歌舞伎町の若者の政治関心を引き上げる。国際政治を伝わる言葉に分解するホスト・楽の生き様

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第99回目のゲストは歌舞伎町ホストの楽さんです。 幼少期は、尊敬できる大人とできない大人に囲まれました。大学時代は、アカペラを辞め、学外との交流を増やしました。現在は、ホストとして歌舞伎町で働きながら、若者に政治との結びつきを作るために奮闘しています。 人材系の内定を蹴って、ホストとして歌舞伎町で活動する楽さん。アウトサイダーとして挑戦し続ける理由には、人と向き合い続ける姿勢と、自身のルーツである中東が鍵を握っていました。 主観を鍛え、他者との関わりを考え抜いた学校生活 ー周囲の大人が考える力に大きく影響した? 僕の周りは、尊敬できる大人とそうでない大人の両方がいました。家庭では、父親は周囲から尊敬され、優秀だし、昔からモテました。母親は、暴力をふるい、一度説教を始めたら何時間でもしつこく続ける人でした。本人だけが悪い訳ではないと思います。おそらく発達障害を持っている上、うつを発症していたものと思われます。精神病院に入院することもありました。学校では、教員が軒並み問題を起こしていました。教員同士のいじめ、僕の同級生に別の教員がセクハラ。小学5、6年で学級崩壊しました。 一方で、ボーイスカウトのリーダーたちは立派でカッコ良かったです。茶道の先生は教養がありました。つまり大人は全員が従うべき存在という訳でもなく、一方で正しいと考えられる存在もいます。誰を信用すべきか・すべきじゃないのかを、自分で考える力が育ちました。 ーカウンセラーになりたいのはいつからだったか? 高校生。高校1年の終わりで震災を経験しました。僕は当時、部活に打ち込むあまり、数学を100点満点で7点を取りました。最後のテストが3月で、震災の影響で流れました。テストが流れた関係で、先生方が手を尽くして下さったこともあり、救われました。震災のおかげで助かってしまい最悪の気持ちでした。 罪滅ぼしをせねばと思いました。NPOを探し出し、連絡を取り、ボーイスカウトの仲間とボランティアに行きました。夏なので、仮設住宅環境がきつかったり。住宅の問題点を聞き回り行政に報告し、環境を改善するという建前ではありますがメインの目的は孤立して心の傷もうまく吐き出せない被災者の方に、会話のきっかけを作ることでした。ヒアリングで気づいたのは、ただ質問をすればいいのではなく、話し手の心理的安全を担保したり、話す内容を浮かびやすくさせるための仕掛けが何重にも必要だということです。家族を亡くした被災者にも会いました。重たい話を、抵抗なく引き出せるかは、カウンセリングに近いと思います。 ーアカペラ部で難攻不落の生物部を撃破? 僕は中学が公立で、高校が中高一貫の男子校でした。男子校なので、合唱コンクールの文化がありませんでした。共学出身者と合唱コンクールの思い出話をしたら、え、やらね?ってなって、うちの高校の先生に、ゴスペラーズの先輩に当たる人がいたので部活を立ち上げました。 文化祭で優勝した経験もあります。地道な票集めが優勝のカギでした。どうやって 2位を獲るかを戦略立てて臨みました。十数年間生物部が不動の王者でした。小学生たちに生き物を配っていました。小学生で票数は稼げません。したがって、保護者とナンパ待ちの女子高生を狙った選曲をしました。さらに、来場者の導線を読んでパフォーマンスをしました。 ー死にかけたことがある? 高校2年の夏、イラン最高峰のダマバンド山(頂上の標高5600m)に父と2人で挑戦しました。頂上が吹雪とのことで4200mくらいのところから引き返し下山したのですが、その途中でホワイトアウト(雪や霧で360°真っ白になり方向が分からなくなること)し、完全に広い山の中で孤立し遭難しました。自分はこうやってあっけなく17年の生涯を終えるのか...と絶望で目の前が真っ暗になりました。しかし登山経験が自分より浅いはずの父が冷静に振舞っている姿に勇気が奮い立ち、2人で知恵を絞ってどうにか方角の見当をつけました。結果奇跡的に目の前に登山口への道が現れ助かりました。 この経験から、「明日死ぬかも」論や「今(だけ)を生きる」思想には反対です。未来という概念を持ちそれに希望を抱けるのは唯一人間のみに許された特権です。希望があるから前に進める。第一、常に明日死んでも後悔がないように生きるなんて可能なのでしょうか。現在と未来の充実はトレードオフなのではなく、未来の希望を持って今を生きるから本当の意味で充実する。もし命に危険が迫ったら諦める前に最後まで最善を尽くすべきです。後悔しないよう生きるくらいなら、交通に注意を払い、防災グッズを揃え、余力があるなら護身術を習ってでも一度しかない命にしがみつくべきだと思うのです。 ージェンダーの違和感は共学から男子校への転換がきっかけ? 男子校の中身は見せられません。女性差別までとは言いませんが、「ブス、ビッチ」と多くの人が言います。そう言って強がりたいだけなのだろうと思いつつ、社会に出たら、無自覚に誰かを傷つけてしまいます。彼らだけが悪いわけではないのはそうなのですが、だからといって放置してよいものではないと思いました。人間をプロフィール情報ベースで物のように扱うのではなく、1人の人間として接するということに、まだ困難があるのだと感じます。 ー大学受験ではどんなことがあったか? 当初は心理学をやりたかったです。また歴史が好きで、幅広い学問として教養を中心に大学さがしをしました。数学で7点を取り、かつ世界史が得意だったにも関わらず、「数学は役に立つ学問なので僕は受験で数学を使います。」と言った僕に対し、先生方は爆笑しながらも温かい目で見守ってくださいました。1 年目は全落ちしましたが、浪人して、全部受かりました。浪人中に初めての恋愛を経験し、恥ずかしいですが毎日お互い結婚しようと話していました。夜8時ぐらいに、一緒に予備校を出ました。8時5分ぐらいに、新宿駅の改札前に到着しても、話が止まりません。気付いたら9時で、予備校の友人が横切り、「あいつらいるよ。」と笑われました。落ちたら一生後悔すると焦り、彼女を突き放しました。付き合いの経験が浅いゆえの愚行でした。 僕は合格しました。彼女は不合格でした。大学入学後2、3ヶ月は似た背格好をみて、彼女を思い出して振り返りました。抜けてる人だったので、受験番号見落とした〜。言ってきそうな気がして。 アカペラサークルを辞め、ホストの世界へ入り、自分のルーツの再発見に繋がる ー大学に入ってからどのように過ごされたか? 高校の先生と同じ早稲田に入ったということで、ゴスペラーズが出身のアカペラサークルに入りました。サークルの部員は音楽に対して真剣でストイックでした。音の正確さをヘルツで測ったり、音楽理論の難しい方式を持ち出したり、マニアックな洋楽を探したり。音楽への熱は本当にすごい方ばかりでしたが、一方で他大のアカペラサークルをミーハーであると見下し、他者との間に線を引くことで自尊心を保とうという気持ちが見え隠れしている人は一定数いたのも事実でした。 また軍隊的な組織でもあり、「あたしを含め4年生は天皇であり、象徴的存在だ。実際に動くことがあってはならない。3年は将軍、1年生はピクミンだ。」と先輩に言われました。あそこで言い返せなく、後輩にも苦しい思いをさせました。大学2年の途中で抜けました。 ーとある企業でインターンをされた? Huber.Incという会社です。訪日外国人観光客と日本人をマッチングするプラットフォームを提供してます。マッチングすると、日本人が外国人を案内する仕組みです。日本人は生活と観光に必要な知識を当たり前に持っています。具体的には、美味しいスポットや楽しい場所や電車の乗り方です。突然知らない国の空港に降り立った外国人はやはり不安な気持ちになります。海外生活における困難を考えながら、外国人をサポートしました。 卒業して作ったシェアハウスの考えもインターンから導き出きました。お互いの良さが見えるとコミュニケーションはプラスになります。食べ物は減る資産。食べ物は、人にあげる分減ります。しかし、シェアハウス空間は減りません。したがって、シェアハウスの人間関係は減りません。宿泊者と居住者の両方に開かれた空間なので、シェアハウスに関わる人は孤独感を軽減できます。例えば、田舎から上京し、よりどころがない人たちが宿泊します。簡単に手に入るので農作物を宿泊者がシェアハウスで受け取りました。価値交換で、空間のよさがより高まりました。 ーホストを始めたきっかけは? 直接の動機は先輩に金がないと相談したら、ホストを提案されたことです笑。しかしまた歌舞伎町は人間の欲が生々しく表れる空間で、人間の根源的な不満や苦悩を哲学するいい場所でもあります。ホストクラブに来るお客さんも働く人もそうです。その奥に貧困やジェンダー解決のヒントがあると思います。社会勉強の狙いもあり、飛び込むことにしました。 ー実は、就活もしていた? 大学卒業後は就職を考えていました。しかし、もやもやがありました。そのもやもやがはっきりしたのが卒業直前の旅行です。自分の原体験は中東です。現地の空気を思い出しに行こうとサウジアラビアに旅行し、中東に関わりたいと思いました。人材系は、中東と直接関われないので就職先じゃないと思いました。自分をごまかして就職するのはやめようと思いました。 ー中東にどんなルーツがあるの? 国際関係や世界平和を考える自分の根源は、湾岸戦争とイラク戦争です。湾岸戦争がなければ僕は生まれていませんでした。当時は父親が現地にに駐在していたのですが、戦争の影響で危険になり、外務省から通達があって、邦人が全員帰国しました。日本に帰国し父親が仕事が少ないので暇していたら、母親と出会いました。 2002年まで僕はUAEとカタールに住んでいました。帰国の翌年にイラク戦争が起きました。メディアから切り取られるイスラム像が僕の知る隣人の姿とかけ離れ、ショックを受けました。メディアは事実のまま伝えないと思いました。例えば近年でも、イスラム圏の人たちはラマダンで団結力を高めるとNHKが報道していました。しかし、ラマダンは断食を通じて貧しい人たちの思いを忘れないようにしようという習慣です。事実をあえて曲げるのは、裏で力が働いていると考えます。根本的な解決は外交の日本の交渉力を高め、海外の影響をしりぞけるしかありません。 ー具体的に中東とどのように関わりたい? 例えば、安全保障。メディアで軍事的な意味で多く使われます。安全保障は、生活の必要最低限だと僕は捉えます。自分たちが生きるために必要不可欠な安定供給が、広い意味での安全保障にあたります。よくニュースで言われる軍事的文脈での国土防衛も安全保障でありますが、その一部に過ぎません。具体的には、石油がなければ、食糧輸送や電力供給ができません。医療も安全保障の 1 つと言えます。日本は石油が取れないので、安全保障政策は海外に依存します。言い換えれば、日本は石油が弱点の1つになります。 外交の場面では、石油を止めると他国から圧力がかかれば、日本は譲らざるを得ません。今の世界は戦争はあまり起こりません。なぜなら、核兵器が溢れているからです。代わりに、貿易そのものやサイバー攻撃などが交渉の武器となりました。したがって、戦争状態と平和状態は境界が曖昧になります。例えば、日本が韓国に対し工業に必要な化学物質3 項目を輸出制限し韓国が大打撃を受けた。これも攻撃と捉えられます。 世界中の誰もが平和を願います。成し遂げられないのは、よりよい交渉を望むからです。自国の安全を守りたいが故に他国の安全を脅かします。これでは解決にならないので、僕はその根本を改善したいと考えています。しかし、外交は仕組み化できないため、都度交渉し続けることしか今はできません。なぜ仕組み化できないかというと、現代社会は、国家が百何十こあり世界が無秩序だからです。国家は一番強い権力を持っています。したがって、最終的な意思決定機関は国家です。 それゆえ、国家を超えた問題は対応できません。世界裁判所や世界立法機関が存在しないからです。したがって、罪を犯しても罰せられません。例えば、以前アメリカ大統領がイランの司令官を殺した事件がありました。しかし、仕組みがないので殺人罪に問われません。これが国際社会の現状です。300年後ぐらいに世界政府か国家を超えた機関の誕生を期待し、今は交渉で最悪の事態の回避を積み重ねるしかありません。その実現のために自分は外務省に入るか、試験などの関係で叶わなかった場合、大学に戻り研究をしようと考えています。 政治と歌舞伎町は、人間関係に置き換えると身近に感じる ー外交官になり、中東と日本の架け橋とホストの仕事は、一見リンクしない。どんな風に楽さんの中で繋がる? 外交で勝つためには国内のコミュニケーションが必要です。しかし、ほとんどの人は外交に興味がありません。海外から日本へのプレッシャーに気づかないからです。海外の要求に日本人が意思表示をすれば、海外からの要求に抵抗できます。まずは関心を持ってもらうために、外交に関心がない層に、外交に限らず政治を伝えることが必要です。興味がないと、人は遠ざかります。歌舞伎町的な視点と外交の背景の結びつきに関心を持ってもらうことが自分の目標です。そして、歌舞伎町には人間の欲求が最も生々しく現れている場所。権力、金、自己の弱さと正当化し隠したい気持ち。他者を特定の尺度で上回ることで自分を保ちたい本音。自分の所属する何かに名前をつけることで孤独から逃れようとする集団依存。支配と被支配という関係の構築により自分が受け入れられているという証を可視化する行動。実はこういった人間の本能は、社会や政治を見る上で大きく繋がって来るのです。たとえばこの前、ナイナイの岡村が風俗をめぐる発言で炎上しましたが、この時の荒れ方や問題のこじれは、戦争の原因となる外交問題のこじれに例えて分析することができます。長くなるので割愛しますが、これについては今文章を書いているところなので、どこか別の場所で紹介すると思います。 ーホストクラブは政治や外交を学ぶ場所ではない。関心のスイッチをどう入れる? テレビで名前は広まったので、自分自身に関心を持ってもらうのが一つ。もう一つは、面白く伝えることです。例えば、第一次世界大戦。きっかけはロシアとオーストリアの思惑の衝突でしたが、互いに味方を増やすため利害関係に基づき同盟を巡らせており、派閥対派閥の構図になっていました。自分の主張を守りたい思いがゆえに派閥を膨らませた結果悲惨な戦争に発展しました。国際関係は実生活の人間関係に応用できます。自分の主張を通したいときは自分一人よりも見方を作る性質があることがわかるため、問題の深刻化を防ぐには人間関係の構造を二極ではなく複雑にしておこうと行動の指針になります。 人間関係の悩みは誰でも抱えるので、国際関係をわかりやすく理屈っぽくない程度に伝えることを心がけています。海外の問題を身近な問題として少しずつ考えてもらえればと思います。 ー茶道とホストクラブ、茶道とセックスに共通点がある? 僕は売春に該当する行為はしていません。しかしながら、女性を理解し、そして少しでも満たされ幸せな気持ちにするために、セックスが重要なツールの1つなのは間違いありません(僕はヘテロセクシャルなので対象を仮に女性としていますが、どのような当事者であっても同じことが言えると思います。)。セックスほど、人を幸せにも不幸にもするものは存在しない。自分がモノにされている、消費されているような気持ちになれば、それはたとえパートナー間でも、性別を問わず自分の尊厳を危機に晒します。一方で、自分が本当の意味で大切にされている、リスペクトされていると感じてもらい、その人が自分自身をより好きになれるのもまたセックスの側面です。言葉で取り繕えないものを形として示すことができる。ありがたいことに今まで「料理もセックスも職人」「セックスしているだけでフェミニストなのが伝わる」「こんなことをされたら誰でも好きになってしまう」(さすがに大げさですが)といった評価を頂きました。しかし実はそこに至るためにヒントを与えてくれたのは、以外にも茶道でした。 ここに、コーヒーマグがあるとします。あなたはそれを、目の前の人に振る舞おうとしています。この時、渡し方は3通り。1つは、持ち手を相手の右(利き手)に向けない。2つめは、利き手の方にマグの持ち手が向かうように最初から持ち、そのまま置く。3つめは、持ち手を適当な方向に向けて置いた後、テーブルの上で回して向きを直す。2つめと3つめ、相手への心遣いで言えば一緒ですが、2つめは気持ちが形として伝わりません。一方3つめは、あえて回すことで「自分はもてなされている」と相手に感じさせることができます。「抹茶が出された時茶碗を回す」というのを知っている方も多いと思いますが、実はこんな意味があります。茶道にはこのように、相手を大切にする気持ちを形にするための様々な工夫が詰まっています。 ホストクラブも同様、お酒の配置からドリンクの作り方、灰皿の扱いに至るまで細かく作法が決まっており、それら全てにお客様をもてなす上での理由があります。これは全く茶道と一緒です。 ではセックスにおいては具体的にどんな行動になるか。たとえば「私今日肌ちょっと荒れてるんだよね...」という言葉が会話にあったとします。もしセックスの時その荒れた肌に、たくさんキスをされたら、きっと相手は嬉しいのではないでしょうか。なぜならそれが、肌の状態に関係なく相手を大切に思っているというメッセージになるからです。言葉以上に相手への肯定になります。他には、ふと相手の手足が流れの中で下敷きになりそうな時よけてあげる、「こんな反応をしたら引かれないかな?」と不安に思っていそうだったら手を握る、こういったことの積み重ねが重要です。もちろん一番は愛のあるセックスだとして、では2番目にいいセックスは何か?これは僕の考えですが、「礼のあるセックス」だと思います。あまり生々しい話をするのもあれなのでこれぐらいにしますが、とにかく、セックスはもっとも人間が無防備な状態になる瞬間の1つ。性別を問わず誰もが不安です。そしてその不安の正体は、反応や行動1つ1つで自身の内面が簡単に晒されてしまうことです。相手にもっと自分を必要とされたい、尽くされたい、支配したい、支配されたい、挑戦的な言動をしているが逆にその分跳ね返してかまってほしい、などなど。相手の性格を注意深く観察し、それを受け入れてゆく。その繰り返し。逆に何か困ったことがあった時にメッセージをもらえれば一緒に考えることもできます。 ー日本人の何を守りたいのか? 僕は他者をある程度は放置すればいいと考えてます。自分が理解もしておらず直接の利害もないのに関わるのは問題を複雑にします。日本の世間は他者を放っておけません。放任できない世間を変えたい。守りたいのは、個人の意思です。 例えば、この本ですね。(「同調圧力」を画面で紹介。)この作品は、 同調圧力に屈さず正義を貫いたジャーナリストと官僚3人が自身に起きたことについて語る本です。同調圧力が強いこの国では、官邸から無言電話がきたりすることもあります。圧力に負けず、自分の意見を主張し続けるのは、国で貴重な存在です。どのようにどのような課題が組織にあり、3人がどう対処したか、対処できた 3人の背景が書かれています。 同調圧力 (角川新書) | 望月 衣塑子, 前川 喜平, マーティン・ファクラー |本 世間を気にして生きると、人々の協力を促せます。集団として高いパフォーマンスが出せるのは事実です。一方で世間には実体がありません。責任はとらない。そして、世間は感情的です。日本以外の国では歴史的に、立場が上がると、自由が増える構造でした。ゆえに人は自由を求め高い地位に向かい競争するのが一般的な歴史の流れでした。しかし立場が上がっても、日本人は自由がありません。世間がいろいろ口出しをするからです。政治家や社長であっても、同じように相応の振る舞いを求められます。 東条英機であっても、世間を忖度した側面があるのは事実です。それゆえはっきりと戦争責任の原因を歴史は言及できず「開戦の空気が高まった」となってしまいます。結果、うやむやに物事が進んでしまう。世間が全ての意思決定をします。世間は文句を言うだけですが、世間は罰せられません。 最近のニュースでは、俳優がコロナの影響を心配し主役を降りました。コロナにかかったら世間は健康管理不足であると叩く。かといってコロナが理由で自分の役と仕事を放棄しても世間は攻撃します。そしてどうすればいいのかを示さないのが世間です。しかし、世間を壊すことはできません。渡り合いの精神が日本社会に浸透し、世の中が柔らかくなればいいと思います。 人間は誰しもが自由から逃れたいという本能を少なからず持っています。なぜなら判断するにはエネルギーを消費するからです。誰しもが自分の決定が正しいという根拠が欲しい。しかし1つ1つの行動について考え抜き自信を持つのは大変。ゆえに、何か大きな存在を拠り所にし、それに従うことで安心感を得ようとするのです。それは恋人かもしれない。国によっては宗教かもしれない。日本人の場合はその拠り所が「世間」になってしまいます。だから周囲から認められることをすることと、自己肯定感が直結してしまっているのです。 しかし、誰もが実は自分の意見を持っている。心の中のどこかで正しくないと思っていることを続けると、少しずつ自己嫌悪が溜まってゆく上、周囲と同じことをするだけの中で自分の存在意義を見失うこともあります。恐れずあなたが正しいと思ったことをすることで、あなたはより自分を好きになれるでしょう。 ー楽さんの実現したいビジョンは? 平和に生きていられればと思います。人が争わないのは結構難しい。人間は自分の命以上に自分の存在意義が大事です。自分の存在意義が危ぶまれると人間は死に向かったり、自分の存在意義を確かめるために人を傷つけます。 夜職の一部もアイデンティティの危機に晒され続けています。具体的には、風俗嬢は、風俗嬢として周りはみてくれません。風俗嬢に両親から満足な愛情を受けていない人が傾向として多いのは事実です。しかしそれとはまた別に、友達がいて、学校に通い、部活をしてたといった部分もまたその人の個性なのですが、そこがぼやけてしまう。しかし、風俗嬢となった瞬間、風俗嬢としかみられません。「風俗嬢」という言葉を使う裏にはしばしば、同じ人間として見るのではなく「風俗嬢とそうでない私たち」と線を引くニュアンスがあったりします。人は自分をはっきりさせるためにアイデンティティを作ったり、他者の主語を大きくしたりする。宗教?人種?性別?学校?職業?国籍?こういった本能がある限り、人間には常にどこでも争いの火種がくすぶっています。 人間同士の平和は構築が難しい。僕は治安のよさを後世に残せればいい。しかし僕の生きる時代で、平和の仕組み化は無理です。国家を超える意思決定機関ができるにはまだ数百年必要。だとしたら、そこに繋がるレンガの 1 ピースを乗せられればいいと思います。 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:津島菜摘(note/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる

自信のなかった私がSNSで美文字を発信する理由ー書道師範・ふみか

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、Twitterで「美文字脳」の発信や講座を行うふみかさんです。 中学生で書道師範免許を取得するほどの実力を持っていたにもかかわらず、自分に自信が持てずに「書道を教える」という夢をあきらめたふみかさん。そんなふみかさんが再び美文字脳講座を始めるに至る経緯をお話いただきました。 書道のきっかけは祖母の絵手紙 ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 私はいま書道師範の「ふみか」という名前で、Twitterで「美文字脳」の発信をしています。隔週で1時間くらいオンラインで美文字脳講座を行い、その後受講者さんの文字を添削する、という活動です。 講座はライブ形式で行い、コメントをもらいながら意見を出し合って、「この文字がどうやったらきれいになるか」などをみんなでディスカッションするような参加型の授業をしています。 ただ教えるだけではなく、みんなが楽しんで美文字がスッと身につくような講座を目指しています。そのため短時間でうまくなる、楽しめる方法を重点的にお伝えしていますね。 美文字脳講座は今年の4月から始めましたが、まだ始めて半年も経っていないのに「ふみかさんのおかげで楽しくできました!」という声をたくさんいただき……そんな声が活動を続ける活力になっています。 ー5歳のときに書道を始めたそうですが、書道を始めたきっかけは何でしたか。 理由のひとつは私の祖母でした。祖母はお習字とか習ってなかったのですが、きれいな字を書く人で。祖母の字を見て、幼いながらに「きれいな字っていいな」と思ったのが最初に文字に興味を持ったきっかけでした。 それで母に頼み込んで書き方教室に通い始めたんです。その体験教室に行ったときの体験も書道を始めるきっかけだったと思います。 私は自分に自信がないタイプの子供だったのですが、体験授業のなかでひらがなの「あいうえお」を書いたときに先生が「すごいね!」と褒めてくれたんです。その先生がモチベーションを上げるのが上手な先生だったんですよね。そこから習字に対してエンジンがかかって、高校生のときまでずっと書道と教室を続けました。 ひたすら書道に熱中した学生時代   ーそれから中学生で書道師範になったと。 毎月習字の検定に出すので、そこで飛び級などを繰り返していたら書道師範になってたんです。でも特に練習とかはしていなくて。書道自体は書き方教室の1時間だけでした。 字を書くことが好きだったので、普段ノートに書く文字とかは書き方教室で習ったことを活かすようにしていました。好きなことを続けて、気がついたら没頭していましたね。 ー高校時代はどう過ごされていたのですか。 高校卒業のタイミングで書き方教室の先生が引退なさるまで、ずっと書道漬けの毎日を過ごしてました。 書道科のある高校だったので、授業の前に書き方教室に行って授業でも書道について学び、部活で夜や土日まで部活と今の私では考えられないくらい書道中心の生活でした。ご飯を食べながら寝るくらい必死でしたね(笑) ーそんな熱中していた書道を辞めた理由は何だったのでしょうか。 書道をやりきったと思ったことや、私の高校卒業と同時くらいに書き方教室の先生が引退されたことなど、いくつか理由はあります。 実は高校の書道の先生になるために、教員になろうと思って教育学部の受験を考えていました。でも、元々自分に自信がない私はとても引っ込み思案な性格で。自分が人前に出ているのが想像できず、私は先生という仕事に向いていないと思ったんです。 それで教員という道を諦めて、書道とはまったく関係ない分野の短期大学に進みました。そこから社会人になって書道はぱったり辞めてしまいましたね。 「自分らしく働いて夫を支えたい」ふみかさんが一歩踏み出したきっかけ ー再び書道に関わろうと、Twitterで美文字脳を発信するまでどんな気持ちの変化があったのでしょうか。 それまでは書道と離れていたものの、字を書くことは好きで履歴書を手書きで書いたり、職場でもよく手書きをする機会がありました。人に手紙書くときって、手書きだと伝わるし喜んでくれるんですよね。そういう体験を通して、手書きの大切さを伝えられたらと思っていました。 そして去年、夫と結婚したことで気持ちの大きな変化がありました。毎日なんとなく過ごしていた私でしたが、結婚したときにいつか自分らしく働いてその仕事で夫を支えられる人になりたいと思うようになりました。 人生の中でどうしても仕事をセーブしなくてはいけないときがあっても、どこでも自分らしく働けるような、自分らしい軸があればいいなと。今の本業は書道とはまったく違う仕事ですが、本業とは別になにか自分らしい軸が欲しいと思ったんです。 夫は一緒になって夢を応援してくれていて、美文字脳講座の活動の話をするといつもワクワクしながら聞いてくれるんです。いまはそういう毎日をとても楽しく感じています。 ー美文字”脳”とはなんでしょうか。 ただの美文字ではなく、脳を活かした授業をしたいという想いから「美文字”脳”」の講座をしています。 人間は楽しいことや前向きになれることのほうが脳に定着しやすいんです。でも、今の大人向けの授業は堅いものが多いですよね。「脳にとっても、大人への楽しい授業が必要だ!」と思って、楽しく学べる講座を作ろうと思いました。 そのため、私の美文字脳講座は参加型の授業にしています。私が話すより、受講者みんなが自発的に意見を言ったほうが脳が活性化され、自分で考えるんです。自分で考えることによって脳を活かした授業になります。 また、文字の解説に絵を加えたりストーリーにすることで、より記憶に残りやすい授業にしています。字だけではなく絵や思い入れ、その時の場面も一緒に思い出せる。ただの美文字ではなく、脳を活かした授業をするのが「美文字”脳”」講座なんです。 自信のない人も美文字を通して前向きになってほしい ー好きなことがあっても長続きしないという方も多いと思いますが、ふみかさんのようにひとつのことを長く続けていく秘訣はありますか? 美文字脳講座の話にもあったのですが、苦しいことや辛いことって記憶が定着しにくいんですよね。一方、楽しいことは脳がどんどん吸収してくれて、すぐに成長できる。その結果、モチベーション高く結果を出せるんです。 だから何をするにも楽しむことが一番大事だと思います。 その楽しみ方も、日常の中で楽しいと思えることがいいですね。もちろんテキストに向かって勉強するのも大事ですが、会話をするとか洋楽を聞いてみるとか、自分が楽しいと思える方法が良いと思います。 楽しいと思って続けられて、また楽しいと思うから続けられる……そんなサイクルを作ることが継続できる秘訣です。 ーふみかさんは人と比べず、自分に向き合う生き方をされていますが人と自分を比べないコツなどはありますか? 何かひとつでも、自分の成長体験を目に見えることを残すことでしょうか。 私は習字の検定に出したものをファイリングして、定期的に見返しています。自分の結果や努力を見返すことで、賞に入らなかったことよりも先月の自分より成長していることを実感して、モチベーションに繋がるんです。 そうやって成功体験を積み上げていって、気がついたら書道に没頭していました。 ー自信がない人が自信を持つための方法を教えていただきたいです! 先ほどの成功体験の積み重ねに加えて、自信ない人ほど人と接することを持っておくといいと思います。 私も自分に自信がなく、なんでもマイナスに考えてしまう時期がありました。その時は人と接することを拒んでいて、何も楽しくないって思ってたんです。 Twitterで美文字脳の発信をする中で人と接することが増えて、自分では自信がなかった部分を褒めてもらえることが増えました。人から前向きな言葉がもらえて、自分の好きになれた部分も増えて。今はとても自分に自信が持てるようになりました。 だから、私はこれからもTwitterでの発信や交流は続けていきたいです。前向きになるために人とのつながりを持っていきたいですね。 ー今後、どんなことに挑戦したいですか。 かつての私みたいな、自信がない方や明日に希望が持てない方に美文字を通して前向きになってほしい。それが私の成し遂げたいことです。 いろんなところで私の想いを伝えて、そんな人たちが一歩を踏み出すきっかけになっていけたらな、と思っています。 ーステキなお話をありがとうございました!ふみかさんの今後の活動を楽しみにしています! 美文字脳を学んで自分に自信を持ちたい。そんな方はぜひふみかさんの美文字脳講座に参加してみてください。詳細はふみかさんのnoteをチェックしてみてくださいね。 執筆:えるも(Twitter/ブログ) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

就職活動挫折組だった私がキャリアカウンセラーになるまで

第二部:会社との思いがけない出会いとキャリアカウンセラーの仕事 現在、株式会社UZUZでキャリアカウンセラーとして活躍中の望月奈津美さん。そんな彼女も実は就職で大きな挫折を経験している一人です。第一部では大学時代、初めての就職活動、挫折を経ての内定、新規開拓営業のお話を伺いました。第二部では、営業の仕事を始めて2年半くらいの時に起きた転機、転職活動中に思いがけない出会いをした現在の会社、そしてキャリアカウンセラーの仕事について伺います。 仕事は面白いけれど、退職しようかな... ー転職を考え始めたのはいつごろですか。 はっきりと退職を意識し始めたのは、入社2年目の後半、3年経つ半年前くらいですね。「会社を辞める」タイミングはかなり考えました。自分の年齢、経験年数、会社の繁忙期など色々加味して「今のタイミングだよな」と思ったのが入社3年目の前半ごろ。このころから本格的に他の会社を調べ始めました。 ー転職を決めた理由は? 一つの理由が決めてというよりは、どちらかというと小さな要素がたくさん重なって、ジワリジワリと考えるようになりましたね。結婚して子どもを産んでも働きたいって思っているので、今の仕事をずっと続けられるのか自信も持てませんでしたし。 また、新規開拓営業をやっていて、ダイレクトに企業全体にというよりはもう少し範囲を絞った個人などに対して働きかける方が、一案件に対してじっくり時間をかける性分の自分にはあっているかなとも感じました。自分のやった仕事に対して、返ってくる結果も個人の方が感じやすいですしね。 ー「やっぱり転職をやめよう」と思うことはなかったんですか? タイミング的に色々重なって、もう少し会社にいたら、別の案件も出来るかも、と思うところはありました。でもそうなると、その後、4年、5年は仕事を続けていく可能性もあり得ます。このとき私の年齢は26歳だったので、複数年別の案件をやってから転職するとなると30歳は超えます。正直、それでは遅いのでは無いか、と考えました。であれば、やっぱり今転職するしかない。そう決意して転職することに決めました。 ー前職を辞めてから、少しお休みをして転職活動をされたんですか。 いいえ、少し大変ではありましたが、仕事をしながら並行して転職活動行なっていました。辞めたのは、今の会社(株式会社UZUZ)への入社が決まってからです。 転職活動は情報集めから ー転職しようと決めてから、まずどんな行動を取りましたか。 周りに転職活動を経験している先輩や知人がいたので、まずはどういう風に転職を進めたのかを聞きました。 ーもう転職活動した人に相談したということですね。 そうです。それから、求人広告を見たり、グーグルで検索したりしました。知人から5〜6種類程、おすすめの媒体を教えてもらったので調べてみたりしましたね。 UZUZとの思いがけない出会い ーおすすめされた媒体の中に株式会社UZUZがあったんですか。 いや、そうではないですよ。UZUZとの出会いは偶然によるところが大きいんです。通勤電車の中で求人媒体を見ていたとき、あまり詳しくは覚えていないんですが何かの拍子にバナーをクリックしたんだと思います。そしたら質問が出てきたんです。「女性か男性か」と「年代」と「第二新卒か既卒か」だったかな?気軽な気持ちで選んでいたら、「登録しました」となったのがUZUZだったんですよ。後日連絡がきて、面談日程を組むという話になりましたが、UZUZって何?なんて読むの?と思いました。笑 ーそうですよね、CMをやってるわけでもなく、初めて聞きますもんね。 そこから自分でUZUZについて調べました。面談してもらうのなら、UZUZはどういう分野に強いのか見ないといけないなと思い、HPに飛んだんです。そしたら、HPが結構おもしろくて!社員インタビュー記事があり、ニュース記事があり、ブログもあり、色々調べているうちに、UZUZという会社を受けてみたいと思うようになりました。なので「ごめんなさい、(人材紹介のための)面談を辞退します。採用選考に進みたいです。」と連絡をしました。 ーUZUZで(人材紹介のための)面談ではなくて、選考試験を受けたいと思ったポイントはどんなところでしたか。 大きかったのは社員のインタビュー記事です。面白くて全部読みました。結構、過去に何かあった人が多くて、就活に挫折した経験がある人もいて、私も挫折しているので、よく気持ちがわかり、近しい部分があるのを感じました。UZUZで働いている人たちの人柄に惹かれたのが一番のポイントです。 ーオフィスに行って、実際に社員の方々に会ってもその印象(人柄)は変わりませんでしたか。 はい。オフィスを訪問した時に人事担当者と話して、自分の適性についても考えることがありました。「自分は何がそこでできるかな」と考えたときに、「営業をやってきたところの意識(関係性を作る)は使えるな」と感じました。そして、仕事の中での大変な部分やビジネスモデルなども理解した上で入りました。 そして、キャリアカウンセラーへ。 ー面接をクリアし、実際入ってみてどうですか。 キャリアカウンセリングは本当に難しいなぁと感じます。生身の相手ですので、考えが変わったり、周囲の影響による心境の変化などもありますし。だから私自身も、100%相手に対して正しい答えを出せているわけではないと思います。 ー人様のキャリアのことを支援するのはとても責任が大きいですよね。 そうですね、責任重大です。企業と求職者のミスマッチを100%ゼロにはできませんが、限りなくミスマッチしない結果に近づけたいと思っています。大事なのは求職者の方が今何を考え、何に悩んでいるのか、どういう仕事をしたいのか、どんな働き方や将来を作っていきたいのか明らかにすること。この点を一緒に整理しながら言語化していくんですが、これがとても難しいです。最初は本音で話してくれないこともあるので、そこを解していきながら関係性を作っていくように意識をしています。 「質問されたからなんとなくとりあえず答えてるけど、よく分からないです……」という人もいるので、本人の中にある潜在的な軸になる部分を見つけるのは簡単ではないですね。 ー軸を見つけるために、意識していることや聞いている質問などありますか。 将来や先のことだけでなく、過去から全部お聴きするようにしています。その中で、「その人がどういう判断をしてきたかの癖」を探るようにしています。 キャリアカウンセラーのアプローチの仕方 ー日々のキャリアアドバイスのお仕事で、「やりたいことがないんです」というような相談を受けた時、どんな風にアドバイスされていますか。 一概には言えないですが、既卒の方に多い傾向がありますね。「やりたいことがコレだ!と確信が持てるものを見つけるのって時間がかかるし、脳みそも使うし、そもそも考えているだけでは分からない。仕事をして経験を積みながら見つけていこう。足踏み状態だけが続くと”年齢は重ねるのに経験は空っぽな人”になってしまう、経験した先で新しい見え方がしてくるものだよ。」とアドバイスしています。 ただ、無闇に仕事を選んでしまうのもまた違うので、本人と方向性をしっかり話した上で、どういう経験を積んでいくことが思い描く将来像に近づくのか、はしっかり押さえます。 まずは、専門学校や大学での経験や、アルバイト経験などを聴いて、求職者の方が得意なことや活かせる経験など、過去のバックグラウンドを一緒に作っていきます。 第二新卒の方に対しては、職務経験や転職理由などをお聴きし、次のフィールドでは何を求めていきたいのかもお聴きして、方向性を見つけていきます。 あとは、「一生」とか「10年後、20年後」といった大きなスパンで考えずに、5年後、3年後、2年後でもいいから、短いところで期間を定めて、どうなっていたいのかを考えて貰うように提案する場合もあります。 ー求職者の経験やタイプによってアプローチ方法が異なるのですね。ありがとうございます。 迷ったらまずは「行動」してみる。 ー最後にいくつか質問をさせてください。日々面談されていて、求職者にはどんな方が多いですか。就職活動で挫折している人が多いなど、傾向はありますか。 私同様、新卒時の就職活動でうまくいかずに挫折して既卒となられている方もいますし、数ヶ月〜半年という短期離職の方もいます。在職中ですがもっとキャリアアップしたいという考えで転職検討されている方もいます。多いのはそういった方々ですね。 ー“キャリアアップ”はポジティブな動機なので、割とわかりやすいですよね。しかし就職活動がうまくいかなくて挫折してしまった、あるいは入社した会社を数ヶ月で離職してしまった方の中にも、次の職探しで“うまくいく人”と“うまくいかない人”がいると思います。その差はどんなところにあると思いますか。うまくいくための法則、コツみたいなものがもしあれば、それもお聞かせください。 コツ...難しいですね。自分自身で上手くいかない要因や短期離職してしまった要因を認識できて、それを修正していけるかどうか、は大きいです。 また、行動する、しないも大きいかなと思います。考え続けて足踏みしてしまう人は結構多いですね。「もう少し考えます」という人も多いのですが、考えているだけでは分からないと思うので、行動して企業の説明会に行ってみる、面接を受けて、そこで逆質問をガンガンしまくるなど、そういうことはやってほしいなと思います。それをやるかやらないかで、就活するまでの期間や伸びも変わってくるので、情報収集の一つの手段として、「行動する」こと、つまり目で見てくる、聞いてくるというのは違ってくるかなと感じています。 ーそうなんですね。考えて足踏みしている時間があったらどんどん行動することで、結果的に気づきや発見、学びも大きくなり、自分のキャリアも前に進んでいくよ、ということですね。本日は、ありがとうございました。 UZUZにキャリア相談してみる

ネット炎上中にUSJしても気付かれなかった。ゆうこすの #何者でもない時代

社会の第一線で活躍し、自身で道を切り開き進んでいく人々。彼らの姿は私たちの未来に多様な選択肢をもたらしてくれるが、現在の自分と比較して「私にはできない」と悲観してしまうことも少なくない。でも、もし憧れのあの人の「何者でもない時代」を知ることができたら—— 。 U-29.comが送る、「あの人の人生を振り返り、ユニークで私らしい人生を送るため」のヒントを届ける企画 #何者でもない時代 。今回のゲストは、YouTuberやインスタグラマーとして活躍し、株式会社KOSを手がける経営者としても注目される“モテタレント”菅本裕子さんこと、ゆうこすさんです。 ゆうこすさんは高校生でHKT48としてアイドルデビューを果たし、さらにミスiD準グランプリに輝いています。そして現在はYouTuberにインスタグラマー、さらにはプロデュース業も行うなど、現在は業界を越えて大活躍。SNSを開けば、彼女の名前を目にしない日はありません。 そんなゆうこすさんは、かつて「肩書きだけがあって、自分は何者でもないと気付かされた」と過去を振り返ります。正解も間違いもないこの時代に、自らで旗を立てSNSを駆使して駆け抜けていく彼女の「何者でもなかった時代」に迫りました。 Text by 佐々木希海 Edit by Mitsufumi Obara   肩書きがあっても、何者にもなれなかった —— ゆうこすさんの「何者でもない時代」について、お伺いしたいです。ゆうこすさんは高校時代にアイドルとしてデビュー、そしてミスiD準グランプリを経て、YouTuberやインスタグラマーとしても活躍されています。さらに最近は、プロデュース業も行われている……。経歴を拝見すると、「何者でもなかった時代」の想像が全くつきません。 菅本裕子(以下、ゆうこす):たしかに、いわゆる「肩書き」は早い時期からあったかもしれません。ただ肩書きがあったからといって、「何者になれていたか」といえば、そうではないんです。仕事も全然なくて、ニートでした(笑)。 —— ゆうこすさんにも、そんな時代があったんですね…!肩書きがあったからといって、生活が変化するわけではないと。 ゆうこす:周りからの見え方は変わりましたが、完全に“肩書き負け”だったと思います。私自身の中で何か変わったり、語れるものができたわけでもない。むしろ、肩書きがあるからこそ、自分は「何者でもない」ことに気がついたんです。 当時は“元HKT48の人”、“準ミスiDの人”という肩書きでしか、私を認識してもらえていませんでした。ちゃんと私のことを「ゆうこす」として知ってた人は果たしていたのだろうか…という感じです。これってやっぱり「何者でもない」ってことですよね。 —— では、ゆうこすさんにとって、アイドル時代も、準ミスiD時代も「何者でもなかった時代」であると。 ゆうこす:はい。肩書きを得ても、自分のやりたいことがなければ、「致命的だ」と気がついたんです。応援もされないし、ひいては仕事にもならない。現在のように、好きなことを仕事にできなかったので、当時はアルバイトでお金を稼いでいましたね。 「好きなことでは稼げない?」苦労時代は、挑戦する前から甘えてた —— ゆうこすさんは、現在「好きを仕事に」されていらっしゃいます。アルバイトをしていた頃は、そうした発想はなかったのでしょうか? ゆうこす:「好きなことが仕事になる」とは到底思えなかったんです。「好きなことは不安定なもので、お金が稼げないものだ」と決めつけ、挑戦することをしませんでした。 ……でも、真剣に考えてみたら、稼ぎ方なんていくらでもあるじゃないですか。クラウドファンディングもあるし、サイトの開設だって簡単にできるようになった。結局、好きなことがお金にできなかったのは、稼ぎ方を考えずに甘えていた自分のせい。——足りないのは“柔軟な頭”だったんです。 —— たしかにマネタイズ方法はたくさんありますが、覚悟して一歩を踏み出すのは難しいですよね。それができなかったことを「自身の甘え」だと言い切れるゆうこすさんの強さに驚いています…。どのような思考の変化があったのでしょうか? ゆうこす:固定概念やプライドを捨て、「自分の好きなこと」をとことん追求してみたんです。 たしかに、すごく覚悟のいることかもしれません。でも、やりたいことや好きなことがある人は、一度勇気を振り絞っていろんな方向から稼ぎ方を考えてほしい。意識的に考え方を変えてみると、視野が広がるんです。 —— とはいえ最初は結果もついてこないですし、「何やってるの?」なんて視線を向けられ、続けるのが難しそうです。 ゆうこす:最初からうまくいくことなんて、そう多くありません。なので、何かを始めたときは、SNSで「成功だけ」を発信したくなりますよね。でも、それは本当にもったいないことです。 好きなことを始めたら、成功も失敗も全て発信してください。すると、応援してくれるファンが生まれます。応援してくれる人に巡り会えると、次の一歩が大きく踏み込めるようになるので。 事実、私にとってファンの存在は、「好き」を続ける、そして「好き」を仕事にするための大きな支えになっています。 —— ゆうこすさん自身、発信することで、失敗した経験はあるんですか? ゆうこす:アイドル辞めた直後のSNSでは、「多くの人に好かれなくっちゃ!」と思っていたので、ありのままの自分を発信できなかったんです。Twitterのフォロワー数は多くても、本当に私のことを応援してくれる人たちや、会いに来てくれる人たちはほとんどいない状態でした。 でも、無駄なプライドを全部捨て、本当に思ったことを発信するようになってからは、本当の意味で応援してくれるファンが増えました。以来、ありのままの自分でいられるようになりましたね。失敗経験があったことで、今の発信スタイルになっています。 アカウントを作る前に炎上を怖がるってどういうこと?(笑) —— やりたいことがあるのに飛び込めない…という人も少なくありません。事実、行動を起こす前から、怖がってしまうことが私にもよくあります。自分の弱い心が挑戦の足かせになることが多いのですが、何かアドバイスをもらえませんか? ゆうこす:似たような相談を何度か受けたことがあります。「こういうことをしていきたいんですけど、もし炎上したらどうしよう?」と。 でもいろいろ話を聞いてみると、まだアカウントも作ってない状態で炎上を恐れていたりするんですよ(笑)。 みんな、起こるかも分からないことに怯え過ぎてると思います。それに、たとえ炎上したとしても、みんなすぐに忘れます。……最近あった炎上騒ぎ、覚えてますか? —— 覚えてないですね…すぐ忘れてしまいます。 ゆうこす:そうなんですよ。人の失敗なんてすぐ忘れてしまうし、思ったより誰も自分のことなんて気にしていないんです。 私はかつてネット炎上を経験したことがあります。ただ、その最中にUSJに行っても、誰にも気がつかれなかったんですよね。自分の「自意識過剰さ」が恥ずかしくなりました。 失敗を恐れて何もできないより、その失敗をもプラスに転換して発信できたらむしろ成功になると思うので、ポジティブに頑張ってほしいですね♡ 垂直の壁に向かって走るのはやめよう。夢を叶えるには、夢への階段をつくるべし —— 何者かであろうとするから、何者にもなれない…そんなジレンマを感じました。まずは、ずべこべ言わず行動しないと何も変わらないんですね。 ゆうこす:そうですね。「自分でレールを引いて頑張りたい人」って、100人中10人くらいです。そして、実際に行動する人は、1人いるかいないか。行動している人は意外と少ないので、行動するだけで差をつけられます。みんなより一歩前へ行けるんです。 でも、「行動する」のは難しいことではありません。人を変えるのは難しいですが、自分を変えるのは簡単。「やればいいだけ」です。 —— ゆうこすさんからすると、やらない理由がわからないくらい? ゆうこす:そうですね。もちろん行動に失敗はつきものですが、経験値が得られるので、成長確率も上がります。たとえ大きな失敗をしても、行動をしない99人とは違う人間になれています。 だから、そんなにマイナス思考にならずに、まずは動いてみるべきです。 —— これから行動を起こし、夢を追いかけていく人たちに伝えたいことはありますか? ゆうこす:「夢への階段」をつくってください。夢を叶えた人に共通するのは、叶えたい目標から逆算して階段を作っているということなので。 —— 階段とは具体的にどのようなものでしょうか? ゆうこす:夢を叶えるために、達成しなくてはいけない細かい目標のことです。 夢を叶えるためには小さな目標を一歩づつ達成する必要があるのに、多くの人がそのことを忘れています。ただひとつ、一番大きな夢だけを見ているんです。 それって、垂直な壁に向かって走っている状態なんですよ(笑)。その壁を登りきるための階段を用意してあげないと、壁の高さに挫折してしまうことも少なくありません。まずは小さな目標を決め、それを達成してください。本当に小さなことでいいんです。 たとえば漫画家志望の人は、自分の友達に見せて「面白い」と思ってもらうとか、その次はネットに掲載してみるとか。「手塚賞とるぞ!」と大きな目標だけを立てるより、ずっとモチベーションを維持できると思います!

「地方を豊かにする」がミッションと語る矢野口聡が株式会社グローカルに転職するまで

  様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第345回のゲストは株式会社グローカルでコンサルタントマネージャーとして働く矢野口聡さんです。再生医療に興味を持ち大学で上京。その後大学院を経て国内メーカーに就職した矢野口さんが経営コンサルタントにキャリアチェンジを決意した理由に迫りました! 地方の中小企業をサポートして地方を豊かに ーまずは現在のお仕事も含めて、簡単な自己紹介をお願いします! 株式会社グローカルで経営コンサルタントとして働いています、矢野口聡です。2020年3月に入社したのですが、現在会社が拡大フェーズにあるということもあり、社内の仕組み化など経営企画的なポジションも担当させていただいています。前職は新卒で入社したメーカー企業で研究開発の仕事していました。 ー株式会社グローカルの具体的な事業内容についてもう少し教えていただけますか。 株式会社グローカルでは地方にある中小企業の経営支援を行っています。Webマーケティングや事業戦略、採用、新規事業立ち上げなど幅広くサポートするのが特徴です。というのも中小企業には中小企業独特の悩みや課題があり、それらの多くは密接に関わり合っているため、幅広く対応できないと解決に繋がらないからです。 ー転職して約1年とのことですが、この1年を振り返ってみていかがですか。 前職が大手企業だっということもあり、やっぱりスピード感が全く違って、本当に刺激の多い、濃い1年だったなと思います。私は社員6人目として入社したのですが、現在社員数14名となっており、この1年で倍に増えました。オフィスの移転を行ったこともあり、この1年で見える景色が変わったなという感覚があります。 もちろん、この1年はコロナの影響をたくさん受けた1年でもありましたが、これまで関わりのなかった企業さんから新たに経営についてご相談を受けるなどポジティブな変化もたくさんあったと思います。   長野から東京へ。ギャップに衝撃を受けた ー現在に至るまでの過去のお話もお伺いできたらと思います。地方に目を向けるようになったきっかけを教えてください。 大学で生まれ育った長野から上京したことが大きなきっかけとなったと思います。田んぼに囲まれて育ったこともあり、地方に関心があったので北海道や九州の大学を目指していましたが、受験に失敗し、結果的に東京の大学に進学しました。都会に憧れなどはなかったのに、たまたま東京に住むことになったんです(笑) ー地域以外では、大学はどのような基準で選ばれていたのでしょうか。 ちょうどIPS細胞が話題になっていた時期だったので、私も再生医療に興味を持ち、その分野が勉強できる大学を志望校に選んでいました。当時から漠然と、人の役に立つことがやりたいという思いは持っていたみたいです。 ー長野から上京してみていかがでしたか。 東京にきて、情報や機会が溢れていることに衝撃を受けましたね。これが地域格差なのか…と。大学では塾講師のアルバイトをしていたのですが、夜遅くまで子供たちが勉強しているのが東京では当たり前なことにもびっくりしました。 また、進学した大学には海外からの留学生も多かったので初めて異文化にも触れることとなり、新しい価値観や発見で刺激的な毎日でした。 ー大学卒業後の進路についてはどのように考えられていたのですか。 大学では再生医療の基礎的な部分を勉強していましたが、もっと目の前の人を助けることのできる研究や製品化が近い開発の部分に関わる研究がしたいと思い、東京大学の院に進学することに決めました。勉強したい分野が明確に決まっていたので、就職をするという選択肢は考えていなかったです。   チームに貢献したい、誰かの役に立ちたいという思い ー大学院での生活から何か今に通ずる出来事などはありましたか。 組織の中でどのような役割を担うかということについてよく考えた大学院生活だったなと思います。院では周囲の人がとても優秀で、劣等感を感じることが多かったのですが、だからこそ能力以外で自分が貢献できることを考えるようになりました。そんな中で得意だと気づいたのが共同研究でプロジェクトの取りまとめやチームの関係性を良好にする役割を担うこと。率先して飲み会を企画するなど、組織に欠けていることを探し、積極的に動いていました。 ー大学院卒業後、メーカーへの就職を決められた経緯についても教えてください。 大学院生は研究をしながら就活をしなければならないので、限られた時間で効率よく就活をするため、メーカーに業界を絞って就活をしていました。ものづくりを通して、誰かの役に立ちたいなと思ったのが理由です。 前職の会社に決めた理由は、再生医療には変わらず興味を持っていたので将来的に医療系にも関われそうであったこと、そして様々な事業に取り組んでおり挑戦をし続けているところに魅力を感じたからでした。 ー入社後、どのタイミングで転職を考えるようになったのでしょうか。 ディスプレイ材料の研究部門に配属され、やりがいのある仕事だと感じていたのですが、先輩や上司のように生き生きと仕事ができていないことにモヤモヤを感じました。自分は本当は何をしたいのか、これから生涯かけてやっていきたいことは何なのかを考えるようになり、入社1年目の終わり頃から転職活動を始めました。 大学院の頃と変わらず、チームに貢献できていることが自分にとって大事だったのですが、社会人になってからはそれに加えて、好きでやりがいのある仕事をすることも大事だなと思うようになったんです。   地方を豊かにするとは?を問い続ける日々 ー株式会社グローカルはどのようにして見つけられたのですか。 本当にたまたま、見つけた感じです。本を読んだり、ワークショップに参加したりする中で自分のことを知る時間を取り、自分は何に興味を持っているのか、これからの人生でやりたいことは何かを約半年間程かけて考えました。その結果、地方から上京してカルチャーショックを受けたことが原体験としてあったこと、そして地方と都会のギャップを埋めるために何かしたいと思ったことから地方の地域経済に貢献できる仕事に就きたいと思ったんです。地域経済に貢献する方法を考えたときに思いついたのは地方を支えているであろう中小企業の存在でした。 そうやって自分の中で軸が固まったタイミングでたまたま地方の中小企業をサポートしているという株式会社グローカルに出会い、自分のアプローチしたいことにぴったりだったので選考を受け、入社を決めました。 ー運命的な出会いだったんですね!異なる規模感や職種への転職に対して不安などはありませんでしたか。 周囲の人からは心配されたりもしましたが、自分自身は不安や心配は一切なかったです。1年近くかけて転職活動をする中でやりたいことが明確化されていて、それがこの会社ならできるという確信があったので迷うポイントがなかったのだと思います。逆にベンチャー独特の雰囲気やスピード感、コミュニケーションの取り方、社長との距離感など魅力的に感じる部分が多くありました。 ーその確信通り、入社後のギャップなどはなかったのでしょうか。 そうですね。逆に入社したタイミングがとてもよかったなと思います。コロナによって事業戦略を大きく見直すタイミングだったので、経営の観点からも会社を見ることができ、自社理解が深まりました。また、目標設定を意識的にできる環境があったので、目標を口に出して行動していった結果、入社10ヶ月でマネージャーに昇格することもできました。 もちろん、入社して何もかもが想像通りだった訳ではなく、地域社会のために役に立ちたいという思いで転職したものの、いろんな企業や人と関われば関わるほど「そもそも地方を豊かにするってどういうことだっけ?」という問いにぶつかるようになりました。地域を豊かにすることの難しさを感じる日々です。 ーまだまだこれからというところかと思いますが、矢野口さんの今後の目標などがあればぜひ教えてください! 「地方を豊かにする」とはどういうことなのか、その解像度を高めて行きたいです。そのために今できることは、今の会社で地方で働いている方のサポートをすることだと思っています。地方にいる方々を主役に、その地域を豊かにするために、持続的な地方・地域の活性化に向けて基礎的なところからサポートしていきたいです。 また、もう一歩踏み込んで、自分が地域を豊かにするためにより力を発揮できることを見つけることが長期的な目標です。いつまでにどの分野でなどの具体的なことはまだわかりませんが、地域の課題についてより理解を深め、さらには専門性を高めていくことで、自分自身が一番その地域にインパクトをもたらすことのできる領域を見つけ出してアプローチできたらと思っています。そのためにも「地方が豊かになる」とはどういう状況なのか、そのために自分は何ができるのかを引き続き考え、答えを探していきます! 取材:あおきくみこ(Twitter/note) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

「20代のうちは失敗しよう」第二新卒で転職、海外就職、フリーランス…挑戦した先にあった好転人生

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第45回目のゲストはフリーランスカメラマンでありライターの渡辺健太郎さんです。 未経験のままIT業界へ転職、英語が苦手だけど海外就職、独学で勉強しフリーランスに…と、とてもチャレンジングなキャリアを進まれてきた渡辺さん。現在は、「けんわた」という愛称で、メンズメイクをはじめとしたジェンダーレスな生き方を発信しています。 失敗を重ねながらも、前向きに、そして自分の気持ちに素直に歩んできた渡辺さんのユニークキャリアに迫ります。 夢を諦められずに、挑戦に踏み込んだ新社会人 ー渡辺さん、本日はよろしくお願いします。 よろしくお願いします。普段は取材する側なので、緊張しています(笑) ーフリーランスとしてお仕事をしているということですが、どのような業務内容ですか? 独立当初はライターがメインだったのですが、昔から趣味だったカメラがいまは仕事の大きな割合を占めています。インタビューと撮影の両方を担当することもあります。 ー現在は、カメラとパソコンでお仕事をしていらっしゃいますが、もともとは全く違う職種だったんですよね? はい。大学で経営学を学んだ後、地元の愛知県にあるスーパーに就職をしました。正直、就職活動がうまくいかず、第一志望の会社には落ちてしまって…。たまたま面接で話が盛り上がったところが、スーパーだったんです。 早く内定をもらって、残りの大学生活を満喫したい!という気持ちもあって、そこに決めた、という消極的な理由でした。 ーそして、4か月で辞めてしまったんですね。 はい。とにかく激務で、朝の7時から夜の10時まで働き、土日も必ずどちらかは出勤しなくてはいけません。そこにいても自分の将来が見えませんでした。順調にいけば店長としてお店を任されることになっていたのでしょうけれど、店長も楽しそうに見えなくて…。 なにより、就職前の卒業旅行で訪れたバリ島での思い出が、自分にとって印象深く、興味関心ががらりと変ったことが大きかったです。 ーバリ島で、価値観が変わったのですか? それまで海外渡航経験はほぼなく、東南アジアへは偏見を抱いていました。「不衛生」「治安が悪い」など…。当時付き合っていた彼女に連れられて、渋々行ったのがバリ島だったんです。 彼女は英語が堪能で、コミュニケーションは任せっきりでした。そんななかで、ホテル滞在中にスタッフの方と1対1でコミュニケーションをとる場面があっったんです。苦手ながらも一生懸命会話して、通じ合ったと思ったときの感動が、深くこころに残りました。 それまで、悪いイメージを勝手に持っていたことを反省しました。出会う人がみんな優しく、魅力的に思えました。そこから色んな海外へ行ってみたいという気持ちが大きくなって、調べるうちに夢は「海外就職」まで膨らんでいったんです。 ーすでに就職先が決まっていたとき、新たな夢ができたんですね。 もやもやしながらこのまま働いても…と思って、4か月で退職しました。すぐに海外就職に動き出したかったものの、大したスキルも、立派な英語力もない僕にはハードルが高く…。まずはITスキルを付けようと、IT業界での転職活動を始めました。もともとパソコンに関心を持っていたんですよね。 愛知は地元なので、ここにいては甘えてしまうという気持ちもあって、転職先は東京で探しました。4か月で退職した第二新卒という肩書きを背負っての転職は、なかなかしんどかったですね。 ーどのくらいかけて転職先を見つけたんですか? 結局、約1年もかかってしまいました。未経験でもオッケーというところに惹かれて受けたSESの派遣会社に、無事決まりました。プログラミングは自分には合っていて、環境も、業務内容も不満はありませんでしたね。 ただ、やっぱり海外就職に挑戦したいという気持ちがずっとあって…。 その会社も海外事業部をもっていたものの、運よく配属されたとしても、それまで最低でも5年はかかるだろうと言われていました。 あるとき、知人から海外就職を斡旋してくれる方を紹介してもらったんです。その人のすすめで面接を受けたカンボジアにある企業から内定をもらって…。 失敗は早いうちに積んだほうがいい ー夢の海外就職への切符を掴んだんですね? はい。当時、24歳。東京の生活にも慣れて、大好きなディズニーの年間パスポートも買って、仕事にも満足していて…正直、この生活を手放すのか、と思うのは怖くて堪りませんでした。 でも、失敗するなら早い方がいい、という気持ちもあったんです。たくさん悩んで、結果、会社を辞めてカンボジアに行くことにしました。 ーそして、今、日本にいるということは…。 カンボジアの会社は、試用期間が終わる3か月で辞めてしまいました(笑) ーあれだけ望んでいた海外就職がやっとできたのに、どうしてですか? 現地の日系企業に営業をかけて、カンボジアの人材をマッチングさせるのが仕事だったんです。ただ、早々にリストが尽きてしまって。さらに、現地の方を斡旋するので、当然ながら英語も必要になります。なかなかコミュニケーションがうまくいかず、文化の違いも手伝って、失敗することが多い日々でした。 高いノルマが課されていて、社長が高圧的だったこともストレスになりました。あの頃は、人生で一番と言っていいほど、どん底でしたね。「お前は、カンボジア人より高給取りなくせに、カンボジア人より仕事ができないな」なんて怒鳴られるのは日常茶飯事。 ー職場環境に恵まれなかったんですね…。そんな言葉を浴びていると、自信がなくなってしまいそうです。 3か月経って、続けられずに辞めて、帰国まではカンボジアで無職状態でした。なにもすることがなく、部屋から通りにでると、バイクの上でカンボジア人のおっちゃんが寝ているんですよね。それを見ながら、「僕はいま、この人より稼ぎがないんだなあ」なんて思って。 ちょうど、カンボジア渡航時に連絡先が消えてしまっていたというのもあるんですが、SNSも全部やめて、日本へはひっそりと帰りました。その後、しばらくは家族以外の誰とも連絡はとりませんでした。「海外で働くんだ!」と自分を奮い立たすためにも、周りに宣言していたんです。それで、すぐに帰ることになったのが恥ずかしかったのを覚えています。 フリーランスという存在が身近に ー鬱々としていたのが想像できます。そこからどうやって回復していったのでしょうか? 1年半しか東京にいれなかったので、また上京して転職活動をしました。そして、フリーランスの友人たちができました。 もともと、カンボジア渡航前に、「ブログで生計を立てている人がいるらしい」ということを知り、なんとなくフリーランスという働き方を意識するようになっていました。 何度も就職で失敗しているので、会社に縛られずに生きる道に強く惹かれたんです。 東京で再び働くようになって、前にブログで見ていた人が友達になったり、フリーランスの友人が増えたりして、いままでは遠い存在だったのが、急に現実味を帯びました。 ー案外、フリーランスって難しいことじゃないのかも、と感じるきっかけになったんですね。 新しい友人たちは僕の過去を知らないので、気楽で、段々と元気になっていきました。 また、友人をまねてブログを書くようになると、いままでの「新卒で入った会社を4か月で辞めた」も「夢だった海外就職に挫折した」も、単なるネガティブな出来事ではなく、誰かの参考になるコンテンツとして昇華できるなと捉え方が変りました。 ーそこから、フリーランスになったのはどういった経緯なんですか? ブログを書くうちに、知人から、「うちのメディアでライターをやらないか?」と誘っていただけるようになりました。当時は本業としてSESの仕事をしていたので、5時までは会社員、6時から11時までは副業のライターというような生活を送っていました。 ライティングは楽しくて、自分に合っているなと感じられたんです。1か月に30本ほど納品していました。結構、多いですよね。 ー1日に1本くらいのペースですか?副業としてそれをやれる、というのはすごい! そのうち書いている記事が上位表示されるようになってきて、「これはいける」と思って、他のメディアにも営業をするように。「ライター 募集」で検索をして、興味があるメディアに売り込みをしました。すると、5社くらいと仕事をすることになって。 「このボリュームは、もう副業の範囲ではできないな」と考えて、思い切ってフリーランスになることにしました。 ー個人事業主として独立することは、怖くはありませんでしたか? うーん…もちろん怖さはありましたが、カンボジアでの経験があまりに辛かったので、あれより酷いことにはならないだろう、という安心感がありました(笑) 早いうちに失敗を経験しておく、というのはやはりいいことなのかもしれません。 また、周りにフリーランスの友人が多かったので、相談もできましたし、イメージがしやすかったのも支えになったなと思います。 外見を変えると、内面に自信をもてるように ー現在、お仕事も順調で、ご結婚もされて…フリーランスになってから人生が好転していらっしゃいますね。 そうですね。パートナーと出会ったのも、フリーランス仲間との交流の中でした。かなりスピード婚で、付き合ってから2か月後には婚約したんです。 僕はいま、メンズメイクをしていて、ジェンダーレスな生き方について発進をしているのですが、メイクを始めたのはちょうど1年ほど前のことです。結婚式の前撮りのムービーを撮影するとき、パートナーがファンデーションを貸してくれたのがきっかけでした。 ーそこからメイクをするようになったのですか? はい、それが初めての経験で。めちゃくちゃ衝撃を受けました。もともと自分にコンプレックスを持っていて、ずっと肌で悩んでいたんです。それが、ファンデーションを塗っただけで、見違えて!なんでもっと早く試さなかったんだろう!と強く思いましたね。 それから、顔の色んな部分に気を配るようになって、隠すベースメイクなどはもちろん、綺麗に魅せるために女性と同じようにカラーメイクも取り入れています。 ー男性でも、外見の悩みを持っている方は当然いらっしゃいますよね。 そういう方たちに、メイクの良さを伝えたいなと思っています!僕は、いまは毎日の服を選ぶのと同じ感覚でメイクをしています。 いままでは鏡を見ると、自分の顔の嫌いな部分に視線がいき、どんよりした気分になっていました。それが、いまは鏡を見るのが楽しくてたまらないんです! 内面も変化して、自分に自信を持てるようになりました。筋トレと同じく、美容も、努力すればする分、きちんと自分に返ってきます。 この変化をもっとたくさんの人に味わってほしいですね。今後は、カメラ、ライターに加えて、美容関係のお仕事もしていきたいです。 ー渡辺さんの今後の挑戦が楽しみです。本日はありがとうございました! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる ==== 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter) 撮影:橋本岬 デザイン:矢野拓実(サイト)

誰かの「助けたい」気持ちが実現できる世の中に。株式会社MAGiC HoUR CEO・西尾輝さん

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第244回目となる今回は、株式会社MAGiC HoUR(マジックアワー)CEOの西尾輝さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 大学時代の研究をきっかけに、社会的企業の事業継続支援に挑戦している西尾さん。そんな西尾さんが「心優しい人の挑戦を諦めなくても良い世界にしたい」という考えに至るまでにどんな出会いや思考の変遷があったのか、詳しくお伺いしました。 「お前はどう思う?」「多面的に思考せよ」大人に囲まれ思考を鍛えた幼少期 ー現在の活動やお仕事について教えててください。 代表を務める株式会社MAGiC HoURでは、大学生の時からずっと考えていた、社会課題解決を目指す企業の事業継続支援のビジネスを展開しています。 会社を立ち上げようと思ったきっかけは、フリーランスで研究の仕事をいただいたなかでの気づきや、一緒に挑戦したいと思っていた仲間たちとタイミングが合ったことが大きいですね。 社会人4年目の段階で、改めて研究者になろうと思い、大学院に戻り、地域政策やソーシャルベンチャーに関わることを学ぼうと考えていました。しかしコロナの影響で、大学院に進学しても2年間の時間をうまく使えない可能性があったため、「研究領域の事業化」を検討することにしました。 また、研究の構想を進めていく上で、「このやり方なら資金に困り事業を諦めた企業を救えるのではないか」「研究の視点、ビジネスの現場を知っている目線から社会課題解決型の事業に役立てるのではないか」と思ったことや、関わってきた仲間と一緒にやろうと思えるタイミングが合ったというのも会社を立ち上げようと思ったきっかけの1つです。 ー現在代表として起業を行われていると思いますが、そういった価値観に至った経緯をお伺いしたいと思います。生まれてから小学校時代に入るまでに、どんな子供時代を過ごしてきたか、お伺いできますか? 幼少期はおしゃべりな子どもだったと聞いています。また、家庭内では子どもとしてではなく、ひとりの人間として扱われていたため、大人と対等なスタンスで話そうとしていました。そもそも大人と対等に話そうとするようになったきっかけとしては、父の教育方針があります。 父親の教育方針で、家庭でニュースなどが流れるとそのニュースに対しての僕個人の意見を求められ、適当に思い付きで答えると、深く掘り下げられそのたびに「物事を一面からだけで判断するな」と言われていました。「自分の知識がないからもっといろんな視点で物事を考えないといけない」と子どもながらに思っていましたね。 また、親族の集まりでは、ご年配の方や年上の親戚と話をする機会が多く、同年代の子供と話す機会があまりなかったことも、大人と対等に話そうとするようになった理由の1つかもしれません。 ー小学生時代を思い返して、印象的なエピソードはありますか? 小学生のときは、正直自尊心が肥大化していました。小学生時代は、たくさんの習い事に通っていたのですが、それぞれに熱中していましたね。当時は割と要領よくこなせるタイプだったので、自分は才能があり、周りとは違う人間だと思っていました。学校の授業も、教室ではなくて図書室で自分で勉強をしてましたね。 勉強やスポーツも、いつからか賞状を持って帰ることが目的になってました。毎回学期末にどうやって名前を呼ばれて賞状持って帰るためにはどうしたらいいかを考えてました。 ーそんな中、西尾さんは中学受験をされたんですよね。どのような経緯だったんですか? 中学受験の勉強を始めたのは、小学校4年生くらいのときでした。小学校が自分にとってものすごく居心地のいい場所というわけでもなかったので、レベルの高い学校に入れば自分に合った友人や環境があるかもと思い、受験しました。受験勉強自体は、活字が好きで教科書や問題などを読むことも好きだったので、楽しくやっていました。その結果として、学校の明るい雰囲気が印象的だった、第一志望の中学校に無事合格しました。 初めての挫折。抜け出すきっかけになった友達の存在 ー念願の中学校に合格されたと思いますが、中学校時代に印象的だったエピソードはありますか? 小学生時代とはうってかわって、中学校には自分では努力しても敵わないと思うような人がたくさんいました。 そこで、自分は特別な才能がある人間ではないんだということに気づきました。3年生きてきて、人生で初めての挫折でしたね。 自分に価値が見出せなくなる経験をし、「自分は恵まれた才能があるから、勉強をして世の中の助けになることをした方がいいんだ」と思っていた小学生時代から、「努力しても敵わないのだったら、僕が勉強の方面で社会に貢献するのではなく、できる人間がやればいいのではないか」と思うようになりました。 ー中学校生活はいかがでしたか? 友人には恵まれ、ヨット部での活動にも熱中していたことから、学校生活だけで見ると楽しかったと思います。ただ、子供時代に持っていた大人への反抗や生意気さは消えるわけではなく、学校の先生方には嫌われていたと思います。 また、両親も賞状を持ってくることでコミュニーケーションがとれていたので、その賞状がなくなってお互いの接し方がわからなくなった時期でもあり、家族間のコミュニケーションもほとんどなかったですね。 ー高校進学はどのように選択しましたか? 本来であれば、中高一貫校なので、そのまま高校に上がるものですが、成績が芳しくなかったため、進学が危ういと伝えられました。しかし、仲の良かった友人たちが先生に掛け合ってくれ、無事に付属の高校に進学できました。 その出来事から「彼らの友人として恥ずかしくない存在でありたい」と思うようになり、より真剣に部活や勉強に取り組むようになりました。 ー高校での印象的なエピソードはありますか? 高校入学時に、陸上部に勧誘されて入部しました。それ以外にも、体育祭の実況や、学園祭でのラジオ放送などをしており、充実した高校生活でした。特に、ラジオに関しては、「しゃべりだけで物事を伝える」ことに面白さを見出し、部活のない日には、近くのマクドナルドで友人とラジオ番組の脚本を書いたりしていました。 ー高校3年間を終えたあとの進路選択については、どのように考えていましたか? 周囲では「この学問を修めたい」「この仕事に就きたい」「こういう国にしたい」などの志を持っている友人が多かった一方、僕は進路について明確な意志がなく、特に行きたい大学も見つからなかったため、どのようにするか悩みました。 結果的に群馬の草津温泉で働くことを決めたのですが、僕の通っていた高校は、ほとんどの生徒が大学進学するので、就職の選択はかなり珍しかったです。 周囲にはいわゆるエリートコースに乗るであろう友人が多かったので、僕が大学進学ではない道に進むことで、彼らに別の目線を提供できるのではないかと考えたのが、働くことを決断した理由でした。 ー人と違った選択をすることは勇気がいることだと思いますが、どのように進路を決めていきましたか? 「どうせ働くならみんなと違うことをやろう」と思っていました。「オフィスで働く仕事ではない」「都会で働く仕事ではない」などの要件を満たす場所として、群馬の草津温泉で働くことを決めました。 働いてみて、仕事やお金に関するカルチャーショックを感じました。恵まれている環境で育ったため、自分や周りの家庭を基準に考えていました。しかし、実際働いてみて「仕事は面白くなくてもやらないといけない」「この労働でこれだけのお金しかもらえない」「生きていくためだけに仕事をする生き方がある」ということを知り、これまでの自分の人生がいかに狭い世界だったかと痛感しました。 いつも選ぶのは「自分が変わる可能性のある選択肢」 ー就職後に大学進学を選んだきっかけはなんでしたか? 草津温泉で働いているときは、自分と向き合う時間が多かったので本を読む機会が増え、興味のある分野、特に観光地での労働問題について、勉強したいと思い、政策系の学部のある大学に進学することを決めました。 ずっと関東で暮らしていたなかで関西の大学に進学した理由は、仲の良い友達が多い関東に進学をしたら甘えてしまい、自分自身が変わることができないと思ったからです。 そう選択できたのは、高校時代の友達が言った「ヒーローや仮面ライダーになるのは無理なんだけど、ゴミを拾ったり席譲ったりは自分でもできる。僕はできることをひとつひとつしていくことで、なりたい自分になれると思う」という言葉がきっかけでした。 僕はその言葉に感銘を受けると同時に、「なりたい自分になっていくためには、小さい変革を続けていかないといけない」と思いました。その時に変わらない可能性のある選択肢は選ばないと決めました。 ー大学生時代はどのように過ごしていましたか? 大学生活では主に大学教授の方とのディスカッションと学生団体への加入、立ち上げを行ないました。 大学には勉強をするつもりで入ったので、基本的には大学の教授に付いてディスカッションなどをさせていただきました。本を読んだや論文の感想や疑問点をぶつけ、それに対しての回答をもらうという形で関わっていたため、大学の先生とは仲は良かったと思います。 最初は勉強ばかりしていたため、ほかの同級生との勉強への熱意の違いであまり仲が良かったわけではなかったのですが、見かねた教授に勧められて学生団体に入ったり、僕の取り組みを面白いと思ってくれた同級生をゼミに誘って研究したりしたことで、少しずつ仲間を増やしていきました。。 ー学生団体を立ち上げた、とのことですが、どのような取り組みをされていたんですか? 学生団体ができたきっかけは、大学の敷地内にあったカフェの店長さんに、お店にもっと人が集まるようにしてほしいと相談を受けたことでした。そこから友人らと学生団体を立ち上げ、カフェの売上向上のためにさまざまな取り組みを行いました。 そのカフェは障害者の方が働くカフェで、障害者の方や問題と接してるうちに、福祉業界のよくないところや疑問に思う点がたくさんでてきて、学生団体を福祉団体に、最終的には福祉事業として起業するに至りました。 ー大学を卒業したあとのことはどのように考えていきましたか? 事業化した学生団体に残るか、就職活動をするか葛藤しました。もちろん、起業した会社に残るという選択肢もあったのですが、労働格差や教育などの様々な方面で課題に取り組んでいる友人たちを応援したいという気持ちが強くあり、外の世界でビジネスや組織形成などの知見を持ち帰り、彼らの後押しができる能力を身に着けることが、仲間として価値のあることではないかと思い、就職を選びました。 ー就職活動はどのような企業を見ていましたか? 大学3年生の頃に僕の中で「人事ブーム」がありました。大学時代の福祉団体のときもメンバーの勧誘を担当していたこともあり人材採用や人事業務に興味を持ち、人材業界をメインに就職活動を行い、派遣業や人事部への就職を決めました。 いくつか内定があるなかで1社目の会社を選んだのは、内定者の顔合わせが決め手でした。同期となる友人が多様な価値観があり、いままでに会ったことのない人たちだったことから、自らの価値観変化を促せるのではないかと考えたからです。 「納得できる世の中と向き合える方法」を見つけるために僕がしたこと ー起業を経てふたたび社会人になられましたが、感じ方には何か違いはありましたか? 自分が事業創出に関わったことで組織との向き合い方には特に苦労しました。最初に入社した会社は人材業界で、組織の中で競争していくことで勝ち上がっていくという文化でした。競争原理自体に一定の合理性は感じつつも、僕の仕事が会社にとって良いことなのか、社会にとって良いことなのか、それとも個人の幸福にとって良いことなのかと考えた時に、「競争原理主義であることと、個人の幸福や社会への価値提供は相関性が低いのではないか」という違和感を持っていました。個人が得意なことをし、互いに補い合うことでより組織としても個人としてもパフォーマンスを上げられ、社会的な価値の追求が出来るのはないかと考えていました。 転職を繰り返しながら様々な組織、業務に触れる中で、「本当に貢献したいことは既存の組織や事業では難しいのかもしれない」「事業で世の中を解決するにはもっと勉強が必要かもしれない」と思い、自分が納得できる世の中と向き合える方を見つけるために試行錯誤していました。 ただ、いくつかの会社を転々と出来たことは起業をする際には比較できる材料が多く、非常にポジティブな経験だったとは思います。 ー起業をするにあたって、会社の未来設計はどのように作りましたか? ソーシャルベンチャーの事業継続支援の会社を作りたいということは決めていたため、それを軸に設計しました。 背景としては、資金の問題で事業の継続が難しく、諦めざるを得ない方をたくさん見てきたなかで「世の中を良くしたいという想いを持つ人たちが、事業推進の仕方がわからないということだけで諦めてしまうのは、世の中にとって大きな機会損失だ」と思ったことがきっかけでした。 資金が集まらず諦めてしまったソーシャルベンチャーをもっとビジネス的な側面から支援することで、想いや目指している場所が素晴らしい挑戦が事業としての成長戦略が描きやすくなれば、資金が確保できず諦めてしまう人が減ると思ったからです。 僕は現状、ビジネスのソーシャルベンチャーの領域でも立ち上げ支援は少しずつ増えてきているものの足りていても、「立ち上がった事業を継続的に支援する」事業がないことに課題意識を覚え気付き、事業を継続するためのための支援をしようと考えました。 ー具体的にどういった事業内容で継続支援を行っているのですか? 事業展開としては、主に3つあります。1つ目は、スタートアップ~中規模ベンチャーフェーズのソーシャルベンチャーのマーケティング・組織設計・採用・事業創出・事業推進のコンサルティング、2つ目はソーシャルベンチャーを中心とした想いのある事業のサービスが集まるプラットホームの創出、そして、3つ目は社会課題解決という堅苦しいテーマをもっと簡単に身近に、出来るなら「これももしかしたら社会課題解決じゃない?」と気づかないうちにしていた社会課題解決を一人ひとりがふと気づくことが出来るような、知識よりも再発見をテーマにしたメディア運営です。 メディア運営は、一見すると事業継続支援と関係ないようにも見えますが、より多くの人が良いサービスや良い想いに巻き込まれる社会、つまり、社会課題解決へのハードルのない社会の実現に近づけるために必要だと考えています。TwitterやInstagramを見るように、日常の流れの中にふとした発見があるような、そんな生活に溶け込むようなメディアを目指していきます。 プラットホームを中心としたサービス開発が掲げている社会の実現の肝になってくるため、現在も日夜メンバーと議論を重ねながらより良い形を模索しています。 ー西尾さんの「未来像」はありますか? 世の中を少しでも良くしたい、一人でも誰かを助けたいと思い挑戦する心優しい人たちが、挑戦を諦めなくていい社会を作っていきたいと思ってます。 現状の社会システムでは、挑戦の一歩目が踏み出しやすくなっている一方で、そういった人たちが壁にぶつかったり、立ち止まったりしたときの支援の仕組みは足りていないように感じます。「事業継続支援」という仕組みを通じて、社会的な取り組みが少しでも持続可能な社会となるようにしていくというのが直近のミッションです。 また、これまで日本が海外諸国で学校の設立や就労支援などを行ってきたように、人口減少の避けられないなかで、いかに海外からの支援を受けられる国に出来るか、というのが大きなテーマになってくると考えています。そういう意味でも、日本のカルチャーの一つとしてソーシャルビジネスが発展することは大きな一手になると思っています。 もちろん、「社会を良くしたい」という想いの根底は、「周りにいる仲間たちがいかに幸福でいられるか」なので、社会への挑戦という大きなテーマを掲げながら、いかに仲間たちの最大幸福を実現出来るかということが人生最大のテーマです。 ー短い時間で濃いお話をありがとうございました。西尾さんの今後のご活躍を楽しみにしています! 執筆:ゆず(Twitter) インタビュー:高尾有沙(Twitter/Facebook/note) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

親の再婚、いじめ、怪我、入院。辛い過去を乗り越え、自分の人生を歩む前田あかりの新たな挑戦

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回は、株式会社想創で代表取締役を務めている前田あかりさんにお話をお伺いしました。 現在、“生きづらさ”を抱えている人に向けて事業を展開している前田さん。前田さん自身も、10歳の頃から長年に渡りいじめに遭ってきました。それだけにとどまらず、数多くの辛い経験をされ、どんどん精神的に追い込まれていきます。 「自分が大嫌いだった」と語る前田さんが、どのようにして自分の人生を歩めるようになったのか。前田さんの半生を振り返りながら、抱いている想いについてお伺いしました。   中学時代からビジネスに興味を持ち始め、いじめに対して行動を興す ー本日はよろしくお願いします。まずは自己紹介をお願いします。 前田あかりです。株式会社想創の代表をしています。現在18歳で、今年の3月に通信制の高校を卒業しました。 在学中は、サロンモデルやフリーランスのライターをしていました。卒業後の現在はGaiaxの人事支援でインターンもしています。 生まれは北海道北見市。親の離婚で神奈川県に引っ越し、その後に母親の再婚で長野県に移りました。現在は東京に住んでいます。 ー創業された株式会社想創では、どのような事業を展開しているのですか? 現在は、会社として柱としている事業はなく、これから創っていくフェーズにあります。ただ、会社の核となる方針は決まっており、"生きづらさ"という面から事業を広げていこうと模索しています。 まだ構想段階ですが、居酒屋にコミュニティという役割を加えた場づくりや、「生きづらい」と思っている人が相談できる居場所を作ろうと考えています。 ーこれからまさに生きづらさをテーマに事業を展開していく予定なのですね。会社を始めたのはいつ頃なのですか? もともと、中学3年生くらいからビジネスに興味を持ち始め、高校1年生からいじめに対して行動を起こし、ビジネスプレゼンなどをしていました。 株式会社想創を登記したのは今年の3月です。親との関係が悪化し、家出をして上京していたんです。ただ上京しただけだと連れ戻されてしまうため、帰らない理由を作る必要がありました。反対もされたのですが、親が肩書きを好む人なので、納得してもらえるよう会社を作りました。 会社のメンバーとしては私一人ですが、何名かがボランティアで手伝ってくれています。 ー起業して間もないですが、心持ちとして何か変化はありましたか? 自分の足で自分の人生を歩けるようになった、と感じ始めています。今までは、他人や周りに振り回されることが多かったです。自分がいじめを受けてたことを思い出して、辛くなることもありました。 しかし、今はしっかり自分で歩けているという感覚があります。過去の嫌な思い出も、全て受け入れて、自分自身を愛せるようになりました。 ーちょっとずつご自身の成長を感じているのですね。会社の名前も前田さんが考えたのですか? 実は、母親が運営していたNPO法人の名前なのです。母親がNPO法人を始める際、私も一緒に名前を考え、想創が生まれました。 ただ、父親も会社を経営していたため、NPO法人の運営が難しくなり、私が想創の名前を譲り受けました。親に迷惑かけてきたという気持ちもあったので、親と仲良くなれるといいなぁ、という想いも込もっているんです。 親の再婚といじめ。前田さんの人生を変えたターニングポイント ー非常に大切な想いが込められているのですね。是非とも過去に遡って、前田さんのことを教えてください。最初のターニングポイントはいつ頃だったのですか? 親の再婚で長野県で引っ越した10歳の頃です。編入先の小学校でいじめに遭った経験が、私の人生の中での大きなターニングポイントになりました。 長い間、母親は再婚していなかったのです。そのため、再婚する前に母親に彼氏ができたと知ったときは、多少ダメージがありました(笑) 母親はもともと身体が良好ではなく、頻繁に入院もしていました。再婚するという話を聞き、「安心だ」とホッとした部分もありましたが、同時に寂しさも感じていましたね。母子家庭ということもあり、なかなか親に甘えらなかったのが、再婚してさらに甘えづらくなりました。 また、"母親"という側面でなく、"女性"という側面を見て、なんとなく嫌だなという違和感を覚えていました。「結婚式当日は絶対に笑わない!」という謎の自分ルールも決めていました。 ー10歳の前田さんにとって、衝撃的な出来事でしたね。その後、立て続けにいじめにも遭われたのですね。 クラスで人気だった女の子に好きな人がおり、その人が私に好意を抱いていたそうなのです。そこから、「気に入らない」と一部の女子がいじめ始め、徐々にクラス全体へ広がってしまいました。 靴がなくなったり、教科書が捨てられたり、金属バットを持って追いかけ回されたり...。「昭和のいじめか!」と言いたくなるような内容が多かったです。 編入先の小学校が小さな村の学校だったので、同級生の多くは保育園時代から一緒のメンバー。私のような外部から来た人は初めてで、まるで「異世界から来た人」と捉えられ、抵抗感があったのだと思います。 中学もメンバーは変わらず、いじめ自体は中学時代にも続きました。環境を変えるために中学受験も挑戦したのですが、失敗してしまい...。中学3年生で他の学校に転校しました。 もともと両親に頼るのが苦手な子で、さらに親の会社でもトラブルが起きており、いじめられていることはなかなか相談できませんでした。私自身、気が強い性格だったので、「自分でなんとかしよう」という心持ちでしたね。 アルペンスキーに出逢い、初めて心の拠り所を見つける ー中学受験は前田さんからの提案だったのですか? いじめから逃れたいという自分の意思もありましたが、英才教育をする家系の風習の流れもあり、受験に挑みました。けれど、解答用紙に何も書けませんでした。プレッシャーと、人の目線が怖くなってしまって...。 親には家庭教師もつけてもらっていたので、白紙で提出したことが申し訳なさすぎて、試験が終わった直後には「合格するかは五分五分かなぁ」と話たことを覚えています。 ー当時からなかなか本音を打ち明けられなかったのですね。今改めて思い返して、4年間いじめを受けたことに対して、前田さんはどう感じていますか? 「いじめという体験があったから今があるんでしょ」と言われることもあります。けれど、経験しなくて良かったなら、経験したくはなかった、というのが本音です。 何か意味をつけるのであれば、これから展開するサービスに経験を活かして、少しでも世界を変えていけたらと考えています。 ーその後、中学3年生で転校されたのですね。転校のきっかけは何かあったのですか? 当時、熱心に取り組んでいたアルペンスキーが、怪我で出来なくなってしまったのがきっかけです。 小学5年生の時、体育の授業でスキーをするという話を聞きました。私はスキーを経験したことがなかったため、地元のスキースクールに入ることに。そこで、スキーで斜面を駆け下りるアルペンスキーという競技に出逢います。 アルペンスキーを始めてみると、徐々に成績が伸びていく達成感が楽しくて、どんどん夢中になりました。もともと、車などのスピード感のある体験が好きだったので、スピード感のあるアルペンスキーにも惹かれていたと思います。初めて出来た心の拠り所でした。 しかし、怪我をしてアルペンスキーが出来なくなってしまいました。そこから心のバランスも崩れていきます。当時お付き合いをしていた方も、アルペンスキーを通じて知り合えた方で...同じ時期に別れてしまいました。 心の支えを失って、今まで溜まっていたストレスが爆発してしまい、発作を起こして入院しました。入院によって学校に通うことが難しくなりましたが、行きたい高校があったため勉強は諦められず、親に頼んで転校したんです。 他人の顔色を伺う毎日。そんな中で出会った“愛” ー心機一転、新しい学校で頑張ろうとしていたのですね。転校先はいかがでしたか? 心の持ちようとしては「頑張ろう」「友達も作ろう」という気持ちで転入しました。しかし、転校先は隣の村の学校だったので、前の学校から私の噂が広がっていたんです。 噂のほとんどは事実ではないことばかりでしたが、転入する前から「前田あかりはこういう人間なんだ」と根付いていて、馴染むことができませんでした。自分の知らない自分が、みんなの中に存在していました。 ー狭いコミュニティだからこその出来事かもしれませんね。その後、高校受験をされたのですね。 第二志望の全日制の高校に合格し、実家からは通えない距離だったので、一人暮らしを始めます。 高校1年生の頃は、とにかく嫌われないように周りに合わせることを意識していました。また、人に依存しないと生きていけなかったので、良くしてもらっていた先輩にいつも付いて回っていました。そのため、クラスの同級生からは「この子変わってる」と思われていたのかもしれません。 常に他人の顔色を伺って、人に話しかけるのが怖くて。笑っている人がいると、自分の悪口を言われているのでは無いかと疑ってしまいました。テストの緊張感が苦手で、テストの度に吐き気に襲われることも...。しんどかったですね...。 その後、全日制の高校から通信制の高校に編入しました。周りに合わせる必要がなく、自分のペースで通えるので、ちょうど良かったのかなと思います。 ー前田さんの人生の中で、心の支えになった言葉などはございますか? 昨年の10月、私が今でも一番尊敬している方から、 『アウト・オブ・コントロールなものにマインドシェアを取られて、本来やりたいことの生産性を下げるのはもったいないよね』 という言葉をいただきました。 何気ない会話の中での言葉でした。ただ、それはずっと自分で感じていたけれど、見て見ぬ振りをしていたことだったんです。その言葉が胸に刺さり、「頑張らなきゃ」と勇気をいただきました。 ー「自分の足で自分の人生を歩めるようになった」とお話しされていましたが、そう思われたきっかけはありますか? 過去の経験を完全に受け入れられた、と思います。今日お話ししたこと以外にも多くの出来事があったのですが、東京に来てから自分と向き合う時間を大切にするようにしました。 もともと自分のことが大嫌いで、親との関係性も良くなかったので、愛が分かりませんでした。愛されてはいるんだろうけど、なかなか受け入れられず、愛ってなんだろうと考えていたんです。 けれど、上京して、人生で一番尊敬している方に出逢いました。その人は本当に人を愛していて、その人に支えてもらいながら、少しずつ愛を学ぶことができたんだなと思っています。 そして、自分を愛することができるようになって、自分のメンタルや人生をコントロールできるようになったと感じてるんです。 ー尊敬している方から愛を教わり、過去の経験すべてを受け入れて、前を向けるようになったのですね。本日はありがとうございました! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:青木空美子(Twitter/note) 執筆:みやっち(ブログ/Twitter) 編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

25歳で年収1000万!バーバーショップオーナー・吉田奈津樹がたどり着いた本当のシアワセとは?

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第241回目のゲストは、PARK BUILDER株式会社CEOの吉田奈津樹(よしだなつき)さんです。 現在5店舗の理容室を経営しながら自らもオーナースタイリストとして現場に立ち続ける吉田さんは、専門学生時代から数々のコンテストでタイトルを取り続けるコンステスターでした。独立後は、確かな技術力とテックの力を生かした店舗経営で理髪店事業のみで年商1億円を達成します。 そんな吉田さんの20代前半はまさに苦悩の日々だったとか。サロンワークにとどまらずコンサルタントやバーバーYouTuberとして活躍する吉田さんの今までの人生に迫ります。 なんとなくで入った理美容の道 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 現在29歳で、理容室の経営やそれに付随する仕事をしています。 24歳のときに人生で初めて独立起業し、理容室を立ち上げました。そこから派生して様々なお仕事をいただくようになり、今はお店で髪を切っているのは週2、3日くらいです。 ー高校3年生で理美容の道へ進むことを決めたようですが、それまでの経緯を教えてください。 受験が近付いてきて進路を考えたときに、そもそも世の中の仕事をほとんど知らなくて。その段階でなりたいものを探して進路を決めろと言われても僕はピンと来なかったんですよね。 特に何かやりたいことも無かったので、何をやりたくないのかを考えて消去法で仕事を削っていきました。 元々勉強が好きではなく、成績も良くなかったので、デスクワークは無しだと思い、世の中の仕事の大半は無理だなと思ったんです。 そのときに自分の唯一好きだったことは何だろうと振り返りました。 高校時代の頭髪検査で、直前に校則違反を回避するために友達から「なんとかセットかカットで誤魔化してよ!」と言われることが多かったんです。 頭髪検査のとき以外にも、髪の毛を切ってほしいと言ってくる友達もいて。自己流だったのですが、皆喜んでくれたんですよね。これを仕事にしたら人も喜んでくれるし、自分も楽しめると思って、理美容の専門学校を選択しました。 ー最初は強い意志があったわけではなかったのですね。 今でこそそんなことないのですが、高校時代は自分に自信が無かったんです。 何をやっても1位になれず、頑張っても報われないなら頑張るのをやめようと考えるタイプで。 とりあえずその場が楽しかったら良いやという人生の選択をしていたんです。進路も何をやりたくないか、どうなりたくないかという消去法だけで選んでいましたね。 ー進学先の学校はどのようにして選んだのですか? 僕は地元が福井なんですが、福井にも理美容師の資格が取れる学校はあったんです。 でも、どうせ勉強するなら一流の学校でしたいと思い、日本で一番厳しくて、一番国家試験の合格率が高い学校である大阪の高津理容美容専門学校を選びました。その当時学生の技術大会のほとんどの部門で全国1位を取っていたのがこの学校だったんです。 栄光の学生時代と苦悩の社会人生活 ー専門学校に入ってからはどのような日々を過ごしていたのでしょうか? 専門学校の男子寮に入っていたのですが、朝起きてから寝るまでずっと同じ空間で友達と生活していました。 皆ととても仲良くなったのですが、テスト期間に遊びに誘われても僕は断って練習したりしていましたね。それでテストで1位を取っていたので、嫌な奴だったと思います(笑) それでも、そんな僕のことを皆分かっていて、とがめられることもなかったです。後々「お前こっそり練習してたもんな」と言われました(笑) 皆わざわざ地方から出てきているので、努力することを馬鹿にする人はあまりいなくて。そのような恵まれた環境だったからこそ頑張れたのだと思います。 ーコンテストでも賞を取りまくっていたそうですね! 「出るからには賞を取らないと意味がない」と思って練習していたので、審査員の好みを分析して戦略的に賞を取りにいっていました。 賞を取るためにはやみくもに練習するだけじゃダメだと思っていて。効率化して最短距離でトロフィーを取ることを常々考えていました。 ー卒業後、就職するお店はどのような軸で決めたのでしょうか? 日本の中心、東京で挑戦したいと思い、東京のすごい勢いで成長しているお店に入りました。 勢いがあって店舗展開も多数しているITベンチャーのようなお店でしたね。 学生時代はコンテストで賞を取りまくるコンテスターだったのですが、就職してからの目標はコンテストで優勝することではないと考え、あえてコンテストばかりやるお店は選ばなかったんです。 ー就職してからは苦労の日々だったようですが、この当時はどのようにして過ごしていましたか? 僕の入ったお店はITベンチャーのような雰囲気だったので、タイムカードがなくて。上司も部下の労働時間を把握していないんですよね。だから定額払ったら労働者を使い放題で、拘束時間がとても長かったんです。 当時の社長から「自分の給料を時給換算するのはやめろ」と言われていました。100円とかとんでもない金額になりますから(笑) でも、無茶をして頑張った過去があるからこそ、今普通の人からしたら無茶に見えることでも普通にできるので、マイナスな経験だったとは思わないですけどね。 ーこのがむしゃらに働く中で、すでに独立は決められていたんですよね? 日々のブラックな環境の着地点はどこなんだろうと思えてきて。合理的な僕からしたら、ただやみくもに毎日働くだけの日々が苦しくなってきたんです。 「誰よりも早く独立して誰よりも早くお金持ちになってやろう」というのがそのときのモチベーションでした。そんな気持ちで1年目から過ごして、独立のために1年目の初月から貯金をしていましたね。 ーそこからさらにどん底の日々が訪れたようですが、何があったのでしょうか? 僕は先輩や上司よりも業績が良かったので、新店舗の店長に社会人2年目で選ばれました。 そこで、僕自身が努力をして結果も出していたので、同じレベルを周りのスタッフや部下にも求めてしまったんですよね。 本当にマネージメントスキルのない店長だったんです。部下に対して「やる気ないなら帰れば」とか言ってしまったりして。もちろん付いてきてくれる人もいましたが、部下やスタッフからはかなり嫌われてしまいましたね。 人間関係が上手くいかないと、色々なことが上手くいかなくなって。自分でも知らないうちにストレスがたまり、どんどん体調が悪くなりました。 お客さんと接するのが好きだったのですが、人と接することが苦しくなっていったんです。当時は、「独立して誰よりも成功したい」という気持ちと、「もう二度と人と関わらなくて済む仕事に転職したい」という気持ちが同時にありましたね。 ーそれから1年後くらいには復活したようですが、どのようにして立ち上がったのですか? 元々負けず嫌いな性格なので、このままのたれ死んでいくのも違うなと思いはじめました。 20代のうちに独立しようと思っていたのですが、このような状況なので一刻も早く独立して一刻も早く結果を出そうという気持ちが強くなっていったんです。 とりあえず始めてみて、ダメだったら改善しながら区切りを決めて続けるかやめるかを決めれば良いと思い、半ば勢いで独立することにしました! 年収1000万円を達成して見えた世界 ー独立して自分のお店を構えてからは、順調でしたか? 最初はびっくりするほどお客さんが来ませんでした。 予約表が空っぽで、1日お客さんが来ないまま営業時間を終えてチラシ配りをしに行く日もありましたね。 美容業界では、元々自分のいたお店の顧客情報を持ち出してお客さんに営業をかけるパターンがとても多いんです。でも、それで出店して上手くいっても嬉しくないなと思って、僕は顧客情報を持ち出しませんでした。 オープン初月の僕の給料はたった3万円。固定費がかさんで通帳の残高がどんどん減っていくのを見て焦りましたね。 でも、今思えば人間関係のストレスとお金がなくなっていくストレスを比べると、お金の方は自己破産してアルバイトなどで働けばいい話なので、店長時代に人間関係で思い悩んでいたときよりは頭を抱えていなかったように思います。 ーそれからはすぐに結果が出たのでしょうか? そうですね。HPなどを整え終わったのがオープンと同時くらいだったので、3ヶ月後ぐらいにやっと結果が出始めたんです。 オープンしてから3ヶ月後ぐらいには1ヶ月先まで予約が取れないお店になりました! ー25歳で念願の年収1000万円を達成されたそうですね!その当時はどのようなことを感じましたか? 年収1000万円は1つの指標だと思うんです。 経営者は自分が一番上になるので、自分のことを認めてくれる人がいないんですよね。唯一自分のことを認めてくれるのが数値的な指標で、年収1000万円を達成したときに、「俺ってちゃんと頑張ったんだな」と思えて嬉しかったですね。 一方で、ずっと目標にしていたことではあったのですが、お金の無かった20代前半の頃に比べて何倍も幸せかと聞かれるとそこは疑問でした。 最初に達成したときは馬鹿みたいにお金を使っていたのですが、意外とコスパが悪いことに気付いて。月に何十万と買い物をしても、それに対する人生の幸福度はそれほど高くないという感覚に陥りました。 ーでは、そんな吉田さんにとって人生の幸福度を上げるものは何なのでしょうか? 「やっぱり人ですよね。」 誰かと一緒に何かをやって結果が出て、それを喜び合える瞬間が一番幸せです。 うちのスタッフにも「吉田さんの元で働いて良かった」と言ってもらいたいと常々思っています。 お金のないBBQでも良いですが、信頼し合える人間関係の輪の中で何かをやっているとき、人生の幸福度は最も高いと実感しています。 「命あるものからしか人は幸せを感じられない」という言葉がありますが、本当にその通りだなと感じます。動物とか人間とかから得られる幸せの方が持続するんですよね。 ー吉田さんの今後のビジョンを教えてください! 自分の年収や資産を増やすことは、とりあえず考えていません。 今後はうちの会社の年商を30代で10億円までもっていくのが目標ですね。 年商は個人ではなく、会社としてどれだけ結果を残したのかということなので、従業員と共に達成していきたいです。 僕は常々「突き抜けたい」と思っています。30代の土俵には、とてつもなくすごい人たちがたくさんいますが、ヘアサロンの事業だけで年商10億円を達成している人はなかなかいないので、達成できれば突き抜けられるかなと。 それ以外では、僕と接している周りにいる人たちに幸せになってほしいです。「みんなでやってきて良かった」と言い合いながら年商10億円を達成できれば30代をハッピーに生きられると思います! ー本日はありがとうございました!吉田さんの今後のさらなる活躍を期待しています! *店舗公式サイト* PARKBUILDER KINGSMAN TOKYO BARBERSHOP 公式 KINGSMAN TOKYO BARBERSHOP 多摩センター本店 KINGSMAN TOKYO BARBERSHOP 多摩センター2号店 KINGSMAN TOKYO BARBERSHOP 立川店 FREEDOM BARBER&Co. KINGSMAN TOKYO ONLINESHOP BUDDY MOTORS 取材者:増田稜(Twitter) 執筆者:五十嵐美穂(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

アスリート&会社員としてパラレルに活躍!セパタクロー強化指定選手・玉置大嗣の新たな挑戦とは?

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、セパタクローの日本代表として世界大会で活躍するなど、アスリートの第一線で活躍する玉置大嗣(たまき・だいし)選手です! セパタクローのプロ選手でありながら、クラブチームの創設、コーチ、会社員などパラレルに活躍する玉置選手の、これまでの選手人生とプライベートに迫ります! サーブの威力は日本一!? 玉置選手がセパタクローと出会うまで ーさっそくですが、セパタクローってどのようなスポーツなのでしょうか? 僕がやっているセパタクローは、簡単に例えると足でやるバレーボールのようなものですね。 片手でつかめるほどの、小さなプラスチックを編んでできたボールを使います。足を使ってボールを相手のコートに打ち込むのですが、腕や手は使えません。コートの広さはバドミントンと同じでネット越しに2対2か、3対3、4対4で戦います。 僕は3人制の競技選手で、サーブ専門のポジションです。183センチの高身長を活かした速度の出るサーブが武器です! ーセパタクローをはじめようと思ったキッカケは? 僕は中学までサッカーでキーパーをやり、高校ではバスケットボールをしていました。千葉大学に入学後も、その熱量のままバスケサークルに入ろうと思っていたんです。 するとたまたま、新歓で訪れた体育館でめちゃくちゃアクロバティックな動きのスポーツを見てしまったんです。それがセパタクロー部との出会いでした。 セパタクロー部の謳い文句はマイナースポーツあるあるで、「すぐ日本代表になれるよ!」というものでしたね。 ーバスケの経験もありますし、すぐ大活躍したのでは? いえ、それが最初は全然できなかったんです。セパタクローの見せ所は、バク転をしながら打つローリングアタックです。 セパタクローの場合、バレーボールのようにポジションがローテーションではなく専門性が求められるスポーツなんです。アタックならアタック、サーブならサーブと、ポジションで役割がある程度決まっています。 最初は僕もアタック専門の選手としてプレーしていました。ですが、アタックは非常に柔軟性が求められるポジション。バク転する勇気や恐怖心の克服も必要ですし、めちゃくちゃ怪我をするポジションでした。約2年アタッカーをやっていましたが、半分ぐらい怪我で満足のいくプレーができず、不完全燃焼でしたね。 そこで、大学3年でサーバーにシフトチェンジしたんです。そうしたらなんと8ヶ月後に世界大会に出ていました!(笑)かなり異例だったと思いますが、それほどサーバーのポジションが自分に合っていたんだと思います。 ーサーブを打つ際には、高い身長も武器になりますよね! 現在は183センチあるのですが、実は中学3年生でサッカーをやっていた時は163センチしかなかったんです。クラスでも小さい方で、サッカーは後輩に背でもスキルでも抜かれてしまい、ずっとベンチでした。 そこから、背が伸びるのを見越して高校でバスケに転向。そうしたら1年で10センチ伸びて、現在は183センチになりました! ーすごい成長期!大学ではどのような練習をしていたのですか? 大学2年時にはアタッカーとして、自主的に資金を集めてタイに修行に行ったのですが、日本のトップ選手を遥かに超えるレベルでした。 セパタクローの本場であるタイには、高校生で強い選手がゴロゴロいます。そのとき、タイの全国クラスを目の当たりにして、衝撃を受け、心が折れかけましたね。 でもそこで辞めるのはダサいな…と感じ、クラウドファウンディングで旅費を集め、毎年タイに修行しに行き、自分のスキルを磨いていきました。 ーなぜそこまでセパタクローにのめり込めたんでしょう? そもそも、僕は何かハマりはじめると没頭する猪突猛進タイプなんです。高校時代のバスケなどもそうでした。ハマったものがあると、それ以外なにも見えなくなるんです。 セパタクローの場合は、スポーツが得意な僕でも“全くできなかった”というのがハマった理由ですね。できなかったから、「悔しい。もっとうまくなりたい!」という一心でのめり込んで行きました。基本的に負けず嫌いなんです。   前十字靭帯断裂の大怪我…そして強化指定選手落ちしたどん底時代に、新たな挑戦をスタート ーアタックをしていた玉置選手が、サーバーに転向したキッカケは? ひざの怪我ですね。アタックを打って着地して痛くて、それ以上飛びたくないと思えるほどの痛みが続いたんです。あと、このままアタッカーでも日本代表にはなれないと感じたのも転向の要因です。 サーブも最初は上手くなかったのですが、日本の強化指定選手の方々の練習に参加させてもらったり、先輩からのフィードバックも参考にして、上達していきました。 そして強化指定選手に入れてもらい、日本代表の合宿にも参加するまでになりました! ー初めて出場した世界大会はどうでした? 僕のデビュー戦の相手は中国でした。なんとか勝てて、良いデビュー戦だったと思います!チームメイトにも支えてもらいながら夢中で戦いました。 ー良いですね!そこからは順風満帆な競技人生でしたか? それが…うまく行きませんでした。 みんな働きながら選手として生活をしているので、大会に行ける時もあれば行けないときもあるんです。僕は大学を卒業後も競技を続けるために就職せず、アルバイト生活だったので、比較的、大会に参加しやすかったんです。 でも、大会で明らかにパフォーマンスの質が落ちていき、スランプまではいかないですが少し悩む時期を過ごしていました。 ーそれはいつ脱出できました? その頃、逆にさらなる追い打ちをかけられてしまいました。 大学を卒業して1年目の冬、出場したチーム戦で久々にアタッカーをやったんです。そうしたら最悪なことに、前十字靭帯を断裂してしまい、全治8ヶ月の大怪我をしてしまいました。これはしんどかったですね。 「怪我は絶対治して、また日本代表に戻るんだ…!」と思っていたし、代表チームのサポートもあったのですが、リハビリ期間中に僕と監督との間でコミュニケーションの齟齬があって…。そこで実力抜きに、人間性の部分で厳しく怒られ、強化指定選手を外されてしまいました。メンタル的にはズタボロでした。 ーそれは辛いですね…。リハビリ期間はどのように過ごしたのでしょうか? 怪我でプレーはもちろん、アルバイトも行けないですし、ずっとリハビリをしたり読書したりしていましたね。その時たまたまビジネス書も読んでいて、セパタクローのプロ選手になるのであれば、何かスポンサーとの契約以外にやった方が良さそうだなと考えていました。 そこから、タイで学んできたセパタクローを教えるコーチをやってみたいなと思うようになったんです。 リハビリをしながら、大学でコーチをやってみようと売り込みに行ったのですが、お金を払ってでも自分をコーチとして雇うチームという需要がなかったんです。 じゃあもうチームを作るしかないな…ということで、知人の縁をつないでいき、僕の所属する「SC TOKYO」の下部組織として『SC TOKYO レゾンデートル』を横浜に作りました。 最初は生徒4人ではじまったチームが、「なんだかおもしろそうなスポーツチームがある」という口コミのみで広がっていき、最大で20人弱まで増えました!集客は困らないくらいになりましたね。 ープレーができない時期にも活躍されていたんですね。 SNSで子どもたちの活動を発信し、ファンの方々に見てもらったり、そのクラブチームにスポンサーを付けるような活動をしました。自分の挑戦を応援してもらいたい!と思い、グッズ作りなどにも挑戦しました。 この子ども向けクラブチームの創設は、マイナースポーツのセパタクロー界では珍しい動きでした。皆さん自分の競技人生が第一ですし…。活動が広まり、交友関係も一気に広がりました! この経験から得たものは大きかったです。特にスポンサーを付けていく取り組みは、そう簡単にいかないと実感しました。ビジネスの創り方のようなものを学べましたね。 ーファンの方々にとっても、玉置選手の活動は嬉しかったのでは? それが、この活動を辞め、自分自身のプレーに専念したほうが良いと言ってくれる方もいましたね。 確かに、怪我が良くなり選手として復帰したときは、週に2回のコーチと、選手としての練習日の確保などの両立が難しかったです。 生徒がいるスクールをしょっちゅう休みにはできないし…。そこで、コーチを雇おうと社会人のセパタクロー選手を募ったのですが、上手く行かず…。結局採用できずに1人でコーチをやってました。 もちろん応援してくれる方もいたのですが、厳しい環境でしたね。 最近では、応援してくれている人はとても増えたと感じています。SNSでの発信を通じて、僕に僕自身も気づいていない内面の変化があったのだと思います。   強化指定選手への復帰と同時期に家族が増える!アスリート・会社員・父親としての覚悟 ーそこからまた強化指定選手に復帰するまでの道のりは、どういったものでしたか? 怪我をして復帰まで約2年半でした。完治してからは1年半かかりましたね。指定選手落ちしたときのように、プレーだけでなく自分自身の内面も評価されないと、代表には戻れないと感じていました。 復帰できたキッカケは、ちょうど去年の今頃。入賞常連チームを倒し、まずプレー面を認められました。また、監督が僕のコーチ活動や発信内容を見て、「お前が変わってきているのを認めるが、次のチャンスはない。わかっているな?」とチャンスをくれたので、「わかってます!やれます!」と回答し、再び強化指定選手として再スタートすることができたんです。 ー強化指定選手に復帰して、怪我する前と後で何か変わりましたか? めちゃくちゃ変わりましたね。 怪我をする前には使えていた強化練習の場所がなくなってしまったんです。しかし強化練習の場所を失ったにも関わらず、誰も場所の確保をしていなかったんです。 そういったチームのための活動を、誰もしていないことに違和感を感じました。 ちょうど僕が所属していたチームで場所の確保やチームづくりを経験していたので、皆で練習するための場所を自分で確保していきました。 もっと、日本代表チームが同じ方向を向かないといけない…と感じはじめ、組織づくり・チームづくりをするためのマインドに変化したと思います。 ー結婚も、何か心境の変化があったのですか? 強化指定選手に戻る半年前に、子どもができました。授かり婚です。子どもが生まれることで、責任感がさらに増しました。 運営していたスクールも、父兄の方々から「無理せずでいいから継続してね」と言われ、サポートもしていただき、今でも責任感をもって続けています。父親になって強化指定選手に戻って、“覚悟”はより強くなったと思います。 ーお子さんは今何歳ですか? 今9ヶ月です!可愛いです。「理人(りひと)」と名付けました。Instagramにもよく登場するので、ぜひ見てください! ー家族を養う、子育てのために生活面は何か変化はありましたか? 子どもが生まれたのをキッカケに、25歳ではじめて就職をしました。 大学時代にはアスリートとして食っていくんだ!と思い就職活動もしていなかったのですが、今回もオファーをいただくカタチでOceans株式会社に出会いました。 現在は「KIZUNA」というアスリートとファンをつなぐSNSを運営しています。アスリートとしての僕を応援し、競技を優先させてくれる、非常に理解のある会社です。 ーアスリートとしての視点も活かせそうな仕事ですね! そうなんです。でも、アスリートだからこそ「KIZUNA」のサービスは、サービスの需要と供給がまだガッチリ合ってないと感じることもありました。 アスリートを応援したいファンの方から課金いただくSNSコミュニティを運営するサービスなのですが、ファンの方々からお金をもらうのも運用するのも難しいです。 もう少し事業内容を考えないといけないな…というのは、いちアスリートとして非常に感じています。まだベンチャー企業なので、これから社員の皆さんと一緒に創っていきたいです。 また、僕は別の新規事業なども担当しています。これまで自分の力で事業を組み立て、マネタイズができ、運用するまでに至っていないので、何か1つ成し遂げたいという思いはありますね! ーアスリートとしての活動が、生活に活かせた!という瞬間はありますか? セパタクローのおかげで、1つの目標に対して突き進む忍耐力や、やりきる力のようなものは強くなりました。簡単ではないことでもすぐ諦めない。それは仕事で非常に活きています。 私生活では、健康志向が強くなりました!以前は食事や睡眠もおろそかになりがちだったのですが、アスリートとして徐々に見直していき、規則正しい生活とバランスの良い食事を摂るようになったり。家族と一緒に健康を意識した生活になりましたね! 僕の場合、食べるものを一気に変えたというよりは、食べる時間や量、栄養バランスを少し見直してマイペースに無理のない範囲で続けています。 ー2年前に比べ、公私ともに順調ですね。そんな玉置選手の今後の目標を教えて下さい! 直近の目標は、2022年に中国で開催予定のアジア大会に、日本代表として出場したいです。 そして2026年の日本・愛知大会の開催予定が決まっているので、そこにプレイヤーとしてのピークを持っていきたいです。 そして長期目標は、セパタクローのアスリートとして、プロリーグを作りたいと思います!バスケのBリーグ、サッカーのJリーグのような、沢山の方に応援される大会や場を作ってみたいです。 現在はYouTubeやSNSでの発信も行っているので、よかったらトレーニング風景や試合のプレーなど、ぜひ見て下さい。 そしてぜひ、セパタクロー選手たちの応援もよろしくお願いします! ▶せぱたまちゃんねる-玉置大嗣- ▶Instagram ーありがとうございました!今後の活躍、非常に楽しみにしています!   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗 写真:玉置さん提供 デザイン:五十嵐有沙 文:Moe

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