「映画を通じて自分の人生をデザインできる人を輩出したい」喜多山玲が広める “映画教育” とは?

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第366回目となる今回は、「映画教育」を広めるべく活動されている喜多山玲さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

高校卒業後、海上自衛隊に入隊。その後某大阪の有名テーマパークに従業員として勤務。そして、1100万部ベストセラー編集長の下で編集者やプロデューサーとしての在り方・視点・スキルを勉強した後、その学びを生かし、初めての著書「自己分析より、映画観ろ。」を始め、作家・編集者として出版関係の仕事や編集者の養成。そして映画から学ぶ教育カリキュラム制作からその一歩手前にあたるオンラインイベント「自己分析より、映画観ろ。」などのコンテンツプロデュースを主に行い、現在に至ります。

「映画には才能と金が大量に注ぎ込まれている」という考えで、現在も年間500本以上の映画をご自身の血肉に変えている喜多山さん。そんな喜多山さんの今後の方針は「映画を通じて人生をデザインする意思を持つ映画ジャンキーを輩出すること」。なぜ「映画」なのか、そして何がきっかけでこの志が生まれたのか。喜多山さんの半生とともにその背景を紐解いていきます。

映画はまさに「写し鏡」のようなもの

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします!

初めまして!喜多山玲と申します。今は編集者兼作家として活動しつつ、映画を軸に毎週学びと交流をコンセプトにオンラインイベントを主催しています。

ー喜多山さんは「自己分析より、映画観ろ。」という書籍を出されていますよね。こちらなかなか尖ったタイトルだと思うのですが、この書籍を作るに至った背景や、この書籍で伝えたかったことを簡単に教えていただけますか?

周りからもよく「タイトルが尖ってる」と言われますね(笑) 僕は大学に行っていないのですが、一般的に大学受験や就活などをするにあたって、自己分析をするようにと学校の先生や教授がおっしゃるじゃないですか。でも感情は外部からの刺激で生まれるものなので、いくら自己分析ができても自分自身が分からないことも多々あると思うんです。

その上でなぜ映画がいいのかというと、映画にはストーリーがあり、そこで描かれている人生や哲学などを自分のものと照らし合わせられるからなんですね。このように、映画を観ることで結果的に自分の分析ができるんじゃないかと思ったので「自己分析より、映画観ろ。」というタイトルにしました。 

ーなるほど!そういうことだったんですね!

はい。また、映画って年齢やその時置かれている状況など「観る時に変わる」と言うじゃないですか。まさに「写し鏡」のようなものだと思っていて、それを書籍の表紙でも伝えています。デザインは、僕達が映写機を覗いていて、その後ろに光が出ているというものなんですけど、これには「映写機から投影されたものは映像じゃなくて自分自身を映している」という意味も込められています。

ーなんと…!表紙にはそんな意味が込められていたんですね!

そうですね。大学生のデザイナーの子が僕達の意図をしっかり汲み取って表紙を作ってくれたので、本当に感謝しています。

ー今現在こういった編集以外にもイベントもされていることですが、どんなイベントをされているのですか?

イベントは書籍のオンラインバージョンのような感じで、僕達が基本的に「課題映画」というものを毎週1本用意し、それを観た人達が集まりシェアし合うという会です。

また、僕は映画を選ぶ時にレビューを全く見ないです。その理由はレビューを見た後に映画を観てしまうと誰かの感性で観ている状態に陥ってしまい「自分の感想」というのが出てこなくなるからなんですよね。だから僕はあえてレビューを見ないようにしています。

もちろん中にはレビューを見てくる人もいますし、別にそれが悪いわけではないです。大事なのは、アウトプットをシェアし合うこと、そして「なるほど。そういう見方もできるのか」という具合で新たな発見や自分になかった視点を知るということです。やっぱりただ観て「面白かった」で終わるのはもったいないと思うので、毎週このイベントを開催していますね。

ー毎週されているんですね!このイベントを始めてどれくらいになりますか?

1年が経ちました!

ー1年経ったということは、ちょうどコロナ禍になった頃からでしょうか?

そうですね。コロナ禍では映画館に行きにくかったり、家にいることが多くなったりしたと思うんですけど、せっかく家にいるなら勉強しようよということで始めました。でも、勉強といって本を読んだり、1人で何かしたりすることは大変だと思ったので、週に1回課題映画を観てみんなで感想をシェアしようという考えに至りました。あとはそういう場を作りたかったというのはあります。

ーなるほど!毎週の課題映画は喜多山さんが選ばれているのですか?

はい。僕が全部独断と偏見で選んでいます(笑)

ーとなると、年間でかなりの映画を観ることになりませんか?

そうなりますね(笑) 別に僕の中では「頑張ってる」という感じではないんですけど、昨年は毎日2~3本くらい、年間だと大体500本以上、多くて730本くらいは観ていましたね。

「孤独」への耐性がついた幼少期

ー最初に人生の転機となるのは小学生の時とのことですが、当時いじめを受けていらっしゃったとか…?

そうですね。一般的ないじめという感じでした。理由は分からないんですけど、登校班の人が誰ひとり一緒に行ってくれなかったんですよ。でも学校に遊ぶ友達はいましたし、遠い地区の子と一緒にサッカーをしたり遊んだりしていました。なぜか登校班の子達だけは遊んでくれなかったですね。

他にも、僕が2年生の時に当時6年生だった人達が、僕にだけ集合場所を伝えず違う場所に集まり、抜け道から学校に登校するというのが起こるようになり、それがいつしか当たり前になっていました。

ーそうだったんですね…。当時のそんな状況を喜多山さんはどんな風に感じてらっしゃったのですか?

「別に学校は1人で行けるし、学校に行けば他に友達はいるし」という風に思っていたので、そんな深くは考えていなかったです。また、その登校班の子達が好きだったわけでもなく、学校で話すこともなかったので「この人達は自分の人生には関係のない人達だな」と思っていました(笑) あとは孤独に慣れていたのもあってそんなに気にならなかったですね。

ーすごく強いですね(笑) 孤独に慣れていたというのはどういうことでしょう?

当時はまだ一人っ子だったというのもあって、家にいてもひいじいちゃんぐらいしか構ってくれなかったんですよ。だから遊ぶとなると、ひいじいちゃんと一緒に遊ぶか、1人で壁当てをするという感じだったので昔から1人でいることには慣れていました。

ーなるほど。このいじめはいつまで続いたのですか?

中学校に入るまでです。親の関係の地区だけ変わったのですが、地区が変わっても同じことをされましたね。でももうそういう人達なんだなと思いました(笑) また、中学校に上がれば一緒にサッカーをしていた違う小学校の子達とも一緒になれると分かっていましたし、普段からその子達と喋っていたので全然苦ではなかったですね。

ーご自身としてはいじめが始まった当初からその状況を受け止めてらっしゃったんですね。そしてなぜこの経験が喜多山さんの人生の転機になったのでしょうか?

いじめがあったからこそ「見返してやる」という気持ちが芽生えたのもそうですし、「群れないこと」への抵抗もなくなったのかなと思っています。

社会に出てもやっぱり孤独でいることはすごく難しいと思うんですね。一般企業から抜け出せないという方や、フリーランスになったり、1人で事業を起こしたりするときも、孤独に耐えられずに結局一般企業に戻るという方も多いなと。そういう意味でも、この経験があったから「孤独」への抵抗がなくなったのかなと考えています。

激動の高校生活。働き詰めの日々

ー高校時代は学校に通うだけではなく、アルバイトを始められたとのことですが?

はい、高校1年生からやっていました。その時はバイトだけじゃなくて部活もしていたのですが、やっぱりバイトをしていたらダメだということで顧問ともめて、結局バイトを優先して部活を辞めることにしました。

そんな中ある日突然、水道周りの工事を個人でしていた父親から「ちょっとお前仕事来いや」と言われたのをきっかけにその仕事を手伝うようになりました。最初は週1でやっていたのですが、長期休みはほぼ毎日駆り出されていましたね(笑)

父親の仕事に加えて夜は焼き肉屋のバイトをしていたので、高校生の頃は学校で寝て夜の仕事に備えてたという変な学生でした(笑) 3年間ずっと同じところで働いていて、休む暇は全然なかったです。

ーすごく大変ですね…。ちなみにアルバイトは焼肉屋さんのどんなところを担当されていたのですか?

最初はキッチンをやっていたのですが、本当に何もできなくて 0 (ゼロ) と呼ばれていました。でもある日、ホールの手が全然足りず「ホールをやってくれ」と言われたのでやってみたんですよ。そうしたら、お客様とコミュニケーションを取るのがすごく楽しくて、気づけば「もうお前1人でホールできるよな」と言われるくらいになっていました(笑)

そのおかげで、キッチンでの扱いもそれまでとは違うようになったんです。まさに0が愛嬌になって。そこから可愛がられるようになりましたね。

ーそうなんですね…!3年間続けられた要因は何だと思いますか?また、ホールとしての才能が開花するまで、0と呼ばれながらも諦めずに続けられた理由には何があるのでしょうか?

家にいたくないというのが結構大きかったですね。家にいても話すことがなく、学校から帰ったらすぐに家を出てバイトをするという生活でしたし。また、焼肉屋が「第2の家」という感じだったので、そこにいる時の方が居心地が良かったというのはあると思います。

そして、諦めなかったのは「好きだったから」だと思います。どれだけ言われても話を聞いているだけで面白かったですし、辞めても何もすることがないと思ったので「ここしかない」と腹をくくっていました。

あとは「途中で投げ出すのは嫌」「自分で決めたことは最後までそれをやり遂げる」という考えがあったからかもしれないです。

ーやはり振り返ってみると、この経験は人生の1つの転機だと思いますか?

そうですね。「あの時はすごく頑張っていたな」とも思いますし「あの仕事はもう絶対にしたくない」という気持ちも強いので、いろんな意味で今の自分の礎になっている経験かもしれないです 。あとは人とコミュニケーションを取ることや、誰かを喜ばせたり楽しませたりすることが好きなんだと気づかせてくれた経験でもありますね。

ーちなみにこの時期はまだ「映画」というワードが出てきていないと思うのですが、当時将来の夢はありましたか?

テレビを観る時間すらなかったので、映画にはほとんど触れていなかったです(笑) 

また当時は、パフォーミングやテーマパーク自体がすごく好きだったので、テーマパークで働きたいなと思っていました。ぼんやりはしていましたが、誰かを喜ばせたり楽しませたりする仕事ができたらなと。それこそ、これはホールをし始めてから感じるようになった気がします。

海上自衛隊に入隊。MLMきっかけで知った未知の世界

ーテーマパークを目指していた少年が、これまたなぜ海上自衛隊に入ったのでしょうか?

エスカレーター式で大学に通える高校に通っていたのですが、家族に「高校を卒業したら家にいるな」と言われたんですよ(笑) それで寮に住むか一人暮らしをするか考えてみたものの、どちらもちょっと難しいなと思って。

でもちょうどその頃、学校で就職希望者対象の説明会があり、その中に海上自衛隊もあったんですよ。そこで「面白そうやな」と思って興味を持ちました。しかも当時は海猿が盛り上がってた時期でもあったので「なんかいいやん」と感じて海上自衛隊に行きました(笑)

ーそんな経緯があったんですね。海上自衛隊はどれくらいの期間勤めていらっしゃったのですか?また、入ってみて感じたギャップはありましたか?

勤めていたのは3年ですね。周りからは「自衛隊ってすごくしんどそう」と言われるのですが、実際入ってみて過ごしていくうちに「自分の高校時代の方がしんどかったな」と思ったので全然苦じゃなかったですね(笑) 

高校時代は焼き肉のバイトが終わってからは3時間しか寝れなくて、高校に行って1時間目から6時間目まで寝るという生活だった一方、自衛隊は22時就寝、6時起床だったので「8時間寝られるやん(笑)」と思って(笑) そう考えるとやっぱり高校時代の方がしんどかったですね。

ー確かにそうですね(笑) この3年間という期間を経て、退職のきっかけになったのは何だったのですか?

最初から「3年」と決めていたんですよね。自衛隊の任期は、3年・5年・7年という風にあったので、最初の1任期である3年を区切りにしようと考えていました。

またその頃に、高校の時に部活でお世話になった先輩がネットワークビジネスを始めていたんですね。その先輩はリムジンに乗ってすごくお洒落なことをやってる感じだったので「面白そうやな」と思い、話を聞きに行ったことがきっかけです。

そして実際に話を聞いてみると、ネットワークビジネスがどうこうというよりかは、自分の知らない生き方をしている人がたくさんいることにすごく魅力を感じました。それまでは「自衛隊や一般企業に勤めなきゃいけない」という風な固定概念が強かったのですが、そうじゃなくていいんだと思って。「もっと自分で稼いでいける力を身につければ、ここじゃなくていいんだ」というのを思いましたね。それが自衛隊の退職に繋がったかなり大きな理由でした。

ー辞める時は次にすることを決めていらっしゃったのでしょうか?ちなみにまだ「映画」の話は出てきていないですよね。

いえ、全然決めていなかったですね(笑) 特に「これになりたい」というのもなかったです。

自衛隊はいろんな勤務地に行くのですが、そこで何もすることがなかったときに「せっかくだし割引で映画館に行こうかな」という感じで映画を観ることはありました。

ーなるほど!海上自衛隊を辞めた後はどんなことをされたのでしょうか?

ドコモショップの営業ポジションにつきました。ショップ店員ではなくショップが依頼するセールスマンのような感じで、営業をかけたり家のネットや機種変更、タブレットやその他機器などの契約を取ったりしていました。でも、それが結構きつくて「営業向いてないなあ」と思いましたね。

ーそもそも営業自体が初挑戦の職種ですよね?どんなきっかけで始められて、どんなところがきついなと感じられたのですか?

そうですね、初めてです(笑) ネットワークビジネスの知人から「一緒にやらないか」と声をかけられて始めたのがきっかけです。

一般的には1週間程度で終わる研修期間があるんですけど、僕の場合はそれに2ヶ月くらいかかってしまったので申し訳なくなったんですよね…。それに「演じる」「売る」ことに対しての罪悪感が重くのしかかって精神的にきつくなり、行くのも憂鬱になるほどになってしまいました。やっぱり焼肉屋さんでお肉をおすすめすることとは全然違った感覚でしたね。何というか、すごく悲しくなりました。

ーそうだったんですね…。それでもなぜ辞めずに続けられたのでしょうか?

紹介してくれた先輩や、かわいがってくれた人の存在が大きいですね。あとは契約件数が取れなくても、僕と喋るのが楽しいと言ってくれる店長さんがいたり、そのお店自体が楽しい場所だったりしたのも頑張れた背景にあったんだと思います。

人生を変えた恩師との出会い

ードコモショップを辞められて、その次はどんな転機があったのですか?

いわゆる「恩師」との出会いですね。「その人がいなかったら僕は今こうなってなかった」と思うほどの人です。

それこそ、営業でうまくいっていなくてどうしようと悩んでた時に知人に紹介してもらった人なんです。その人は元々営業もされていて、ある編集部の編集長アシスタントもされていました。

まだ営業の仕事を辞めていなくて「今後どうしようかな」と悩んでいた時に「別に辞めても、外で結果を出しちゃえばいいよ。結果を出せば誰も文句を言えないし」という言葉をもらったことで、プレッシャーやしがらみから解放されて、肩の荷が下りた気がしました。

ーその言葉を聞いた後、喜多山さん自身にどんな影響が出たのでしょう?

それまでは「結果を出せなかったら次はない」というような考え方をしていて、「他のところに行って結果を出す」ということは考えてもみなかったので、視点が大きく変わりましたね。

ーなるほど…!そして次に挑戦されたのはどんなことですか?

実は営業だったんですよ(笑) でも携帯ショップではなく、ネットワークビジネスで結果が出ていない人やうまくいってない人、人生を変えたい人に対して、先ほど少しお話した編集長のコンテンツを借りながら営業をしていました。ちなみに営業の仕方は恩師が教えてくれました。

ー同じ営業でも結果が全然違ったと思うのですが、具体的にどんな違いがありましたか?

営業の基礎を身につけていなかったのが大きいですね。「ただ単に自分が演じて売るのではなく、しっかり相手に寄り添い、相手の悩みに対しての提案ができていない」ということを恩師に教えてもらいました。そんな風に営業を1から10まできちんと教えてもらったことで「営業ってこんなに面白いのか!」とも思えるようになりました。

そして、実際にやり方を変えてみて届けたかった価値を提供できた時に、クライアントが泣いて喜んでくれたり「ありがとう」と言ってくれたりすると、やっぱり「紹介して良かったな」とすごく満足できました。

ー高校の頃の夢だったテーマパークで働くというのはその流れでしょうか?

そうですね、その後です。営業でコンスタントに結果が出せるようになってきたので、改めて自分がやりたかったことに挑戦してみたいなと思い、テーマパークに行こうと考えました。

映画との出会い。そして初めての書籍出版

ーここまで様々な経験を経てきた喜多山さんですが、映画を題材にお仕事を始められたのはいつ頃ですか?

結構営業と同時並行でしたね。恩師がアシスタントをしていた編集長とも繋がっていたのですが、その編集長の方の影響をかなり受けました。実際にその人経由で、人材育成家として有名な加藤秀視 (かとうしゅうし) さんや、放送作家として「奇跡体験!アンビリバボー」や「SMAP×SMAP」など数々のヒット番組を手がけてきた安達元一 (あだちもといち) さんとご飯に行ったり一緒に話したりしました。そしてその方々と話しているうちに「映画って才能とお金を大量に費やしているから超やばいよ」というのをたくさん聞いたんです。

それを聞いたときに「おお!すごいな…!」と思い、この人達は「映画」というものをそういう視点で捉えているのを初めて知ったんですね。だから僕みたいな若い世代が「映画」を噛み砕いて、もっと若い世代の人達に高度に伝えなきゃいけないという意識が芽生えました。

加えて、映画の話って共通点にもなるので営業の入りとしてもすごくいいんですよ。やっぱり「映画という身近にあるもので、そこで描かれている視点や価値観、考えなどを僕が代弁していけたらな」というのが活動の根本的なとこにありますね。 

ーなるほど!そうだったんですね…!

そうなんですよ。また、勉強していくうちに脳科学に行き着いたのですが、その脳科学界のトップにいると言える苫米地英人 (とまべちひでと) さんや、現在苫米地さんと一緒に仕事をされていて「コーチング」という言葉を作ったルー・タイスさんも結局映画や音楽を身近に取り入れているんです。

そう思うと改めて映画や音楽のすごさを感じますし、そのすごさを若い人達に伝えていけたらなと思って「自己分析より、映画観ろ。」という書籍や、映画から人生や哲学などを学ぶという取り組みに繋がりました。

また、これまでの取り組みをまとめて「映画教育」として広めていくことが今後の展望です。コンテンツを作り、学校や企業などに伝えていくことで、映画からの学びを身近なものに取り入れられるようにしていきたいと思っています。

ー映画のすごさを伝える手段はたくさんあったと思うのですが、なぜ「本」を選ばれたのでしょうか?

本って業界の上にいる人のように、ある程度リテラシーがないと読まないと思うんですよね。そういう人達への訴求方法として本が身近にあったというのがあります。実際にその本を出版してみて、TikTokで50万人というフォロワーがいる方に手に取ってもらうこともありました。

そういう人達に対して「映画教育というものを広める活動をしている若者がいる」ということを見せられますし、若い人達に対しても「作家」という方がより影響を与えられるんじゃないかと思ったので「本」を伝える手段に選びました。

ー喜多山さん自身、どんな想いがあってこの本を無料で配布されたのですか?

映画教育をできるだけ多くの人に広めたかったというのがありますね。 映画の感想をただシェアするだけじゃなくて、もっと映画の奥深さに注目してほしいなと思っていて。

映画というものは「多様性」をテーマにしているのが多いんです。だからこそ映画を通して人種差別や LGBTなどの当事者に対しての教養やリテラシーを身につけていけたらなと思っています。またトピックによっては日本にいて身近に感じられないものもあるので、そういう意味でも僕は洋画をすごく推していますね。

こんな風に映画教育をできるだけ身近なものにしたくて、若い人達でも手に取りやすいにように「無料」にしました。

ー実際に出版されてみて反響はありましたか?

結構ありましたね(笑) 思ったよりすごくて(笑) 小ジャンル4冠とAmazonだと総合ランキングの2位まで上がりました。それを見てやっぱり無料にすることでより多くの人に届けられたんだと思いましたね。

あと今回出版したことで気づいたこと2つがあって。1つ目が本の出版はオンラインで集まらなくてもオンラインで完結するということです。やっぱり本を作るときって、オフラインで集まって打ち合わせしてってなると思うのですが、別にそうじゃなくて出来るんだよというのを実証できたと思います。

そして2つ目が、「自分の得意不得意を見極め、チームで協力して1つのものを作り上げる経験」を若い人達にしてもらいたいなということです。僕は別に本を出すことが得意でも、本を書くことが得意でも、技術的なプログラム的なことが得意でもないです。だけど、自分の得意なところは自分がして、できないところは他の人に任せて今回の本を出版しました。例えば僕は表紙デザインができないので、冒頭で話した大学生のデザイナーの子にすごく助けてもらいました。

若い人達って「全部自分がやらないといけない」と考えている人が多いと思うのですが、そうじゃなくてもいいんだよって。自分の得意不得意、できるできないを見極めて、チームで協力することが大事だと思います。このことも若い人達にどんどん伝えていきたいですね。

ーこれまでたくさんのお仕事をされてきた中で、出版やプロデューサーという立場は初めてだと思うのですが、今のお仕事は楽しいですか?

楽しいですね!例えば、本を出したいと思っている作家さんがいて、その人達が表紙1つでどれにしようかなと悩んでいる姿を見るとこっちまでわくわくしますね。あとは文章でも同じようなことがあるんですけど、そのときも一緒に悩んだり「こっちの方が良いと思いますよ」という具合でアドバイスをしたりしています。

そんな風に「クライアントさんとわくわくを共有できる」「誰かと何かを作っていく」というのがとても楽しいです。

映画は人生のバイブル。作品を通じて人生を描く

ーこれまでたくさんの映画を見てこられたと思うのですが、そんな喜多山さんが「何度も見返す映画」は何でしょうか?

これは1つしかないですね(笑) それは、「イージー★ライダー」というカウンターカルチャー (対抗文化; サブカルチャーの一部) 時代の作品です。その1970年代はちょうどベトナム戦争があった時代で、しかもテレビが普及し始めて戦争をテレビで見れるようになった時代でもあります。

そんな当時、戦争を見た若者が「なんでこんなことしなきゃいけないんだよ」「そんなこと別にやりたくないし」というような反骨心で旅に出て、ルート66号線をバイクで走るというのが結構流行っていたんですよ。そんな時代を描いたロードムービーの中の1つがこの「イージー★ライダー」という作品です。

そして、この作品で描かれてるのが「自由とは何か」という大事なテーマなんです。「自由になりたい」「好きなことで稼ぎたい」と言っている若者が多いと思うのですが、「じゃあ結局その自由って何なの?」という話で。例えば、自由にしていいと言われても何をしたらいいか分からなかったり、自由になりたいと言っているのに自由な人を見るのが怖かったり。そんな「自由を問うのは簡単だけど、自由になるのが難しい」ということが描かれています。

さっきお伝えしたそうそうたる方々も、自由を目指して個人で活躍されているんですけど「自由になりたいわけではない」というのをおっしゃっているんです。結構そこがポイントだと思うんですよね。本当に自由になりたいのか、それとも自由ではなく他にしたいことがあるのか、という。

まとめると「何をしたいというよりかはどう生きていきたいか」「どんな人に影響を与えていきたいか」ということを考えさせられるような作品ですね。完全に僕のバイブルになっています。

ーそうだったんですね…!ちなみにこの「イージー★ライダー」という作品はいつ初めて観られたのですか?また当時はどんな心理状態だったのでしょう?

ちょうど営業をし始めたくらいですね。当時「自由って何だろう」と考えていて。やっぱり人と出会う時に、みんな自由になりたいと言ってビジネスを始めるのですが、結局うまくいかない人は「自由」がそもそも分かっていないんですよ。

既存の価値観に支配されていて、本当に自分自身で価値があるものを分かっていない状態なので、結局目の前にニンジンをぶら下げられて走っている馬と同じなんですよね。そうではなく、本当に自分自身で価値あるものを見出すというのが大事だと思います。

あと思うのが、皆さん自身にとっての好きな作品を見つけてほしいということです。僕は結構この「イージー★ライダー」をおすすめするのですが、もちろん苦手な人もいるんですよ。問いを突き付けられているような感じがあったり、ただバイクで走っていくという映像だったりするので。だから、おすすめされたものが絶対だと思わずに、自分自身に合ったものを見つけてほしいなと思います。

ー最後に、喜多山さんが今後やりたいことや周りの方々に届けていきたいと思っていることなどがありましたら教えてください!

やっぱり「感動体験の多い人生」にしたいですね。感動体験って自分の感性によるとは思うのですが、日常生活にたくさん溢れていると思うんです。例えば、親御さんが幼稚園で組体操をしている我が子を見て感動するみたいな。そういう小さなことでもいいので、皆さんにも日常に転がっている感動をたくさん見つけてもらいたいです。

そしてその手段の1つとして「映画」を取り入れてもらえたらなと。映画を通じて、人生の礎やスタンス、価値基準などを形成し、自分の人生をどう切り拓いていくのかを考え、主人公視点というよりかは監督やプロデューサー視点で自分の人生をデザインできる人を輩出したいと思っています。著書では「映画ジャンキー」と言っているのですが、この映画ジャンキーをもっと増やしていけたらなと考えています。

ー喜多山さん、本日は素晴らしいお話をありがとうございました!今後の更なるご活躍を楽しみにしています!

取材者:あおきくみこ(Twitter/note)
執筆者:庄司友里(Twitter
デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter