被災と差別を乗りこえて。柔道を通して「自分に生きる」柔道フィリピン代表・中野修源

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第557回目となる今回は、フィリピン代表オリンピック強化選手・中野修源(なかのしゅうげん)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

日本とフィリピンのハーフとして生まれ、フィリピン代表選手としてパリオリンピック出場を目指す中野さん。国籍差別の苦悩を乗りこえた先にある、ハーフアスリートとしての展望を語っていただきました。

 

被災した地元に貢献したい。選んだ方法は「柔道」だった

ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。

柔道フィリピン代表オリンピック強化選手として活動している中野修源です。

岩手県野田村でフィリピンと日本のハーフとして生まれ、2015年からフィリピンナショナルチームに加入しました。

現在はパリオリンピックでの柔道男子66kg級の出場と、メダル獲得を目指しています。

ーそんな中野さんはどんな学生時代を過ごされましたか?

柔道を始めたのは小学3年生です。子供の頃から負けず嫌いな性格で「勝ちたい」「負けたくない」という気持ちで練習に励んでいました。

地元の岩手県で柔道を続ける中、中学2年生の頃に東日本大震災で被災をしました。同級生でも家が無くなったのを見て崩れおちる人や、泣きくずれる人もいて。

僕の家族は幸い安否を確認できましたが、家が全壊したため車に乗り親戚の家に行くことになりました。その時に、車窓から見た街が印象的でした。

真っ暗な街が月明かりに照らされて、暗くても「街がぐちゃぐちゃになっている」と分かって……星空を見あげながら「命だけでも助かってよかった」と思ったのを覚えています。

ー被災を通して、人生観は変わりましたか?

人生、何が起きるか分からないなと。後悔しないように生きようと思いました。

僕の人生のテーマとして「人生は一度きり、後悔しないように生きるべき」という思想があるのですが、この考えの根底は震災が大きく影響していると感じています。

ー震災を通して、柔道や生活における意識の変化はありましたか?

高校の進路には悩みました。推薦をもらっていた内陸の高校に進学するか、地元に貢献するために残るか……。

まだ社会的に幼い年齢だった僕が「自分にできる『貢献』とは?」と考えたとき、選んだのが「柔道」でした。

苦しい状況でも「柔道を見た方々の心が動く瞬間」があれば、それは地元への恩返しになるのではないかと考えたんです。

双子の弟と入学した高校では運命的な出来事がありました。最後の大会が地元での開催になり、決勝戦では弟との双子対決になったんです。

結果は指導(柔道の試合を行なう上での反則判定のひとつ)で負けてしまいましたが、応援してくれる人たちへの孝行ができたと思えました。

試合中のシーンとした空気と、終わった瞬間の拍手を今でも覚えています。僕が柔道で結果を出し、そのプロセスも見てもらうことで「誰かに何かを感じてもらえる」と実感しました。

柔道という方法でも、誰かのきっかけになれるんだなと。柔道が「自分にしかできない貢献の方法なんだ」と思えました。

国籍差別に苦悩した大学時代。フィリピン代表として「ハーフ・在日のためにできること」

ー大学生活について教えてください。

大学時代は、僕の人生の中で最もつらい時期でした。

4つ上の兄が関東の大学に進学し、フィリピン代表として活動をしていたことに影響を受け、僕もフィリピン代表になるべく大学に推薦をもらいました。しかし当時の大学の監督から、思い返したくないほどの国籍差別を受けることになります。

差別的な言葉を言われたり、実際に活動を妨害されたり。「フィリピン代表として活動するなら大学の試合は出さない」「日本で戦うことから逃げたんだろう」と言われたこともあります。

毎日つらくて「もうやめたい」「逃げて楽になりたい」と思いながらも「柔道をやりたい」「見返したい」という反骨心も混在し、気持ちが入りみだれていました。

兄がリオオリンピックに出場したことで「やりたい」が数%だけ上回り、つらい環境を乗り切れたと思っています。

大学を出た後も、プロ契約に近い内定を貰っていた会社が「内定ドタキャン」。その後も日本企業を当たりましたが「フィリピン代表」が弊害になり、雇用を断られる日々が続きました。

苦しい時期でしたが、差別的な問題に直面したからこそ「他の人に同じ想いをしてほしくない」と感じるようになりました。

どこかで僕と同じように心を傷めているハーフや在日の人たちのためにも、希望を与えたい。オリンピックに出てハーフの可能性を証明してやる!という気持ちが、モチベーションにもなりました。

自分がハーフアスリートとして活躍することで、同じ境遇の人たちに対する世間の目が変わればいいな、と思ったんです。

どん底を救ってくれたのは「ありがとう」。苦悩が報われた東南アジアオリンピック

ーどん底時代から現在に至るまでの出来事を教えてください。

大学卒業後は、社会人としても競技者としても精神的にどん底の日々が続きました。そんな僕の転機は、双子の弟と共にオリンピック予選のウズベキスタンに行ったときです。

ホテルでバスを待っていると1人の女性に「フィリピン代表なの?」と話しかけられました。話をすると、彼女もフィリピン人だと分かって。

僕がハーフであることやフィリピンを選んだこと、フィリピン代表としてオリンピックを目指していることなどを話すと、とても喜んでくれました。

彼女は実際に試合を見にきてくれて一緒に写真も撮り、ホテルに帰ってFacebookを開いたら、写真と一緒にメッセージが届いていました。

「オリンピックに出られるように、ファンとして応援しているよ」
「あなたたち双子を信じているよ」
「フィリピンを選んでくれてありがとう」

きつい時期だったからこそ、グッときました。この道を選んでよかった、柔道をやっていてよかったと素直に思えたんです。

日本もフィリピンも僕の母国。両方の国からバッシングはある中で、現地のフィリピンの方から温かい言葉を貰い、応援してくれる人たちとフィリピンという国に恩を返したいと思いました。

この女性に会ってから「本気でやろう」と改めて思いなおせ、フィリピンで開催された東南アジアのオリンピックで優勝することができました。

色んなメディアに「フィリピンを選んでくれてありがとう」と言葉をかけられ、勝って初めて涙を流せたことを覚えています。色んな感情が抜けた瞬間でした。

孤独だからこそ、鮮明に聞こえる言葉がある。東京オリンピックを逃した先に見えた景色

ー心機一転で励む中、惜しくも東京オリンピックの出場を逃してしまいました。挫折から感じたことはありましたか?

はい。最終予選から帰国した後、コロナ禍の影響でホテルで隔離生活を送っていました。オリンピックを逃したことは既に理解できていた上で、ショックで茫然としてしまいました。

考える時間がつらかったのでテレビで映画を観ていたんですが、洋画に出てきた「Carpe diem(カルペディエム)」という言葉が今の自分の座右の銘になっています。

Carpe diemの意味は「1日と言う花を摘め」。つまり「今を生きろ」です。当時の自分には、この言葉がとてもクリアに響いて聞こえました。

ー被災の頃から続く「今を後悔なく生きる」の信念に通じる言葉ですね。

オリンピックを目指す選手って、孤独なんです。批判や嘲笑を受けることもあります。

僕が東京オリンピックに出られなかったことで、離れていく人もいました。けれど、泣いてくれる人や「納得するまでやりきってほしい」と言ってくれる人もいたんです。

僕のために泣いてくれる人を見て「こういう人たちに応援されていたんだ」と。

この景色は、オリンピックに出られなかったからこそ見れたものなんだと思えました。

報われない努力はある。でも、無駄な努力はない。そんな言葉の一つひとつが鮮明に聞こえ、自分の中に入ってきました。

自分に生きよう。「できること」ではなく「やりたいこと」に進むべき

ー中野さんの「自分に生きる」というスタンスを強く感じます。他人からの批判的な声がある中で、生き方を貫くために大事なことは何ですか?

やりたいことを後悔なくやりきる気持ちです。

もちろん結果も大切ですが、僕は「挑戦の過程」が大事だと思います。どれだけ腹を括れたか。覚悟を決めて真っ直ぐに進めたか。

挑戦に失敗しても、周りは変わりません。僕が東京オリンピックの選手選抜に落ちたときでさえ周りはほとんど変わりませんでした。

特に日本では少数派がのけ者にされる価値観があると感じます。しかし、成功する人ほど少数派なのではないかと思います。

決まった未来・先が分かっている未来ほど、つまらない人生はありません。自分の「やりたいこと」に耳を傾け、行動を始めることが大切です。

ー中野さんにとって「自分に生きる」とはどのような生き方ですか?

「やりたいこと」をやる生き方です。

  • 「できること」をやる→「社会」に生きる
  • 「やりたいこと」をやる→「自分」に生きる

だと思っています。

できる環境と可能性があるのなら「やりたいこと」を選ぶべき。年齢とタイミングも関与するので、失敗を恐れずに挑戦するべきだと思います。

ー中野さんのこれからの夢や展望をお聞かせください。

まずは「オリンピック出場」です。応援してくれる人たちのためにも、自分の可能性を証明したいと思っています。もちろん、メダルの獲得を目指します。

また日本はハーフや在日にまだ偏見が多いことを感じます。僕のようなつらい経験を他の選手にさせないためにも、ハーフと在日に特化したスポーツマネジメントを行いたいです。

さらに、フィリピンには多くのストリートチルドレンがいます。彼らを託児所代わりに預かり、柔道に触れさせる施設を作りたいと思っています。柔道を教えながら日本語にも触れさせ、教育的な側面からも支援したいです。

フィリピンでは、日本語が話せることで未来が広がるので。未来のスポーツ選手や国のために、現地の子供たちがオリンピックを目指せるような環境を作りたいですね。

ー最後に、U-29世代へメッセージをお願いします!

何かを始める前に諦めている人は、ぜひ行動をしてほしいです。僕も自分の可能性を知りたいし、目指したいものがあるからパリを目指します。

「できること」をやるのも大切。でも「やりたいこと」を忘れないのはもっと大切。「やりたいこと」が前提にあれば「できること」は「やりたいこと」のための過程になります。

ぜひ「やりたいこと」を埋もらせずに「自分に生きる」を始めてください。

ーありがとうございました!中野さんの今後のご活躍を応援しております!

取材:大庭 周(Facebook/note/Twitter
執筆:METLOZAPP(Twitter/BLOG
デザイン:高橋りえ(Twitter