後悔しない人生を。アクティビスト山本和奈が考える自分の幸せとは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第327回目となる今回は、起業家・アクティビストの山本和奈(やまもとかずな)さんです。 幼い頃から社会問題に敏感で、さまざまなボランティア活動や学生団体に参加した山本さん。大学時代にはチリに留学し、たくさんの刺激を受けて自ら団体や会社を立ち上げます。起業家やアクティビストとして活躍する山本さんに、自分の幸せを考える生き方を伺いました。 社会問題に関心を持っていた学生時代 ーまず初めに自己紹介をお願いします。 山本和奈と申します。現在は南米のチリで会社経営をしながら、さまざまな活動をしています。香港生まれ、シンガポールで育ちました。幼少期は日本とシンガポールのインターナショナルスクールに通い、大学はICUに進学しました。大学在学中、南米のチリに留学したことがきっかけで、自分の団体を立ち上げています。 ーそれはどういった団体ですか? ペルーで教育事業をする、Educate Forという団体です。現在約40名のメンバーがおり、さまざまな教育事業をおこなっています。子どもたちにステムを教える活動や、普段学校では味わえない体験を子どもたちが経験することで、子どもたちにとって将来の道が開ければと思い、2年半ほど前から活動しています。 チリ留学を終えてから、「ジャストスマイル」という竹歯ブラシの会社を始めました。日本では合同会社KMLAB JAPANで、現在インターンの方々と一緒にサステイナブルの商品を開発しています。また、ユースの活動を応援するために、ユース団体に寄付もおこなっています。 その後、週刊SPA!に対する署名・抗議活動から、Voice Up Japanという団体を立ち上げました。Voice Up Japanでは、ジェンダー・セクシュアリティを問わず、平等な権利を有する社会や声をあげやすい社会を目指し日々活動しています。 チリの会社はフィンテック事業に携わり、ブロックチェーンや最新のテクノロジーを使って、資金面や金融面で企業をサポートしています。 写真提供:山本和奈 ー山本さんが社会問題に対して活動を始めようと思ったきっかけや、課題感を持つようになった背景を教えてください。 幼い頃から、社会問題には敏感でした。通っていたインターナショナルスクールが社会問題に熱心で、ボランティア活動に幼い頃から関わりました。 母が愛護活動や保護活動をおこなっていて、その姿を物心ついたときから見ていたのも影響していますね。12歳のときにドキュメンタリー「犬と猫と人間と」を観て、日本における動物の殺処分について知りました。同時期に母と、毛皮に反対するデモに初めて参加したこともあります。ファッションの毛皮のために、動物が生きたまま毛を剥がされている写真を見て、そこから社会で弱い立場にいる動物や搾取について考え始めました。 また、中学生のころに友人が自殺をしたことがきっかけで、幼いながらどのように自分の人生を歩みたいかを考えた学生時代でした。 その頃からボランティア活動を始めたり、学生団体に応募したり、自分自身働いてさまざまな活動に取り組みましたね。高校でも東北支援のボランティアや、タイで子どもたちの学校づくりに携わるなど、社会問題に直接触れ合う環境に恵まれながら育ちました。 写真提供:Ush Sawada ー中学や高校時代は、どのような学校生活を送っていましたか? ちょうど10年前の2011年は、身近で命の尊さを感じることが多かった年でした。 それがきっかけで、自分はなにをやるべきなんだろう、どういうふうに自分が死にたいかを少しずつ考えるようになりました。高校生のときは思春期なのもあり、周りに頼りすぎて自分自身を支えられなくなってしまった。当時は人生どん底でした。 でもその経験から、自分を守れるのは自分しかいないと思えるようになりました。 そこがターニングポイントでしたね。前向きに、他人のためではなく自分のためにやろうと思い、クラスの中で一番部活をしました。サッカー、バレーボール、ダンス、スピーチ、ディベート、音楽、ハンドベル、コーラス、どれもすべて全力で取り組みました。 当時から「ひとつに絞りなさい」と周りに言われていたけど、自分が実際落ち込んだとき自分の責任、自分の人生に責任とってくれる人なんていない。自分が苦しかったときも「自分を救えるのは自分だけだ」と思ったんです。それならとにかく自分を信じてみて活動しようと思い、さまざまなことに取り組みました。 写真提供:Todd Fong ー自分自身の興味関心に素直になったことで、さまざまなものに惹かれたのでしょうか? そうですね。やってみないとわからないので、試してみて気づくこともあります。 でも、「やるなら100%でやる」ことを自分の中でとても大事にしていますね。中途半端にやってしまったら自分が本当に好きなのかもわからないし、極端な状況になった時にどうすればいいかってわからない。 時間が限られている中でプロジェクトをいくつもやって、「どうやってすべてに100%できるんだ」ってよく言われます。けれど自分の中では、自分がやらないといけないことをうまく頭の中で考え、その時に成し遂げることに全力を注ぐ。バレーボールをやる時間はバレーボール以外は考えない。今目の前のことをやっている時はそのこと以外は考えない。そういうふうに集中して取り組んでいます。   得るものが大きかった大学生活とチリ留学の日々 写真提供:山本和奈 ー大学進学はどのように決められたのですか? 大学は海外への進学を考えていましたが、自分にビジョンがありませんでした。アメリカの大学は学費も高いので、何がやりたいかわからない状況では難しいと現実的なことを考えました。 日本の大学へ進学すると決めてから、9月入学ができる大学を調べました。当時、9月入学が可能な大学はかなり限られていたんです。 そのなかでもリベラルアーツの大学・学科を見ていました。専攻分野を今決めてしまっても、学び始めて自分にあわなかったらどうしようと思っていたんです。ICUだとリベラルアーツで、31専攻から選べる。留学プログラムも豊富。留学は絶対叶えたかったので、結果的にICUを選びました。 ー山本さんにとって、大学生活はいかがでしたか? ICUに進学して本当によかったと思います。小規模な大学だからこそ仲良くなれたり、自分の好きなことを学べたり、熱心な学生と出会えたりしました。Voice Up Japanのメンバーにも、ICUの知り合いがいます。共感できる人や多様な人がたくさんいたことは本当によかったです。 また、大学で経済学の授業を履修したことで、経済に興味を持つようになりました。そこから少しずつ政治学や国際関係学も学びました。 ー大学在学中に、チリへ留学されたと伺いました。なぜチリを選んだのでしょうか? ICUは交換留学プログラムが豊富です。学生の多くはアメリカやヨーロッパに行くのが主流ですね。実はそのとき一番行きたかったのはイギリスの大学でした。でも、GPAの成績や倍率的に、その大学への留学は厳しいということがわかってから悩みましたね。ただ、高校のときからスペイン語を学んでいたこともあり、先生からはチリの大学を勧められました。 その時は「いやまさか、チリ?」と思ったけど、チリについて少しずつ学んでみると面白くなってきて。それに、将来的に国際的な人になりたいって考えたときに、英語と日本語できる人はもうたくさんいる。言語が話せることはプラスだけど、国連に入るのなら英語と日本語だけでは足りないと思いました。それなら、自分が学んでいたスペイン語を活かせるのはチリだと。それに、欧米は駐在することもあるかもしれないけど、南米のチリに1年間住むのは自分が留学中にしなければ、人生で絶対に行くことなんてないだろうなと思い始めました。 良くも悪くもとりあえず試してみよう。自分の限界を越えられるか越えられないか、自分の限界はどこまでなのかを試したくて、チリに留学することに決めました。 ー実際チリに留学して、どのようなものが得られましたか?行く前のイメージと違ったことはありますか? チリに着いた当初は、単位を落とすほどスペイン語が話せなくて悔しい思いをしたんです。だからこそ英語や日本語を話す人と一緒にいないと決めました。意地でもスペイン語を話せるようになって帰ると決めて、泣きながら毎晩勉強しました。 また、チリでも楽しいことを始めたくて現地のダンスグループに入ったんですけど、40人のチリ人の中に日本人私1人という環境でした。でも結果的にとてもよかったですね。ダンス以外の時間も一緒に過ごすので、いやでもスペイン語が入ってくるんです。 少しずつスペイン語がわかるようになり、次第に飲み会で話す内容が日本にいるときと違うことに気づき始めました。チリでは、飲み会の場でも選挙の話や社会問題の話、政策の話など、そういった問題に関してみんな普通に話しているんですよね。 政治問題や社会問題を話していくにつれて、「日本ではどうなの?」と聞かれることが増えました。みんな熱心に自分たちの政治について話しているのに、私は何も知らないことが恥ずかしいと思い、自分でも勉強するようになりました。 今まで社会問題には興味がありましたが、政治はそこまでだったので、その時から勉強したり、積極的に発言していくことで、お酒が入った状態でも友達と熱心に政治について話せることにワクワクしましたね。 そのときに、今のパートナーと出会いました。彼が22歳のときにはすでに自分で会社を始めて、自分のやりたいことに前向きに進んでいく姿をみたときに、「世界にはこういう人がたくさんいるんだ」と気づきました。友達にも同じような人がたくさんいて、「この国に戻りたいな」と思えたんですよね。 スペイン語も話せるようになってきたので、自分が日本と南米を繋ぐことができるんじゃないかと思い始めたのもこの頃です。卒業したらチリに戻ることは留学中から考えていました。   ゼロの状態からできることを増やして前へ進んだ 写真提供:大野真友 ーペルーで団体を立ち上げたのは、どのようなことがきっかけでしたか? Educate Forを始めたきっかけは、20歳のときにペルーで2週間ボランティアをしたことですね。 この道に進みたい気持ちと同時に、大学卒業したらキャリアとして取り組むのか、今自分の手でなにかできることはないかを考え始めました。身近に企業しているパートナーやプロジェクトを立ち上げている友人もたくさんいて、学生のうちからさまざまなことをやって自分の手を動かしている人はたくさんいたので、自分もやってみたいと思ったのが素直な気持ちでした。 ペルーでは、企画書とはなにか、マーケティングとは、団体はどうやって作るのかといった基本的なところから始めました。そこから少しずつ、なんとか助成金を得られるまで団体を拡大できました。留学から帰国後も、大学4年生のときには日本人の学生をペルーに派遣して6週間のプロジェクトをおこなったり、ペルー現地にお金や物資の支援をしたり、年に3, 4回ペルーに行ってさまざまな事業を手伝ったりをしていました。 ー今何ができるかできないかというよりは、できることをどんどん増やして関心を深めながら、日々進化していったのですね。 教えてくれる人はいなかったので、とりあえずゼロの状態で何か始めないといけない状況でした。なにか鍵をくれそうな人にはメールを送って、名刺を作って、ひたすらイベントに行って名刺交換をしました。教授が連れてくる外部の講師にも名刺を渡して話をしたこともあります。本当にその時は必死で、1から何かを作りたくて活動しました。当時は本当に寝なかったくらい、もう全力で走っていた感覚ですね。間違えることを恐れるより、とにかく前へ進むことを考えていました。 自分でチャンスを掴みに行くしかない状況だからこそ、もし自分の目の前にチャンスがないのであればお願いするしかない。そのおかげでさまざまな人に出会え、「なんでもいいから手伝います」と言うことで人との関係がつくれました。小さなことが自分のためになるんだと思った出来事です。 ー卒業後はチリで起業しようと考えていた山本さんにとって、Voice up Japanを立ち上げられたことも大きな転機だと伺いました。 2019年初頭に週刊SPA!の「ヤレる女子大生RANKING」を見て、これに対して誰も何も言わないのはおかしくないのかと心から思いました。 まさか自分がこの問題に対して団体を立ち上げるなんて頭になかった。でもとりあえずなんとかしないとこんな状況を続けて見て見ぬフリはできないと思ったことが始まりです。署名活動を始めていくと自分の予想以上に盛り上がり、カナダへの派遣や、日本全国で講演をするなどたくさんの機会をいただきました。 ただその時にはもう少しでペルーに行くことや、大学を卒業したらチリに行くことは決まっていました。この活動全部自分でやるのは難しいと思い、いろんな人の意見や考えをうまくまとめながら民主的な団体を作りたいと思ったのでVoice Up Japanを立ち上げました。当時は自分の人生のプランに入っていなかったことだけど、今はVoice Up Japanを立ち上げて感謝しているし、たくさんの方々に出会えたので1ミリも後悔はしていないですね。このような形で日本のジェンダー問題を今変えることができなかったら、自分が年齢を重ねていったときに、同じことでため息ついているのは嫌だという理由でVoice Up Japanの活動を始めました。   「自分の幸せとはなにか」をこれからも考え続ける ーチリに滞在中、「幸せとは何か」いろんな人に聞いてまわったエピソードを拝見しました。始めたきっかけと、当時の山本さんは何を感じていたのかを教えてください。 これは「Happiness Project」というフォトプロジェクトなんですけど、始めたきっかけは、ICUで初めてジェンダーの授業を取ったときに教授が『死ぬ瞬間の5つの後悔(The Top Five Regrets of the Dying)』という本を紹介してくれたことが影響していますね。 末期患者のケアをしている看護師の方がよく聞く死ぬ前の後悔を本にしたもので、それを読んだときにすごく考えさせられて。皆さんもぜひ読んでほしいです。 その本にあった印象的なものが、死ぬ前に「自分のことを幸せにしてあげればよかった」と一番後悔するんだという言葉。 確かに死ぬ直前にどんなに自分がいろんなことに頑張っていたとしても、自分の目標、夢、達成したいことがあったとしても、幸せじゃなかったらそれって意味があるんだろうか。そこで「幸せってなんなんだろう」と考え始めたんですね。 だから、その人のライフストーリーを聞くのではなく、「あなたにとって幸せはなんですか?」と聞くことができたらと思いました。 日本は自殺率が高く、なんのために生きているのかわからないと思う人もたくさんいます。自分も友人を自殺で失くし、自殺未遂をしてきた人が周りにいて、自分の幸せについて考えるきっかけがありつつも立ち止まって考えられなかった。だからこそ改めて考えたいと思いました。 友人とチリのパタゴニアを旅行していたときに、いろんな人に幸せについて聞いてみるアイデアが思い浮かんだんです。パタゴニアにいる人に「幸せってなんですか?」と聞きまわりました。活動を初めてみて、「幸せとはなにか」を尋ねることで自分たちが考えるきっかけになるし、その人自身も考えるきっかけになる。自分がその人に気づきを与えられると同時に、自分も相手からの答えを聞くことで考えさせられることに気づきました。 ー山本さんにとって、幸せとはなんですか? 今も「幸せってなんだろう」と考えています。 自分にとって一番の幸せは、いろんなことを成し遂げて世界を変えることもそうだし、愛する家族・友人・パートナーと3匹の猫たちが健康でいること。そして、自分も健康でいることですね。 自分たちの限られた時間と同時に「死」はすごく身近にある。人って一瞬なんですよね。命は尊い。だからこそ自分の幸せを考えるのもすごく大事だけど、愛する人たちと限られた時間を過ごすのを大事にしようと思います。 今はVoice Up Japanの活動も含め、学生のみなさんに会うことが大切な時間だと感じています。あとは、自分の好きなことをどのようにキャリアにしていくかを考えながら、後悔なく生きたいです。 ー今後は、どのようなことにチャレンジしようと考えていますか? 今後も、意思決定ができる立場でいたいですね。そして、さまざまな人の声を実際に意思決定の場に持っていける人になりたいと思っています。正直にいうと、政治の道も考えています。 今の会社では資金調達をして、数年後には成功させてイグジット(投資回収)させたい。経営を学びながら経験を積んだあとは、法学部やロースクールの学生として学んで、ビジネス、金融、法の経験と知識を身につけた人になりたいですね。 個人的に政治が好きなので、政治の道に進みながら、将来的には企業に戻ったり、違う団体を立ち上げたりしたい。Voice Up Japanも続けて、今よりさらにインパクトのある団体にしたいと思います。 取材:山崎 貴大(Twitter) 執筆:スナミ アキナ(Twitter/note) デザイン:五十嵐...

「かっこいい人でいたい」サロン経営者兼美容家の竹内麻子が挑戦し続けられる理由

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第314回目となる今回のゲストは、サロン経営者兼美容家の竹内麻子さんです。 幼い頃からダンスが好きだった竹内さん。高校時代には進路選択に悩んだ結果、進学した早稲田大学でダンスサークルの幹事長を務めます。新卒で人材派遣会社に入社され、営業や企画広報を経験し退職。その後、福岡への移住、美容専門サロンのオープンなどの挑戦をされています。行動力の源には「ずっとかっこいい人でいたい」という想いがありました。コロナ禍で制限されることの多い今だからこそ、やりたいことを叶えていく竹内さんのお話は必読です。 気になったらやってみる性格は幼少時代から ―本日はやりたいことを仕事にするというところについて竹内さんの経験から伺っていければと思っています。まず、自己紹介からお願いします。 はじめまして。竹内麻子と申します。早稲田大学を卒業後、人材派遣のリクルートスタッフィングに入社しました。営業を2年半、企画広報を1年半経験後、昨年6月に退職をしました。 花嫁美容をきっかけに美容に夢中になり、美容情報の発信を経て会社を設立しました。昨年9月に福岡へ移住し、12月に「Salon de Mew(サロン ド ミュー)」という、ハイフとヒト臍帯血幹細胞、金の糸脱毛の専門サロンを福岡の赤坂にオープンしています。  ―人材派遣会社の営業からサロンの経営者になられるなんて、唯一無二のキャリアですね!そんな竹内さんはどんな子どもだったんでしょうか? 昔から気になったら全部やってみるタイプでした。3姉妹の末っ子で姉も母も保守的なんですが、私はかなりお転婆だったんです。例えば会場で、質問のある人ー?といった声がけがあったときに、誰も挙手していなくても私一人だけ質問も考えていないのに手を挙げてみたり。 考えるよりも先にやって、当たったら考えるというタイプでした。 小さい頃にはU字ピンがコンセントの穴にぴったりだと思って入れてみたら感電してしまい、ものすごく親に怒られたこともあります(笑) ―チャレンジ精神がすごかったんですね。その後、中高一貫校に進学されダンスを始められますね。 両親も姉も受験をしていたこともあり、中学受験をして広島県内の女子中高一貫校へ進学しました。姉を見ていてとても楽しそうだったんです。 もともと母がマイケル・ジャクソンなどの80年代、90年代の曲が大好きで、いつも家で洋楽を聞いていました。子どもの頃から音楽に合わせながら身体を動かすのが好きだったんです。中学の部活からダンスを本格的に始めました。   自分のやりたいことに向き合った高校時代 ―17歳のころ進路選択に迷われた時期があったんですね。 高校3年の進路を考えるタイミングでした。アメリカの大学が1校だけ指定校になっていたんです。推薦で進学できると知り、英語もずっと好きだったのでその大学に行こうと思っていました。 でも、私も慕っていた大人から、言語もままならない国に何をしに行くの?と聞かれたときに答えられなかったんです。英語なら日本でも学べますし、自分は何をしたいのかを初めて悩みました。そのときに担任の先生からも、早稲田のような大学で色んなことを吸収したほうがいいと、初めて意見を強く言われたんです。 その方達の言葉が家族に言われるよりも響いて、勉強を私立大学向けにシフトしました。その後、指定校推薦の枠をいただくことができ、早稲田大学に入学しました。4年間で最大限できることをしようと思い、入学時から精力的に活動していたと思います。 ―大学ではダンスサークルに入られて、代表の幹事長になられるんですね。  幹事長は大学2年の夏の終わりの合宿で決めるんですが、元々は幹事長に選ばれるとは思っていませんでした。リーダーをやるのが初めてだったんです。でも、一人でやるものではなくサークル内での役割分担だと気づきました。 表立って目立ったり集客をしたりするのは得意だったので、そういう役割だったら向いているのかもと思いました。ちょうどSNSが主流になってきた時代だったので、Instagramなどを使って広報をし始めました。人数が倍に増えて大きいサークルとして認知されるようになったので、その部分は貢献できたかなと思います。 ―幹事長になって、気を付けていたことはありますか? 上から一方的に指示するのではなく、周りの意見を聞いて取り入れるようにしていました。自分ひとりで決めて進めるのは簡単ですが、周りとの関係性で悩むと思うんです。サークルは部活ではないので一人ひとり思いが違うんですよね。完璧にやりたい人となんとなく楽しくければいいやと思う人もいるので、イベントや公演に向けてメンバーのモチベーションを上げていくところに気を遣っていました。   就職活動を通して見出した自分の理想の姿  ―就職活動はどのような軸をもって活動されていましたか? 母が専業主婦だったということもあり、最初は数年働いたら専業主婦になろうと思っていました。でも、大学の友人に、それは違うんじゃない?と言ってもらえて。それから自己分析にかなり時間を費やしたんです。説明会にも全然行かず、選考が始まる頃に気になる企業にだけ行きました。 そのなかの1社がリクルートでした。人事の方が学生と同じ目線で話をしてくれて、この人たちと働きたいと初めて思ったんです。説明会後に呼んでいただいた面談では、子供時代や趣味のダンスのことなど選考に関係のなさそうなこともたくさん聞かれました。 何度か面談をしていくうちに、自分の本質が見えてきました。目立ちたいだけではなく、自分の思うかっこいい人で居続けたい、そしてその理想のために努力することが私にとって大事なことだと気づいたんです。そこから「かっこいい人でいたい」というのを軸に、社会人生活がスタートしました。  ―周りの方との出会いによって大きく軸が変化した就職活動だったんですね。最初は営業職で大変だった部分もあると思いますが、いかがでしたか? 100人弱が入社しほとんどは本社配属だったんですが、私は同期が3人だけの立川支社に配属になりました。都内だと短時間で担当エリアを回れるんですが、私の場合は移動時間がとても長かったんです。なので、あまり得意ではなかったのですが、1年目から営業車を運転して営業に行っていました。 大変なことも多かったのですが、組織が楽しくてフレッシュさで乗り切っていました。1年目が終わったときに、私の所属していた組織が全国で1位になって表彰されたんです。2年目は目標も大きくなり、後輩も入ってきてとても大変になってしまいました。 ―その後、企画広報へ異動されますね。 当時は毎日色んなスタッフさんの転職やキャリアの相談に乗っていて、やりたいことを出来る時代になってきたなというのを体感しはじめました。営業を2年半経験した後、働き方改革を推進する企画広報へ異動になりました。 ―営業職と比較していかがでしたか?  全然違いましたね。企画広報は色んな情報を集めて結論をだしていくんですが、それが正解か本当は分からないんです。営業はノルマもあるので、数字を出せたら正解で、経験したからこそ営業が好きだと気づきました。   コロナという大きなきっかけがあったから決断できた  ―会社を退職をされて福岡に移住されますね。  昨年1月に退職を決意しました。イギリスに短期留学に行こうと考えていたんですが、コロナが流行りだして行けなくなってしまって。そこから不動産の勉強と美容サロンのお手伝い、Webライターなど複数の仕事を都内でしていました。 広島への帰省をコロナを気にする家族から止められたときに、東京にいる意味が感じられなくなって、三週間後、福岡に移住しました。いつか移住しようと旦那と話していたんですが、コロナがいいきっかけになって人生が大きく変わったと思っています。 ―サロンの開業に至った経緯はなんだったんでしょうか? 花嫁美容をはじめたときに、検索しても似たような記事しか出てこなかったんです。これから友達が結婚していくときに役に立てるんじゃないかと思って学び始めました。いろんなサロンにたくさん行ったんですが、質問をしても担当者の方が答えられなくなってきてしまったんです。そこまで聞いてくる方は初めてです、と言われてしまって。 最初はサロンを経営するつもりはありませんでした。でも、実際に施術してあげたり役に立つことが生きがいなので、福岡に移住したことがきっかけとなり、思い切って始めてみました。 ―竹内さんが挑戦しつづけられる秘訣はなんでしょうか?  私はやりたいことが常にあるんです。お金やタイミングを気にしてしまうこともありますが、真摯に生きていれば絶対に結果もお金もついてくると思っています。 欲しいものは早く買ったほうが、その後の人生を幸せに過ごせる時間が長くなると考えています。常にやりたいことをやっていると、他にもどんどんやりたいことが出てくるんです。 なので、やりたいことは紙やEvernoteに書いておいたほうがいいと思っていて。日中も考えてしまうくらい、何かをやりたくて悩んでいる方がいたら、絶対に挑戦したほうがいいと思っています。 ―やりたいことを実現していく力強さを竹内さんから感じます。今後はどのようなことを目指していらっしゃいますか?  役に立ったり必要とされたりすることが自分の生きがいで、それが自分の理想のかっこいい人を作り出してくれると考えています。必要とされるためには努力も必要ですし、情報に信憑性がないと信じてもらえないので、開業前にはサロンも自費でたくさん行きました。  今は情報が多すぎて選ぶのが大変な時代だと思います。なので、私を通して良し悪しのフィルターかけてもらえるような情報のハブになりたいと思っているんです。自分が試してよかったものをサロンのお客さんや友人に教えてあげたいですし、私に聞いておけばなんとかなると頼ってもらえる人であることが、私の思う「かっこいいいい人」だと思っています。 ―ありがとうございました!今後の竹内さんのご活躍を応援しています! 取材者:吉永里美(Twitter/note) 執筆者:小林菜々 編集者:杉山大樹(note/Facebook) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

教育×ITで世界を変える。村上登武が語る「世界平和」を実現する方法

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第353回のゲストは株式会社TOMAPの代表取締役、村上登武(むらかみ・とむ)さんです。「すべての人に選択の自由を」というミッションを掲げてプログラミング事業を経営されている村上さんに、学生時代に起業を決意された経緯や叶えたい夢についてお話いただきました! 始まりは外国人労働者との出会いだった ーまずは簡単な自己紹介をお願いします。 株式会社TOMAPという法人3期目の会社を経営しております、村上登武です。プログラミング教育事業を行っている会社なのですが、大学3年の時に始め、大学4年で法人登記しました。 ー過去から現在に遡って経緯をお聞きできればと思います。幼少期に現在の原体験となるような出来事はありましたか。 実家が埼玉にある養豚場なのですが、幼少期のころからうちで働かれていた外国人労働者の方の存在が身近にあったことが、今の自分のビジョンに大きく影響しています。 よく彼らに遊んでもらっていたのですが、小学2年生の時、彼らには母国に直接会ったことのない子どもがいることを知りました。彼らが日本に「出稼ぎ」にきたのは、子どもの教育費や生活費を稼ぐため。大好きな子どもと離れる状況になったとしても、生きていくためにはその選択しかなかったんです。このことを知って幼いながらに衝撃を受け、家族が一緒に過ごせるようにするためには何が必要かと考えたりしました。当時はご飯を送っても、生活費をあげても、持続性がなく問題の根本的な解決にはならないというところまでしか考えられていませんでしたが… ーそこから何か具体的な行動を起こされたりしたのでしょうか。 幼少期に感じたモヤモヤは頭にずっと残ってはいたものの、中学進学後は部活動に忙しく、そのことについて十分に考えられていませんでした。特に高校からは練習がハードなラグビー部に入部したこともあり、部活中心の生活を送っていました。 ーラグビー部に入部を決めた理由は何だったのですか。 小中ではサッカーと水泳をやっていたこともあり、高校でも初めはサッカー部に入部することを考えていました。しかし入学した高校のサッカー部に練習の様子を見学しにいったところ部員の目が死んでいるように移り、楽しそうではないなと感じました。 そこで違う部も検討してみたところ、ラグビー部の先輩たちが強くて優しく、かっこよくうつったので入部してみようと思ったんです。ラグビーはそれまで一切したことがなかったのですが、今後大学生や社会人になってからラグビーを始める機会はなさそうだなと感じたので、新しい挑戦としてラグビーを選びました。 ー勉強そっちのけでラグビーに高校生活を費やしたとのことですが、充実した日々を送られていたのでしょうか。 正直部活はしんどかったです。入部当時は178cmで53kgと、体格からまずは変えていく必要がありました。入部2週間で胸骨にヒビが入った時は、さすがに入部したことを後悔しましたね(笑)でも、応援してくれた母親や励ましてくれる仲間の存在があったからこそ高校3年間続けることができました。おかげさまでメンタルはびっくりするくらい強くなりましたし、周りに対して配慮をしたり、感謝の気持ちを率直に伝えることができるようになったと思います。   教育とITの2つで社会問題にアプローチしていくことを決意 ー高校卒業後の進路についてはどのように考えられていましたか。 当時は建築に興味があり、設計事務所を持ちたいと考えていたので建築学科のある大学を目指していました。 ラグビーと比べて、勉強はやればやるほど結果がでたので浪人生活は苦痛ではありませんでした。最終的には、全く違う分野である東京理科大学の物理学科に進学を決めたんですけどね(笑) ー浪人生活というと大変なイメージが強いですが苦痛じゃなかったのはすごいですね…! 今考えれば、「THE TEAM 5つの法則」という本に書かれている「達成可能性×達成した時の報酬の魅力×期間」というモチベーションの方程式にうまくはまっていたからだと思います。大学に入学できた時の大学生活の魅力や1年という限られた期間であったことで、受験勉強のモチベーションを保つことができたんです。 ーなるほど…大学入学後〜起業まではどのように過ごされたいたのですか。 大学入学後すぐにスターバックスでバイトを始めました。働いていく中で、ミッション・ビジョン・バリューを大事にし、行動しつなげていること、それが社員だけではなくアルバイトにまで浸透していることなど…仕組みづくりの徹底に感動したのをかなり覚えています。スタバでのバイト経験から、そんな仕組みを作る側に自分もなりたい!と強く思うになりましたね。約1年8ヶ月勤めさせていただいたのですが、学びの多いバイト生活だったと思います。 一方で、大学入学後は英語が苦手だったこともあり、英語で今後困らないよう英語学習に力を入れていました。そして大学2年の夏に初めてニューヨークに1人で旅行に行き、いろんな国の人がいて、様々な言語が飛び交っているのをみて世界の広さのようなものを感じました。もっと何かアクションを起こさないと大学生活を無駄に過ごしてしまう…と危機感とともに、日本に帰国しました。 ーそこから実際に何かアクションを起こされたのですか。 たまたまTwitterでご縁があった英会話スクールを運営しているスタートアップでインターンを始めました。特に教育にこの頃は思い入れなどはなかったのですが、英語の勉強は頑張っていたので英語学習については語れると思いジョインしたんです。そこでたまたま、「留学も行ったことがないし、もともと人と話すのも苦手だけれど、ここに来て英語を勉強して話せるようになったことで自分に自信がついた。今、人生すごい楽しい!」と語る生徒に出会い、その時初めて教育の可能性を感じました。 ちょうどその年にGoogle翻訳にAIが搭載され、精度の高い文章の翻訳が可能に。この時に英語が話せる人材を育てるよりもAIのような技術を作り出せる人材の価値が高まるだろうと思い、プログラミングの勉強を始めるようになりました。 そして勉強する中で、幼い頃からモヤモヤとして覚えていた外国人労働者の現状をはっきり思い出し、この社会問題は教育とITの2つの力で解決できるかもと思ったことが、起業へ繋がりました。   自分にとっての「かっこいい」を大事に挑戦し続ける ー教育へはそういった経緯で辿り着かれたのですね。実際起業してみていかがでしたか。 事業を始めたばかりの頃は営業活動で苦戦しました。当たり前ですが、営業は受け入れられることよりも断られることの方が多いんです。これまで挫折経験はあったものの、誰かから拒絶されたりすることに慣れていなかったため、たくさん辛い思いをしました。 また、東京理科大学にはスタートアップ界隈に関わっている人は少なく、教員や教授、院に進学して技術者として企業に就職するのが定番なため、自分は間違っていることをしているのかと不安になることもありました。 ーそれでもめげずに頑張れた理由やモチベーションとなったことは何だったのですか。 理由は主に2つあります。 1つはたまたまYouTubeでみたジャック・マーの貧乏マインドに関する動画です。その動画に自分が周りの人や社会に伝えたいことが詰まっていて、その言葉には何度も救われました。 2つ目は、「かっこいい自分であり続けたい」という僕自身の変わらない意志です。周りからどう見られるかではなく、自分自身が自分のことをかっこいいと思い続けられることを大切にしています。自分にとってのかっこいいとは、「挑戦している人」や「目標を達成している人」なので、自分もそうありたいと常に思っているんです。 ー周りからどう見えるかではなく自分が、という視点が素敵ですね。会社を経営する中で意識していることなどはありますか。 メンバーの声に耳を傾けることと、誰よりもメンバーのことを信頼すること。この2つは特に大事にしています。 自分がやりたいことがある一方、メンバーにもそれぞれの想いや目標があるのは当たり前なので、それを尊重したいと思っています。同時に、メンバーには成長の成長のための、マインド教育も意識しています。メンバーの性格などは変えようとは思いませんが、考えや価値観を広げることによって、成長してくれたらと思うからです。 また、自分が信頼してもらうために、まずは誰よりもメンバーのことを信頼することは大切です。1on1でメンバーと話す際にも、「期待しているよ」と伝えるのではなく、「信頼しているから挑戦し続けてね」と伝えるようにしています。 ー最後に、そんな村上さんが成し遂げたい目標や今後の展望についてぜひ教えてください! 成し遂げたいことは、ずばり「世界平和」です!目指していることは大きく、生きている間に達成できるかもわかりませんが、僕は本気で叶えにいきます。ゆくゆくは「村上登武といえば世界平和」といってもらえるような存在になりたいです!また、それを発信し続けることで、一緒に何かやってみたいなと周りから思ってもらったり、一緒に世界平和実現に向けて考えるきっかけを与えることができたらいいなと思っています。 その1つとして存在するのが、僕が経営する株式会社TOMAPです。「選択の自由」を掲げて、世界平和のために一緒に伴走できるメンバーの集まった集団であり続けたいです。 取材:新井麻希(Facebook) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

誰もが居場所を感じられる社会を目指して! 嶋田 匠が考える「よりどころ」と「やくどころ」とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第288回目となる今回のゲストは、ソーシャルバーPORTO(ポルト)のオーナーであり、コアキナイ主宰の嶋田 匠さんです。「ソーシャルバー」や「コアキナイ」という言葉にあまり馴染みのない方もいるかと思いますが、この両者には嶋田さんの原体験や想いが込められています。そこで今回は、両者に共通する「居場所」というテーマ、さらには嶋田さんが考える居場所における「よりどころ」と「やくどころ」についてお話いただきました。 人間関係で悩んだ少年時代 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 嶋田 匠と申します。92年生まれの現在28歳です。 現在は居場所づくりの仕事をしていて、皆が居場所を感じられる状態を当たり前にしたいと思い、仲間と一緒に事業を育てています。 ぼくは、居場所を「よりどころ」と「やくどころ」の2つに分けて言語化をしていて、 「よりどころ」づくりの事業としてソーシャルバーPORTO、「やくどころ」づくりの事業として「コアキナイ」を営んでいます。「コアキナイ」では、その人らしさを活かした小さな商いをつくるゼミや、それぞれが立ち上げた商いをみんなでサポートし合うコミュニティ、そしてコミュニティの拠点となるシェアハウスやコワーキングスペースなどのリアルな場を運営しています。 ー「よりどころ」と「やくどころ」はどんな意味なのでしょうか。 「よりどころ」は裸の個と個で繋がれているような利害関係が全くない信頼関係のことを指していて、「やくどころ」は提供価値があるから認めてもらえる、ある種ギブアンドテイクの要素を含んだ関係性を指します。 言い換えると、Beの居場所が「よりどころ」で、Doの居場所が「やくどころ」というイメージですね。 ーここから嶋田さんのこれまでを振り返りながら進めますが、幼少期に苦労したことがあるそうですね。 家庭の事情もあり、人よりも少し遅めの4歳の時に保育園に入園しました。 全く友達をつくれず、先生からも心配されるような存在で、親が迎えにきた際に先生が何か気まずくその日に起きたことを伝える様子や雰囲気が伝わってきて、友達と馴染めない惨めさを感じていました。 ー小学校に入ると、友達と馴染めるようになりましたか。 誰よりも友達つくるぞというテンションで小学校入学していたので、 今でも覚えていますが、入学式の帰り道に母から「仲良い子できた?」と聞かれて、保育園で一人も友達ができなかったやつが入学式当日に友達ができるわけないと思いながら、仲良い子が2人できたと嘘をつくという(笑) ただ、その後ひとり仲の良い友達ができて、次第にその周りの子たちとも仲良くなっていきました。 その後、クラスで班長をやったり、ボール遊びでコートを取ったり、集団の中でリーダーシップを発揮することで人の輪の中に入れるということを学んだのか、「長」と名前のつくものには積極的に手を挙げるようになりました。 ー小学校の高学年はいかがでしたか。 些細なことをきっかけに、高学年でハブられてしまったことがあって、その時の経験をきっかけに「ぼくは空気を読まないとみんなの中に居られないんだ」と思うようになって、あまり良い意味ではなく人間関係に対して慎重になっていきました。調子に乗りすぎてもダメなのだと気付きました。 保育園時代に隅っこで過ごしていたのに、いつの間にか輪の中心にいることが当たり前になっていたこともあり、自分に取ってはインパクトの大きい出来事でした。 ーそのタイミングで家庭にも変化があったそうですね。 両親と妹の4人家族だったものの、両親があまり仲が良くはなく、家に居づらかったです。 いよいよ夫婦喧嘩が熾烈になって、家にいたくないと感じていた時期が小学校5.6年生で学校でも居場所を感じられなくて、塾や図書館で過ごすことが多かったです。 また、妹が陽キャで、私のように戦略を立てなくても自然と友達ができるタイプだったんです。人気者の妹に対する劣等感から、学校でうまくやれていると嘘をつくようになり、学校の現状と家庭内で語っている自己像にギャップが生まれ始めました。 そのため、物理的にも心理的にも安心できる居場所を感じにくかった時期でした。 ー中学校になると、環境や自身の心境も変化したのでしょうか。 中高一貫の男子校に入学したのですが、クラスの出席番号の前後の子と仲良くなって、最初に仲良くなったメンバーのほとんどが野球部に入るということで、野球をやったことがないのに、野球部に入ることにしました。人の輪の中にいることがその時の自分にとって一番大切なことだったので。 ただ、野球やったことないのに野球部入ったので、部員の中でも圧倒的に下手くそで、部活の時間は正直しんどかったですが、部活の友達とはとても仲がよかったです。練習終わりに行きつけの商店でおでんをみんなで食べたり、自販機のカルピスソーダを飲んだり、みんなで過ごす時間は幸せでした。 ー高校時代は、中学の時と変化したことが何かありましたか。 環境は変わりませんでしたが、勉強に力を入れないとそろそろヤバイなと感じ始めました。 高校1年生の夏休みに、数学の青チャートを総ざらいする宿題が出まして、やったフリをするかしっかりやるかで悩んだものの、それまであまりにも勉強をサボっていて、成績も底辺だったことへの危機感もあり、一から勉強し直すことにしました。 やったらできるじゃんと調子づいて、そこから勉強することになったことで、それまであまり話をしていなかった同級生からも勉強のことを聞かれるようになり、周りから頼ってもらえることもモチベーションになって、自然と勉強にハマっていきました。 無料相談屋をはじめたのは、共感できない悩みがきっかけ ーその後、大学受験になるかと思いますが、その時のエピソードを教えてください。 第一志望の大学にはいけなかったものの、浪人してまで頑張るモチベーションはなかったので、選んだ大学について後悔はありませんでした。ただ、周りから褒められるために勉強してきたこともあり、入学してから何をすれば良いのか分からなくなりました。 大学から足が遠のいていたこともあり、高校の時に通っていた東進ハイスクールのアルバイトが生活の中心になっていました。1年生の頃は、週の5日間くらいは東進に通っていたと思います。 生徒一人一人のことを考えることにかなりの時間を使っていたので、生徒に向き合って信頼を得て、生徒の行動が変わり、成績が上がり、結果として信頼関係が強まっていくというポジティブなサイクルが回っていました。ここで初めて、「やくどころ」的な居場所を実感したこともあり、ますますアルバイトにのめり込んでいきました。 ー大学2年生以降はいかがでしたか。 東進のアルバイトは勉強を教えるわけではなく、ロードマップを生徒と一緒に考え、ロードマップを実行できるように伴走していくことが仕事でした。その時に、もう少しコミュニケーションを本人の内発的な動機付けを引き出すような形にできないとまずいなと反省するきっかけがありました。 それだけが理由ではないのですが、もっと多様な生い立ちの人に共感できたり、耳を傾けられるようになりたいと思い、原宿のキャットストリートで無料相談屋を始めました。 ー無料相談屋は何人くらいの方の相談を受けましたか。 1000人以上は聞いていると思います。 ほぼ毎週日曜日の昼前から夕方まで、ポールスミスの前にある花壇のヘリに腰掛けて相談に乗っていて、1日大体15人くらいの人が声をかけてくれました。 ー話を聞いて、共感するだけではなく、アドバイスもされるのでしょうか。 アドバイスはしますが、たいていの相談は本人の中で無意識的にでも結論が出ていることが多いんですよね。その人が本当はどうしたいのか、ということを自分で言葉にできるように、誘導的にならない問いかけを続けていくようなコミュニケーションを取っていました。 ーこの無料相談所での経験が、就職の判断軸に影響したそうですね。 就活のタイミングでキャリア教育に漠然とした興味があったのと、ずっと会社員として働くイメージが湧かなかったこともあり、キャリアの領域で起業するならリクルートキャリアかなと思い入社を決めました。 「よりどころ」と「やくどころ」の大切さに気づく ー実際にリクルートに入社されて、どうでしたか。 リクナビやリクナビネクストといった求人広告の営業に希望通り配属されましたが、想像の20倍くらい売れませんでした。アルバイトでもゼミでも周囲から期待されたり頼られたりすることが多かった大学時代と現実とのギャップにかなり凹みました。 会社の中で「やくどころ」を感じられない時期が続き、その状態からなんとか抜け出したくて、平日の退社後も、休みの日も、ほぼ全ての時間を仕事に注いでいました。 気がつくと仕事しかしていないので、「よりどころ」的な関係性の人たちと会う機会もなくなり、職場でもプライベートでも、どこにも自分の居場所がないように感じていました。 その頃、朝起きると動悸がするようになり、さすがに少し休まないとまずいなと思い、無料相談屋を再開することにしたんです。すると、学生時代の友人や、「無料相談屋」で知り合った人たちが会いに来てくれて。自分の居場所になってくれていた人たちの存在を確かめることができました。 居場所を確認できたことをきっかけに、リクルートで活躍できなくたって自分は大丈夫だなと思えて、それから堂々と仕事に向き合えるようになりました。 ー徐々に活躍し始め、最年少で代理店部に異動されたそうですね。 ベテランの人が多くいる、リクルート代理店の経営をサポートする部署に異動することになり、最初は苦労することも多かったのですが、マネージャーの指導に恵まれ、自分のスタイルを確立したことで次第に結果を残し始めました。そして、自分で事業をする自信がつき、独立しようと思いました。 ーリクルート在籍しながら、事業を立ち上げたのでしょうか。 そうですね。代理店部で仕事をしていた時に、担当している代理店さんに新入社員として働いていた人が一緒にバーを立ち上げた喜屋武(きゃん)くんで、会ったその日に中華屋に飲みに行ったり、妙に意気投合したんですよね。その後も週末はよく遊びに行くようになるなど、仲良くなりました。 そして、お互いのやりたいことが合致した日替わり店長のバー「PORTO(ポルト)」をやることになって、PORTOを立ち上げたのは、喜屋武くんと出会ってから1年くらいのことです。 ー実際に、事業を立ち上げたときにどんなビジョンやミッションを掲げましたか。 「よりどころ」に救われたり、「やくどころ」を得ることで自分が安心できたように、人が居場所を感じることをもっと当たり前にしたいと思っていました。 幼少期から居場所に悩み続けていたぼくにとって、「よりどころ」づくりと、「やくどころ」づくりの事業をやりたいと思うことは自然なことでした。そして、「やくどころ」を得られずに無料相談屋を開いたことで「よりどころ」を感じられた経験がPORTOというアイデアに至るきっかけになりました。 自分はたまたま無料相談屋という場を持っていたけれど、もっと人が場を持つことが気軽になれば、よりどころを感じやすいのではないかと思います。SNSで保存されただけの点線の関係性になっていたものが、リアルな場にフラッと立ち寄ることによって実戦に戻っていくことをもっと多くの人に味わってもらいたい。そして、月に1度だけお店に立つ日替わり店長であればどんなに忙しい人でもできると考え、PORTOをスタートさせました。 それぞれの「やくどころ」を形に ー「やくどころ」づくりの事業も現在取り組まれているんですよね。 「やくどころ」を感じるという上での課題は、多くの人にとって「やくどころ」が、外部に依存した不安定なものになっていることにあると考えています。 例えば、会社というコミュニティからの期待に応えることで得られる「やくどころ」はどうしても、組織ありき、マーケットありきのものです。組織やマーケットの状況が変われば、当然求められる期待の形も変わります。そして、変化していく期待に、たまたま応えられないだけで、簡単に“やくどころ”が揺らいでしまう。 1社に属して働くということは、外部に依存した不安定な“やくどころ”を1つしか持てていないということだと思うんです。そしてその状態は、みんなが「やくどころ」を感じられる世界観とは距離があるなと思います。 では、みんなが「やくどころ」が感じられる状態をどうしたらつくれるのか考えると、 個人の志向性や好き嫌い、強み弱みって大きく変わらないものだと思うので、そこをベースにその人にとって無理のないサイズ感の商いを作っていくことが自然な形の「やくどころ」につながるのではないかと思うようになりました。 そして、そんな個人のらしさを活かした、比較的小さなサイズの商いをコアキナイと名付け、そんなコアキナイが育まれる社会づくりのプロジェクトを始めました。コアキナイをカタカナで表記しているのですが、小さな商いという意味での“小商”と、個性を活かした商いという意味での“個商”という2つの意味を込めています。 ー最後に、今後のビジョンを教えて下さい。 人が「よりどころ」と「やくどころ」を感じられる社会をつくっていきたいと思っています。 「よりどころ」作りの部分は、ソーシャルバーの機能を一般化させていくことによって誰もが場を持てる状態をつくることで果たせそうだと感じていますが、「やくどころ」づくりの事業は、まだまだこれから形を模索しながら磨き上げていきたいと考えています。 今は、コアキナイづくりのゼミを開講したり、ゼミの卒業生を中心としたコアキナイを営んでいる人とコアキナイを応援したい人たちがそれぞれのコアキナイをみんなで支え・育てるコミュニティを運営したり、そのコミュニティの拠点となるシェアハウスやコワーキングスペースを立ち上げたりと、コアキナイ的な世界観で営まれる社会づくりにチャレンジしています。その先に、誰もが自然な「やくどころ」を感じられる社会があると信じて、世界観に共感してくれる仲間と一緒にコアキナイな社会を育てていきたいです。 みんなが「よりどころ」と「やくどころ」を感じられる社会というのは、簡単に実現できることではないし、人によっては無理だと思われてしまうかもしれないけど、小さくても具体的なアクションを積み重ねて、言葉ではなく光景で思い描いているビジョンを、共に生きるみんなに共有していきたいと思います。 ー多くの人が「よりどころ」と「やくどころ」を感じられる社会を目指してチャレンジする嶋田さんの今後のご活躍を応援しています! 取材者:増田 稜(Twitter) 執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

「やりたいことがわからなかった」学生時代を経て、起業家へ。COHINA代表・田中絢子の半生とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第347回目のゲストは、小柄女性向けのアパレルブランド「COHINA」で代表を務める田中絢子さんです。 学生時代に海外インターンに参加した後、国内でアパレルブランドを設立、その後は新卒でGoogleに入社という輝かしい経歴を持つ田中さん。一体どのような半生だったのか、詳しくお話を伺いました。 小柄女性の“ひなた”になりたい ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 COHINAという小柄女性向けのアパレルブランドで代表をしている田中絢子と申します。もともと学生時代からCOHINAを立ち上げていたのですが、新卒から1年半ほどはGoogleに在籍をしていました。現在は退職をして、COHINAの活動に専念しています。 私は主にInstagramの運用をしたり、ディレクターとして服の方向性を決めたりなどしています。ちなみにブランド名は「小柄女性のための“ひなた”になりたい」という思いから生まれました。 ー素敵な由来ですね。最近では、テレビCMや東京ガールズコレクションなどにも出ていましたよね! そうですね。板野友美さんや高橋愛さんなど、タレントさんの出演をきっかけにブランドを知ってくれる人が増えてきました。 あと、毎日インスタライブを配信しています。個人でもYouTubeを始めたり、小柄女性のためのファッション情報を定期的に発信しています。 ー身長155cm以下って、ニッチな領域だと思っていたのですが、結構需要があるんですね。 身長が低くても生活スタイルはあまり変わらないので、なかなか注目されにくい領域ではあります。しかし、Instagramは18万人以上からフォローをいただいているので、意外と需要はあると見ています。 「やる気がないと何もできない」と感じた中学受験 ー本日は、田中さんの過去について伺いたいと思います。幼少期はどのような子供でしたか? 小学生のときは自分の意思があまりなくて、ただ本を読んだり友達と遊んだりして楽しく過ごしていました。中学受験もしたのですが、なかなかやる気がでなくて……。 なんとか滑り込みで合格した学校に入りましたが、当時を振り返ると「自分はやる気がないと何もできないんだな」と改めて思いますね。 ただ、学校の雰囲気は自分に合っていたので、結果的には良かったです。 ーそうだったんですね。具体的にどのようなところに相性の良さを感じたのですか? のびのびとした人が多かったところです。帰国子女が多い学校だったので、自分とは異なる価値観を持つ人でも素直に受け入れるような文化でした。「こんなに誰とでも仲良くなれる人がいるんだ」と、ずっと日本で生きてきた私は衝撃を受けましたね。 ー当初は希望していなかった中学受験ですが、今振り返るとどんな経験になったと思いますか? 自分に意思がないことをやってもやる気が出ないので、うまくいかないんだなという学びになりました。一方で、やると決めたら最後までやらないと何にもならないので、やりきることの大切さも学んだと思います。 世界の広さと自分の小ささを実感した大学時代 ー高校卒業後に早稲田大学に進学されていますが、何を学んでいたのですか? 政治経済を学んでいました。大学受験のときは明確にやりたいことはなかったのですが、なんとなくグローバルな環境に身を置きたい気持ちがあったんです。なので、世の中のことを幅広く知れて、且つグローバルな進路に進めそうという理由から学校を選びました。 ーもともと海外が好きだったんですか? 子供のときに何度か家族旅行で行きました。日常生活では出会えない景色や料理が忘れられなくて、当時幼かった私には刺激が強くて、すごく憧れを抱くようになりました。 ー子供の頃から海外に興味があったんですね。大学時代も海外を中心にして何か活動をされていたんですか? もともと1年生のときは文化祭の運営スタッフをやっていました。ただ、友達がほしいという目的だったので、文化祭を作ることにあまり興味が湧かなかったんですよね。 なので、2年生からは国際協力に関する活動を始めました。そこでAIESECという海外インターンを斡旋する団体に出会って、最初は運営側で活動をしていました。 しかし、徐々に自分が参加側に回りたい気持ちが強くなって、ブラジルの教育ボランティアに参加することを決意したんです。実際に現地に行くと、親が麻薬漬けだったり、そもそも家族という概念がなかったり、そんな子供たちが多かったことに衝撃を受けました。 「何か自分にできることはないか?」と考えたのですが、何も思いつかなくて……。自分が世界に強い影響を与えられるのはまだまだ先のことなので、まずは自分の得意な分野を見つけて、それを磨くことから始めようと思いました。 Googleを退社して、COHINA一本に絞ったワケ ー新卒ではGoogleに就職をされていますが、最初から志望していたのですか? いえ、就活中にたまたま出会いました。当時は自分がやりたいことがわからなかったので、誰と働くかを重要視していました。そんななかで、Googleは「こんな世界があるんだ」と思うぐらい良い人が多かったんですよね。実際に働いてみても、人間性が高くて尊敬できる人が多く、毎日感銘を受けていました。 ーGoogle在籍時にもCOHINAの活動をしていましたよね。二足の草鞋を履いて、正直大変ではなかったですか? すごく大変でしたよ。平日も土日もスキマ時間さえあれば、COHINAの仕事をしていました。そんな生活を1年半ぐらい続けていましたね。 ーGoogleを退社して、COHINA一本に集中しようと思った理由は何ですか? COHINAでの活動が楽しかったからです。色んな困難がありつつも、それでも一歩一歩前に進んでいたので、大変すぎて楽しいという感覚でした。 あと、お客さんから「初めて服選びが楽しいと思いました」とか「今度大事なデートがあるんですけど、おすすめの服はありますか?」とか、色んな言葉をいただいて、人から必要とされるものを作れている感覚にだんだんと夢中になっていました。 小柄女性向けの服を世の中の当たり前にする ーこれからの目標などあれば教えてください。 まずはCOHINAを大きくすることが目標です。規模としては、日本のアパレル企業のトップ10%に入る100億円の売上を目指しています。小柄女性向けの服を世の中の当たり前にするためにも、まずそこは目指したいですね。 ただ、COHINAの規模が大きくなって小柄女性向けの服が普及したら、世の中の課題は1つ解決されると思います。そうなったら、また別のネタを探して新しい事業を作るか、もう1度学び直すか、いずれにせよ新しい価値を作り続けるような人生を歩みたいと考えています。 ー田中さん、本日はありがとうございました! インタビュー:あおきくみこ(Twitter/note) 執筆・編集者:下出翔太 デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

未来への距離を測りながら生きていく。吉開祐貴が重ねてきた “選択” と “覚悟”とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第340回目となる今回のゲストは、小売業の変革を推進する10XにBizDevとして参画している吉開 祐貴(よしかい ゆうき)さんです。 株式会社ユーグレナで経営企画に従事し、M&A、ベンチャー投資、研究開発マネジメント、新規事業などを担当。その後、グループ会社であるリアルテックホールディングス株式会社に転籍し、執行役員として働いたのちに株式会社10Xに入社した吉開さん。 そんな吉開さんが、現在に至るまでの “選択” と “覚悟” について、お伺いしました。 お金と時間の価値は平等ではない。格差を意識した高校時代 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 吉開 祐貴と申します。現在は株式会社10Xで事業開発の仕事に従事しています。もともと株式会社ユーグレナの経営企画で働いていて、その後リアルテックファンドというベンチャーキャピタルファンドに転籍し、環境系や食領域のベンチャー企業に投資したり、執行役員としてバックオフィスの管轄をしたりしていました。 ー本日は、現在の吉開さんに至るまでの変遷を追っていければと思います。今までの人生を振り返ってみて、モチベーションの上がり下がりがあったポイントを教えてください。 今まで何にも影響されず、ずっとポジティブに生きてきました。周りに田んぼや山、川しかなくて、ゆるやかに時間が流れているような環境で育ってきたので、何の摩擦もなく生活をしていました。 そんな中、17歳になったタイミングで母子家庭になって。それまでは普通の家庭で、何不自由なく生活してたのですが、母子家庭になってから「お金と時間の価値は平等ではない」と感じるようになったのです。 教育格差や情報格差、経済的な格差などを強く意識したタイミングでもありますね。 ー母子家庭になったことが、1つのターニングポイントだったのですね。大学へは進学されましたか? 大学進学の選択肢はありませんでした。通例的に、高校卒業後は地元の会社で働くような環境で育ってきましたし、幼い頃から「地元に残るのが親孝行だ」「公務員になれ」と言われ続けてきたので、公務員の試験を受けていました。 ただ、ちょうど母子家庭になったタイミングで母親が、「自分が大黒柱になる覚悟で、大学へ進学して欲しい」と言ってくれたのです。それで私も踏ん切りがついて、地元の国立大学に進学することにしました。 その頃から「生かされている感覚」が強かったです。   トビタテで海外留学を経験し、新たな価値観に触れる ー国立大学に進学されてから、どのように過ごされたか教えてください。 大学時代は可能性を耕した期間でもありました。 私が進学した大学は英語の試験がなかったので、比較的英語が好きではない方が多かったのですが、私は英語の勉強に力を入れていました。 ーそれはなぜでしょうか? 大学受験の前日に泊まったホテルでの出会いがきっかけです。ホテルの銭湯で、たまたま海外の方と2人きりになって。たくさん話しかけてくれたのですが、何も理解できず、答えることができず、「中高6年間で何を勉強してきたんだろう」と情けなくなりました。 それがきっかけで、「大学に入ったら絶対に英語の勉強をしよう」と決意し、学問に精を出すことができたので、あのとき銭湯で話しかけてくれたことに感謝しています。 ー大学時代は学問以外のことに目が移りがちだと思うのですが、なぜそこまで学問に集中できたのでしょうか? 大学入学前と同じように、生かされてる感覚があったからです。いつも自分に「お金と時間の価値は平等ではない」と言い聞かせていたことが、努力の源泉となっています。 ーその他、大学時代に記憶に残っていることがあれば教えてください。 英語の勉強を頑張る中、大学3年のときに文科省が主導しているプログラム『トビタテ!留学JAPAN』に採用されました。民間企業からの金銭的支援により、初めて海外留学を経験することができました。 トビタテに参加しているメンバーは、目標に向かってひたすら努力しているんですよね。そんなメンバーたちと出会えたことが1番の収穫です。 ートビタテではどこへ行かれたのですか? マレーシアです。大学の研究テーマが「水」だったので、マレーシアのパームオイル産業によって排出される水の処理について研究しました。 ー留学期間での1番の学びは? 日本とマレーシアでは常識が異なるということです。現地は現地ならではの問題や価値観があるので、日本のハイテクノロジーをそのまま導入してもフィットしないんですよね。 ー具体的に、日本とマレーシアで異なる常識について教えてください。 パームオイル工場排水は、とても汚染度が高いので川に流しちゃいけなくて、もし流した場合は罰金を払わなくてはいけなくて。それでも彼らは、浄化せずに罰金を払ってでも流していました。 それはなぜかというと、罰金を払った方が費用がかからないから。ハイテクノロジーを導入するよりも、ルールを破って排水した方がプラスだと考えていたので、無理に機械や技術を導入しようとしたところで、彼らのニーズと合致しませんでした。 日本からただ想像しているだけでは気づけなかった感覚に、触れることができました。   アメリカ留学を経て、研究者ではなくビジネスの道へ進むことに ー留学を終えてからのお話をお聞かせください。 帰国後は試験を受け、大学院に飛び級で進学することになりました。 大学院進学後、英語の勉強をずっとしてきた甲斐があって奨学金を得ることができ、客員研究員として、アメリカのペンシルベニア州立大学へ留学できることになったのです。 当時から研究者になりたいと思っていたので、大きなチャンスだと思いアメリカへ留学することを決めました。 ーアメリカ留学はいかがでしたか? めちゃくちゃ厳しかったです。研究室は6人ほどしかいかいなかったのですが、全員博士課程を終えたポスドクで、研究の道一本で戦ってきた人たちばかりで、自分の未熟さを痛感させられました。 ートップレベルの方たちと対面して、挫折を味わったのですね。 そうですね。先生からは、日本の大学院を卒業してアメリカに来いと言われてたのですが、「志向性のミスマッチ」と「敗北感」から、研究者以外の道に進むことを決断しました。 敗北感は、トップレベルの方たちと一緒に研究する中で、自分がこの先同じ道を歩んだとしても、同じレベルに到達しえないと身をもって感じましたね。 志向性のミスマッチでいうと、私は社会貢献欲求が強かったのでビジネスと研究のつながりを重視していたのですが、研究は必ずしもビジネスに結びつくことありきではないですし、そうあって欲しいとも思っていなかったので、居場所としてアカデミアではなくビジネスサイドを選んだ方が幸せになれると思いました。 ー社会貢献欲求が強かったのはなぜ? 自分は生かされているという感覚が強くて、生かされている以上は、最後は役に立って死にたいという想いがあるからですね。 もともと、自分にベクトルが向くことはあんまりなくて。社会に対して価値を提供する過程で、自分も成長していくだろうと考えていました。 ー研究者の道を諦め、その後どのように活動されたのでしょうか? 私のフィールドは研究者ではないと改めてわかったので、ビジネスサイドへ行こうと思い、就職活動を始めました。事業会社やコンサルティング会社などいろんな会社を見ていた中で、最終的に株式会社ユーグレナへ入社することになりました。   覚悟を持ってユーグレナへ入社し、成功体験を積む ーいろんな会社を見ていた中で、最終的にユーグレナを選んだ理由を教えてください。 理由は2つあって。1つは、現副社長の永田さんと出会って「この人と働かなくては」と思ったからです。もう1つは、研究への想いを捨てきれなかったからですね。 ー「この人と働かなくては」と思ったのはなぜ? いつも心の底から話をしてくれているところに魅力を感じて、直感的に「一緒に働きたい」と思ったのです。 ービビっときたんですね。ユーグレナでの業務内容を教えてください。 ユーグレナでは経営企画業務に従事していて、主にM&A、ベンチャー投資、経営管理、研究開発マネジメント、新規事業、IRなどを担当していました。 ずっと研究をやってきていたのでビジネスのことは何もわかりませんでしたが、UBS出身の上司と永田さんに育ててもらいました。 お二人の業務量の膨大さに対するカバー範囲の広さ、処理スピードの速さから学ぶことはたくさんありました。できるできないではなく、やり続けるしかないと割り切ることができたのです。 ーユーグレナへ入社してから、印象的だった出来事はありますか? 大きなプロジェクトを任せていただけたことです。伊藤忠商事とのミドリムシの海外培養実証事業のアライアンス構築を任せていただき、結果的に海外での実証プロジェクトのローンチを行うところまで持っていくことができました。 組織の中で個として自立し、成果を残すことに快感を覚えましたし、自信にもつながりました。 ーユーグレナへ入社するという自分の選択は、正しかったと思いますか? そう思います。選択するときは何が正解かまったくわからないですが、選択した後にどう動くかで、自分の納得感は変わってくると思っていて。 私は覚悟を持ってユーグレナへの入社を選択をしましたし、入社後も真剣に事業と向き合って仕事をしたので、自分の中で成果を残せたと思っています。選択に間違いはなかったです。   10Xで目の前のことに向き合い、小売業の新時代を築いていく ーユーグレナで成果を残した後、どのように過ごされたのでしょうか? ユーグレナで大きな仕事をやり遂げたタイミングで、自分のキャリアについて改めて考えました。元々研究者を目指していましたし、その道を諦めながらも、研究成果の社会実装に貢献したいという思いはずっと心の中にあり、リアルテックファンドに転籍することにしたのです。 ーリアルテックファンドに転籍されてからはどんなことされていたのか教えてください。 主に大学発 / 研究開発型ベンチャー、特に、新素材、農・畜・水産、食資源領域のベンチャーへの投資、経営支援や、執行役員として政府機関・投資家対応、ポートフォリオマネジメント、ファンド運営全般の体制構築などの推進も行ってましたね。 ただ、昨年の12月末でリアルテックファンドを退職しました。 ー退職されたご理由は? ベンチャーキャピタルの仕事は未来を先取りしているような感覚があってワクワクしますし、知的好奇心あふれる方たちと一緒に仕事ができて高揚感に満ちた仕事ではあったのですが、「課題との距離感」と「貢献実感」において、自分の求めてる水準を満たすのが難しいと感じたからです。 私自身も最前線に立ち、未来への距離を測りながら生きていきたいと思ったので、株式会社10Xに転職することにしました。 ー10Xではどのようなお仕事をされているのでしょうか? 日本全国の小売業者と一緒に、次の小売の次の時代を創っています。 小売業は第6のインフラとも言われるくらい誰にとっても身近なものですが、例えば、「買い物をする時間がない」「非接触で買い物したい」「食料品の購入や飲食に不便や苦労を感じる」など様々な問題が溢れています。僕たちは、各地域の小売業者様のパートナーとして、それらの問題を解決する新しい体験を提供する仕事をしています。 ー吉開さんの今後のビジョンについて教えてください。 私は先のことを考えるタイプではないのですが、これからも常に「誰のどんな課題を解決しているのか」は自問自答して生きていきたいと考えています。 ー最後に、U29世代の方にメッセージをお願いします! 人それぞれ境遇は違うと思いますが、自分がどのような選択をして、どれほどの覚悟を持って臨むかが非常に大事だと思っていて。 選択にしっかり向き合って頑張りさえすれば、道は開けるはずです。私も自分自身を実験台として挑戦しているので、一緒に頑張りましょう! ー吉開さんが選択した10Xで、小売業者の方々と一緒にどんな時代を作っていくのか楽しみですね!本日はありがとうございました。   取材者:増田稜(Twitter) 執筆者:Moriharu(Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

新規事業立ち上げのプロ!メルカリPM/副業家ヨシタカギが起業と挫折を経て得たものとは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。333回目のゲストは、株式会社メルカリにてプロダクトマネージャーとして活躍しつつも、5社の副業をかけもつ”副業家”ヨシタカギこと高城良岳(たかぎ・よしたか)さんです! 現在はメルカリにて正社員として勤務されている高城さんですが、実は学生時代に数多くのプロジェクト立ち上げや起業を経験し、就職前に会社を経営されていたというユニークな経歴の持ち主。 そんな高城さんのこれまでの人生に何があったのか、そして現在どのようなキャリアを歩まれているのか…29年間の人生に迫ります。 目の前で困っている人を救いたかった!福岡で大学在学中に起業 ーまず過去についてお聞きしたいのですが、どのような子供時代を過ごされましたか? 生まれも育ちも福岡で、起業して東京進出するまでずっと福岡で暮らしていました。幼少期は室内で遊ぶゲームよりも外で遊ぶのが好きで、特にサッカーに夢中でした。 好奇心旺盛で疑問や知りたいことがあると、父に「これってどういう意味?」と何度も聞いていた気がします。尋ねるとちゃんと回答してくれ、「なんで?どうして?」という問いかけにも受け答えしてくれる父でした。母は「〜しなさい」などは言わず、僕の人生なのだからとやりたいことを応援してくれる人だと思います。 ー素敵なご家族ですね。起業された背景には、ご家族も影響しているのでしょうか? 僕が高校生になり将来を考えた際に、一番身近で尊敬できる存在・ロールモデルだったのが父でした。そのため自然と、父と同じ経営者を志すようになりました。 ただ、家族には起業や経営者になるという話は細かくしておらず、経営や起業する上で必要なことが学べる学部や進学先を自分で選びました。僕が経営者になったのを家族が知ったのは、実際に起業するタイミングだと思います。 ー学生で起業する!と聞いた際に、ご両親は驚かれたのでは? 家族からは反対されることなく、自然に受け入れられていたと思います。特に母は「最後は自分の人生なんだから自分で決めなさい」と、自分の意志でキャリアが選べるような育て方をしてくれていたので、家族からもすんなり受け入れられたのかなと思います。 現在も家族は全員福岡にいるので、僕だけ東京にいるのですが、たまに”バーチャル帰省”といってオンラインでつなぎ、2〜3時間顔をみて話すほど仲が良いです! ー起業した大学時代は、どのようなキャンパスライフを過ごしていましたか? 福岡にある西南学院大学へ入学した頃は、Twitterではなくmixiが全盛期でした。大学の先輩からmixi経由でインカレサークルに誘われ、学校外の友人も多かったです。 当時の福岡では、東京ほど様々な大学から人が集まるインカレサークルが無かったため、特殊な存在に所属していたと言えるかもしれません。そのサークルで様々な大学の方と交流を持っていました。 サークルは働きかけのベクトルが内側に向くコミュニティなので、自分たちが楽しめる状態になっていれば良いとされます。反対に、そのエネルギーを外に向けたらどうなるんだろう?と考えたのが学生団体立ち上げのキッカケでした。 インカレサークルのように学生が大学や学部・学年などの枠を超えて集うような、学生団体を立ち上げてみたのです。そこから数え切れないほどの様々な企画・イベントを開催したり運営したりしました! ーこれまでに立ち上げた中で、印象的なものはありますか? 最初に立ち上げた企画で印象に残っているのは、Pajacolle in HAKATA。ミスコン出場者などが出場するパジャマのファッションショーを博多でもやろう!と、東京の友人が福岡に持ち込んでくれた企画で、すごく印象に残っています。 その他にも福岡を拠点とし、福岡の学生と採用を行っている企業側を近づけるためのコワーキングスペース「天神仕事基地」を立ち上げました。発足のキッカケは、福岡の学生の「社会との関わり方」に対して問題意識を覚えたことでした。 高学歴社会が良しとされる社会や、積極性のない就活生たちを変えたい。「日本の教育と就活システムを変えるんだ!」というビジョンを持って立ち上げました。天神仕事基地は、法人化するしかない!と感じ、後に法人化しました。 ▼当時の取材記事はこちら   マネタイズできない事業を”おもちゃ”扱いされ、挫折を味わう ー多数の企画やプロジェクトを立ち上げる根底にあったモチベーションは何だったのでしょうか? これまで手掛けたプロジェクトやサービスはたくさんありますが、常に”目の前の困っている人の課題解決を助けたい!”という想いから立ち上げてきました。 毎日が怒涛の日々で、楽しいという感情を感じているほどの余裕もなく必死でした。とにかくやってみよう!という気持ちで行動できたのは大きな財産になっています。 もし、僕が福岡ではなく東京で就活していたら、身近な起業家やスタートアップの経営者に経験談などをヒアリングしただろうし、先輩方を参考にしながら進めたでしょう。ですが、福岡には聞く機会も相手も多くなければ、そんなの聞いている時間も当時はありませんでした。 経営周り・お金の部分は分からないことも多く、周囲に迷惑をかけてしまった部分もたくさんありますが、”充実していた”という言葉が一番合っているように感じます。 ー起業後は順調でしたか? 身近にいた美容師の知り合いが、美容師の仕事や美容業界の仕組みに悩んでいることを知り、その課題を解決しようと「FLAP」という美容師向けのサービスをローンチしていました。 ヘアサロンという”場所”ではなく、美容師という”人”ありきで、自分にあったサロンを選べるというサービスです。サービスリリース後は数多くのメディアにも取り上げられたり、たくさんの方に事前登録頂いていたので順調な滑り出しでした。 右も左も分からない状態で起業したので、毎日が初めてのことだらけ、発見の連続でした。最終的に起業家は一度引退していますが、人生を振り返ったときに「あのときはすごく良かったな」と思えるほど、非常に濃い期間でした。 ーそんな順調なスタートから、事業撤退に至るまでに何があったのでしょうか? 会社を経営しているとき、何人かでサンフランシスコへ視察に行きました。その時、現地のベンチャーキャピタリスト(投資家)に言われた一言が強烈で、事業を続けるか悩み出しました。 キャピタリスト曰く、「お金を生んでいないサービスは事業じゃない、おもちゃだ」と。 当時の日本のサービスは、TwitterやFacebookのようにマネタイズは後から考えて、まずはユーザーやトラフィックを増やすという考え方が多いように見受けられました。しかし、サンフランシスコではもうそれは時代遅れのやり方でした。ユーザーが少ないうちからマネタイズし、そのままグロースさせていくやり方が主流だったのです。 正論だと思いますが、自分たちの大切なサービスが「おもちゃ」と言われたショックが大きかったのを覚えています。また、そこで初めてお金の重要さをちゃんと意識した瞬間になりました。 ーなるほど…。マネタイズの面で苦労されたんですね。 僕の場合、何かの課題を解決するサービスを立ち上げることはできても、マネタイズは意識してこなかったので、”お金を稼ぐ”という感覚が分からなかったんです。 サービスを撤退するフローだったり、新規サービスの立ち上げを経験しましたが、お金を意識するほどビジネスの難しさを感じました。仕組み化されたキャッシュの生み方を学ばなくては…と思いました。 結局、事業を撤退して法人を精算したのですが、お金を稼ぐことへの答えが出ずにそうなってしまいました。サービスを通じて、いつ・どのタイミングでお金を生み出せるか?どの程度の規模まで行くと黒字化するのかが分からないままでした。 ーそれはこれまでの人生において、辛い時期だったのでは? 世の中にはもっと辛い経験をした人もいたと思いますが、その時は「この世界で自分が一番不幸だ…」という悲劇のヒロインみたいな感覚でした。 僕の会社には役員が自分以外におらず、経営者として相談相手もビジネスパートナーにも頼れず、自分だけで問題を抱え込み、悩んでしまった環境も良くなかったかもしれません。 また、事業をピボットしながら続けてきた中で、仲間が離れていくことも経験しました。人を採用することに対して、責任の大きさや重さを感じていませんでした。ここは未熟だったと反省しています。 ただ人生において、この経験ができたのは非常にプラスだと感じています。結果的に失敗はしてしまったけれど、現在の経験も踏まえ、いつか次に活かせたら…と思っています。   起業家引退・就職・結婚…29歳になって考える「生きる意味」とは ーここまで怒涛の20代だったと思いますが、就職した経緯を教えて下さい! 起業と事業撤退の経験から、ちゃんとキャッシュを作れるような仕事をしようと決意しました。とはいえ、自分でまた0からやるには時間がかかりそうだったこともあり、就職しようと思い立ったのです。 優秀なビジネスモデルを作って仕組み化している企業や、新規事業をたくさん生み出している企業でなら、分からなかったものが掴めるのではないか…という期待をしていました。 ー最初の就職先から、メルカリへ転職したキッカケは? 最初の株式会社サイバー・バズに入ったキッカケは、経営者としてなし得なかった「事業の黒字化・収益の立て方を学びたい!」という軸でした。 所属期間は1年半という短期間ではありましたが、新規事業の立ち上げなどを2〜3個やらせていただき、ビジネスとの仕組みは理解できたと思います! アプリやサービスを0から作る人から、既にあるサービスのプロダクトをマネジメント&プロデュースし、より良いプロダクトが作れる人間になりたい…という思いで、当時上場目前で勢いがあり、かつ知人もいて縁を感じた株式会社メルカリへと転職を決めました。 ー就職と転職を経験し、働き方や考え方に変化はありましたか? 変わった部分は、3つあります。 まず、起業家時代は目の前の誰かを助けたいという思いがただ強かったのですが、その目線だけだと事業のスケールが課題になってしまいました。今では、課題解決を目標にする際に、市場規模やスケールも非常に考えて行動するようになりました。 また、インターネットの分野で何か課題解決をしたいという思いがあったのですが、現在はインターネットも手段の1つとして捉え、枠にしばられず幅広い手段を考えています。 最後に、”誰とやるのか”という仲間選びにはこだわりが出てきました。起業した時は分からなかったのに、20代を過ごしてきて最終的に1番重要だと考えるようになりました。 ー私生活では、20代はどのような変化がありましたか? 福岡で起業後は事業拡大に伴い上京し、その中で事業譲渡・撤退もしたり、就職・転職しつつも結婚もしました! 結婚相手は、会社を経営していた際に出会いました。事業がうまく行かず、僕が最もしんどい時の姿も見ている方です。僕は人に甘えるのが苦手で、本当は弱っているところを見せたくもなかったんです。ただ、隠す余裕も正直なかった時代を知っている人でした。 結婚をして、自分だけの人生だったのが、誰かのための人生になりました。福岡から東京に出てきたり、サンフランシスコにいったり、自分の思いつきや感情で動くこともありましたが、結婚後にそれをやってしまうのは違うと感じています。 自分のために生きるより、誰かを幸せにしたい。誰かの記憶に残る人生にしたいと思えるようになったのが25歳の頃でした。それが僕にとっては幸せだし、生きるエネルギーやモチベーションになっています。 ー今後挑戦してみたいことは? サイバー・バズとメルカリで働いてきた3〜4年は、プロダクトマネジメント力や事業づくりのスキルは非常にインプットできたため、今後は自分から世の中に対してアウトプットの打席数を増やしていきたいです。 プロダクトマネジメントは、突き詰めれば突き詰めるほど底がない仕事ですので、今後も様々なことに挑戦できたら嬉しいです。 また、”副業家”とあるように本業とは別に現在は5社で副業をしています。メルカリは成果を出していれば働き方や時間の使い方は自由に任せてくれる企業文化なのです。本業と副業を両立しながら、今後僕自身もやりたいこと・挑戦したいことを見つけたいです。 ー最後に、高城さんのように起業したい人にメッセージをお願いします! 僕は、起業したいならすれば良いのではないかと思います。ただ、起業はあくまでも手段の1つでしかないことは忘れないで下さい。小さくても良いので、解決したい社会課題があるなら、信念に従って起業してみることをオススメします。 そして、3年でも5年でも10年でも「自分の人生をこれのために費やしたい!」と、本気で思えるものを見つけるための努力をして見て下さい。 ー素敵なお話、ありがとうございました!   ▼高城さんのことがもっと知りたい場合、チェックすべきSNSはこちら! ・Twitter ・note 吉永里美(Twitter/note) デザイン:五十嵐有沙(Twitter) 執筆:MOE

日常の積み重ねがよりよい社会になる。暮らしを灯すデザイナー・原田馨子が毎日の暮らしを大切にする理由

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第334回目となる今回は、暮らしを灯すデザイナーの原田馨子(はらだかおるこ)さんです。 暮らしが少しでも楽しくなるデザインをコンセプトに、大学生とデザイナーを両立する原田さん。ランドスケープ的思考やフェミニズムを研究しながら、日常や暮らしを見つめる彼女が大切にする核の部分に迫ります。   人とのつながりやプロジェクト経験が大きな一歩に ーまず最初に、自己紹介をお願いします。 慶應義塾大学の総合政策学部で学びながら、暮らしを灯すデザイナーとして、デザインを中心に毎日の暮らしが楽しくなるようなデザインを制作しています。 メインの活動としては、大学の友人と2人で、ほっと一息つく場をつくる「キッチンカーあったまる」のプロジェクトを立ち上げました。そのほかにも友人のプロジェクトにデザインや企画面で携わっています。 ー「暮らしを灯す」とは、どのような想いをデザインに反映しているのですか? 暮らしというと「衣住食」が中心で、身のまわりや日常に根付いているものです。人々の暮らしが少しでも楽しくなってほしい。人からもらった贈り物のパッケージが可愛いと幸せな気持ちになるように、そういう積み重ねが実は楽しい毎日につながっているのだと思います。 ー大学で2つの研究会に所属しているとお聞きました。どういった研究会に所属しているのかと、入ったきっかけを教えてください。 ランドスケープ的思考を専攻する研究会と、人文学系の研究会の2つに所属しています。 最初に所属したランドスケープの研究会では、研究会のなかでいくつかプロジェクトがあります。研究会でいろんなプロジェクトに挑戦していくうちに、自分がデザインを使ってなにをしたいのかわかってくるのではないかと思ったことがきっかけです。 人文学系の研究会はデザインとは別で、日常的にフェミニズムに関心が出てきたので、フェミニズムについて研究したくて入りました。 ーご自身の興味を行動につなげて、研究されているところが素敵ですね。高校時代はどのような生活をおくっていましたか? バトミントン部で、普通の高校生という表現がぴったりな学校生活でした。特に思春期だったこともあり、あまり楽しめないと感じていたように思います。 もちろん楽しいこともありましたが、今振り返ると縛られていた感じがしますね。 ーその後はAO入試を受けて、慶應義塾大学へ進学されたと伺いました。どういった経緯で進路を決めましたか? 推薦入試を考えていたのでAO入試対策に特化した塾に通い、そこで憧れの先輩に出会いました。その先輩が私には、芯がしっかりして、自分がやろうと思ったことに飛び込んでチャレンジができ、しかもそのチャレンジを続けられる人だと感じられました。クラスと部活動という狭いコミュニティにいた高校生の自分から見ると、外の世界で活動する先輩が素敵で、先輩のような大学生になりたい気持ちが芽生えました。 「自分もこんな人になれるのかもしれない」と希望を抱くことができたので、先輩と同じ大学に行こうと決めました。 ー希望の大学に入学されてから、大学生活はいかがですか? 過ごしやすい大学生活だと思います。中高時代の自分に比べたら、少しずつ自分を認められるようになり、昔から責任感が強くて抱え込むところがあったけど、分担して人に共有できるようになってきました。少しずついい方向に変化している感覚があります。 あと、私の悩みに付き合ってくれる友人が多いですね。深掘りにとことん付き合ってくれて、物事にきちんと向き合うことをコンスタントに続けられています。深い話ができる友人と出会えてよかったです。 ー「キッチンカーあったまる」のプロジェクトはいつ頃、どのようなきっかけで始められたのですか? 構想を始めたのはかなり早くて、大学に入って1週間経ったくらいですね。今一緒にやっている相棒と出会う前から、お互いキッチンカーをやりたいと周りに話していたんです。それを共通の友人がつなげてくれて、そこから一緒にプロジェクトを始めました。 実は私たちの前に、大学内でキッチンカーを出していた方がいて、その方にお会いする機会があったんです。人がキッチンカーカフェの前に集まって、おしゃべりするシーンを目撃して、自分でもやってみたくなったんですよね。人とのつながりを大事にしている姿勢が素敵でした。私も人とのつながりに興味があったので、そのような場を提供したいと思いました。 ーいつ頃から人とのつながりに興味を持ったのですか? 自覚したのは割と最近ですね。でも中高時代に居づらさや窮屈さを感じていたので、ないものねだりじゃないけど、そういう面でより一層つながりに興味が出てきたんだと思います。 自分にとって居心地のいいところというか、自分も相手も無理せず素直にフラットでいれる場所があるんじゃないかなと思っていて。このコミュニティではうまくいかなくても、きっと別のところがあるかもしれないし、コミュニティに属さない方がフラットにいれる人もいると思います。 ープロジェクトを始めたことで得た学びや、原田さんのなかにあった内面の変化について教えてください。 実際に手を動かすことで、デザインに興味が出てきました。あとは、思ったよりもいろんな人に助けられてプロジェクトが進んでいますね。例えば、研究会の先生や大学周辺の地域で飲食店を営んでいる方、それこそキッチンカーに来てくれる友達が応援してくれて、そういう人の支えがある関係性の中で私たちはキッチンカーをやっているんだと実感しました。   デザインは、なにかを実現するための手段 ー実際やってみて動いたからこそ、人の支えや関係性を実感できたのですね。デザインは未経験だったそうですが、大変ではなかったですか? そうですね。デザインはやったことがなかったので、少しずつ独学で勉強しながら勉強を兼ねて制作しました。 デザインに興味があることを周りに伝えたら、「やってみたらいいじゃん」と後押しをしてくれる友人や、デザインしたものに対して褒めてくれる人が多かったんです。肯定的な楽しい循環からスタートしたので、それがとてもよかったですね。続けられる一つの要因だった気がします。 ーそのあとは、インターン先でもデザインに関わったとお聞きしました。 本格的にデザインの勉強をするにあたって、社会でデザインを仕事にするにはどれくらいのスキルが必要なのか知りたかったんです。未経験のデザイナーでも受け入れてくれたインターン先で働きましたが、かなりのハードワークで、デザインを生業にすることの厳しさを知りました。 最初はデザイナーになりたい、デザインで食べていきたいと思っていたけど、インターンで働いてからは、デザインだけではなくてその想いやコンセプトを考えるところにも関心を持つようになりました。 私はものづくりがしたいというよりも、なにかのツールとしてデザインを役立てたいんじゃないかと気づいたんです。インターン先で得たスキルは、もちろん今でもかなり役立ってるし、それに助けられることも多くあります。 でもデザイン一本ではなくて、デザインがツールになるような方向に行きたいと思い、自分が何をしたいのかを考え始めました。 ーインターン経験を通して、なにをデザインしたいのか考えるきっかけになったんですね。具体的にどういうものをデザインしたいのか見つかりましたか? なにをデザインしたいのかは、今も探している途中です。 デザイナーになりたかったときは、自分の外側に自分を探していた気がします。何者かになりたくて、だからデザイナーのような肩書きがほしかった。今の自分ではない自分にならなきゃという気持ちがあって、外側に追い求めていたんです。でも、自分はなにをやりたいのか、自分はなにが好きかを考えるうちに、考えが自分の内側に寄ってきた。何者かになるより、自分に立ち戻って自分を深めていく作業に変わってきた感じがあります。答えは出ていないけど、目標を決めて動くより、さまざまな経験をしたのちに振り返ると「実はこういうことがしたかったのかな」という形の方向に寄っている気がします。 ー逆算ではなく、今の原田さんがやりたいと思った興味関心に沿って、いろんな行動を起こしていくイメージですか? そうですね。あとは、あまり興味がなかったけど、履修してみた授業がよかったこともあるし、偶然参加したプロジェクトでいいことが起きる出来事もあれば、逆にこれが嫌だとわかることもあると思います。そこから将来について考えることができたり、自分にとって楽しいと思えたりするのかもしれないですね。   自分自身と向き合い続けて見えてきたもの ーインターンをやめてからは、どのように過ごしていましたか? 実はインターンをやめようと思ったときに、デザイン以外の分野を勉強して、その分野にデザインを応用できたらいいなと感じていました。 ただその分野がなにかわからず、とりあえず時間ができたので学校の授業を受けて、ひたすら人に聞いたおすすめの本を読むことをしていましたね。環境問題を自分で勉強したり、フェミニズムの本を読んでみたり、西洋美術史を勉強したり、自分がおもしろそうと思ったことや、友人の興味分野をのぞいてみました。 そのなかで、身近に問題意識を持つものがあって、その中の一つがフェミニズムです。 ーフェミニズムのどういったところが、当事者意識をもつようになったのですか? 『82年生まれ、キム・ジヨン』で、主人公のキム・ジヨンは、夫と自分で賃金を比較すると自分の方が低いから、働きたいのに育休をとらざるをえないシーンがあります。それを読んだときに、自分が将来働いて結婚してからも遭遇する可能性があると感じました。 それまであまり意識したことはなかったけど、実はまだ女の子だからとか、むしろ逆で男の子だからみたいな理由でバイアスがかかって、生きづらいことがあると思います。 あの小説がきっかけで、問題意識や当事者意識につながったのかもしれないですね。他人事じゃないと明白に思ったのを覚えています。自分ごとになった瞬間でした。 いろんな本を読んでみると、当たり前だけど現在進行形の問題が多いんです。勉強していると辛いこともたくさんあって目を背けたくなる。それでも背けちゃいけない問題だと思ったから、研究にすることで昇華できることがあると思いました。 自分の問題意識を研究にすることで、背け続けるんじゃなくて向き合い続けることを選びたいと思い、研究室に入ることを決めました。 ー研究テーマにすることで、ある程度距離感がうまくできるので、向き合いながら客観視できるのかもしれないですね。 そうだと思います。研究の場になることで、人と話しやすくなりましたね。日常生活でフェミニズムの問題を話しても、「敏感すぎる」「繊細すぎる」と言った反応がかえってくることもあります。だけどプライベートでなく、研究テーマとして発表すると、フェミニズムに精通した教授がいて、自分の考えを深く掘り下げてもらえるし、それに対してのフィードバックが実りあるものになる気がしています。 ー大学2年生に進級されてから、コロナで学校生活や授業、研究など環境が大きく変わったと思います。デザイナーの活動も含めて、どういうふうに生活が変化しましたか? 私は忙しい状態が好きというか、研究会やインターンもして、あまり自分と向き合うことや考える暇が本当にない生活を送っていました。自粛期間になったことで忙しさが少し減って、移動がない分、忙殺された日々から急にぽかんとした時間があって、いやでも自分のことを考えてしまう時期でした。でもそれが、今となってはよかったのかなと思います。 それまでは目の前にあるものをこなすことに必死すぎて、自分はなにが好きなのか、逆に怒っていることはなにかといったことに鈍かったですね。仕事をこなすことに精一杯になりすぎて、あまり日常や暮らしが見えていなかった。でも私は日常や暮らしをとても大事にしたいタイプだと気づいて、そこから自分で自分の機嫌をとるにはどうしたらいいのか、なぜ自分が落ち込んでいるのか、なにがストレスなのかを考えられました。 ーご自身と向き合ったことで、「暮らしを灯すデザイナー」に辿り着いたのでしょうか? そうですね。「暮らし」というものが実は自分と地続きで、日常をちょっと楽しくしたいということとつながったところにあるんですよね。そこでちょっとしたハッピーをつくるためのデザインができたらいいなと思い始めて、今は「暮らしを灯すデザイナー」でありたいです。 ー日常にハッピーをもたらせるデザインをするために、どのようなことを意識してデザインをされていますか? ケースバイケースですが、デザインは割と合理的なところがあるんですよね。自分がこうしたいといったセンス的な部分より、依頼してくださった人がどういったデザインにしたいかや、どのような人に伝えたいかを、ちゃんと聞いて汲み取れるようにしています。自分の好きなデザインというより、相手が大事にしていることを一緒に大事にできるデザインがいいと思っていますね。想いを汲み取り、それを形にできるデザインをしていきたいです。 ー「キッチンカーあったまる」のほかに、今までどういったプロジェクトに参加されましたか? 友達のWebサイトやポストカードの制作、研究会で展示会のデザインを担当させてもらったこともあります。ありがたいことに、周りも活動的な人が多い環境なので、やりたいことがあるからデザイン面で協力してほしいと言ってくれる人がいて、そこに参加する形が多いですね。 お声がけされたら、基本的に断らないようにしています。自分の興味軸だけで活動すると範囲が狭まってしまうのもあるし、純粋に声をかけてもらえたら嬉しい。そこからつながるご縁や発見があると思うので、あまり選ばないようにしています。声をかけてもらったら、苦手な分野だったとしても、相手と一緒に作っていきたいです。   自分の中にある核を大事に、日常や暮らしを見つめていく ー原田さんが日々の暮らしで気遣っていることはありますか? 暮らしや日常の積み重ねに私たちがあって、その私たちの積み重ねで社会全体があることを、フェミニズムについて学ぶなかでより強く実感するようになりました。 傷ついている人やこの問題で困っている人がいる話をニュースで聞くけど、どこか他人事になってしまうことが多い。それでも目の前で転んでいる人がいたら、手を差し伸べてあげるように、身のまわりの人への想像力や心遣いの積み重ねが日常にあって、その日常や暮らしの積み重ねで、きっといろんな人が住みやすい社会にできるんじゃないかなと思います。 社会を変えようというのも素敵な心意気だと思いますが、今の自分にはしっくりこないんですよね。社会の前に、恋人や友達、知り合いなど自分の半径1メートルくらいの手が届く範囲の人に対して想像する心遣いや優しさがあるから、当事者意識が持てるのではないかと思います。だから、そういう意味でも暮らしを大切にしたい。日常や暮らしのフィールドを見つめることは大事ですね。 ー「日常を大切にして自分を見つめ直す時間」と、「対外的に頑張って何かを成し遂げるための行動」の両立は難しいという意見もあるかもしれません。それに対して、原田さんはどう思われますか? 「自分の中の小さな自分が伝えてくることを大事にする」。 友人から言われた、今でも大事にしている言葉です。 目の前のやるべきことに追われていると、なりたい自分はなにか見えなくなるけど、絶対これだけは譲れない大事にしたいことが実は誰にでも一つはあるんじゃないかと思っています。 私にも譲れない軸があると気づいたんです。それを大事にすることさえ守っていれば、対外的に頑張ることと、自分を大事にすることのバランスがどうあってもいいと思います。 自分を大事にしたいけど、今ここは踏ん張りどころだと思ったら私もよく夜更かしするし、食事もおざなりになります。でも結局は自分の軸は大事にしているから、自分に対して許せるようになりました。 ー今後、原田さんがやっていきたいことやビジョンを教えてください。 進路は迷っていますが、フェミニズムや自分が関心をもった領域に対して、考え続けていきたいです。そこにあわよくばデザインが混ざりあって、自分も含めて問題意識がある人だけではなく、誰かに寄り添えるデザインをしたいですね。私の場合、「やさしい人でありたい」というのが自分の中にあって、それだけは離さずにこの先も進んでいけたらいいなと思います。 取材:中原 瑞彩 執筆:スナミ アキナ(Twitter/note) デザイン:五十嵐 有沙(Twitter)

「地域を繋ぐ接続点に」食べチョク広報・下村彩紀子は愛に溢れる代弁者だった

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第322回目となる今回は、『食べチョク』を運営する株式会社ビビッドガーデン広報として、生産者の”こだわり”が正当に評価される世界を目指す、下村彩紀子さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 新潟県のユリ農家に生まれ、幼い頃より地域と密着した生活を送っていた下村さん。小学校4年生で強豪校のリコーダー部に入部。プロ奏者の元で猛練習に励み、6年生でソリストに選出されます。高校では、甲子園出場を目指す野球部のマネージャーに。The 体育会系の厳しい環境下で練習に食らいつきます。「もっと広い世界を見たい」と上京を決意し、短大へ進学。学外活動に精を出し、社会人コミュニティに参加したり営業インターンをしたりして自らのキャリア観を醸成します。2015年、新卒で株式会社ネオキャリアへ入社。歴代初の短大卒新入社員として、営業部、人事部新卒採用担当を歴任後、2019年より株式会社ビビッドガーデンへ転職。未経験ながら広報部を1人で立ち上げ、2020年に露出したメディア数は1,900件以上にのぼります。 飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長中の食べチョクを支える広報担当。一見華々しく見える下村さんの経歴ですが、その裏には数え切れぬ努力の数々と不屈の精神が。「短大卒」なだけで挑戦する機会すら与えられないことがあると知った大学時代。何をやっても成果が出ず、圧倒的ビリだった新卒1年目。どんなに辛くても途中で挫けることだけはしなかった過去を経て、下村さんは今、何を思うのか......。 あなたが本気で取り組んでいることはありますか?どんな未来を描きますか?ご自身のルーツと向き合い、日本の地域に眠る価値を最大限引き出して伝える下村さんだからこそ語れる「広報の魅力」を半生と共に紐解きます。   年間1,900件以上のメディア露出。食べチョク広報・下村彩紀子とは ー本日はよろしくお願いします!現在のお仕事やこれまでの活動について教えてください。 株式会社ビビッドガーデンで食べチョクの広報をしております、下村彩紀子と申します。 新潟県に生まれ、短大進学を機に18歳で上京するまでの期間を地元で過ごしました。短大で過ごした2年間は営業インターンシップなどの課外活動に精を出し、卒業後は新卒で株式会社ネオキャリアに入社しました。営業2年、採用担当として2年半勤め、2019年10月にビビッドガーデンへ広報部門の立ち上げとして転職し、現在に至ります。 本日はよろしくお願いします。 ー創業3年目にしてTVCMの放映が決定。まさに急成長中のサービス「食べチョク」ですが、どのようなサービスなのでしょうか。 全国の生産者さんから食材を直接お取り寄せできる「オンライン直売所」です。 生産者さんが、自分で価格を決めて「直接」商品を販売できるプラットフォームを提供しており、一定の基準を満たした生産者さんはどなたでも食べチョクに登録が可能です。生産者さんが自由に出品して消費者さんが自由に購入するサービスです。 ーなるほど!食べチョクのサイトには、美味しそうな食材がたくさん並んでいるのが印象的です。 ありがとうございます!サイトには4,000軒を超える生産者さんとその食材の写真がいくつも掲載されており、それぞれの「こだわり」を細かく知ることができます。サイトに設置されている「みんなの投稿」という掲示板では、生産者さんと消費者さんのオープンなやりとりを見受けることができます。「すごく美味しかったです!」などの感想はもちろん、購入前の消費者さんから生産者さんへ「こちらの食材はどんなレシピがおすすめですか?」と事前に質問できるのも、食べチョクの大きな特徴です。 「通販サービス」というより「生産者さんとコミュニケーションを取りながら食事を楽しむ」サイトになっていますね。   ーサイトを通して、生産者さんと消費者さんに繋がりの体験を提供されているんですね。2020年は1年間で1,900件以上のメディアに露出したことでも話題になった食べチョクですが、サービスの成長はどのように推移していますか? 2019年末から2020年末の1年間で、生産者さんの登録数は650軒から5倍増の4,000軒に。流通額は42倍になりました。   私の原点はここにある。地域とともに歩んだ幼少期 ーすごいですね......!凄まじい勢いを感じます。ぜひ、現在の下村さんに至るまでのご自身のキャリアもお聞かせください。どのような幼少期を過ごされていましたか? 新潟県魚沼市に生まれ、米所の田舎町で育ちました。どれくらい田舎かと言うと、徒歩3分の場所に山があり、家からコンビニまで歩いて1時間かかる友人もいたほど。住人同士の繋がりが強い地域柄と両親の人柄が相まって、幼い頃からたくさんの人が出入りする家庭で暮らしていました。家族ではない人とご飯を食べたり、家に知らない人がいる状態が当たり前の環境でしたね。 でも実は、幼少期の私はすごく人見知りで。母親の背中にずっと隠れていて、誰にも挨拶できないような子どもだったんですよ。 ーそうだったんですか!?コミュニケーション力に長けた現在の下村さんからは想像もつかないですね。 いつの間にか人見知りを克服し、初めて会う人とも自然なコミュニケーションをとれるようになりました。あまりにオープンな環境だったので、人見知りのまま暮らすことは不可能でしたね(笑)。 また、私が暮らしていた町では食材の物々交換が日常的に行われていて、お礼を伝え合う習慣があったことも人見知り克服に一役買っているかもしれません。 ー食材の物々交換......? 家庭菜園をしているお宅や農家さんがご近所に多く、私の実家も家庭菜園をしていたので、採れすぎた野菜をご近所へ配り歩くことがごく自然に行われていて。ですが、共働きだった我が家は夕方頃まで不在にしていることが多く、ご近所さんから直接食材を受け取ることが難しくて......。すると、カゴに入れられた食材が玄関口に置かれているんです。家族の中で最も早く帰宅するのは私だったので、最初に食材に気付くのも私でした。 こうした生活を日常的に繰り返すうちに、ご近所さんの名前がカゴに書かれていなくても野菜の種類や置き方を見るだけで「これはAさんからの贈り物だから、Aさんにお礼をしなきゃ」と直感でわかるようになっていましたね(笑)。 ーまるで地域全体が家族のような生活ですね!幼少期の下村さんはご自身が育った環境をどのように捉えていましたか? 幼少期はたくさんの人に囲まれて過ごすことがとても楽しかったのですが、小学校高学年から中学生になると少々うっとうしく感じたり面倒くさく思ったりした時期もありました。 本当に驚くほど全ての情報が地元全体に筒抜けなんです。今どこで誰と歩いているかも見つかってしまうほど。思春期の頃は思うところもあった環境でしたが、今思えば地域の方にすごく愛され、守られながら育った素敵な環境だと思っています。 ー家族という垣根を超えたコミュニティで育ち、新鮮な食材を交換する文化のもとで育った下村さん。現在、食べチョクに関わる原体験になっているのでしょうか。 そうですね!すごく重要な経験でした。この環境の元で育っていなければ、今もなお人見知りだったのでは?と思うほどに。現在は広報として様々な方とお話する機会がありますが、こんな風にたくさんの人と話すことを好きになれたのは、やはり幼少期の経験が大きな影響を及ぼしていると感じています。   中途半端は嫌い。やるからにはとことん極める ー小学校4年生でリコーダー部に入部。かなりの強豪校だったそうですね。 そうなんです。全国大会8年連続金賞を受賞していて。部活に本気で取り組んだ小学校時代でした。 ー8年連続!?それは強い。リコーダー部に入ろうと思ったきっかけはなんですか? 同じくリコーダー部に所属していた2学年上の先輩に憧れて入部を決めました。 先輩はソリストと呼ばれる大役を担当していて、30名ほどのチームで1名だけ選ばれるソロパートを吹いていたんです。その姿がそれはそれはかっこよくて。「この人みたいになりたい!」と思いソリストを目指して練習に励んだ結果、小学6年生のときに念願叶ってソリストになることができました。 ーなんと、目標達成されたんですね!ソリストはチームに1人しか選ばれないとなると、練習も相当厳しかったのでは......? 泣きながら練習していたときもありましたね。当時、NHKの番組に出演されているプロの奏者さんから定期的に教わっていたのですが、この練習がなかなかシビアで。部員全員の演奏を聴きながらバランスを見て、各々の担当パートをどんどん削っていくんです。「Bさん、もうここ吹かなくていいから」と。 全編5分の曲があるとすると、演奏できるのは短い人だと30秒ほどになってしまうことも。出番以外はひたすら待機します。そのため、演奏パートを勝ち取るためには実力で生き残っていく以外に道はありません。私の場合はソリストだったこともあり、プロの方と1対1で練習をする機会もあったのですが、このとき言われた言葉が今でも記憶に残っています。 ーどんな言葉だったのでしょうか。 「下村さんは、自分のことを小学生だと思って吹いているよね。そんな風に思っていても、いい演奏なんてできないよ。自分のことをプロだと思って吹きなさい。」 そう言われたんです。 まるで雷が落ちたような衝撃を受けました。これほどまでの心構えを持って吹かなければ全国では戦えないんだと。このとき教えていただいたマインドセットは、現在にも活きています。 ー高校では新しいことに挑戦!野球部のマネージャーになり、甲子園出場を目指していたそうですね。 そうなんです!私には兄が2人いるのですが、どちらも野球部に所属していたほど野球好きな一家で。夜に見るテレビ番組の定番はプロ野球でした。そんな環境で育った私もいつの間にか野球が好きになっていて、気づいたときには高校野球のマネージャーになっていましたね。 甲子園を目指していただけあって、リコーダー部のときと同じく高校の部活もすごく厳しい環境で。今思えば、自ら辛い環境を好んでいたのかなと思うのですが、当時は全く意識しないままに厳しい環境にのめり込んでいくタイプでした(笑)。 ーそれは相当厳しそう......! 365日、休みは一度もなかったのではと思うほど、本当に部活漬けの毎日でしたね。 「高校野球は人生の縮図だ。ここで本気になれなかったら一生本気になれない」 これは当時の監督がおっしゃっていた言葉なのですが、この言葉に代弁されるように無我夢中で走り抜けた日々でした。私が通っていた高校は校則が緩く、友人の中にはスカートを短くしたり周りにバレないようにメイクをしたりする子もいたのですが、野球部はもちろん校則厳守。スカートは膝下丈、すっぴん、廊下で先生とすれ違った際はしっかり挨拶をするなど、いわゆる「The 体育会系」でした。   ー部員と同じようにマネージャーも厳しい環境の元、部活に本気で取り組んでいたんですね。 必死でしたね。私が入部したときは1学年先輩のマネージャーがおらず、2学年上の先輩マネージャーが引退するまでの3ヶ月間でマネージャー業の全てを覚えなければならず......。ですが、蓋を開けてみるとそもそも「マネージャー業を後輩に教える文化」がない状況で。「仕事は自分から取りにいって、見て覚えるもの」「それくらい主体的でなければマネージャーをやる意味がない」と身に染みて感じました。必死に食らいついていましたね。   ー小学校、高校と決して楽ではない環境で必死に努力を重ね続けた日々。この時の経験が現在に繋がっていると感じる瞬間はありますか? 中途半端が嫌いな性格なのは、昔も今も共通していますね。やるからにはとことん極めたくなるというか。当時から無意識に高い目標を掲げることが好きだったのかもしれませんが、やるからにはてっぺんを目指したい気持ちが強くて。 ゴールまでの過程がどんなにしんどくても、最後が全てを凌駕すると思うんです。やり切った瞬間がすごく好きなのは、学生時代の経験が大きく影響しています。   「振れ幅がある大人になりたい」無我夢中だった大学時代 ー高校卒業後は大学へ。進学先はどのような基準で選ばれたのでしょうか? 東京の大学であること、よい立地であること、短大の中で最も偏差値が高くネームバリューがあること、の3点から東京の表参道にある青山学院女子短期大学を選びました。すごくミーハーな理由ですよね(笑)。 本当に世間知らずだったので、とりあえず広い世界を見てもっとたくさんのことを知りたい欲求が強く、「東京の大学に行きたい」と思っていました。ですが、当時の私は4年制大学に進学するメリットをあまりよくわかっていなくて......。社会人になることに対してあまりマイナスな印象がなかったため、ならば早めに社会人になって働いた方が楽しいかもしれないと思い、短大に進むことにしました。 ー大学に通う意味をしっかりと考えて短大を選択されたんですね!2年間の大学生活で下村さんが最も熱心に取り組んだことはなんですか? 他大学の友達と遊んだり営業のインターンをしたりしていました。その結果、様々な社会人コミュニティに連れて行っていただく機会が増え、同年代から社会人まで多種多様な方々と出会いました。「私は将来、どのような社会人でありたいか」を少しずつ言語化することに時間を費やしていましたね。 大学の外の世界が好きで楽しんだ大学生活でした。   ー短大に入学される前から、大学では学外活動を頑張ろうと決めていたのでしょうか? いえ、大学生活の過ごし方を入学前から明確に決めていたほどではなかったのですが、短大生の就活は入学後すぐにスタートすることが影響して、学外活動に精を出すようになりました。短大生の場合、大学1年生の冬には就活が始まるんです。 ーつい最近大学生になったと思ったら、半年後には就活がスタートするんですね......! そうなんです。短大生の就活スケジュールを知ったとき、もう一つ衝撃的なことに気づきました。 このときの気づきが、私を「営業インターンをしまくった大学生活」へと導くことになります。 ーと言いますと? 「短大卒」というだけで選考にエントリーさえできない企業がある。私はこの事実を就活を始めるまで知らなかったんです。学歴で足切りされていく様を身をもって体感し、社会はこんな風に決まっていくのか、と気づきました。 そして、多くの社会人の方とお会いするうちに、私にとっての「かっこいい大人」は「振れ幅がある人」だと考えるようになったんです。 ー下村さんなりの理想の大人が少しずつ見えてきたんですね。「振れ幅がある人」とは具体的にどのような人のことを指すのでしょう? 具体的にいうと、田舎のおばちゃんが営む手作りの定食屋さんがあるとします。定価は500円。この定食屋さんのことが大好きで、この場に集うコミュニティにも足繁く通って自然と仲良くなる人柄を持ち合わせたような方が、ときにはミシュラン星の高級バーできちんと自分のお金で楽しむ余裕を持っている。そんな振り幅のある人になりたいと思ったんです。 先ほどもお伝えしたように、私は学歴で勝負できないことが明白でした。それならば、周りより早く社会に出て、自分の名前で仕事をできる人になろうと。自分なりに考えた理想の大人像をいろいろな大人に伝えキャリアの選択肢を壁打ちするうちに、また一つあることに気づいたんです。 ー次はどんな発見があったのでしょう? 相手が納得感を感じられる発言でなければ、誰も私の言葉に耳を傾けてなどくれない、と気づきました。学生が机上の空論を伝えたところで、誰も聞いてくれるわけがないと。 ならばまずは誰が見てもわかりやすい実績を作り、自分は何者であるかを明確に伝えられる人になろうと思いました。シンプルな実績を作れる職は何かと考えたとき、辿り着いたのが営業でした。 営業で培われるスキルは汎用性が高く、全職種に活かすことができるはず。必ずや将来の土台になるだろうと想像していたため、営業力を身につけることで社会人基礎力を高めたい一心で営業インターンを始めました。就活と並行しながら、1年ほどインターンをしていましたね。 ーなるほど、自らの発言に説得力を持たせるために実績作りとして営業インターンを始めたんですね!どのような商材を扱っていたのでしょうか? 個人のお客様に生命保険を販売していました。生命保険を選んだのは、お客様の人生において「大きな買い物」に携わりたいと思ったから。お客様にとって大きな意思決定となりうる領域の営業に挑戦したかったんです。インターン先から内定をいただいていたこともあり、8〜9ヶ月ほど働いていました。 ーはじめて挑戦した営業。営業職に対するイメージに変化はありましたか? イメージ通りでした!改めて、人に向き合い課題解決をするおもしろさを実感しましたね。 ですが、当時の私が担当していたのはtoC営業。主に主婦層向けに個人営業を行っていました。次第に「toB営業を通して、経営者などのビジネスに直接関わる方ともお話をしてみたい」と思い、BtoB営業に興味を持つように......。無形商材を扱うことによって「自分自身に購買理由が付帯するのでは」と思い、無形商材でBtoB営業に携われることを重要視して就職先を探した結果、前職であるネオキャリアと出会いました。 ネオキャリアは、学歴に関係なく実力でフラットに評価するスタンスを持つ企業。この姿勢にも惹かれて入社を決意しました。 ーインターンを通して営業職の理解を深めたことで、キャリア選択がより明確になったんですね。ネオキャリアに入社を決めるとき、他社と迷うことはありませんでしたか? ありませんでしたね。ネオキャリアでお会いする方は、すごく前向きで自分の人生に強い意思を持って生きてる方ばかりでした。「こんな人たちと一緒に働きたい」「私もこんな人になりたい」と思えたことが入社の決め手になりました。   はじめての挫折。もがき続けた社会人1年目 ーなんと、短大からネオキャリアに新卒で入社した事例は過去になく、下村さんが初めてだったと伺いました! そうなんです!想定外だったのですが、同期の中でも「20歳の子がいるらしい」と噂になっていました(笑)。当時、ネオキャリアでは新卒研修の結果がランキングで発表されるのですが、ここでもたまたまいい結果が出たことでさらに注目されるように。同期200人中10位代だったんです。こうして第1希望の部署に配属となり、とんとん拍子に事が進んでいきました。 配属先では、新卒採用の求人広告を中心に採用に関するトータル営業を行っていました。   ーそれはすごい!その後も調子はうなぎ上りだったのでしょうか? それが全然だめで。それまでの人生で1番の挫折を経験しました。大学時代に営業を経験し、たくさんの社会人と交流していたこともあり、このままうまくいくだろうとたかを括っていたのでしょう。調子に乗っていましたね......。   ーなんと......。一体何が起きたのでしょう。 新卒研修まではよかったのですが、部署配属後の成果が全く出なくて。同じ部署にいる10人の中でずっとビリでした。ビリというより「圧倒的ビリ」と言った方が正しいかもしれません。周りに大差をつけられるほど成果が出ないだけでなく、何をしても空回りで......。そんな状態が1年半続きました。 全く部署の役に立てていないにもかかわらず、当時の上司は常に私を見捨てずにいてくれました。すごくいい方で、諦めずに私と向き合い続けてくれたり、「絶対大丈夫だから」と励ましてくれたり......。どこまでも支えてくれる上司や同期に申し訳なくて悔しくて、毎日泣きながら過ごしていました。仕事の基準や厳しさを身をもって痛感しましたね。 ーそんな時期があったんですね。正直、心が折れそうになった瞬間はありませんでしたか? あります。それはそれは何度も......。5万回くらい折れそうになった気がします(笑)。 ー5万回は凄まじいです。何をやっても結果が出ない状況の中、それでも最後まで心が折れなかったのはなぜでしょう? それまで、どんなに辛くても最後までやりきってよかったと思える経験しかしてこなかったからかもしれません。後悔が残るタイミングで何かを途中で諦めたことがなくて。 思い返せば、小学校のリコーダー部も高校で野球部のマネージャーをしていたときも、めちゃくちゃしんどいときは数え切れないほどあったんですよね。それでも、私にとっては辛かった過去ではなく「やりきってよかった経験」として心に残っていて。 「今はどん底でこの先どうなるかなんてわからない。私には営業のセンスがないかもしれない」と思ったこともありましたが、どん底だからこそ、今このタイミングで辞めてしまったらすごくもったいないと思ったんです。仮に辞めるとしても、周囲に惜しまれて辞める自分でありたかった。だからこそ、「辞めたい」が「辞めよう」になることはなかったように思います。回り回って「やっぱり頑張ろう」に戻るんですよね(笑)。   「広報」との出会い。本当にやりたいことと向き合った日々 ー過去のやりきった経験が今に繋がっているんですね。営業部での2年を経て人事部へ異動。このジョブチェンジは下村さんの希望だったのでしょうか? いえ、たまたまお声がけいただいて異動することになりました。人事部の新卒採用担当になったのですが、見違えるほど成果が出るようになって!仕事ってこんなに楽しいんだと思いましたね。   ー職種が変わるだけでそんな変化が!営業部だった頃と何が違ったのでしょうか? 当時のネオキャリアは、社員数3,000人を超えるメガベンチャーです。部署が変わるだけでもまるで転職したように環境ががらりと変化するんです。営業から人事になったことで、業務を通して価値提供する相手も変わりました。以前は、採用担当者や社長さんだったのですが、異動後は学生さんに。仕事で使う頭も180度変化しました。 ですが、営業時代に培ったコミュニケーションスキルや交渉力は引き続き私の中で活きていて。自ら考えて仕事をすることが、楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。異動から数週間後に前部署の社員と出会ったときには「表情が違うね!」と言われたので、顔つきさえも変化したのかもしれません(笑)。 ー新卒採用の中でも、下村さんはどのような業務を担当されていたのでしょうか? 採用広報や採用マーケティングと呼ばれる分野を担当していました。当時、就活市場におけるネオキャリアの認知度はまだまだ低く、就活生からエントリーを増やすためのありとあらゆる施策を練っていました。採用予算は数億円。莫大な予算をそれぞれの施策に分配し、年間採用戦略を策定、実行していましたね。採用パンフレットや採用動画作成、SNSの運用なども担当しながら、学生さんと面接も行っていました。 ーここではじめて「広報」を担当されたんですね! そうなんです!広報によってもたらされる影響の広さと大きさを知りました。 営業は、主に1対1で目の前にいる方に向き合い課題を解決していくことが主な役割です。一方、採用広報は1つの仕掛けがきっかけとなり複数の人から反応が変わることもあります。思わぬ形でよい反響に繋がることもある。「下村さんが企画した記事を読んでネオキャリアに応募しようと思いました」と言われたときはすごく嬉しかったですね。 ー人事に異動されてから2年半。初めての転職を考えはじめたきっかけはなんですか? 社会人4年目に突入したタイミングで、今ある環境を全て取っ払ったときに私は何をしたいのか考えてみたんです。すると、地域では知られているけれど全国には知られていない「地域の独自の価値」に興味を持っていることに気づきました。 ーなるほど。 具体的には、伝統工芸品やお祭り、その地域ならではの文化や老人の知恵、農産物など、ありとあらゆるものが「地域の価値」になるでしょう。これら全てが「伝え方」を変えるだけで、観光客を増やすことに繋がったり販売額が増加したりするのではないかと思ったんです。様々な形で日本経済を回すことで、地域の人たちの暮らしがより持続可能になっていく気がして。そして私自身は「日本全国と様々な地域を繋ぐ接続点になりたい」と思いました。   ー「接続点になりたい」。素敵な言葉ですね。 人事は「人を介して事業を成長させていく」仕事です。そして、対話の相手は主に自社の選考に興味を持ってくださった求職者さんになります。 事業広報は、対話相手が複数存在することが大きな違いです。ビビッドガーデンに例えるならば、投資家さんや自治体、消費者さんや生産者さんなど幅広い方への情報発信が必要になります。それだけでなく、広報の発信が事業の成長に直接活きるんですよね。すごくおもしろそうだな、と。 転職先を「すでに広報が強い企業」と「これから広報に力を入れていこうとしている企業」のどちらにするか迷ったのですが、私の性格と合っているのはこれから試行錯誤して創り上げていける企業だと思いました。 こうして、少しずつ次のキャリアが見えてきました。   目指すのは「ファン作り」。下村彩紀子の描く未来 ー下村さんがビビッドガーデンに転職されたのは創業3年目の2019年10月。ビビッドガーデンとはどのように出会ったのでしょう? 知り合いの方に紹介していただきました。当時のキャリア観を多くの方に壁打ちさせていただいていたとき、「ビビットガーデンって知ってる?社長が知り合いだから繋ごうか?」と言われたのが最初の出会いです。   ービビッドガーデンへ転職することに対して迷いはありませんでしたか? 全くありませんでしたね。実は、ビビッドガーデンを紹介していただく半年前から転職活動をしていて、最後に出会ったのがビビッドガーデンだったんです。   ーそうだったんですか! はい。それまでにたくさんの時間をかけていろいろな企業を見ていたので、私自身のキャリアの軸もほぼ固まっていたんですよね。まだ内定していないのに、代表の秋元と会う前には入社の意思を固めていたほど(笑)。「私、ここで働くんだ」と。   ー並々ならぬ熱意を感じますね。半年間の転職活動を経て、ビビッドガーデンにしかない魅力はなんだと思われましたか? 会社として貢献したい相手が明確なところですね。「生産者の”こだわり”が正当に評価される世界」を目指すとビジョンを定め、事業の方向性も明確。そのため、会社における全ての意思決定に矛盾がなかったんです。「なぜやるのか」がすごく腑に落ちた状態と言いますか。   ー下村さんが食べチョクを通して実現したい未来はありますか? 生産者さんのファンを全国に作り、日本の食を豊かにしたいです。 私は新潟県の田舎町に生まれました。田んぼ道はあって当たり前の存在だったのですが、大学進学を機に上京したことで、一面の田んぼ景色も農家さんの努力によって守られていたんだと気づいたんです。そして、食べチョクを通して出会った生産者さんは、すごく素敵な想いを持っている方ばかり。生産者さん一人ひとりのファンを作る、自治体にファンを作る、どんな形でもかまいません。食べチョクが接続点になることで消費者さんの次の旅行先が決まったり、第2の故郷として定期的にお取り寄せする関係になったとしたら、日本の食がもっともっと豊かになると考えています。スーパーに並んでいる食材のその先にいる生産者さんの人柄や思いを知ることで、食卓がより彩られると思うんです。 食べチョクを通して、これまでになかった新しい繋がりをどんどん作り出していきたいです。   ー下村さんにとって、広報の魅力とはなんでしょう? 様々な関係者の期待を超えることができること、でしょうか。 食べチョクに登録してくださっている生産者さんも、食べチョクに出品することで売り上げを伸ばしたいと思っている方もいれば、消費者と繋がりフィードバックを活かしたいと思っている方もいる。生産者さんから食べチョクに対する期待って、決して一辺倒ではないんです。 先日、とある雑誌にリンゴ農家さんが掲載されました。掲載先の雑誌は20代後半の女性向けのライフスタイル雑誌で、ご高齢だった農家さんはその雑誌の存在をご存じなかったんです。ですが、農家さんのお孫さんがたまたま雑誌の読者だったようで、「いつも読んでいる雑誌に自分のおじいちゃんの農園が載った」と喜んでくださったんです。その結果、お孫さんはこれまで以上に農園を応援してくれるファンになったと伺って。 このお話を耳にしたとき、雑誌に掲載された元々の目的とは違うかもしれないけれど、生産者さんを応援してくれる方をたくさんの場所で増やすお手伝いができる仕事なのだと気付かされました。   ー最後に、下村さんが考える「これから」を教えてください。 生産者さんや地域のファンを作りたいと思っています。 誰よりも生産者さんのことを語り、地域の特性すらも話せるように。生産者さんから「下村さん、うちの農家の広報でしたっけ」と言われるくらい、ファン作りに貢献したいんです(笑)。食べチョクの広報として、産直の魅力やストーリー、体験価値を伝えられることがまだまだたくさんあると思っています。 食材を直接買うことで生まれるコミュニケーションの楽しさに気づいていただけるような取り組みをしていきたいですね!   ー本日はありがとうございました!下村さんのさらなる挑戦を応援しています! 取材・執筆:あおきくみこ(Twitter/note) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

「声」と「広報」を通して、人と情報をつなぐ

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第324回目となる今回のゲストは、広報の集いを運営する“みどりーぬ”こと江川 みどりさんです。 人それぞれに魅力や長所はあると思いますが、江川さんは「声」を活かして本業外でも活躍中。そんな江川さんに、広報の仕事に就くまでの人生や社外で行なっている「広報の集い」についてお伺いしました。 人前で声を活かして活動する ー簡単に自己紹介をお願いします。 ユナイテッド株式会社で広報をしながら、社外の広報さん向けの勉強会「広報の集い」の主宰をしています。また、学生の頃にアナウンサー志望だったことから声を活かした課外活動も行っています。 ー現在、江川さんが働いているユナイテッド株式会社がどんな会社なのか教えてください。 元々は投資・ゲーム・アドテクなど幅広い事業を展開している会社でしたが、今年2月にゲーム事業部と広告事業部が分社化され、現在のメイン事業はDXプラットフォーム事業となっています。 DXをニュースなどで見る機会が増えたと思いますが、DXをやりたくてもやり方がかわからない、自社の中だけでは難しいという声をいただくこともまだまだ多いです。そこで、お客様にアドバイスやコンサルティングをしているのがDXプラットフォーム事業です。 入社した当時、わたしは広告事業部の営業として働き始めましたが、現在は広報としてユナイテッドがどんなことをしているのか皆さんにイメージしてもらえるように活動しています。 ーここから江川さんの人生を振り返りながら、お話をお伺いしようかと思います。 小学校の時に印象に残っている出来事があるそうですね。 小学1年生の中から4名だけ運動会の開会挨拶ができるルールがあり、その時に担任の先生から代表の4名に選んでもらい、人前に立った初めての経験として印象に残っています。 選ばれたメンバーごとに話すフレーズが決まっていて、わたしは「お父さん」というフレーズを担当しました。家族が大好きなので、その役割に決まって嬉しかったことを今でも覚えています。 ー運動会の開会あいさつを経験された後、同じような経験をしたいなと思わなかったですか。 委員会の委員長などをやっていたので、消極的なタイプではなかったと思います。 中学校ではクラスの学級委員長を経験し、そこから学年委員長、生徒会長も経験しました。 生徒会長の時は、毎月の全校朝会で400人くらいを前に話す機会もありました。 ー中学・高校生活ではどんなことがありましたか。 中学で生徒会長をしていたのですが、高校受験に失敗してしまいまして(笑) そのため、滑り止めとして受けていた高校に進学することになりました。行きたかった高校ではなかったため、残念だなと思いながら高校生活をスタートさせましたが、入学した高校には全国大会に毎年出場する放送部がありました。 中学3年時の先生が、「みどりさんは声が大きいし、人前で話すのが好きそうだから放送部に入れば?」と言ってくれました。 当時やりたいことがなく、放送部の活動内容も知りませんでしたが、入部することにしました。すると、放送部の活動が自分にピッタリとハマったんです。今振り返ると、その出来事が人生で一番のターニングポイントですね。 ーたまたま入ることになった高校で、偶然放送部に入ったんですね。 行く予定だった高校に合格していたら、矢を放つ姿がかっこいいから弓道部に入ろうかとか演劇部に入りたいなと夢を描いてました(笑) 入学した高校はクリスチャン系の学校だったので、毎朝お祈りをする放送朝礼を担当していました。それとは別に、放送部の大会である「全国放送コンテスト」の個人アナウンス部門に出場し、1年目から好成績を残すことができ、最終的に全国大会に行きたいなという気持ちで部活に取り組んでいました。 ーアナウンスの大会は、どのようなところが評価ポイントなのでしょうか。 2つあり、1つは原稿です。1分30秒以内で話せるニュース原稿を自分で書き、その内容が面白いかどうかで審査されます。もう1つは、読みの技術ですね。発声、滑舌という基本的な部分から最も伝えたい部分を強調できているか等、より聞き手に伝わる工夫ができているかを見られます。 ー自分でコンテンツを作るところも評価ポイントなのですね。 実はそこが苦手で、顧問の先生に「江川は文章が苦手だな」と言われていました(笑) 校内ニュースがテーマだったのですが、3年生の最後の大会で読んだ原稿はトイレのニュースでした。当時校内のトイレが新しく生まれ変わったタイミングで、とても綺麗な空間になっていました。最初は日常的なことだったので、この切り口ではニュースにならないと思い込んでいましたが、顧問の先生から勧められたこともあり、このテーマで最後の大会に挑むことを決めました。 より良い原稿づくりのため、同級生にトイレが変わったことへのインタビューをしました。そこで分かったのは、トイレの空間が綺麗になることで身だしなみにも気を遣うようになったということでした。この新たな発見は、取材をしないと分からないことでしたね。また、本番前に無人のトイレを撮影した動画を見て、より綺麗なトイレの様子を聞き手に伝えられるように、イメージトレーニングもしていました。 ー高校の最後の大会は、全国大会までいかれたそうですね。 アナウンス部門の競技人口が約4000人いる中で、全国大会の準決勝まで進み、最終結果はベスト60でした。 準決勝まで残れたため、決勝までいけると思っていました。なので、決勝まで残れずに会場のNHKホールのロビーで大泣きしていました。 その悔しい経験があったので、大学でも放送系のサークルに入り、大学生向けの「全国放送コンテスト」にも出場をしました。結果的に準優勝することができ、やり切った感がありましたし、放送という初めて自分が夢中になれるものと出会えたことで、自信がつきました。 就活で悩んでいたとき、広報という道を知る ー高校での経験を経て、どんな進路選択をされたのでしょうか。 自分の得意なものがアナウンス・発声だということが高校時代に分かったので、話す仕事といえばアナウンサーだと思いました。逆に、当時はアナウンサーしか話す職業が思いつきませんでした(笑) 大学は東京の大学に進み、社会のことを広く学ぶために社会学を選択しました。 また、高校から頑張ってきた話す技術とは別に、アナウンサーに必要なアドリブ力が欠如していると感じ、生放送コミュニティSchooでアナウンサーのアルバイトをはじめました。Schooでは、業界や分野の第一線で活躍する方を講師に迎え、約1時間生放送する授業を行っています。そこでMCとして3年間で500本以上の番組に関わっていました。 ーMCって、難しいですよね。 台本なしの生放送、しかも著名な先生をゲストに迎えるということでプレッシャーを感じることが多かったです。ただ、わたしが受講生に直接教えるというよりも受講生の代表という形で疑問を伝えたり、自分の一言が番組進行にどう影響するかを大事にしていました。その経験から番組を進める能力やアドリブ力は身についたと思います。 ー数多くの番組を経験されたかと思いますが、その中で一番印象に残っている回はありますか。 Forbes JAPAN Web編集部 編集長の谷本 有香さんのアクティブリスニングの授業がとても印象に残っています。谷本さんはマイクの調整が不要なぐらい発声が素晴らしく、コミュニケーション術という講義内容もわたしが今後学んでいきたいことでした。 ーSchooでの経験をもとに就活に取り組まれると思いますが、いかがでしたか。 アナウンサーを志望していたので、就活もアナウンサーを軸に進めていましたが、アナウンサーにはなれませんでした。 アナウンサーになれる人数は少なく、局のキャラクター性や所属アナウンサーの特徴を踏まえて採用活動を行っています。キー局がダメだと準キー局や地方局に焦点を変えていくのですが、地方局を受験する際に、行ったことがない県の魅力を書かないといけない場面もあり、予想以上にハードな就活だと感じるようになりました。 そんなある日、Schooで一緒になった先生に就活の話をしたところ、「江川さんのやりたいことと刷り合わせると、広報の仕事が向いているのではないか」とアドバイスをいただきました。その時は、広報って何?と思いましたが、調べていくうちに「情報を発信すること」「自分がいいなと思ったことを伝える」という自分の就活の軸と広報の仕事が近いのかなと思い始め、大学4年の夏から就活を切り替えることになりました。 ー大学4年の夏だと周りも就職先が決まり始めて、焦りますよね。 焦りすぎて、新卒入社でありながら就活エージェントに所属していて、エージェントの方から勧められた企業もチェックしていました。 今の会社にはOffer Boxという、履歴書を登録し企業からスカウトが来るサービスでオファーをいただいたことがきっかけで、入社いたしました。 ー実際に企業の方と会ってみて、感じたことを教えてください。 同時期に他の企業も受けていて、アナウンサーになりたかったことを話すと、マイナスに見られたり、キラキラしている仕事の方が良いのでは?と言われることがありました。しかし、今の会社は、これまでのアナウンスの経験をポジティブに評価してくれて、個性を認めてくれたことが素直に嬉しかったです。 後から知ったのですが、わたしは同期で2番目に遅く入社が決まったようで、同じ内定者の人にどんな人がいるのか分からなかったことを察してか、人事の方が東京採用の女性メンバーを集めたご飯会を開くなどサポートしていただきました。 会社や働く人にスポットライトが当たるように ーユナイテッドに就職をして、最初から広報職に就いたのでしょうか? 新卒の面接時から、広報になりたいということを面接官や社長に伝えていましたが、最初の1年間は会社のことを知るために営業部へ配属となり、広報は2年目から就くことになりました。 ー広報は初めての経験かと思いますが、働き始めていかがでしたか。 最初の一年目は、仕事がわからない辛さや相談できる仲間がいない孤独さで大変でした。 ただ、2年目から人のつながりが生まれたことで、広報の仕事がより楽しいと思えるようになりました。 わたしは人と話すことが好きなので、社員や他社広報さんから情報を引き出し、その情報をネタとしてメディアに提案することでコミュニケーションを取れるようになりました。また、広報はいろいろな人から情報をいただくことで成立する仕事なので、社員から積極的にコミュニケーションをとってくれるのはありがたく、メディアの方には取材などで時間を割いていただいてありがたいなと感じています。実際の取材で、社員や会社にスポットライトが当たった瞬間、やりがいを感じます。 社外の活動がきっかけで新たなつながりを ー広報の仕事以外でチャレンジしていることはありますか。 2つあります。 1つは任期は終わりましたが、2020年2月から2021年1月末まで音声メディア Voicyの毎日新聞ニュースチャンネルで週1回木曜日のパーソナリティを担当しました。 通勤中にVoicyを聞いていてパーソナリティオーディションがあることを知ったのですが、話すことが好きでまた挑戦したい気持ち、広報として新しい情報に常に触れていたいという気持ちから応募をして、パーソナリティとなりました。コロナもあり、直接人と会えない日々が続くなか、毎週Voicyを聴いてくださった方から「聴いてるよ」というメッセージをいただけたのはありがたかったです。 もう1つは、2020年10月から同い年の広報の子と一緒に、「広報の集い」という広報向けの月1回の勉強会を主宰しています。 ー社外でも積極的に挑戦されているのですね。Voicyでは具体的にどんなことをされているのでしょうか。 毎週木曜日に毎日新聞のニュースを8本ピックアップして読むこと、さらには趣味が美術鑑賞ということもあり、フリートークできるコーナーで「みどり美術館」と題して、行った美術展の感想を話したり、美術の知識、会社の美術部での話などをしていました。 週替わりでパーソナリティが変わるので、リスナーに自分の印象を残したいと思って始めましたが、7〜8ヶ月やっていく中で、アートの人・みどり美術館の人だと認知していただけるようになりました。 ー広報の集いも気になるのですが、最初に声をかけてくれた同い年の方とスタートさせたのは理由があるのでしょうか。 広報担当者の横のつながりを作るべく始めました。 開催するテーマや回によりますが、多いときには50人ほどの参加者が来てくれるようになりました。 SNSの使い方や広報のイロハを教える会など毎回のテーマが異なるので、そのテーマに興味を持った参加者の方もいれば、継続的に参加してくださる方もいますね。 ー広報の集いの今後のビジョンなど、ありますか。 広報になった人が真っ先に思い出してくれるコミュニティになることを目標にしています。コロナ禍で始まったコミュニティだったので、落ち着いたらリアルで会いたいですね。 ー最後に、江川さんの個人ビジョンを教えてください。 仕事面では、広報の仕事を極めたり、自分の好きなプロダクトやサービスを広報することもいつか挑戦できたらいいなと思っています。また、社内で株主総会の司会をしたり、採用動画のナレーションをしたりと声を生かした仕事をさせていただき、楽しさを感じているので、今後も社内・社外問わず声のお仕事も続けていきたいです。 そして、わたしは家族が本当に大好きで大切な存在なので、いつまでも仲良く両親といい関係性を築いていければと思っています。 取材者:増田 稜(Twitter) 執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

最近読まれた記事