「挑戦をやめたら俺じゃない」中村義之が決断してきた“自分らしくいる”ための選択

26歳のとき、DeNAから分社化したみんなのウェディング取締役に就任し、29歳でマザーズ上場を果たすも、その後体調不良により退任。1年半の療養を経て、福岡への移住・転職支援を行うYOUTURNを創業。 まさにジェットコースターのような経歴。今回は激動の20代を過ごされた、株式会社YOUTURN代表取締役の中村義之さんにお話を伺いました。  意志のある選択をし続けている中村さんは、岐路に立ったとき、どのように考えて決断してきたのか。悩めるU29世代へのヒントとして、中村さんのこれまでの選択と信念を紐解いていきます。 妥協が嫌い。やりたいことをやりたかった ― 新卒でDeNAに入られたのは何年でしたっけ? 中村義之(以下、中村):2008年入社ですね。大学在学中から、将来起業したいと思っていて、Eコマースの会社で1年半くらいインターンしていたんです。ネットだと色々数字を取りながらPDCA回せますし、商売のキホンのキはものを売ることだと思っていたので。 就活のときは、インターンでやった経験を生かして働ける会社、かつ、すぐに起業ってイメージは持てなかったから、新規事業を若手に任せてくれる会社に行きたいと思っていましたね。ある意味、起業の疑似体験をしたいというか。 この二軸で考えたとき、これはDeNAだな、とピンときて。 ― もう一択だったんですか? 中村:一択でしたね。DeNAしか受けてないです。面接のときって「他にどこ受けてんの?」って訊かれるじゃないですか。そのときに「いや、御社だけです」って。 「いやいや…。え、本当に?」と言われたけど、僕としては「行きたい会社に行けないのなら進学や留学を選ぶし、行きたくないところに行くつもりはない」と思っていました。 ― 意志の強さがすごいですね…。決断の仕方は小さい頃から同じなんですか?  中村:そうですね。次善の策が嫌いというか、妥協が嫌いというか。やりたいことをやるのが一番良いと思っているから。大学もそうなんですよ。筑波大学の自分の学部しか受けていない。  あとは、意識的に周りと違う行動をとっていますね。高校の同級生が地元に残るなか筑波大学を選択したり、大学の同級生が大企業に就職するなかネットベンチャーを選んだり。進路を選択するときに「親が言うから」って人いるじゃないですか。そういう話聞くと、「いや、お前の人生を生きろよ」って思っちゃう。 「自分が選んだ選択を正解にする」覚悟を決めた夢への挑戦 ― DeNAではどういうお仕事をやられていたんですか?  中村:入社して2年間はEコマースの事業部で働かせてもらって、3年目に新規事業部の配属になりましたね。最初はEC経験を活かしながら働かせて欲しい、そこで実績や経験を積めたら、新規事業部の部署に配属して欲しい、と入社当初から言っていたんですよ。  ― まさに希望通り。新規事業に挑戦する機会を得られた理由はなんだったんでしょう?  中村:言い続けていたからかもしれませんね。DeNAには当時、半期に1回、自分のキャリア希望を書くシートがあったんです。そこに色々書いていましたね。海外事業部も出来たばかりだったので、海外行きたい、新規事業やりたい、と毎回書いていました。 実を言うと、僕は同期の中でそれほど結果を出していたわけではないんです。営業は2年間やっていましたけど、MVPとかとったことないし。表彰されて「アイツは優秀だ」と言われているやつが沢山いたなかで、自分が挑戦のチャンスをもらえるって本当にラッキーだなって。 ― そして新規事業部に配属されて、みんなのウェディングの事業に参加。26歳のときに分社化して、取締役として参加したんですよね。 中村:分社化が発表されたとき、DeNAにもたくさん子会社があったので「あ、これからは子会社に出向する形になるんだ」と思っていたら、「子会社でもグループでもなく、完全に独立した会社になる。だから、ジョインするとしたらDeNAを辞めて行ってもらうことになる」と言われたんですよ。 DeNAは大好きだったし、こんなに成長出来る会社はないなと思っていたので、辞めるという選択は一度も考えたことがなかったんです。でも、みんなのウェディングもとても楽しかった。「あ、両方取れねえんだ」と思いましたね。 それで1日考えたんですけど、元々起業したかったし、独立してVCから出資受けてIPOを目指すスキームだったので、このチャンスに挑戦しない手はないだろうって。宝くじ当たるよりも確率低いんじゃないかって思ったんですよね。 そして、翌日に「辞めます」と決断して、みんなのウェディングの設立に取締役として参加したんです。 ー 迷いはなかったんですか? 中村:なかったですね。みんなのウェディングって口コミサイトだったんですよ。当時、口コミサイトってユーザーの支持はあるけどビジネスとしては儲からないって言われていて、同期の数人からも「絶対上場とか出来ないからやめとけ」って言われたりもしたんですけど。  でも「いや俺好きだからやってるしさ」と思って。どんな選択にも正解ってないじゃないですか。だったら、自分が選んだ選択を正解にする。「俺はそういうスタンスでいくよ」と思って、選んだ決断でしたね。 挑戦は順調だった。だからこそ潰れてしまった ー 26歳で取締役になって、29歳のときにみんなのウェディングが上場。ジェットコースターのような3年間で、重圧に押し潰されずに結果を出し続けられたのは何が要因だったと思いますか?  中村:一番は「こんなに成長出来る機会って他にないよな」と、超楽しんでやっていたことだと思います。 色んな課題がどんどん変わってくるんですよ。社内の人間関係の問題はもちろんだし、競合が想定しなかった戦略を打ち出してきたとき、どう対抗するか考えるのもそうだし。局面局面でこれまでやったことがない領域の知識を得ていかなきゃいけない、って状況は面白かったですね。手探り状態だからとんでもない間違いをすることもあったけど、だからこそ想定してないようなフィードバックが返ってくることもあった。 ー 常に手探り状態の中で一番大変なことって何だったんです? 中村:一番は、自分たちで設定したストレッチな目標だったので、それをどう達成するかでしたね。まさにムーンショット。走りながら考えて、ダメだったら別の方法を考える。 大変でしたけど、目標も毎年達成して、当時の株主の方から「こんなに計画達成するベンチャーないよ」と言ってもらえたんです。最初はビクビクやっていたけど、むしろワクワク、どう乗り切るか考えるようになったからかもしれませんね。プレッシャーがありつつも超楽しんでやっていました。 ー そして、2014年にIPOした後、10月末に体調を崩して退任なさったんですよね。何かきっかけとかはあったんでしょうか? 中村:きっかけというよりは、リスクとかプレッシャーに対して麻痺していたんだと思います。「まだまだいける!もっと来い!」みたいに。 あとは、組織の拡大に伴ってアンコントローラブルな領域が増えていったことですね。IPO前までは、目標に対して下振れしても、顔が見える株主の方々に頭を下げればよかったんです。 でも、上場したら、目に見えない匿名の株主の方が何人もいるんですね。加えて、クライアントの数は増えますし、打たなきゃいけない戦略は高度なものになりますし、自分がやらないといけない明確な限度が分からなくなってきた。  「俺がここまでやんなきゃいけない」って限度が広がってしまって、結果、睡眠時間を削って何とか回していたんです。 ー 1日何時間くらい寝ていたんですか? 中村:病気になったな、と思ったときは1,2時間睡眠を1か月続けていましたね。上場の前の正念場を同じ1時間睡眠で乗り越えた経験があったから、俺は大丈夫、この働き方で難局を凌げるはずだと言い聞かせていました。 でも、当たり前ですけど、上場した後のプレッシャーって桁違いなので、そこで潰れましたね。 気付いたら、頭痛と吐き気と体の震えが止まらなくて。パソコンを開くだけで症状が出るようになってしまった。そんな状態になって「あぁこれはもうダメだ」と思って退任させてもらったんです。 挑戦をやめたら俺じゃない。再び、自分らしくいるために ー 取締役をご退任してから延べ1年半の療養期間、回復のきっかけとかあったんですか? 中村:具体的なきっかけはないんですけど、療養中、リハビリも兼ねて色んな所に旅行したんですよ。海外含めて、夫婦で様々出掛けていました。 ある地域を旅行しているとき、ふとフラッシュバックしてきたんです。楽しく働いていたときの思い出が。 病気になってからは、仕事って辛いもの、キツイものとしか捉えていなかったのに、「あぁ、俺って仕事好きだったなぁ。またやりてえなぁ」って急に思って、涙が止まらなくなったことがあったんです。それが精神的に回復した瞬間だったと思います。 ー そこから、どのようにYOUTURNの起業まで至ったんですか? 中村:精神的に回復して今後の人生を考えたとき、ここでチャレンジを諦めてしまったら俺じゃないなって思ったんです。骨壺入るとき絶対後悔するだろって。次もやっぱり挑戦し続けたかったんですよね。 だけど、もう病気にはなりたくない。チャレンジとQOLが両立するやり方ってなんだろうと考えた結果、自分のバランスがとれる環境の良いとこでやるってことなんじゃないか、って思ったんです。 旅行中も沖縄とか北海道で「こんな環境が良いところで仕事できたら最高だな」と思っていましたし。本来、インターネットって場所も関係ないですしね。 ー 東京じゃなくても仕事出来るじゃんって。 中村:そう。じゃあどこが良いかな、と考えていたときに地元の福岡があったんですよ。あ、地元があるじゃん!って。 この選択が良いか悪いかは分からなかったんですけど、根拠のないやりたい気持ちが膨れ上がったんです。直感的に面白いことになりそうって思って。 ー 何で地方だったんでしょうか? 中村:ここでも天の邪鬼なところが出たんでしょうね。金太郎飴にはなりたくない、ユニークな存在やオリジナリティのあるポジションを取りたい、という想いが根底にあるんだと思います。 東京ってスタートアップの雛形があるじゃないですか。プロダクトを作って資金調達すれば誰でも出来そうで、コモディティ化している。だったら違う軸で、東京じゃないところで面白いベンチャーを作れたら面白いんじゃないか、と。根拠なんてまったくなく、ただ自分がワクワクしたんです。 ー ここでも自分の意志を信じての選択だったんですね。 中村:さて、どこで起業するかは決まった、次はどの領域で起業するかを決めないと、と福岡で既に起業していたり、支援している人達から情報収集していたんです。そしたら、みんな採用に課題を抱えていたんですよ。「福岡はすごく起業しやすくなったけど、人がいない」って。 本当にみんな同じことを言っていたので、自分が起業して全く同じ課題に直面するんだったら、俺がこれ解決しよう!と思ったのがYOUTURNを起業したきっかけでしたね。今もまだまだこれからの会社ですけど、行政の方を初め、色んな方に「いいね!」と応援してもらえているのは嬉しいです。  『自分らしくいることは成長にも繋がる』悩めるU29読者へのメッセージ ー 中村さんは、人生において逆張りとも言えるような選択をしていますし、YOUTURNさんとしても地方へのUターンIターンなど、逆張りに思える選択を提案していますよね。そんな中村さんから20代の方々にメッセージを送るとしたら、どんなことを伝えますか? 中村:「人と比較しなくて済む生き方を選ぼう」ってことですかね。自分がニッチな逆張りの選択をしてきたのは「相対的な自己として社会にありたくない」って思っていたからなんですよ。人と比較する軸でキャリアを選んじゃうと、いつまでたってもハッピーじゃないと思うんです。上には上がいるし、他人の芝はいつまでたっても青いし。そういう人生って、あんまり面白くない。 ー 比較が必要なときもありますけど、疲れちゃいますしね。 中村:局地戦では必要だけど、大局観としては「人と比較しなかったとしても、自分自身はどうありたいんだ」を考えて欲しいです。 僕はその1つの選択として、福岡での起業を選んだんです。人と比較されないユニークなポジションを取っていくことって、結局生き抜いていく上での勝ち筋なんじゃないかって気もしますしね。 ー オリジナリティを自ら作っていくってことですね。 中村:その領域で自分しか知らないことが増えるから、結局ビジネスの引き合いも来るし、結果的にチャンスをもらえて成長機会になるんだと思います。 そういう意味でも、これからの時代、用意された環境でしか成長できない人って厳しくなってきます。だからこそ、自分の意志が大事になる。そのためにも、「自分らしくいるには、どういう環境に身を置いたら良いのか」を考えて欲しいですね。 (取材:西村創一朗、写真:鵜ノ澤直美、文:安久都智史、デザイン:矢野拓実)

Webメディア編集者からFemTech事業へ舵を切ったMEDERI株式会社CEO・坂梨亜里咲の胸の内 #私のU29時代

10代、20代にとって生き方の指針となるようなインタビューを掲載しているU-29ドットコム。今回は、「自分を愛でる」というコンセプトでFemTech領域に参入するMEDERI株式会社・CEOの坂梨 亜里咲(さかなし・ありさ)さんにお話を伺いました。 宮崎県で生まれ、大学入学までの18年間を地元で過ごした坂梨さん。大学卒業後は通販サイトの会社へ入社するものの、一年後には4MEEE株式会社にジョインして女性向けWebメディア「4MEEE」を立ち上げます。半年のフリーランス期間を挟んで4MEEEでCOO、CEOを経験し、現在は起業して妊娠に関するプロダクト作りの真っ只中。 Webメディアの編集者から社長まで上り詰めたのち、一転してFemTech領域に足を踏み入れた坂梨さんの胸にはどんな想いが秘められているのか……これまでの経歴を辿りながら、彼女が目指す世界に迫ります。 地元でオシャレな服が買えなかった経験から選んだ就職先 — 通販サイトに興味があってEC系の会社に新卒で入社。その前はどんな学生時代を送ってこられたんでしょう? 学生時代は読者モデルをやっていたんです。そして、なんとなく「卒業後はアナウンサーになりたい」と考えるように。兄も福岡でアナウンサーをしていますし、自分もなれるだろうと思っていたんですが、入社試験にはことごとく落ちてしまいました。 その頃ちょうど東日本大震災が起こって就活が一時停止。じっくり考える時間ができたことで自分自身を見つめ直してみたら、地元でオシャレな服が売っていなくて通販をよく使っていたことを思い出したんです。その原体験があったので、通販サイトの会社で働こうと思い、内定をもらいました。 でもそこでは、1つ上の先輩がインターンの私と同じ業務をしていたんですよ。それがあまり魅力的に思えなくて。悶々としているとき、友人が誘ってくれたイベントでルビー・グループ株式会社の社長さんに出会い、「通販サイトの会社に就職したいならうち来なよ」と言ってもらえたんです。話を聞きに行って魅力を感じ、こちらに就職することを決めました。 — 実際にルビー・グループに入社してみてどうでした? 同期はいなかったんですが毎日楽しくて、裁量の大きな仕事をたくさんさせてもらいました。だけどある時、新規事業立ち上げの一貫でラグジュアリーECサイトを担当させてもらったんですけど、新卒の私には、高級なものをどうやって売ったらいいのか分からなくて。 — 身近にターゲット層がいなくてイメージできなかったんですね。 そうなんですよ。だったら自分ごと化できるサービスができたらいいな、と思うようになったんです。その矢先、大学時代の友人から久々に連絡をもらって会ったところ、通販にも集客できるwebメディアをやろうとしているという話を聞きました。それで、今の会社を辞めてそちらにジョインすることにしたんです。   ベンチャー企業に転職し、メディア立ち上げを初経験 — ルビー・グループを辞めて、現在の4MEEE株式会社へ転職。坂梨さんは創業に携わっていたわけじゃないんですね。 大学時代の友人たち3人が創業した会社で、そこに私がジョインした感じですね。当時はまだ「4MEEE」はなくて、リスティング広告の最適化ツールを作っていました。社名も「ロケットベンチャー株式会社」でしたし。これからtoC向けにサービスをやる、というタイミングで声をかけてもらったんです。 最初はスタートアップにジョインすることに対して親からも反対されましたけど、一週間ほどで納得してもらえて、2014年に入社しました。 — ロケットベンチャーに入社し、4MEEEを立ち上げ。メディア立ち上げは人生初の経験だったと思いますが、どうでしたか? 立ち上げ時の仕事としてはひたすら記事を書いて更新するというルーティン作業だったんですが、そのときの社長が「どれだけこのサービスがイケてるか」を毎日説明してくれていたので、今振り返ってみればすごく楽しかったですね。いざ自分が起業してみると、そこまでのムードを作れていたのはすごいなと思います。 — 4MEEEにいる間、挫折経験やハードシングスはありました? いやもう、たくさんありましたよ。一番は、4MEEEをスタートさせて半年後くらいに存続の危機が訪れたことですね。SEOの効果もすぐには出なかったですし、いろいろあって1週間くらいメンバーそれぞれが自宅で仕事をしなきゃいけない状態になったりして。これから先がどうなるかわからない状態で1ヶ月半ほど過ごしていました。 — その危機はどうやって乗り越えたんですか? そんな状況でも当時の社長がカリスマ的な存在感を放ち、事業を諦めず、メンバーに希望を与え続けてくれたおかげで乗り越えられましたね。株式会社エニグモに自社をバイアウトし、エニグモグループに入った後も、うちの社長の意見を尊重してもらって自由にのびのび仕事をさせてもらっていました。   半年のフリーランス期間を経て役員、そしてCEOへ — 坂梨さんは、フリーランスだった時期が半年間あるそうですね。どういう経緯があってフリーランスに? 4MEEEの編集者として働いていた頃、何をもって給与交渉すればいいかわからなかったんですよ。給与は、可視化される評価なので上げ続けたい。でもスタートアップって給与体制もまだできていないし、社長に交渉することもできなくて。 だから、一度外に出てみて自分がどれくらい稼げるのかを知りたいと思ったんです。それが分かったら今のモヤモヤがなくなるような気がして。26歳になるタイミングでフリーランスになりました。 — フリーランスになってみて、実際どうでした? その頃はWebメディアバブルだったので、コンテンツ制作やコンサルティングの依頼がどんどん舞い込んできて、会社にいた頃よりずっと稼げるようになりました。でも、全て自分一人でやらなくちゃいけないから休む暇がないということに気付いたんです。 やればやるほど稼げることは分かったし、自分の仕事の相場感が掴めて数字には強くなりました。だけどこのまま一人でやっていくのはきついなと感じ、誰かと一緒に小さく起業するか、どこかに転職して再びインプットしたいと考えるようになったんですよね。 さまざまなメディアから声を掛けてもらったんですが、4MEEEの社長にその話をしたら「それならうちに戻ってきてよ」と言われ、一番いい待遇で迎えてくれることになったので戻ることに。 — 結果的には、フリーランスになってよかったということですね。そして4MEEEに戻り、COOという役職に就くことに。 そうですね。実はその時、社長はすでに違う会社を立ち上げて代表を務めていて、「ゆくゆくは4MEEEを渡したい」と言ってくれていたんですよ。だから、CEOという次のステップが見えていて、仕事も頑張れました。 — 編集者からCOO、そしてCEOヘ。一編集者には、なかなかない道ですよね。 4MEEEに戻るとき、社長から「フリーランスになって(お金やチームでやっていくということに対する)考えが現実的になったね」と言われました。視座が高くなったというか。フリーランスを経験して本当によかったです。   「自分の世界を作りたい」という想いからCEO退任を決意 — 再び4MEEEに戻って2年が経ち、約束通りCEOになったわけですね。 はい。でもそのタイミングで、二度目の4MEEE存続の危機がやってきたんです。親会社との方向性の違いで。いろいろと検討した結果、株式会社インタースペースに親会社になってもらうことになりました。 新たな親会社が決まるまでは他言できないので、社内には不穏な空気が流れていって社員もどんどん辞めてしまいました。私自身も社員を信じられなくなり、一時は代表を務める自信もなくなって……結局、インタースペースにバイアウトしたタイミングでは正社員数は以前の約5分の1という状態でした。 — それは辛かったですね……。インタースペースへのバイアウトが決まったタイミングで新体制になり、初めてのことの連続で大変だったんじゃないでしょうか? 私は大企業で働いたことがないから、体制が変わって3ヶ月くらいは、聞き慣れない言葉が多かったり仕事のやり方が違ったりして戸惑いましたね。しかも、だんだん掴めてきたところで、今度は物足りなく感じるようになってしまって。 自分でも経営について勉強しましたが、子会社社長のあり方やモチベーションセットって難しいんですよね。それでも、4MEEEを伸ばすために駆け抜けた日々でした。地方自治体とタイアップをしたりコラボ商品を作ったり、新たな収益源に挑戦させてもらって試行錯誤しながら黒字化できたのは良い経験です。 — では、いつ頃から退任して次のチャレンジをしようと思うようになったんですか? 2019年の7月です。私自身、「4MEEE」と「4yuuu!」どちらのターゲット層にも属していないから、その真ん中の世界を作りたいなと思って。それを今の会社で作るのか、私が新たに会社を立ち上げて作るのか……といったことを2018年の終わり頃から少し考えていました。 Webメディアって、投資がかかる割に先が読めない部分が大きいので、私が作りたい世界観をどういう形でアウトプットするのがベストなのかと悩んでいたんです。自分がお金も時間も費やしたことって何だっけ?と考えたら、不妊治療だったことに気付きました。それで2019年の8月には、親会社に「辞めたい」と伝えたんです。 ちょうどその頃、海外でもFemTechが話題になっていて。「これはまさしく私がやりたい領域だ」「今やらなきゃいけない」と思ったんですね。私の人生の成功体験に共通する点は、先行者優位を取ってきたこと。だから今立ち上げないと出遅れてしまう、と。 なので、任期満了の2019年12月に辞めさせてもらうことになりました。   コンプレックスをさらけ出して参入を決めたFemTech領域 — 2019年8月にCEOを辞めることを会社に伝え、同年12月に退任。時期は少し遅くなったものの、早い段階で前に進めたんじゃないでしょうか? 平日の夜や土日を返上して次の準備をしていましたが、私が参入しようとしているヘルスケア領域においては、プロダクトをリリースにこぎつけるのが思ったより大変で。私の行動力や突破力ですぐに実現できると思っていたけれど、なかなか進まなくて。 「想いだけじゃやっていけない」と洗礼を受けました。やりたいことはあるし、作りたいプロダクトもあるけど、Howがないという状態でした。 — どんなプロダクトを考えているんですか? サプリメントと妊よう力セルフチェックキットです。はじめはチェックキットだけをやろうと思っていたんです。私自身、自分の遺伝子で妊娠することができない可能性があるかもしれないんですよ。でもそれに気づくのが5年早ければ、状況は違ったかもしれない。だから、自分の妊孕力を知れるキットが欲しいなと思って。 だけどそれってあまりにメッセージが強いから、共同創業者に「もうちょっとマイルドに考えてみたら?」と言われ、日常に溶け込むプロダクトを……と考えた結果、治療中も服用していたサプリメントに辿り着いたんです。 もともとメディアを運営していたので、インターネットで販売するサプリメントに対するイメージに戸惑いがあったのも事実で。でも発想を転換させれば「サプリメントもメディアだな」と思ったんですね。私はただサプリメントを届けるのではなく、サプリメント通じて毎月自分と向き合う時間をユーザーに届けるんだ、と。 今までWebメディアという形で情報を発信してきましたけど、サプリメントを通じてFemTechの領域で生活に溶け込むような情報配信ができるんじゃないかと考えるようになったんです。 — ヘルスケア業界って法律の縛りやしがらみがあって、アイデアを形にするのにすごく長い期間を要することって多いじゃないですか。そんな中で、会社を作って2〜3ヶ月でプロダクトローンチまでこぎつけたのは本当にすごいと思います。 何事もスピード感が大事だなと思っているので。最近はFemTech領域もすごく優秀で活躍される方がどんどん出てきていていますし、引け目を感じる部分もあります。でも私には「自分の遺伝子で子供が生まれない可能性がある」という究極の原体験があるから、その想いでこだわったプロダクトを作っていきたいですし、いずれtoB向けサービスも展開したいと思っています。 — ファーストプロダクトは、坂梨さん自身が妊活を経て苦労されてきたということが原体験になっているということですが、コンプレックスを表に出そうと思ったのは何がきっかけだったんでしょう? 実は去年1年間、夫の仕事の都合で離れて暮らしていたことがあり、自分一人で考える時間が増えたんです。その時に、自分の中に引け目があることに気付いて。独身時代は子供が産まれたら仕事を辞めて家庭を支えたいって想いもあったりしたんですが、夫に養われるのは性分に合わないなと。 たとえば結果として子供ができなかった場合、どうやって夫に愛想を尽かされずに過ごせるのか考えた時に、「わたしは働くのが得意だから、20年後も働いて輝いていたいな」って。だから、生涯かけて働ける何かをしたいと考えたんですね。 常に自分がターゲット層となるようなサービスだったら楽しめるなと思い、まずは妊娠出産に関するサービスを。もしも子供を産むことができたり、何かしらの方法で子供を迎えることができたら、次は育児に関するサービスを提供できる。そんな会社を作りたいと思ったんです。 同情を買うようなエピソードは、できれば言いたくありません。でも、自分の中でコンプレックスだと感じていた部分を、「これも自分の人生だ」と受け入れられたのが一番大きな変化でした。生涯かけてやりたいことが見つかったことで、「誰かの幸せに繋がるなら会社をやろう」と腹が決まりました。 — それは本当にすごく覚悟がいることですよね。言いにくい話をしてくれてありがとうございます。不妊に悩んでいる多くの人たちに勇気を与えるエピソードだと思います。   女性たちが後悔しない人生を送るためのプロダクトを — 3月にリリースされるプロダクトは、いろんな人の救いになるサービスになっていくと思います。そのためのクラウドファンディングも始まるそうですね。 はい、CAMPFIREというクラウドファンディングのプラットフォームを使って3月3日にスタートします。今回はまずサプリメントから。 リターンとしては、サプリメントを通常時よりお得に買えるというものと、MEDERIの理念に共感して支援してくれる個人や企業に向けたリターンの大きく2種類を考えています。 — まだ若くて妊よう力を調べたいと思っている当事者の方々や、当事者ではないけれど応援したいと思っている未来の支援者に向けて、何かメッセージはありますか? 私と同じような状況の方々は、何より病院で自分の心と向き合いながら治療をしてもらうのが一番かなと思っているので、「共に頑張りましょう」という想いでいっぱいです。 まず私が作っていくプロダクトは、これから妊活をしようとしている人やタイミング法に挑む妊活中の人、まだパートナーはいないけど子供は産みたいという人向け。そういう方々には、早くから自分に問題意識を持つきっかけとなるようなプロダクトになればいいな、自分自身に目を向けて自分を愛でる時間を一緒に作っていけたらいいなと思っています。 サプリメントには、月ごとに、妊娠・出産にまつわる情報とコーチングカードを同梱します。独身女性には仕事、結婚、出産に関することを考えられるようなカードを。既婚女性には今後の出産や子育てについて、旦那さんと一緒に考えられるようにパートナーさん用のカードも送ります。 このカードを使うことで、妊活特有の孤独に悩む女性も減るんじゃないかと考えているんです。一人でも多くの女性に後悔のない人生を送ってほしいので、私はこのプロダクトに全力で向き合っていきます。これからもMEDERIのプロダクトに注目していてください。 — 記事メディアからサプリメントという形のメディアへ。日本初のFemTechの大本命として注目していきますので、クラウドファンディングも頑張ってください。応援しています! クラウドファンディングページはこちら   (取材:西村創一朗、写真:小林桜々、文:ユキガオ、デザイン:矢野拓実)

静岡のアナウンサーといったら「大久保結奈」になる。クリエイティブアナウンサーとして独立するまで。

静岡唯一のクリエイティブアナウンサーとして活動される大久保結奈さんに今回はお話をお伺いしました。大学卒業後、浜松ケーブルテレビで3年間番組制作に携わりカメラマンやディレクター、キャスターを経験。その後ミス浜松でのグランプリ受賞が後押しとなり、独立。 幼少期の頃からアナウンサーを目指していたという彼女がクリエイティブアナウンサーとなり、夢を実現するまでの道のりをお話いただきました。   小さい頃からあったアナウンサーへの憧れ ーまずは簡単な自己紹介をお願いします。 静岡県浜松市出身で静岡唯一のクリエイティブアナウンサーとして活動しています。南山大学外国語学部で英語・インドネシア語・中国語を勉強し、卒業後は浜松ケーブルテレビで3年働いた後、フリーランスになりました。 ー小さい頃からアナウンサーを目指されていたんですか? 元々モーニング娘。に憧れていて、人前に立つ仕事につきたいと思っていたんです。なので初めはアイドルになりたかったんですが、小学6年生の頃にアイドルは無理かもと思い出して…そこからアナウンサーになりたいと思うようになりました。当時よく見ていた「行列のできる法律相談所」の馬場紀子アナウンサーみたいになりたいと思っていましたね。 ーそうだったんですね。中高時代はどのように過ごしていたんですか? 浜松市の難関中学に進学し、勉強も部活も友人関係も順調で悩みがなかったです。人前に立つのが好きだったので学級委員をしたり、生徒会に入ったり、文化祭の実行委員をしたりとかなりアクティブに活動していました。 ーそして大学進学のタイミングで名古屋に行かれたんですね。なぜ南山大学だったんでしょうか? 関西の外国語大学が第一志望だったのですが合格することができず、たまたま調べていて見つけた南山大学に進学しました。英語が好きだったんですが、英語は独学でも続けられそうだったので他のアジア言語を勉強できる大学を調べていて見つけたのが南山大学でした。 キャバクラでのバイト経験も今に生きている ー大学生活はどのように過ごされていたんですか。 高校生の時から英語のスピーチコンテストに出場していたので、大学でもESSサークルに入りました。サークルの中もいくつかのセクションに分かれているんですが、スピーチセクションを自分で新たに作ってスピーチコンテストに出ていました。あとはバイトをしたり、ですかね。 ー何のバイトをされていたんですか? キャバクラで働いていました(笑)大学に入ってタバコがかっこいいと思って吸い始めたりする人などがいると思うんですが、私にとってはかっこいいと思ったのがキャバクラだったんです。友達から体験入店に誘われたのをきっかけに週3くらいでバイトしていました。 ーキャバクラで働いていたとはびっくりです!働いてみてどうでしたか? 世間的にはまだまだ偏見の多い職業かと思いますが、学ぶことは多かったのでやってよかったです。どうやったらまたお店に来てくださるかを考えながら営業メールを送り、返事が返ってこなくてもめげずに営業メールを送れるようになりました。 また大学ではあまり社会人の人に話す機会がありませんが、お店では社長さん等いろんな方が来られるのでコミュニケーション能力も身につき、誰にも物怖じせずに話せるようになったのは今の仕事にも活かされています。 ーその間もアナウンサーになりたいという夢はずっと変わっていなかったんですか? テレビ業界志望というのは変わっていませんでしたが、アナウンサーではなく、報道記者を目指していました。1つはアナウンサーになりたいなんておこがましくて無理だと思ったからです。アナウンサーには綺麗で知的な方が多いのでこの夢は現実的ではないかなと。 もう1つは中学3年生の時にタイに訪れたのがきっかけです。バンコクから6時間くらい離れた街に訪れたんですが、日本と違って道が整備されておらず、お湯も出ない地域でした。それを見て、私にとっては日本が当たり前になっていたけれど、現地の人にはこれが当たり前だということを気づきました。世界にはいろんな環境があり、いろんな暮らし方があり、いろんな人がいる。テレビを通してそんな世界の様子を伝えることができたらと思い、報道記者を目指すようになりました。 ーなるほど。報道記者志望での就職活動はいかがでしたか? 就活は全然うまくいかなかったです。地元が好きで離れたくないという気持ちがあったので地元企業を中心に就職活動をしていました。しかしやはりテレビ業界は狭き門で、ことごとく落ちていました。浜松ケーブルテレビは視聴者ではなかったのですが、あることは知っていたので受けたところ内定をいただき、入社を決めました。 ミス浜松グランプリ受賞が挑戦の後押しに ー浜松ケーブルテレビに入社しどのような仕事をされていたんですか? 番組をゼロから作り上げる仕事をしていました。企画構成を考え、取材に行ってカメラを回し、動画を編集して原稿を考え、ナレーションを吹き込むというところまで全て担当しました。全部の工程を経験できたのは勉強になりました。またニュース番組の記者もさせていただいたのでアナウンサー・報道記者の夢は少し違う形ではありましたが叶いました。 ーその中で独立を考え始めたのは何か理由があったのですか? 元々民間放送を志望していたのもあり、思い描いていた仕事との乖離がありました。ケーブルテレビで働いている人の中には、テレビ局を志望していた訳ではない方が多くいました。私は制作部に配属されましたが、コールセンターに配属されていた可能性ももちろんありました。いろんな部署がある中で、働いている方のテレビに対する思い入れは様々だったんです。 またこれはケーブルテレビの特性にはなりますが、家に帰ってテレビをつけた時に皆さんが見るのは民間放送の番組です。ケーブルテレビは加入者にしか見ていただけませんし、加入者の方もわざわざチャンネルをケーブルテレビまで回してくれるとは限りません。そのためケーブルテレビをみていただいている人は限られています。グルメ番組のディレクターを担当した際に視聴者プレゼント5名の枠に対して、応募がたったの2名だったことがありました。私は常に民間放送に負けない番組を作ることを目標としていましたが、こんなに見てくださっている人が少ないということを知りショックをうけました。 ー確かに民間放送を普段から自然と見ていますね。それが辞めるきっかけに? ちょうど在職中に地元のミス浜松に出場したのも、辞める後押しになりました。ケーブルテレビで働いてみて、浜松市内の取材をたくさんさせていただいた中で浜松の良いところたくさん知ることができました。それを会社外でも発信したいと思い応募しました。ミスコンというと水着審査やウォーキング審査のイメージが強いかと思いますが、ミス浜松は少し違い、浜松に関する質疑応答が特に重視されます。浜松愛は絶対に負けないと思い出場したところ、グランプリをいただくことができました。 ーグランプリ受賞すごいですね!それも後押しとなり、退職を決意されたんですね。 ミス浜松がきっかけで、自分がやりたいと思ったことはやろうという挑戦心が芽生えました。また、ミス浜松で得た人脈や繋がりも大事にしたいと思い、良い節目なので退職を決意しました。 クリエイティブアナウンサーとして独立 ー独立してみていかがでしたか? フリーランスは保証がないということもあり、独立当初は不安でしたが、独立してよかったなと今は思っています。独立直後はミス浜松関連で出会った方々にイベント等あったらお声掛けくださいと営業メールを送ったり、企業の新年会に参加させていただき手作りの名刺を渡して営業したりしてお仕事をいただいていました。1年目は会う人全員に名刺を渡して売り込んでいましたね。1年目は編集のバイトをしたり、カメラアシスタントをしたりとアナウンサー業ではない仕事もしていました。 ーフリーランスになり、もう2年とのことですが今のお仕事はどんな感じですか? イベントの司会業やラジオのMCを中心に動画制作やPRムービーの作成、商品紹介のお仕事などもさせていただいています。アナウンサー業だけではなく、クリエイティブ業もさせていただいているので、クリエイティブアナウンサーです! ークリエイティブ業もすることになったのは何かきっかけがあったんですか? 独立してすぐに、浜松市のゆるキャラ「うなも」との出会いがありました。「うなものアテンドのお姉さん」的ポジションをやらせていただくことになり、その流れで「うなものYouTubeチャンネルがあったらいいよね」となったんです。そこから遊び半分で週1.2本動画を上げるようになりました。その編集を面白いと言ってくださる方が出てきたのをきっかけに、動画編集スキルを仕事に活かしたいと思ったんです。 あ、うなもは本当に可愛いので、是非「うなぎいもチャンネル」を見てみてください(笑) カメラができて編集もできる人はいるけれど、ナレーションまでできる人は滅多にいないことにその時気づきました。動画にはナレーションが必ず必要になります。せっかくなら自分が持っているスキルを全部活かしたいと思いそれ以来クリエイティブアナウンサーとして活動しています。 静岡のアナウンサーといったら「大久保結奈」になる ーフリーランスで働いてみて大変だったことはありますか? 仕事が全くない月があり、収入が安定しなかったことですかね。収入が月10万円以下の時もありました。また、1年目はまだまだアナウンサーとして未熟で、毎回の仕事が精一杯で余裕がありませんでした。それでも期待を込めて、また仕事をくださった方には本当に感謝しています。今でも、ピッチイベントの司会はとても緊張します。噛まないように、登壇者の名前を間違えないようにと必死です。 ー今後挑戦してみたい仕事とかはありますか? いろんな企業で、話し方講座を担当したいと思っています。ピッチコンテストなどに司会として参加させていただく中で、コンテンツがよくても伝え方が今一つでもったいないなと思うことがあります。話し方や伝え方はいろんな場面で活用できるのでその指導をお仕事としてしていきたいなと考えています。 ー最後に今後の目標等があったら教えてください。 静岡のアナウンサーといったらと「大久保結奈」という知名度をつけることが目標です。静岡のただのアナウンサーではなく、動画制作もできる唯一のアナウンサーとして色んな人に知っていただきたいと思っています。そのためにもまずは、動画制作とアナウンスの精度をあげていきたいです。現状に満足することなく、もう1回仕事を頼みたいと思ってもらえるように成長しつづけたいと思います。 ー今後の活躍を応援しています!今日はありがとうございました。   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:松本佳恋(ブログ/Twitter)

CREEDOはキャリアを後押しできる場。藤井蓮が株式会社ブルーブレイズ共同創業者になるまで

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回は株式会社ブルーブレイズ共同創業者の藤井蓮さんにお話をお伺いしました。 大学卒業後はWebディレクターとして働かれていた藤井さんが、株式会社ブルーブレイズにジョインを決めた経緯や、現在担当されているお仕事についてお話いただきました。株式会社ブルーブレイズ代表の都築さんの過去インタビュー記事もぜひ合わせてご覧ください! 熱いLINEが共同創業者になったきっかけ ー都築さんと共同で創業された株式会社ブルーブレイズについてまずは教えてください。 ブルーブレイズではCREEDOという社会人向けOB訪問サービスを提供しています。サービス名であるCREEDOはCREED(英語で信念・志という意味) と DO(する)を合体させた造語で、「世界に100億の志を」というミッションから生まれました。 現在は社員2人という状況なので柔軟に仕事を分担していますが、私は主にCREEDO のサービスデザイン・カスタマーサポートを担当している他、CREEDO Journalというキャリアに関する情報を発信するメディアのライターも担当しています。 ーかなり幅広い業務を担当されているんですね。元々起業したいという思いはあったのでしょうか。 起業したいという思いは特になく、正直共同創業者としてやってみないかと誘われたこと自体が予想外でしたね。ちょうど社会人3年目のタイミングで人の働き方に関する仕事に就きたいと思い、組織開発や人事への転職を考えていました。その中で転職したいと思っていた企業、サイボウズ株式会社の選考に落ちたことを大学時代の友人であった都築に伝えたら、一緒に自分の挑戦に加わって欲しいという熱い長文のLINEが届いたんです(笑) ーそんな経緯で共同創業者になられたんですね。その時点では今のようなサービスを提供しようと決まっていたんですか? 元々は学生向けに動画で発信するキャリアサービス案が上がっていましたが、議論する中で学生向けではなく若手社会人向けにターゲットが変わっていきました。 創業時すぐは若手社会人にキャリアのヒントを与えるきっかけになればと思い、キャリアインタビューからはじめました。インタビューをしていく中で、熱意を持っている方達の話をユーザーさんが直接聞けた方が元気や刺激をもらえるのでは?と思い、社会人向けOB訪問サービスが加わりました。 ーサービスの反響はいかがでしょうか。 未経験で転職したかった方や、周りに異業種の知り合いがいなかった方がCREEDOを見つけてくださることが多いなと感じています。普段だとなかなか出会えない人と繋がれるプラットフォームにCREEDOがなっていることがとても嬉しいです。 また私自身も自分の経験談をCREEDOに出しているので申し込んでくださる方がいるのですが、自分の経験談を話す中で振り返りができる良い機会になっているので手前味噌ではありますが、CREEDOは相互メリットのある良いサービスだなと思っています。   誰にとっても生きやすい社会にしたい ー現在に至るまでの経緯も少しお聞きできればと思うのですが、幼少期の話なども少しお話いただけますか。 私は京都出身で10歳から東京に引っ越してきたのですが、生まれ育った京都は在日コリアンの方が多い地域でした。私は日本人の両親の元に生まれた日本人ですが、通っていた保育園はむしろ在日コリアンの方が多くて、私の方が逆に異質な環境で過ごしました。当時は特に何も気にしていませんでしたが、大学生になってから色々調べていく中で在日外国人の方が日本ではどういう立ち位置なのかを知るようになりました。 また、父が精神疾患が原因で社会復帰できていない方をサポートする精神保健福祉士として働いてました。そのため精神病についてや、精神疾患を持っている方が社会でどのような扱いを受けているかを知る機会が多くありました。同時に2歳からは母と2人暮らしだったので、母子家庭=可哀想というレッテルを貼られることが多くありました。 これらの出来事から社会的にマイノリティとされている方や差別・偏見について考える機会が多くあり、誰にとっても生きやすい社会にしたいという思いを持つようになりました。 ーそのようなバックグランドをお持ちだったんですね。 とはいいつつも、そんなに活発に活動していた幼少期ではなく、何かを作ったりするのが好きでマイペースに自分のやりたいことを見つけるタイプでした。高校に入ってから弓道部に入部したのをきっかけに、静かな陽キャから少し陽キャに変わっていったという感じですかね(笑)何かを作るのが好きという当時の感覚が、今の新しいサービスを作り上げることや、サービスデザインをしたりすることにつながっているのかなと思います。   学外に目を向けた結果、アイセックと出会う ーなるほど!大学時代はどうでしたか? 実は大学受験の時に志望校を軒並み落ちまして、最後の最後に唯一受かった東洋大学に進学しました。希望していた大学には行けませんでしたが、だからこそ大学外の活動に参加して視野を広げようと思うことができ、母の紹介で知ったのがAIESEC(アイセック)でした。 ーお母さんの紹介で、ですか? はい。母の職場にアイセックの学生が来たことがあったらしく、母に勧められました。アイセックは海外インターンシップ事業を行っており、元々海外にいくのが好きだったのもあり、海外の学生たちと出会えるのは魅力的だなとと思いました。また、新歓に行った際にお話しした先輩たちが思いを持って活動されていおり、キラキラして見えました。東洋大学にはアイセックの委員会がなかったのですが、東京大学委員会はインカレになっていることを知り、そこに入って活動をすることになりました。 ーそしてそのアイセックで都築さんとも出会うんですね! そうです!大学2年生の時に都築と一緒のプロジェクトを担当しました。タイの学生さんを受け入れて研修内容を考えたり、身の回りのサポートを一緒にしていました。タイの学生さんに限らず、同じ日本人でも考え方の違いとかがあることを気づくことができ、そんな違いを楽しみながらプロジェクトを進めていくのが面白かったです。 また、アイセックでビラ作りなども担当する中で、本格的にデザインの勉強をしたくなりデザイン会社でアシスタントとしてバイトを始めました。これも今の仕事につながっているなと感じる大学生活の中の出来事でした。   ウェブの影響力に可能性を感じて就職 ーそして就活の時期がやってきたかと思いますが、就活はどのような軸を持ってされていたんですか? デザインの勉強をしたことや、アイセックのWebサイト更新やSNS運用を担当したことがきっかけでWebの影響力を感じる機会が多くありました。幼少期の影響から、誰にとっても生きやすい社会にしたいなという思いがあったこともあり、ITやウェブに関わる部分で社会的影響力を持っている会社に就職したいと思っていました。 その中で内定をいただいたWeb制作・運用会社の株式会社メンバーズは、大手BtoC企業のWebマーケティングを支援することでで社会問題を解決していこうという思いをもっている会社だったので入社を決めました。 大学受験時は何を勉強したいかが分かっておらず、とりあえず勉強していたので志望校に行けませんでしたが、就活時は進みたい方向性が決まっていたのでその中から自分にあった会社を見つけることができてよかったなと思います。 ー実際、新卒で入社してみてどうでしたか? 最初はアパレル系企業のWebディレクターを担当させてもらいました。ECサイトのリニューアル時のサイト機能設計やサイトの更新提案や運用をしていたのですが、最後に仕様を決めるのはお客様というところにジレンマを感じることが多かったです。 それでも2年目に差し掛かるタイミングでメインディレクターを務め、初めて独り立ちしたプロジェクトで無事お客様に喜んでいただくことができたのは、自信につながりましたしやりがいも感じることができました。 ーその中で社内の女性活躍推進プロジェクトにも関わっていたとお聞きしましたが。 はい。入社後に立ち上がった社内プロジェクトで、誰にとっても生きやすい社会にしたいという思いが変わらずあったので参画していました。退社するまでの4年間、パパさん社員が時短勤務を取りやすくするためにはどうしたらいいかなどの意見交換会を開催したり、ファミリーデーの開催を企画運営したりしていました。 入社直後は男女社員の比率がほぼ半々にも関わらず女性役員がいない現状に、会社が本当に女性管理職の比率をあげたいと思っているのかと疑問に思っていましたが、このプロジェクトに参加したことで女性の活躍を推進したいという会社の想いを知ることができ、また自分自身もそこに貢献できたことが嬉しかったです。   CREEDOを必要としている人に届けたい ーそんな中、転職活動を考えたきっかけはなんだったんですか。 働いていく中でもっと、本格的に誰もが楽しく働きやすい環境を作る仕事に就きたいと思うようになりました。そして先進的な人事制度を持っているサイボウズに惹かれ、未経験でしたが人事への転職を試みました。しかし、内定をいただくことができず…。 ーそして都築さんからのメッセージが届いたんですね。 はい。2019年の5月に誘ってもらい、メンバーズと複業というかたちで関わることになりました。そして2020年1月に株式会社メンバーズを退職し、正式に役員として働くことになりました。 ー創業から関わってみてどうでしたか。 ゼロから作っていく段階は正解がなく、タイミングや運によっても事業の成功性が変わっていきます。難しいなと思いながらも、それを察知して行動していくのが楽しいなとも感じることができました。 また都築は全体像を見るのが得意で、私は細かいところに注目してみるのが得意なタイプでした。正反対なパートナーなだけあって、最初は対立することもありましたが、お互いのタイプを理解してうまく役割分担ができるようになってきたんではないかなと思います。 ー起業を経験する中で何か他に気づきなどありましたか。 インタビューをしてそれを記事に起こす過程で、意外に人の言いたいことを汲み取ったりするのが得意だと気づくことができました。また、現在毎週キャリアイベントをオンラインで開催しているのですが、そこでも話をまとめていく作業が得意かもしれないと思うようになりました。 ーこれからの目標はやはりCREEDOを更に広めていくことでしょうか。 はい。CREEDOの可能性を感じているので、これからどんどん伸ばしていきたいなと思っています。私がそのためにできることは、使ってくださっているユーザーの心情を理解することかなと思っています。CREEDOのファンになってくれた方がどういう理由で使ってくれているのか、CREEDOがどういう変化をもたらしているのかを引き続きヒアリングして、事業拡大に役立てていきたいと思います。 特に女性やマイノリティの方が日本でロールモデルに出会える機会は多いとは言えません。CREEDOを、誰もが自分の進みたいキャリアの先を行く先輩と出会える場にしていきたいです。引き続きCREEDOが必要としている人に届くよう、少しでもキャリアの後押しとなる場になるよう、広めていきたいです! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:松本佳恋(ブログ/Twitter)  

行政保健師からスタートアップへ転職した石川綾海が抱く、人々の健康に対する熱い想い。その原動力とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第116回目のゲストは株式会社OKANでカスタマーサクセスを務める石川綾海さんです。 もともと公務員として保健師の仕事をしていた石川さん。しかし、1年でスタートアップ企業へ転職します。一見、全く異なるキャリアを歩んているように見えますが、その選択の背景には強烈な原体験があったと言います。何が彼女を突き動かしているのでしょうか。笑顔の裏に潜む、これまでの経験と想いに迫ります。 公務員からスタートアップの世界へ  ー本日はよろしくお願いします。まずは石川さんの現在の仕事について教えて下さい。 現在、株式会社OKANで働いています。OKANは「働く人のライフスタイルを豊かにする」をミッションに掲げ、働きたい人が働きつづけられる社会の実現を目指す会社です。そのメイン事業である「オフィスおかん」のカスタマーサクセスサクセス(以下、CS)を務めています。 オフィスおかんは食生活の支援を通して、働く人と企業に起こる問題の解決を目的として多くの企業に利用されています。CSとしてオフィスおかんを利用される企業の方々に「いかにサービスを活用して満足してもらえるか」を日々考えています。 ー現在はビジネス職として働いていますが、前職では行政保健師だったと伺っています。どんなお仕事をされていましたか。 おそらく行政保健師が何をしているか知らない方もいると思います。公務員として、保健所や地域の保健センターに勤め、住民の方の健康維持・増進、健康に関する相談や支援を行います。 あまり知られていないのですが、行政保健師は公務員試験に合格する必要があり、さらに看護師と保健師の国家資格を持たないと働けません。 私は高齢者の担当として、アルコール依存症や重度の糖尿病、末期がんなど、健康に問題を抱えている方の支援をしていました。また、介護予防などの事業運営に携わることもありましたね。保健師の仕事に誇りを持ちつつも1年間従事したのちに現職へ転職しました。 ーとても思い切った転職をされたのですね。現在、前職とは全く異なる仕事をされているのは、ご自身の中で何か大きな価値観の変化があったからなのでしょうか? よく聞かれるのですが、実は私の中では価値観の変化はありません。自分のミッションを実現するために最善の選択が何かを考えて転職することにした、という感覚に近いんです。 私がそのミッションを持つようになった背景として、学生時代の原体験が強く影響しているので、そのお話を少しさせていただきますね。 拒食症の経験が、生きる原動力に ー行政保健師からスタートアップ企業への転職の背景には、学生時代の原体験があるんですね。どのような生活を送っていたのですか? 中学時代は柔道に励んでいて、とても充実した日々を過ごしていました。しかし、高校時代に状況はがらりと変わりました。 親の転勤の関係で中学3年生の秋に札幌から横浜へ引っ越しました。田舎から都会へと環境が変わったり、キラキラしている女子高生と自分を比較してしまい「痩せたい!」と思う気持ちからダイエットに走りました。また、友人関係の悩みも重なり、拒食症になりました。毎日、減っていく体重を見ては、もっと痩せなくてはと思い...。体重は15kg以上も落ちてしまいましたね。 ついに「自分なんて生きる意味はない。死にたい」とさえ思っていました。生きるのってこんなにも大変なことなのかと精神的に辛い状況が続いていたんです。 しかし、家族や友人、看護師さん。たくさんの人の支えがあり「生きたい」と思う気持ちが芽生えました。その支えがなければ、正直どうなっていたのだろうかと思います。 回復していく過程で、こんな自分だけど、生きられたからこそ「貢献して生きたい」「死ぬなら、誰かしらに良い影響を与えて死にたい」と強く思いました。死を覚悟した経験こそが、今の自分の原動力となっています。 ーそんな辛い原体験が、今の石川さんをつくっているんですね。その経験は、その後の進路に何か影響を与えたのでしょうか。 そうですね。もともと小学生の頃から国境なき医師団に憧れを持っていたので、将来的には医師か看護師として働きたいと思っていました。それに加えて、拒食症の一番辛いときに看護師さんが心の支えになってくれたので「自分も同じように誰かの支えにないたい」と思い、看護大学へ進学しました。 アフリカでの経験が人生を変えた ーもともと看護師を目指していたようですが、なぜ行政保健師を目指すことになったのですか? 国境なき医師団への憧れもあり、漠然と海外で活躍したい思いがありました。大学時代にはすっかり体調も回復したので、ひたすら海外を飛び回っていたんです。 そんな中で、大学3年生のときに東アフリカのウガンダで青年海外協力隊の活動に同行しました。実際に現地の病院を視察してみると、とても悲惨な環境で…。病院なのに、ここで適切な治療が受けられるの…?と衝撃的な光景でした。 その経験から、看護師として治療に携わったり、病院の環境をよくすることも大事だけれど、そもそも病気にならないように予防することが大切だと思うようになりました。もともとは看護師を目指していましたが、人々の病気の予防、健康維持・増進に関わりたい思いが強くなり、保健師として働くことを決意しました。 ー拒食症の経験や青年海外協力隊の活動同行が原体験となり、「病気の予防に携わりたい」というご自身の確固たるミッションが形成されたのですね。行政保健師からスタートアップ企業への転職のきっかけには、何か葛藤があったのではないでしょうか。 ありましたね。行政保健師として働く中で、病気になったことを後悔する方々に出会ってきました。どうしたら歳を重ねても人々が健康でいられるのだろうか、と考えた時に若い世代や働く人に対して病気の予防、健康へのアプローチが必要ではないかと考えました。 それが実現できるよう、変化を起こせれば良かったのですが...。公務員という立場上、何かを変えるためには相当な覚悟と時間が必要になります。変化を起こしたいと思う一方で、それを実現することの難しさ、葛藤がありましたね。 人々の「自分らしく健康に生きる」を実現させる ー「働く人のライフスタイルを豊かにする」を掲げるOKANへ転職され、ご自身の実現したいことに近づいていると感じていますか? 近づいている感覚はあります。働く世代に価値を提供することを通して、人々が健康であり続ける社会を実現するために、日々仕事に励んでいます。 例えば、オフィスおかんを利用される従業員の方が健康に興味を持っていただけるような読み物を作成するなど、少しでも自身の健康や食生活に気をつかってくれる人が増えるような働かきかけをしています。また、食育セミナーを実施したことで食意識の変容を促すことができた事例もあります。 しかし、私たちのサービスが満足して活用されない限りは継続的な価値を提供することが難しくなってしまうので、現在は従業員の方がサービスをより活用していただけるような基盤づくりに注力しています。 ー思い切った転職が、石川さんにとってミッション実現のための最善の選択であったことが感じられます。今後の目標を教えてください! オフィスおかんをきっかけに、従業員の方が「食事をはじめ、自身の健康に気をつかうようになりました」という事例を増やしていきたいです。その結果として、従業員の方の健康に改善が見られ、病気による望まない離職を減らすことができれば、働く人が生き生きと働ける社会の実現に近づけるのではないかと考えています。 また、個人的に成し遂げたいこととしては、保健師の抱える課題解決にも貢献したいです。人々が健康であり続ける社会をつくるためには行政をはじめ、保健師の活躍は欠かせないと思っています。ビジネス職として培った経験を保健師として働く方々や現場に還元していきたいです。 ーこれからの活躍が楽しみですね。本日はありがとうございました! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のた めのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗 デザイン:五十嵐有沙 執筆:下出翔太

学生起業→2度の転職、レールを外れた元優等生・青木優の「幸せな時間の使い方」

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第162回のゲストは株式会社LITALICOでアライアンス営業を担当されている青木優さんです。 学生に向けたライフキャリア教育プログラム事業を展開する株式会社の取締役副社長も務められた青木さんが、現在株式会社LITALICOに務める理由や、学生起業を経て社会人3年目にして2度の転職を決めた理由など、これまでの経歴を含めてお話をお伺いしました。 学生起業・リクルートを経て社会人3年目にして3社目に突入 ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 現在社会人3年目で、今月より障害のない社会をつくるをビジョンに掲げる株式会社LITALICOで企業アライアンスの企画営業をしています。また、副業として大企業の若手社員が集まる共同組織、一般社団法人ONE Xでも活動しています。先月までは株式会社リクルートキャリアで約2年、法人営業をしており、その前は友人と学生時代に子育てや仕事といったライフキャリアプランについて考える教育事業の立ち上げ会社経営をしていました。 ー具体的に現在のお仕事ではどのようなことをされているのでしょうか。 発達障害など苦手なことを抱えるお子さんのための学習商材を見つけて自社メディアで紹介したり、世の中にすでにある商品が使いやすいかのリサーチをしたり、企業と共同で商品やコンテンツの開発をしたりしています。   優等生だった幼少期〜大学受験の失敗 ーどのような幼少期を過ごされていたのですか。 千葉で生まれ、幼稚園からは静岡で育ちました。勉強が好きだったのを見た教育熱心だった母が中学受験という選択肢があることを教えてくれ、中学受験しました。周りに中学受験する友達がいない中だったことと受験勉強をはじめたのが小学6年の夏とスタートが遅かったこともあり、受験勉強は大変でした。地元には中学受験対策に特化した塾もなかったため、半年間は横浜の塾まで週末は通って勉強。結果的に学習院という中高一貫の女子校に合格し、中学から家族で東京に引っ越しました。 ーわざわざ横浜まで通って受験勉強されたんですね…!中高生活はいかがでしたか。 静岡にいた頃は何をしても1番でしたが、東京にきて上には上がいることを実感しました。世の中は広いんだなと思いましたね。当時は先生のいうことに従うのは当然だと思っていたので真剣に学校行事にも取り組み、勉強をする優等生でした。結果的に首席で高校を卒業することができました。 ー卒業後の進路はどのように決められたのでしょうか。 小さい頃から母の影響を受けて飛行機を見るのが好きだったので、東京大学の工学部航空宇宙工学科を目指して受験勉強をしていました。学習院女子高等科は7割が学習院大学に進学する環境で、一般受験をするのは学年の1割程。そのため、受験勉強のために塾に通っていました。残念ながら、受験には失敗し第二志望だったお茶の水女子大学に進学しました。 ーやはり受験を失敗して落ち込まれましたか。 入学してしばらくは挫折感が消えなかったです。そもそも航空宇宙を勉強するために理系を選択していたのですが、お茶の水女子大学には航空宇宙がなく、建築を専攻していました。何のために理系を選択したのだろうと考え、文転も検討しましたね。   留学は私の人生の革命期 ーその後どのように切り替えられ、大学生活をどのように過ごされたのでしょうか。 とにかく何か打ち込めるものがほしかったのでテニスサークルに入り、テニス漬けの日々を大学1年、2年と過ごしました。そして授業を受けている中で女性のキャリアについて興味を持つようになりました。私の母は教育熱心だったことと、父の転勤が多かったこともあり、子育てを中心に生きていました。その母の姿を見て育ったこともあり、私は自然と働きたいから結婚や出産はしなくてもいいと考えていました。また、周りを見ていると夢があるにも関わらず、子供が欲しいから子供がいても働きやすい会社を優先的に探している友人がたくさんいました。でも本来であれば、仕事と家庭やキャリアと子育てが両立できないのが前提にあるべきではないと思うようになったんです。 ーそこから女性のキャリアにフォーカスがいくようになったんですね。 はい。もともと大学で留学に行きたいと考えていたのですが、ちょうど大学2年の時にトビタテ!留学JAPANに出会い、留学先では女性のキャリアや子育てに関する勉強をしようと決めました。そしてたまたまフィンランドが男女平等国家であるということを知ったことと、台湾では子育て世代が1番働いているということを知ったことが重なり、フィンランドと台湾に留学。事前に日本で女子学生に仕事と子育ての両立への不安や仕事選びに重視していることなどを調査し、同様のインタビュー調査を現地でも行いました。 ー調査の結果はいかがでしたか。 フィンランドは税率が高いからこそ制度が充実しており、それが女性の活躍につながっているなと実感しました。逆に台湾にM字カーブ(労働分野において女性の年齢階級別の労働力を示す指標)がない理由としては多くの家庭が祖父母世代と住んでおり、コミュニティで育ているという風習が残っていることが理由だとわかりました。 インタビュー調査を含め、留学で1番考えることとなったことは「人々の価値観がどう醸成されるのか?」ということでした。フィンランドで女性に「どんな人生を送りたいか?」と質問したところ「ノーマルライフを送りたい」という回答があったので、彼女が思うノーマルライフについて聞いてみたんです。そうすると、自分のやりたい仕事をしつつ家庭を持ち、子供を育てることと言われました。フィンランドではそれがノーマルライフとして受け入れられているということ、それぞれの選択が尊重される価値観が存在していることに驚きました。これを日本でも当たり前にするにはどうしたらいいのか、どうすれば人々の価値観にアプローチできるのかということを帰国後も考えるようになりました。   就職ではなく起業を選択 ーそれが結果的にライフキャリア教育事業での活動につながったのですね。 実は留学前から少しずつライフキャリア教育関連で友人と活動をはじめていました。帰国後就職活動をしはじめていたのですが、ちょうどその活動で法人化する話が上がり、迷った結果会社設立にフルコミットすることを決めました。 ーやはり就活をどうするかは迷われましたか。 これまで周りからの見え方の良い選択を選んできたのですごく迷いました。でも留学を通して無名の大学出身でも面白いことに取り組んでいる人、ユニークな人に出会ったことで、他人からどう見えるかが全てじゃないということに気づかされました。人の評価軸で生きてきた自分を変えるなら今かもしれない、今しかできないことに挑戦するべきではないかと思い、就活を中断する決断をしました。そういう意味でも、留学は私の人生の中での革命期です(笑) ー0からの事業立ち上げ、やってみていかがでしたか。 メンバー全員、起業経験はなかったので大変でしたが多くの人に助けてもらいなんとか法人化できました。無知だったからこそできたんだと今振り返ると思います。目指す共通の社会をビジョンに掲げてそれに向かってみんなで取り組むプロセスは難しいながらもとても楽しく充実していました。   幸せな時間の使い方を。 ーそんな中、経営していた会社を離れ一般企業に就職をされた理由は何だったのでしょうか。 自分が目指す社会の実現を目標に大学を卒業してからも約半年間その会社で働いていたのですが、だんだんと今私がしていることは、本当に目の前の人の課題解決に繋がっているのだろうかという疑問が湧くようになりました。社会を変えたいと思ったら、まずは目の前の人が何に困っているのかを知らなければならないと思うようになったんです。 これがきっかけで、人材領域で求められていることに適切な価値を提供しているからこそ大きなお金が動いているリクルートキャリアに転職し、ビジネスの基準値を学ぼうと決めました。求人広告の法人営業を2年間担当し、これまで自分が関わってきた社会と、大企業から見える社会との違いを知ることとなりました。大企業に所属したことで、たくさんのリソースがありフィードバックを経験者からもらえる環境で働ける良さを感じました。逆に、あくまで大企業の中の1個人であることから社会に影響を与えている実感は薄れましたね。 ーその後、再び転職を選ばれたのですね。 自分がこれから何をしたいかと考えた時に、私は社会にないサービスを新しく生み出すことに興味があると思いました。今の仕事では新しい何かを作れるポジションではなかったので、転職を決意。LITALICOであれば困りごとに対する解決策を作るところから取り組むことができると思いました。また留学後から考えるようになった「世の中の価値観をどうやって変えていくか?」ということにもLITALICOであれば同時にアプローチできるなと考えたんです。 ーこれからLITALICOで活躍されていかれることかと思いますが、ぜひ最後に今後の目標や展望を教えてください! すでにある世の中の企業と一緒に、困りごとを解決するために新しいものを生み出すということに全力で取り組みたいなと思っています。と同時に今後もずっと大事にしていきたいと思っていることは「その時々で幸せな時間の使い方をする」ということです。自分が幸せだと感じられることをどの都度選択し、向き不向きではなく、やりたいか好きかを基準に選んでいきたいです。 正直、やりたいことはこれからもどんどん変わっていくと思うので将来何をしているかはわかりませんが、20代はやりたいことに貪欲に挑戦して自分の幅を広げていきたいです。   取材者:あおきくみこ(Twitter/note) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

敷かれたレールの上を歩いてきた上野瑠衣が自分で自分の人生を歩むまで。

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第199回はヘイ株式会社で秘書兼広報として活躍されています、上野瑠衣さんです。高校までは両親が用意してくれたレールから外れることなく歩んできたという上野さん。そこからどうやって自分で自分の人生を歩むようになったのか。また大好きだったという前職を離れ、現職へ転職を決められたきっかけや広報業務の魅力についてもお話いただきました。 未経験で秘書・広報業務に挑戦 ―現在のお仕事について簡単に教えてください。 ヘイ株式会社勤務しており、代表秘書と広報を兼任しています。新卒では大学時代にインターンをしていた株式会社ユーザベースに入社し、マーケティング業務を担当していました。その後ご縁があり、ヘイ株式会社に代表秘書として転職。2019年5月からは広報業務も担当させていただいています。  ―ヘイ株式会社についても少し教えていただけますか。 ヘイ株式会社はお商売をサポートするという目的のもと、お店のキャッシュレスサービスやオンライン予約システム、ネットショップ開設・運営サービスといった事業を展開しています。「 STORES デジタルストアプラットフォーム 」を通じてお商売のデジタル化を進めることで、生産性をあげ、楽しく持続的にお商売をできるようにサポートすることを目指しています。  ―前職とはまた異なる業種に転職されたのですね。 はい。前職ではインサイドセールスやマーケティングをさせていただいていたのですが、ヘイ株式会社の代表からお声がけいただき、秘書として転職を決めました。入社後、ヘイ株式会社には広報担当者がおらず、広報業務を担う人が足りていなかったため兼務することとなりました。   将来は就職しても寿退社すると思っていた ー現在に至るまでの経緯もお聞かせください。どのような幼少期を過ごされていましたか。 小学校に上がるまでは物静かでおっとりしたタイプの子供でした。運動神経も良くなく、社交性もそんなになかったですね。幼稚園から高校まで一貫の女子校に通っていたので所謂お嬢様学校育ち。学校でのあいさつは「ごきげんよう」でした(笑)そんな環境にいたので外の世界を見る機会も少なく、特に疑問を持つことなく用意されたレールを歩み続けていたので何かにチャレンジすることもない中高生活を送っていました。  ―ということは大学受験が初めて自分の将来について考えるきっかけとなったのでしょうか。 正直、高校卒業後の進路も自分で選んだというよりかは周りの影響を大きく受けて決めたという感じです。というのも当時は母も周りの友人のお母さんもみんな専業主婦だったので、女性が働くイメージをあまり持てませんでした。そのため就職しても寿退社するのだろうなとなんとなく思っていたんです。 周りの友人が皆大学へ進学するということだったので、私も大学に進学しようと思い受験勉強をはじめましたが、当時は勉強することの意味や良い大学に進学することの価値が分からず、いまいち受験勉強には身が入りませんでした。結局、勉強したい分野もなかったので、合格した大学の中で一番家に近かった日本女子大学に進学を決めました。  ―そんな経緯で入学された大学生活はいかがでしたか。 高校までは校則が厳しかったので、大学生活はとても自由に感じ、初めはとにかく遊んでいましたね(笑)日本女子大学は早稲田大学に近いこともあり早稲田大学との合同インカレが多くありました。なんとなく、サークルと言えばテニスと思っていたので、インカレのサークルに入り、テニスを始めたりしました。 テニスサークルというと遊んでばっかりのイメージが強いかもしれませんが、私が所属していたテニスサークルは試合にもよく出場しているサークルで週4で練習しているようなサークルでした。私も週1-2回は練習に行き、週末は試合の応援に行っていました。   自分で考えて自分で行動する楽しさを知った留学生活 ―サークル漬けの日々はどれくらい続いたのですか。 大学2年頃までです。元々大学に入ったら長期で留学したいと考えていたので大学2年からはTOEFLの勉強などで忙しくなりました。大学3年から1年間の交換留学に行きたかったのですが、そのためにはGPAとTOEFLのスコアが必要でした。でも大学1年目に遊びまくった結果GPAが1.6ほどしかなく…留学に行けるラインまで成績を上げるのに大学2年目までは頑張っていました。 ―その結果、無事留学はできたのでしょうか。 はい。自分のGPAと英語力で行ける大学がモンタナ州とハワイしかなかったため、ハワイよりは日本人の少なそうなモンタナ州に1年間留学に行きました。 ―留学生活はいかがでしたか。 リベラルアーツの大学だったので生物学やコミュニケーション学、マーケティングの授業など幅広い分野の授業を取ることができました。ビジュアルマーチャンダイジングの授業ではショーウィンドウやショーケースのセッティングがどう購買活動につながるかについて勉強したのですが、アメリカの大学らしいなと思ったのは実際に地元のお店に直談判してお店のショーウィンドウを担当させてもらうという課題があったことです。 留学生活中は日本と比べて助けてくれる人が周りに限られており、自分で全てやらないといけない環境でした。でも逆に自分で考えて自分で行動するのが楽しいということに気づけた良い機会でもありました。また、アメリカで出会った人たちは、視野の広い人が多かったのもとてもいい刺激になりました。特にスタートアップやベンチャーという存在を知ることができたのは自分のその後に大きな影響を与えてくれましたね。  ―帰国後、残りの学生生活はどのように過ごされたのですか。 帰国したタイミングがちょうど就職活動をする時期だったのですが、外資系企業は既に選考が終了していたので半年間卒業を延期することを決めました。卒業に必要な単位はそろっていたので代わりにインターンをして残りの大学生活を過ごしました。初めの半年はレバレジーズ株式会社でインターンをし、その後友人の紹介で1年程株式会社ユーザベースでインターンをさせていただきました。   大手内定を辞退し、インターン先に新卒入社 ―就職活動はどのように進められていたのですか。 外資系企業・ベンチャー企業を志望していましたが、日系企業も選考を受けていました。私自身が末っ子で世渡り上手だったことや、女子大で留学もインターン経験もある人材は当時まだレアだったこともあり、就職活動は順調でした。就活はどれだけ優秀かということよりも能力や実力をいかに良くみせるかがポイントかと思いますが、私は自分をよく魅せることが得意だったんですよね。 その結果、大手損害保険会社やメガベンチャーを含め8社から内定をいただいたのですが、外資系企業であれば経験が積むことができるだろうということと、大手企業であれば両親が安心・納得するだろうという気持ちもあり、HPの略称で有名なヒューレット・パッカードの内定を受諾しました。 ―が、そこには結局就職されなかったのですよね。 はい。HPへの入社を決めたことをインターンしていたユーザベースの方たちに話したところ「HPに行かないでうちで働かない?」と言われたんです。そして、具体的に入社した場合に担当することになる業務なども提示してくれました。 ユーザベースはインターンを長期でさせていただいていたので自分が会社のカルチャーに合っているということが分かっていました。また会社の方々にも自分の事をよく理解してもらえているという確信があり、入社を打診された時は迷いました。そして一番の懸念点が両親を説得することだと話したところ、当時の上司が両親を説得するために社長を実家に連れてきてくださったんです…! 両親に丁寧に会社が取り組んでいることなどを説明してくださり、両親がここなら大丈夫だろうと思ってくれたこと、私自身もここまで新人のために動いてくれる会社はきっとないと思い、就職2ヶ月前というタイミングで入社を決めました。 ー入社してみていかがでしたか。 入社前から言われていたマーケティングツールMarketoの導入を担当させていただき約1年半マーケティングの自動化という点にフォーカスした業務を行いました。その後はベンチャーの企業情報プラットフォームINITIALのマーケティング業務も担当させていただきました。 インターン時代から感じていましたが、会社のカルチャーと私の性格が良くフィットしていたので入社してからのギャップはありませんでしたね。   父の急死で転職を決意 ー特に不満などもなかったのではないかと思いますが、転職をしようと思った理由は何だったのですか。 ビジネスマッチングアプリyentaを使用していたのですが、そのアプリでヘイ株式会社の代表、佐藤とマッチングしたのがきっかけでした。当時、代表は採用目的でyentaを頻繁に使用していたようです。採用目的とは知らず私は代表とお茶をしたのですが、後日「うちの会社に興味はないですか?」とメッセージをいただきました。代表は私と正反対の方で話していて面白く、私は未知なものに対して興味を持つタイプだったのでヘイ株式会社で働くことにとても興味がありました。 ただ、当時の仕事も楽しくやりがいも感じていたことと、当時お付き合いしていた彼と結婚をちょうど考えておりヘイ株式会社には関西に支社がなかったので一度お断りました。 ーそうだったのですね! はい。ただ、その後父が急死したことで、「自分の人生なんだからやりたいと思ったことは全部やろう!」と思い直し、お断りしてから半年程が経っていたのですが、代表にもう一度連絡させていただきました。ユーザベースも変わらず大好きだったのですが、少しでもやってみたいと思った気持ちを大事にすることに決めたんです。 ーお父様の死が最終的な転職の決め手になったのですね。 父の突然の死は私に後悔しないように常に行動することと感謝の気持ちをその都度伝えることの大切さを教えてくれました。当時は父の死や、お付き合いしていた人との別れなど、大きな変化が重なり精神的には正直不安定な部分も多かったですが、結果的には時間が経つにつれて新しい環境にも慣れ少しずつその不安定さも解消されました。   何歳になっても遅くないから挑戦し続ける ー転職されてみていかがでしたか。 同じベンチャー企業ですが規模感が全く違い新鮮でした。秘書として入社しましたが、広報もさせていただくようになって仕事の面白さはさらに増しました。広報という仕事はとても幅広く、世の中に自社製品がどう必要とされているかを分析し、どうその製品の魅力を発信していくかを企画。そしてその企画案をメディアなどの媒体に営業と分析・企画・営業とすべて経験できることにやりがいと面白さを感じています。また、媒体に掲載された時に周りからいただく反響もやりがいに繋がりますね。 社内に広報経験者はいなかったので私も何からはじめたらいいのか当初は手探り状態でしたが、他社の広報の方にお話を聞いたり、広報関連の本を読んでみたりするところからはじめました。もちろん、会社によって広報に求められることは全然違うのでそこは広報の難しいところだなと日々感じています。 ー最後に今後の目標などがあれば教えてください。 まずはヘイ株式会社の広報として、「 STORES 」をいろんな人に知ってもらえるように頑張りたいです。また、まだまだ広報初心者なので広報とはどうあるべきかということについて引き続き考えて勉強していきたいと思っています。 最近は高校生起業家など中高時代から何か特徴的なことに挑戦している人が増えていますが、社会人になってから新しいことに挑戦するのも全然遅くないと思っています。私も中高時代は用意されていたレールにただ乗っているだけでしたが、大学生になって少しずつ自分で考えて行動する楽しさに気づき、今こうやって新しいことに挑戦しています。いつになっても人って変わることができると思うのでU-29世代のみなさん、一緒に頑張りましょう〜! 取材者:あおきくみこ(Twitter/note ) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)      

サッカーと仕事を通じて自己成長を求め続ける 籾木 結花の「自分だからできる」を大切にする生き方とは。

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第227回目となる今回のゲストは、プロサッカー選手としてアメリカでプレーしながら、日本で会社員をされている籾木 結花さんです。なでしこジャパンにも選ばれるなどサッカー選手としてのキャリアを歩む一方で、株式会社クリアソンに所属しながら自分にしかできない仕事を行っている籾木さんにこれまでの人生や今後の展望についてお聞きしました。 サッカーに夢中になっていた幼少期 ー現在のお仕事について教えてください。 アメリカのサッカーチームに所属をしながら、日本では株式会社クリアソンに就職をしています。仕事では、先週オンラインサロンを開始することを発表し、今はそれに向けて準備をしています。  ーサッカーはいつ頃から始めたのでしょうか。 きっかけはあまり覚えていませんが、幼稚園生の頃から始めていました。父がサッカーをやっていたこともありますが、幼稚園の頃はずっと男子と一緒にサッカーなど外遊びをしていて、自分が目立ちたいと思っていました。  ー小学生時代に印象に残っている出来事はありますか。 小学校のサッカーチームで男子に混ざりながらサッカーをしていました。しかし、小学校2年生くらいの時に小学校のチームでは物足りないと感じ、お父さんの会社のフットサルチームについていった時にクラブチームの募集を見つけ、電話したところが次に所属した「バディフットボールクラブ」でした。そのチームの男子チームに入ろうとしたものの、選手数の関係で女子チームで体験することになりました。実は、そのチームはその年の日本一だったのですが、その事実を知らずに電話をかけていました。 そこでサッカーに打ち込みながら、学校ではバスケットボールや野球などいろいろなスポーツをしていた小学生時代でした。 自分の意思で入団を決める ー小学校から中学校にあがるタイミングで印象に残っている出来事はありますか。 小学校6年生の時が中学校でどのチームに入るのかを考えていた時期で、当時、福島県にあった「JFAアカデミー福島」や私が入団した「日テレ・メニーナ」のセレクションを受けていました。 この2チームは最終試験まで残っていましたが、JFAアカデミー福島の最終試験前に日テレ・メニーナから合格をいただきました。その後、両親と監督との面談があり、自分の意思でこのチームに入りたいと即答したのを今でも覚えています。狭き門をくぐり、名門に入れるワクワク感や自分が目指す選手の近くでプレーができるワクワク感に浸っていました。  ー中学生のときに印象に残っている出来事はありますか。 中学校に入ってからは、一歩引いて見るようなタイプに変わりました。自分の性格が変わった出来事の1つに東日本大震災、そしてなでしこジャパンが世界一を獲得したことがあります。私は下部組織の一員としてトップチームの運営の手伝いをしていたのですが、ワールドカップ(以下、W杯)優勝前は入場料無料で試合を行う中で、観客の呼び込みをしていましたが、優勝後は有料チケットでも会場が満員になっているというのが衝撃的でした。 ー中学から高校になるタイミングで印象に残っている出来事を教えて下さい。 私は中学3年生の時にトップチームにデビューし、高校1年生から下部組織とトップチームの二種登録という形でした。トップチームである「日テレ・ベレーザ」は、日本女子サッカー会では圧倒的な女王で優勝をし続けるのが最低限という強豪でした。トップチームに昇格した時は、澤選手をはじめとするなでしこジャパンの主力メンバーが他チームに移籍し、人数やチーム編成が変わるなど世代交代の一歩目のタイミングでした。 そこで、トップチームのレベルに達していないながらも試合に出なければいけなかった状況は、今振り返るとサッカー人生の中で苦しい時間だったと思います。なかなか優勝できなかったり、チームも歯車がうまく噛み合わない経験をしてきたので、当時は大変だなと思いながら無我夢中にサッカーをしていました。 レベルの高い環境でもっと成長したい ー高校卒業後の進路はどう考えていましたか。 男子サッカーは、高卒と大卒の2つのタイミングでプロサッカー選手になれるのが明確になっている一方で、女子サッカーは下部組織から上がってきた選手がそのままトップチームでプレーすることが主でありながらも、仕事や大学に通いながらプレーしている選手がほとんどなので、プロサッカー選手になるタイミングは色々ありました。 わたしは関東圏のチームだったので、大学に行ける可能性があり、漠然と大学に行っておいた方がいいのかな、スポーツのことを学んでおけばいいかなと思っていました。しかし、スポーツを軸に大学を探す中で、推薦入試を選ぶとその大学の体育会部活に所属することを前提とする受験要項があり、どうしようか考えていました。そんなときに、周囲から慶應義塾大学の総合政策学科(以下、SFC)を受けてみないかと薦められました。慶應に行ける学力が自分にはないと思っていたのですが、色々な学問を組み合わせて自分のやりたいことにつなげていこうとする人たちが集まっているというSFCの魅力を聞いた時に、自分よりもレベルの高い人たちが集まる場所に身を置くことでより成長できるという思いがありました。そのため、SFCを自己推薦入試で受けようと決め、合格へと繋がりました。  ー大学生になってからは、どのような時間を過ごしましたか。 サッカーの練習時間に合わせながら履修科目数を稼ぐために、週3~4日でほぼ1限から3限まで授業を入れ、そこからサッカーの練習に向かう生活を大学4年生まで続けていました。 その生活を続けられた理由は、自分が決めたことを疎かにしたくないという思いに加え、SFCの体育会に属している人たちに負けたくないという反骨心でした。やることをきっちりやることで、応援してもらえると感じていたので、地道に大学に行って勉強をしてという生活を過ごしていました。  ーSFCで学んでいく中で、どういったことに興味を持ちましたか。 入学前に書いた論文では、自分にしかできない経験と自分にしかできない世界の実現をテーマに学ぼうと考えていました。アジアの親交を女子サッカーを通して深めることを考え、入学前はアジアの文化とスポーツビジネスを掛け合わせて勉強したいと思っていました。 しかし、実際には入学前のプランとは異なる過ごし方になりました。楽に単位を取れる授業を履修しつつも、語学の授業は必要最低限以上に単位を取得しました。海外でプレーしたいという思いがあり、将来自分が行きたい国の言語であるドイツ語やスペイン語、英語を継続的に勉強していました。 自分にしかできないことをやりたい ー職業選択の際は、どういったことを考えていましたか。 大学3年生の頃から周囲が就職活動をし始める中、私は違う道を進むと感じていました。 仕事をしながらサッカーをする際、日本の女子サッカーの多くはスポンサー企業で働いていること大半でした。その理由は、試合や代表合宿といったイレギュラーな出来事が起きた時に理解してくれるのはスポンサー企業の場合が多いからです。スポンサー企業が雇用を用意してくれることは光栄だと思いつつも、その仕事は私にとっては誰にでもできる仕事だという感覚があり、果たして仕事と言えるのかと違和感を持つようになりました。 昨年の就職前に、自分がどういった仕事がしたいのか考えたときに自分にしかできないことと自分がやりたいことがかけ合わさっているものが仕事になると、仕事が楽しくなると思いました。そのため、私はスポンサー企業で働きながらプロに進むという道やプロ選手としてサッカーでお金をいただく道でもなく、自分がこれまで足を置いていなかった領域に足をいれ、自分を雇用してくれる会社で働きながらプレーする道を選びました。  ー周りの人が選んでいないことを選ぶのは難しいと思うのですが、自分で考えて動くことができた要因は何だったのでしょうか。 幼稚園や小学校のときに男子とサッカーをしたり、中学校では一人だけ学校が終わってすぐに駅に行き、サッカーの練習を夜まで行う生活をしていたので、自分は他人と違うなという認識をしながら人生を歩んできたと思っています。その環境があったからこそ、いつの間にか人と違うという認識から人と同じになりたくないという価値観に変わり、その価値観が今でも自分お根底にあると感じています。  ー大学卒業後はどういった進路を選んだのでしょうか。 今の企業に就職をする時に、社長さんとお話をする中で、選手としてトップを極めながらもしっかりとビジネスに足を置いて結果を残していきたいという思いに理解をしてださり、それを成し遂げるために会社としてどうすればよいのかを前向きに考えてくれました。 トレーニングやトレーニングに合わせてのケアの時間、チーム練習に加えて個人でのトレーニング時間、さらには平日にオフの時間を設けることを考えたときに、自分のコンディションを第一としながら空いた時間で仕事をする仕組みを柔軟に対応してくれました。入社してすぐにW杯に出場して、2ヶ月日本にいないこともありましたが、その時からオンラインを使って柔軟に対応してくれたことは、自分にとってかなりありがたく、社会人1年目からそういった環境でやらせてもらえるのはなかなかない環境だと思いました。 ー周りの選手と時間の使い方や働き方が異なる中で、ギャップはありませんでしたか。 自分で時間をコントロールすることができましたが、オフの時間に仕事をしていたのもあり、周りの選手とは違うと感じていました。しかし、仕事を始めて1年間経ち、いただいた名刺の数を振り返ると、スポンサー企業に就職をするだけでは出会えなかった方々に出会えたと思います。社会人として社会に出るという道は大きなところでは一緒ですが、スポンサー企業かスポンサー企業ではないかで違いが出ると思うと、自分はこの道を選んで良かったと思いますし、出会った人たちから学ぶことが多くあると同時に自分の思いや存在を自分で伝えて応援してもらえるところまで持っていけたと思うと、新たに応援してくれる人に出会えたと実感するところはあります。 成長できる環境を求め、海外クラブへの移籍を決断 ー仕事とサッカーを両立させていく中で、新たなクラブへの移籍を決断した背景を教えてください。 海外のチームにはチャンスがあれば行きたいと思っていました。 昨年にW杯があり、ベスト16の試合で最後の15分出場して負けてしまったのですが、その15分が自分のサッカー人生の中で一番濃密だったと思えるくらい、楽しくて悔しい15分でした。試合に負けた瞬間、日本に残っていたら勝てないなと感じ、そこから海外に行きたいという思いを実現させるために代理人と契約をし、海外のクラブとコンタクトを取れる環境を整えていきました。最初はヨーロッパに行きたいという思いが強くありましたが、今年に入ってから新型コロナウイルス(以下、コロナ)の影響をヨーロッパが先に受け、いろいろなものがストップしてしまいました。 そのタイミングで、日本代表の選手としてアメリカ遠征でアメリカ・スペイン・イングランドの3ヵ国と試合をする大会が2月下旬から3月上旬にかけてありました。その大会ではオフでの取り組みなどが合わさり、かなりコンディションが良く試合に臨むことができました。結果は3敗だったものの、結果以上に楽しい3試合だったので、もっとレベルの高い相手と日常的にやっていきたいと感じていました。  ただ、日本も普通ではない状況が6月まで続いた時に、アメリカ遠征を見ていたアメリカのクラブの方からオファーをいただきました。私の中では、自分のプレースタイルと正反対のサッカーだったこともあり、アメリカという選択肢は下の方でした。しかし、オファーをいただいたチームにミーガン・ラピノー選手というアメリカ女子サッカーでキャプテンを務める選手がいました。ラピノー選手は昨年のW杯優勝時に人種差別に対するメッセージとして、「私たちは1つなんだ」と発信しました。そんなラピノー選手に私は憧れを抱いていたこともあり、オファーがあったことを聞いた時にそのチームへ行きたいと考えていました。  しかし、私が所属していた日本のチームは世界一うまいチームだと思いますし、このチームで世界一を目指せる環境があるのであれば、自分を育ててくれたクラブであり、一緒に頑張ってきた仲間がいるので、ここで世界一を目指せればいいなと思っていました。  それと同時に、自分が長年知っている仲間とサッカーをやり続けるということは、居心地がだんだんよくなっているだけで、自分に刺激が与えられていないと感じていました。成長することを考えた時に、日本にいては自分はもう一段階上に成長できないと思っていたので、日本ではサッカーができていない状況でしたが、思い切って決断をして、アメリカに行くことを決めました。 ー実際に移籍してみて、どうでしたか。 家族と離れることを一度も経験していなかったですし、クラブを変えることも初めての経験でした。この2つの大きな変化をアメリカでやるということは、自分にとって大きな挑戦で、渡米する日が近づくにつれて怖さが出てきました。しかし、実際にアメリカに行くと、周りのメンバーが温かく迎えてくれたこともあり、かなり楽しく過ごせていました。 ーアメリカのクラブへの移籍後に、スウェーデンでも新しい挑戦をしたそうですね。 アメリカがコロナの影響を受けていたため、シーズンを通常通りにできないことを渡米前から分かっていて、5試合で終わってしまうかもしれないと言われていたため、残りのシーズンをレンタル移籍という形でどこでプレーするか考えていました。 日本に戻ってプレーする選択肢もありましたが、レンタル移籍をする目的として試合をしたいというのがあり、その目的はどこの国でも達成できると考えました。日本という選択肢はただ自分が日本に帰りたいという思いがあるだけで、そこに意味づけをして日本に帰ろうとしているのではないかと気づいた時に、また新たな挑戦をするときかもしれないと思い、代理人の方が探してくださったのがスウェーデンのチームでした。そのチームはその時点でリーグ4位だったのですが、3位以内に入るとチャンピオンズリーグというヨーロッパで一番大きい大会への出場権を獲得できる状況だったので、レベルが高い環境で戦えるのは面白いなと思い、スウェーデンのクラブへ挑戦しました。 しかし、怪我をしてしまい、日本に帰ってきてしまったのですが、2つ大きな挑戦ができたのは今までの自分にとって一番人間的に成長できたと思うので、後悔はないですし、怪我をしたからといって落ち込むこともなく、今はこの時間を有効に使って楽しもうと日々過ごしています。 ー最後に、今後籾木さんが挑戦したいことを教えてください。 抱えている悩みに対して立ち向かっているときは、自分がちっぽけな存在に思えて、悩みが大きすぎて立ち向かっていけないことがあるので、153cmという身長ながらも世界で戦う自分のプレーを通じて何か届けたいという思いがあります。 それが伝わりやすい方法が日本代表でW杯やオリンピックでプレーして優勝することだと思うので、そこを目指してやっていきたいです。そして、アメリカとスウェーデンで今年経験したことは自分の固定概念や当たり前を覆す良い経験だったので、それを日本の人たちに伝えていく手段としてオンラインサロンを使っていこうと思います。日本の中でも性別や肩書きで判断するような世界ではなく、一人一人が自分らしさを見つけ、それが受け入れられる社会を実現していきたいと思っているので、選手として一人の女性としてそういう社会に繋げられるように頑張ります。 取材者:高尾 有沙(Facebook/Twitter/note) 執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙(Twitter)

アクセサリーとバナナでサスティナブル!?楽しく社会課題を解決する北川桃子の歩み

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第262回目のゲストは、現役女子大生兼アクセサリーアーティストの北川桃子(きたがわももこ)さんです。 現在上智大学に通う現役女子大生でありながら、アクセサリーブランド「omo comogomo(オモコモゴモ)」の製作・販売や、フードロス削減を目指した「大人なバナナプロジェクト」での活動、企業でのインターンなどを行なう北川さん。 多忙な日々でありながら、楽しくて仕方がないと語る北川さんのバイタリティに溢れた姿に迫ります! 「好き」に忠実になるきっかけを得たアメリカ生活   ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 上智大学4年の北川桃子です。現在はサスティナビリティを軸に、アクセサリーブランドを立ち上げて制作販売をしたり、フードロスを削減する活動をしてイベントを開催したりしています。 ほかにも理想の生活を提案するメディア「ネクストウィークエンド」のインターンにも参加中です。 ー多岐にわたって活動されているんですね。アクセサリーブランドとフードロスの活動の概要を教えてください。 アクセサリーブランドの名前は、「omo comogomo(おもこもごも)」といいます。様々な「思い」が「こもごもと混じり合う」という意味で名付けました。 テーマは、「自然を想うアクセサリー」。マイクロプラスチックという海の汚染や生物への影響が確認されている物質や旅先で見つけたビーズなどを用いてアクセサリーを作っています。ただ可愛いだけではなく、手にした人が環境や自然について考えるきっかけとなるアクセサリー作りをしているんです。 フードロスについては、「大人なバナナプロジェクト」という学生団体を立ち上げ3人のメンバーで活動しています。 バナナは日本で一番消費されている果物であるにもかかわらず、一番捨てられている果物なんです。茶色くなって変化が目に見えやすいので、変色後消費者が手に取らなくなります。その結果、店も店頭に置かずに捨ててしまう悲しいサイクルが起きていて。 茶色くなったバナナも食べられるので、「大人なバナナ」と可愛らしい名前を付け、甘さや栄養などのポジティブな面を発信して消費者の選択を変えられるよう活動しています。 ー強い思いをもって活動されているのが伝わります!幼少期はどのような子供だったのでしょうか? 小学3年生の頃から3年間、両親の仕事の都合でアメリカに住んでいました。そこで性格や人との接し方が変わりましたね。 通った学校が日本人が一人もいない現地校で。最初は不安で仕方がありませんでしたが、気付けば自分の考えを英語で話せるようになっていました。また、個性を尊重する文化のおかげで、自分の好きなことに忠実に生きられるようにもなりました。 小さい頃から物作りが好きだったので、現地ではアートスクールに通ったり、手芸屋さんに行ったりして過ごすことが多かったです。   ー日本に帰ってからの学校生活はどのようなものでしたか? 日本の勉強はもちろん、「人との調和を最重視する文化」に適応するのが大変でした。 英語の授業は得意だったので、率先して挙手していたら目立ちたがり屋だと思われてしまったことがありました。授業の受け方にも文化のちがいがあり、なかなか慣れませんでしたが、様々な経験を通して空気を読むようになりました。 食の研究を突き詰める高校時代 ーその後、高校に入って最初のターニングポイントが授業でのテーマ研究プログラムだと伺っていますが、詳しく教えてください。 「飽食と飢餓」をテーマに研究しました。 食への関心は小さな頃から強くて。8歳頃に死にかけるような大きな病気をし、2週間くらい何も食べることができなくなったことをきっかけに食への関心が高まり、研究テーマを「食」に絞りました。 調べると、飢餓やフードロスなど食にまつわる問題はたくさんありました。中でも自分の心に響いたのが飢餓問題でした。身近な飽食問題と、最も関心をもった飢餓問題について研究しようと思いました。 ー問題解決に向けて自分が無力だと感じたようですが、その理由は? 論文の最後に自分の考えやできることを書くのですが、解決策として書けたのが「寄付」と「人に知ってもらうこと」だけだったんです。 「どうにか現状を良くしたい」という思いがあるにも関わらず、現地に行って支援をするほどの勇気はありませんでした。自分にできることの小ささに悔しさを覚えました。 一方で、環境問題解決のためには「1人の100歩より100人の1歩」が大切だと言われていて。高校時代の自分にアドバイスしてあげられるのなら、身近な人に知ってもらい、行動の変化に繋がることで、社会の変化が生まれると伝えてあげたいです。 消費の中で気付くサスティナビリティの大切さ   ー大学生になってからは、人と物との関係性が薄れていると感じたようですが、そのように感じた経緯はなんでしょうか? 自分で使えるお金が増えれば増えるほど、「今捨ててもまた買えるから」と物を大切に扱わなくなっていたことに気付きました。 対して、祖母に作ってもらった巾着や自分好みのアイテムは当時も使い続けていて。そこで、人にもらったり、物と自分との間にストーリーがあったりする物は何年経っても自分を幸せにしてくれると気付いたんです。 ー物を消費することが当たり前になりすぎていて、違和感を感じない人も多いと思いますが、どのようなきっかけで違和感に気付けたのですか? 高校時代のテーマ研究をきっかけに、食だけでなく物の消費についても関心を持ち始めました。 その中で、日本は物に溢れており物質的に豊かであるにも関わらず、なぜ幸福度が低いと言われているのか疑問を持ったことがきっかけです。 ーその後、スウェーデンに留学されたようですが、行ってみてどのようなことを学びましたか? 自分の小さな行動や選択で社会は変わることを学びました。 サスティナビリティを学ぶ授業では、他の留学生の知識や行動力に圧倒されましたね。「自分たちの力で社会を変えるぞ」という熱量を強く感じ、刺激を受ける中で課外イベントやフードロス削減活動に参加し、気付けば考えを行動に移すようになっていました。 実際にスーパーに行って廃棄予定の食材を集める活動などを行ない、自分にも小さな変化を起こすことができることを学びました。 ー留学時、サスティナビリティと物作りの矛盾を感じたと伺っていますが、なぜでしょうか? サスティナビリティについて学ぶ中で、物を生み出すことはエネルギーや資源を使うため、生み出した時点で環境によいことがないと気付いたんです。 物を作ることと、環境へ配慮することを両立させるのは難しいと思い、初めて自分が発信していることと行なっていることの矛盾を感じました。 ーそれでも物作りを続けようと思った理由は? 大人なバナナプロジェクトの活動を通じて、様々な人に出会い、相談させてもらう中で、 「確かに何かを生み出すことは環境に負荷を与えてしまう。でも、作ったアクセサリーを通して、誰かが環境問題について知り、行動の変化に繋がるのならば、全体としてプラスの影響をもたらすことができるのではないか」と言われたことがあって。 その言葉に背中を押されました。 ーなるほど。プロジェクトでは「楽しく社会課題を解決する」のがコンセプトだと伺っていますが、最初から楽しく活動されていたのでしょうか? はい!ずっと楽しいですね! 互いの個性を掛け合わせることによって生まれた新しいアイデアを実行していくのは本当にワクワクします。 また、「サスティナビリティ」というキーワードを通して、様々な分野で活躍されている方々やサポートしてくださる皆様と繋がる楽しさも感じています。 ー活動を発信する中で心掛けていることはありますか? 私たちが今感じている楽しさをそのまま発信することですね。 フードロスや環境問題というと大きくて堅い印象を受けがちですが、ポジティブに解決出来る部分もあることを伝えたいです。 あとは、身近な提案も大切だと感じています。フードロス削減についても、茶色いバナナを買うことは明日からでもできることで、実現不可能な理想ではないと思うんです。身近な提案や等身大の部分を大切にしています。 ー最後に、今後の北川さんの展望とU-29世代へのメッセージをお聞かせください。 捨てられていたり、眠っていたりする素材を見つけ出し、omo comogomoのアクセサリーにアップサイクルしていきたいです。 何でも最初の一歩を踏み出すのは勇気がいることだと思いますが、自分の想いを誰かに話してみたり、明日の行動を少し変えてみたりするなど、小さな一歩を積み重ねることで、気付けば大きく前に進んでいるはずです! ー北川さん本日はありがとうございました!今後のさらなる活躍も期待しています! 取材者:吉永 里美(Twitter/note) 執筆者:五十嵐 美穂(Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

落語×教育の授業って?!人から愛される人を育て、人を笑わせる楽しさを伝える落語教育実践家 小幡七海さん

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第254回のゲストとして、落語教育実践家・小幡七海さんをお呼びしました。 「落語」と出会い、様々な体験を通じて自分が本当にやりたいことを導き出した小幡さん。落語の魅力はもちろんのこと、なぜ落語を通じた教育なのかという気になることについてもお伺いしていきました。   自分の好きなことと何かを繋げるのが好き!今の自分が作られた幼少期 ー落語と教育の掛け合わせものすごく面白いアイデアだと思いました。落語に親のない方も多いと思うのですが、小幡さんにとって落語とはどのようなものなのでしょうか。 NHKの番組「超入門!落語 THE MOVIE」では、「落語は想像の世界を楽しむエンターテイメント」と言われていました。皆さんご存知の通り、落語は視覚的にわかるものがないため耳で聞いた話を自分たちの頭の中で描きながら楽しんでいくのですが、それこそが魅力だと感じています!生で聞くと本当にその世界観に引きこまれていくんですよね。私もその一人でした。   ー今のお話をお伺いするだけでも落語を聞いてみたくなりました!そんな落語と小幡さんの出会いについてもお伺いしていきたいですが、幼少期のお話もぜひ聞かせてください。 生まれ育ったところが自然豊かな土地ということもあり、その草原を駆け回っていました!そういう幼少期に、自由奔放に育ててもらったというのも今の自分を作るのに欠かせない要素だったと思います。 あとは、自分の好きなことと何かを繋げるのが好きな子でしたね。具体的なエピソードとしては、小学校の時にクラスに自分が卒業した幼稚園の友達と、その前に通っていた幼稚園の友達がいて、自分が橋渡し役になってその友達同士をつなげたということがありました。母もそのエピソードを覚えていて「あの時は大活躍してたよ〜」と言ってくれたくらいで(笑)そのエピソードが今の自分にもすごく通ずる部分があると思っているんですよね。 ー元気いっぱいの小学生であったことが今のエピソードからもわかりました(笑)小さい頃からクラスの人気者だったんですね。中学生の頃に印象的なエピソードはありましたか? 中学生になっても、大好きな芸人「NON STYLE」のDVDを友達みんなに「みてみて!」と配り歩いていました。そもそもお笑いがとても好きで、中学生の時には相方を見つけて漫才をやったりしていました。ただ、母がお笑い嫌いだったんですが、それでも反対を押し切ってやっていましたね。自分がやっていたのは、漫才なのですがその時に、言葉で人を楽しませる魅力を感じたんです!思えばこれがのちの落語にも繋がっていると思います。   落語の全国大会優勝!その結果を今度は社会へ還元できるように ーここからは大学生のお話をお伺いしたいと思いますが、いよいよ人生のターニングポイントになる「落語」との出会いがあるんですよね。 高校生のエピソードにもあったように、私は当時お笑いが大好きで大学に入ってもお笑いサークルに入る予定だったんです。しかしいざ入学したら、大学にはお笑いサークルはなくて「落語研究会」しかなかったんです(笑)その落語研究会をたまたま覗きに行ったら、吉本に仮所属しているという先輩が落語をしている姿をみて、一気にファンになりました。 「お笑い」は皆さんにとって身近なものだと思うのですが、落語は違って結構難しいイメージを持ってる方も多いと思うんです。でも、全然そんなことなくて子どもでも楽しめるものもあって。こんな面白い世界あるのか…!と私も落語の世界に足を踏み入れました。   ー確かに、落語というとちょっと敷居が高いイメージがある方も多そうですよね。落語の世界に飛び込んだ小幡さんですが、そこで何か印象的なエピソードなどありますか? そんなこともあり、大学生の頃は落語を聞いてくれるおじいちゃんおばあちゃんと仲良くしている日々でした。落語を聞いてもらって、そのあと一緒にお茶を飲みながらそれぞれの人生ログを聞かせてくれるのですが、それはそれは面白くて!一人の人間の教科書を見せていただいている感覚でしたね。その時にふと「これ、教育にいいな」って思ったんです。様々な人の人生を知るということももちろんのこと、若者と高齢者が繋がる場が生まれることも社会的にとても意味があることだなと思って。 お話を聞いて印象的だったのは、昔から服を作る仕事をしていたおばあちゃんの話でした。昔広島で洋服店を家族で営んでいた時に、東京で服を売ってこいと言われてその距離を3日くらいかけて移動したらしんです。3日もかかるので宿泊が必要になるわけですが、そのおばあちゃんは必ず旅館に泊まって、そこに集まっている人にも服を売り捌いていたらしいんです。目的地に行くその道のりでさえ商売の機会にしてしまうと言う話がとっても面白いアイデアだなと思って、こう言う話は普段接している同世代からはなかなか聴けない話でとても意味があると思えたんです。   ーこれはとても素敵な気づきで今の小幡さんの活動にも繋がる出来事でしたね。大学生は落語漬けの毎日だったと思うのですが、その活動はどうでしたか? その通り、落語漬けの毎日を送っていて、結果としては21歳の時に300名くらいが参加する「全日本学生落語選手権」で優勝することができました。学生が行う落語は、自分とどう融合させて落語を披露するかが、どう個性を出すのかが大事な評価のポイントになります。 たまたまその大会の審査員で2年続けて私を決勝に進めてくれた方と後日お話する機会があってその時に「誰よりも楽しんでいた」というフィードバックをいただくことができて、それはものすごく嬉しかったですね。参加した自分としても、自分だけが楽しいだけではなくお客さんとの調和の上で落語を楽しめていた感覚があったので、そう言っていただけたのはとても嬉しいことでした。   ー勝負どころでは「楽しむ」ということより緊張が先行してしまう人が多いと思いますが、その中で楽しめたと言うのは本当に凄いことですね。全国優勝と言う結果でしたが、その後どんな変化が生まれましたか? そのまま落語の道に進むという選択肢もあったと思いますが、自分の中で子どもと関わる仕事に就きたいと言う気持ちにブレはありませんでした。 優勝後に様々な分野で結果を残してきた人が集まるイベントに招待されたのですが、そこで出会う人々はその優勝や一位といった結果を持って、社会で何か成果をあげよう、社会に何か貢献しようとしていることに気がついたんです。その時に私も「このままじゃいけない」と動かされたのが大きかったですね。 そこで思いついたのが、先ほどエピソードの中でもお話ししましたが若者と高齢者の繋がりだと感じたんです。ちょうど、大阪の小学校の先生をやっている方と知り合う機会があり、その先生にその話をしたところ「うちの小学校でやっている!子どもたちが老人ホームで落語を披露する活動をしているんです」と教えてくれました。話を聞いていくうちにこの活動自体の素晴らしさはもちろん、この活動が子どもたちに与える影響も大きいことがわかっていきました。落語を披露することで目の前にいるおじいちゃんおばあちゃんに喜んでもえるという経験を得た子どもたちは、それによって自信が生まれるんですよね。その成功体験を元に、色々なことに挑戦できるようになった子どもや勉強を頑張れるようになった子どもがいると言う話を伺って、これだと思いました。自分も落語を使って子どもたちに何か還元しようと言う決意に変わりました。   人生初の挫折から見えた、私がやりたい本当のこと ーその後、目指した小学校教諭になった小幡さんですが、ここで大きな挫折を味わったということでそのエピソードをお聞かせいただいてもいいでしょうか? 夢だった小学校の先生になったわけですが、それはそれは大変な日々でした。一週間30時間分の授業内容を作成、そしてそれ以外の業務をすることに追われすぎていて、「目の前の子どもを成長させたい」という想いに対しての考える時間が全くありませんでした。もう目の前にある仕事に必死なんです。一人が抱える仕事量があまりにも多いことから、涙が止まらなくなることもあって職員室ではよく泣いていた日々を1年間過ごしていました。結果的には、小学校の先生は一年で辞め、今の道に進むこととなりました。辛かった日々ですが、小学校の先生というお仕事は、約1年間子どもたちの成長を共に過ごせる他に変え難い素敵なお仕事であることを実感していました。 辞めることに対しては、母にすごく反対はされました(笑)でも、目の前を幸せにできないままお金をもらうことは絶対にできないと思ったんです。この経験があったからこそ、自分は誰かを幸せにすることで得られるお金で生きていきたいと思うようになりましたね。   ーそんな日々経て、小幡さんが次に選んだ道はどういうものだったんですか? 花まる学習会の社長と知人を通して出会う機会があったんです。そこで自分がやりたい「落語を通した教育を実践したい」という想いを話すと、たまたま社長も落語好きというのもあり「やってみよう!いいじゃん!」と言ってくれて一気に実現へと走り出すことになりました。なので今は、花まる学習会で教育の勉強をしつつも、落語教育を自分で進めています。 花まる学習会では、改めて子どもとの関わり方を学ばせていただいています。例えば「叱る」と「怒る」の違いについて学び自分が教師だった頃は生徒に怒るしかしていなかったと改めて反省する機会にもなりました。私たちは、子どもの成果だけではなくその頑張った過程も見てあげて、それに対して褒めてあげるということが重要なんですよね。   ーそのように今改めて学校教育を振り返る機会もあるかと思うのですが、客観的に見て思うことなどはありますか? 学校は行政のものなので閉ざされた世界であると改めて思いますね。なので、そこにいかに外部の人が入り込んでいくかというのが重要になってくると思います。やはり一番いいいなと思っているのは「様々な人に出会う」ということです。色々な過程があって今を生きている人たちから、その生き方を学んで人生の選択肢を増やすことがとても重要だと思います。これは、自分が落語を通しておじいちゃんおばあちゃんの人生ログを聞いていたあの経験からも言えることです。なので、学校はひらかれた存在であり様々な人が出会う場であることが望ましいのではと私は考えています。 私も実際に学校に呼ばれて落語を披露することがありますが、それだけではなく自分のキャリアについても話すようにしています。そうやって外部の人が教えてくれることは、先生たちの負担軽減にも繋がると思うんですよね。これも私の過去の経験からですね。 ーまさに小幡さんのこれまでの経験が今に生きている素晴らしいアクションだと思います!今日は貴重なお話をありがとうございました。 取材:増田稜(Twitter) 執筆:後藤田眞季 デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

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