様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第158回目のゲストは、ARTRICCORE(アートリッコーレ)の田沼真依(たぬままい)さんです。
「俺の遺伝子入ってないと思うよ。まいちゃんに。」
これは、田沼さんが幼少期に父親から言われた一言。2021年にルーブル美術館で開催されるSalon Art Shopping Parisで書道アートを展示予定の気鋭のアーティスト、田沼さん。ヨーロッパ周遊、海外路上パフォーマンス、トロント留学という豊富な海外経験がある一方で、家庭では両親の教育方針に苦しみ、毎日、死がよぎるような生活を送っていたそうです。空虚な世界を飛び出し、その名を世界に轟かせようと羽ばたきつつあるアーティストの素顔に迫りました。
「モナリザの微笑み」と同じ舞台で展示をする
ー自己紹介をお願いします。
田沼真依です。2020年9月末にリクルートを退職し、10月からフリーランスとして独立します。アーティスト活動を本格的に開始予定です。アーティスト名のARTRICCOREとは、「ART・TRICOLORE・CORE」を組み合わせた造語で、「CORE(核)を持ち、内に秘めた想いを内外に広め、その過程で感性を大切にする」という発想で考案しました。2021年はルーブル美術館、2022年はシンガポール国立美術館で書道アートの展示が決まっています。
ールーブル美術館とシンガポール国立美術館で書道アートの展示が決まった経緯をお聞かせください。
担当者からInstagramでDMをいただき、高校時代から海外の有名な美術館に展示することが夢だったわたしは2秒で即決しました。
Instagramでは、”その時”に感じたことを一文字の漢字で表現しています。遊び心を入れたアートにして。もちろん、何を表現したかったのかも補足してます。海外の方に注目していただきたいので、投稿は、英語、イタリア語、フランス語、日本語で書いてますし、フォロワーさんの4割は外国人の方です。
ー書道は、いつ頃始められたのでしょうか。
4歳からはじめました。我が家では華道や書道を年齢に合わせて必ず習うという慣習がありました。そのため、自分の意志で書道をはじめたのではなく、4歳になったら自動的に書道教室に連れて行かれたんです。
同時期に、3ヶ月に一度は宝塚や歌舞伎の舞台に足を運んでいました。当時はまだ幼かったために、その凄さが全然分からず、内容もちんぷんかんぷん。両親は、「この場にいることが貴重だから分からなくても大丈夫、まず感じて」と言っていました。観賞後、帰りの電車のなかで、「なんでこの人は、この表情で、このお洋服を着ていて、この発言で、ほかの人にこういう態度をとってるの?」と疑問を投げかけて説明してもらっていました。芸術としての探究心で考えていたというより、理由が分からなかったので聞いていましたね。
「これは、舞台なんだ」と言い聞かせた幼少期
ー習い事以外では、どのようなお子さんでしたか。
保育園では、頑張った人への表彰制度があり、その対象の常連でした。ピアノ、運動、勉強などいろいろなことが周りより得意で、相手の評価基準を考えて過ごしていたからだと思います。しかしある日、年長の時の担任の先生に「譲ってもらっていい?」と言われたんです。意味が分からず、「だったらその表彰を辞めちゃえば?」と言ったのを覚えています。自分の意見は小さい頃からはっきりと伝えていましたね。
ー小学生の頃はどのように過ごされていましたか。
習い事も勉強も沢山あって、忙しい日々を送っていました。平日の夜と土日は時間割表をつくって管理していたくらいです。平日は公文と家庭教師の先生からの指導があったので、宿題がいっぱいあって1日中勉強、加えて家事も私の担当でした。洗濯物を取り込んだり、お米を研いで炊飯したり、お風呂を洗ってお湯を溜めたり、親が帰宅するまでに、先ほどあげた家事と勉強が完璧になっていないと、怒られる生活です。そして、土日は習い事。何曜日はこれをやると決めて、当時からタスク管理をちゃんとしてました。
ー幼い頃からいろんなことに励まれていて、ご両親は田沼さんのことをさぞ褒められていたのではないでしょうか。
私、両親に一回も褒められたことがないんです。両親は勉強ができるので、「100点をとれない人の気持ちが分からないから教えて」と問われたこともあるぐらいでした。そんな両親からのプレッシャーはすさまじく、「まいちゃんに俺の遺伝子は入ってないと思うよ」「君の存在意義はない」と否定されたこともあります。
しかし、「また言ってる」と受け流してました。「感情を持つと生きていられない。心がキャパオーバーしてしまう」。そう考えて、感情に蓋をして生活する日々。夏でも冬でも構わず外に立たされたときは、「これは日常生活ではなく、舞台だ」と言い聞かせて過ごしていましたね。
その影響で、自発的に興味を持てることがなかったように思えます。毎日は生きるので精一杯なので、生まれたての小鹿みたいに生き抜く強さがありませんでした。「何かをやるなら絶対に100 点をとらないといけない。厳しいこと言われ、否定される」「それなら、何もしたくない」と始める前から悲観していました。
ーどのように気持ちを保っていたのでしょうか。
唯一、小学生のときに海外に興味が向いたことがありました。映画「タイタニック」のディカプリオを見た時に、「めちゃめちゃイケメンじゃないか!」と驚愕し、「わたし、がいこくじんとけっこんしたい!」と思ったんです。小学校のALTの先生に積極的に話しかけていました。その人だけは、私のバックグラウンドを知らず、対等に喋ってくれたので、心のオアシスでしたね。
「あなたは、意志を持っていいんだよ」はじめて自分を認めた人生16年目
ーその後、海外に行く機会はありましたか。
高校のときにニュージーランドにファームステイ、大学でトロントに留学しました。
印象に残っていることがあります。高校2年生の夏、ファームステイ先のホストマザーに「あなたは何が好きなの?」「何がしたいの?」と聞かれました。私、何も答えが出てこなくて…。正直に、「食べたい物や行きたい場所は親が決めるから、私の意志なんてない」と話しました。そしたら、ホストマザーは泣きながら「あなたは意志を持っていいんだよ」と言ってくれたんです。そしたら私まで泣けてきてしまって。「あ、私にも生きる場所や空間があるんだ…」と思いました。
あっというまにニュージーランドでの1ヶ月が経ち、帰国をするときに「親に打ち勝ち、大学生になったら必ず留学しよう」と心に誓いました。困ったら慰めてもらえる味方に出会えたんです。いままでの人生で、両親や周りの大人は私の敵だったので、「これからの人生は、自分の意志を持って生きよう」と決意しました。
ーそうやってご自身で決断されたトロント留学。どのような体験をされましたか。
大学2年の秋に語学学校に行き英語を勉強しました。英語のプレゼンが毎日あり、やるからには1位になりたかったので、先生に評価基準を確認して、プレゼンがうまくなりたくてTEDを何十回も見たり、プレゼンのネタ探しのために近くのトロント大学の大学生と交流し情報交換をしたりしていましたね。でも全うに対処しても「私ならでは感(=遊び心)」が出ないので、夜はパーティーをしまくり、そこでの気づきや出来事をプレゼンのネタにしていました。平日は語学の勉強に励み、週末は、毎週末、周辺地域への旅行にも。ニューヨーク、モントリオール、ケベック…。最高に楽しかったです。
ある日、語学学校が終わった後に散歩していたら、2人の男の子がつまらなそうに家の修復作業をしていました。表情が気になったので「なんでこれやってるの?楽しい?」と聞くと、「別に興味ない」というマイナスの答えしか返って来なかったんです。かわいそうとは思いませんでしたが、彼らを自分と照らし合わせたときに、「働くってなんだろう」「どうせやるんだったら楽しい方がいいな」と考えましたね。
そして、働くということを体験したいと考えました。自分で経験すれば、男の子たちの気持ちもすこしは分かるのかも、と。我が家はアルバイトが禁止だったので、働いた対価をもらうという経験がなかったんです。帰国後、両親に「アルバイトしたい!」と交渉しました。すると、「アルバイトは絶対だめだけど、社会貢献や自分の学びにつながるものだったらいいよ」と言われたので、不動産のベンチャー企業で1年間働きました。
ーその企業のどこに興味を惹かれたんでしょうか。
将来的にやりたいなと思い描いていたものを、その会社が体現していたんです。大学1年生の時のヨーロッパ周遊で、各地を転々としながらゲストハウスに宿泊していました。宿泊客は国籍も年齢も職業もバラバラだけどフラットな関係。ひとり一人が自然体で意志決定をする環境が素晴らしいと思っていたんです。そのときの体験が自分に根付いていて、日本人向けのゲストハウスを作れたらいいなと考えていました。
合コンを制する者は、就活を制する
ー就職活動で意識されたポイントはありますか。
初対面の人にどのような印象を与えるかという観点を研究するために、知らない社会人と話す機会を増やそうと合コンをしまくりましたね(笑)。どんな言葉や行動であれば、相手に好印象を与えられるのかを観察し、エントリーシートの添削や面接対策を相談してたんです。結果、所謂就活人気ランキング上位の企業5社を受けて、全て最終面接までいきました。
さまざまなアドバイスを受け、日本の会社で働く限り、一社目の選択が重要なので、慎重に選び取ろうという結論に達しました。世間で人気のある有名企業に入社することが、今後の転職や独立でプラスになるだろう、と。嫌だったら辞めればいいぐらいの気持ちでいましたね。
「異文化理解、衝動、融合、ものがたり、可視化することで臨場感が生まれる、艶やかなアート」
ーそうして選んだ総合商社に就職し、リクルートに転職。そんな中でアーティスト活動を始めたきっかけはなんだったのでしょうか。
2014年に新卒入社した商社で1年間働き、転職して5年間リクルートで働いています。アーティスト活動は、2020年に入ってから考えはじめました。イタリア旅行中だった2020年1月1日の夜に体調を崩して、帰国してから4日間入院したんです。だんだんと体調が回復して暇を感じたので、「自分が死んだときに何が心残りになるか」を書き出しました。すると、全項目の主語が私ではなく他者であることに気づきます。現在の仕事も社会的意義の高い仕事ですが、「自分にしかできないことがあるんじゃないか?」と問いかけるようになりました。
ーなぜ他者のための活動がたくさん出てきたんでしょうか。
自由意志がないと思い込んでただけかもしれませんが、子どもの頃は毎日毎日辛くて…。不謹慎ですが、「誰か私を車で轢いてくれないかな、即死したい…」と思って、十何年も生きてきたんです。だから、自分の方向性が分からない人の心理に共感できる。おこがましいけれど、自分が関わって、人生に迷った人の羅針盤になれれば、わたしの生きた証になると思うんです。
ーなぜ書道をそこに掛け合わせようと思ったのですか。
習い事のなかでも世の中から一番評価を受けたのが書道でした。ピアノの場合、何百人ものお客さんが詰めかけるコンクール会場で演奏して、拍手と花をもらっても私の心には何も響きません。書道の場合は、伊勢神宮や全国各地で来場客が自分の作品の写真を撮ってくれたり、感動して目の前で泣いてくれたりしたのをみて、たまらなく嬉しかったんです。それに、見た目がギャルの私が地味な書道で1位を獲ると、「え、あの子が?」と、周りの大人は驚いた。既にあるイメージを破壊することが好きなので、快感があって、最高でした。
私の性格上、最初のインパクトがないと全く心が動かないんですよね。ここだけ空気・空間が違う!というような場所がとても好き。だから、自分も作品も、そのような雰囲気が出るのかもしれません。
小さいときに書道をどの展示会に出しても何百人、何千人という全体数の中で絶対トップ1で、最悪3位ぐらい。スキルはありましたが、職業にするのは無理だと諦めていました。「職業にしなくても表現し続けていれば、何か浮かんでくるかな〜」と思って、海外にいく度に路上パフォーマンスをしていました。名前の当て字や漢字1文字で表現した作品を売っていましたね。誰に要求される訳でもなく、無邪気に楽しいからただただやっていたので心底楽しかったです。
ーアーティスト活動をする上で、何を大切にされていますか。
大切なのは、「異文化理解、衝動、融合、ものがたり、可視化することで臨場感が生まれる、艶やか」。つまり、「異文化理解」は、違いを知った上で物事を進める。その上で私にしか創れないアートにし、人に「衝動」を与える何かを作りたい。そして、いろいろな視点を「融合」させ、それを「ものがたり」に仕立てて、「可視化することで臨場感を生み出す」。ついでに、艶やかさを付け加えて、味を整える表現をしたいと思うんです。表現は、ダイナミックでかつ繊細に。大胆に散らばった空間に、そっと何かを加えるんです。
ー今後はどのように活動を展開していきたいですか。
人があっと驚くような作品、問いを投げかけるような作品、意味を形成していく作品・・・などを産み出したいです。今インタビューなので「作品」と言ってますが、アーティスト100%の私の時は「作品」と言わず「彼/彼女」と呼んでいます。
アーティストは作品を作り販売し、販売した収益で次回の作品を作る、というプロセスを辿りますが、作品を作れば作るだけ正直赤字になっていきます。その構造を変えていきたいですね。今までの会社員時代に培ったスキルを元に、欧州と日本のモノづくりとか、アート要素を融合したインテリア・ファッションのマーケティング・ブランディング、企画・販売事業や、後継者採用などに着手していきたいと思います。
ーありがとうございました!
取材者:山崎貴大(Twitter)
執筆者:津島菜摘(note/Twitter)
編集者:野里のどか(ブログ/Twitter)
デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)