「地域を繋ぐ接続点に」食べチョク広報・下村彩紀子は愛に溢れる代弁者だった

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第322回目となる今回は、『食べチョク』を運営する株式会社ビビッドガーデン広報として、生産者の”こだわり”が正当に評価される世界を目指す、下村彩紀子さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

新潟県のユリ農家に生まれ、幼い頃より地域と密着した生活を送っていた下村さん。小学校4年生で強豪校のリコーダー部に入部。プロ奏者の元で猛練習に励み、6年生でソリストに選出されます。高校では、甲子園出場を目指す野球部のマネージャーに。The 体育会系の厳しい環境下で練習に食らいつきます。「もっと広い世界を見たい」と上京を決意し、短大へ進学。学外活動に精を出し、社会人コミュニティに参加したり営業インターンをしたりして自らのキャリア観を醸成します。2015年、新卒で株式会社ネオキャリアへ入社。歴代初の短大卒新入社員として、営業部、人事部新卒採用担当を歴任後、2019年より株式会社ビビッドガーデンへ転職。未経験ながら広報部を1人で立ち上げ、2020年に露出したメディア数は1,900件以上にのぼります。

飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長中の食べチョクを支える広報担当。一見華々しく見える下村さんの経歴ですが、その裏には数え切れぬ努力の数々と不屈の精神が。「短大卒」なだけで挑戦する機会すら与えられないことがあると知った大学時代。何をやっても成果が出ず、圧倒的ビリだった新卒1年目。どんなに辛くても途中で挫けることだけはしなかった過去を経て、下村さんは今、何を思うのか……。

あなたが本気で取り組んでいることはありますか?どんな未来を描きますか?ご自身のルーツと向き合い、日本の地域に眠る価値を最大限引き出して伝える下村さんだからこそ語れる「広報の魅力」を半生と共に紐解きます。

 

年間1,900件以上のメディア露出。食べチョク広報・下村彩紀子とは


ー本日はよろしくお願いします!現在のお仕事やこれまでの活動について教えてください。

株式会社ビビッドガーデン食べチョクの広報をしております、下村彩紀子と申します。

新潟県に生まれ、短大進学を機に18歳で上京するまでの期間を地元で過ごしました。短大で過ごした2年間は営業インターンシップなどの課外活動に精を出し、卒業後は新卒で株式会社ネオキャリアに入社しました。営業2年、採用担当として2年半勤め、2019年10月にビビッドガーデンへ広報部門の立ち上げとして転職し、現在に至ります。

本日はよろしくお願いします。


ー創業3年目にしてTVCMの放映が決定。まさに急成長中のサービス「食べチョク」ですが、どのようなサービスなのでしょうか。

全国の生産者さんから食材を直接お取り寄せできる「オンライン直売所」です。

生産者さんが、自分で価格を決めて「直接」商品を販売できるプラットフォームを提供しており、一定の基準を満たした生産者さんはどなたでも食べチョクに登録が可能です。生産者さんが自由に出品して消費者さんが自由に購入するサービスです。


ーなるほど!食べチョクのサイトには、美味しそうな食材がたくさん並んでいるのが印象的です。

ありがとうございます!サイトには4,000軒を超える生産者さんとその食材の写真がいくつも掲載されており、それぞれの「こだわり」を細かく知ることができます。サイトに設置されている「みんなの投稿」という掲示板では、生産者さんと消費者さんのオープンなやりとりを見受けることができます。「すごく美味しかったです!」などの感想はもちろん、購入前の消費者さんから生産者さんへ「こちらの食材はどんなレシピがおすすめですか?」と事前に質問できるのも、食べチョクの大きな特徴です。

「通販サービス」というより「生産者さんとコミュニケーションを取りながら食事を楽しむ」サイトになっていますね。

 

ーサイトを通して、生産者さんと消費者さんに繋がりの体験を提供されているんですね。2020年は1年間で1,900件以上のメディアに露出したことでも話題になった食べチョクですが、サービスの成長はどのように推移していますか?

2019年末から2020年末の1年間で、生産者さんの登録数は650軒から5倍増の4,000軒に。流通額は42倍になりました。

 

私の原点はここにある。地域とともに歩んだ幼少期


ーすごいですね……!凄まじい勢いを感じます。ぜひ、現在の下村さんに至るまでのご自身のキャリアもお聞かせください。どのような幼少期を過ごされていましたか?

新潟県魚沼市に生まれ、米所の田舎町で育ちました。どれくらい田舎かと言うと、徒歩3分の場所に山があり、家からコンビニまで歩いて1時間かかる友人もいたほど。住人同士の繋がりが強い地域柄と両親の人柄が相まって、幼い頃からたくさんの人が出入りする家庭で暮らしていました。家族ではない人とご飯を食べたり、家に知らない人がいる状態が当たり前の環境でしたね。

でも実は、幼少期の私はすごく人見知りで。母親の背中にずっと隠れていて、誰にも挨拶できないような子どもだったんですよ。


ーそうだったんですか!?コミュニケーション力に長けた現在の下村さんからは想像もつかないですね。

いつの間にか人見知りを克服し、初めて会う人とも自然なコミュニケーションをとれるようになりました。あまりにオープンな環境だったので、人見知りのまま暮らすことは不可能でしたね(笑)。

また、私が暮らしていた町では食材の物々交換が日常的に行われていて、お礼を伝え合う習慣があったことも人見知り克服に一役買っているかもしれません。


ー食材の物々交換……?

家庭菜園をしているお宅や農家さんがご近所に多く、私の実家も家庭菜園をしていたので、採れすぎた野菜をご近所へ配り歩くことがごく自然に行われていて。ですが、共働きだった我が家は夕方頃まで不在にしていることが多く、ご近所さんから直接食材を受け取ることが難しくて……。すると、カゴに入れられた食材が玄関口に置かれているんです。家族の中で最も早く帰宅するのは私だったので、最初に食材に気付くのも私でした。

こうした生活を日常的に繰り返すうちに、ご近所さんの名前がカゴに書かれていなくても野菜の種類や置き方を見るだけで「これはAさんからの贈り物だから、Aさんにお礼をしなきゃ」と直感でわかるようになっていましたね(笑)。


ーまるで地域全体が家族のような生活ですね!幼少期の下村さんはご自身が育った環境をどのように捉えていましたか?

幼少期はたくさんの人に囲まれて過ごすことがとても楽しかったのですが、小学校高学年から中学生になると少々うっとうしく感じたり面倒くさく思ったりした時期もありました。

本当に驚くほど全ての情報が地元全体に筒抜けなんです。今どこで誰と歩いているかも見つかってしまうほど。思春期の頃は思うところもあった環境でしたが、今思えば地域の方にすごく愛され、守られながら育った素敵な環境だと思っています。


ー家族という垣根を超えたコミュニティで育ち、新鮮な食材を交換する文化のもとで育った下村さん。現在、食べチョクに関わる原体験になっているのでしょうか。

そうですね!すごく重要な経験でした。この環境の元で育っていなければ、今もなお人見知りだったのでは?と思うほどに。現在は広報として様々な方とお話する機会がありますが、こんな風にたくさんの人と話すことを好きになれたのは、やはり幼少期の経験が大きな影響を及ぼしていると感じています。

 

中途半端は嫌い。やるからにはとことん極める


ー小学校4年生でリコーダー部に入部。かなりの強豪校だったそうですね。

そうなんです。全国大会8年連続金賞を受賞していて。部活に本気で取り組んだ小学校時代でした。


ー8年連続!?それは強い。リコーダー部に入ろうと思ったきっかけはなんですか?

同じくリコーダー部に所属していた2学年上の先輩に憧れて入部を決めました。

先輩はソリストと呼ばれる大役を担当していて、30名ほどのチームで1名だけ選ばれるソロパートを吹いていたんです。その姿がそれはそれはかっこよくて。「この人みたいになりたい!」と思いソリストを目指して練習に励んだ結果、小学6年生のときに念願叶ってソリストになることができました。


ーなんと、目標達成されたんですね!ソリストはチームに1人しか選ばれないとなると、練習も相当厳しかったのでは……?

泣きながら練習していたときもありましたね。当時、NHKの番組に出演されているプロの奏者さんから定期的に教わっていたのですが、この練習がなかなかシビアで。部員全員の演奏を聴きながらバランスを見て、各々の担当パートをどんどん削っていくんです。「Bさん、もうここ吹かなくていいから」と。

全編5分の曲があるとすると、演奏できるのは短い人だと30秒ほどになってしまうことも。出番以外はひたすら待機します。そのため、演奏パートを勝ち取るためには実力で生き残っていく以外に道はありません。私の場合はソリストだったこともあり、プロの方と1対1で練習をする機会もあったのですが、このとき言われた言葉が今でも記憶に残っています。


ーどんな言葉だったのでしょうか。

「下村さんは、自分のことを小学生だと思って吹いているよね。そんな風に思っていても、いい演奏なんてできないよ。自分のことをプロだと思って吹きなさい。」

そう言われたんです。

まるで雷が落ちたような衝撃を受けました。これほどまでの心構えを持って吹かなければ全国では戦えないんだと。このとき教えていただいたマインドセットは、現在にも活きています。


ー高校では新しいことに挑戦!野球部のマネージャーになり、甲子園出場を目指していたそうですね。

そうなんです!私には兄が2人いるのですが、どちらも野球部に所属していたほど野球好きな一家で。夜に見るテレビ番組の定番はプロ野球でした。そんな環境で育った私もいつの間にか野球が好きになっていて、気づいたときには高校野球のマネージャーになっていましたね。

甲子園を目指していただけあって、リコーダー部のときと同じく高校の部活もすごく厳しい環境で。今思えば、自ら辛い環境を好んでいたのかなと思うのですが、当時は全く意識しないままに厳しい環境にのめり込んでいくタイプでした(笑)。


ーそれは相当厳しそう……!

365日、休みは一度もなかったのではと思うほど、本当に部活漬けの毎日でしたね。

高校野球は人生の縮図だ。ここで本気になれなかったら一生本気になれない

これは当時の監督がおっしゃっていた言葉なのですが、この言葉に代弁されるように無我夢中で走り抜けた日々でした。私が通っていた高校は校則が緩く、友人の中にはスカートを短くしたり周りにバレないようにメイクをしたりする子もいたのですが、野球部はもちろん校則厳守。スカートは膝下丈、すっぴん、廊下で先生とすれ違った際はしっかり挨拶をするなど、いわゆる「The 体育会系」でした。

 

ー部員と同じようにマネージャーも厳しい環境の元、部活に本気で取り組んでいたんですね。

必死でしたね。私が入部したときは1学年先輩のマネージャーがおらず、2学年上の先輩マネージャーが引退するまでの3ヶ月間でマネージャー業の全てを覚えなければならず……。ですが、蓋を開けてみるとそもそも「マネージャー業を後輩に教える文化」がない状況で。「仕事は自分から取りにいって、見て覚えるもの」「それくらい主体的でなければマネージャーをやる意味がない」と身に染みて感じました。必死に食らいついていましたね。

 

ー小学校、高校と決して楽ではない環境で必死に努力を重ね続けた日々。この時の経験が現在に繋がっていると感じる瞬間はありますか?

中途半端が嫌いな性格なのは、昔も今も共通していますね。やるからにはとことん極めたくなるというか。当時から無意識に高い目標を掲げることが好きだったのかもしれませんが、やるからにはてっぺんを目指したい気持ちが強くて。

ゴールまでの過程がどんなにしんどくても、最後が全てを凌駕すると思うんです。やり切った瞬間がすごく好きなのは、学生時代の経験が大きく影響しています。

 

「振れ幅がある大人になりたい」無我夢中だった大学時代


ー高校卒業後は大学へ。進学先はどのような基準で選ばれたのでしょうか?

東京の大学であること、よい立地であること、短大の中で最も偏差値が高くネームバリューがあること、の3点から東京の表参道にある青山学院女子短期大学を選びました。すごくミーハーな理由ですよね(笑)。

本当に世間知らずだったので、とりあえず広い世界を見てもっとたくさんのことを知りたい欲求が強く、「東京の大学に行きたい」と思っていました。ですが、当時の私は4年制大学に進学するメリットをあまりよくわかっていなくて……。社会人になることに対してあまりマイナスな印象がなかったため、ならば早めに社会人になって働いた方が楽しいかもしれないと思い、短大に進むことにしました。


ー大学に通う意味をしっかりと考えて短大を選択されたんですね!2年間の大学生活で下村さんが最も熱心に取り組んだことはなんですか?

他大学の友達と遊んだり営業のインターンをしたりしていました。その結果、様々な社会人コミュニティに連れて行っていただく機会が増え、同年代から社会人まで多種多様な方々と出会いました。「私は将来、どのような社会人でありたいか」を少しずつ言語化することに時間を費やしていましたね。

大学の外の世界が好きで楽しんだ大学生活でした。

 

ー短大に入学される前から、大学では学外活動を頑張ろうと決めていたのでしょうか?

いえ、大学生活の過ごし方を入学前から明確に決めていたほどではなかったのですが、短大生の就活は入学後すぐにスタートすることが影響して、学外活動に精を出すようになりました。短大生の場合、大学1年生の冬には就活が始まるんです。


ーつい最近大学生になったと思ったら、半年後には就活がスタートするんですね……!

そうなんです。短大生の就活スケジュールを知ったとき、もう一つ衝撃的なことに気づきました。

このときの気づきが、私を「営業インターンをしまくった大学生活」へと導くことになります。


ーと言いますと?

「短大卒」というだけで選考にエントリーさえできない企業がある。私はこの事実を就活を始めるまで知らなかったんです。学歴で足切りされていく様を身をもって体感し、社会はこんな風に決まっていくのか、と気づきました。

そして、多くの社会人の方とお会いするうちに、私にとっての「かっこいい大人」は「振れ幅がある人」だと考えるようになったんです。


ー下村さんなりの理想の大人が少しずつ見えてきたんですね。「振れ幅がある人」とは具体的にどのような人のことを指すのでしょう?

具体的にいうと、田舎のおばちゃんが営む手作りの定食屋さんがあるとします。定価は500円。この定食屋さんのことが大好きで、この場に集うコミュニティにも足繁く通って自然と仲良くなる人柄を持ち合わせたような方が、ときにはミシュラン星の高級バーできちんと自分のお金で楽しむ余裕を持っている。そんな振り幅のある人になりたいと思ったんです。

先ほどもお伝えしたように、私は学歴で勝負できないことが明白でした。それならば、周りより早く社会に出て、自分の名前で仕事をできる人になろうと。自分なりに考えた理想の大人像をいろいろな大人に伝えキャリアの選択肢を壁打ちするうちに、また一つあることに気づいたんです。


ー次はどんな発見があったのでしょう?

相手が納得感を感じられる発言でなければ、誰も私の言葉に耳を傾けてなどくれない、と気づきました。学生が机上の空論を伝えたところで、誰も聞いてくれるわけがないと。

ならばまずは誰が見てもわかりやすい実績を作り、自分は何者であるかを明確に伝えられる人になろうと思いました。シンプルな実績を作れる職は何かと考えたとき、辿り着いたのが営業でした。

営業で培われるスキルは汎用性が高く、全職種に活かすことができるはず。必ずや将来の土台になるだろうと想像していたため、営業力を身につけることで社会人基礎力を高めたい一心で営業インターンを始めました。就活と並行しながら、1年ほどインターンをしていましたね。


ーなるほど、自らの発言に説得力を持たせるために実績作りとして営業インターンを始めたんですね!どのような商材を扱っていたのでしょうか?

個人のお客様に生命保険を販売していました。生命保険を選んだのは、お客様の人生において「大きな買い物」に携わりたいと思ったから。お客様にとって大きな意思決定となりうる領域の営業に挑戦したかったんです。インターン先から内定をいただいていたこともあり、8〜9ヶ月ほど働いていました。


ーはじめて挑戦した営業。営業職に対するイメージに変化はありましたか?

イメージ通りでした!改めて、人に向き合い課題解決をするおもしろさを実感しましたね。

ですが、当時の私が担当していたのはtoC営業。主に主婦層向けに個人営業を行っていました。次第に「toB営業を通して、経営者などのビジネスに直接関わる方ともお話をしてみたい」と思い、BtoB営業に興味を持つように……。無形商材を扱うことによって「自分自身に購買理由が付帯するのでは」と思い、無形商材でBtoB営業に携われることを重要視して就職先を探した結果、前職であるネオキャリアと出会いました。

ネオキャリアは、学歴に関係なく実力でフラットに評価するスタンスを持つ企業。この姿勢にも惹かれて入社を決意しました。


ーインターンを通して営業職の理解を深めたことで、キャリア選択がより明確になったんですね。ネオキャリアに入社を決めるとき、他社と迷うことはありませんでしたか?

ありませんでしたね。ネオキャリアでお会いする方は、すごく前向きで自分の人生に強い意思を持って生きてる方ばかりでした。「こんな人たちと一緒に働きたい」「私もこんな人になりたい」と思えたことが入社の決め手になりました。

 

はじめての挫折。もがき続けた社会人1年目


ーなんと、短大からネオキャリアに新卒で入社した事例は過去になく、下村さんが初めてだったと伺いました!

そうなんです!想定外だったのですが、同期の中でも「20歳の子がいるらしい」と噂になっていました(笑)。当時、ネオキャリアでは新卒研修の結果がランキングで発表されるのですが、ここでもたまたまいい結果が出たことでさらに注目されるように。同期200人中10位代だったんです。こうして第1希望の部署に配属となり、とんとん拍子に事が進んでいきました。

配属先では、新卒採用の求人広告を中心に採用に関するトータル営業を行っていました。

 

ーそれはすごい!その後も調子はうなぎ上りだったのでしょうか?

それが全然だめで。それまでの人生で1番の挫折を経験しました。大学時代に営業を経験し、たくさんの社会人と交流していたこともあり、このままうまくいくだろうとたかを括っていたのでしょう。調子に乗っていましたね……。

 

ーなんと……。一体何が起きたのでしょう。

新卒研修まではよかったのですが、部署配属後の成果が全く出なくて。同じ部署にいる10人の中でずっとビリでした。ビリというより「圧倒的ビリ」と言った方が正しいかもしれません。周りに大差をつけられるほど成果が出ないだけでなく、何をしても空回りで……。そんな状態が1年半続きました。

全く部署の役に立てていないにもかかわらず、当時の上司は常に私を見捨てずにいてくれました。すごくいい方で、諦めずに私と向き合い続けてくれたり、「絶対大丈夫だから」と励ましてくれたり……。どこまでも支えてくれる上司や同期に申し訳なくて悔しくて、毎日泣きながら過ごしていました。仕事の基準や厳しさを身をもって痛感しましたね。

ーそんな時期があったんですね。正直、心が折れそうになった瞬間はありませんでしたか?

あります。それはそれは何度も……。5万回くらい折れそうになった気がします(笑)。


ー5万回は凄まじいです。何をやっても結果が出ない状況の中、それでも最後まで心が折れなかったのはなぜでしょう?

それまで、どんなに辛くても最後までやりきってよかったと思える経験しかしてこなかったからかもしれません。後悔が残るタイミングで何かを途中で諦めたことがなくて。

思い返せば、小学校のリコーダー部も高校で野球部のマネージャーをしていたときも、めちゃくちゃしんどいときは数え切れないほどあったんですよね。それでも、私にとっては辛かった過去ではなく「やりきってよかった経験」として心に残っていて。

「今はどん底でこの先どうなるかなんてわからない。私には営業のセンスがないかもしれない」と思ったこともありましたが、どん底だからこそ、今このタイミングで辞めてしまったらすごくもったいないと思ったんです。仮に辞めるとしても、周囲に惜しまれて辞める自分でありたかった。だからこそ、「辞めたい」が「辞めよう」になることはなかったように思います。回り回って「やっぱり頑張ろう」に戻るんですよね(笑)。

 

「広報」との出会い。本当にやりたいことと向き合った日々


ー過去のやりきった経験が今に繋がっているんですね。営業部での2年を経て人事部へ異動。このジョブチェンジは下村さんの希望だったのでしょうか?

いえ、たまたまお声がけいただいて異動することになりました。人事部の新卒採用担当になったのですが、見違えるほど成果が出るようになって!仕事ってこんなに楽しいんだと思いましたね。

 

ー職種が変わるだけでそんな変化が!営業部だった頃と何が違ったのでしょうか?

当時のネオキャリアは、社員数3,000人を超えるメガベンチャーです。部署が変わるだけでもまるで転職したように環境ががらりと変化するんです。営業から人事になったことで、業務を通して価値提供する相手も変わりました。以前は、採用担当者や社長さんだったのですが、異動後は学生さんに。仕事で使う頭も180度変化しました。

ですが、営業時代に培ったコミュニケーションスキルや交渉力は引き続き私の中で活きていて。自ら考えて仕事をすることが、楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。異動から数週間後に前部署の社員と出会ったときには「表情が違うね!」と言われたので、顔つきさえも変化したのかもしれません(笑)。

ー新卒採用の中でも、下村さんはどのような業務を担当されていたのでしょうか?

採用広報や採用マーケティングと呼ばれる分野を担当していました。当時、就活市場におけるネオキャリアの認知度はまだまだ低く、就活生からエントリーを増やすためのありとあらゆる施策を練っていました。採用予算は数億円。莫大な予算をそれぞれの施策に分配し、年間採用戦略を策定、実行していましたね。採用パンフレットや採用動画作成、SNSの運用なども担当しながら、学生さんと面接も行っていました。


ーここではじめて「広報」を担当されたんですね!

そうなんです!広報によってもたらされる影響の広さと大きさを知りました。

営業は、主に1対1で目の前にいる方に向き合い課題を解決していくことが主な役割です。一方、採用広報は1つの仕掛けがきっかけとなり複数の人から反応が変わることもあります。思わぬ形でよい反響に繋がることもある。「下村さんが企画した記事を読んでネオキャリアに応募しようと思いました」と言われたときはすごく嬉しかったですね。


ー人事に異動されてから2年半。初めての転職を考えはじめたきっかけはなんですか?

社会人4年目に突入したタイミングで、今ある環境を全て取っ払ったときに私は何をしたいのか考えてみたんです。すると、地域では知られているけれど全国には知られていない「地域の独自の価値」に興味を持っていることに気づきました。


ーなるほど。

具体的には、伝統工芸品やお祭り、その地域ならではの文化や老人の知恵、農産物など、ありとあらゆるものが「地域の価値」になるでしょう。これら全てが「伝え方」を変えるだけで、観光客を増やすことに繋がったり販売額が増加したりするのではないかと思ったんです。様々な形で日本経済を回すことで、地域の人たちの暮らしがより持続可能になっていく気がして。そして私自身は「日本全国と様々な地域を繋ぐ接続点になりたい」と思いました。

 

ー「接続点になりたい」。素敵な言葉ですね。

人事は「人を介して事業を成長させていく」仕事です。そして、対話の相手は主に自社の選考に興味を持ってくださった求職者さんになります。

事業広報は、対話相手が複数存在することが大きな違いです。ビビッドガーデンに例えるならば、投資家さんや自治体、消費者さんや生産者さんなど幅広い方への情報発信が必要になります。それだけでなく、広報の発信が事業の成長に直接活きるんですよね。すごくおもしろそうだな、と。

転職先を「すでに広報が強い企業」と「これから広報に力を入れていこうとしている企業」のどちらにするか迷ったのですが、私の性格と合っているのはこれから試行錯誤して創り上げていける企業だと思いました。

こうして、少しずつ次のキャリアが見えてきました。

 

目指すのは「ファン作り」。下村彩紀子の描く未来


ー下村さんがビビッドガーデンに転職されたのは創業3年目の2019年10月。ビビッドガーデンとはどのように出会ったのでしょう?

知り合いの方に紹介していただきました。当時のキャリア観を多くの方に壁打ちさせていただいていたとき、「ビビットガーデンって知ってる?社長が知り合いだから繋ごうか?」と言われたのが最初の出会いです。

 

ービビッドガーデンへ転職することに対して迷いはありませんでしたか?

全くありませんでしたね。実は、ビビッドガーデンを紹介していただく半年前から転職活動をしていて、最後に出会ったのがビビッドガーデンだったんです。

 

ーそうだったんですか!

はい。それまでにたくさんの時間をかけていろいろな企業を見ていたので、私自身のキャリアの軸もほぼ固まっていたんですよね。まだ内定していないのに、代表の秋元と会う前には入社の意思を固めていたほど(笑)。「私、ここで働くんだ」と。

 

ー並々ならぬ熱意を感じますね。半年間の転職活動を経て、ビビッドガーデンにしかない魅力はなんだと思われましたか?

会社として貢献したい相手が明確なところですね。「生産者の”こだわり”が正当に評価される世界」を目指すとビジョンを定め、事業の方向性も明確。そのため、会社における全ての意思決定に矛盾がなかったんです。「なぜやるのか」がすごく腑に落ちた状態と言いますか。

 

ー下村さんが食べチョクを通して実現したい未来はありますか?

生産者さんのファンを全国に作り、日本の食を豊かにしたいです。

私は新潟県の田舎町に生まれました。田んぼ道はあって当たり前の存在だったのですが、大学進学を機に上京したことで、一面の田んぼ景色も農家さんの努力によって守られていたんだと気づいたんです。そして、食べチョクを通して出会った生産者さんは、すごく素敵な想いを持っている方ばかり。生産者さん一人ひとりのファンを作る、自治体にファンを作る、どんな形でもかまいません。食べチョクが接続点になることで消費者さんの次の旅行先が決まったり、第2の故郷として定期的にお取り寄せする関係になったとしたら、日本の食がもっともっと豊かになると考えています。スーパーに並んでいる食材のその先にいる生産者さんの人柄や思いを知ることで、食卓がより彩られると思うんです。

食べチョクを通して、これまでになかった新しい繋がりをどんどん作り出していきたいです。

 

ー下村さんにとって、広報の魅力とはなんでしょう?

様々な関係者の期待を超えることができること、でしょうか。

食べチョクに登録してくださっている生産者さんも、食べチョクに出品することで売り上げを伸ばしたいと思っている方もいれば、消費者と繋がりフィードバックを活かしたいと思っている方もいる。生産者さんから食べチョクに対する期待って、決して一辺倒ではないんです。

先日、とある雑誌にリンゴ農家さんが掲載されました。掲載先の雑誌は20代後半の女性向けのライフスタイル雑誌で、ご高齢だった農家さんはその雑誌の存在をご存じなかったんです。ですが、農家さんのお孫さんがたまたま雑誌の読者だったようで、「いつも読んでいる雑誌に自分のおじいちゃんの農園が載った」と喜んでくださったんです。その結果、お孫さんはこれまで以上に農園を応援してくれるファンになったと伺って。

このお話を耳にしたとき、雑誌に掲載された元々の目的とは違うかもしれないけれど、生産者さんを応援してくれる方をたくさんの場所で増やすお手伝いができる仕事なのだと気付かされました。

 

ー最後に、下村さんが考える「これから」を教えてください。

生産者さんや地域のファンを作りたいと思っています。

誰よりも生産者さんのことを語り、地域の特性すらも話せるように。生産者さんから「下村さん、うちの農家の広報でしたっけ」と言われるくらい、ファン作りに貢献したいんです(笑)。食べチョクの広報として、産直の魅力やストーリー、体験価値を伝えられることがまだまだたくさんあると思っています。

食材を直接買うことで生まれるコミュニケーションの楽しさに気づいていただけるような取り組みをしていきたいですね!

 

ー本日はありがとうございました!下村さんのさらなる挑戦を応援しています!

取材・執筆:あおきくみこ(Twitter/note
デザイン:五十嵐有沙(Twitter