「貧困不良少年」から国会議員へ。正義を貫き平和を愛する中谷一馬が駆け抜けた日々【第1章:県議会議員編】

第一線で活躍しているビジネスリーダーの方に、まだ何者でもなかった10〜20代の頃から現在に至るまでのストーリーを伺う連載企画「#何者でもなかった頃」。今回のゲストは、立憲民主党衆議院議員の中谷一馬(なかたに・かずま)さんです。

27歳、県政史上最年少で県議会議員に当選して政界デビュー。しかし、かつては不良少年グループの代表格だった時代があると言います。貧困家庭に育ち、中卒で社会に出る――まさに「何も持っていない」状態からスタートを切った中谷さん。どのようにして這い上がり、国会議員の座に就いたのでしょうか。

今回は第1章として、中谷さんの幼少期から県議会議員になるまでのストーリーをお届けします。

 

「貧困」と「暴力」に苦しんだ過去があるから政治家を目指した

――現在、最若手クラスの国会議員として精力的に活動されている中谷さんですが、過去には中卒で「貧困不良少年」としてレールを外れた時期があるそうですね。そもそも中卒で社会に出る道を選んだはなぜでしょうか?

母子家庭かつ貧困家庭で育ち、少しでも早く働きに出て家族を支えたいと思っていたからです。11歳のときに両親が離婚して以降、母は女手ひとつで子供3人を養ってくれていましたが、どれほど働いても生活は厳しくなるばかり。

必死に働くひとり親家庭の母親がワーキングプアになるという社会構造自体に問題があるのですが、当時の私はそんなことを考える知識も余裕もなかった。火の車になっている家計を目の前に、とにかく稼がねばと思って中卒で社会に出ました。

――中卒で社会に出ても、家族を支えるほど稼ぐのは難しかったのでは?

その通りです。引越し屋、ピザ屋、ガソリンスタンド、コンビニエンスストアなど、さまざまなところでの仕事を模索したものの、家族を養えるほどの収入は得られませんでした。私が未熟だったこともあり、仕事も続かなかったり、すぐクビになったりするなど、なかなか上手くいかない。そうしているうちに、社会で働くことに挫折し、道を逸れてしまったのです。

――そこから「貧困不良少年」時代に突入するわけですね。

気づけば、同じように道を逸れた若者たちと集まるようになっていました。貧困や家庭環境が原因で道を逸れ、十分な教育が受けれらずに社会に出た若者たちです。その中でグループが形成されていき、ある時期には私が不良少年グループの代表の代表格だったこともあります。

このような状況から抜け出すための道を指南してくれる大人がいれば、私を含め、不良少年たちの人生は違ったものになっていたかもしれません。しかしながら、公共に手を差し伸べてもらえる環境があったわけでもありませんでしたので、そんな社会や政治に対して皆で不平不満を漏らすばかりでした。

残念ながら当時は、私を含め「社会を良くしよう」「政治を変えよう」と考える人は周りに誰もいませんでした。そんな発想をするだけの知識や経験を持ち合わせていなかったため、社会を改善するための方法もモチベーションも持っていなかったんだと思います。社会の底辺で政治や世の中の矛盾を感じながらも、「何を言っても社会は変わらない」と諦めていた。次第に、「自分の今が楽しければそれでいい」という刹那的な生き方をするようになりました。

――そのような状況にいた中谷さんが、政治家を目指すきっかけは何だったのでしょう?

フランスの画家であるポール・ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という作品を見たことがきっかけです。その絵を見たとき、シンプルに「私は何のために生まれてきて、この一時代で何を成し、どう死んでいくのだろう」と考えました。

先人たちが、より良い世界にするために思考と行動を積み上げてきた結果、今の時代がある。それならば私の100年の人生も、次の時代をより良いものにするために使うべきではないかと思ったのです。

まずは自分と家族が幸せになるために生き、それがゆくゆくは世界中の人の幸せや平和につながれば、それが自分の存在価値になるんんじゃないか。そう考えて行き着いた答えが、「政治家になって世の中をより良くする」というものでした。

――たった一枚の絵が人生を変えた、と。

私は貧困と暴力のある家庭で育ったため、ずっと死生観や哲学的なことを考えて生きてきました。だからこそ、自分の軸が早くから形成できていたのかもしれません。数多ある社会課題の中で、自分の目の前にある課題はボーッと待っていても誰かが何とかしてくれるわけではないので、自分たち自身が改善しなければならない。そして社会の矛盾を変えるためには政治を変えるしかない、と思うようになっていました。ゴーギャンの絵に出会ったことが、考えを行動に移すためのトリガーになったのです。

 

「平和」と「正義」を守る生存戦略としての”ヤンキー”

――社会に不平不満を漏らすばかりの不良少年グループの中で、「自分で変えよう」とポジティブなマインドセットを持ち続け、腐らずにいられた理由は何だったのでしょうか?

幼い頃のカオスな家庭環境が、私の「正義感」や「反骨精神」を育んだのだと思います。父は非常にバイオレンスな人で、家の中だけでなく外でも喧嘩ばかりしていました。幼い私にとって父は声を聞くだけで鳥肌が立つほど怖い存在でしたが、その結果、多少のことでは恐怖を感じない人間に成長しました。特殊な家庭環境だったからこそ、勇猛果敢に挑むメンタリティが培われたのだと感じます。

一方の母は、父を反面教師として徹底的に「人としてこうあるべき」と教育してくれました。彼女にとっての理想の男性像を叩き込んでもらったのだと思います。おかげで、「当たり前のことを真摯に誠実に愚直に行う」「困っている人がいたら手を差し伸べる」という私のマインドセットができあがった。母の影響は大きいですね。

――幼い頃からの環境と教育が、今の中谷さんを作り上げたのですね。

自分の正義や平和を守るための生存戦略として、今の人格が形成されていった部分もあります。両親の離婚などもあり、生活が不安定な時期が続き、親戚を頼って全国を転々としていたので、幼稚園から中学校まで何度も転校を繰り返しました。そうすると、既存のコミュニティに飛び込んで、必要とされるポジションを見つけて友達を作る術が自然と身につきました。

特に、東京から大阪に引っ越したときは過酷でした。まず大阪弁を話せないので、コミュニティに入ることができない。引っ越した街も、犯罪発生率が非常に高かった。その中で自分の平和を守るには、強くならざるをえませんでした。

人間は無意識に、自分に実害を加える可能性のある自分より強そうな人を相手に意味のない不合理な喧嘩を売ったりしません。「ボブサップならカツアゲされにくい」と言えばイメージしやすいかと思います。だから自分が強ければ、仲間や家族が危害を加えられることもありませんので、戦わずして勝つ環境を作ることができました。私にとって、「正義」や「平和」を守るための生存戦略が「不良になること」だったのです。

 

チャンスを掴んで成功するコツは「行き当たりバッチリ」にすること

――不良少年グループにいながらも、ご自身の正義を貫いた中谷さん。政治の世界に入るまで、2度のターニングポイントを経験されています。まず1つ目が、投資家に3,000万円出してもらって渋谷にバーをオープンさせたこと。このチャンスを手に入れるまでには、どのような経緯があったのでしょうか?

政治家になるには学歴が必要だと分かり、まずは働きながら通信制の高校に行くことに。その頃、銀座でホステスをしている友人の話を聞いて、テレビに出るような著名な人たちに近づける環境があることを知りました。

私自身、知恵もお金もコネも何もなかった。だったら環境を変えて、すごい人たちの側で勉強しようと思い、西麻布でバーテンダーをすることにしたのです。そこでは、多くの著名な経営者や政治家、芸能人の方々と会い、世間話をする機会もありました。お客さんの話は一つひとつがすべて刺激的。知らない単語はその場でメモして、帰宅後に調べて自分の知識にしていったのです。

3000万円出してくれた投資家の方と出会ったのも、そのバーでした。私たちは会話が弾み、その方のホームパーティーに参加することに。渋谷でバーをオープンしたいと考えていた私は、パーティーで具体的なプランを話したのです。

するとその方は、まだ会って2回目にポンっと3,000万円出してくれることを即決された。こんなチャンスがやってきたことは、私の37年間生きてきた人生の中でも22歳のこのときだけです。

――具体的な計画を立てることができたからこそ掴めたチャンスですね。なぜそこまで詳細な未来設計ができていたのですか?

「好きこそ物の上手なれ」の言葉通り、シンプルに好きなことで目標が明確だったからです。だからすぐに具体的なプランを答えられた。このとき初めて、巡ってきたチャンスを受け止める準備の必要性を実感しました。

しかし、仮に準備ができていなかったとしても、チャンスだと思ったら果敢に挑戦することが大事だと思っています。大口を叩いて、臆さず飛び込めるか。飛び込んだら、帳尻を合わせるために必死で頑張れるものです。「行き当たりばったり」ではなく、「行き当たりバッチリ」にすること。そして失敗しても成果が出るまでめげずにやり続けること。これがチャンスを掴んで成功するための秘訣だと思います。

――好きだから準備ができていたし、もしできていなくても飛び込むことが大事なんですね。もうひとつのターニングポイントは、株式会社gumi(旧 アットムービー・パイレーツ株式会社)の執行役員としてジョインしたこと。これはどのような経緯があったのでしょう?

3,000万円の資金をかけて、渋谷で「Reality【リアリテイ】」というダイニング・バーをオープンしたとき、人間関係を構築するために20代の若手の団体代表サークル「TOPS」をつくりました。そのサークルのイベントに、gumiを創業する前の國光宏尚さんも参加してくれていたのです。

後援会長の國光宏尚氏と

通信制高校を卒業したばかりで不良少年上がりの私と、バックパッカーとして世界を旅して帰ってきた國光さん。二人とも何の力もありませんでしたが、夢だけは大きかった。「俺は、会社を上場させて世界一の企業を作るで」「俺は、国会議員になって世界を平和にします」ビックマウス過ぎる夢を語り合っていた私たちは意気投合してすぐに仲良くなりました。

だから國光さんから「会社を創ろうと思っている」と誘われたときは、二つ返事でOKし、gumiの役員として参画することになったのです。

当時は事業が軌道に乗らず苦労したこともありましたが、お互いに支え合って頑張ってきました。今では國光さんが私の後援会長を務めてくれています。

 

「バッターボックス」に立ったからこそ、県政史上最年少議員として当選できた

――バーの経営もベンチャー企業の仕事も順調だった中谷さんが、政治家としての活動に専念することとなったきっかけは何だったんでしょうか?

私の原点はずっと政治にありました。だからこそ自民党の学生部に副委員長として携わったり、日本の政治をおもしろくする会という学生団体を立ち上げるなど、政治と関わる環境にも身を置いていたのです。いずれ政治一本に絞らなければと思っていた頃、縁あってインターンシップに従事させて頂いていた菅直人さんに「給料はいくらでもいいので雇ってください」と懇願。すると、秘書として雇ってもらえることになりました。そこから政治の道にシフトしたのです。

菅直人元首相と

――菅元首相の秘書を辞めて神奈川県議会議員に立候補したのはなぜですか?

いずれは独り立ちしなければならないと考えていたからです。それに、私の中には「人が人から離れるときは、その人が困難なときではなく、最も良い状態のときだ」という信念がありました。お世話になった人だからこそ、人が離れて困る時期ではなく、人が沢山集まってきて自分の変わりなどいくらでもいる時に離れようという想いからです。

だから菅さんが総理大臣になった月まで秘書として仕えた後、県議会議員を目指すべく神奈川県の港北区で立候補を目指しました。県議会議員より総理大臣秘書の方がいいんじゃないかと引き止めてくださった方々もいらっしゃいましたが、私の意思は変わりませんでした。

――そして史上最年少の27歳で県議会議員に当選。戦況は厳しかったそうですが、そのような状況で当選できた要因は何だったのでしょう?

バッターボックスに立ったことが、何よりの勝因だと思っています。もし「自分にはできない」と諦めて打席に立たなかったら、その時点でホームランどころかヒットの可能性も”0%”になります。打てないかもしれないけれど、打席に立ってトライすることが大事なのです。

私はとにかく打席に立ってバットを振った。すると、現職の方が別の選挙区に移ったり、引退されたりと、不思議な化学変化が起こったのです。さまざまな事情が重なった結果ではありますが、私が飛び込んで歯車をひとつ変えたことで、周囲の動きも変わった。私が挑戦をやめていたら、起こりえなかったことです。

また、その選挙区は若者の人口が多く、住民の平均年齢が比較的低い地域で、若い政治家を生み育ててくださりやすい土壌があったことも要因のひとつだと考えています。

 

「世界平和」を実現させるために政界で突っ走る

――最年少で県議会議員に当選したのち、「リバースオークション」を導入してマニフェスト大賞で最優秀政策提言賞を受賞。具体的にどのようなことをされたのでしょうか?

リバースオークションというのは、価格を競り下げていく入札方式です。複数社から見積りを提示してもらったのち、それぞれの価格をオープンにする。そうして各業者で競ってもらい、価格を競り下げて役所が入札します。

要件をきっちりと定めて、これまでより公平かつ安価で業者に依頼できたため、経費の削減に成功。多くの財源を生み出すことができたので、その分を教育や福祉の予算に充てたいと考えました。

――リバースオークションに反発する事業者や団体もいたと思うのですが。

これまで他と比較されることなく受注して利益を得ていた事業者からは、反発を受けたと思います。しかし、リバースオークションを実現することが特定の誰かの利益ではなく、公の幸せにつながると信じていましたので、芯を持って推進しました。

無名の新人が進めていたため、実現するまで事業者含めてノーマークだったことも加勢し、スムーズに導入が決定。提案が通ったあとでビジネス的の発想だったこともあり、若干の反発はありましたが、政策としては成功して評価され、全国に広がったことはひとつの成果だと考えています。

一部の既得権者の利益ではなく、多くの国民の利益を優先する。その積み重ねが、今の私の信用につながっていると思っています。

――マニフェスト大賞で受賞する前に、WEF(=World Economic Forum)のGSC(=Global Shapers Community)でも活動されていたんですよね。

はい、世界経済フォーラムの33歳以下の日本代表メンバーに選んでもらい、コミュニティに参加することができました。日本の地方議員としては初の選出でしたので、とても光栄でした。そのコミュニティには当時、私と同世代のスーパースターたちが大勢参加しており、非常に刺激をもらいました。

これまでの人生経験で、自分の判断力や決断力、推進力にはある程度の自信を持っていましたが、「上には上がいる」と思い知らされる、学びの大きい環境だったと思います。自分が上にいる環境は居心地はよいと思いますが、成長には繋がりにくい。やはり自分が下にいて優れたロールモデルに見取り稽古で触れられるコミュニティは学ぶことが多くありましたので、成長スピードもぐんと加速したように感じました。

――県議会議員として活躍されたのち、ついに国会議員へ。中谷さんが政治を通じて実現したい未来とは?

私は世の中の「貧困」と「暴力」を根絶したいと思っています。「平和」で「豊かな」社会がいつもいつまでも続く世の中を創りたい。端的に言えば、”世界平和”を実現したいです。

「世界平和なんて無理に決まっているだろ」と言われることもありますが、どのような社会を創りたいと思っているのか、ビジョンを明確に掲げることは非常に重要です。政治家が前を向いて夢を語らなかったら、国民の皆さんに一体何を語るのでしょうか。私は夢を大きく語り、実現に向けて一歩一歩道筋を切り開いていきたい。

そして理想とする社会を実現するためには、政治家だけでなく国民の皆さんの協力が必要不可欠です。私が政界に入って痛感したのは、意見を通すのが上手い人たちの意見だけが制度に反映されているということ。

政治に無関心でいることはできても、生活に政治が無関係であることはできません。だからこそ私は、誰かが動いてくれるのを待つのではなく、主体的に変えていこうと思いました。

私は、平安時代に天台宗を開いた最澄が述べたとされている「一隅を照らす」という言葉がとても好んで使います。私達一人ひとりが世の中の問題点に対して、自分の見える範囲のことをできる限り改善していけば、世の中はきっとより良くなる。仮に、この世に生きるすべての人が、ステージに応じた社会の問題点を真剣に考え、それを解決するために全力でアプローチができる社会を創ることができれば、「世界平和」という目標も必ず実現できると確信しています。

「現状に屈するのか、未来を拓くのか。全ては自分自身の行動が未来を決める。」

皆で一緒に社会をより良くしていきましょう。

――U-29世代に勇気を与えるストーリーと、未来に向けた力強いメッセージをありがとうございました!次回、中谷さんが県議会議員から国会議員になるまでの道のりを詳しくお伺いしたいと思います。

 

取材:西村 創一朗(Twitter
文:矢野 由起