様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第408回目となる今回のゲストは、教育系フリーランスの米島 莉央(よねしま りお)さんです。
米島さんが、「つねに既存の価値観に挑戦し、マイノリティの味方でありたい」と考えるようになった経緯を、幼少期からさかのぼってお伺いしました。
意思表示の手段として学級崩壊を起こした小学生時代
ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。
初めまして、米島理央と申します。中学は男子サッカー部、高校は男子ラグビー部に女子1人で所属していました。
経歴としては、幼稚園ではアメリカのウォルドルフスクールでシュタイナー教育を受けて、小学校では公立小学校、中学高校では都立の中高一貫校に入りました。
大学は早稲田大学に入学するも中退。その後、ITベンチャーでのインターンやおもちゃメーカーへの入社を経て、現在はフリーランスとしてシッターと家庭教師をしています。
ーアメリカのウォルドルフスクールではどのような教育プログラムを受けられていたのですか?
7歳になるまで文字を教えないのがウォルドルフスクールの方針で、よく母や幼稚園の先生が即興で作った話を聞かせてもらっていました。
また、お人形はキャラクターものではなく、親の手作りや自然素材のものを与えましょうという方針だったので、私が持っていた人形も母の手作りでした。人形には小さな目と口しかなく、表情がほとんどないので想像力が広がるのです。
ーそのような教育を受けていると、枠にハマらなくなりそうですね。本日は、米島さんの過去を振り返りながら、今現在までのお話をお聞かせいただければと思います。幼少期、印象的だった出来事があれば教えてください。
小学4年生のときに、学級崩壊を起こしました。担任の先生の教育方針に納得できなくて、クラスメイト5人くらいと一緒に授業妨害して、授業中に教室を出ていったりしていましたね。
ーなぜ学級崩壊を試みたのでしょうか。
意思表示をする方法の1つだったからです。大人たちに対する不満を周りに対して主張する1つの手段として、学級崩壊があったのだと思います。
学級崩壊をした経験は、私の人生の原体験となっていて。私が何か選択をするときは、いつも小学4年生の頃を振り返って「当時の自分に恥じない選択をしているかな?」と考えています。
ー幼いながらもしっかりと意思表示できたのは、何か理由があるのでしょうか。
理由は2つあって。1つは、引っ越しが多かったために、アメリカの学校含めていくつかの学校を経験していたからです。他の子にとってはその小学校の方針がすべてだと思うのですが、私は「前の学校では違った」「アメリカではそういう考えじゃなかった」というように、価値観の相対化ができたのです。
もう1つは、母が影響しています。私の母は他者と違うことを悪とせず、むしろ他者と違うべきだという方針で教育をしてくれました。私自身の感情を尊重してくれたので、しっかりと意思表示できる子供になったのだと思います。
男子サッカー部・ラグビー部に入り紅一点。アイデンティティと向き合う
ー小学4年生で学級崩壊を起こし、5年生からはどのように過ごされましたか?
小学4年生の頃、世界に飽き飽きしていて「大人になんてなるもんか」と思っていたのですが、小学5年生のときに恩師と出会い、考えが一変しました。
その恩師は塾の先生で、私が「大人になりたくない」と話すと、「子供は制約が多いから生きづらいだろうけど、大人になったら自分の責任で選択できるようになるから、大人になった方が自由になれるよ」と言われたのです。
その日から、「この先生みたいな大人になったらなってもいいかな」と気持ちが前向きになって、勉強もちゃんとするようになりました。成績がどんどん上がり、東京都の公立中高一貫校の中で一番難しいと言われる中学校に入れたのは、1つの成功体験になっています。
ー中学校生活で印象的だった出来事を教えてください。
女子1人で、サッカー部に入部しました。小学校5~6年生のときからやりたいと言っていたのですが、受験があるので諦めざるを得なくて。
ー実際に入部してみてどうでしたか?
人間関係につまずいてしまいました。それまで女子であることにハンデを感じたことはなかったのですが、初めて「お前は女性である」ということを指摘されたような気がしたのです。
女性とは?男性とは?私の中にある女性らしさ・男性らしさはサッカー部で受け入れられるの?そもそも私は女なの?と、悶々としていました。
ーサッカーは3年間続けられたのでしょうか。
中学3年生になるまで続けました。ただ、状況としてはすごく悪かったです。部員の誰にも話しかけられず、ペアを組む相手もいませんでした。辛かったですが、サッカーをやりたくて入部したので練習だけは真面目にやっていました。
そんなある日、女子ラグビーのすそ野を広げるためにセレクションの話が学校に来て、サッカー部の顧問から「セレクションを受けないか」と言われました。言われるがまま受けた結果、受かったので、中学3年生からラグビー部に入ることになったのです。
ーラグビー部に入ってからは、人間関係はいかがでしたか?
高校で男子ラグビー部に入り、サッカー部時代と同じように女子1人だったので、やっぱりその場にいるだけで違和感はありました。
それでも練習を真面目にして、男子にもタックルしたり、大声を出したりしてると、先輩やコーチが「おい!お前女子に負けるんじゃねーぞ!」と怒号を飛ばすようになり、コミュニケーションも問題なく取れるようになりましたね。
ーラグビーにはかなりのめり込まれていたのでしょうか。
そうですね。一時は関東ユースに所属して、女子ラグビー日本代表を目指していた時期もありましたが、限界を感じて高校2年生で目指すのを諦めました。本気で日本代表を目指すのであれば日体大学へ行くべきだったのですが、勉強の道を選び、早稲田大学に入学したのです。
早稲田大学を3か月で休学し、長期インターンを通して中退を決意
ー大学入学後、どのように過ごされていましたか?
実は純粋に通ったのは3か月で、それからずっと休学していて、大学4年生の秋に中退したのです。
ー休学したのはなぜですか?
大学へ行く意義がわからなくなったからです。入学前は「文化人類学を学ぶぞ!」とモチベーションが高かったのですが、いざ入学すると飲み会ばかりでギャップがありました。
そんな日々を送るくらいなら、自分でお金を貯めて世界中でフィールドワークした方が文化人類学は学べるのではないかと思い、バイトを始めました。
ー何のバイトをしていたのでしょうか。
早稲田アカデミーでバイトをしていました。なぜ早稲田アカデミーかというと、小学5年生のときの恩師が、早稲田アカデミーで教えていたからです。実際に授業をしてみると、大学へ行くよりずっと楽しかったので、週6でバイトを入れて大学へは行かなくなりました。
すると親から「大学行きなさい」と言われ、自分でも「そろそろ行かないとな……」と思っていたので行き始めたのですが、1週間で挫折したのです。
大学へ行かない道を自ら選択していると思っていましたが、 “行かない” のではなく、 “行けない” んだと衝撃を受け、大学へ行くのは諦めました。将来どうしようか考えていた矢先、インターンと出会い、長期インターンを始めることにしたのです。
ーインターンをしてみて、いかがでしたか?
3か月間営業を行い、インターン生5人の中で成績1位になりました。そこで新規プロジェクトの立ち上げを任されたのですが、立ち上げられなくて挫折。
その後人事へ異動し、「1か月にインターン生30人採用する」という目標を課せられ、最終的に30人採用し、教育プログラムを作って実行しました。その後は広報へと異動し、「取材を100件取る」というミッションを与えられ、テレビや雑誌案件を取ってきました。
トータルで見ると、自分の持っているものはすべて出し切って、一定の成果は出たと思っています。
ー中退の決断は、インターンでの成功体験が影響しているのでしょうか。
そう思います。インターン先で成果を残せたことで、「中退の学歴でも、きっと自分は社会でやっていけるな」と自信を持てたので、大学を辞めました。
ー大学中退は大きな挑戦だと思うのですが、このときも小学4年生の頃を振り返ったのでしょうか。
そうですね。男子サッカー部に入るときも、男子ラグビー部に入るときも、早稲田大学を中退するときも、小学4年生の頃の自分に恥じない選択かどうかを考えて決めたので、後悔はなかったです。
離島に移住し、価値観の相対化が体験できる教育プログラムを構想中
ー中退後はどのような活動をされていたか教えてください。
教育事業に関わりたいと思い、子供向けのおもちゃメーカーに入社しました。おもちゃを通して親子の教育に関与するというアプローチ方法に、魅力を感じたんですよね。
1年半ほど働いて大体の仕組みがわかったのですが、私自身が直接的に親子の間に入る経験はなかったので、その経験を積んでから教育事業に関わるべきだと思い、シッターと家庭教師として働き始めました。
ー現在シッターや家庭教師として働いている米島さんの、今後のミッションは何ですか?
近い将来のお話でいうと、離島に移住して教育プログラムを作りたいと考えています。その教育プログラムは、小学4年生の頃の自分が欲しかった空間や居場所を作りたいという想いや、居てほしいと思っていた大人に自分がなりたいという想いが原点にあります。
教育方針としては、私の母が私にしてくれたように、子供の感覚を大事にする教育がしたいです。教育プログラムを作るうえで、都会とギャップがある完全な離島は最適だと思ったので、最初は離島で長期プログラムを作り、いずれは学校として立ち上げたいですね。
ー遠い未来のお話でいうといかがですか?
10年後くらいには、価値観の相対化の距離を日本と発展途上国へと広げたいです。今は都会と離島という距離ですが、発展途上国にも拠点をもって、そこへ行って体験するプログラムも作りたいですね。
そうすることで、より多くの子供たちに価値観の相対化を体験してもらえると思うのです。価値観が相対化できると、「今悩んでいることはその環境にいるからそう思うのであって、必ず自分の味方になってくれる人はいる」と考えられるようになります。
子供たちには、自分が幸せになれる環境を探しに行ける力を身につけてほしいのです。
ー教育を通じて、いろんな選択肢を持つことが当たり前になると良いですよね。最後に、米島さんからU29世代に対してメッセージがあればお聞かせください。
私は現在25歳ですが、まだ自分は何も成しえてないと思っていて、いつか何者かになってやると思い続けています。
同じように、「何かを成し遂げてやる!」という希望を持ち続けて、挑戦し続ける人がもっと増えてほしいですし、10年後はそういう方と一緒をビジネスやっていたいです。
ー年を重ねると夢を忘れがちですが、いくつになっても挑戦し続ける方は魅力的ですよね。本日はありがとうございました。米島さんの今後のご活躍を応援しています!