野球少年が香りのスペシャリストになるまで。ケンティー香水学校・ケンティー

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第318回目はフレグランスセールススペシャリストとして活動されているケンティーさんです。「自分に合う香りを見つける場所」をテーマに主に香水に関する情報を発信中のケンティーさんに現在に至るまでの経緯と、香水を選ぶに当たって大切なことを教えていただきました。 15年間続けた野球生活 ーまずは簡単な自己紹介をお願いいたします。 「自分に合う香りを見つける場所」テーマに、ブログやInstagram、TikTok、YouTubeなどのSNSを活用して発信しています、ケンティーです。また、企業からご依頼いただきSNSの運用をさせていただいたり、香りに関する商品企画開発にも関わらせていただいています。 ーまずは過去に遡って現在に至るまでのお話をお伺いできればと思います。幼少期から「香り」というものには興味をお持ちだったのでしょうか。 母の香水や化粧品が置かれたドレッサーには小さい頃から興味を持っていたかと思います。また、エレベーターの匂いやチラシの匂い、体育館の倉庫の匂いなど、よく考えたら小さい頃からの匂いの記憶が残っているので、匂いに敏感だった方かもしれないですね。エレベーターの匂いとか、結構好きでした(笑) ー匂い以外で幼少期〜高校生活で今に繋がる出来事などはありますか。 野球好きの父の影響で小学生の頃から始めた野球でしょうか。高校は野球の強豪校に進学したので練習についていくのが大変でしたが、日本一を目標に努めていました。中高時代での野球生活は自分にとって必要な経験だったと思います。 それまで、大口を叩きがちでよく口だけで行動が伴っていないと言われていたのですが、野球部のコーチが愛を持って怒ってくれ、指導してくれたことで少しずつ人から信頼を得られるような行動や言動ができるようになりました。プライドが高く人の意見を聞く余裕がなかったのが、野球生活を通して改善されたと思います。 ー大学でも野球は続けられていたのですか。 大学では野球部にマネージャーとして関わっていました。高校野球では最後の一歩というところで試合に負けてしまい、応援してくださった方々の期待に答えることができなかったので引き続き野球は続けたいと思っていたのですが、人としてもっと成長したいと思ったことからマネージャーを選びました。 野球中心で進路についてもずっと考えていたので学部選びは特に深く考えず経済学部を選んだのですが、マネージャーとして雑用などをしている中でふと、これから先果たして生きていけるのかと思うことがありました。何もできないことに対する危機感を初めて覚え、生きていくためには野球以外もしなければいけないと思ったことがきっかけでたくさんの本を読むようになりました。 人のために何かできた喜びから香りの道へ ー香りを追求するきっかけとなったのも大学での時のことですか。 おしゃれでかっこいい先輩がいたのですが、その先輩がとても良い匂いをしていたことがきっかけで香水に目を向けるようになりました。その後、友達に香水の相談をされたので自分なりに考えておすすめを伝えてみたところとても喜んでくれて…人のために何かできたのが嬉しくて、その時をきっかけに香りを追求するようになりました。そして1対1でおすすめの香水などを伝えるのには時間に限界があるので、SNSでも香りに関する発信を始めることに。初めは自分が好きな香りをただ発信していましたが、フォローしてくださっている方に向けた発信へと発信方法も工夫して行うようになりました。 ー卒業後の進路についてはどのように考えられていたのでしょうか。 最初は大手企業に就職しようと思い就職活動をした結果、内定もいただいていたのですが、やっぱりやりたいことをやりたいと思い、内定を辞退。香水に関わる仕事をするため、ご縁があって出会えたスタートアップの会社にアルバイトとして入社しました。自分の強みでもあったSNSの仕事を担当させていただき、SNS運用スキルを磨かせていただいたり、スタートアップの現状や課題を知ることができた他、仕事において全体像を理解する力を身に付けさせていただきました。 同時に、この期間に香りに関する知識を深め、フレグランスセールススペシャリストという資格も取得しました。 ーそしてケンティー香水学校を設立することになるのですね! そうです。いろいろと試行錯誤しながら発信活動を行う中で、香水が敷居高く感じている方が予想以上に多いこと、カタカナが多いや説明が長いなどといったことが理由でどの香水を選んで良いかわからないという方がたくさんいることが分かりました。自分ができることは、できるだけシンプルにわかりやすく香水について発信することだと改めて実感し、良い香りを人をつなげる活動をもっとやっていこうと思いました。 良い香りと人をつなげていく ー確かに香水の選び方って難しいなと思います。香水の選び方のアドバイスをいただけませんか。 香水を選ぶときは自分の直感を信じてみてほしいなと思います。そして好きかもと思った香りをとりあえず買ってみること。それが初めの第一歩かなと思います。 一方で、買う目的をしっかり分析した上で香りを選ぶという方法もあります。その場合はなぜ香水をつけるのか、どんな場所につけていきたいのかなどといった目的を明確化することが必要です。例えば会社につけていく香水を探しているのであれば、カジュアルな雰囲気のある会社なのかどうかによって提案できる香水も変わりますし、満員電車で通勤しているのであれば匂いがきつすぎると周りの目が気になってしまうので、つけるタイミングも変わってきます。大事なのはどんな目的で、どんな場面でどの時間帯に香水をつけたいのかとシーンを確認すること。そうすることで適切な香水を選ぶことができます。 ーなるほど…具体的なイメージを持った上で香水は探した方がいいんですね!最後に今後の展望などがあれば教えてください。 幸いにもTikTokが発信媒体としてうまくマッチして、今たくさんの方にフォローいただいています。これを活かして香水がもっと身近なものとなるように良い香水をもっと広めていけたらと思っています。直近では実際に香水を作られている方とお会いする機会をいただくことが増えたので、製作者の声をしっかりと届けることを意識しています。製作者と利用者の間に立つ者として正しい情報と正しい思いを伝えることを大切に活動していきたいです。 一時期はSNSでの発信においても、形にとらわれてしまったり、数字を意識しすぎてしまったりして本当に伝えたかったことを伝えられていなかったり、価値観の押しつけになってしまいっていたこともありました。今は焦らず、長い目で、少しでも多くの人に香りと接点を持つ機会を提供できたらなと思っています。 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) インタビュー:山崎貴大(Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

銭湯アイドル兼漫画家の湯島ちょこが語る、銭湯の魅力とは?

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第321回目となる今回は、銭湯アイドル兼漫画家としてより多くの人にとって銭湯が身近な存在になるように活動されている湯島ちょこさんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 小学生のころは陸上部で活動しており運動神経が抜群。加えて数多くの習い事をこなすというタフな生活を送ります。中学生のころには友人と交換漫画を始め、高校に上がってからは弓道にも打ち込む日々。高校卒業後は「漫画やイラストを描く学校に行きたい」と思い専門学校への進学を決意。そんな中、大切な友人を東日本大震災で失い、絶望しているところで偶然にも銭湯と出会います。そして専門学校に進学。在学中から漫画家のアシスタントやPR漫画の仕事をしています。また、「絶望の淵にいた自分を救ってくれた銭湯を守りたい」という想いから、銭湯を知ってもらうために銭湯アイドルの活動を始めたり、実際に銭湯の運営をしたりして現在に至ります。 幼いころから目まぐるしい日々を送っていた湯島さん。そんな湯島さんにとって人生の大きな転機かつ救いの手になったのが「銭湯」との出会いでした。その銭湯をもっと世に広め、守っていきたいとの想いで現在銭湯アイドル兼漫画家として活動する湯島さんが語る「銭湯の魅力」とは一体何なのでしょうか?   銭湯アイドル兼漫画家という仕事 ー本日はよろしくお願いします!現在のお仕事やこれまでの活動について教えてください。 漫画家銭湯アイドルとして全国の銭湯を回りつつ、銭湯やサウナ、温泉の紹介、そして銭湯絵師として全国の銭湯に絵がないところに銭湯絵を描くという活動しています。よろしくお願いします。 ー僕らがよく見かける、あの大きな富士山も描いているのですか? そうですね!あの絵も書いているのですが、あれは基本的に関東の文化なので関東から外れるとあまりなくなるんですよ。だから大阪に行って銭湯に入ると無いこともありますし、その富士山の絵が無い地域の人に「銭湯って富士あるよね」と言っても、やはりアニメやドラマのイメージが強いんです。 ーえ!そうなんですね!そうすると絵がないところはただのタイルが貼ってあるだけですか? ただのタイルが貼ってあるだけであったり、富士山っぽいもののタイル絵があったりです。大阪のように関西の方は結構タイル絵文化だったりするのでタイル絵で富士山が楽しめはするものの、私はペンキのあの感じが好きですね。 やっぱり今まで自分が好きだなと思ってきた銭湯の壁の絵がなくなるのは嫌だという思いもあって、関東以外の銭湯に入った時でもあの風景が見れるように銭湯絵の活動もしています 。   陸上、水泳、習い事。目まぐるしい幼少期 ー幼少期はどんな風に過ごされていたのでしょうか?得意不得意や好き嫌いなど記憶に残っていることはありますか? 小学生の時は、基本的に運動と物を作るのがすごく好きで、それ以外の教科はだいたい駄目でした(笑)。 教室で授業を受けるというのが本当に苦痛で。だからもう休み時間になるとだいたい飼育小屋に行って動物に触れて癒されていました。何にそんな精神をすり減らしていたのか、そこまで苦痛だったのかなと思うのですが、本当に嫌で。その一方で運動はすごく好きで得意でした。 ーその頃の運動はクラブに入ってしていたのですか? 小学生の時から部活があって、陸上部に入って長距離の選手をやっていました。 ー一般的には中学生ぐらいから部活が始まるイメージですけど小学生の頃からあったんですね!中高の部活のような感じだったのでしょうか? そうですね。珍しかったような気がします。部員もそこそこいて、練習は朝の時間帯にあって夕方にはなかったです。だから朝礼始まる時にはもう汗を流した後でしたね。今思えばよく行っていましたよね。朝起きて走って授業を受けるなんてすごいです(笑)。 ー他に水泳もやられていたとか…?体力が物凄くあるイメージですが、ご家族の中に運動神経良かった人っていらっしゃるのですか? はい。水泳部も結構な距離を泳いでいて。たぶん800mですかね。全然選手が出てこないような長い距離を泳ぐのが得意でしたね。 タフさしか自分にはないんじゃないかと思うぐらい当時体力がありましたね。小学生の頃はたぶん周りの男の子より足が速かったです。だから化け物って言われるほどで、ドーピングしてんじゃないのかとも言われましたね(笑)。 父方の祖父が運動神経が良かったらしく、その遺伝の可能性はあります。ただ、このタフさにはもう1つ理由があると思っていて。幼稚園生の時に弟が生まれたのですが、これまた幼稚園まで結構距離があったんですね。それに加えて自転車の後ろの席は1人用だったので私は走るしかなく、その長い距離を自転車と同じ速度で毎日走らされていたんですよ(笑)。「弟はさすがに走らせられないからあなたは横を並走してね」って自転車と一緒のスピードで毎朝10分から20分は走っていましたね。その頃から高校生ぐらいまであった異常な体力と足の速さは、この自転車の横を並走させられた毎日があったからだと思います。 ー習い事もかなり多くされていたのとことですが、やはり親御さんの勧めですか? 結構色々やっていました。習字、水泳、新体操など。ピアノも一瞬に習わされて嫌で辞めて。多かった気がするものの記憶がないんですよね。嫌すぎて(笑)。あと公文も行っていました。当時は学校が終わったら大体すぐ習い事に行かないといけなくて急いで帰っていました。それから公文はその日に1日行くんじゃなくて宿題があるんですよ。だから公文の宿題をやる日で他の予定も埋まるという。「なんかすごい忙しくない?」みたいな。ハードな小学校生活でしたね。 親が習い事をさせるのが好きだったのですが、私もやるかやらないかの意思決定は託されたはずなので、やると言ったのは最終的に私だったと思います。でも気づいたら、そんなに習う?という数になっていました。 ー何でも一旦やってみようというような感じでいろんなことに興味関心を持たれるタイプなんですね! 「どうせならやるだけやってみよう」というところがあったんでしょうね。ただピアノだけは合わなかったですね(笑)。音楽の才能がなかったです。だけど曲を作るのはその当時から好きで、ボイスレコーダーに作った曲を入れたり、ピアノを弾ける友達と一緒にこういう曲を作りたいと言って曲を作ったりしました。これも小学生くらいの時ですね。 ー小学生のころからとは!そのころ何かに影響を受けたのですか? 何で作っていたのか全く分かっていなくて、作った結果何が起きるのかも全く考えてなかったです(笑)。でも、音のようなものが浮かんでくるので「ちょっとこの曲をどうにかしないと」というのはありました。ストレスが溜まったら歌うこともありましたね。そういうので曲は小さい時から作っていました。 ー小さい時から湧き出てくるものを何かしらに表現したり外に出すことをされたりしてたんですね。 そうですね。 小さい時から物を作るのがすごく好きでした。   「漫画やイラストを描ける学校に行きたい」迷わなかった高校卒業後の進路 ー多くの人にとって中高での受験は大きな出来事だと思うんですが、特に高校はどんな風に選ばれましたか? 高校はすごく覚えていますね。私は小学生中学生とバケモンと呼ばれて生きてきたので、男子からとてもいじめられて、凄い嫌がらせをされたんですよ。物もすごくなくなったり、作品を作って賞を貰ってもそれがすぐなくなったりと結構大変でした。だからせめて男子がいない学校に行きたいと言っていました。あと弓道がしたかったので弓道ができる学校がいいというのを親に言って、親が弓道ができる学校を紹介してくれたのでそこに通おうと決めました。 ー弓道も!それは中学のころからやられていたのですか?どういうタイミングで興味を持ってどういうところに惹かれたのでしょうか? いえ。本当は中学の時に弓道部に入りたかったんですよ。でも中学校に道場がなかったんですよね。中学校の時は水泳部でした。高校はやっと念願の弓道がある学校に行けたので弓道をやっていました。 もともと弓道というスポーツがあることは知っていて、袴をはいて弓を引いているのがすごくかっこよかったので、このスポーツをやってみたい!と思っていました。やっぱりめちゃくちゃかっこいいんですよ!袴をはいて弓を引く自分を想像したらテンションが上がって「これやりたい!これやりたい!」となっていました(笑)。 それから、弓道自体はすごく楽しかった一方で、弓道部は古いしきたりがある謎の部でした。変な部活の規則がたくさんあってすごく厳しかったですね。ちなみに他にも不思議な伝統がある謎の部はありました。先輩との上下関係も厳しくて、そんな上下関係のように非効率なしきたりとかが苦手ですごく苦しみましたね。 みんなも首をかしげながら何の意味があるんだろうねと思いつつ適応していました。例えば、先輩の前で笑っている顔を見せてはいけないというのがあったのですが、先輩は笑わせてこようとするんですよ(笑)。そういう伝統といろんな矛盾があるような不思議な部でした。 ーそうだったんですね…!そんな高校時代には既に絵を描く友達がいらっしゃったとのことですが? そうですね!高校の時には携帯を持っていて、その時ぐらいからネットのサイトに登録して友達と一緒に絵の交換のように、絵で交流することを結構やっていました。大体学校に居場所がなかったので、そうやってネットの絵を描ける友達と一緒に絵の話をしたり、こういうのを描いたよと言ってその絵をあげて交流したりするというのが主でした。そこがある意味生き甲斐になっていましたね。 ー人やキャラクター、風景など様々なものがある中で、当時はどんな絵を書いてたのでしょうか? 当時はいろんなキャラクターをめちゃめちゃ作っていましたね。オリジナルのキャラクターを作ってそのキャラクターを描いたり描いてもらったりとかして。その友達の持っている世界の方に遊びに行かせたり、自分の持っている世界に友達のキャラクターを持ってきてコラボしたりして遊んでいましたね。それをネットでやっていました。 ーまた、別の学校の友達と交換日記ならぬ交換漫画をしていたとのことですが、それは当時周りでやっていて「いいな、私もやろう」という感じだったのですか? いえ、周りでやっていたのではなく自分たちで始めたものでしたね。中学生の時に絵が上手い人がいるというのを教えてもらって「あ、本当に絵が上手い子だ」と思ったのがきっかけで交換漫画を始めました。 その子は同じ学校でクラスが別だったのですが、手紙で世界観やキャラクターの設定を考えて、最終的にノートに3ページずつ毎週お互いページを更新していってというのをやっていました。 高校に上がってからはさすがに毎週3ページずつはできない時もあったのでたまに遅れることはありました。別の学校だけど、交換日記ならぬ交換漫画という形で話を進めていました。楽しかったですね。 ーなるほど…!交換漫画は交換日記をしているような感じでコミュニケーションを取れるんですかね? 自分が作ったキャラクターと相手が作ったキャラクターがコラボしている世界があるので何だか面白いんですよね。交換日記はあったことを書くけど、交換漫画はいろんな事が起きるので、お互いに相談しつつ「次はどうする?」といったことを言いつつ、ある程度自由にさせてもらいつつ。ある種交換漫画があるから、続きが楽しみだから頑張れるという感じの生活をしていましたね。 ーそういうこともあって絵を描くというのがここからだんだん湯島さんの身の回りにキーワードとして強くなってきているんですね。そんな中で高校卒業後の進路はどのように考えたのでしょうか? 親的には「いい大学行った方が安定じゃない?」と心配はしてくれていて。でも自分にとっていい大学行けるかというのもありましたし、いい大学に行った先に幸せになれるかというのがあって。いい大学に行くに越したことはないですが、「その先にやりたいことはなくない?」と思ったんです。 その一方で絵を描くのはずっと好きでしたし、漫画やイラストを描く学校に行きたいという話になり行くことにしました。割と迷わなかったですね。 ーなるほど。実際に通った大学はどんな人が通われていたのでしょう?また、どんなことをされていたのですか? イラストや漫画を描く学校に進んだのですが、みんながみんな「絶対絵で食べていくんだ」とか「アーティストになりたいんだ」という感じではなかったんですよ。割と「絵をなんとなくふんわり描けたらいい」「学校には進まなきゃいけないから何となく進んでみた」という人が圧倒的に多くてちょっとびっくりしましたね。 ーやっぱりその年で専門の道に歩み出そうと思う人って、その先それで食べて行こうという人がいるんだろうなというイメージをしますよね。 そうですよね。自分も大丈夫な身ではないのに、この子達大丈夫かなみたいな。こんなふんわりしてていいんだと思ってびっくりしましたね。 ーいざ行ってみたら想像と違う世界というか、ギャップを感じられたと思うのですが、そのギャップとはどのように向き合っていったのでしょうか? 専門学校に関しては好きなもので集まっている人達なので、特に争いごともなく。人を攻撃するような人もいなかったですしね。そつなく仲良くできて比較的穏やかでした。 それから、この時ぐらいに漫画のアシスタントの仕事に行ったり、PR漫画の仕事をもらうことがあったりしたので、この頃からPR漫画を描いていました。この時期はPR漫画が流行っていないというか、漫画の仕事として認められていない時期でしたがよくやっていましたね。   親しい友人の死。絶望の淵での銭湯との出会い ーそろそろ銭湯との出会いが近づいてくると思うのですが、どんな時に銭湯と出会ったのですか? 銭湯と出会ったのは、18歳の時、まだ大学の学校見学をしている頃ですね。 当時交換漫画をしている人とは別の人で、ネットで相談をしたり、絵の交換を葉書でしたりする友達がいたんですよ。でもその頃に東日本大震災が起こって、その子と震災の後に連絡が取れなくなったんです。ちょうどその子は宮城県の石巻に住んでいた子で。最初は携帯の調子が悪いのかなと思っていましたが、よくよく考えたらそういえば石巻って津波が酷い地域だったなと。そしてその日から更新がなくなったんですよ。もしかして死んじゃったのかなと思って、すごく寂しかったのはよく覚えています。 ーそれはお辛いですね… 絵を描くのも好きだったし、悩む必要もなかったのかもしれないのですが、本当に今まで生きてきた中で人と馴染めないことが本当に苦痛でした。人の顔色を伺って足を遅くしたりしようとか、ちょっと目立たないようにしようということはできないし、機嫌をとることもできないし、そんな器用さもなかったのでそういうのがちょっと苦しくて。散々バケモンとも言われ続けてきたので異性とも別に仲良くすることもなかったですし。家庭も家庭で結構ぐちゃぐちゃになっていたので、家にも学校にも居場所がなくて本当に息苦しかったです。そんな中ネットで相談をしてた友達もいなくなってしまって。 そうして生きるのが辛くなって死のうかなと思った時に、偶然銭湯の煙突を見つけて、急に死ぬ前にお風呂に入ろうかなという気分になったんですよ。そしてその銭湯で入り方が分からなくて困っていたら、知らないおばあちゃん達が「初めてなの?」という感じでたくさん気にかけてくれたんです。知らない人なのに石鹸をくれたり他にもお世話をしてくれたりとか。とにかくおばあちゃん達がすごく優しかったんです。 ーそんなことがあったんですね。 スーパー銭湯とかには行ったことがあるものの、下町の銭湯に行くことは今までなかったんです。生まれて初めて行ってみたら、こんなに人が喋りかけてくれるんだと思って。本当にその時落ち込みすぎていて人と喋れるような状態ですらなかったのですが、こんなに喋りかけられるの?という新鮮さがありつつ、喋ることによって少し気が晴れたんですよね。 そして私の落ち込んでいる様子を察してか、湯船に入っているとそのおばあちゃん達が天気の話以外にも、自分たちの暗かった話を笑いながら話すんですよ。「旦那さんが亡くなったけど元気にやっているわ」「自分達が生きていればいいよね」というような感じで。でもそれって笑ってする話じゃないよねと思いながら。そんな暗くて人生の一番辛いところを経験しているような人たちがこうやって笑って喋っている湯船っていいなと思いましたし、今は自分の生きている意味が分からなくて苦しいけれど、それでも将来笑い話にできたらいいし、今死ななくてもいっか、という気持ちになれました。 ーなるほど。そこからだんだん今の活動に繋がっているのですね。 はい。それで踏みとどまったのがあり、銭湯っていいかもと思っていた時に、「若い子珍しいね」とお店の人から声かけられたんです。それから、今銭湯がどんどん無くなってきているから来てくれると嬉しいよという話をしていただいて。でもそれを聞いた時にこんなにいい所がなくなっているんだという衝撃とショックを受けました。だって自分はここに来たことによってすごく救われたし、無かったら死んでいたかもしれないぐらいだったのにと思い、こんな素敵な経験をさせてもらった場所がなくなっているんだったら何かしてあげたいなと思いました。 やっぱり無くなってほしくないですし、自分と同じような心境の人がいっぱいいると思ったんです。降りた駅も自殺者が物凄く多い地域だったので普段はここで飛び降りする人がたくさんいる。だけど自分は銭湯に行って救われた。こんな風に今銭湯があることによって救われる人がたくさんいるから、自分は銭湯の紹介や銭湯がなくならない仕事をしたいと思い、銭湯の漫画を描いたり銭湯アイドルとしての活動を始めたりしました。 ーそういう経緯があったんですね。ちなみにそこからは自分で色々銭湯行ってみようかなという風になり始めたのですか? 銭湯に色々行ってみようかなという風になりましたし、 銭湯の近くに住みたいなと思ったんですよ。そしてその後くらいに家を出て銭湯の近くに住み始めて、日常的に銭湯行くという生活を始めましたね。 ーそれは部屋を借りて1人暮らしという感じですか? そうですね。ちょうど学校に行かないといけないのもあったので、学校に通うという口実で銭湯の近くに住み、近所の銭湯に行きながら生活していました(笑)。   「誰かの心の温まる場所」なのが銭湯の魅力 ー現在も含めて、これまでどんな風に銭湯をキーワードに活動をされてきたのですか ? 今までは「まずは銭湯を知ってもらう」ところから始めようという活動していました。銭湯をいっぱいはしごする「オフろう会」というものを使ってファンと一緒に銭湯を巡ったり、メディアに出たりしていましたね。 他にも、親しんでもらえるように何か別のものとコラボしたほうがいいんじゃないかとも考えました。やっぱり銭湯に興味がない人は銭湯の話をしても聞いてくれないですし、そこで押し売りしてもしょうがないんですよね。 だけど「銭湯=いいもの」というのは分かり切っているし、みんながこれを知ることで幸せになってほしいなと思っていたので、みんなが好きなものに合わせて銭湯を紹介できたらなと考えました。その結果、ボードゲームを作ってみたり、アイドルというコンテンツだったら興味を持ってくれる人がいるんじゃないか思い、銭湯アイドルの活動を始めたりしました。 そうやって今までは既にユーザーがいる層に向かって銭湯というものを紹介する活動をしてきたのですが、今は銭湯をみんなでやるという段階に入っていて、若い人たちだけで銭湯を回し、今なくなってしまいそうな銭湯を守ろうという活動をしていますね。   ーなるほど。そういう活動をされているんですね! 今はもう銭湯で働き始めていて、釜の仕込みや配管の整備、夜中の掃除などもしていますね(笑)。 ー湯島さんの他にも若くて銭湯がお好きな方が働かれているのですか? 私みたいに銭湯がなかったら死んでいたという子はもう1人います。その子はうつ病で苦しんでいたんですけど、その時銭湯との関わりで助かったんです。たぶんその子は私と似ていますね。あともう2人は銭湯がなんとなく好きというところがあるものの、なんとなく好きではできないハードワークをやっているので、一緒にできて嬉しいなと思っています。 ー好きなものの裏側は楽なことばかりではないと思うのですが、銭湯の裏側も見てきた湯島さんが思う「銭湯ってやっぱり素晴らしいな」と思うポイントにはどんなものがあるのでしょうか? 全部が全部すごく魅力ですね(笑)。だけれど、その中でも「誰かの心の拠り所になれる場所」というのがすごいと思うんです。それが湯船だったり、ある種そこにできたコミュニティーだったりもするんですよ。以前好きな銭湯に行った時、お店のロビーにおばあちゃん達がいたのですが、このおばあちゃんはお風呂から5分10分で出てきて1、2時間ぐらいロビーでずっと喋ってるんです。「私はここに話をしに来てるの」って言って。でもそれは家に誰も話す人がいないからなんですよね。だからもしこの銭湯がなくなってしまったらどうなるんだろうと。 そういうどこにも居場所がない人の拠り所になれる場所でもあるので、そんな施設はとても素敵だなと。お風呂に入るという目的ではなく、「誰かの心の温まる場所」なのが銭湯の魅力だと思います。 ー「温まる」にも色々あるんですね。お話を聞いているとますます守るべきものだなと伝わってきます。この温かさって家にも会社にもない感覚がありますよね。 「お風呂に入るのであれば別に家でよくない?」とは言われますね。いろんなスキンケアとか一式を置いているわけだからそれを持って銭湯まで行くのは確かに面倒くさいですし、やっぱり便利さ的に家のお風呂で済ませたいという気持ちもあります。 だけど、銭湯は便利か否かではなくて、無くしてはいけない場所なんですよね。温泉があるわけでもサウナがあるわけでもないけれど、そこに来ることによって助かる人や、そこを拠り所にしている人たちがいるわけですよ。それを思うと、銭湯が無くなることがどれだけ絶望的なことなのかと。 ーこれまで銭湯の数がどんどん減ってきましたが、最近は若い人も銭湯やサウナに興味を持ち始めているので流れは確実にきているような気がします。 そうですね。今までは散々「お年寄りの趣味だ」「温泉ないのに何で行く意味あるの?」「サウナとか何で行くの?」といった感じでずっと言われ続けてきましたけど最近流行ってきましたね(笑)。 だけど今「時代はサウナだよね」「銭湯いいよね」と言って若い人たちが行くの見ると「なんだこの変な感じは?自分が銭湯を好きになった10年前と比べると全然違う」と。今まで散々虐げられてきたのに急に受け入れられてとても嬉しい気持ちと、もっと早くそうなってくれていれば無くならずに済んだ銭湯もたくさんあったのになという複雑な気持ちがあります。 それでも、やっぱり若い人たちが好きだと言ってくれると、その人たちが今後新たな銭湯を引き継いだり、銭湯の支えになったりしてくれる人になるのかなとも思えてすごく希望があるんですよね。 ーこれまで決して追い風とは言えない状況の中で、何が活動を続ける支えになったのでしょうか? 「銭湯は絶対に良いものだ」と信じ切っていたところがあると思います。「これは絶対良いもので、みんなが入ることで絶対幸せになれるものだから、みんなに知ってもらいたい」「お風呂に入るという意味を抜いても、この場所は無くしたら多分生きていけない人がいるくらいの場所だ」という風に信じて止まなかったんですね。 だから活動を続けてこられました。そしてこれから先、過去の私のように絶望の窮地にいて生きていく気力もないような人たちがきっとここに来ると思うんです。そんな時、やっぱり銭湯は何か救われたり変われたりする力のある場所だから無くしちゃ駄目だとずっと思っていました。 ーものすごく今銭湯に行きたいです(笑)。ちなみに今後の活動のイメージや展望などはありますか? 今はもう銭湯をやる!となっているので、自分たちの銭湯の集客数をどうにかして増やしたいですね。近くに大きくてスーパー銭湯並みのハイスペック銭湯があるのですが、私が本来好きだった銭湯はそういうものではありません。誰かの心の拠り所になれて誰かの人生を幸せにできるような、そこがあったから自分は今すごい幸せに生きているよ、という風になれる銭湯をみんなで作っていけたらなと思っています。 ー銭湯が好きでよく利用するだけでなく、働き手として裏側も見てきている湯島さんが作られる新たな場所を楽しみにしています。最後にU29の世代にメッセージをお願いします! 私がやっている銭湯だけではなくて全然いいので、苦しいことや悲しいことがあった時に1人で悩んで絶望しないでほしいです。U29の方々はすごく展望があったり頑張っている方々がたくさんいらっしゃると思うので、息詰まることも大きい壁にぶつかることもあると思います。だけどその時に誰かと繋がれたり、絶望の淵から救ってくれたりする温かい場所があるので、よかったら近所の銭湯に行って、大きいお風呂に入ってリラックスしてみて、また新しい時代を作る担い手になってください! ーみなさんこれを機に銭湯に行きましょう!(笑)。 湯島さん、本日は素晴らしいお話をありがとうございました!今後の更なるご活躍を楽しみにしています! 取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:庄司友里(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

内気な学生が「なんでも屋」を創業!谷中駿太がコミュニティを重視する理由

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第346回目となる今回は、富士通株式会社に勤めながら困っているお年寄りと学生を繋ぐプラットフォーム「なんでも屋ナイス谷中」の代表として、パラレルに活動する谷中駿太さんです。 中学生でホームステイ、高校生でボランティア団体の会長、そして大学生で起業と華やかな経歴を持つ谷中さんですが、実は内気な性格で登校拒否をしていた時期もあるんだとか……。試練が訪れたとき、谷中さんはいつも「コミュニティ」の力に助けられていたのだそうです。 コミュニティに助けられ、徐々にコミュニティを作る側に。そんな谷中さんの半生に迫ります。 周りの大人に支えられた、シャイで内気な少年時代 ー大学在学中に起業し、富士通に就職した現在も会社員と起業家の二面性を持つ谷中さん。ユニークなキャリアを歩んで来られている印象ですが、幼いころの経験や家庭環境からの影響はあるのでしょうか? 家庭環境の影響は大きいですね。自分の父親はNPO法人を立ち上げて、現在は顧問をしているんです。幼いころは、父の仕事に着いていくことがよくありました。 そんな父の姿を見ていたからか、成長するにつれて自分も「自分自身が主体となって何かを成し遂げたい」という思いが強くなっていったんです。大学に入ったころ、ちょうど学生起業が流行っていて……。自分もチャレンジしたい!と思ったとき、父が背中を押してくれました。 世間的にはリスキーとされることでも、「失敗してもいいからやってみな!」と応援してくれる人が身近にいたので、チャレンジする環境としては恵まれていたのかなと思います。 ーお父さんの影響を大きく受けているんですね。谷中さんは「なんでも屋」を謳っているだけあって、コミュニケーション力がすごく高いと感じるのですが、昔からそうなのでしょうか? いえ、実は小学生低学年のころに保健室登校をしていた時期があるんです。いじめに合っていたとか、友達がいなかったとかではないんですけど……。 自分、元々はすごく内気な性格で、人とコミュニケーションをとるのが怖かったんですよね。場に馴染むのに人の倍時間がかかるタイプでした。小学校に入ると、突然「初めまして」な人達と無造作に教室に詰め込まれて、同じスケジュールをこなしていくじゃないですか。自由だった幼稚園までとは異なる環境に、なかなか順応できなかったんです。 ーすごく意外です……!どうやって乗り越えたのでしょうか? 当時の教頭先生が、とても寄り添って話を聞いてくれる方でした。学校が辛い、教室に入るのが怖いと話す自分に、 「無理に教室に行かなくてもいいんだよ」 「谷中くんが安心して、楽しめるのが一番だよ」 と優しく語りかけてくださいました。 教頭先生は、自分だけじゃなく両親にも根気強く話してくれていたみたいで。「周りに説得されたからしぶしぶ登校するのではなくて、自分から登校したいと思えるタイミングまで待ってあげてください」と言ってくれる大人が身近にいることで、当時はとても救われましたね。 教頭先生の言葉どおり、小学校3年生になるころには学校に慣れてきて、人との関わりが増える5、6年生のころには「学校って楽しい!」と思えるようになりました。 みんな違ってみんないい。これまでの価値観が変化したアメリカでの経験 ー谷中さんのことを理解して、タイミングを待ってくれる人がいたんですね。「内気な性格だった」とおっしゃる谷中さんですが、その後、中学生でホームステイのためアメリカに訪れていますよね。そこにはどんなきっかけがあったのでしょうか? 2、3歳のころから、多言語教室に通っていたり、実家がホームステイの受け入れを行っていたりしました。そんな環境で育ったので、あたりまえのように自分も中学生になったら海外に行くものだと思っていたんですよね。 でも、すでにお話したとおり自分はすごく内気な性格なので……。いざ現地に行くと、言葉もわからないし、食事も合わないしで最初の数日は散々でした。渡米して2、3日は食事が喉を通らなかったほどです(笑)。そんな自分に、受け入れ先の家族がすごく良くしてくれて。普段の生活のサポートの他、1週間ボーイスカウトの体験をさせてもらえる機会があったんです。 10歳から20歳くらいまでの学生が大勢集まって、自然豊かな環境で焚火をしたり、勉強をしたり。そんな中で「発信することの大切さ」を実感したんです。 ボーイスカウトに参加した当初、内気な自分は周りの目を気にして全然発言ができませんでした。でも、自分以外の学生は躊躇なく意見を発信する環境。徐々に、「何も言わないと自分だけ取り残される!」と焦りが出てきたんです。 それから少しずつなんですけど、自分の気持ちを発言するようにして……。たとえば、何して遊びたいか決めるときに「自分は鬼ごっこがしたい!」と発言するとか(笑)。些細なことなんですけど、自分の意見を遠慮なく言って、それが許容される環境にカルチャーショックを受けたんです。 それまでの自分は「みんな同じじゃなきゃいけない」と思っていました。だから、本当は行きたくない学校にも行かなきゃいけないし、行きたくないと思うのがそもそもおかしい。でも、それがすごく息苦しかったんです。ボーイスカウトの経験で「自分の意見を口にしてもいい。みんな違ってみんないい」と思えるようになりました。 1ヶ月という短期間のホームステイでしたが、間違いなく自分のターニングポイントとなりましたね。 高校生でボランティア団体の会長に就任。人との関わりの難しさ、大切さを学ぶ ーホームステイでの経験が谷中さんの価値観を大きく変えたんですね。それからしばらくして、高校生のときにボランティア団体の会長に就任されますが、その経験の影響が大きいのでしょうか? いえ、実は流れで会長に就任したというのが正直なところで……(笑)。もちろん会長の経験は、結果として今の自分を形成するうえで大事なものになっています! 自分が会長に就任したのは、小学生の課外活動のお手伝いをするボランティア団体。中学生にあがったころから、団体を運営する教育委員会から「会長にならないか」と声をかけていただいていました。 当時自分が住んでいたところは、神奈川県の湯河原町という田舎で、町民全体の運動会が開催されるような、横のつながりが強い町。そこで自分は小学生のころから地域の活動に参加していました。最初は親に連れられて仕方なく参加していたのですが、参加すると周りの大人たちが褒めてくれるので、それが嬉しくて部活のある日や休日にも積極的に参加するように(笑)。そして、自分の地域だけでなく、徐々に他の地域にも活動の幅を広げていました。 小学生のころは自分以外の生徒も活動に参加していましたが、中学生以上で参加する学生はほとんどいなくて。そんな自分を見て、教育委員会の方から「会長にならないか」と声がかかったのかなと思っています。自分の活動を見て、認めてくれたことは素直に嬉しかったですね。 でも、ボランティアと聞くと真面目で積極的な学生が参加している印象で……。自分は保健室登校をしていた時期もあるし、そもそも内気な性格。荷が重いなと思い断ってしまいました。 そんな経緯があるにも関わらず、中学入学当初から卒業するまでずっと声をかけ続けてくれて。中学卒業間際、「自分にもできることがあるのかもしれない」と会長にチャレンジする決意をしました。 ー高校生でひとつの団体の会長に就任するのは覚悟が必要だったかと思います。具体的にはどんなことをされていたのですか? 小学生を対象として、机に向かってする勉強以外の活動を幅広くサポートしていました。たとえば町の防災マップを作ったり、キャンプに行ったり。普段の教室とは異なる場所で同級生以外の人たちと関わり、さまざまな活動を通じて人間性を育くんでいく。そんな目的のもと運営していました。 団体にはたくさんの小学生が所属していて、自分は会長としてあいさつする場面がよくあったのですが、内気な性格なため最初はすごく緊張しましたね。お腹が痛くて途中で帰ったこともありました(笑)。 そんな自分をサポートしてくれる大人が何人もいて。人前で話す練習に何度も何度も付き合ってくれたんです。そのおかげで、内気な自分でも徐々に大勢の前でも話せるようになりました。 その他にも、団体のメンバー集めからチームのマネジメントなど、たくさんのことを経験しました。特にマネジメントは最初のころは全然できなくて、悔しい思いをたくさんしました。スキルをつけたくて、親から勧められたマネジメントに関するビジネス書を読んだり、大学の講義を聴講したり……。そうしているうちに、他の市と連携したプロジェクトを任せてもらえるようになったりと、少しずつですが活動の幅が広がっていったんです。 会長を始めた当初は、本当に何もできなかった。でも、たくさんの人に支えられて、やり遂げることができました。高校生ながら、とても恵まれた環境で経験を積むことができたと思っています。 草木が生い茂っている豪邸を見て、地域コミュニティをつくろうと思った ー充実した高校生活だったのですね。大学では経営学科に進学していますが、高校時代の経験は影響しているのでしょうか? ボランティア団体の経験を通じて、一人じゃ何もできないことに気が付いたんです。それで、コミュニティやマネジメントを学びたいなと思い、経営学科を志望するようになりました。 その後無事に大学に合格し、ベンチャーファイナンスのゼミに入ったり、インターンに参加したりしました。そのうち「自分でも起業したい!」と思うようになったのですが、お金もない、スキルもないという壁にぶち当たって……。 そこで思いついたのが「なんでも屋」だったんです。自分が通っていた大学の近所は、土地柄裕福なご家庭が多いところ。でも、草が生えっぱなしだったり、庭先の電球が切れていたりする家をよく見かけたんですよね。地元の湯河原町ではそういった家があると、近所の人たちがすぐにお手伝いに駆けつけるような横の繋がりがあったんですが、ここではそれがなかった。 それなら、自分がお手伝いしよう、コミュニティを作ろう!と思ったんです。ホームセンターで草刈りの鎌とちり取りを購入して「草むしりさせてください!」と営業をかけ始めました。これが「なんでも屋ナイス谷中」の始まりです。 ーすごい行動力ですね!その後「なんでも屋」はどのように拡大していったのでしょうか? なんでも屋を始めてしばらくして、近所の家の草むしりだけだと事業として成り立たないと気付いたんですよね。そこで、便利屋業を検索してヒットした会社に上から順番に電話をかけて「便利屋を始めたいので勉強させてください、弟子にしてください!」と頼み込んだんです。 ありがたいことに、そんな無鉄砲な自分の話を聞いてくれた会社がいくつかあって……。そこでたくさんのことを学ばせていただきました。 ひととおり修行した後は、お客様を増やすために早朝のお寺に行って、参拝に訪れる方々に名刺を配りまくりました。なんでも屋の主なお客様はご年配の方が多かったので、そういった方が集まる場所・時間をリサーチして集客したんです。 そのうち、困っているのは横の繋がりがないご年配だけじゃないことに気が付いて。周りの学生で「やりたいことや夢はあるけど、実現するお金がない」と足踏みをしている人がたくさんいました。 お金はあるけど日常生活で困っているご年配の方と、お金はないけど体力はある学生とのマッチングができれば、両者Win‐Winなんじゃないかと思い、大学2年の終わりに「なんでも屋ナイス谷中」を起業しました。 現在では、マッチングサービスの他にも営業支援や採用支援、そしてWeb制作なども行なっています。 「やりたい」を実現できる人を増やしたい ー現在谷中さんは、富士通株式会社で働きながら「なんでも屋ナイス谷中」も継続してパラレルな活動をされています。今後の展望はありますか? 2つあります。 1つ目は、やりたいことを実現している人が1人でも多い社会を作りたい。自分がやりたいことができていない状態って、ものすごく辛いと思うんです。自分の活動を見た人が「谷中のように、なんでも屋をやったり会社員をやったりと、自分の気持ちに正直に人生楽しく生きることもできるんだな」と思ってもらえると嬉しいですね。また、「やりたい」を実現できるような教育活動やサポートもしていきたいと思っています。 2つ目は、水のように生きたい。水って、四角い容器に入ると四角に、丸い容器に入ると丸になりますよね。そんな柔軟さを持ち続けたいなと思っているんです。また、一滴の水の威力は大したことがないかもしれないけど、それがたくさん集まると岩をも打ち砕く力を持ちます。水のように、いま自分が置かれている環境の中で、そのときにできる最大限の力を発揮できるようにこれからも精一杯努力していきたいですね。 内気で登校拒否の経験もあった自分でしたが、コミュニティの力に支えられながら少しずつできることを増やしていった結果、現在のようにやりたいことを全力でやって「人生楽しい!」と思える日々を送っています。 今度は、自分が困っている人を支えられるような大人になりたいですね。 ー谷中さん、ありがとうございました!谷中さんの今後のご活躍も楽しみにしております。   谷中駿太さん(Twitter) 取材:山崎貴大(Twitter) 執筆:仲奈々(Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

元ゼクシィ編集長が語るキャリアと子育てを両立する3つの思考法

「17時に帰る編集長」というコピーのもと、働く女性のロールモデルとして広く話題になった元ゼクシィ編集長、伊藤綾さん。 ゼクシィ編集長を退任された現在も、子育てをしながら3社で活躍する「パラレルママワ―カ―」というスタイルで、新しいロ―ルモデルとして大きな注目を集めています。 しかし現在に至るまでには、寿退社によるキャリアのリセット、専業主婦から契約社員への挑戦、育児休暇を経た職場復帰など、女性ならではのさまざまな苦労や葛藤があったといいます。 そんな伊藤さんに、女性の働き方、特に仕事と育児の両立について語っていただきました。 キャリアのスタートは、20代後半だった ―現在のお仕事などについて教えてください。 現在は小学校5年生の双子を子育てしながら、3社で パラレルワ―クを行なっています。リクル―ト、医療系企業の人事、教育、広報などを掛け持ちしています。 ―伊藤さんは専業主婦をされていた時期があったという、リクル―トの中ではかなり珍しいタイプの方です。 たしかに、すごく珍しかったと思います。リクル―トに入社する前は出版社に勤務していました。でも、24歳で結婚したことを機に退社。夫の転勤について行くために仕事を辞めて、専業主婦になったんです。 その後東京に戻ってから、リクル―トのゼクシィ編集部に契約社員で入りました。そういった経緯があるので、今のキャリアのスタ―トは27、8歳の頃なんですよね。 20代後半からのキャリアリスタ―トは、かなり大変だったのではないでしょうか? そうですね。やっぱり、毎日必死でした。スタ―トの遅れを取り戻すために、かなり忙しく働いていましたね。 ―しかし、苦労して築き上げたキャリアを、妊娠出産を機に「もういいかな」と手放そうとしたとか。 キャリアのスタ―トは遅かったのですが、30代になって子供を妊娠した時には編集長になっていました。編集長にまでなったし、キャリアはこれでもういいかな、って。 ―「キャリアはもういいかな」と考えた理由は何だったんですか? そんなに明確な意思を持っていたわけじゃないんです。「せっかく専業主婦から復帰したのにもったいないよ」という言葉もたくさんいただきましたが、単純に「私には子育てしながら仕事なんて無理! そんなス―パ―マンみたいにできない」と思ったんです。 かなり忙しく働いていたので、子育てをしながら出産前と同じ仕事をするイメ―ジがまったく持てなかったんですよね。 毎日残業が当たり前で、少なくとも保育園のお迎えに間に合うぐらいの時間に仕事が終わるなんて、当時はとてもイメ―ジできなかったです。 花嫁さんたちの「その後」を考えるようになった ―ご出産される際も、相当大変だったとおうかがいしています。 子供が生まれるときに、産褥性心筋症という心不全の病気になってしまったんです。ちょっと重い状態になっていて、CCUっていうICUみたいなところに入っていました。かなり体調が悪くて、電話にも出られないほどだったので、「自分はもう二度と仕事はできないだろうな」と感じました。 ―しかし、その後に再び職場復帰され、ゼクシィ編集長として再度ご活躍されています。二度目の職場復帰を思い立ったキッカケは何だったのでしょう? 出産後、育休生活に入ったんですが、やっぱり育児がすごく大変で。ある日、体調があまり良くない時のことです。子どもの夜泣きをあやしながら、朦朧とする意識の中で鏡か窓に映る疲れた自分の顔を見て、ハッとしたんですよ。今まで私がゼクシィ編集長として関わってきた花嫁さんたちって、今どうしてるんだろうなって。 もちろん育休に入る前も、いつも一生懸命、花嫁さんと花婿さんのことを考えていました。ゼクシィは結婚式について取り上げる媒体だったので、どういう結婚式なら喜んでもらえるだろうか、良い結婚式って何だろう、とか。でも、鏡で自分の顔を見た次の日から、結婚式の後のこと、「その後、花嫁さんや花婿さんは幸せにしているのかな?」ということが気になり始めたんです。 ―ご自身の育児経験をキッカケに、ゼクシィの捉え方が変わったんですね。 もちろんお子さんがいる人いない人など、結婚後のスタイルは様々です。でもどんなスタイルであっても、結婚式の後、花嫁さんや花婿さんがどうやって自分の人生を生きていくのか。そこまで考えた雑誌作りをしなければならないと、遅ればせながら気がついたんです。 そして同じように、今ここで赤ちゃんを抱いている私は、どういうふうに自分の生活をつくっていくのか、どんなふうに人の役に立てるのか。そんなことを真剣に考えているうちに、「もう一度やってみよう、現場に戻って育児との両立も挑戦しよう!」って思ったんです。 自分の時間を予約する意識を持とう ―そうして職場復帰されたわけですが、やはり最初は大変だったのではないでしょうか? 最初は3時退社の時短勤務からスタ―トしたんですが、それでもわたしには結構厳しかったですね。時短勤務って、もっとゆっくりできるかと思っていたんですが、全然そんなことはなかったです。 仕事が終わって家に帰っても当然、休まることはありません。トイレにゆっくり入りたい、朝までゆっくり寝てみたいと、何回思ったかわかりません。 ―時短勤務という、限られた時間で成果を出さなきゃいけないのはプレッシャ―だったと思います。短い時間のなかで成果を出すために、意識していたことや努力されていたことはありますか? 意識していたポイントが3つあります。1つは、いかに業務を効率化して、家事や働き方をコンパクトに変えていくかということです。 たとえば、朝の段取り。こっちの廊下でこの洗濯物出した帰りに、必ずこのブラシを取ってくるとか、そういうことを常に考えるようにしていました。 その際に参考にしていたのは、佐々木かをりさんから教わった「自分の時間を予約する」という考え方です。自分の時間は自分で確保する。そのために、まずは会議の時間を全部半分にするところからスタ―トしました。定例会議のように色々な人が入る会議は無理ですけど、私が主催の会議はできるかぎり時間を半分にするようにしたんです。 ―1時間やっていた会議を30分にするということですか。 はい、まずは原則会議時間を半分にしました。あと「予約する」という観点で言うと、色々なアポイントメントの40分前には自分の時間を予約するようにしていましたね。 ―なぜ40分なんですか? 約束の30分前に着くと、どうしてもバタバタしちゃうんですよね。でも40分あれば、たとえば隣のカフェとか公園に行っても、30分は時間を確保できるんですよ。30分あれば、本を読んだり、ぼ―っとしたり、プライベ―トなメッセージを返したりできる。そういう時間を確保できるようになるだけで、かなり働くのが楽になるんですよ。 時短に不可欠な「論理的思考」 ―非常に実践的なノウハウですね。他に意識されていたことには何があるのでしょう? 2つめのポイントは、効率化するだけではなく、仕事自体のスピードを上げること。仕事の「成果」を最短で最高のものにする道のりをいつも考えることです。そしてそのためには「論理的思考」をできるだけ高いレベルで習得すること。イシューは何か、その解は何かを順序立ててクリティカルに思考する癖をつけていくことが大切ではないかと思います。 出産するまでは、そういうことはあまり学ばなくてもよい、と思っていた節がありました。たとえば、何かの合意を取ったり、決めるたりする時には、感覚的に「こういうものなんです、今の花嫁さんは」とか、「これがヒットすると思います」みたいな説明をするのみ。今思えば本当にひどい(笑)。 でも限られた時間で働こうと思ったら、こういう勢いと熱意に任せた方法はなかなか使えないんですよね…。もちろんテクニック的な時短ノウハウも大事ですが、その根本に論理的思考が備わっていると、結果として生産性も高まる。これはトレ―ニングしなきゃいけないぞ、という思いが出てきて、大変遅ればせながら頑張りました。 ―具体的には何を頑張ったんですか。 研修を受けたり、勉強に行ったり、本も読みましたし、仕事の場で実践しては上司からフィードバックを受けたり。他の部署の、自分とは全く違う強みを持った方にメンターになってもらったり、あらゆることをしましたね。 ママは時間がないので、どうしても時短テクが気になります。でも本当に大事なのは、それだけじゃないよ、と今は思います。 出産や育児はハンディではない ―出産を経て、仕事に対する考え方がガラッと変わったんですね。 変わりましたね。でも一番大切なのは、3つめのポイント。「時間的はハンディを負った」という意識をとにかく捨て去るということです。  ―呪われた存在だって思わないことですね。 そうです。どうしても産休明けに働こうとすると、「昔の自分はもっと働けたのに、今は自由が利かない」とか、「これもやらなきゃ、あれもやらなきゃと」みたいに、色々とネガティブに考えてしまう。 でも、そういう考えにとらわれていると発想が豊かになりづらい。そうではなく、そうした状況にあることを1つの「機会」として捉えることが大切です。 ―具体的には、どのように考えれば良いのでしょうか? 私の場合は育児の経験を経て、結婚式だけでなく、花嫁さんたちの「その後」を考えるようになりました。結婚式当日が素敵なことも大事だけれど、「結婚式以降も素敵でいるためにはどのような式がよいのだろう」といったように、これまでとは違う視点で考えられるようになった。 もちろん、経験に関係なく多様な視点を持てることが大切だし、育児以外の経験もみんな、自分にとってきっと意味がありますよね。私も生活の変化によってそういう考えを得る機会を得たのだと考えました。 出産以前と全く同じ働き方はできないかもしれないけれども、代わりに得られるものも沢山ある。出産前から変わることは、決してハンディではないんです。 「自分の時間」が仕事にもプラスになる ―とはいえ、伊藤さんのような働き方は誰にでもできるものではない。そう感じてしまう人も多いのではないでしょうか? そう思われることがないように気をつけるようにしていましたね。当時は2010年ぐらい、今ほど多様な働き方に対する理解があるわけではありませんでした。 「(伊藤さんは)ス―パ―ウ―マンだからできる」というふうになってはいけない。色々な選択肢がある中で、こういう働き方もあっていいんだって思ってもらえるように意識していましたね。 ―具体的には、どのような取り組みをされていたのですか? 当時みんなとやっていたのは、「5時に帰る日」決めですね。ママ社員だけじゃなくて、編集部のあるチ―ムで、必ず5時に帰る日を作ることにしたんです。 「きっといいことあるから、強制はしないけどやってみるといいよ」ってアドバイスして。メンバ―が「じゃあ、ちょっとやってみます」と、予定をブロックして、5時に帰っていました。 ―おもしろいですね、「5時に帰る日」。 結果として、みんながそれぞれ自分の時間を作るようになったことで視野が広がり、色々なアイデアが出てくるようになりました。 すると、トライアルをしたチームだけではなくて、編集部全体の雰囲気が変わってくる。 当時ヒットした、しゃもじや婚姻届などを付録として付けるというアイデアは、こうやって色々な生活を見て、色々な人と話をする時間を設けるようになったからこそ生まれてきたアイデアなんだと思います。 それに、「5時に帰る日」を設けるようになってから、みんなでユーモアを大切にした雑談が増えたり、部内で優しくできるようになったようにも感じます。時間を使って色々な人に会うようになったことで、多様性を受け入れやすくなったのかもしれませんね。 ―自分の時間を持つことが、結果的に仕事にもプラスになる。 職種にもよりますけど、そう信じていました。時間が物を言う仕事もあるので一概には言えませんが、心持ちが変わることで成果が変わるということを実体験しましたね。 「働き方のバトン」をつなぐ ―そうしてゼクシィで活躍された伊藤さんですが、現在は一社だけの会社員として週5日働くという働き方をやめ、パラレルワ―クを実践されています。 40代になって、子どもが小学生になって大きくなって、私もすごく悩んだ。子育てしながら働くことに対する意識が、またちょっとずつ変わってきたんです。 ―よく、「子育ては3歳までが大変」と言われますけど、大変の質が変わっていくだけで、いくつになってもその都度の大変さがありますよね。小5は小5なりの大変さがある。お受験だとかなんとか。 そうですね。きっと中、高、大人になっても別の大変さが出てくるでしょうし、そのうち親の介護などの問題も出てきます。そうしたことを考えたときに、さらにもっと色々な選択肢があるといいよね、と思ったんです。 ここまでも頑張ってきたけど、もっと挑戦してみてみたいなって。さっきの3つめのポイントにつながりますけど、これも「機会」だと考えようと思いました。 ―ハンディじゃなくて機会。とてもいい言葉ですね。 今でこそ「働き方」の多様化が推し進められていますが、これって今までに多くの方が様々な挑戦をして、「働き方のバトン」を繋いでくれた結果だと思うんですよ。 特に女性の働き方に関しては、出産しても辞めない、管理職になるなどの挑戦を多くの方がしてくれた、本当にいろんなバトンが渡ってきた結果として、今がある。 なので私も、どんなバトンを渡せるかな、と考えるようにしています。実際にできているかわかりませんが、より良い形でバトンを渡せるようにしたいですね。 ―働き方のバトン、素晴らしいと思います。どんなバトンを渡したいかというイメ―ジはありますか? 私の今までの取り組みって、どちらかというと時間面のチャレンジだったんですよね。いかに時間を短縮して、育児と仕事を両立させるかという点からの挑戦だった。でもこれからは、もっと色々な仕事をするとか、時短以外の部分で選択肢をたくさん提案できるようになりたいなと考えています。 「早く帰る、早く帰らない」という選択以外の選択肢。すでに広がりつつありますが、これをもっと広げていきたい。私の「パラレルママワ―カー」というスタイルが、バトンとして誰かの役に立つと嬉しいなと考えながら働いています。 (取材:西村 創一朗、編集:大沼 楽)

「いい過程がいい成果を生む」ー 複業で月250万円稼ぐ國富竜也の成功の秘訣

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第27回目のゲストは、Webマーケティング会社にてWebメディアを運営されている國富 竜也(くにとみ・りゅうや)さんです。 新卒で銀行に就職するも、一年半で辞めてWebマーケティング会社へ転職。しかし、ハードな銀行員生活のかたわらで始めた複業が転職に活き、その転職先での学びを複業に活かすという好循環を生み出している國富さん。 「複業したいけど、どんな仕事をしたらいいか迷っている」「どうしたら毎日ワクワクしながら働けるかわからない」という方へ、國富さんご自身の経験を踏まえたアドバイスをいただきました。   長期インターンを経て、働く意味を見つけた ― 学生時代に長期インターンをされていたとのことですが、きっかけは何だったんでしょう? 小さい時から満員電車で生気のないサラリーマンを見てきて、「なぜ人生の大半を仕事というものに費やさなきゃいけないんだ」「なぜ働かなきゃいけないんだ」と、働く意味が見出せなかったんです。そこで、実際に自分で体験して意味を見つけようと思ったのが、長期インターンを探すきっかけでした。 ― なるほど、それでウォンテッドリー株式会社(以下、ウォンテッドリー)の長期インターンへ。この会社を選んだのはなぜですか? もともと、ウォンテッドリーのサイトでインターン先を探していたんですよ。その中で、たまたまウォンテッドリー自体の募集要項も見ていたら「シゴトでココロオドルひとをふやす」というビジョンが掲げられていて。それを本気で考えている人たちと一緒に働けば、何のために働くのか自分なりの答えが出せるかもしれない、と思い応募しました。 ― インターンでは、実際にどんな仕事をされたんですか? ウォンテッドリーのサービスを利用している法人顧客に対し、求人への応募数を増やすというインサイドセールスの仕事をしていました。ただ、すごく忙しかったし、自分に求められる価値も高くなっていったので、自主的に土日も仕事に関することをやるようにしていましたね。 ― 10ヶ月間インターンとして働いてみて、「何のために働くのか」という答えは出ましたか? 仕事って自分の義務だと思っていたんですが、人生の目的を達成するための手段として仕事を活かすべきなんだなということに気付けましたね。それまでは仕事=目的だと思っていたんですよ。 それに、二つの大きな学びを得ることもできました。一つ目は、「いい成果はいい過程を産む」ということ。結果は全て過程が生み出すもので、その過程に自分の本質的に好きなものがなければ仕事で心躍らせることは無理だし、いいパフォーマンスを出すこともできないんですよね。 二つ目は、「自由と自立のため」に仕事をするのだということ。とにかく自由に生きたいという人生の目的を達成するための手段として、仕事を活かすべきなんだと学ぶことができました。   ミスマッチに苦しみながらも複業のきっかけを得た銀行員時代 ― 大学生のときに長期インターンを経験した人は、卒業後もベンチャーに就職することが多いと思うのですが、國富さんが銀行への就職を選んだのはなぜですか? 自分の金融資産をプロ目線でコンサルティングできるようになりたかった、というのが大きな理由です。小さい頃から、お金に関するリテラシーを学ぶことが人生を左右するんじゃないかと漠然と思っていたんですよ。そこで、金融に関するあらゆる事を幅広く学ぶために、業務内容の幅が広い三井住友信託銀行に就職することにしました。 ― 実際に入社してみてどうでした? 人によって合う合わないもあると思いますが、かなりハードでした。通常勤務に加えて資格の勉強や飲み会、週末のボランティア活動など多忙で、金銭的な負担も大きかったんですよね。仕事を楽しめている人はほとんどいなかった気がします。同期400名のうち、恐らくですが、3年で3割くらいの人は辞めているかと思います。あくまで肌感ではありますが、辞めた人の話を同期から聞くとそんな感じですね。僕も1年半ほどで退職しましたし。 ― どんなタイミングで退職を決意したんでしょう? ブログという複業を見つけることができ、月5〜7万円くらいは稼げるようになっていたので「辞めても安心だな」と思えるタイミングでした。ブログは自分にとって好きだな、継続できるものだなと感じていて、ウォンテッドリーで学んだ「いい過程がいい成果を生む」という学びともマッチしているので結果も出せそうだと考えたんです。また、Webマーケティング会社に内定が出たタイミングでもありました。 ― 辞める前にいろいろと準備をされていたんですね。退職する少し前から複業を始めていたとのことですが、多忙な毎日の中でどうやって複業の時間を捻出したんですか? 最初は複業にあまり時間は割けなくて、ネットで調べて手探りで試していたという感じです。空いた時間で1ヶ月だけやってみる、ということを繰り返していました。はじめは複業にフルコミットしていませんでしたね。 ― 銀行で働く中で、複業をやろうと思うようになったきっかけは何かあったんでしょうか? 銀行員時代の経験を通して、「人生100年時代を生き抜くのはとても厳しい」ということをロジカルに学んだんです。人生100年生き抜くためには、最低でもおよそ2億円は必要になります。それに加えて自分のやりたいことや夢のために必要な金額を上乗せしていくと、もっともっとお金がかかる。税金や社会保険料もどんどん増えていくので2億どころじゃ済まなくなると思います。でも収入は逆に低くなっていく。 この事実を知って「これは月給25〜30万円どころじゃ生きられないな」という危機感を覚え、何とか稼がなきゃいけないと思ったのが複業を始めるきっかけでした。   人生の目的が明確だからこそワクワクして働ける ― 銀行を辞めたあとは、複業のブログを活かせるWebマーケティング会社に転職。まさに転職と複業の掛け算ですね。とはいえ、職務経歴書に書けるほどの複業の実績がない状態で内定がもらえるものなんでしょうか? 内定をもらえたのは、年齢が若かったこともあるかもしれませんが、複業でポートフォリオを作っていたのが良かったと思います。ブログ運営という実績があったので、ある程度の土台はあると評価してもらえました。 また、採用担当者に「業務とのミスマッチが起こらなそうだな」という判断材料を渡せたのが良かったかな、と。半年ほどブログを書いて月数万円稼げたという事実が、ブログが好きであることの根拠となりました。だから、大きな実績がなくても転職できたんだと思います。 ― 世の中にはいろいろなWebマーケティングの会社がありますが、その中でも今の会社を選んだのはどうしてだったんですか? 僕の人生の目的は「後悔しない人生を送りたい」というものなんですけど、この会社ならその目的を叶えるためのスキルを身につけられそうだなと思ったんです。 振り返ってみると、今まで後悔したのは、やりたくないことばかりしていたときだったんですよね。なので、後悔しないために「やりたくないことリスト」を作りました。じゃあそのリストを達成するために必要なスキルを洗い出してみると、ライティングスキルやWebマーケティングスキル、プログラミング、動画などのスキルだったんです。 それらのスキルを最も学べる会社、業界ってどこだろうと考えたとき、今の会社に行き着きました。ここにはGoogle出身者がたくさんいて、さらにマーケティングや広告運用に深く関わっていた人もいたので、その人たちと一緒に働けば、自分が求めているスキルを一番身につけられると考えたんです。 ― 「やりたくないことリスト」を考えるのは面白いですね。國富さんのリストには、具体的にどんなことが書かれているんですか? 例えば世界一周できない人生は嫌だ、満員電車に乗るのは嫌だ、自分で出社するペースを決められないのは嫌だ、場所に縛られる働き方は嫌だ……といったことを書いています。やりたいことももちろんありますが、やりたくないこともたくさんあるんですよね。 ― 人生の目的を決めるとき、先にやりたいことを決めるという考え方もありますが、その逆のアプローチもあるんですね。 地図を持った宝探しのイメージですね。宝は自分のやりたいことで、地図の一点にしか宝はない。 いきなりそれを探すよりは、やりたくないことを見つけていってバツ印をどんどん付けていくわけです。 やがてバツ印じゃない場所が小さくなって、自分が心からやりたいと思う選択肢しか地図に残らなくなるので、僕はそういう視点でやりたいことを見つけていきました。 ― なるほど、わかりやすい例えですね。今の会社に入社してからは、どんな業務を担当されているんですか? メディア運営です。この部署に配属させてほしいとしっかり伝えて配属してもらいましたし、複業で適正をチェックしていたので一切ミスマッチがなかったですね。毎日仕事に行くのが楽しみで、朝も早く起きれています。日曜日は、次の日が待ち遠しいくらいです。 ― 銀行員時代とは大違いですね。なぜ仕事がそこまで楽しいと思えるんでしょう? ひとつはなりたい自分を明確にしているからです。こういう人生にしたいと決めた瞬間に、全て逆算できるようになりましたね。目標やゴールを決めることで、熱中できる毎日を送れるんです。もうひとつは、好きなことをやってワクワクできていることかなと。この二つが日々ワクワクして生きていられる要因になっていると思います。   自分に合った複業探しのコツは、挑戦して好きかどうか確かめること ― 転職して1年が経ち、複業にも相当良いシナジーがあったんじゃないでしょうか。 本業全てが複業に活きていると思います。まずは会社で得た知識・スキルをそのまま複業に活かせていて、フリーランスとして働いていたら得られないようなものを、優秀な同僚から得られています。 また、本業を通して出会った人脈も活かせるんです。SNSに専門性を持っている人やエンジニアとして専門性を持っている人などいろんな専門家と繋がることができて、複業でお世話になるきっかけを作ることができました。 さらに、個人ブロガーだったら月10万PVくらいのWebサイト運営データしか手に入れられないところ、本業では月30〜100万PVのWebサイトを運営しているので、個人では入手できない規模のデータが得られるというのも大きいですね。 ― 1000人1000通りの複業がある中で、國富さんはブログを選んだわけですよね。自分に合った複業を見つけるための方法論はありますか? 一番大事なのは、とにかく色々なことに挑戦して色々な複業をやってみることですね。まず、複業の全体像を知ること。「複業やるならブログだ」と決めるのではなく、どんな複業があるのか範囲を広げてリストアップしてみるんです。 やりたいことって自分の知っている範囲からしか選べないので、まずはその範囲を広げるためにネットや人を通じて視野を広げること。次に、その中から興味があることをピックアップしてみる。そして最後は、とにかく挑戦してみる。この3つのステップが大事だと思います。 実際にやってみないと自分が好きかどうかわかりませんし、「いい過程がいい成果を生む」と思っているので、過程でミスマッチが起きていないか判断するためにもとにかく挑戦してみるんです。 ― まずはやってみて、ワクワク感や自分との相性を確かめてみるのは大事ですよね。自分のワクワクに気付くコツはあるんでしょうか? 僕の場合、気付けば毎日ブログを書けるようになっていて、一日中ブログを書いていることもあったんです。そのときに「自分はこれがすごく好きなんだ」とわかりました。そういう、日常が劇的に変わった瞬間を見逃さないことが大事ですね。 ― 國富さんが掲げる「後悔しない人生を送る」という人生の目的のために、チャレンジしたいと思っていることはありますか? 100個くらいあるんですが、まずは海外旅行に行きたいです。日本一周はしていたんですが海外旅行はなくて、次は世界中の全ての国に行こうと考えています。まず2020年中に4つ行きたい国があるので、それらは全部期限を決めているんです。あとは、複業で月700万円稼ぐことや親に仕送りするなど色々あります。 ― チャレンジに期限を決めているのは素晴らしいですね。最後に、U-29世代の人たちに伝えたいことはありますか? やはり、「いい過程がいい成果を生む」ということを伝えたいですね。本質的に好きなことが何かというのを明確に言語化して、その過程がある複業を選ぶことが重要だと思います。それが分かるまでは「どうしたら成果が出せるのか」といったことばかり求めていましたが、好きなことであれば全部後からついてくるんです。 仕事となると給与や条件をベースに探してしまいがちですが、僕は実際に好きだからこそ複業と合わせて月250万円稼げるようになったので、ぜひ「自分の本質的に好きなものを探す旅」に出てほしいなと思います。その旅でいろんなことに手を出して、いろんな事に挑戦してほしいですね。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる ===== 取材:西村創一朗 写真:橋本岬 文:品田知美 編集:ユキガオ デザイン:矢野拓実

【徹底した分析と集中】トップ就活チャンネルMC・長内孝平が、公務員志向から起業家になるまで 

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第51回目のゲストは人気YouTubeチャンネル「トップ就活チャンネル」”MCおさ”こと長内孝平さんです。  卒業後、伊藤忠商事で働く傍ら、YouTuberとして活躍。子どもができたことを契機に、退職・起業・移住を実施。現在はチャンネル登録者数33,000超えの「トップ就活チャンネル」、73,000人超えの日本最大級のExcel専門チャンネル「ベスト転職チャンネル(おさとエクセル)」を運営している。 動画プラットフォームを初期から開拓し、起業までした長内さん。一貫してブレない行動の裏には、大学時代からの分析力の成果と、そこから導き出された一極集中型の戦略がありました。 もともとは公務員志向だった。起業家精神が養われた留学 ー本日はよろしくお願いします!大学時代のお話からさかのぼって伺いたいのですが、どんな生活を送っていらっしゃったんですか? 大学は、神戸大学に通っていました。主に留学生支援のボランティアと、外交官になるための勉強に時間を割いていましたね。 父親が国家公務員だったことが影響して、ずっと国務に仕えることを考えていたんです。   ー国家公務員!いまとはずいぶん違う進路ですね。方向転換したのは明確なタイミングがあったのでしょうか?  これ、といったライフイベントがあったわけではなくて、自分の中でずっと考えていたことの先に「起業家」という選択があったという感覚ですね。 当時、自分なりにスティーブ・ジョブスや孫正義など、成功している人を分析していたんです。みんな共通して、一点突破しているんですよね。選択と集中がとにかくうまい。そのストーリーを自分に当てはめて考えてみたんです。 経済学部でファイナンシャルを勉強していて、数字の分析に強い。なおかつ、コミュニケーション能力が高いという自己評価をしています。この自分の強みを活かすとしたら、公務員よりも起業家のほうがスピーディーに社会にインパクトを与えられるなと思ったんです。   ーそれは大学時代のいつの頃のことでしょうか? 大学3年の冬から大学4年の春にかけてくらいでした。それで、もともとは外交官になるから留学はしなくても…と考えていたんですけど、起業家になるなら学生のうちに、と思って休学して大学4年の夏からワシントンへ留学をしました。 ー留学でどんな経験を得られましたか? 私費留学だったので、周りに日本人が多かったんです。その人たちが、起業家精神が強かったというか…自分でメディアを運営して、収入を得ているような働き方をしていました。それまで、僕、ワードプレスすら知らなかったんです。そこで「ビジネスってこうやって作るんだな」というのを見て学びました。 ライターとしてコンテンツ制作の仕事をもらいながら、手を動かして経験を積みました。実際に、現地でできた友人とメディアの立ち上げもして、留学についての情報発信もしていましたね。   ーそれは思わぬ収穫でしたね。ほかに学んだことはありますか? 1年弱留学をしていたんですけど、一番の収穫は「キャリアは流動的なもの」という考えを知れたことです。アメリカと日本だと、キャリアに対しての感覚が全く違うんですよね。転職は当たり前だし、フリーランス文化が強い。そういう環境に身を置いて、なおかつ留学先で起業家の講演に頻繁に触れられ、より強く「起業家になろう」という気持ちが高まりました。   就活は相手のニーズに合わせて自分をパッケージ化すること ーそんなふうに起業への意識が高まっている中、就職をしたのはどうしてですか? 帰国してさらに休学期間を延長し、1年間は学生起業に挑戦したり、ひたすら本を読んでインプットしたりする時間にあてることにしました。ビジネスも割とうまくいっていたんです。そのタイミングで、尊敬している先輩に「せっかくうまくいっているのなら、もっと哲学を深めたら?」とアドバイスをいただきました。 そこから、哲学書を100冊ほど、3か月かけてひたすら読む中で、精神的に病んでしまって…。ある哲学者の言葉に傾倒して、それまでの人生が、虚無なものに思えしまうように。いま振り返れば、人生を豊かにしてくれたとも捉えられますが、あの期間はどん底でしたね。   ーそんな時期があったんですね。どうやって乗り越えたんですか? その頃は盛岡に住んでいたんですけど、わざわざ同意者と話したいがために東京まで行くこともありました。そうやって人と会っていたのは、よかったんじゃないかなと思います。孤独になっていなかったことから、そのうち気持ちも回復してきて。 親に心配をこれ以上かけたらいけないな、と思って就職活動を始めました。   ー伊藤忠商事に就職したのはどうしてですか?総合商社に絞っての就職活動だったのでしょうか? いえ、そういうわけではなく、単純にあまり時間をかけていなかったので、ESを提出できたのが7社しかなかったんです。その中で、一番最初に内定をくださったのが伊藤忠商事でした。それが決め手ですね。 就職活動は、相手が求めているものを的確に把握し、そこに合わせて自分をうまくパッケージ化させることが大事です。総合商社の場合は、ガッツやリーダーシップを求めているので、それに合わせて自分の経験をうまく伝えることができたので、内定をいただけたと思っています。   保守的にならない。「今、やるべき」と思ったらチャンス ーExcelの使い方を分かりやすく伝えるYouTubeチャンネル「おさとエクセル(現:ベスト転職チャンネル)」はどのタイミングで始めたんですか? 卒業前から始めていました。伊藤忠商事は副業ができないので、収益化は全くしておらず、ただただ人の役に立てばいいなという気持ちでコンテンツ作りをスタートしましたね。 また、自分のそれまでの経験から、動画を通じて学ぶことの効率の良さを体感していたんです。それまでExcelを動画で学ぶというサービスがなかったので、マーケットとしてもこのコンテンツは伸びると確信をしていました。    ー会社員生活はどうでしたか? 関わったプロジェクトは様々でしたが、一貫して経理周りを担当していまいた。賢く、素敵な方々に囲まれての仕事は、順風満帆なものだったと思います。その一方で、やりがいを見出すことは困難でした。自分の中で、ライフワークという位置づけに留まっていたんです。 大学時代から、自分のミッションを「いい世の中を作る人を増やす」と掲げていました。けれど、実際は財務や経理、会計の仕事ばかり…。生きるための仕事でしたね。 ーYouTubeの方は、両立してどのくらい活動していたんですか? 3年4か月の会社員生活のなかで、公開できたコンテンツは20本ほどでした。仕事前に早起きをし撮影して、土日に編集…という時ももちろんあったものの、もっとやろうと思えば100本は作れたと思います。そこまで根詰めてやっていたわけではないですね。 それでも、YouTubeはストック性が高いプラットフォームなので、自然と影響力は伸びていきました。それが成熟したタイミングで独立しました。   ー独立したひとつの契機として、子どもが生まれたことも大きかったと聞いています。子どもができると多くの人は保守的な選択をしそうですが…。 逆に、子どもがどんどん大きくなるにつれて、リスキーなことはより避けるようになると思うんです。もちろん、「独立していいんだろうか…」と迷うときはありました。でも、「今やらずに、いつやるんだ」って。 YouTubeのマーケット環境を俯瞰しても、YouTuberとしてのポジショニングも確立していました。年齢的にも脂がのった時期で、「今だな」と確信して、会社を辞めてYouseful株式会社を創業するに至りました。   限られたリソースは、やるべきことに全投下せよ ー会社員としてずっと青山という都会で働かれていたのに、一転、活動の拠点を青森に移されたのはどうしてですか? プライベートとビジネスを両立させるための最適な選択が「青森に移住」だった、それだけです。 現在、青森で両親のサポートを受けながら子育てをしています。そうすることで、ビジネスの時間をしっかり確保することが叶っているんです。僕の仕事は動画を撮ることで、場所はどこだって構わないんですよね。 経営者って、やることを列挙するとキリがありません。でも、自分のリソースは限られている。どこに費やせばレバレッジをかけられるかを見極めて、そこに全リソースを投入できる人が成功を納めます。僕にとって、やるべきことは「動画を撮る」だけです。   ーなるほど。一極集中したことで、チャンネルを伸ばすことができたんですね。 この一極集中する場所は独立する際にとことん考えました。そして明確化されたことによって、人と会うことさえもノイズになったんです。東京にいれば刺激を与えてくれる人たちに出会うことは容易です。でも、いまの僕には必要ない。そうなると、東京に住み続けるメリットは消え、むしろ仕事の時間を増やすことができる青森での環境の方が魅力になったんです。 現在は、組織作りも完成していて、編集も、メディアのマネージャーも、演者も、複数人体制で回しています。そうすることで、純粋に僕は動画を撮ることだけに集中できる。これが他の追随を許さない要因となっています。   ー今後はどのようにビジネスを展開させていくご予定ですか? いままで、就活や転職といった働き方においての「点」を抑えるコンテンツを作ってきました。今後は、さらにスキルアップという軸を加えて、大量にコンテンツを作っていく計画です。 追っているのはチャンネル数でも、再生時間でもありません。視聴者に最高のUXを提供すること。そこを変わらず大事に、継続していきます。   ー本日はありがとうございました!   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる   === 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

自己理解研究家・八木仁平が語るやりたいことの見つけ方

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回は(株)Meee代表取締役の八木仁平さんにお話をお聞きしました。 大学時代からブロガーとして活躍されていた八木さんは自身の経験から自己理解プログラムを開発し年間200人のやりたいこと探しに関わっているそう。そんな話題の自己理解プログラムの詳細や、やりたいことを見つけるための3つのポイントについてお話いただきました! バイトをクビになったからブロガーになった ー早速ですが八木さんが自己理解に興味を持つようになったきっかけについてお話いただけますか? 社会でどう働いて生きていこうかと大学時代に考え始めたのが自己理解について考えるようになった初めのきっかけです。 というのも、19歳の時にコンビニでバイトを始めたんですが、思ったより覚えることが多くて大変でバイトをやる意味を見出せませんでした。本当にモチベーションが低く、バイト中ずっと時計を眺めていたりしていたんです。するとバイト先の店長に「来月のシフトは出さなくていいよ」と言われ、実質クビになりました。その後もバイトはどれも長続きせず、お金がやばいと思ったら単発のバイトに入るの繰り返しでした。 そこで、バイトをせずに収入を作る方法をいろいろと模索したんです。せどりをしてみたり、airbnbをしてみたり、YouTubeでゲーム実況をしてみたり…ちょうどその頃、イケダハヤトさんがブログでも収入を得られるということを発信されていました。文章を書くのが好きだったのでもしかしたらブログが1番いいかもと思い、学生ブロガーとなりました。 ーバイトが合わなかったからこそ、ブログにたどり着いたんですね。 はい。ストレングスファインダーに出会ったのもこの頃です。試しにやってみたところ、未来志向・着想・目標思考・最上思考・活発性が強いことが分かりました。情報を集めて頭の中で整理したりアイディアを人に伝えることのできるブログは向いていることがわかったんです。 ーそしてその強みを生かして、有名ブロガーになられたんですね。 強みが活きて人と違う切り口の記事が書けたのが多くの人に読んでもらえた理由だったと思います。「ナンパをしたいおじさんをサポートします」や「自分をレンタルしませんか?」などを企画し、その企画内容や企画から学んだことを記事にしていました。得意なことを続けていたら自然と結果がついてきたんだと思います。 ー大学生ブロガーとして月収100万も達成されたとのこと、すごいですね。だからこそ卒業後も独立を選ばれたんですか? 初めは就職活動もしており、就職も考えていました。ただ、内定者研修に参加した際に社長が前で話されていたんですがそのメッセージを聞いた時にふと「誰かのビジョンの実現のために自分は働きたいのか?」と思ったんです。そして自分のビジョンのために働きたいと思い、独立を選びました。 収入面で安定しても幸せにはなれなかった ー1年目からブログでの安定的な収入があり、順調に社会人生活をはじめられたのでしょうか? 収入面では確かに安定していましたが、あまり順調ではありませんでした。というのもお金を稼げれば幸せになれると思っていたんですが、そうじゃないことに気づいてしまったんです。自由に使えるお金も時間もありましたが、逆にどうしていいか分からなくなりました。それまでお金を稼ぐことが目標でブログをやっていたのでそれが達成されてしまい、次は何をしようかとに悩むことになりました。ブログは得意なことでしたが、楽しいことではなかったんですよね。 ーそこからどうやってやりたいことをみつけられたんですか? いろんな人に話を聞きに行ったりしましたが、答えが見つからずむしろ迷いが加速してしまいました。そこでまずは自分のことをもっと知ろうと考え、セミナーに参加したり本を読んだりしました。セミナーには300万円程のお金を注ぎ込み、本も100冊ほど読み込みました。 ーその結果、何か発見できたのでしょうか? 少しずつ自分のことがわかってくるにつれて、やりたいことが分からない他の人にも自分と同じような体験してほしいと思うようになりました。そしてたくさんのお金と時間を注ぎ込んでセミナーに参加した結果、これ1つ受ければやりたいことを必ず見つけられる講座を自分で作りたいと思ったんです。 ーそこから現在の自己理解プログラムが開発されたんですね! はい。自己理解が深まったことがきっかけに、自分にとって得意なこと・好きなこと・大事なことの3つが重なる物事が本当に自分がやりたいことだと気づくことができました。自己理解プログラムではそのやりたいことを見つけられるよう10のステップに分けた3ヶ月のオンラインプログラムを用意しました。 ー3ヶ月でやりたいことが見つかるプログラムとのことですが、具体的にどのような内容なのでしょうか。 まずはステップ1として自己理解の全体像を知ることから始めます。そしてステップ2ではモチベーショングラフを作成します。これを作成することで過去の重要な経験を棚卸しすることができその後の質問に答えやすくします。その後自分にとって大事なことは何か(=何のために働きたいのか)?などの問いに答えていくことでやりたいことを見つけるという流れになっています。 ー今年5月に発売されたという本、『世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方』もプログラム内容に沿った内容なのでしょうか。 本にはプログラムでも伝えている、やりたいことを見つけるためのメソッドをシンプルにまとめています。本を出そうと思ったのは単純に、やりたいことの見つけ方を体系立てて書いている本がないなと思ったからです。「やりたいこと」の言葉の定義自体はかなり曖昧なので、体系立てられている本があることで見つけやすくなるのではと思いました。ラフに読めるよう、横書きにするなど工夫を凝らした一冊となっているのでぜひ一度手にとっていただけたらと思います。 世界中に自己理解プログラムを広めたい ー現在プログラムを開発して2年とのことですが反響はいかがですか。 嬉しいことに、やりたいことをこのプログラムを通して見つけられたとの声を多くいただいています。このプログラムで自分の内にあった思いを掘り起こして、本当にやりたいことをやるために独立された方も多くいて、嬉しいです。 初めは受講者の方が勝手に自走してくれるのではと思う部分があったのですが、想像以上にいろんなステップで皆さんがつまづかれたので何度もプログラムは改良してきました。質問がくるごとに動画やマニュアルを追加したり、初めは動画のみでしたがQ&Aセミナーや悩みや結果をシェアできる場を設けたり、など対策をたくさん立てました。改良を重ねた結果、今ではかなり手厚いサポートのあるプログラムとなり、満足度も大幅に上がったと思います。 ー受講者の方がつまずくポイントに何か傾向はありましたか。 皆さんがつまずくポイントは様々ですが、実は学生の方が社会的しがらみが少ないこともあり、自分と向き合いやすく、やりたいことを見つけやすい傾向にあります。 社会人の方は自分の強みを既に分かっている方が多いので比較的最後の方までスムーズに進むのですが、最後の最後でやりたいことをやることに対する恐怖が生まれてつまづかれる方が多いです。今持っているものを手放さないといけないことに対しての恐怖が出てくるんですよね。そういう方には既に同じことを実現している方に会って話すことで現実感を持ってもらい、自分にもできるという感覚を大事にしてもらうようにしています。 逆に若い方は得意なことが何か分からない人が多いのでその段階でつまずくことが多いかと思います。そこはストレングスファインダーを用いるとその人の強みをしっかりと文字化・見える化することができます。 ープログラムを通して変わる方が多いとのことですが、八木さん自身もプログラムを提供するようになって何か変化はあったのでしょうか。 ブログをしていた時はお金を稼ぐことが目的となっていたので、周りに集まってくる人もお金を稼ぎたいと思っている人ばかりでした。逆に今は自分らしい生き方をしたいという人たちが周りに集まってくるようになり、これからもずっと付き合っていきたいなと思う人にたくさん出会えました。この事業を初めてからは価値観に共感してくれる人としか付き合わなくなりました。 ー最後に今後取り組みたいことや目標などがあればぜひ教えてください。 直近では自己理解コーチを育てる取り組みをスタートさせようと思っています。コロナの影響もあり、将来に不安を抱えている人が増えているため自己理解プログラムの需要は伸びています。コーチが増えれば、プログラムの受け入れ人数を増やすことができ、夢中になっているものを持っている人を増やすことができます。 長期的ビジョンは世界中に自己理解プログラムを広めることです。世界中で自己理解プログラムのOB・OGが活躍するのをみたいですね!   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:松本佳恋(ブログ/Twitter)  

親の再婚、いじめ、怪我、入院。辛い過去を乗り越え、自分の人生を歩む前田あかりの新たな挑戦

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回は、株式会社想創で代表取締役を務めている前田あかりさんにお話をお伺いしました。 現在、“生きづらさ”を抱えている人に向けて事業を展開している前田さん。前田さん自身も、10歳の頃から長年に渡りいじめに遭ってきました。それだけにとどまらず、数多くの辛い経験をされ、どんどん精神的に追い込まれていきます。 「自分が大嫌いだった」と語る前田さんが、どのようにして自分の人生を歩めるようになったのか。前田さんの半生を振り返りながら、抱いている想いについてお伺いしました。   中学時代からビジネスに興味を持ち始め、いじめに対して行動を興す ー本日はよろしくお願いします。まずは自己紹介をお願いします。 前田あかりです。株式会社想創の代表をしています。現在18歳で、今年の3月に通信制の高校を卒業しました。 在学中は、サロンモデルやフリーランスのライターをしていました。卒業後の現在はGaiaxの人事支援でインターンもしています。 生まれは北海道北見市。親の離婚で神奈川県に引っ越し、その後に母親の再婚で長野県に移りました。現在は東京に住んでいます。 ー創業された株式会社想創では、どのような事業を展開しているのですか? 現在は、会社として柱としている事業はなく、これから創っていくフェーズにあります。ただ、会社の核となる方針は決まっており、"生きづらさ"という面から事業を広げていこうと模索しています。 まだ構想段階ですが、居酒屋にコミュニティという役割を加えた場づくりや、「生きづらい」と思っている人が相談できる居場所を作ろうと考えています。 ーこれからまさに生きづらさをテーマに事業を展開していく予定なのですね。会社を始めたのはいつ頃なのですか? もともと、中学3年生くらいからビジネスに興味を持ち始め、高校1年生からいじめに対して行動を起こし、ビジネスプレゼンなどをしていました。 株式会社想創を登記したのは今年の3月です。親との関係が悪化し、家出をして上京していたんです。ただ上京しただけだと連れ戻されてしまうため、帰らない理由を作る必要がありました。反対もされたのですが、親が肩書きを好む人なので、納得してもらえるよう会社を作りました。 会社のメンバーとしては私一人ですが、何名かがボランティアで手伝ってくれています。 ー起業して間もないですが、心持ちとして何か変化はありましたか? 自分の足で自分の人生を歩けるようになった、と感じ始めています。今までは、他人や周りに振り回されることが多かったです。自分がいじめを受けてたことを思い出して、辛くなることもありました。 しかし、今はしっかり自分で歩けているという感覚があります。過去の嫌な思い出も、全て受け入れて、自分自身を愛せるようになりました。 ーちょっとずつご自身の成長を感じているのですね。会社の名前も前田さんが考えたのですか? 実は、母親が運営していたNPO法人の名前なのです。母親がNPO法人を始める際、私も一緒に名前を考え、想創が生まれました。 ただ、父親も会社を経営していたため、NPO法人の運営が難しくなり、私が想創の名前を譲り受けました。親に迷惑かけてきたという気持ちもあったので、親と仲良くなれるといいなぁ、という想いも込もっているんです。 親の再婚といじめ。前田さんの人生を変えたターニングポイント ー非常に大切な想いが込められているのですね。是非とも過去に遡って、前田さんのことを教えてください。最初のターニングポイントはいつ頃だったのですか? 親の再婚で長野県で引っ越した10歳の頃です。編入先の小学校でいじめに遭った経験が、私の人生の中での大きなターニングポイントになりました。 長い間、母親は再婚していなかったのです。そのため、再婚する前に母親に彼氏ができたと知ったときは、多少ダメージがありました(笑) 母親はもともと身体が良好ではなく、頻繁に入院もしていました。再婚するという話を聞き、「安心だ」とホッとした部分もありましたが、同時に寂しさも感じていましたね。母子家庭ということもあり、なかなか親に甘えらなかったのが、再婚してさらに甘えづらくなりました。 また、"母親"という側面でなく、"女性"という側面を見て、なんとなく嫌だなという違和感を覚えていました。「結婚式当日は絶対に笑わない!」という謎の自分ルールも決めていました。 ー10歳の前田さんにとって、衝撃的な出来事でしたね。その後、立て続けにいじめにも遭われたのですね。 クラスで人気だった女の子に好きな人がおり、その人が私に好意を抱いていたそうなのです。そこから、「気に入らない」と一部の女子がいじめ始め、徐々にクラス全体へ広がってしまいました。 靴がなくなったり、教科書が捨てられたり、金属バットを持って追いかけ回されたり...。「昭和のいじめか!」と言いたくなるような内容が多かったです。 編入先の小学校が小さな村の学校だったので、同級生の多くは保育園時代から一緒のメンバー。私のような外部から来た人は初めてで、まるで「異世界から来た人」と捉えられ、抵抗感があったのだと思います。 中学もメンバーは変わらず、いじめ自体は中学時代にも続きました。環境を変えるために中学受験も挑戦したのですが、失敗してしまい...。中学3年生で他の学校に転校しました。 もともと両親に頼るのが苦手な子で、さらに親の会社でもトラブルが起きており、いじめられていることはなかなか相談できませんでした。私自身、気が強い性格だったので、「自分でなんとかしよう」という心持ちでしたね。 アルペンスキーに出逢い、初めて心の拠り所を見つける ー中学受験は前田さんからの提案だったのですか? いじめから逃れたいという自分の意思もありましたが、英才教育をする家系の風習の流れもあり、受験に挑みました。けれど、解答用紙に何も書けませんでした。プレッシャーと、人の目線が怖くなってしまって...。 親には家庭教師もつけてもらっていたので、白紙で提出したことが申し訳なさすぎて、試験が終わった直後には「合格するかは五分五分かなぁ」と話たことを覚えています。 ー当時からなかなか本音を打ち明けられなかったのですね。今改めて思い返して、4年間いじめを受けたことに対して、前田さんはどう感じていますか? 「いじめという体験があったから今があるんでしょ」と言われることもあります。けれど、経験しなくて良かったなら、経験したくはなかった、というのが本音です。 何か意味をつけるのであれば、これから展開するサービスに経験を活かして、少しでも世界を変えていけたらと考えています。 ーその後、中学3年生で転校されたのですね。転校のきっかけは何かあったのですか? 当時、熱心に取り組んでいたアルペンスキーが、怪我で出来なくなってしまったのがきっかけです。 小学5年生の時、体育の授業でスキーをするという話を聞きました。私はスキーを経験したことがなかったため、地元のスキースクールに入ることに。そこで、スキーで斜面を駆け下りるアルペンスキーという競技に出逢います。 アルペンスキーを始めてみると、徐々に成績が伸びていく達成感が楽しくて、どんどん夢中になりました。もともと、車などのスピード感のある体験が好きだったので、スピード感のあるアルペンスキーにも惹かれていたと思います。初めて出来た心の拠り所でした。 しかし、怪我をしてアルペンスキーが出来なくなってしまいました。そこから心のバランスも崩れていきます。当時お付き合いをしていた方も、アルペンスキーを通じて知り合えた方で...同じ時期に別れてしまいました。 心の支えを失って、今まで溜まっていたストレスが爆発してしまい、発作を起こして入院しました。入院によって学校に通うことが難しくなりましたが、行きたい高校があったため勉強は諦められず、親に頼んで転校したんです。 他人の顔色を伺う毎日。そんな中で出会った“愛” ー心機一転、新しい学校で頑張ろうとしていたのですね。転校先はいかがでしたか? 心の持ちようとしては「頑張ろう」「友達も作ろう」という気持ちで転入しました。しかし、転校先は隣の村の学校だったので、前の学校から私の噂が広がっていたんです。 噂のほとんどは事実ではないことばかりでしたが、転入する前から「前田あかりはこういう人間なんだ」と根付いていて、馴染むことができませんでした。自分の知らない自分が、みんなの中に存在していました。 ー狭いコミュニティだからこその出来事かもしれませんね。その後、高校受験をされたのですね。 第二志望の全日制の高校に合格し、実家からは通えない距離だったので、一人暮らしを始めます。 高校1年生の頃は、とにかく嫌われないように周りに合わせることを意識していました。また、人に依存しないと生きていけなかったので、良くしてもらっていた先輩にいつも付いて回っていました。そのため、クラスの同級生からは「この子変わってる」と思われていたのかもしれません。 常に他人の顔色を伺って、人に話しかけるのが怖くて。笑っている人がいると、自分の悪口を言われているのでは無いかと疑ってしまいました。テストの緊張感が苦手で、テストの度に吐き気に襲われることも...。しんどかったですね...。 その後、全日制の高校から通信制の高校に編入しました。周りに合わせる必要がなく、自分のペースで通えるので、ちょうど良かったのかなと思います。 ー前田さんの人生の中で、心の支えになった言葉などはございますか? 昨年の10月、私が今でも一番尊敬している方から、 『アウト・オブ・コントロールなものにマインドシェアを取られて、本来やりたいことの生産性を下げるのはもったいないよね』 という言葉をいただきました。 何気ない会話の中での言葉でした。ただ、それはずっと自分で感じていたけれど、見て見ぬ振りをしていたことだったんです。その言葉が胸に刺さり、「頑張らなきゃ」と勇気をいただきました。 ー「自分の足で自分の人生を歩めるようになった」とお話しされていましたが、そう思われたきっかけはありますか? 過去の経験を完全に受け入れられた、と思います。今日お話ししたこと以外にも多くの出来事があったのですが、東京に来てから自分と向き合う時間を大切にするようにしました。 もともと自分のことが大嫌いで、親との関係性も良くなかったので、愛が分かりませんでした。愛されてはいるんだろうけど、なかなか受け入れられず、愛ってなんだろうと考えていたんです。 けれど、上京して、人生で一番尊敬している方に出逢いました。その人は本当に人を愛していて、その人に支えてもらいながら、少しずつ愛を学ぶことができたんだなと思っています。 そして、自分を愛することができるようになって、自分のメンタルや人生をコントロールできるようになったと感じてるんです。 ー尊敬している方から愛を教わり、過去の経験すべてを受け入れて、前を向けるようになったのですね。本日はありがとうございました! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:青木空美子(Twitter/note) 執筆:みやっち(ブログ/Twitter) 編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

入社4年目でアメリカ駐在を実現した野崎真嗣が最優先したかったこととは。

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ、第142回はDLI North America Inc. (第一生命グループ米国子会社)勤務の野崎真嗣さんです。アメリカ同時多発テロ事件をきっかけに海外動向に興味を持ち、もっと広い世界を知りたいと思うようになったという野崎さん。イギリスの大学に進学し、アフリカでのインターンをきっかけに日本での就職を決意。現在はアメリカ駐在として働かれている野崎さんに、生命保険業界への就職を選ばれた理由や入社4年目で海外駐在の切符を手に入れるために意識して行っていたことなどをお話いたただきました。 入社4年目で海外駐在に抜擢 ーまずは簡単な自己紹介をお願いいたします! 18歳まで香川県で育ち、高校を卒業後イギリスのヨーク大学に進学しました。大学卒業後は日本に帰国し、新卒で第一生命保険に入社。支店で3年勤務した後、アメリカのシリコンバレーオフィスに異動となり現在駐在生活3年目です。 ー大手日系企業だと3年で海外駐在に抜擢されるのはすごいことですよね。 学生の時から海外で働きたいと思っていたので、社内制度で海外駐在の希望を出していました。英語が話せることと海外経験から様々なルーツを持った人たちとコミュニケーションをとることが得意だということを会社側にアピールしたところ駐在が叶いました。 ー海外駐在に選ばれるために意識してやっていたことはありますか。 できる限りたくさんの社内の人と話すことは意識していました。配属された部署の人以外とも話すことで、どのようなキャリアパスが考えられるのか・どういった仕事が他にあるのか・海外駐在にどんな人が選ばれやすいのかなどの情報収集ができました。サッカーが学生時代から好きだったので会社のサッカー部に所属したことがきっかけで、他部署の方達との繋がりが自然と増えました。 ー実際にアメリカで働いてみていかがですか。 大学時代はイギリスにいましたが、イギリスも日本同様で島国なので、アメリカの規模の大きさにはやはり驚かされました。カリフォルニアだけでも日本と同じだけの面積があるのでびっくりですよね。アメリカは資源も自然も豊富な国だなと日々感じています。また、イギリスと同じ英語圏ですがやはりカルチャーは違うので新しい発見や学びは多いです。 9.11事件をきっかけに広い世界を目指す ーそもそもグローバルに関心を持つことになったきっかけは何だったのですか。 9歳の時で家族でニューヨークに行ったのですが、その翌年にアメリカ同時多発テロ事件(9.11)が起きました。旅行で訪れた時に見たワールドトレードセンターが崩壊していく様子をテレビで見て、衝撃を受けたんです。「なぜあんなことをする人がいるんだろう?何が人をそうさせるのだろう?」と考えるきっかけとなり、その答えを見つけるには香川県から出ないと分からないかもしれないと思ったのです。 大学の教員をしていた父が日頃から「日本の大学はだめだ」と嘆いたのを聞いていたこともあり、高校に入ってからは海外の大学に行きたいと思うようになりました。両親にもそのことは伝えたところ「自分で調べてみて行けそうだったらいいのでは?」という反応だったので海外大学について調べたり英語の勉強をしたりして準備を進めていました。 ーそれではご両親は海外大学への進学に肯定的だったのですね。 それが、いざ高校3年になると「日本の大学でもいいんじゃない?」と言われたんです(笑)また高校の先生も前例がないためよく分からないという理由から肯定的ではありませんでした。 ーそれでもご両親や先生を説得してまで行きたいと思った理由が何かあったのですか。 香川県には留学の支援機関があまりなかったため毎回、大阪まで行っていたのですが、その移動だけでもワクワクしていたんです。そして大阪に行くと自分の住んでいる香川県が小さく感じました。「もっと広い世界を見たい!」という気持ちがやっぱり海外進学したいと思う1番の理由だったように思います。 渡英し、勉強漬けの日を送る ー海外進学の中でも、イギリスを留学先に選んだ理由は何だったのでしょうか。 イギリスの大学は3年で修了なのですが、大学入学前にファウンデーションコースという1年の準備期間があります。私は帰国子女でもなかったので、すぐに授業についていけるか不安があったということもあり、この期間があるのは魅力的でした。 ーイギリスでの学生生活はいかがでしたか。 英語面ではやはり苦労しました。政治学と国際関係学を勉強していたのですが、授業の半分がディスカッションだったため意見があっても言えなくて悔しい思いをすることが多かったです。毎回毎回、念入りに授業準備をしてのぞむ勉強漬けの日々でしたね。授業についていけるようになったのは2年目からでした! また、もともと途上国支援に興味を持っていたので大学の夏休みにはスイスで国連機関の訪問ができるプログラムに参加しました。国連で働く方々のお話を聞く中で、衝撃だったのが一部機関の職員は8割が離婚を経験しているというお話。家庭よりも難民のことを常に考え、プライベートよりもミッションを優先するプロフェッショナル集団の凄みを垣間見た気がしました。 ー「8割が離婚」は確かに衝撃的ですね…! この国連機関への訪問をきっかけに、発展途上国での仕事を自分自身も体験したいと思い、アフリカへ6週間インターンをしに行きました。タンザニアで農機具を農村に安くでリースする事業を行っている日本人のスタートアップ企業でのインターンだったのですが、場所によってはWi-Fiがつながらず国外の家族や彼女・友人とは連絡がなかなか取れない日々を過ごしました。 貴重な経験ができ、とても充実した6週間でしたが、このインターンで発展途上国で働きつつプライベートを充実させる難しさを改めて実感しました。そして発展途上国関連の仕事に本当に就きたいのか分からなくなってしまいました。 まずは身近な人から幸せにすることを優先したい ーアフリカでの経験がその後の進路決定に大きく影響することとなったんですね。 はい。いろいろ考えた結果、自分がその時に1番優先したいことは結婚と子供でした。であれば、まずは身近な人を幸せにできる選択をと考え、就職活動をすることに決めました。イギリスでの現地就職はビザの面などから現実的ではないと考え、日本企業を受ける中で受けたのが第一生命でした。 「大学時代に頑張ったことは?」の質問に対して「勉強」と答えたところ真面目に大学時代の勉強したことやそこから考えたことについて聞いてくださり、自分の大学生活で頑張ったことを1番評価してくれたことが入社の決め手となりました。 ー実際に日本で就職してみていかがでしたか。 入社後は東京の町田支社に配属となり、営業管理・企画業務を経験させていただきました。時々「何の仕事をしているんだっけ?」となってしまうような地味で泥臭い仕事も多かったのですが、将来は「生命保険を保険という概念のない国に持っていきたい」ということが目標としてあったので頑張ることができました。また直属の上司が、年次に関係なく様々な仕事を経験させてくださり、幅広く経験を積ませていただくことができたのもよかったです。 ーそして念願の海外駐在となり現在に至るとのことですが、今後の目標や展望があればぜひ教えてください! 今の業務では最先端の技術が生命保険業に与える影響を調査したり、業務のデジタル化をサポートしたりしていますが日々感じるのはまだまだ自分は保険のことを知らないなということです。特にデジタル化を進めるにあたってはスタートアップの方と話すことが多いですが、営業の経験しかないため質問されても答えられないことが多くあります。 将来的には発展途上国で保険のプロフェッショナルとして事業をできたらと考えているので、今はとにかく保険業での経験を積みたいと思っています。 ー本日はありがとうございました!今後のご活躍を応援しています。 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

「辞めたくても辞められない!」シンガーソングライター・だいてぃーはこのコロナ禍でも音楽活動を続ける

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第191回はシンガーソングライターとしてアーティストーネーム「だいてぃー」で活動されている菅井大地さんです。大学1年までは陸上にずっと取り組んできたというだいてぃーさん。新卒で入社した会社を1年で退職後、音楽活動をはじめたきっかけは音楽には「心震える瞬間があったから」だそう。そんなだいてぃーさんの幼少期から今までのお話を詳しくお話いただきました! >>>だいてぃーさんYouTubeチャンネルはこちら。 もともとは陸上少年だった ー現在のお仕事について簡単に教えてください。 だいてぃーという名前でシンガーソングライターとして活動しています。2018年に脱サラし、路上ライブから音楽活動をスタートさせました。コロナ前はライブハウスでの活動を中心にしていましたが、現在はYouTubeにカバー動画をアップしたり、オリジナルの楽曲制作を中心とした活動を行っています。 ―まずは現在のだいてぃーさんが形成されるきっかけとなった出来事について過去に遡ってお聞かせください。どのような幼少期を過ごされていましたか。 大学進学を機に神奈川に引っ越すまでは山形県米沢市で育ちました。小さい頃は野球・サッカーなどのスポーツに打ち込んだり、夏はラジオ体操をさぼりって代わりにカブトムシを取りに行ったりするような少年でした。地方の、狭いコミュニティで育ったので、ラジオ体操をさぼるとすぐバレテしまい怒られていましたね(笑)  ―幼少期はかなりアクティブに過ごされていたのですね。 そうですね。中学1年からは陸上をはじめたました。大会で記録を収めたことがきっかけで市の陸上クラブに声をかけていただき、中長距離選手として陸上に取り組んでいました。本当は姉がバスケをやっていたので「自分もバスケをしたい!」とはじめは思っていたのですが、気づいたら陸上で良い成績を収めていたので陸上をやることになっていました。両親からは「何か頑張れるものを見つけなさい」と言われていたので、陸上を続けていただけで特に陸上が大好きだった訳では正直なかったです。今思えば、陸上はただ走るというとてもシンプルな競技なので、それが自分には合っていたんだなと思います。   憧れは今も昔もUVERworld  ―音楽はいつ頃から興味を持たれたのですか。 姉がジャニーズ好きでKinKi Kidsのファンだったので6歳頃はよくKinki Kidsの曲を聴いていた記憶があります(笑)音楽を聴くのは好きだったので、小学5年生頃にはMDプレーヤーを買い、J-POPを中心に聞いていました。 その後中学1年頃にWALKMANをゲット。週刊少年ジャンプなどの漫画のアニメの主題歌などから派生して、YUIやAqua TImezなどを好んで聞いていました。そして中学2年の頃、今も大好きなUVERworldに出会いました。 ―UVERworldがお好きなんですね。 はい。中学2年からはバンドミュージックを中心に聞いていたのですが、中でもUVERworldが一番好きでした。初めて聞いたときはただかっこいいと思っていただけでしたが、「Roots」という曲を聴いた時に歌詞カードを見て、言語化できない感動を味わいました。またUVERworldはライブのMCが良いと評判だったのでライブにも行ったのですが、感動して初めてライブで泣いてしまいました。それ以来、ポップすぎず、メジャーな番組でも使用されていて身近だけど、深みのあるUVERworldが大好きなんです。 ―音楽を聴くのは幼少期から好きだったようですが、ご自身が音楽を作ったり弾いたりというのはいつ頃からされたのですか。 中高時代は部活に打ち込んでいたので文化祭でバンドを結成してボーカルとして歌を歌う程度でした。歌うのは好きでしたが、音楽を作ろうとかギターを弾こうとまで思ったことはなかったです。ギターを弾き始めたのは大学2年生になってからでしたね。 ―そうだったんですね。何がきっかけでギターをはじめられたのですか。 先生になりたいと思っていたので教員免許を取るために大学進学を決めたのですが、せっかくずっと陸上をやっていたので箱根駅伝で走ってみたいと思い、箱根駅伝の常連大学に進学を決めました。 しかし、大学1年で陸上に対する思いがプツンと切れてしまったんです。そこで残りの大学生活で何をしようかと考えた時に、音楽が好きだったのでギターに挑戦してみることにしました。事前によく考えて準備するよりも、走りながら考える派だったので、とりあえずギターを買いに行きました。その時にお手頃な価格のものから高級ギターまで、ギターの音色の聞き分けをさせてもらったのですがやっぱり高いギターの音色がとても良くて…結局その場で35万円のギターを分割払いで買ってしまいました(笑) ―35万は大きな買い物ですね! 友人からは「初心者が初めから35万円のギターを買うなんてありえない!」と言われましたね(笑)でもそれだけ大金をはたいて買ったので、きちんと練習しよう、ギターを続けようという思いは芽生えたのでよかったです。 ―ギターは独学で習得されたのですか。 ギターを持っている人たちにいろいろ聞いてみたところ、一番早いのは軽音部に入ることだと教えてもらったので、大学にあった軽音サークルに入ることにしました。初めはコードも全然押さえられませんでしたが、サークルの練習会に出席したり、上手な先輩に教えてもらったりして少しずつ弾けるようになっていきました。   就職するも1年で脱サラを決意 ー卒業後の進路についてはどのように考えられていたのでしょうか。 先生になることを大学入学時は目標にしていましたが、音楽含め、その他の選択肢を模索していました。両親から「ちゃんと会社に入社して働いてほしい」と言われていたことや、企業で働いた経験がないのにサラリーマンは自分に向いていないと決めつけるのは違うと思い、就職することにしました。  ―どのような会社に入社されたのですか。 文系だったのですが、IT系企業にシステムエンジニアとして入社しました。研修を受けて勉強しながら働けるという恵まれた環境でしたが、上司や数年上の先輩を見た時に、ありたい数年後の自分と全く違うことにがっかりしてしまったんですよね。入社半年程度で、ここで働き続けたいという思いがなくなってしまい、退職しようと思ったのですが資金もなかったので、結局1年間働かせていただきました。 ―退職時には具体的に何をすると決められていたのでしょうか。 バイトしながら音楽活動をしようと漠然と決めていた程度でした。会社を辞めようと決めてからは情報や手段を見つけるために積極的にいろんな人に会うようにしていましたね。ブロガーなどの仕事で独立している方に会う中で、食べていくための手段は会社に所属することに限らないなというのを改めて認識することができたのがよかったです。 そんな中、たまたまバーを経営されている方にお会いさせていただいたのですが、その方が海外での路上ライブ経験者で、「ドイツに一度路上ライブしに行ってきたら?」と勧められました。 ―ドイツ、ですか。 はい。アメリカに行く日本人は多いので、どうせ海外に行くなら言語の通じない国に行った方がいいという事と、ドイツは日本と生活水準が近い国なのでギャップが少ないだろうというのが理由でした。 ―実際、ドイツに行かれたのですか。 退職後1ヶ月、1人でドイツ・フランス・チェコに行ってきました。チェコに着いてからカードが使えないことに気づき、泊まるホステルの代金を稼ぐために路上ライブを行いました。何も得ずに帰る訳にはいかないという気持ちがあったのであの時は必死でしたね。 たまたま周辺国から来ていた修学旅行生が路上ライブを聴いてくれ、一人がチップとして日本円で2000円程をくれたのを皮切りに他の人たちもチップを入れてくれました。その結果その日は2~3時間の路上ライブだけで1週間分のホステル代を確保することができました。この時の経験が今でも自信につながっています。   コロナ禍の音楽活動。路上ライブできる日を楽しみに。 ―その後日本に帰国されたかと思いますが、帰国後のプランは決められていましたか。 帰国後どうするかは決めていなかったのですが、とりあえず埼玉の家から中野のシェアハウスに引っ越しし、中野で路上ライブをはじめました。また、オリジナル楽曲の制作をこの頃からはじめたのですが、それをきっかけに知り合いの方からバーで歌わないかと誘っていただきました。 ―少しずつ活動の幅を広げられたのですね。 そうですね。2019年6月にはワンマンライブを行いました。オリジナル楽曲を増やし、集客から企画まですべてを自分で行ったワンマンライブには約40人の方に来ていただくことができました。しかしライブハウスでの活動が中心となりつつあった頃、コロナの影響で4月以降は全て中止に。シェアハウスの友人から「これを機会にYouTubeはじめてみたら?」と提案され、YouTubeでの発信をはじめてみることに決めました。 ―YouTubeでの発信をはじめてみていかがでしたか。 ライブハウスで演奏する場合は準備などはライブハウス側がやってくださるので指定された時間に行って歌うだけでしたが、YouTubeは動画編集を含め、全て自分でやらなければいけないので正直大変でした。かなりの時間をかけてYouTuberの方たちが動画を上げていることを知り、改めてすごいなと思いましたね。 ―コロナでできることが限られており大変かと思いますが、どうやって日々モチベーションを保たれていますか。 自分がやりたいことを大学卒業前にすごい考えたのですが、シンプルに「心が震えることをやり続けたい」と思ったんです。音楽には心震える瞬間が多くあり、生きていると実感できるところが好きです。音楽は僕にとってやめたくてもやめられないもの。だからコロナの影響を受けてもやめることはありません。むしろその経験を活かした曲をもっと作っていきたいと思っています。 ―最後に今後の目標や夢があれば教えてください。 UVERworldと対バンするのが長年の夢です。でもUVERworldを超えることが目標ではなく、自分にしか書けない自分の過去や思いを活かした曲を書き続けることが目標です。直近ではオフラインの活動が制限されていますが、もう少し落ち着いたらまずは路上ライブを再開したいです。やっぱり路上ライブではお客さんとの距離感が近くて楽しいので早くやりたいですね。また海外に行けるようになったらもう一度海外に路上ライブをしに行き、自分の中に沸いたものを回収し、楽曲作成に活かしたいと思っています。 それまでは、オリジナル曲を中心にYouTubeの更新を続けること、SNSを活用して僕のことをより多くの人に知ってもらえるように頑張ります。ぜひ一度YouTubeをのぞいてみてください! 取材者:山崎貴大( Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)      

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