様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第235回目となる今回のゲストは、絵画アーティスト/デザイナーの工藤 美奈さんです。大学時代の海外旅、交通事故の経験が人生の転換期となった工藤さんに海外旅や交通事故のエピソード、さらには将来の夢についてお聞きしました。
表に出ることが苦手だった幼少期
ー簡単に自己紹介をお願いします。
フリーランスでデザイナーと絵画アーティストをしている工藤 美奈です。
2020年の3月に大学を卒業し、今は在学中からの仕事を続けています。
デザインは紙媒体中心で、ロゴやパッケージのデザインを作っていて、直近ではクッキーのパッケージを作っています。絵画アーティストとしては、絵を描いて展示したり、店舗に飾る大きい絵を描いたりしています。
ーデザインと絵描きを2年独学で学ばれたとお聞きしましたが、
新卒でフリーランスの道を選ばれたことは勇気がいる決断ではなかったですか。
周りのほとんどの人は、就活をして就職をする道を選ぶ中で、新卒でフリーランスの道を選ぶのは勇気が必要でしたし、周りからの様々な意見があり、すごく悩みました。
ただフリーランスという働き方がやっていて楽しかったですし、自由な性格である私に合っていると感じていました。また、在学中から少しずつお仕事を受けていたこともあり、このまま頑張ってみようと思いました。
ーここから少女時代のこともお伺いできたらと思います。幼少期はどう過ごされていましたか。
すごくシャイで物静かな女の子でした。
幼稚園の時も周りに馴染むことが苦手で、制服を着ていくことに抵抗したりしていました(笑)
シャイな性格が中高時代まで続きました。表に出る事が苦手で、静かに生きていたいと思っていましたし、当時の流行にあまり興味がなく、静かに絵を描いたり、好きな小説を読んだりと自分の世界に没頭していました。
ー中高時代に熱中していたことは絵を描くことや小説を読むことだったのでしょうか。
絵を描くこと、赤毛のアンをはじめとする小説を読むこと、あとは学校の文化祭にハマっていました。高校の文化祭は、有志でチームを作って自分たちの好きなことを出来たので、とても楽しかったです。
ーどんな事が楽しかったのでしょうか。
お店を作るとなると、看板やロゴ・チケットが必要だとなり、その頃からデザインやロゴを作る事が楽しくて、Tシャツのデザインに自分から積極的に関わったりしていました。
ー美術部に入ろうとはならなかったのでしょうか。
一回見学に行きましたが、入りませんでした。絵を描いてはいましたが、絵を描き始めることは面倒だったりするので、絵を仕事にしようと当時は思っておらず、趣味の一つとして捉えていました。
自分が変わるきっかけとなった台湾旅
ー大学を選択するときの選択軸を教えてください。
将来やりたい事が全く分からなかったため、当時好きだった世界史が学ぶことのできる名古屋大学の地理学を選びました。
家庭の事情により、大学は地元という制限がある中で、名古屋大学の文学部であれば、入学後でも専攻を選べることもあり、選びました。
ーその後、海外への一人旅に行かれると思いますが、そのエピソードについて教えてください。
もともと海外に対する憧れがありました。
小学校の時に地元で愛・地球博が開催され、そこに何度も足を運んだり、クリスマスプレゼントに国旗図鑑が欲しいと言う女の子でした。国旗を眺めたり、いろんな国があることを知る事が楽しかったんです。
大学生になったら海外に行きたいとずっと思っていて、大学2年生の6月に初めての海外旅行となる台湾へ4日間行きました。パスポートを取得したり、自分で宿や航空券・保険を決めたり、親を説得したりといろいろな準備が必要で大変で、あれだけ憧れていた初海外にもかかわらず行く前は不安でいっぱいだったのですが、行ってみたらとても楽しかったんです。
自分で計画したプランを実行して、120%楽しんで日本に帰国できたことがすごく嬉しく、そこから旅にハマっていきました。
ー台湾への旅で具体的に思い出に残っているところを教えてください。
夜市です。台湾には多くの夜市があり、道の両側にいろいろな店がありました。
フルーツ、野菜、肉や魚、革製品、マッサージ屋などが広がり、匂いや熱気に圧倒されました。家族や友人と当たり前のように歩いて食べて楽しんでいる、現地の台湾人の様子を見て、私がこれを知らなかっただけで、台湾のこの場所では何十年何百年続いてきたのかと思うと、すごい事だなと感動しました。
ー台湾への旅がきっかけでご自身に変化があったのでしょうか。
自分にとって「やりたいけど、できるかな」と思っていたことを乗り越えた事で1つ自分の中で自信になり、そこからいろいろなことに挑戦していけるようになりました。
ー海外に行きたいと思われていた中で、なぜ一人旅を選んだのでしょうか。
もともと一人で行動するタイプであったのと、バックパッカーのバイブルと呼ばれている「深夜特急」という小説を台湾旅の前に読んだことが影響し、その小説と同じ旅のスタイルを自分もしてみたいと思い、一人旅を選びました。
レールに縛られずに自分のやりたいを大切にして良いのだと気づく
ーその後はどういった国に行かれましたか。
東南アジアのタイ、カンボジア、ネパールに行きました。
長期休みのたびに、お金を全て旅行に費やしていました。
ーこの3ヵ国を旅した時のエピソードを教えてください。
印象に残っているのは、ネパールです。
ネパールには、1週間はボランティア、もう1週間は観光の合計2週間行きました。
2015年にネパールで大きな地震があったので、ボランティアでは瓦礫を撤去したり、子どもたちと遊んだりしました。その際、ネパール人の家族のところにホームステイしていたのですが、印象的だったのはネパールが停電が頻繁に起こり、1週間に1度しかシャワーを浴びれないほど水が貴重であること、首都のカトマンズにさえ信号がないことです。日本の生活レベルと比較すると格段に不便でショックを受けました。
しかし、そんな中でも彼らの暮らしをみているとどこかすごく幸せそうだったのです。家族や友達との繋がりが強く、頻繁に親戚の家に行って一緒にご飯を食べたりどこかへ出かけたりしていました。実際にネパール人は、何もない中で、何もないことを楽しんでいると話をしていて、幸せはお金から来るものではないのだと教えてもらった気がします。
ーその後、スペインに行かれたそうですが、その時のことを教えてください。
将来やりたい事が分からず、旅を満喫しきれなかったので、1年間休学をして、旅に出ました。
スペインにサンチャゴ=デ=コンポステーラというキリスト教の三代聖地のひとつがあるのですが、その聖地を目指して巡礼路を1ヶ月以上かけてひたすら歩く旅をしていました。
ここを選んだきっかけは、高校時代の世界史で学んでいた時から憧れを持っていたからです。
もう1つのきっかけは、小説「深夜特急」が時間をかけてゆっくり陸路で東から西に進んでいく旅で、旅をする過程で周りの文化や国、景色、人が移り変わっていく様子を肌で感じながら旅をするスタイルに憧れていました。ゆっくり西に向かっていく旅という意味でも、スペイン巡礼はいいなと思いトライしました。
ーこの旅の中で、一番感じたことを教えてください。
様々なバックグラウンドをもった世界中の人と知り合えたことです。彼らと語り合いながら、スペインの大自然や絶景の中を雨の日も雪の日もひたすら歩いた日々が強烈な印象に残っています。
ー色々なことを感じた中で、一番は「人」だったのですね。
大学の中に閉じこもっていたら出会えなかったような人や価値観、生き方にリアルな感覚で触れ合えたことで視野が広がりました。
皆同じゴールを目指して歩く仲間なので、励まし合ううちに家族のような絆が生まれました。言語の壁があっても語りあいたいことや伝えたいことが毎日溢れていたので、その気持ちが前に出て不思議とコミュニケーションが取れていたような感覚があります。
ー休学時は何がしたいか分からないということでしたが、旅の経験が工藤さんの生き方に影響を与えたのでしょうか。
旅を通していい意味でネジが外れ、思考が自由になりました。
そして何がやりたいかは当時まだわかりませんでしたが、レールに縛られずにゆっくりと自分がやりたいことを探していこうと考えるようになりました。同時に、就活をして就職をする道を必ず選ばないといけないわけではないのだと痛感しました。
ーその後に挑戦したのが、東京でのインターンだったんですね。
貧しいと呼ばれる国を旅する中で、恵まれない子どもたちの姿を見てきたことで、
将来は発展途上国の貧困を救うような仕事につきたいと当時は考え、そのような業種の会社でインターンをしていました。
ー当時はどんな関わりがしたいと考えていましたか。
ボランティアとしてではなく、ビジネスに関わりたいと考えていました。
ボランティアやNPO、NGOだと出来ることに限界がありますが、ビジネスだと持続的に地域に関わったり、支援を続けやすいと思い、バングラデシュで革製品を作っている会社のボーダレスジャパンの「ジョッゴ」をインターン先に選びました。
ただ、ボーダレスジャパンのインターンに応募したものの一度落とされてしまいました。
しかし、この会社に将来就職したいと当時は思っていたので、ダメ元で社長に直談判したところ、採用していただき、インターンすることになりました。
死を意識したとき、人生を後悔したくない気持ちが強まる
ーインターンの最中に大きなターニングポイントを迎えるということですが、具体的に教えてください。
東京で3ヶ月のインターン中に交通事故に遭いました。
骨折はなかったものの、全身を打撲・捻挫してしまい、半年近く病院に通わなければいけませんでした。事故直後は、歩いたり、手をあげたり、シャワーを自分で浴びれなかったり、服を着替えるのに一苦労したりと大変で、気持ちも落ち込みました。
ー出来ることが限られてたからこそ、考える時間が多かったと思います。どんなことを感じたり、考えられていたりしていましたか。
事故にあった時点では、インターンを続けていたもの、自分がやりたいことが当初イメージしていたことと何か違うなと感じ始めていたので、なぜ違うのか考えたり、将来何がしたいのかを考えていました。
同じタイミングで、友人の知り合いが開催している個展に参加したのですが、その個展にとても感動しました。子育てをしながら画家をしているシングルマザーの方の個展でしたが、画家として生きるのが大変な中で、自分の夢を追い続けている生き方や作品に感動し、自分の中にあった「絵がやりたい」という気持ちを思い出しました。
事故に遭ったことで、1mでも1秒でも違っていたら轢かれて死んでいたかもしれず、人生はこんなにも簡単に終わってしまうのだとリアルな感覚を得たことで、絵をやらずには死ねないとその時に思いました。そして、本気で絵に向き合って追求してみたいと思い、絵を描くことに決めました。
ーその後、絵を独学で描き始めると思いますが、どのようにはじめましたか。
学校にいかなければいけないのではと思っていたので、ネットやSNSを使ってイラストレーターさんやデザイナーさんの経歴を調べ、そもそも独学で絵を学べるのか調べるところからスタートしました。
独学でもなれることが分かったので、ネットを使ったり本を購入して、勉強したりして、独学していきました。
ー趣味で絵を描くこと、仕事で絵を描くことにはギャップがあると思ったのですが、そこを楽しめた理由を教えてください。
作品を生み出す過程は苦しいのですが、お客さんが必要としているものを自分が好きなデザインや絵で力になれる感覚や実際にお客さんが喜んでいる様子や満足してくれる姿を見ると、すごく嬉しいです。
ー独学で絵を学ばれた中で、どのように仕事へと繋げたのでしょうか。
知り合いのご縁です。
最初に仕事をいただいたのが、東京のベンチャー企業で働いていた角田さんです。角田さんとは今でも一緒に仕事をしていますし、その会社のつながりで名古屋にあるコワーキングオフィス「ジユウノハコ」を紹介してもらい、現在はそこに所属しながら仕事をしています。 そこはデザイナーやクリエイターが多数所属してお仕事をしている場所で、いろいろな人やプロジェクトが集まっているので、そこからお仕事をもらうことも多くあります。
ーフリーランスという働き方はイメージできていましたか。
在学中にフリーランスとして実際に働いていたので、イメージしやすかったです。
当時は生計を立てる収入はなかったものの、卒業してからもこのまま続けていきたいと思っていました。
旅をする中で、人生の一番長い時間を占める「働く」時間を我慢したり、自分が好きになれないものに時間を費やすことはしたくないと思っていました。
そして、自分がやっていて心地良いものに時間を割きたいと思ったので、お金や不安定な要素よりも自分が何をやっていて楽しいのかを大事にしていました。
満足するまで絵を追求する
ー交通事故で死を意識し、絵やデザインを再開されたと思います。
工藤さんはこの先どのように生きていきたいと考えていますか。
あまり長いスパンで人生を考えないのですが、
自分が好きな絵を満足するまで追求していきたいと思います。
もう一つの夢は、将来本を作ることです。もともと旅が好きなので、多くの旅を経験し、旅先で出会った人のイメージを絵にし、その人のストーリーを添え、それを集めた綺麗な絵と言葉の作品集を作りたいです。
ー最後に、工藤さんの今後のビジョンを教えてください。
直近だと、個展を開きたいです。
将来的には、自分の作品をただ展示するのではなく、異なる分野の方とコラボをして、来場者が絵だけではない要素も楽しめる空間づくりが出来たらと思っています。
ー人生で後悔しないように自分のやりたいことを追い求める、工藤さんの今後の活躍を応援しています!
取材者:吉永 里美(Twitter/note)
執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter)
デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)