「多様なわたし」は地域の中でこそ生かされる。地域の中に居場所を見つけた北埜航太が関係人口コーディネーターになるまで

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第404回目となる今回は、ライター・関係人口コーディネーターの北埜 航太(きたの・こうた)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

学生の頃に地域に魅力を感じ、PR会社やWebメディア勤務を経て移住した北埜さん。地域と継続的に関わる人を増やす取り組みをおこないながら、ライターとしても活動されています。北埜さんが居場所や役割、地域とのつながりを大切にする思いを伺いました。

人とのつながりや価値観を許容する地域で暮らす

ー本日はよろしくお願いします。はじめに、北埜さんの現在の活動をお伺いできますか?

2年ほど前に、東京から長野県辰野町に移住しました。辰野町の地域おこし協力隊の制度を活用して、地域のファンやつくり手を増やす取り組みをしながら、ソトコトオンラインを中心にいくつかの媒体で記事の執筆や、サステナビリティに気を配ったお店をキュレーションするメディア、slowzで編集をしています。こちらに来てからはローカルメディアの企画、執筆、コピーライティングなどにも取り組んでいます。

現在多くの自治体が、移住まではいかなくとも地域と継続的に関わりたい人たちを増やす取り組み、関係人口の創出に力を入れています。そのようななかで僕たちは、「お困りごとtrip」(長野県つながり人口創出実証実験事業)に取り組んでいます。

地域の魅力を発信するのはよくあると思いますが、お困りごとtripでは、むしろ地域の課題(お困りごと)をオープンにしていき、課題解決に関わってくれる都市部住民のスキルや知見を活かして、持続可能な地域をつくる、都市と地域の共創プロジェクトです。

例えば、空き家のDIYの人手が足りない募集に対して、DIYをやってみたい人がお手伝いしにきたり、農作業の人手不足に対して農業をやってみたい人などが参加してくれ、全体では全国から30人の参加がありました。その結果、プロジェクトに参画してくれたRURAL LABOという学生コミュニティが、空き家をリノベーションして、辰野町にゲストハウスを創る動きに発展して、10月ごろからリノベーションが始まる予定です。

ー現在住んでいる辰野町に出会ったきっかけはなんだったのでしょうか?

大学時代に地域活性化に興味があったので勉強していましたが、机の上で勉強してもなかなかイメージがわかなかったんですよね。そこで実際に地域に行ってみようと思い、インターンを斡旋している団体を通して「地域ベンチャー留学」に参加しました。
その説明会でさまざまな地域のプレゼンテーションを聞いたのですが、その中でも長野県辰野町が未来志向でまちづくりをするフューチャーセンターというものをつくろうとしていて、なんだかおもしろそうだと思い、プロジェクトに参加したのが辰野町と出会ったきっかけです。

ー辰野町にはインターンでどのくらいの期間滞在されていたのですか?

合計約2ヶ月間です。最初は冬にインターンで1ヶ月滞在しましたが、携わっていたプロジェクトが完結しなくて中途半端に終わった感覚でした。だからもう一度関わりたくて次は夏に再訪しました。

関わっていたのはフューチャーセンターという、未来志向の対話から地域課題を解決していく場をつくるプロジェクトで、最初の1ヶ月間はサイト制作を、後半の1ヶ月は実際に場をつくる作業をおこないました。サイト制作は、どのような場だと人が集まるのか、そもそもなぜ場をつくるのかといったコンセプトを考えたのですが、実際どうやって場に反映されていくのかが見えなかったんです。リアルな場を知るためにもう一度プロジェクトに参加しました。

ー実際に訪れてみて、今住んでいる辰野町の魅力はどういったところだと感じていますか?

地域の中には、企業や行政、コミュニティ同士がつながらずに縦割りで分断していることもありますが、辰野町はいい意味で、地域住民・行政・民間といったそれぞれのステークホルダーが分断されずに混じり合っていて、有機的なつながりが醸成されているのが強みだと思います。

例えば、先ほどお話したお困りごとtripも、辰野町役場の職員さんと地域のPRについて対話をするなかで、県に繋いでくださったことで実現しました。また、とびとびに個性的なお店を誘致して、歩いてめぐる楽しさをつくる「トビチ商店街」も、民間のまちづくり会社の思いに行政が全力バックアップをしてまさに民間と行政一丸で商店街のエリアリノベーションが進んでいます。

さらに、辰野町全域のゲストハウス3者と僕たち協力隊が連携して、ゲストハウスをホッピングしながら地域で偏愛を持っている人に会いにいく旅を提供する、「へんあいじゃーにー」は、もともとゲストハウスの方々と、地域だからこそできる未来の観光について雑談するなかで立ち上がったプロジェクトでした。

観光資源や目玉になる産業などハードが他の地域に比べて潤沢にあるわけではないですが、人の関係性、いわゆるソーシャルキャピタルはすごく豊かだと思います。
人とのつながりから新しい取り組みがたくさん生まれて、街全体が発酵している感覚がありますね。

ー北埜さんから見たときに、辰野町の人たちが垣根がなく接してくれ、関係性が構築できているのはどういう理由からだと思いますか?

僕がいる南信(信州の南側)というエリアは、北信より寒くなく穏やかな気候です。

最近、Airbnbの方が視察にいらっしゃったのですが、その方が「町がベルギーみたいだね」と言われて驚きました(笑)。ベルギーはオランダ、ドイツ、フランス、イギリスという4つの異なる文化圏の結節点にある多文化国家なのですが、辰野町もワインで有名な塩尻、諏訪大社や日本三大奇祭の御柱祭が有名な諏訪、林業が盛んな伊那と、それぞれ人や文化などの気質が全然違う3つの市に囲まれています。全く違う3つのカルチャーが交わる、交差点のような場所だからこそ、多様な価値観を許容する土壌があると感じます。

ー興味深いですね。ライター業ではソトコトをはじめ、さまざまなメディアで執筆されているかと思いますが、どのようなきっかけで始められたのですか?

小さい頃から話を聞くことが好きで、それをどうやったら仕事にできるのかなと考えたときに、聞いたことを整理して書くライターの仕事につながったことがひとつのきっかけです。社会人になって入社したPRの会社のときから、プレスリリースやイベントレポートなど書く仕事に携わっていました。また新メディア立ち上げの事業で編集を経験し、その後に別のWebメディアの会社で記事広告をつくる仕事で書く仕事に携わっていたので、辰野町に来てからもソトコトや観光局などを中心としたメディアで書いています。

ー元々文章を書くことは好きでしたか?

そうですね。小学校のときからスポーツをやっていたのですがその頃からずっと日誌を書いていました。試合の前は緊張するので、日誌を書くことで自分の気持ちを整理したり、自分を勇気づけて自信をつけたりしていましたね。外側の世界に対して書くのか、内側の自分のために書くのかの違いだけで、日誌がおそらく書く原点としてあったと思います。

 

居場所があるようでない「傍観者」としての感覚

ーここからは生い立ちをお伺いできればと思います。小学校入学前はどのような幼少期でしたか?

公園に行くと、挨拶まわりする子どもだったみたいです(笑)。同世代の子どもはもちろん、その親にもやたら挨拶をしていたそうで、人見知りせずにさまざまな場所に行く性格でしたね。
小学生になって物心がついてからは、若干恥ずかしさも出てきたので控えめな性格になりました。

ー小学校の頃は、どのようなことに興味があって夢中になっていたのか教えてください。

小学校はスポーツ競技のドッジボールに熱中していました(笑)。僕はリーダータイプではないけど、上手だからという理由でキャプテンになったので、そのときは目標に向かって充実していましたね。
ドッジボールという競技は、ボールを通じてやりとりするスポーツで、それは今にもつながる部分があると感じますね。こちらが投げて相手からも投げ返してくるやりとりのように、対話もそうだし、やりとりをするなかでなにかが生まれてくる瞬間が好きです。その原点が小学校のときにあったんだと思いますね。

ー会話でドッジボールというとぶつけるイメージがありますが、「ドッジボールは対話である」と見えるというのが印象的です。

たしかに、ぶつけあうイメージがあるかもしれませんね。昔はディベートやディスカッションのような議論が好きでした。でも大学生の頃から対話といったダイアログや、お互いがキャッチボールするのを好むようになりました。ディベートは打ち負かす意味合いが連想されるから、それこそボールをぶつけ合うイメージ。でも対話はもっとお互いのことを知るなかで話を膨らませていくイメージなので、そちらにシフトしていきました。

ー中学生になってからは、なにか大きな変化はありましたか?

受験を経て中高一貫校に進学し、中学は野球部、高校は陸上部に所属した6年間でした。野球部のときは、競争やレギュラー争いも含めて試合があまり好きではなかったです。守備でエラーしたらどうしようとか、この回で打てなかったらどうしようといったチームに迷惑をかけたくない気持ちが強くて、あまり楽しめる環境ではありませんでした。

でも高校の陸上部は、自己ベストを更新する感覚が強くて居心地がよかったです。競争しているように見えますが、どれだけ競争しても自分のベストタイムを更新し続ける力が必要とされている部分が自分には合っていたと思います。高校生活のほうが自分らしくいれました。

ー大学進学はどのように考えていたのでしょうか?

最初は大学受験する気持ちがほとんどなかったんです。でも大学進学はしたほうがいいと思っていたから、近所の大学に行けばいいやぐらいの感覚でしたね。最終的には学習院大学に進学しました。友達の榎本くんにオープンキャンパスに誘われたことがきっかけです。当時は学習院大学のこともあまり知らなかったのですが、行ってみたら歴史的な建物が多く緑が綺麗なキャンパスでした。一目惚れしてしまって、この大学に行きたいと思ってからは受験の意識が変わりました。今でもオープンキャンパスに繋げてくれた榎本くんにはとても感謝しています。

ー学部の選択はどのようにされましたか?

人の心理に興味があったので心理学部を考えていました。僕は人が普段なに考えているのか、自分が環境によってどのように変わるのかを客観的に見るタイプなんです。でももう少し幅広く勉強したいと思ったときに、政治だと心理についても学べるし社会学や経済も含まれることを知り、最終的には政治学部を選びました。

ー先ほど自分の気持ちが環境によってどう変化するのかを俯瞰する癖があるとお話されていましたが、どの環境にいてもそのようなスタンスでいることが多いのでしょうか?

今は個性だと思いつつ昔からのコンプレックスでもあるのですが、その場に入り込めないことがあるんです。常に観察者の自分がいる感覚。でもそのおかげで、目の前で起きている出来事をもう少し遠い視点から見て、なにが正しいんだろう、なにがいいんだろうと客観的に捉えられるようになりました。
だから自分にとっての居場所があるようで実際にはない感覚です。自分には傍観者のスタンスがあるから、逆にこの辰野町の魅力を捉えて、言語化するときに役立つこともあります。

外側と内側の間に立てるような翻訳や通訳をすることこそがライターの本質的な役割だと思います。それに僕は大学時代からさまざまなコミュニティやサークル、学生団体に所属していることもあって、いろんな人の言語や考えを理解するのが好きだし得意なのも翻訳をするうえでは役立ちます。それゆえにたくさんの場所を居場所に感じられそうな気がしつつ、逆にどこにも居場所がない感覚だったので、自分は何がしたいんだろうと模索していました。

 

地域でも役立つスキルや好奇心を活かすことが就活の基準

ーここからは就職活動についてお伺いします。社会人としてなにを選択するかを問われる時期になると思いますが、大学院への進学という選択肢も含めてどのように考えていましたか?

大学院に行ってまで探求するテーマが絞り込めず、これ以上勉強しても見つからなさそうだと思ったので一度働いてみる選択をしました。

地域に関わることをしたい気持ちがあったので、地域に行くときに役立つスキルを得たかったのと、さまざまなコミュニティや取り組みを知りたい好奇心をどうやったら活かせるのかが判断基準でしたね。でもそれ以外は多様な選択肢がありすぎて、自分にとってなにが本当に大事なのか絞り込めなくて辛かったです。枠にはまるのが苦痛だったんだと思います。

ー大学生の頃から地域に着眼された理由はなんだったのでしょうか?

自分の居場所や役割がどこにあるのかを考えたときに、もしかしたら地域にあるのかもしれないと直感的に思ったからです。東京にいるときはさまざまなサークルや学生団体に関わっていましたが、自分が多様すぎてどうしたいかよくわからなかった状態でした。けれど、地域は今までの関係性と全く違う場所や環境なので、いろんな方向に向かっている多様性をある意味フラットに受け止めてくれる場所だと感じました。

なにかの活動している自分が「北埜航太」というより、自分自身の存在自体がそのまま「北埜航太」だと捉えてくれる。どういったことをしているのかよりも、人間性を見てくれる環境があるので、居心地よかったのかもしれないですね。

辰野町にきてから個人事業主になる際に「間(あわい)」という屋号にしました。さまざまなコミュニティや人の間に自分がいることや、全く違ったコミュニティ同士をつないでいくことが自分の役割だと感じることができたからで、これは辰野町のインターン先の方からヒントを教えていただきました。

ー最終的な意思決定はどのようにされたのですか?

企業の広報やブランドを発信するPR会社ビルコムに入社しました。PRの仕事だとスキルや経験が身につくし、東京でも地域でもスキルが活きるのではないかと思って入社を決めました。

ーものを売るのとは違い、あるものを実現していくお仕事ですよね。社会人になってから変化したことはありますか?

変化というよりも、削ぎ落とされていく感覚が強かったですね。大学のときになにが好きなのかわからないけれど、社会人になるとさまざまな業務をするじゃないですか。僕の場合はメディア担当だったので新聞やテレビなどに足を運ぶなかで、自分の特性に気づいていきました。広がった自分の可能性を整理整頓しました。

 

自分の居場所をみんなが持てるように一緒に探っていきたい

ーPR会社に勤めた後、すぐに辰野町に足を運んだのでしょうか?

PR会社を1年半勤めて、そのあとハフポストに転職しました。PR会社では企業が伝えたい情報をメディアに紹介してもらう仕事をしていたのですが、やっていくうちに自分で書きたい気持ちが強くなってきたのがメディアに転職した理由です。

ーPRでつないでいく仕事からメディアで伝える仕事に転職してみてどうでしたか?どのような業務をされていたのですか?

主にブランド広告や記事広告の企画作成していました。例えば企業がPRしたい依頼に対して、そのまま紹介するとただの広告になってしまう。だから読者の人に興味を持ってもらうコンテンツを編集したり、企画書をたくさん書かせてもらったり、インタビューして記事の作成もおこないました。その頃に地域おこし協力隊の枠があいたので、応募して現在に至ります。

ー決断するのに勇気がいりませんでしたか?

3ヶ月ほど悩みましたね。でもいつかは地域に、辰野町に行きたいと思い続けていたときに枠があいたのが大きかったです。それにメディアで仕事していたけど、書くという仕事は最終的には自分の努力でしか道が開かないので、どこで仕事をしてもある意味同じことだと気付きました。それに伝えたいことが定まらなくて、それを見つけられるのが地域だという直感もありました。

ー今後どのようなことに挑戦していきたいか展望を教えてください。

今までの人生のキーワードになるのは、「居場所」「役割」「関わり」です。都会に住んでいる人で、その場所にいることにしっくりきていない人も多いのではないかと思います。でも地域に住んでいる人たちは、自分のルーツや歴史とのつながりを持っている人が多い印象があります。

僕のように自分のルーツを知らない都会の人たちにとって、地域という場所が自分の居場所や役割を発揮できる場所になり得るかもしれない。関係人口などさまざまな形で地域と関わるなかで、それぞれの人がいろんな地域に自分の居場所を持てるように一緒に探っていきたいですね。

ー最後に、やりたいことや興味があることを見つけられずに悩んでいる人に向けて、一歩踏み出せるアドバイスをお願いします。

目的を持たずに直感でやってみることが大切だと感じます。やってみて、あとから「これが好きだったな」と気づくことが圧倒的に多いと感じています。頭で考えてわかることは少なくて、たくさんやったあとに整理してみると共通するなにかがある。自分の場合はそれが、書くということであり、居場所や役割だったかもしれないですね。

「好きを仕事に」というけれど、特定のことを好きになれるのは、はまり込んでいける人だと思うんです。でもその他大勢のそうではない人は、好きの一点にフォーカスするより、どのようなときが居心地がよいのか「状態」について考えてみることも大切だと思います。この時間好きだなとか、この人といるときの自分が好きだと感じる状態ですね。”Do”よりも”Be”の状態を探っていくと、自分が居たい場所が見つかるし、その場所に自分の仕事や役割があると思います。

辰野町の商店街エリアリノベーションプロジェクト「トビチ商店街」と協働で「町のシェアオフィス」をつくる計画です。辰野町全体の様々なまちづくりコミュニティを見える化し、地域外の方がそのムーブメントに関われる場を作る予定です。地域づくりに興味のある方、自分のスキルを活かしてみたい方、地域をベースにプロジェクトを作ってみたい方がいたらぜひご連絡ください!辰野町からユニークなプロジェクトを一緒につくりましょう!

取材:高尾有沙(Facebook / Twitter / note
執筆:スナミアキナ(Twitter / note
デザイン:高橋りえ(Twitter