの発信がメインですが、伝統工芸のことやその魅力をもっと知ってもらいたいので、今後はオウンドメディアやPinterest、TikTokでも発信していきたいですし、伝統工芸を取り扱うECのプラットフォームを作りたいとも考えています。

コロナでさらに厳しくなった業界なのでできることは小さいかもしれませんが、何かしらアクションを起こしていきたいと考えています。

ー本日は素晴らしいお話をありがとうございました!萩原さんの今後のさらなるご活躍を楽しみにしています!

取材:武 海夢(Facebook
執筆:yuri shoji(Twitter
デザイン:安田遥(Twitter