声なき声を伝えていく 「境野 今日子だから出来ること」とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第342回目となる今回のゲストは、キャリアコンサルタントの境野 今日子(さかいの・きょうこ)さんです。 日常生活の中で感じる違和感に疑問を唱え、行動に移すことはやりたくても怖さを伴うものです。今回のゲストである境野さんは、結婚・出産の際に感じた違和感を発信しながら、社会の当たり前を問い直しています。境野さんのインタビューを通じて、当たり前だと思われていることを問い続け、自ら発信・行動に移していく生き方に触れてみましょう。 ないならば自分で作り上げる ー簡単に自己紹介をお願いします。 キャリアコンサルタントをしている境野 今日子です。大学卒業後、NTT東日本に入社して法人営業をしていました。その後、転職をして帝人の採用担当を経験したのち、複数社のベンチャー企業でキャリア支援を行っていました。 昨年出産をし、夫の育休取得がきっかけで男性の育休を促進する活動をしたり、有志メンバーと一緒に従業員の声を経営者に届けるツールを作っています。 ーここから境野さんの人生をお伝えできればと思いますが、幼少期に経験したことや自身の性格など覚えていますか。 家に女の子らしいものがなく、戦隊モノがすごく好きでした。 わたし自身は女の子らしい趣味には惹かれず、ボーイッシュな趣味の方が多いかもしれません。 ーちなみに、野球もお好きだということですが、スポーツはされていたのでしょうか。 ダンスや演劇、ミュージカルなど舞台に立つことが好きで、9歳から始めたダンスは今も続けています。 ー小学校の時のエピソードとして、他に印象的に残っているものはありますか。 運動会の学年ダンスの振り付けを担当したことが印象に残っています。 連日昼休みの時間を使って、運動会の準備やダンスの振り付けを考えていましたが、昼休みの時間がなくなることに対して嫌な感情が全くなくて。遊びたいという気持ちより、運動会をどう作るのか考えるほうが楽しかったんです。 自分がダンスをしている時間は一瞬ですが、振り付けや台本を時間をかけながら作り上げる運動会のダンスはとても楽しく、踊ってくれたみんなの喜びと無事に終わった達成感が今でも忘れられません。 ーそのダンスがきっかけで、中学1年生のときにターニングポイントを向かえたそうですね。 中学でダンス部を作るための活動をしていました。 私が発起人となって始め、自分で地道に一緒に活動してくれる仲間を募集していました。その結果、1~3年生の多くの人が集まり、活動がスタートしました。 ー自身でダンス部を立ち上げようと思った理由を教えてください。 学校の催し物があまり面白くないと思ったからです(笑) 当時、チアリーディングやダンスなどの舞台系の催しが学校になく、舞台系の活動や催しがあれば、もっと面白いことができるのではないかと考えていました。 ー舞台系の部活が新しく立ち上がることは、学校としても良いことかと思うのですが、先生からの反応はいかがでしたか。 先生から練習場所、顧問、活動の安全性などいろいろな問題が浮上しました。 1つ課題を解決したと思ったら、次から次に先生からの課題があがって。 部活動ができなさそうだとなったとき、集まったメンバーのモチベーションが高まるためにどうすれば良いか悩んだ時期もありました。その中で、わたしたちが所属している間に限り、学校公認でダンス大会に出ることを認めてもらっていたこともあり、中学校の看板を背負ってダンス大会に出ることを決めました。 ー今振り返ると、なぜそこまで熱意を持って活動ができたのでしょうか。 小学校の時に1から何かをやってみるという成功体験を得ていたのは、大きかったと思います。部活でなくてもステージに上がって演技を披露する体験は、一生の思い出になっていますし、将来的にやってよかったと思える自信があったおかげで突っ走ることができたと感じています。 思ったことを行動に移した原体験 ー中学二年生の時にも、印象に残っている出来事があるそうですね。 担任が暴力的な先生で、わたし自身は被害にあっていませんでしたが、被害を受けていた友人たちがかわいそうだと思い、その先生に指摘しようと考えました。 ある日の休み時間、「先生に声をあげよう」という話になり、先生が来たタイミングで全員起立して指摘しようと話していました。ただ、実際に先生が入ってきたときに他の生徒が起立しなくて。わたし含めた3人しか起立しなかったので、その瞬間は焦りましたね。 ー実際に先生に指摘したところ、その声が届いたそうですね。 1時間くらい話したのですが、他の生徒はその様子を聞いていました。 先生に対し、暴力はいけないことだと話したところ、他の生徒からは「先生がかわいそう」「授業を妨害してはいけない」など掌を返したような反応を示され、動揺しました。しかし、思っていたことを先生に話していくうちに、先生は突然わたしに手を差し出すと、「よく言ってくれた、自分で気付けなかった」と先生に言われ、握手をしました。 その出来事で、思い切って声をあげれば良いこともあるなと気付きましたし、先生の暴力行為も減り、先生との信頼関係を構築することができました。 ー先生への行動で同じクラスメイトからの反発もありながら、先生や他の生徒からの応援を感じていたそうですが、アンチの人がいながらも歩みを止めないのはなぜでしょうか。 自分がやっていることは正しいことだと思えるようになりましたし、学級委員長をやっていたときは、自分を支持していない人もまとめなければならず大変でしたが、先生が味方について応援してくれたことが大きかったと思います。 ダンスの活動も並行して行っていたので、そこで気持ちの切り替えができていたことも大きかったです。 鬱になったことで気付いた、周囲の存在の大切さ ー月日は流れ、社会人のスタートを切るタイミングで再び転換点を迎えたそうですね。そのことについて、詳しく教えてください。 高校は行きたいところに行けて、大学もクラスメイトに助けられながら、楽しいキャンパスライフを送っていました。ただ、卒業間近に順風満帆な大学生活を送れていたのは、自分の努力があったからだと錯覚していました。就活で明確な軸はない中で大手企業を何社か受けておこうという気持ちで受験し、内定を得たこと=自分の努力で勝ち取ったものと過信しており、恵まれた環境や友人などの他の要因に気づけていませんでした。 社会人になって、セクシャルハラスメント(以下、セクハラ)の被害を受けたときはどうにかなるだろうと思っていましたが、次第に追い詰められてしまい、職場で明るく振る舞っていても、家に帰ると泣いてしまう。そんなことが増え、最終的には鬱になり休職することになりました。 その状況で初めて、自分が学業や部活・就活を問題なくできていたのが自分の力だけではない、経済的な支援を含めた様々な要因が関係していたのだと実感しました。この出来事で自分の人生観が大きく変わりました。 ー今までがありがたい環境だったと気づいたのですね。今の境野さんだったら、当時の会社にどんなアクションを起こしたと思いますか。 できることは、正直ないです。鬱になってしまうと、まず行動すること自体が難しくなるので、当時の自分がアクションを起こせたことは精一杯の頑張りだったと思います。 両親にSOSを出して、両親が会社へ連絡してくれたのですが、身近な人に話せたことは大きかったです。 ー「当事者の人だからこそ、その経験を活かす」という考えを持たれているそうですが、なぜその考えに至ったのでしょうか。 セクハラやパワーハラスメント(以下、パワハラ)に声をあげることって、世間にはリスクが高いこととして捉えられています。ただ、わたしが所属していた部署はセクハラやパワハラが続いていて、わたしが断ち切らないと同じような経験をする人が増えるだけだと思っていました。ただ、誰かが断ち切らなければと思っていながら、誰か出てこないかなと待っていました。 しかし、わたし自身が当事者になったことで、自分が断ち切らなければいけない。セクハラの大変さを伝えていく人がいないと、社会に理解してもらえない。そう思い、会社や社会の流れを変えるために自分が立ち上がりました。 ー自身の経験があったからこそ、自分以外の他の人が同じ被害を受けないために自分がやろうと動き出した。まさに、境野さんの原動力につながっているのですね。 この一件で、いろんな人に支えてもらって自分がいるということを体感したので、支える人・還元できる人になりたいと今でも思っています。 ー誰かに還元していく生き方を通じて、何か得られた部分もあるのでしょうか。 セクハラの体験をお話しする機会をいただいたり、記事にしたりと仕事に活かされています。あとは、ハラスメントを受けた人を取材する際、自分自身が当事者であることにより、取材相手が心を開いてくれることもありますね。 また、このように話すことで、友人が被害にあったことを話してくれたり、 記事などを見て声をかけてくれた人がいて、つながりが生まれていく流れが好きです。 夫の育児休暇取得を機に、ジェンダーバイアスと向き合う ーその後、ご結婚されたとお聞きしました。そのエピソードについて詳しく教えてください。 ベイスターズファン歴18年で、休みやお金を野球に注いでいる無類の野球好きのわたしなので、結婚するならベイスターズファンでなければダメだと思っていました。 東京ドームのベイスターズ応援エリアにいた時に、隣の席に座っていた方がとても雰囲気の良い方で一目惚れし、その方と交際・結婚をしました。 ー劇的な出会いから結婚、そして出産を経験される中で、旦那さんの育児休暇の取得が難しかったそうですね。 昨年に出産したものの、コロナ禍で子育てを実家に頼れなかったため、夫が育休を取得することになりました。私が育休の知識があったので、夫は育休が取れると判断して申請をしました。 しかし、会社側から取得できないと言われ、会社側と意見対立となりました。 夫の上司にはお子さんがいるのですが、奥様1人で子育てをしていたこともあり、「なぜ1人で子育て出来ないのか」と言われ、男性の育休に対しての理解が得られませんでした。 そこで、様々な団体に相談をした結果、最終的には育休を取得できたものの、男性の育休取得の大変さをどうにしかしなければいけない、男性が育休を取得できないところにバイアスがかかっていると感じました。 ー境野さん自身、結婚式の際に「女性はサポート役」と言われたことにも違和感を感じたそうですね。 一昨年の結婚式の際に、いろんな方に「旦那さんのサポート頑張ってね」と言われたのですが、夫婦共働きの状況でわたしは夫のサポート役なのかと違和感を覚えました。その出来事が過去に受けたストーカーやセクハラとつながり、わたし個人の問題ではなく社会にあるバイアスが原因なのだと気づきました。 ー「バイアスがかかっていることに声をあげないといけない」と思ったのは、過去の出来事から蓄積された結果だったのでしょうか。 セクハラの時は声を上げていたものの、ストーカーのことはあまり話していませんでした。 ただ、結婚式の出来事があり、セクハラ・ストーカー・結婚について、わたしと同じように被害を受けている人がいるのだと視野が広がった気がします。 ー人は潜在的に思っていたり感じていたことでも、気付かない部分があると思います。どうすれば、違和感を感じるようになるのでしょうか。 男女を逆に考えたら、分かりやすいのかなと。 結婚式で夫はわたしと同じように「サポート役」という言葉を受けたのかなとか、政治で男性が大半の様子が女性が大半を占めたらどう感じるのかをイメージすると、違和感を感じやすくなると思います。 ー日々暮らしている中で感じる違和感を、問い直していきたいのですね。 夫の育休取得がきっかけで気づいたのですが、わたしと同様にジェンダーバイアスについて変えていきたいと思っている方が多くいる。思いはありながらも何をしたらよいのだろうかと考えている人のために、わたしはヒントを与えられたらと考えています。 例えば、男性の育休を応援したいけど何もできないでいる人のために、具体的なアクションを提案できるムービーを有志で制作しているように、同様の行動を増やしていきたいです。 ー境野さん自身、今後どんな世界を作っていきたいと考えていますか。 法律で決まっている権利を、皆が享受できる社会にしていきたい。社内ルールや福利厚生の中で、規則として定まっていながら形骸化しているものがあると思います。男性の育休もその1つで、取得したい人が多くいるのに現実としては7.48%の取得率の低さ。制度はありながらも取得できていない現状を打破していきたいです。 ー「譲れない部分を大事にする生き方」で良かったと感じる部分はありますか。 現在の動画を作成する活動も、全国から協力者が集まってくださっています。声をあげることでバッシングを受けていると周りから見えるかもしれませんが、応援者も多く集まっているので、その方々を大事にしたい。改めて、声をあげてよかったなと思っています。 また、元々ある空気を打破することはとても難しいことですが、困っている人が訴えたい・伝えたい相手に声をあげる前に、話を聞いてあげることが出来たらと考えています。また、現在作成している従業員の声を経営者に届けるツールも、働く人が不利益を被らずに声をあげる手助けになればと思って開発しています。 ー最後に、U29世代に伝えたいことを教えてください。 20代は社会に出たばかりで、ハラスメントを受けることもあるかもしれません。何か変だなと感じた時は、すぐに誰かに言ったり調べてみることが第一歩になります。 あとは、やりたいことが見つからずにモヤモヤしている方へ。 わたしは長期的にやりたいことがなくここまで来たのですが、やりたいことがなくても良いのではないかと思います。 わたしが野球や仕事以外のところにやりがい・生きがいを感じるように、やりがいを仕事ではない部分に求めてもいい。なので、やりたいことが見つからなくても焦らずにキャリアを形成してほしいです。 ー素敵なお話をいただき、ありがとうございました!これからの境野さんのご活躍を応援しています! 取材者:吉永 里美(Twitter/note) 執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

アウトソーシングは最適解!デサインから始まったパラレルワーカー、伊美沙智穂

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第293回のゲストは、一児の母でありパラレルワーカーのムラキさんこと伊美 沙智穂(いみ・さちほ)さんです。 父親の転勤で小学4年生から中学2年生までをシンガポールで過ごしたムラキさん。日本に帰国した時に違和感を覚え、周囲になじもうとコミュニケーション能力の向上のため努力しましたが日本での人間関係には頭を悩ませたといいます。趣味でイラストやデザインを始めてSNSにアップすることで、徐々にファンが付くようになり、大学生の時には受託でイラストやデザインを制作するなど、経営者との繋がりができ始めました。就職で一時デザインから離れるも、育休を境に再びデザイン・ライターとしてパラレルワーカーになったムラキさんにお話を伺います。   海外で形成した価値観 ーまずは簡単な自己紹介をお願いいたします。 ムラキはビジネスネームで、本名は伊美と申します。UIデザイナーやデザイナーとしていくつかの事業会社に関わらせていただいて、主には株式会社キャスターでUIデザイナーをやっています。それとは別の肩書で、去年からBusiness Insider Japan(アメリカ資本で日本にも支部を持つ経済メディア)でライターとして年に何本か記事を執筆したりもしています。   ーデザイナーやライターはそれぞれどのくらいされているんですか? デザイン自体を始めたのは19歳、大学2年生の時でした。その頃は、制作会社の下請けの下請けのようなポジションでイラストを書いたりしていました。大学がデザイン系の学部ではなかったので、趣味程度(お小遣い稼ぎ程度)の感覚で大学4年生まで続けました。 その時は社会人としての経験もなく、結果的に色々と痛い目を見まして、その経験からデザインに関連する就職はせず、前職のドコモに総合職として入社しました。 ドコモには去年の4月まで在職していたのですが、退職する半年前(2019年8月)くらいから現職の株式会社キャスターに副業デザイナーとして、週に上限の時間を設けてジョインさせてもらっていました。なので大学から数えれば仕事歴は7〜8年くらい、正式なデザイナー歴は去年の4月くらいからになります。UIデザイナーとして自己紹介するならばざっくり1年半くらいですね。 ライターは去年の2月くらいにnoteで書いた記事がBusiness Insider Japanさんの賞を受賞したことをきっかけに始めたので、ちょうど1年くらいです。   ームラキさんは、SNS(Twitterを中心とした)でのバズが印象として強いのですがご自身としてはどのSNSでバズったのが印象深いですか? 3年前にちょうど子供が生まれて育休に入りました。新生児育児ってめちゃめちゃ大変で、保育園に入ったら会社に復帰できるのかなと考えていた時期に「こどもを3人産むべきか」という議論が話題になりました。(ちょうど世の中で子供を3人産むべきか産まないべきかの議論があった時期で、政治家が言っていた時期でもあった)そこで、私がもし3人産むとなるとどういうスパンで産むのがいいのかを考えるようになりました。大学を卒業してからコンスタントに3人産んでキャリアも構築するとなるとこういうスケジュールになるよって流れを図解にしたのが結構バズりました。手書きの図解だったのですが、それを見たスタートアップの経営者の方からデザインができないか???という話が出てお声がけいただいたのが今のキャリアに繋がっています。その時バズったツイートがきっかけで、今働いている会社とのご縁もできました。   ー幼少期や小学校など、19歳より前のことをお聞かせください! 特筆することはないのですが、親の都合で転校が多く、海外生活をしたこともありました。。小学校2年生くらいの時に父がシンガポールに海外赴任することになり、いきなりの転校は難しかったので1年遅れで付いていくことになりました。小学校4年生〜中学校2年生までの5年間、シンガポールに住んでいました。頻繁に転校があったことやこの海外生活が、今の私自身の価値観形成に大きく影響を与えました。   ー具体的に、どのようなことがムラキさんに影響を与えたのでしょうか? 意識的に感じるようになったのは最近ですが、私は割と家事のアウトソーシングなど、色々なことを外部に出して人に頼っていくというスタンスをとっています。おそらくこの価値観のベースになっているのが海外生活(シンガポール)で、大前提として屋台文化がアジア(シンガポール)にはあることが大きいと思います。自宅で料理することは日本ほど多くありません。現地の学校には屋台(ホーカー)があって、そこで朝ごはんを食べたりします。食を家庭外に委託するのがなじみ深い環境でした。 また、アジア圏では一定の所得がある家庭では運転手やメイドを雇う風習があり、家事の業務委託は日本よりも身近でした。メイドといっても日本でイメージされるフリフリのメイド服ではなく、いわゆるお手伝いさんがいて、契約内容によって業務は異なりますが、家族以外が家の掃除や子供の送迎をしている家庭を身近に見て育ちました。またスクールバスで学校に通っていたんですが、バスの中にはアンティーといわれる方が居て、気分が悪くなったりすると介助をしてくれました。その他にも、学校のセキュリティを担う警備員に当たる方もいました。 日本では家族の人としか関わる機会がない時間も、私にとっては外部の人が生活に溶け込んでいることが当たり前だったことが、価値観の形成に大きく影響を与えました。   日本は閉鎖的に感じた ー日本に戻ってからのギャップはありましたか? 日本に帰ってきたのは中学3年生だったのですが、そのときはすごく閉鎖的な感覚がありました。コミュニティだけではなく、建物自体の造りにも同じように感じる部分がありました。おそらくなのですが、シンガポールは熱帯雨林気候と呼ばれる、日本よりも高温多湿な環境で、吹き抜け構造など、開放的な建物の造りが適していたんだと思います。 シンガポールで通っていた小学校は開放的で、外から中が見える作りになっていて、気軽に話しかけられるオープンな場になっていました。それに対して日本の学校は塀が高く、植物や壁に囲われていて学校自体が一つの敷地内にある異世界のような、閉鎖機な空間だと感じました。気候と文化は繋がっているのだと感じました。 大人になってから感じた違和感も「閉鎖」に関わる事柄なのですが、家族の枠組みについて話です。全てのことを家の中で完結させようとすることや、親戚との付き合い、あまり外部に頼ろうとしない部分など、徐々に若干の価値観のずれを感じる部分が出てきました。   ー幼少期での違和感として感じた「オープンではない」はどういった部分が主だったのか教えてください! これは日本とか海外とかではなく、単に学校の特色だと思いますが、私が通った日本の中学校は人の入れ替わりがほとんどなく、小学校の友達とそのまま5〜6年前のことを話すのが普通の光景でした。それに対して、海外生活で過ごした小学校は、転勤族の子供が多く1年に何十人も人が入れ替わる学校だったので、定期的に人間関係が一新されるといった状況でした。そこでのオープンさ、後から入っていた人に対してコミュニティを開くという文化と比較すると、大きな違いがあってとまどいました。   ーそんな違いの中でどのように日本の学校の中で溶け込もうとしましたか? クラスの中にヒエラルキーのようなものがあったのですが、転校生の帰国子女という存在は少し異質で、ヒエラルキー外のポジションでした。 色々なグループに誘われては入りましたが、最終的に気が合ったのは私と同じく転校を繰り返していた人になりました。そもそもヒエラルキーが好きではないのでしんどさはありましたね。   デザインとしての原点 ーその後の制作活動の開始についてお聞きできますか? (自己紹介のときに大学生からと言いましたが)厳密に言うと中学3年生くらいから活動していました。元々絵を描くのが好きだったからです。その時期は、モバゲーやミクシィの全盛期で、既存のコミュニティ以外でも、新しいコミュニティができるサービスが出始めた時期でした。その当時モバゲーに入っていて、お絵かき投稿のコミュニティで投稿をすると美大生やお絵かきの先生とも呼べる人たちがアドバイスをくれるようになっていました。その後、モバゲーがエブリスタという作品投稿サービスと連携して、モバゲー内に組み込まれたタイミングがあったので、今までの作品を全部アップしたら2000〜3000人くらいの方にファンになっていただけました。このときの経験が創作活動の原点になっています。その後も、人からの反応が来るのが楽しくて高校生まで続けていました。 大学に入ると、周りの友達と比べてもそこそこイラストが上手い状態になっていたので、「イラストが描けるならデザインもできるだろう」というノリで、バンドサークルでフライヤーを作ってほしいと頼まれました。気軽に請負ったものの、その時点ではデザインの制作スキルが全くなかったので、adobeのデザインソフトであるIllustratorが使える先輩に頼んで、教えてもらいながら作り始めました。それからは独学で学びつつ、アナログで描いていたイラストをIllustratorで制作したりして、イラストをアップデートしていきました。とある日、知らない人からFacebookのメッセージで「貴女の絵をうちの名刺に使わせてほしい、権利を買わせて貰えないか?」という相談がきて、2万円くらいで買ってもらったことがあります。当時、時給800円くらいのファミレスでバイトをしていたのですが、2万円で絵を買われたことがとても衝撃的でした。それと同時期にフリーペーパーサークルに勧誘されたり、業務委託のお誘いがあったりと五月雨式に仕事が舞い込んできました。   ームラキさんが、個人受託をするきっかけになったことはなんですか? もともとFacebookによく描けた作品を友達や知人に見せるために挙げていたのですが、同時期に別のフリーペーパーサークルからも勧誘を受けました。フリーペーパーサークルではデザイナーを担当していていて、コワーキングスペースを取材するということを行っていました。 取材をしたらFacebookも交換するみたいな流れになり、そこで私の作品を知ってもらう機会も増えていきました。(Facebookのアルゴリズム上)そのコワーキングスペースの人たちが私の投稿にいいね!すると、その友達の知り合いや経営者の人たちのタイムラインにも表示されるようになります。それが数珠繋ぎのように上手いこと噛み合うようになって仕事になっていきました。   ーネット上から仲良くなったりビジネスを通じて経営者と仲良くなったのは、単純に気が合ったからですか? よくわからないんですよね(笑)気が合ったというよりは、お互いの利害が一致したという方がしっくりきますね。当時の私の技術レベルが高かったとはお世辞にも言えないので、若い女の子が載っているとか、大学生が使っているほうがインプレッションが取れるとか、そういう打算のようなものもあったかもしれません。   就職は安定性と働きやすさで ーその後の進路決定では安定性や働きやすさを重視してNTTドコモを選ばれたんですか? 2〜3年制作の受託を続けているとヤバい案件が多々ありまして…。社会人経験のないまま個人で何十万円の案件を受けるとなってくると、当然のことながらトラブルになるケースもあります。相手側がバックれたとか、契約金額が振り込まれないとか、リテイク(修正)の回数がすごく多かったなどの経験があり、(今ではそう感じませんが)その当時は創作活動ってめっちゃしんどい…って思ってました。もし今後やりたくなったとしても、学生をやりながら並行してできていたので、会社員をしながらでもできるんじゃないかと思ったんですね。。。 当時の私は「デザインの仕事」というと、広告代理店⇒制作会社⇒下請けに流れるという一連の構造しか知らなかったので、私自身の性格や今後のライフスタイルを考えると、デザインは好きだけど、仕事にするのは無理なんじゃないかと思ったんです。そういう観点で事業の安定性、モバイル領域という将来性、福利厚生などの様々な要素を勘案して、結果的にドコモに入社することになりました。   ー実際に入社した後でものづくり(制作活動)してみたいと思ったことはありますか? 入社した後に配属されたのが法人営業で、Slerとコンサルとセールスを混ぜ合わせたようなポジションでした。通信回線に関わる全ての相談を受けて(なにか通信で業務を改善したい・人員を減らすけどそのカバーをしたい・新規事業を行うけど形にしたい、など)解決する役割でした。この職種をしていたときに感じたもどかしさが、私は結局のところ物を売りにきた人間でしかなく、本当に本質的な問題解決には至れないということでした。持ちうる手札の中でなんとかご相談を解決できるように動きますが、結局のところ私は通信会社の営業社員でしかないので、例えば人材研修をした方がいいんじゃないかとか、店舗に什器を導入したらいいんじゃないかとか、そういう領分を超えたご提案が必要な時にも、十分に動ききれない感覚がありました。私自身が通信回線を売り上げたとしても、ただただ売上に貢献しただけで終わってしまうという感覚もありました。そこで違和感を感じていて、本質的に自分が何がしたいのかを考えるようになりました。 いろいろ考えたのですが、結局のところ「自分でものがつくりたかった」んじゃないかと思います。営業の立場では、すでに用意された商品を売る、というアプローチにならざるを得ないので、自ら事業を行っている事業会社に、作り手として関わらなければならないといけないと感じました。一方で、その時の私のスキルセットは、セールストーク・僅かな通信知識・僅かなデザイン知識のみだったんです。転職するほどのスキルもない、営業の仕事も(人と話すのが好きだったので)楽しいし、転職するような大きなきっかけもなく、自分の仕事にやや違和感を覚えながらも過ごしていました。   ー23歳で結婚をしていますが、どうして早くに結婚をなさったんですか? まず、夫は同期の人です。付き合って3ヶ月で結婚しました(笑) 元々友人として仲がよく、飲み会ついでに価値観をすり合わせていったら存外に気が合い、このまま思い切って結婚した方がよくないか?という感覚になり、思い切って結婚しました(笑)。あとは、結婚すると家賃補助の金額が上がったので、早く結婚した方が得だねという打算もありました(笑)   アウトソーシングの始まりとは ー家事をアウトソーシングすることが嫌な人もいると思いますが、パートナーと意見の違いなどはありましたか? 事前にたくさん話せる機会があってよかったと思います。私達は結婚する前が恋人でなかったからこそフラットに話せたと思います。   ー夫婦同時育休を取ったとのことですが、迷いはなかったですか? 迷いはなかったです。「男性」育休という概念をそこまで認識していなかったからです。子どもが産まれたら育休は取るもの、みたいな考えでした。同じ会社で同じ制度を使えるから休むのだと思っていて、夫と「育休、取らないの?」という話になった時に、男性は育休が取れないでは?という疑問が生まれました。そこで初めて男性育休はメジャーではないと知りました。私の実家は近くはないし夫の実家はもっと遠いので、夫以外に子育てで頼れる相手がいないことなどを話し合って、最終的にダブル育休を取ることにしました。   ームラキさんは自分のできないことにはどう向き合っているのでしょうか? いろんな手段をフルに検討すれば、できないことはないと思っています。困っているなら、何かしらの手段を講じて、必ず解決するスタンスです。ただ、そこは共同生活なので、一緒に暮らす夫とたくさんのことを話し合いながら決めています。育児休業や家事のアウトソーシングも、やりたいこととできることを勘案した上で、お金や時間などのリソースの話、外部を頼ることに忌避感がないかという価値観の話をして、最終的な解決策を決定しました。例えば、夫が家に他人を入れたくないとなったら別の手段を考えると思います。 自分たちが持っている問題の中で、どの選択肢が最も良いのかを突き詰めているだけです。だから、あまりできないことと向き合うのが大変だと思ったことはなくて、できないものことはできないと思っています。よくお母さんとしての葛藤を聞かれることがありますが、「お母さんに掃除や洗濯をして欲しい」って子供や夫が言ったとして、それって実際には何を求めていると思いますか? その言葉の裏には、清潔な環境で暮らしたい、温かいご飯を食べたい、一家団欒を求めている、そういう本質的な願望があると思うんです。私達の場合は、美味しい料理がみんなで食べられればそれだけでよかったんです。それを達成する手段として最も効率が良かったのがアウトソーシングだっただけの話です。   ーゴールや目的を見据えて最適解を当てはめるということですか? そうですね。何かができないということは決してマイナスなことではなくて、ただその能力のリソースが自分のところにはないというだけです。携帯を持ってないから電話ができない、みたいなことと同じだと思います。持ってないから電話はできないけど、別の手段を模索してなんとかメールで連絡したり、公衆電話で電話をかけたりすれば、結果的には問題ないですよね。   ームラキさんが今後どうなっていきたいのかお聞きできますか? 展望などは正直ないのが正しいです。その時々でこれがやりたい、やりたくないは出てきます。可能な限りやりたいことだけをやっていたいです(笑)。人生と健康とお金と周囲が許す限り、自分がやりたいことだけを送れる人生でありたいと思います。   ー本日はありがとうございました!ムラキさんのこれからを応援しています! ムラキさんが関わっている会社はこちら 株式会社キャスターの詳細はこちら。 株式会社RYM&CO.(サービス名:POTLUCK)の詳細はこちら。 株式会社10Xの詳細はこちら。 Business Insider Japanの記事はこちら。 ______________ ムラキさんのSNSはこちら​ Twitter:https://twitter.com/u_vf3​ note:https://note.com/u_vf3 ______________ 取材者:吉永 里美(Facebook/Twitter/note) 執筆者:タイツさん 編集者:松本 唯(Facebook/Twitter/Instagram) デザイナー:五十嵐 有沙(Facebook/Twitter/Instagram)

「継続することに意味がある」とGRIT代表・大嶋英美里が続けるボランティア活動とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第384回は「プロキング」というゴミ拾いをしながらジョギングをする新しいスポーツとボランティアを組み合わせて社会貢献活動を行う団体GRITの代表、大嶋さんです。大嶋さんがGRITを立ち上げるに至るまでのお話をお伺いしました。 本業の傍ら、毎月プロキングイベントを開催 ーまずは簡単な自己紹介をお願いします。 ゴミ拾いとジョギングを掛け合わせたスポーツ、プロキングを行うボランティア団体「GRIT」を運営しています、大嶋英美里です。20~30代が楽しく参加できるボランティアをモットーに月に1回の頻度で皇居を中心にゴミ拾いランを主催しています。 普段は管理栄養士として、スポーツ選手や芸能関係の方々を対象に食事指導や食事提供などをしています。 ープロキングを始められたきっかけを教えていただけますか。 もともとボランティアもスポーツも好きだったのがきっかけです。好きなことを2つを掛け合わせられないかなと思った中、思いついたのがゴミ拾いランでした。あとから調べてゴミ拾いランは「プロキング」として認知されていることを知った形になります。 ーどのような方々が参加されているのでしょうか。 新しい友達を作りたい方、皇居ランをしてみたい方、ボランティアをしてみたい方など様々です。3割くらいは社会問題に興味を持っている方ですが、残りの7割は楽しそうだったからといって参加してくれることが多いです。 楽しかったなと思ってもらえるようにワイワイとした雰囲気作りはもちろん、参加者を2チームに分けて拾ったゴミの量を競うゲーム形式で行うなどの工夫をしています。誰でも参加しやすいボランティアであり続けることが目標です。   栄養士を目指したのは高校生の時から ー少し過去を振り返って現在に至るまでのお話も聞かせてください。幼少期に大嶋さんに影響を与えた出来事などはありましたか。 11歳の時にアル・ゴアの「不都合な真実」という本を読み、衝撃を受けたことは今につながっていると思います。この本をきっかけに環境問題をすごく意識するようになり、日頃からエコバッグを持ち歩くようになりました。また、小さい頃は目立つタイプではなく、どちらかというとおしとやかな性格だったのですが、クラスの友人に節水や節電をしつこく呼びかけるような子になりました。 ー中学ではどのように過ごされていたのでしょうか。 中学ではいじめが頻発しており、正義感が強かった私はいじめが許せず、なんとか止めようとしました。その結果、自分がいじめの標的になってしまい、どちらかというと人目を避けるようにして過ごしてましたね。 変わるきっかけとなったのは14歳の時に行ったオランダでの10日間のホームステイでした。日本と全然違う環境、考え方、表現、人生観に初めて触れて今まで自分が狭い世界で生きてきたことに気づかされました。 また、中学ではほとんど話す友達もおらず、自分の意見が言えない子になっていましたが、ホームステイをきっかけにもっとやりたいことをもっと自由に表現できるようになりたいと思うように。人とコミュニケーションをとること、人前で話すことに苦手意識を持っている自分を変えていきたいと前向きに考えるようになりました。 ー栄養士に興味を持たれたのはいつ頃のことだったのですか。 将来はスポーツに関わる栄養士になりたいと思うようになったのは高校2年生の時のことです。食べるのが好きだったことや、格闘技の試合をよくテレビで見ていて、選手からエネルギーをもらっていたことなどが影響しています。高校の頃、バレー部のマネージャーをしていたので、栄養について個人で調べて勉強するようになりました。 ー卒業後の進路もそれを基準に決められたのでしょうか。 そうですね。スポーツ選手への栄養指導が出来る大学に行きたいと思い、目標としていた教授がいる大学を受験しましたが落ちてしまい…浪人をするか他の大学に行くか迷った結果、行きたかった大学の短期大学に進学することにしました。   大学生になって知ったボランティアの魅力 ー大学生活はいかがでしたか。 とにかく充実した生活を送りたくて、いろんなところに足を運び、たくさんの人と出会うようにしていました。また、やっぱり短大ではなく4年制大学に行きたいという思いがあったので、受験失敗の悔しさをバネに、第一志望の大学に編入することになりました。念願だった研究室にもお世話になることができ、とても充実していました。 ーボランティアに興味を持ったのも大学生活中のことだったのでしょうか。 大学1年生のときに、何気なく応募した東京マラソンのボランティアがきっかけです。 スポーツが好きだったのと、社会問題の解決に何らかの形で貢献できたらとずっと思っていたので時間ができたタイミングで応募してみました。ゴールした選手にメダルをおかけする仕事を担当させていただいたのですが、選手の姿に感動して、選手と一緒に大号泣しながらメダルをかけていました。 東京マラソンのボランティア以降、ボランティアにハマり、大学在籍中、数十個のボランティアに参加しました。スポーツイベントのスタッフ、障がいを持っている子どもたちへの食育、サッカースタジアムのゴミ拾いなど、ボランティア募集のサイトで探して積極的に参加していましたね。 ーすごいですね!大嶋さんがボランティアにハマった理由は何だったのですか。 ボランティア自体も楽しくやりがいがあったのですが、何よりも他のボランティアの方々の人間性に魅力を感じたのが理由だと思います。みなさん思いやりを持っていて、温かく、それに加えて社会問題に当事者意識を持っていたり、いろんなことにアンテナを張っていたり…そんな人たちに引き寄せられたのだと思います。 ー卒業後の進路についてはどのように決められたのでしょうか。 栄養士の中でもスポーツ栄養はかなり狭き門とされているため、新卒では病院で食事のスキルを磨こうと思い、管理栄養士として病院に勤めることを選びました。正社員として就職し、セミフリーランス栄養士として活動を始めました。 ボランティアのハードルを下げたい ーGRITの立ち上げの経緯を教えていただけますか。 就職後、毎日定時で帰れていたので、何か仕事終わりにできることを探していました。仕事以外も充実させたいと思い、ボランティア活動にいくつか参加してみたのですが、年配の方が中心なことが多く若い世代の参入が難しいと感じたんです。そこで友人の力も借りて自分でボランティア団体を作ることに決めました。 若者が楽しめそうなボランティアというのを大前提に、社会人になってから運動する機会がなくなっていたのも実感としてあったので、ゴミ拾いランを企画することにしました。もともと皇居ランが好きで、意外にゴミが落ちているのを覚えていたんですよね。 ーそういった経緯があったんですね!団体を運営するにあたって大変なことはありますか。 参加者を集めるのは大変ですね。今でも正直課題ですが、SNSを活用したり、友人紹介をお願いしたりなどして集めています。若い世代のボランティアのハードルを下げたいという想いがあるからこそ、大変なことがあっても運営を続けれているんだと思います。団体名のGRITには「やり抜く力」という意味があります。継続していくことに意味があると思って頑張っています。 ーGRITを通じて今後行いたいこと、実現したいことは何かありますか。 現在は皇居のみですが、今後は東京の色んな場所でできればいいなと思っています。代々木公園で実施したことがあるのですが、公園に出入りする人も増えてきているのでゴミも増えているんですよね。 また、プロキングはもちろんのこと、今後は他の社会問題にもアプローチできたらいいなと思っています。SDGsの発信活動など、他の領域にも積極的に参加していきたいです。その結果、問題意識を持つ同世代が増えたらいいなと思っています。 ー今後個人としてチャレンジしたいこともあったらぜひ教えてください。 個人としては大好きな競技の業界全体に働きかけて業界のシステムを変えたいなと考えています。例えば計量のあるスポーツでは自己流で危ない減量法をしている選手も多いんです。無理な減量は選手生命が短くなる原因にもなるので、計量の仕組みから変えていきたいな、と。 ー素敵ですね。最後にU-29世代に何かメッセージがあればお願いします! 昔は人前で話すことが苦手で、自分に自信がなかった私が、今は団体を立ち上げて代表として頑張っています。それも全て、目標があってゴールに向けて行動したからです。明確な目標やゴールを持てば、人って変われると分かりました。なのでぜひ将来やりたいことやなりたい目標が見つかった時は、全力でその夢を追い求めてみてください!応援しています。 インタビュー:高尾有沙(Facebook/Twitter/note) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

研究者であり経営者である株式会社fust代表取締役・長澤瑞木が語る、教育のこれから

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第359回は株式会社fust 代表取締役の長澤瑞木(ながさわ みずき)さんです。元々は教員になることを目指していたという長澤さん。教員になる夢がどのように変わり、コーチング事業を行う会社を起業するに至ったのか、現在に至るまでのお話と教育のこれからについてお話いただきました。 コーチング事業を行う経営者であり研究者として ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 北海道出身で現在は子供向けのコーチング事業・マインドフルネスを扱う事業を行う会社、株式会社fustの代表取締役を務めています。 また、東京学芸大学大学院の教育学研究科 教育AI研究プログラムの修士2年生でもある他、今年の3月からは情報経営イノベーション大学(iU)の客員教授としても働いています。 ー株式会社fustという社名にはどのような意味が込められているのでしょうか。 fust:は”future starts today(未来は今日から始まる)”という言葉の頭文字を取ってつけました。子どもたちに、目標を見つけて行動すれば、どんどん道が開け可能性が広がるということを伝えたくてこの社名に決めました。もちろん、会社としても、自分自身も課題意識を持って成長していくことを追求していきたいという思いも込めています。 ー素敵ですね!株式会社fustで行っている事業についてもう少し詳しく教えてください。 株式会社fustでは現在主に2つの事業を行っています。 1つ目が小学生から高校生を対象にしたオンラインコーチングサービス「Candle」です。これはオンライン家庭教師のコーチングバージョンのようなサービスになります。 そしてもう1つが教育に特化したコーチングプラットフォーム「Edu Coaching Lab」になります。こちらは昨年末にクラウドファンディングを行い、リリースしました。先生や保護者、大学生など教育に関わる方でコーチングに関心のある方々が現在161名在籍しているコミュニティになります ー子ども向けのコーチングというと具体的にどのようなことをされるのでしょうか。 それぞれのテーマに関する葛藤と向き合う時間を提供し、目標設定を一緒に行います。よくあるテーマであれば、部活動・勉強・生活習慣ですね。例えばコーチと一緒に勉強の計画を立て、1週間後に計画通りに進んだかどうかの振り返り(リフレクション)をコーチと行い、改善案を話し合うなど、コーチが一緒に伴奏していくんです。 現在はコーチングに興味を持たれている保護者の方からのお申し込みが中心ですが、今後コーチングがどんどん広まり、子ども自らが申し込むという流れもでてきたら嬉しいなと思っています。 教育実習で感じたもどかしさから教員以外の道も考えるように ー現在に至るまでのお話もお聞かせください。教育に興味を持ったのはいつ頃のことだったのですか。 両親が教員だったため、教師という仕事が身近にあったことが大きく影響しています。小学生の頃からなんとなく教員になることを目指していた感じです。両親が楽しく働いているのを見ていたことや、父が働きながらも博士課程で研究を続けていたことなどから教員という仕事に対してポジティブなイメージしかなかったからだと思います。 とはいいつつも、小学2年の頃から始めた野球に小中高とずっと熱中しており、特に教員になるために何かをしていたとかではなかったです(笑) ー本格的に教員になりたいと思ったのはいつだったのでしょうか。 大学の進路について考えたときです。将来何をしたいかを改めた考えた時に、やっぱり教員になることが思い浮かび、北海道教育大学に進学を決めました。 ーその後、教員を目指すのを辞められたのは何がきっかけだったのですか。 大学3年の夏休み期間中に教育大学付属の小学校に5週間、教育実習に行ったのがきっかけでした。 すごく楽しく、充実していた教育実習期間ではあったのですが、もどかしさも感じる教育実習でした。というのも、クラスには塾などに通っているため勉強ができる子と勉強が苦手な子が必ずいます。そのため授業の構成を作るときには、その間のレベルに合わせて作るのですが、それでは特に算数など積み上げが前提の教科で勉強ができない子はどんどん置いていかれてしまうんです。これだけテクノロジーが発達しているのだから、コストを度外視すれば、一人ひとりの学びのペースにあった教育を提供できる方法はないのかと考えるようになりました。 ー教育実習の気づきを経て、その後何かアクションを取られたのでしょうか。 大学でも硬式野球部に所属しており、教育実習前まではずっと野球漬けの生活を送っていたのですが、教育実習後はプレーヤーとしてではなく学生コーチという立場でチームに貢献することを選びました。その代わり、野球に費やしていた時間の一部を学びに投資することを決め、学外の様々な勉強会やセミナーに参加するようになりました。   コーチングが基盤となった教育の可能性を感じた ーコーチングとの出会いも教育実習後のことですか。 そうです。学びの場に積極的に参加する中でこれからの教育現場にはコーチングが必要だと言う考えを発信されているコーチとの出会いがありました。自分自身もコーチングを受ける中で教育現場でのコーチングの必要性を感じるようになりました。 ー具体的にはどのあたりにコーチングの魅力を感じられたのでしょうか。 教育におけるコーチングの特徴は子供が主体であることです。教育者はあくまでもサポートする立場で、子供の魅力を引き出す役になります。前に立つのではなく、横に立つあるいは後ろから支える、そんなスタンスに魅力を感じましたね。 ーそこからコーチングの学びを深められたのですね。 コーチの方がオランダ教育に注目されており、話を聞く中でコーチングが基盤となった教育を自分の目で見たいと思い、クラウドファンディングで支援を募ってオランダに視察にいくことになりました。北海道では当時まだまだクラファンは主流ではなかったのですが、目標金額を30万円を3日間で集めることができ、結果的には78万円のご支援をいただいてオランダに行くことができました。 ーオランダ視察はいかがでしたか。 1週間で3つの教育施設を視察させていただいたのですが、コーチングが想像以上にオランダの教育の中核にあることに驚きました。先生の生徒との接し方など全てがコーチングをベースに行われていました。 また、オランダでは教育養成大学の場合、コーチングの授業がある他、1年目から教育実習でコーチングの実践を行う機会もあります。日本の場合、教育実習は短期間に集中して行われますが、オランダの場合1週間に1回の教育実習が4年間行われるんです。 ー教育実習一つとっても日本と異なるんですね! オランダ視察をきっかけにオランダ以外の教育先進国と言われる国を見たいと思うようになり、帰国後再びクラファンを行いました。この時は5人でクラファンを行い、250万円程の支援をいただき、アメリカとカナダに1週間ずつ行ってきました。 アメリカではセキュリティ面で小中高への視察が難しかったため、大学に訪問し研究者などにインタビューをしたり、コーチングのカンファレンスに参加し、カナダでは小学校と中学校に視察させていただきました。 ーアメリカとカナダに訪問して、教育に関して新たな気づきはありましたか。 アメリカの特徴としては州ごとの教育の格差が大きいと感じました。一方カナダでは地域ごとの差は少ないもののお金を出せば出すほど良い教育が受けられるという現状があることに気づきました。 その後も合計6回のクラファンを行い、9カ国に訪問し視察を行ったことで、初めは海外の教育の良い点ばかりに注目していましたが、徐々に日本の教育の良さも気づくことができたのはよかったなと思います。 ー長澤さんの行動力はどこからきているのでしょうか。 失敗は必ず次に活かせると思っているからです。そして失敗するなら早ければ早いほうがいいなと思っています。 海外視察を行った際、海外には失敗しても挑戦し続けることを称賛する土壌があるなと感じました。日本でも、失敗材料が成長につながるという考えが主流になり、もっと挑戦しやすい環境になればいいなと思いますね。 ウェルビーイングを起点に教育を再定義していく ー大学卒業後の進路についてはどのように考えられていましたか。 アメリカ訪問時に参加した学会で現地の学生たちと交流する機会があったのですが、その時に印象的だったのが「あなたは人生で何を成し遂げるの?」と聞かれたことでした。日本にいるともっと短期的な視点での質問を聞かれることが多く、あまりそのような質問を聞かれることがなかったので、即答できなかったんですよね。アメリカへの訪問は自分が人生の時間を何に使い、どのように貢献したいかについて改めて考える機会ともなりました。 その結果、教員になるのを辞め、大学院に進学しました。研究は楽しかったのですが、実社会の教育にどのようなインパクトが与えられるのかを考えた結果、ビジネスを通して公教育に外からアプローチすることに挑戦してみたいと思いが1年前の起業につながりました。教育現場を外から支えることにチャレンジすることに価値があると思ったんです。 ーコロナ禍で起業されたんですね。 ちょうどコロナということで大変だったけど思い出に残る創業1年目になったなと思います。特にすべてのサービスをオンライン前提で構築するのはある程度想定はしていたものの、難しかったです。 一方で教育実習時に感じていた教育現場のテクノロジーの活用の遅さはコロナによってある程度進んだことはよかったなと思っています。当時は2025年にITが教育現場で活用されるかどうかというレベルで、実現さえも怪しかったですがコロナのおかげで環境整備が進んだように思います。すべての子どもたちに対して平等に教育を提供するのが公教育です。テクノロジーによって子どもたちそれぞれの学びのペースに合わせた教育が実現されるのが理想ですね。 ー今後AIはどう教育に活かすことができると考えられていますか。 現状行われていることとしては、子どもたちがどこまで理解できているのかなどをAIで分析して教科教育の効率化を図るというのがあります。 今後はどうやってAIを活用してどう子どもたちの心に寄り添うかが課題となると思っています。コミュニケーションを可視化できるのがAIの利活用です。AIが子供の心に寄り添うことができるようになれば、コーチングにおいてもAIとコーチのハイブリッド型で子どもたちをサポートすることが可能になります。 ーその実現が楽しみですね!最後になりますが、長澤さんの今後の目標などがあればぜひ教えてください。 子どもたちの幸せをウェウビーイングを起点に教育を再定義していきたいと思っています。子どもたちの学力を高めることがキャリアの選択肢を広げるなどといった側面から教育に携わる方も多くいるかと思いますが、子どもたちの心理的な幸福度を高めることを目標に、ビジネス・研究という2つの視点から少しでも教育に貢献していきたいです。 ー今後のご活躍、応援しております!本日はありがとうございました。 インタビュー:あおきくみこ(Twitter/note) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

畏敬の念を意識しながら、つながりの力を大事に。株式会社ライフノート代表・町塚俊介

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第276回目となる今回は町塚俊介さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。つながりの力で人と組織が活きるを理念に、コーチングや組織開発を中心とした事業を行う株式会社ライフノートの代表である町塚さん。キャリアに関するお話に留まらず、大事にされている「自然」への考えについてお話いただきました。 人と組織の成長支援を、鎌倉で ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 町塚俊介と申します。生まれは静岡県静岡市駿河区で、山を背にして目の前が田んぼといった「THE 日本」な田舎環境にて育ちました。大学入学を機に上京し、5年程前に鎌倉の寺社仏閣エリアに移動し、現在は拡張家族スタイルで家族四人と知り合い三人と住んでいます。 ー拡張家族についても気になるところですが、まずは現在のお仕事について伺わせてください。 人材育成や教育プログラムの開発や人の成長に寄り添うコーチをしています。 具体的には、神奈川県の産業振興施策「HATSU鎌倉」という0→1を担う新しい事業を創出する起業家を支援するプログラムやコミュニティの運営と、みなとみらいにある1→100を担うベンチャー企業の成長促進拠点にて、動いている2つのアクセラレーションプログラムを繋ぐコミュニティの運営が現在の主な仕事です。 また、学校の教育変革にも携わっています。従来の画一的な教科学習としての教育から、より個々人の興味や主体性に寄り添った教育に変わっていく中で、その現状に対応する先生方の生徒への関わり方などのスタンスをアップデートするための活動を全国で展開しています。   振り返って気づいた幼少期の影響 ー少し過去に遡って現在に至るまでのお話も聞かせてください。幼少期はどんな子どもでしたか? 小さい頃は長男気質で、ゲームマスターみたいな感じでした(笑)兄弟やいとこが年下だったこともあり、遊ぶ仲間は年下が多かったので、みんなの得意・不得意を意識しながらその都度全員が楽しめるようなルールを作って遊んでいました。 中学時代はいわゆる社会性や慣習を学ぶタイミングでもあったと思うので、周囲の空気に合わせることを経験を通して学んだような気がします。「ちゃんと」していましたね。 あとは、頑張り屋なところもありました。小学4年生の終わり頃から県下一厳しいと言われた硬式野球部に入りました。楽しそうな他の部活もあったのですが、敢えてストイックな方を選び「頑張ってやるぞ!」と思っていました。 ーなるほど。何故あえて厳しい方を選ばれたのでしょう。 当時の僕は「完全無欠マン」を目指していたんです。一流企業の社長になりたいとか、どこか理想的で超人で完全無欠な何かになろうとしていました。今でも「完全無欠」を求める自分もいますが、同時に今は「ありのまま」を受け入れられるようにもなりました。 ーその、完璧でありたいという想いはどう育まれたのか覚えていたりしますか? これはとても明確で、小さい頃の記憶によるものだと思っています。 重度のアトピー持ちで生まれたのですが、人によっては見るに耐えないような肌・容姿だったんですよね。そのため当時1~2歳の大変だったであろう頃の写真があまり無いんです。 また、親族にとっては待望だった長男がアトピー持ち…といったこともあり、悪気が無くとも心配の声が届き、その声が親や自分自身に影響したなと思っています。母が僕に対して「ごめんね、ごめんね。」と、不完全に産んでしまった罪の意識からか言われたという小さな頃の記憶があるんです。その、どこか欠けている意識の反動から、完璧で完全無欠の存在になりたいという強い衝動を持ったのだと思います。 ーそれは、記憶としてずっと残っていたのですか? このことに気づいたのは大学入学後のことです。師匠・メンター的な存在の方と話す中でだんだん気づいたというか…出会いを通して記憶を辿った先で言語化できるようになりました。   コーチング・成人理論での事業立ち上げ ー大学では経済学部に入学されたようですが、現在の町塚さん自身の活動に関連あるコーチングや成人理論などの分野に触れていくきっかけは何だったのでしょう? 本当の意味で「誰かの役に立てた」という感覚を体験できたことが大きかったような気がします。当時お話をした方や一緒に活動をした方から「あなたのおかげで人生が変わった」という感謝の手紙を頂いたことがあります。まだ当時は「コーチング」という概念が無かったので、本当にただお話をしていただけという感覚なのですが… ー確かに「コーチング」という概念はここ数年で急速に広がったように思います。 起業した初期の頃は、コーチングでは無くて「1 on 1」と言っていました。ここ数年でto Cに広がった感じがありますよね。社会がコーチングを必要としているというこの流れは良いなと思っています。 2016~2017年は「ワークル」というコミュニティ・対話を通して人の力を引き出すことを掲げたサブスク型サービスを提供していました。当時は、新しい文化を創ることや、行動変容に伴う社会変容に対して高いモチベーションがあったのですが、その頃の自分を振り返って現在のコーチングのto Cへの流れをみると、嬉しい気持ちになりますね。 ー様々なことに取り組まれてきていますが、何か新しいことを始めるときは今までの活動はどのように収束させてたのでしょうか。 先に例にあげた「ワークル」は、思えば、突然やめた感覚が大きいですね(笑)実績が出ていた側面もあれば、事業として至らない部分もあって。「社会に大きな変革を起こすぞ」と一念発起したものの、活動を続けていく中で「これじゃだめだ。この活動では社会を変えられない」ということに途中で気付きました。 その結果、これから社会へインパクトを残すであろう企業の組織開発に携わって豊かにしていこうという方向へ変わりました。役目を終えた葉が土に還るような時もあれば、ぶちっと枝から切れることもありますね。 ーひとつの組織として社会を変える難しさを経験し、現在は組織やコミュニティにアプローチするというやり方をされているのですね。 当時はまた今とは違った景色を見ていたんだと思います。今は「個にして全体である」というか、繋がり合って影響し合う意識を大切にしています。   自然の理を学びながら、つながりの力を大切に ー「自然」に対して目を向けられている印象もあります。町塚さんは人間の内面の表現方法として、よく「自然」をリンクさせていますよね。 これは実家の環境による影響が大きいかなと思います。ジブリの隠れた名作に「柳川掘割物語」という作品があるのですが、その作品では、人が水とどう共生していくのかなど、自然との関わり方について語られています。アニメーションを活用したドキュメンタリー映画で、またの名を「もうひとつのナウシカ」とも言われているようで。この作品を見て以来、地元に帰るたびに自然とどう関わりたいかについて考えさせられるようになりました。 今は、自然からは実践を通じて、自然の「理」を学ばせてもらいながら関わっていきたいなと思っています。対話やコーチングは、人間の内側にある心理を学んでいく行為ですが、自然の理にかなっているのかというのを実践を通じて学んでいける点に尊さを感じています。 今住んでいる北鎌倉には、誇るべき里山や緑地があるので料理をするなど、自然の理を体を通して学んで、楽しんでいきたいです。 ー自然を体感して考え、そして感じるを大事にされているんですね。 そうですね。「人間とは考える葦である」という言葉は、考える力があることによって、弱かった人間は自然をコントロールし、活用することができると捉えることができます。これも必要な価値観だと思っています。 一方で、「自然に還り、自然に従う」ということも大事だと思っています。むしろ自然を活用するという考えを習得した後は自然に還るという流れに最終的に至るのではないかと。自然に還り、自然に従うのは決して簡単に体現できるものではないかと思いますが、そこを自然に触れながら呈していきたいです。 ー直近、自然に触れ、考える中で感じた気づきはありますか。 昨日はグリンピースの鞘を、スジをとって食べる実験をしてみたのですが、スジを断ち切ることが出来なくて。その時に人間は食物にすら敵わないんだと痛感しましたね。科学化した、脳が発達した人間は、全てをコントロールできると思っているところがありますが、実際は違うということに気付くことが多いです。 気候変動に関する国際機関のレポートを読んでも、地球や宇宙の動きに比較すると人間の力なんて大したことないなと気づかされます。自然も、自分より大いなるもので、私たちはその中の一部であるにしか過ぎないんですよね。 そういう意味では今後、自然は簡単に太刀打ちできるものではなく、それくらい自然は偉大なものであるという考え方、「OWE(畏敬の念)」が注目されていくのではないかと思っています。 ーOWEは初めて耳にしましたが、確かに必ずしも人間が自然を全てコントロールすることは難しいのではないかと思います。 自然へのアプローチや自然との向き合い方は様々だと思います。個人としては自然に関わる活動を芸術(藝術)的なものとして捉えています。藝術の藝という漢字は草木を植える人間の姿の象形が語源となっていると言われているんですよね。自然との関わり方の中で人間が内側で感じる心理的なもの、学び、インスピーレションが「藝」なのかなと。自然を味わいながら、自然と向き合い、自然と関わっていけたらいいなと思っています。 ーなるほど…最後になりますが、今後の目標などがあればぜひ教えてください。 毎年、年始に今年の目標を書き初めにするが我が家の恒例行事なのですが、今年は1枚目に「無理しない」、2枚目には「内理(だいり)にかなう(=内側の理に従う)」と書きました。今年は、この二点について探求していきたいと思っています。 「世界には三つの象限がある」という概念があります。そのうち第二象限にドリーム・ランドという、僕が「水面下の意識」と認識している象限があるんです。この象限では人々が分かち合える、一体になれるイメージを持っているのですが、そんな動きを大切にしたいです。みんなが持っている力やエネルギーが上手く循環するように、流れを司れるようになれたらなと思っています。 ーありがとうございます。これからの町塚さんのご活躍も応援しています! 取材:吉永里美(Twitter/note) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

PTSDを乗り越えCOOに!カンボジアで日系飲食企業を経営する野村友彬に学ぶ、チャンスに飛びつくことで変わる未来

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第354回目となる今回のゲストは、カンボジアにあるFOOLAB CO., LTDでCOOとして活動している野村 友彬(のむら ともあき)さんです。 割烹で約3年間修行し、大将からの厳しい指導からPTSD(以下、鬱と呼ぶ)を発症。約1年半の療養生活後、ジャパンハートカンボジアでのボランティア活動期間を経て、現在の会社に就職します。そんな野村さんが、人生に立ちはだかる壁にどのように向き合い、乗り越えてきたかをお伺いしました。 暴力・鬱・療養生活……。知らず知らずのうちにすり減っていた “心”  ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 カンボジアにある日系の飲食企業「FOOLAB CO., LTD」でCOOをしている、野村友彬と申します。割烹での修業、カンボジアへの渡航、医療系団体「ジャパンハート」での事業立ち上げを経て、FOOLAB CO., LTDに就職することになりました。 ーまさにユニークなキャリアですね。本日は、野村さんの人生をさかのぼり、今の野村さんが形成された経緯を伺えればと思います!学生時代はどのように過ごされていましたか? 野球の推薦で高校に入学し、寮生活をしながら甲子園を目指していました。 プロを目指していましたが、入学してすぐの夏の大会で、他校の子たちが自分のチームのエースからホームランを打つ姿を見て、野球ではやっていけないと判断しました。 ー早いタイミングでの決断ですね。 圧倒的な差があったので悔しさもなく、「こんなんあかんわ、無理やわ」とさっぱりした気持ちでした。その後、父親がケーキ屋をしている影響で料理の道へ進むことを決断し、専門学校へ入学しました。 ー専門学校でどのように過ごされたのか教えてください。 入学後すぐに就職活動をしなければいけなくて、専攻は和食を選びました。初めてのバイト先で可愛がってもらいそのまま就職したのですが、就職した途端に大将が豹変して。頻繁に暴力を振るうようになったのです。 ただ、高校野球で先輩からのいびりに耐えてきたので忍耐力がついていましたし、父親から「修行っちゅうのは厳しいもんなんや」と言い聞かされていたので、耐え続けていました。 ー「こういうものだ」と受け入れていたのですね。 そうですね。比較対象がなかったので、良いか悪いかの判断もできませんでした。お店を辞めたのも、ある日喉を殴られたことでご飯が食べられなくなり、そのことを兄にぽろっと言ったことがきっかけです。 父親に言ったら「甘えたこと言うな」と言われる気がして、両親には秘密にするよう伝えたのですが、兄が心配しすぎて言ってしまって……。するとすぐに父親から電話がかかってきて、「お前なんでそんなところで働いてんねん」と言われました。 「え、これあかんの……?これがあかんかったら、あれもあかんの?」と、いろんなことがダメだったのだと気づいて、次の日に退職し、久しぶりに実家に帰りました。 玄関のドアを開けた瞬間、母親が私の顔を見て号泣。「あかん、あんた体重計乗って」と言われて体重を測ると、20キロほど落ちて48キロになっていたのです。次の日病院へ行くと、重度の鬱になっていました。 ーご自身では鬱だと気づかなかったのでしょうか? 気づかないですね。勤務中吐いてしまったり、味覚を感じなかったりしましたけど、疲れているだけだと思い、気づく余裕すらなかったです。 ー鬱だと診断されてからどのように過ごされていたかお聞かせください。 3~4カ月ほど何もせず、外出もできなかったです。最初はトライしましたが、阪急電車内で上司が部下を叱っている姿を見て吐いてしまったり、梅田の人混みで大将と似た人を見かけて倒れてしまったり……。 父親の反対を押し切って割烹の世界に入ったので、父親に弱っている姿を見せないように自室にこもるようになってしまいました。   3人のパワフルな恩師と出会い、人生の歯車が動き出す ー鬱になった後、どのように立ち直られたのでしょうか。 1年半の療養生活中に、3人の恩師と出会ったことがきっかけで回復へと向かうことができました。まず1人目は、松下政経塾の塾頭をされていた上甲晃先生です。 私の父親はとても頑固で人の話を聞かないのですが、ある日突然「ちょっと市内まで車で送ってくれへんか?」と言われて、何をするのか聞くと、「上甲晃さんの講演会聞くんや」とのこと。 「父親が話聞くなんてどんな人やろ?」と思い、ついていくと、壇上に汗をほとばしらせながら力強く語る上甲先生の姿がありました。「人間とは」についてものすごくパワフルにお話している70代の上甲先生と、生きる気力をなくして毎日引きこもっている21歳の私。 「この人についていきたい」と思い、講演会後に上甲先生のもとへ行き「学ばせてください」と言うと、“青年塾” という私塾を勧められ、入塾することにしました。上甲先生との出会いが、私の歯車が回りだしたすべてのきっかけでしたね。 ー入塾することを決めたときも、療養生活は続いていたのでしょうか? そうですね。まだ電車の中で吐いてしまう状況だったので、入塾式に行けるか心配でした。なんとか入塾式へ行くと、1人遅れて女性が入って来て、その方がジャパンハートの理事長である吉岡春菜さんだったのです。 春菜さんの最寄り駅がたまたま私の隣駅だったので、帰りの電車でたくさんお話をしました。実は春菜さんは女医で、東日本大震災のときに被災地に行って、子供たちの心をケアする活動をしていたのです。 春菜さんはPTSDに詳しく、私もPTSDだと診断されていました。それからというもの、プライベートは春菜さんにカウンセリングで支えてもらい、春菜さんに紹介していただいた病院に通ったことで、症状はどんどん回復していきました。 ー吉岡春菜さんが、2人目の恩師だったのですね。 はい、そうです。3人目は、春菜さんの旦那さんの吉岡秀人さんです。春菜さんからジャパンハートのお話を聞いて調べてみると、創始者である秀人さんは情熱大陸に3回も出てたんですよ。 父親が商売人なのに対して、真逆である非営利の活動をしていて、心から尊いなと思いました。一度お会いしてみたいと思っていたある日、父親のケーキ屋がオープンしてすぐ、吉岡ご夫妻が来店してくださったのです。僕もたまたまその時期だけ父親のケーキ屋の開店作業だけ手伝っていたこともあり、お会いできました。 そこで秀人さんから、「今下がってるのは、次飛ぶためにしゃがんでるときやからや」「飛行機も向かい風ないと飛ばれへんねや」と、パワフルな言葉をたくさんいただきました。 そしてなんとその場で、「野村くん、カンボジア来てくれへんか?」と言われ、「何かわからんけど行きます!」と、カンボジア行きを即決しました。   カンボジアで事業に邁進。父親に1人の人間として認められ、自信を取り戻す ーカンボジア渡航を決断してから、どのように過ごされましたか? 最初は、秀人さんは私を料理人として呼んでくれて、ジャパンハートでの活動を始めるにあたって下見のためにミャンマーへ行きました。下見だけするつもりでしたが、現地の看護師さんが患者さんたちに真剣に向き合っている光景を目にして、私も何かしたいと思いました。 それと同時に、自分が今悩んでいることがちっぽけに思えて……。今までずっと自分に向いていた矢印が、一気に外側に向きました。身を粉にして頑張っている看護師さんや、辛い中でも笑顔で感謝する患者さんたちを見て、この人たちの力になりたいと思い、現地にいた方々に料理をふるまい続けました。 それを見ていた秀人さんが、「カンボジアで新しい事業を立ち上げるから、やってくれへんか」と言ってくれたのです。 ー新しい事業とは、どんな取り組みですか? 抗がん剤治療中の小児がんの子供たちが不衛生なご飯を食べることのないよう、給食施設を作るプロジェクトを任せてもらいました。 建物の設計をしたり、資金集めをしたり、管理栄養士さんを探して日本から呼んだり、幅広く活動していましたね。その過程で学んだプロジェクト管理やタスク管理術は、今にも活きています。 ー給食施設が完成したときの心境を教えてください。 完成した日に行った竣工式に、今まで寄付してくださった方々をはじめ、上甲先生や両親も初めてカンボジアに来て参加してくれました。 今まで父親に褒められたことはなかったのですが、初めてみんなの前で「よくやった。誇りに思う」と言われて、その横では母親がめちゃくちゃ泣いていて……。父親に認められたのはたまらなく嬉しかったですし、事業に邁進していく中で自信を取り戻し、症状も回復していきました。   過去の経験が成長の糧となり、店長からCOOへと駆け上がる ープロジェクト立ち上げを経験された後、どのように過ごされていたのでしょうか。 カンボジアで知り合いを増やしたいと思い、ある日「アラサー会」というバーベキューイベントに参加しました。でもなかなか打ち解けられず、ずっと肉と魚を焼いていて……。すると横で一緒に焼いていた方に「料理やってたの?」と声をかけられて、よく聞くとFOOLAB CO., LTDのオーナーでした。 今までの経歴を説明するとその場で名刺を渡され、「店長任せるからうちの会社に入ってよ」と誘われたのです。当時はまだジャパンハートに在籍していたので、週5日はジャパンハートで働いて、週末の2日は夜だけその居酒屋で店長をすることになりました。 従業員はカンボジアの子ばかりで、英語もあまり話せなかったので不安でしたが、自分なりの改善提案によって良い方向に進むような “小さな成功体験” が楽しくて、そのまま就職することを決めました。 ー大きな決断ですね。就職してから苦労したことはありましたか? カンボジアでは2020年3月中旬にCOVID-19の第一波が来て、その影響で売上は70%減、私の給料は半額になりました。「環境に左右される業界でキャリアを積むのはどうなんだろう……」と思いましたが、このまま負けてたまるかという気持ちもあって。 会社を辞めることも視野に入れつつ、社長に私なりの改善案を伝えました。当時は各店舗に日本人マネージャーが1名ずついたのですが、各マネージャーごとで能力差があり、「あの人はこうすれば店は伸びるのに」という感覚があったのです。 それを伝えると、私に全店舗のGeneral Managerを任せてくれることになりました。COVID-19が収束に向かったこと、小さい頃から父親の会社でお手伝いをしていたこと、ジャパンハートでマーケティングをしてきたことのすべてが重なって、お店の業績は上がっていきました。 ー今までの経験が結果に結びついたのですね。 そうですね。その結果、社長が私をCOOに任命してくれました。General Managerはカンボジアの方に任せて、メインで店舗に立つのはカンボジア人だけでもおいしい日本食の料理を提供して、お客さんを満足させられるお店を作りたいと思っています。   食 × 医療の領域で挑戦をし続け、苦しむ子たちを1人でも多く救っていく ー「この業界でキャリアを積んでいっていいのかな」という迷いもあった野村さん。これからどのようなキャリアを歩んでいきたいですか? あと5年くらいはカンボジアにいると思います。実は、兄がパティシエとして父親の会社を継いで、私が経営陣として入って、父親の会社をもっと伸ばすという目標があって。 そのために、利益をあげるにはどうすれば良いのか葛藤する時間を作りたいと思っていて、今の会社は経営を学ぶには最適な環境なので、しばらくは在籍しようと思っています。 長期的な目標は、医療業界の力になることです。ジャパンハート時代に、医療の尊さ・素晴らしさを身に染みて感じましたし、私自身、医療に助けられたので! ー「個の時代」と言われている現代において、野村さんが今までユニークな経験をされてきたことには価値がありますね。最後に、野村さんの将来の夢やなりたい姿を教えてください。 将来の夢でいうと、自分自信が苦しい経験をしてきたので、手の届く範囲だけでも苦しむ子たちを救いたいです。とにかく私にできることがあれば何でもやりたいですね。 なりたい姿でいうと、死ぬまで人に必要とされたいです。今まで生きてきて「楽しい」と感じるのは、人に必要とされたときなんですよね。求めてもらえる人になれるよう、これからも自分を高め続けていきます! ー野村さんが食と医療の領域で、これからどのような変革を起こしていくのか楽しみです!野村さんの今後のご活躍、応援しています。本日はありがとうございました。   取材者:増田稜(Twitter) 執筆者:Moriharu(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

「世に溢れる言葉に復讐を」アーティストWasaVi Milanが社会に叩きつけるアンチテーゼ

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第326回目となる今回は、アーティストとして活動しているWasaVi Milanさんをゲストにお迎えし、現在に至るまでの経緯を伺いました。 「世に溢れる言葉に復讐を」というコンセプトのもと、楽曲制作を中心に活動されているWasaVi Milanさん。制作の源泉は、理想と現実の間で葛藤した過去だとのこと。 音楽家になりたいという夢、現実の自分、周囲からの言葉。三つの対立の中で感じたこととは?アーティストとして活動する今、曲に込める思いとは?社会に発信したいこととは?WasaVi Milanさんの思想や価値観にじっくり迫りました。 ー自己紹介をお願いします! アーティストとして活動しているWasaVi Milanです。 House of MilanというニューヨークのVOGUEチームに所属しています。 楽曲制作を中心に活動しており、ゲイカルチャーから生まれたVOGUE Beatsというジャンルをベースにしています。 現在は、プロダンスリーグの「D.LEAGUE」で楽曲提供を行なっており、Round4で優勝した「Benefit one MONOLIZ」というチームが楽曲を使用しています。   ーWasaViさんが活動のフィールドとされている「VOGUE」というのは、どんなカルチャーなのでしょうか? 1960年代頃にニューヨークのゲイ達の間で生まれたカルチャーです。 当時、偏見や差別が横行していたため、彼らは自分のセクシャリティを隠す必要がありました。そうした抑圧の中で、本当の自分を表現できる場所として生まれたのが、VOGUEです。 僕がVOGUEに出会ったのは大学1年の時でした。フラっと訪れたクラブで見た瞬間ビビッときて、その時から今までずっと夢中になっています。 僕自身もゲイでしたが、以前はゲイであることを隠して生きていたんです。 このカルチャーに出会ってから、ゲイであることを恥じなくなったので、自分のアイデンティティには不可欠な要素ですね。   ーWasaViさんのこれまでの人生にも遡ってお聞きしたいと思います!     夢は叶うと信じ、音楽家を目指す ー幼少期はどんな生活をされていましたか? たくさん習い事をさせてもらえるような、恵まれた家庭で育ちました。 3歳の頃に始めたエレクトーンから、サックスや三味線、鼻笛など様々な楽器をやっていました。 一人っ子だったこともあり、親からは大切に育てられましたね。何一つ不自由はありませんでした。   ー音楽の英才教育を受けられていたんですね...! この頃は、純粋に音楽家になりたいと思っていました。 周りの大人も褒めてくれますし、努力を続ければ夢は必ず叶えられると思っていました。   ー生まれた時からゲイだったとのことですが、この頃から親御さんには伝えていたんですか? 今でもトラウマになっているのですが、打ち明ける以前に怒られたことがあります。 小学生の頃に、自分はゲイなんだろうかと気になり、ネットで調べたんです。すると、検索履歴からバレて「こんなものを見てはダメだ」と言われてしまって。 このことから、幼いながらに「ゲイであることはいけないこと」なんだと感じました。 それ以降、女性らしい仕草や喋り方は避け、自分のセクシャリティを隠すようになりました。それどころか、ゲイの人が嫌いになってしまい、セクシャリティを公にしている人達に対し否定的な感情を持つようになりました。   理想と現実の間で生きる意味を見失う ー自分もゲイであると自覚しながら嫌いになる、とは窮屈な気持ちだったでしょうね...。 中学や高校の頃はどのように過ごされていたんですか? この頃から、現実と理想の乖離に悩むようになりました。 要因は、自分のセクシャリティに加え、音楽の実力でした。 幼少期は、努力次第で思い通りの人生にできると考えていました。 それが年齢を重ねるごとに、コンクールで賞を獲れなかったり、練習をサボりたいという気持ちに勝てなかったりする局面が増えてきて。 自分の実力を自覚し始め、理想に近付くための努力ができない自分を恨むようになりました。 そんな風に過ごしているうちに、理想の人生を歩めないのは死んでいるのと同じだ、と感じるようになりました。 理想が現実になることなく、ただ幻想を追い求めながら生きる未来は、当時の自分にとっては絶望以外の何物でもありませんでした。   ー理想と現実の乖離に苦しめられていったんですね...。 生きる意味を失った自分に対し、周りの人は色んな言葉で励ましてくれました。 「生きることは素晴らしい」「ありのままの自分でいい」といった、「自分の生」を肯定するものでした。 夢を叶えられていなくても、のうのうと生きている自分を出任せに肯定する。 悩みに寄り添うことなく、ただ価値観を押し付けるように発せられる彼らの言葉からは、とてつもない無責任さを感じました。 そんな時に、自分の心を癒してくれたのは自殺サイトの書き込みでした。   ー自殺サイトとは...。そんなにも追い詰められてしまっていたんでしょうか? 僕自身がサイトに書き込むことはありませんでしたし、死ぬことを実行に移そうという考えもありませんでした。ですが、そこには自分と同じように、それぞれの悩みに苦しみ、葛藤している人々の言葉がありました。 当時、慢性的な生への諦めを感じていた自分は、掲示板のネガティブな言葉に安心を感じました。 社会の明るい言葉によって自分の世界が塗り替えられても、自殺サイトの暗い言葉でまた塗り直すことができる。サイトを覗けばいつでもありのままの自分に還れましたし、そのことによって生を保てていたように思います。   悩みから目を背け、フェイクな幸せに身を任せる ー自殺サイトの書き込みに、自分らしさを見出していたんですね。 中高時代の葛藤は、どのように折り合いをつけたんでしょうか? 大学進学まで折り合いはつけられませんでしたね。 中高一貫校で、ほとんどの人が大学進学する中で、自分も流れるように大学へ進学しました。 入学後は、それまでの悩みは消えていき、目の前の物事を楽しめるようになりました。   ーそれは良かったですね!どんな変化があったんでしょう? 新しい環境で色んな人や物事に出会ったことで、それまでの苦しみを忘れることができました。 でも、それは決して過去の悩みが解消されたわけではなく、悩む自分に向き合わなくなってしまっただけだと思います。リアルな自分に蓋をし、ひたすらにフェイクな幸せを追い求め、身を任せるように過ごしていました。   ー大学卒業後は、どのような進路にされたんでしょうか? 新卒で広告代理店に入社しましたが、1年10ヶ月で退職しました。 音楽家になるという幼い頃からの夢を、どこかで諦めきれずにいたんだと思います。 自分をマーケティングできるようになる、という構想も就活時にあったので、将来音楽家になることは、当時から無意識のうちに視野に入れていました。   ー念願の音楽家になってみて、どのようなお気持ちですか? アーティスト活動を初めて間もないので、良くも悪くもなく、これから頑張ろうという気持ちです。 ただ、現実と理想の間で真剣に悩んでいたあの頃に比べ、自分とあまり向き合えなくなってしまったと感じています。当時の感覚を思い出せない点には危機感もあるので、これからしっかり向き合っていきたいですね。   音楽で「世に溢れる言葉に復讐する」 ーWasaViさんの活動はまさに始まったばかりですもんね...! ご自身が楽曲を通して伝えたいことや、制作におけるこだわりって何ですか? 僕は、「世に溢れる言葉に復讐する」というコンセプトのもとで制作活動をしています。その源泉は、社会による言葉に苦しめられた過去です。 ゲイだと言うと、過去の経験は辛かっただろう、と決めつけ同情する言葉。 職に就き自立した女性はかっこいい、家庭を守る女性は時代遅れだという言葉。 「夢はきっと叶う」「君はオンリーワンだ」「前向きに生きよう」など。 価値観やあり方を強制するような言葉を払拭し、アンチテーゼになりうる楽曲を作りたいと考えています。   ージェンダーに関する社会の風潮については、どう思われますか? ゲイの人が男性を追いかけ気持ち悪がられている構図や、女装をする人が色物扱いされる様子って、世の中にありふれていますよね。僕はそういう風潮から、ゲイは気持ち悪いものだと思うようになりました。 そんな風に、知らず知らずのうちに常識として形成され、形成されたものだということすら気付けないものがたくさんあると思います。 僕は、VOGUEというカルチャーに出会い、社会に植えつけられた価値観に気付けた。 自分らしく振舞ってもいいんだと思えるようになりました。 社会が多様性に対応していく必要はある一方で、その枠組みを社会が決めてはいけません。 多様性がそのまま受け入れられる社会になっていくと良いなと思います。   ー生き方について葛藤された過去をもつWasaViさんが思う、自分を偽らずに生きる方法とは何ですか? 社会による枠組みに、自分の力で気付くことはとても難しいと思います。無自覚のうちに刷り込まれ、常識になっているものを覆すには、他の全く異なる価値観に触れるしかないのでは。 その全く異なるものが、僕にとっては自殺サイトやVOGUEだった。自分らしさを取り戻すには、自分を救済してくれるものに手を伸ばすしかないと思います。 僕は、自分の考えを取り繕うことなく、ストレートな思いで歌詞を書いています。こんな考え方もあるということを、受け手に気付かせるというよりは、目の前にポンとある状態を目指しています。   ーWasaViさんが今後やっていきたいことについて教えてください! ずっと作品を作り続けていきたいです。そうすることによって、無駄な悲しみのタネをこれ以上増やしたくない。 僕の書いた曲をどう捉えるかは受け取った人次第であるけれど、世の中に発信し続けたいなと思います。   ーWasaViさん、貴重なお話ありがとうございました!   ▼WasaVi Milanさんの楽曲はApple Music, Spotifyなど各種音楽配信サービスで配信中! ・各種音楽配信サービス ・YouTube ▼WasaVi Milanさんについてもっと知りたい方はこちら! ・Instagram ・Twitter ・公式HP ・公式LINE   取材・執筆:中原瑞彩 デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

現役高校生・髙津悠樹が会社を設立、CTOに就任するまで

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第328回目となる今回は、株式会社UnpackedでCTOを務める現役高校生、髙津悠樹(たかつゆうき)さんをゲストにお迎えし、現在通っているN高での経験やインターン活動について伺いました。 高校生が始めた高校生のためのリーディングカンパニー ーまず簡単に自己紹介をお願いします。 学校法人角川ドワンゴ学園 N高等学校(以下、N高)2年生の髙津悠樹と申します。N高は普通の高校とは少し異なり、グループワークを行ったり企画をつくるような授業が多く、提供されているN予備校というeラーニングサービスでプログラミングや大学受験などといった様々なコンテンツを受講することが可能です。通信制もありますが、僕は通学コースで全日制の学校と同じようにキャンパスに通っています。 僕は起業部に入部しており、中澤、川添、三橋という友人と共に株式会社Unpackedを経営、CTOを務めています。起業部は学校が特に応援してくれている部活動だと感じていて、実際に入部するには何度かの審査を突破する必要があります。書類審査の段階でビジネスプランを提出、面接では自分の言葉で語れるかを審査されます。起業部には起業をしたいと思っている志の高い仲間が集まっているだけでなく、起業している方が講師として講演会を開いてくださるなど手厚いバックアップを受けることができます。 学業以外だとN高が運営しているN code laboというプログラミングコースでプログラミング講師のインターンを行ったり、チーズケーキの企画、開発、販売を行うMr. CHEESECAKEでマーケティングのインターンも行っています。 ー現在運営されている株式会社Unpackedの事業内容を詳しく教えてください。 株式会社Unpackedでは「U-18キャリアサミット」という高校生向けのキャリアサミットを運営しています。大学生は就職活動が身近にあるため先のキャリアを考える機会がたくさんありますが、高校生にはあまりないんですよ。大学進学に限らず、もっといろいろな自分の新しい価値観を見つめてもらうことを目的に「#なんとなくから卒業だ」を掲げてイベントを運営しています。 他にも「みらい事業部」という企業と高校生のマッチングを行う事業もやっています。「何かしたいけれども何をしたら良いか分からない」という高校生と、高校生と共にプロジェクトを進めたい企業を引き合わせ、プロジェクトやイベントを実施するような事業ですね。 僕はプログラミングができるのでCTOとしてUnpackedに関わっていますが、イベント運営がサービスの主軸なので、実際コードを書いて開発することはあまりありません。なんでも屋さんのような形で1日のtodo botをつくったり、スプレッドシートをつくったり、どちらかというと業務効率化のための基盤をつくっているような役割です。   8歳で人生最大の挫折、そしてプログラミングの世界へ ー髙津さんの幼少期にも遡って色々とお話を伺っていきたいと思います。8歳の頃に人生のどん底を経験したとのことでしたが、何があったのでしょうか。 幼稚園の頃からずっとサッカーをやっていたんですが、小学校2年生のときに交通事故にあい足の骨を折ってしまいました。リハビリを頑張って4年生の頃にはチームにも復活できたんですが、ブランクは想像以上に大きなものでした。小学校低学年から中学年にあがるタイミングで周りも上手くなっていて、試合や練習にもついていくのが難しくなってしまったんです。5年生の頃にはフェードアウトするような形でサッカーをやめてしまいました。ずっと頑張ってきたものができなくなってしまったことによる大きな不安を感じましたし、人生のどん底でしたね。 サッカーをやめてからは代表委員会という、いわゆる生徒会のような委員会に入って、理事長をやっていました。正直理事長になろうと思ったのは、トップが一番楽だと思ったからなんです(笑)でも実際にやってみたら意外と楽ではなかったですね。 ー大きな挫折を経験した小学校を卒業し、13歳でプログラミングに出会うんですね。お母さまの勧めだったと伺いました。 はい、そうです。中学校では楽そうだという理由でIT研究部というパソコン部に入部しました。小学校での経験から運動部は避けたいという思いも少しありましたね。 IT研究部といっても、タイピングを練習したりエクセルの使い方を学ぶくらいしかないんです。そんなタイミングで母が中高生プログラミングスクール「Life is Tech School」のサマーキャンプのチラシを持ってきてくれました。 そこで初めてアプリをつくったのですが、iPhoneで自分のつくったアプリが動いた瞬間の衝撃は凄まじいものでしたね。そこからはどっぷりとプログラミングの世界にハマり、Macを買ってもらって独学やLife is Techに通ってプログラミングの勉強を続けました。 ー中学3年生のときには起立性調節障害を発症されたそうですが、原因はなんだったのでしょうか。 特に分からないんです。ある日を境に起きれない。起こされても起きれないんです。当然登校時間にも間に合わず、その代わり、家でプログラミングを続けていました。長時間座っていたり、お風呂から上がると視界がブラックアウトするような立ちくらみも起きるのですが、そちらの方が実害がありましたね。2週間くらい続いたタイミングで学校から病院に行くよう勧められて、この症状が病気なのだと気付きました。 中学2年生の頃から高校はN高に進学すると決めていたのですが、N高は入試が早くて11月には終わります。起立性調節障害を発症したのは中学3年生の6月くらいで、冬にかけては良くなっていくので、受験後卒業までは学校に通うこともできました。 ーなぜN高に進学したかったのでしょうか。 プログラミングを学びたい、という想いが一番大きかったですね。僕がN高の存在を知ったのは中学1年生のとき。VRのヘッドギアをつけた入学式を実施してネットで炎上していたんです(笑) また、プログラミングをやっていると同世代でN高に通っている友達ができるんですが、その友達から学校でどんなことをやっているのか実体験を聞くことができたのが大きかったですね。担任の先生には止められましたが、志望校が早い段階から決まっていたことは前向きに捉えています。 N高は服装も自由ですし、携帯持ち込みも可能で、生徒の自主性に任されています。毎日学校生活が楽しくて、同世代のコミュニティとしての魅力を噛み締めながら通っています。 ー入学されてからというものプログラミング講師や起業部への入部など精力的に活動されているんですよね! 高校生になるまではアルバイトなどもやったことがなかったのですが、プログラミングを仕事にできるなら、とプログラミング教室の講師募集に応募しました。N高にはプログラミングが得意な人も多いので、当時はN高生採用というのがあったんです。無事、採用され1年半ほど講師を続けています。授業は1対1形式なので、自分に生徒がつかなければ仕事がないのですが、初めて体験にきてくれた子がその場で入会してくれて、そのまま生徒が途切れることなく今に至ります。 自分でもプログラミングを学んでいましたが、教えるとなると別問題。難しいですね。自転車の乗り方と一緒だと思います。学ぶ場合は概念として理解していれば良いのですが、教える場合は自分が当たり前に理解していたものをちゃんと言語化する必要がある。 ただ、自分が今まで触ったことのない技術を使って教える機会もあるので、自分で勉強するよりも教える方が勉強になるなとも感じます。自分でサイトを見て調べるだけよりも、実際に人に教えながら学んでいく方が頭に入りやすく、学びの効率が良いです。   N高起業部に入部したのは2020年の12月、プログラミングスクールで働きはじめた少しあとですね。起業部に入部することになったのは、高校生向けのキャリアサミットがきっかけです。 2020年1月頃に友人の中澤から「U18キャリアサミット」というイベントをやりたいと声をかけられました。最初は断ろうと思っていたんですが、「日本で一番でかいキャリアイベントをつくるから一緒にやってくれ」とあまりの熱意に圧倒され、一緒にやることを決断しました。 5人のメンバーでキャリアサミットを企画運営し、とにかく出来る人が出来ることをやる形で動いていました。僕はサイトを作ったり、集客人数の達成進捗等を見ていましたね。 当初イベントは4月頃にやろうと計画していたのですが、新型コロナウイルスが日本でも猛威をふるいだし、緊急事態宣言まで発令。危機感を抱いたものの、6月にオンラインで実施する方向に舵をきり、結果400名ほどの参加者を集め大成功を納めました。オンラインだったので最初は実感が湧かなかったのですが、「キャリアサミットよかったよ」と声をかけてもらうことが多く、達成感を味わいましたね。 この経験から学生団体で終わらせず、会社にした方が良いと話し合い、中澤と三橋が起業部に入部、法人化のために動き出しました。12月頃に法人登記が終わり、僕はそのタイミングで起業部に入部しました。 ーMr.CHEESECAKEではマーケティングをされているとのことでしたが、具体的にどのような業務をされているのでしょうか。 Mr.CHEESECAKEでは毎週販売開始のメールマガジンを配信しており、その中で使用する写真の選定や文面作成業務を担っています。顧客全員に同じメールマガジンを配信するのではなく、登録しているけれどもケーキを買ったことがない人、リピーターの人、など顧客データを分析し、出し分けも行っています。最近ではメールマガジンの開封率など実数値の部分のデータ分析もさせていただいています。 Unpackedはまだまだデータが少なく、変動が激しいため、あまりデータ分析には向いていません。一方でMr.CHEESECAKEでは大きなデータを見ることが出来るので、傾向を掴むという部分で非常に勉強になっています。 また、すでにプロダクトが存在し、自分も顧客として知っていたものをどうグロースさせていくのか、という視点はUnpackedと異なり、難しさを感じながらも面白い部分でもありますね。 自分の興味を信じて突き進んで欲しい ー今後の進路について目標はありますか? 日本ではまだまだ大学進学していないと厳しいことも多いように感じているので、まずは大学に進学しようと思っています。その後は自分のやりたいことを仕事にし続けたい、そしてスタートアップでスタートアップを支えられる人になりたいと思っていますね。 会社が飛行機だとしたら社長がパイロットでエンジニアが整備士ですよね。でも飛行機は滑走路がないと飛べないんです。僕は会社を高く、遠くに飛ばせる滑走路のような、会社を支えていく人間になりたいと思っています。 ー本日は「学校では習わない学生のうちに身につけた方が良いこと」というテーマでお話を伺いましたが、最後にU29世代に伝えたいことはありますか? 名刺の交換の仕方、メールの書き方など、学校では習わないけれど社会で必要なことは山ほどあると思います。でも今の学校のカリキュラムではそうした実践的な勉強ができない。 僕は反対の意見を押し切ってN高に入ったけれども、そこで様々な経験をし、大きく成長したと感じています。同世代にも自分の興味のあることは誰に止められても絶対にやった方が良いと伝えたいですね。 取材者:吉永里美 (Twitter/note) 執筆者:うえのるいーず(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

傷だらけの履歴書から紡いできたキャリア。株式会社Rockets CSO ジェイ (鈴木 純太) の成長を支えた “火種” の存在

今は第一線で活躍しているビジネスリーダーの方に、10~20代の頃のまだ何者でもなかった頃から、現在に至るまでのストーリーをお聞きする連載企画「#何者でもなかった頃」。今回のゲストは株式会社Rockets CSO(最高戦略責任者)の、鈴木 純太(すずき じゅんた)さんです。鈴木さんは「ジェイ」さんとも呼ばれ、その実績と発信力によって社内外から注目をされています。 ジェイさんのアカウント情報はこちら↓ Twitter ▶ https://twitter.com/junta_suzuki Voicy ▶ https://voicy.jp/channel/968 note ▶ https://note.com/junta_suzuki 20代から30代にかけて、接客業からデザイナー、営業とキャリアを変えてきたジェイさん。現在はスタートアップの営業支援をしながら、株式会社RocketsでCSO(最高戦略責任者)を務められています。 そんなジェイさんが、休職したり体調を崩して転職したりと、挫折を繰り返してきた中での葛藤や迷い、それらを乗り越えるパワーの源になったものについてお伺いしました! ジムの常連さんに気づかされた、デザインへの特別な感情 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 株式会社Rockets CSOの、鈴木純太と申します。周りからはジェイと呼ばれているので、今日は気軽にジェイと呼んでください。 現在はCSOを務めながらスタートアップの営業支援を行ったり、Voicyパーソナリティとして「スタートアップ営業ラジオ」を平日毎朝配信したりしています。一方で、これまではジムのトレーナー、カフェスタッフ、デザイナー、営業の流れでいくつかの職業を経験しました。最初は接客業からキャリアをスタートしたのです。 ーキャリアの過程で職種を大きく変えているのですね。初めて接客業に携わったのはいつ頃ですか? 高校卒業後にトレーニングジムのトレーナーとして働き始めたときですね。 自分で言うのもなんですが、高校時代は優等生でしたが、受験に対してそれほどモチベーションが上がらなくて。 日々部活に打ち込んできた高校生が、いきなり学部を選べと言われても現実味がないじゃないですか。大学に行く必要性もそれほど感じていなかったので、周りが進学する中、フリーターの道を選びました。 ージムで働かれていた当時のお話をお聞かせください。 老若男女問わず多くの方と雑談している中で、仲良くなった常連さんがいて。その方はデザイン会社を経営して、忙しかったからかいつも閉館ぎりぎりにきていたのです。 トレーニング中に、「デザインはこうだ」、「こういう建物がかっこいい」というお話をたくさんしてくれて、デザインソフトの使い方まで教えてくれました。 そこで初めて、「そういえば昔から、建物の写真を撮るのが好きだったな」と気づき、デザインに興味を持ち始めて。それがきっかけで、建築インテリアの専門学校へ進むことを決意しました。 ー進学後はどんなことを学びましたか? CADで製図をしたり、課題に取り組んだりしました。建物や間取りをデザインする課題が出ると、みんなエッジの効いた模型を作ってくるのですごく楽しかったです。 年齢はバラバラでしたがみんな仲が良かったですし、周りからアイデアを吸収することで自分自身も成長できました。   “悶々” とした気持ちを、日記に書き留め “醗酵” させる ー専門学校卒業後、どのような仕事に就いたか教えてください。 カフェや飲食店の内装決めから経営戦略まで一気通貫でプロデュースする会社に入りました。 会社の1・2階は自社で運営しているカフェ、3階はスタジオ、4階はオフィスになっていて。カフェ事業、スタジオ貸し事業、デザイン・設計事業の3つを展開していました。 私はデザイン・設計事業に関わりたかったのですが、カフェのスタッフが足りてなかったので、ほとんどの時間カフェスタッフとして働いていました。 ーやりたいことができない……ジェイさんの当時の心境は?  “悶々” としていましたね。その気持ちのはけ口として、日記を書いてました。日記には、「家具のブランドを作ってみたい」とか、「アーティストを集めてイベントを開催したい」とか、やりたいことやアイデアをたくさん書き出していました。 ー人によっては引きずってしまい、仕事に身が入らなくなりそうですよね。 働かなければ生活ができないので、カフェスタッフとしてやれることはやっていました。とはいえ、やりたいことができないからといって諦めるのではなく、理想はずっと持ち続けていました。 今考えるとあり得ないですけど、週に1日しかない唯一の休日で、アーティストを集めてイベント開催したり、インタビューしてフリーペーパーを作ったりして……寝る間も惜しんで好きなことに没頭していました。 やりたいことを諦めるという発想はこれっぽっちもなかったです。 ー日記に書き留めていたことが、大事なプロセスの1つなのでしょうね。 そうですね。当時はひたすら日記に書いていたことが、結果的には火種としてやりたいことを持っておいて、寝かせて “醗酵” させることになっていましたね。 ーやりたいことを仕事にするために、退職したり転職したりするなど、環境を変えることは考えなかったのですか? お恥ずかしい話、自分では環境を変えることはできませんでした。当時の私は、副業や転職などの選択肢を持ち合わせていなかったのです。 ある日、母親が急に倒れて実家に戻らなくてはいけなくなり、会社に事情を説明し、休職期間に入りました。やりたいことを我慢しながら続けていたハードな日々から抜け出せた一方で、1年ほど母につきっきりで介護をしながら何も仕事をしていない状況に対しても、また日々 “悶々” としていましたね。   初めての営業で追い詰められ、心身ともに限界を迎える ー休職期間を経て、次の職場へ移った経緯を教えてください。 休職に入り、半年ほど経ってから就職活動を始めて。今まではカフェ業務で忙しかったので、土日休み且つ、デザインのスキルが活かせる営業職で探していました。 ーなぜ営業職を選ばれたのですか? 営業職であれば、当時の自分から見れば特別なスキルは必要ないと思っていたからです。何社か受けていた中で、中小企業の広告会社で無事営業職で採用されました。 その会社は、メーカーさんに対してカフェイメージを提案する営業がメインだったので、今まで私が学んできたCADやデザイン知識が評価されたのだと思います。 ー初めての営業職はいかがでしたか? 全然活躍できませんでした。「もともとしゃべることが好きだし、営業できるだろう」、「デザインの知識はあるし、デザインを活かした提案はできるだろう」と思ってたのですが、現実は厳しかったです。 成果は出ないし、評価も悪くて、精神的に追い詰められていきました。 ー成果が出なかった要因は? 今振り返ると、環境のミスマッチですね。売上を作るために無理やりにでも売らなければいけない状況や、いつも怒号が飛び交うような環境が合いませんでした。 ー成果が出ない環境とどう向き合ったのでしょうか? 環境を変えたいとは思っていましたが、自分では何もできませんでした。 ある頃から、職場や仕事と向き合えなくなって、ときには月曜日に出社しようと電車に乗っても、途中下車して1人で飲みに行っちゃったこともあって。ついには精神と身体に限界が来て、会社も退職することになりました。 母親が倒れたときと同じように、外部要因によって環境が変わっていますが、実は心の中には「これがやりたいんだ!こうしたいんだ!」という想いはあるのです。ただ、自分から環境を変えたり、外に発信するパワーはなくて。だからいつも日記に書き留めて、火種を持ち続けていました。   スタートアップに魅了され、営業パーソンとして花開く ージェイさんが2社目を退職されてから、どのように過ごされたかお聞かせください。 転職エージェントに相談しつつ転職活動をしていました。ただ、正直転職できるかどうか、不安でした。4年制大学を出ていなくて、1年間休職したことがあって、前職は体調を崩して辞めていて……。言うなれば、 “傷だらけの履歴書” ですからね。 実際に、当時は履歴書重視の評価軸の会社は通らなかったですが、スタートアップ界隈は猫の手も借りたい状況の企業ばかりでした。その中で株式会社AppBroadCastから内定をいただき、再び営業職として働き始めました。 ー前職では環境のミスマッチによって、なかなか営業の成果が出なかったと思うのですが、AppBroadCastではいかがでしたか? ものすごく活躍できたと思っています。それもこれもすべて社長のおかげです。 「こうやれ!ああやれ!」と押し付けるのではなく、「ジェイのパフォーマンスが出るように環境は整えるから、やりやすいようにやってくれ」と言ってくれて、自分なりに試行錯誤しながらも営業を進めてみたら思いのほかどんどん成果が出たのです。 今振り返れば、日々日記をつけていたことから思考力はついていたのかもしれません。そこからあっという間にKDDIグループの子会社に売却するまでに成長しました。 ー売却後、心境の変化はありましたか? 売却後も2年ほど働いていたのですが、私はもともとスタートアップで成長させてもらったという背景もあって、大企業で働くよりもスタートアップの方が向いているなと思いました。自分自身が成長するとともに、会社もどんどん大きくなっていく、スタートアップならではの魅力に取りつかれてしまったのです。 ーAppBroadCastの次はどこに入社されたのですか? 新しい挑戦をしたかったので、「次は英語だ」と思い、スウェーデンに本社を構える会社の日本法人に入りました。実際に入ってみるとほとんど日本人がいなくて、まだ英語がまったく話せなかった自分にとってはハードな環境でした。 例えば営業報告を英語でしなければいけないくらい、日常が英語であふれていて……。語学留学などをして身についた英語能力を活かしつつ、日々学び続けました。 同じ時期に外へ何かを発信したいという気持ちが出てきて、Twitterやnoteで営業ノウハウを発信し始めました。 ー発信してみて、いかがでしたか? 思いのほか高評価でした。それまでの経験を活かしてスタートアップでの営業手法を中心に発信していたので、特にスタートアップ界隈で評価されました。 そこで、気づいたことがあります。社外で発信し続けたことが評価されたのをきっかけに、本業の仕事とSNS発信で扱う領域を近づけていけたら無敵だ、と。そのタイミングでちょうど、投資家経由で今働いている営業支援系の会社、株式会社Rocketsからお声がかかって、転職することになりました。 ー投資家がRocketsを紹介してくれたのですね。 そうですね。実はその投資家は、AppBroadCast時代も一緒に仕事をしていて。私が営業として勢いがあった姿を見てくれていました。 AppBroadCastをKDDIグループの子会社に売却してからも残ってくすぶっていた私を見て、スウェーデンに本社を構える会社の日本法人を紹介してくれたのもその投資家ですし、日本法人で悶々としていた私を見て、Rocketsを紹介してくれたのもその投資家です。 私にとってはキーパーソンですね。 ージェイさんがRocketsで、CSOとして働き始めて2年近く。今の環境はいかがですか? 営業から戦略責任者という役職になったので、経営者視点でものごとを見るようになりました。肩書が成長させてくれてます。 ただ、まだまだ現状には満足していないです。てっぺんが100だとすると今はまだ20~30付近ですね。   いつか発火する日が来るのを信じ、“火種” は消さずに取っておく ーどんどんキャリアアップをして、ビジネスパーソンとしてのキャリアもどんどん積んでいって。冒頭で伺っていた姿とは別人のようですね! いえいえ……そうは言っても実は私、豆腐メンタルで。これまで話した通りなんども病んだ経験がありますし、『「豆腐メンタル」営業マンの問題・ストレスとの付き合い方』というnoteを書くくらいにその自覚があります。それでもモチベーションを保っていられるのは、心の中に “火種” を持っているからです。 ー “火種” ですか。 そうです。例えば、以前日記に書き留めていた想いや気持ちがその火種です。その火種は思い通りにいかない時でも自分を支えてくれますし、チャンスが来た時には大きなパワーの源になります。 「やりたいことがないよ」という人は、現状への不満を火種として取っておくだけでもいいと思うのです。 ーたとえ、今すぐに表現できるチャンスを得られない想いやアイデアも諦めずに持ち続けることで、やがて意味をもつタイミングがくるのですね。 私のキャリアを振り返ってみて、改めてそう思います。接客業経験、デザインスキル、転職経験など、今までのキャリアで培ってきたことは、今の仕事の様々な場面で活きている実感があります。 その中でも、接客経験者は営業で活躍できると思っています。なぜなら、接客業で培われるホスピタリティ精神は、営業においてものすごく重要だからです。 相手に向けられる笑顔。相手の気持ちを思ってなされる配慮。こうしたことが営業においてすごく大事なのですが、意外とできてない人、意識していない人が多く見られます。 営業のノウハウはいくらでもあとから勉強できますが、愛嬌とか、お客様視点の思考は後天的に身につけるのは難しいのです。だから、普段から「この人はどうやったら楽しんでくれるかな?満足してくれるかな?」と考えながら接客している人は、営業のフィールドでも活躍できると思いますよ。 ー最後に、現在接客業をしている方たちへメッセージをお願いします! 今、接客業をやっている方たちも、ビジネスの場へ移るとその経験は個性になるのです。 周りはみんな新卒から営業をしてきている中で、接客業をやっていた人が入ると目立ちますよね。営業は目立ってなんぼなので、それはチャンスです。 フィールドを変えてチャレンジしていく中でマッチした環境を見つけ、その環境で今までやってきたことを掛け合わせていってほしいですね! ー今やっていることは今後必ず活きてくるということを、ジェイさんが体現しているので説得力がありますね。ジェイさんの今後のご活躍を心から応援しています!本日はありがとうございました。 ジェイさんの現在のご活躍や日頃発信されている内容を知りたい方は、次のアカウントをぜひチェックしてみてください Twitter ▶ https://twitter.com/junta_suzuki Voicy ▶ https://voicy.jp/channel/968 note ▶ https://note.com/junta_suzuki ・・・ 接客職から営業職へ転身し、キャリアアップを果たしたジェイさん。その裏側では多くの試練を乗り越え、挑戦を続けてきました。 「将来性のある業界で働いてみたい」「未経験から営業職へ挑戦してみたい」 そんな方はまず、無料モニターで最先端の営業ナレッジやオペレーションを理解するところから始めてみませんか。   取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:Moriharu(Twitter) デザイン:藤井蓮(プロフィール)  

「名古屋から社会起業家を輩出したい」株式会社UNERI代表取締役・河合将樹が見ている世界とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第372回目となる今回のゲストは、株式会社UNERI代表取締役・河合将樹さんです。 生まれ故郷である名古屋から、社会起業家を輩出するために活動している河合さん。そんな彼の現在に至るまでのお話を伺いました。 名古屋を中心に起業家が育つ仕組みをつくる ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 株式会社UNERIで代表をしている河合将樹です。現在は名古屋を中心にして、社会起業家が生まれる仕組みづくりをテーマに会社を経営しています。 具体的には、創業期の社会起業家向けインキュベーション事業を実施したり、自治体と連携をして起業家の成功角度が上がる為に市場にメスを入れるコーディネーター事業などをしたりしています。 ーどのような背景から現在の会社を経営されているのでしょうか? もともとは名古屋の創業メンバーとして参画した会社の事業でして、起業系のイベントやカンファレンスなどを開催するプロジェクトの1つでした。 自分は大学在学中から関わっていたのですが、2020年2月にプロジェクトが一段落したことをうけて、「自分の会社として育てたい」という強い気持ちが芽生えて法人化をしました。「これなら人生を賭けられる」と人生で初めて思えたんです。 ーそうだったんですね。現在は一緒に活動している仲間もいるのですか? メンバーが4人とアドバイザーが2人がいます。それぞれスタートアップで働いた経験があって、且つNPO法人や一般社団法人などのソーシャルセクターでも働いた経験がある稀有なメンバーです。 みんなで「社会的にインパクトが高くて、且つ財務的にも継続力が高い企業で溢れた社会的市場を作らないとマズイよね」という課題意識を持ちながら日々活動をしています。 人生の転機になった18歳のできごと ー河合さんの過去についてお伺いしたいと思い、事前に人生チャートを共有いただいたのですが、18歳のときに-100点と書かれていますよね……。具体的に何があったのでしょうか? 高校生のときに評定が「4.9」あったのに、先生が出願を忘れて希望の大学に行けなくなりました(笑) 当初は「全国から色んな価値観の人が集うカオスな環境が面白そう」という理由から、起業家輩出で有名な都内の某大学を志望していたのですが、結果として付属の大学に進学することになりました。 ーそれは大変でしたね……。自分がコントロールできないところに要因があると、受け止めるのはなかなか難しくなかったですか? 最初はやるせなさで一杯でした。ただ、文句を言っても仕方がないので、むしろこの経験を糧に、漠然とですが「人生を変えてやる」と躍起になっていましたね。 実際に大学入学後は、学生団体を作ったり、出張授業に行ったり、留学に行ったり、ときには遊んだり、長期インターンをしたり、大学生がやることはすべてやりました。 国際交流から価値観が広がった大学時代 ー大学時代には、内閣府主催の事業にも参加されたみたいですが、具体的にどのようなものだったのでしょうか? 内閣府の「世界青年の船」という国際交流事業に、日本代表青年として参加しました。全大陸から集まった11カ国・約240人が共同生活をして、ディスカッションや文化交流を行います。世界中の歴代OB/OGが「Life Changing experience」と呼んでおり、約50年の歴史ある事業です。 ー実際に参加されてみてどうでしたか? 世界中から集まった刺激的なメンバーと、見渡す限り海しかない船内、且つインターネットのない環境で1ヶ月も過ごすと、世界中に「家族」が出来るので、これが生涯の財産です。 間違いなくその後の人生が変わったし、今振り返っても魔法のような時間でした。 ー今でも記憶に残っている何か印象的なできごとはありましたか? 印象的だったのは、タンザニアから来ていた起業家のパスカルというルームメイトの話です。彼は現地で会社を経営していたのですが、どうやらタンザニアの人が起業をする理由は、日本とは全然違うみたいなんです。「地元に雇用をつくりたい」とか「働き口がないから会社をやるしかない」とか、そういった理由で起業をしているんですよね。 「生まれ故郷に不満があるからこそ、自らが変化の担い手として生きる」という彼の背中は、とても勇ましく感じました。自分が名古屋を拠点に始めようと思ったきっかけの1つでしたね。 ーそうだったんですね。帰国後は具体的にどのような行動に移されたのですか? アントレプレナーシップ×教育で起業をする為の経験を積みたかったので、、東京にあるNPO法人ETIC.(エティック)が主催する「MAKERS UNIVERSITY」という学生起業家の私塾で、インターンという名の修行を始めました。実際にやっていたことは、起業家が生まれるための場の設計などです。 スタートアップに限らない、様々な法人格で事業をつくり、新卒起業家として挑む同世代100人以上がどのように生まれていくのかを間近で見れた経験は、今の事業の血となり肉となっています。 ースキルや経験以外にも得られるものが多そうですね!話は変わりますが、その後にヤングダボス会議にも参加されていますよね。どのような経緯で参加されたのですか? 世界青年の船の仲間が「君も参加するべきだよ」と言って、参加することになりました。 世界196カ国から2,000人が集まる国際会合で、すごく刺激的だったのですが、一方で「意外と世界は狭いんだな」と感じましたね。SDGsだったり、気候変動だったり、国が違っても問題意識は共通していて、その前提にある知識も極めて近かったんです。 それまでは、国が違うと考え方もまったく違うだろうと思っていたのですが、2020年代においては、国という枠組みで判断する事は極めてナンセンスだと痛感しました。 ーたしかに、国を超えても共通しているものはありますよね。 例えば今って、先進国と発展途上国で二分しているように多くのメディアは表現する風潮があるじゃないですか。個人的には、この構造は一部では終わるだろうと思っています。 その代わりに、世界にアクセスできるグローバルな層と、そうではない層という二極化の時代が来ると考えています。先進国とか発展途上国とか、そういった国と国の構造ではなく、個人と個人をベースとした世界になるはずです。 社会起業家にお金が流れる時代が来る ー今後の社会や経済についてどのように考えていますか? 資本主義の再定義が始まると考えています。キーワードとしては、社会的インパクト投資やゼブラ企業などですね。 今までの投資家は、短期間で儲かる(財務的リターンのみの)企業にしか投資をしてきませんでした。ただ、最近はNPOのような社会的意義が高い事業を株式会社がやっている事例も増えており、注目が集まっています。例えば、ヘラルボニーさんやライフイズテックさんなどです。 そういった会社が大きくなると、地球が良くなったり、社会の負の便益が解消されたり、資本主義社会の歪みが是正されるんですよね。事例としては世界中にも増えているので、これからは国内でも、このような起業家に様々な社会的リソースが流れる時代になるだろうと思っています。 ー僕らみたいな若い世代はリアルタイムに生きているからこそ、そういった会社に着目していきたいですね。最後に、今後チャレンジしたいことなどあれば教えてください。 いわゆるSDGsを事業で実装し、社会課題に取り組む起業家・ベンチャー企業と、SDGsとはいうけど具体的に何をすればいいんだろう?と悩む大企業の人を繋げる“ プラットフォーム ”を構想中です。しかし、それを実現するには、お金も人も必要なので、興味がある方がいたらぜひご連絡を頂けると嬉しいです。 ー河合さん、本日はありがとうございました! 取材:山崎貴大(Twitter) 執筆・編集:下出翔太 デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

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