建築事務所を休職して銭湯に出会い「銭湯図解」ができるまで。建築を描くアーティスト・塩谷歩波

今は第一線で活躍しているビジネスリーダーの方に、10~20代の頃のまだ何者でもなかった頃から、現在に至るまでのストーリーをお聞きする連載企画「#何者でもなかった頃」。今回のゲストは小杉湯番頭でイラストレーターの塩谷歩波(えんやほなみ)さんです。

塩谷さんの著作、「銭湯図解」は、塩谷さんが実際に足を運んださまざまな銭湯が図解されている本。母親の影響で始めたパースや、建築事務所で働いた経験が活かされた緻密なイラストは、Twitterで投稿された初期から多くの反響を集めていました。番頭で、イラストレーター。そんなちょっと不思議で魅力的、そして好きなものを詰め込んだお仕事を手にされた塩谷さんの、ユニークなキャリアに迫ります。

はじまりは、パースを描いた母親の姿に憧れて

中学生時代の塩谷さん

ー「銭湯図解」を制作される以前の塩谷さんのことをお聞きしたいです。建築に興味を持ちはじめたのはいつのことでしょうか。

中学時代です。当時、母親が会社を辞めて、インテリアコーディネーターの専門学校に通っていました。母が自宅でパースを描いていて、私はその様子をかっこいいなと思って眺めていました。やってみたいと思い、私も描くようになったんです。

ーお母さまの影響は、進路選択にも表れましたか。

高校に進学し、美大に行くかどうか迷っていたときに、早稲田大学建築学部のAO入試で合格しました。建築は自分の関心分野と一致していると入学時から感じていたんです。早稲田大学は、他の建築系の大学と比較して美術的な要素を重視する大学。特に、デッサンや美術的な課題が多かったですね。設計演習という授業がお気に入りで、担当教授の入江正之先生の研究室に大学院2年生まで所属しました。

しかし、大学では悔しい思いをしつづけましたね。早稲田大学の学科は、ほとんどの学生が大学院に進学します。私もその一人でした。1学年で200名所属しているうちの10分の1しか入れない全体講評に私はいつも選ばれなくて…。最後の課題も、全体でみればよかった方なんですけど、10分の1に入ることはできませんでした。

挑戦したい、だけどできない。自己嫌悪を抱える社会人生活

建築事務所勤務時代の塩谷さん

ー就職活動でも、建築関係を視野に企業を見ていらっしゃったのでしょうか。

はい。就活時期には、ゼネコンと設計事務所への就職を考え動いていました。結果的に、設計事務所に就職します。周りの優秀な学生は、ゼネコンに就職していたので悔しい気持ちでいっぱいで…ゼネコンへ行けない自分に対し、イライラしていました。そんな気持ちもありながら、就職した設計事務所は第一志望だったので、嬉しかったです。

ー希望する会社へ就職でき、社会人1年目はいかがでしたか。

必死でした。面白い案件を担当させて頂いていたので、なんとか上司やお客さんの期待に応えられるように頑張っていましたね。先輩が旗を振れば、すぐに手を挙げて、仕事を引き受けていました。しかし、自分の実力が見合っていないなと自己嫌悪に陥ることも多かったです。絵と設計、どちらもできる環境にあったので、苦手な設計を挽回しようといつも張り切っていました。仕事を頑張りすぎていたのでしょう…就職して一年半が経過した頃に、体調が悪化。休職するまで追い込まれました。

銭湯は「こころ」と「からだ」を軽くする。魅力よ、とどけ。Twitterに投稿

寿湯のイラスト

ー休職期間中はどのように過ごされていたのでしょうか。

仕事を休んでいても、気持ちが休まることはありませんでした。職場の仲間や上司、さらに家族に迷惑をかけているという申し訳ない気持ちでいっぱいでした。さらに、外出をしても、周囲から「こいつは遊んでいる」と見られてしまうかもしれないという不安が付きまとっていましたし、お金がなく満足に遠出もできないフラストレーションを抱えていました。

そんなある日、同じく休職中の友人と出かけました。その友人が銭湯に通っていると話ていて、私も一緒に行くことになったんです。後日、訪れた公明泉という銭湯が、最高だったんですよ。

回復のための治療行為になるし、ワンコインで利用できるのでお財布にもやさしい。おまけに異世代との交流が生まれ、心も体も軽くなったんです。そこからは週4日で銭湯を訪れるほど熱中。

ー週4日で銭湯とは、かなりの頻度ですね。

そうですね(笑)。いろいろな銭湯をめぐっていました。

ー銭湯への熱量が、イラストと結びついたのはどうしてですか。

ある日、まだ人生で銭湯を訪れたことのない友人にも幸福感を伝えたいと思いました。その時期はTwitterで友達と絵日記を交換していたんです。そこで、建築図法であるアイソメトリックという技法を用いて銭湯をイラストで表現して投稿してみたんです。そしたら、それを友人が「銭湯図解」と命名してくれました。友人に向けて投稿したつもりのそのイラストは予想を反して、知らない人までも届き、多くの反響をいただくことができました。

ーTwitterでご友人に向けて投稿したのがきっかけだったんですね。

それから建築との向き合い方について考えるようになりました。正直、今までどんな建築を作りたいのかというイメージが自分でもわかっていなかったんです。そこで、幼少期に見た母親がパースを描く様子を思い出しました。その時に、私は建築をつくることではなく、描くことが好きなんだと再発見したんです。そこでイラストレーターという道を考えるようになりました。

「銭湯図解」の出版に至るまで

平松さんと塩谷さん

ー塩谷さんにとって、建築は、描く対象だったんですね。出版に至るまでの経緯を教えてください。

「銭湯図解」の投稿は続き、そのうちに銭湯メディア「東京銭湯」で図解の記事が公開されるという機会にも恵まれました。そんなある日、小杉湯の平松佑介さんから、Twitterで直接連絡をもらったんです。「小杉湯のパンフレット制作に、イラストを描いてほしい」という依頼でした。もちろん快諾し、案件を進めるために平松さんと打ち合わせを重ねていると、平松さんも、ものごとの深い部分から考えることが好きなタイプだと気づきました。

そのあと、体調が回復し、建築事務所に復職することが叶います。しかし、以前のように職場の仕事のスピードについていくことが体力的に厳しい現実を突きつけられます。このまま建築業界で仕事をするのは、自分では対応しきれないと感じていたんです。

その状況を平松さんに相談したら、小杉湯への就職を強くすすめていただき、転職することを選びました。その後に、15社から「銭湯図解」の出版オファーを受けて、一番相性がいいなと思った担当者の方と制作を進め、出版に至ります。

ーイラストレーターとして働かれる上で、大切にされている価値基準はありますか。

「自分も楽しく、相手も楽しく仕事ができるか」というところは大切にしていますね。まず相手の話を聞いて、自分のテンションが上がるかどうかで仕事を引き受けるかどうかを判断します。価値観が合わないと、一緒に仕事はできないと思っているんです。

「銭湯図解」のその先で。塩谷歩波は、進化する

アトリエエンヤとして担当した作品

ー本を出版されてから、ご自身の環境はどのように変化しましたか。

小杉湯での役回りが変化しました。イラストレーターとして小杉湯に関わり、平松さんと経営方針や事業内容、運営方法などの話をよくするようになったんです。以前は部下のような存在でしたが、今ではブレーンの立場で平松さんと仕事をしています。自分が違うと思ったことも、平松さんに積極的に進言できるような関係性が築かれました。

今後は、創作活動に集中する環境も整えてきたいと考えています。理想を言えば、絵を描くためだけに1週間アトリエにこもる期間が欲しいです。実家の近くにアトリエの候補物件があるので、小杉湯のある高円寺の自宅と実家の二拠点生活をしようかなと模索しています。

ー今後もご活躍を応援しています。本日はありがとうございました!

取材者:西村創一郎(Twitter
執筆者:津島菜摘(note/Twitter
編集者:野里のどか(ブログ/Twitter
デザイナー:五十嵐有沙(Twitter