「映画を通じて自分の人生をデザインできる人を輩出したい」喜多山玲が広める “映画教育” とは?

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第366回目となる今回は、「映画教育」を広めるべく活動されている喜多山玲さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 高校卒業後、海上自衛隊に入隊。その後某大阪の有名テーマパークに従業員として勤務。そして、1100万部ベストセラー編集長の下で編集者やプロデューサーとしての在り方・視点・スキルを勉強した後、その学びを生かし、初めての著書「自己分析より、映画観ろ。」を始め、作家・編集者として出版関係の仕事や編集者の養成。そして映画から学ぶ教育カリキュラム制作からその一歩手前にあたるオンラインイベント「自己分析より、映画観ろ。」などのコンテンツプロデュースを主に行い、現在に至ります。 「映画には才能と金が大量に注ぎ込まれている」という考えで、現在も年間500本以上の映画をご自身の血肉に変えている喜多山さん。そんな喜多山さんの今後の方針は「映画を通じて人生をデザインする意思を持つ映画ジャンキーを輩出すること」。なぜ「映画」なのか、そして何がきっかけでこの志が生まれたのか。喜多山さんの半生とともにその背景を紐解いていきます。 映画はまさに「写し鏡」のようなもの ーまずは簡単に自己紹介をお願いします! 初めまして!喜多山玲と申します。今は編集者兼作家として活動しつつ、映画を軸に毎週学びと交流をコンセプトにオンラインイベントを主催しています。 ー喜多山さんは「自己分析より、映画観ろ。」という書籍を出されていますよね。こちらなかなか尖ったタイトルだと思うのですが、この書籍を作るに至った背景や、この書籍で伝えたかったことを簡単に教えていただけますか? 周りからもよく「タイトルが尖ってる」と言われますね(笑) 僕は大学に行っていないのですが、一般的に大学受験や就活などをするにあたって、自己分析をするようにと学校の先生や教授がおっしゃるじゃないですか。でも感情は外部からの刺激で生まれるものなので、いくら自己分析ができても自分自身が分からないことも多々あると思うんです。 その上でなぜ映画がいいのかというと、映画にはストーリーがあり、そこで描かれている人生や哲学などを自分のものと照らし合わせられるからなんですね。このように、映画を観ることで結果的に自分の分析ができるんじゃないかと思ったので「自己分析より、映画観ろ。」というタイトルにしました。  ーなるほど!そういうことだったんですね! はい。また、映画って年齢やその時置かれている状況など「観る時に変わる」と言うじゃないですか。まさに「写し鏡」のようなものだと思っていて、それを書籍の表紙でも伝えています。デザインは、僕達が映写機を覗いていて、その後ろに光が出ているというものなんですけど、これには「映写機から投影されたものは映像じゃなくて自分自身を映している」という意味も込められています。 ーなんと…!表紙にはそんな意味が込められていたんですね! そうですね。大学生のデザイナーの子が僕達の意図をしっかり汲み取って表紙を作ってくれたので、本当に感謝しています。 ー今現在こういった編集以外にもイベントもされていることですが、どんなイベントをされているのですか? イベントは書籍のオンラインバージョンのような感じで、僕達が基本的に「課題映画」というものを毎週1本用意し、それを観た人達が集まりシェアし合うという会です。 また、僕は映画を選ぶ時にレビューを全く見ないです。その理由はレビューを見た後に映画を観てしまうと誰かの感性で観ている状態に陥ってしまい「自分の感想」というのが出てこなくなるからなんですよね。だから僕はあえてレビューを見ないようにしています。 もちろん中にはレビューを見てくる人もいますし、別にそれが悪いわけではないです。大事なのは、アウトプットをシェアし合うこと、そして「なるほど。そういう見方もできるのか」という具合で新たな発見や自分になかった視点を知るということです。やっぱりただ観て「面白かった」で終わるのはもったいないと思うので、毎週このイベントを開催していますね。 ー毎週されているんですね!このイベントを始めてどれくらいになりますか? 1年が経ちました! ー1年経ったということは、ちょうどコロナ禍になった頃からでしょうか? そうですね。コロナ禍では映画館に行きにくかったり、家にいることが多くなったりしたと思うんですけど、せっかく家にいるなら勉強しようよということで始めました。でも、勉強といって本を読んだり、1人で何かしたりすることは大変だと思ったので、週に1回課題映画を観てみんなで感想をシェアしようという考えに至りました。あとはそういう場を作りたかったというのはあります。 ーなるほど!毎週の課題映画は喜多山さんが選ばれているのですか? はい。僕が全部独断と偏見で選んでいます(笑) ーとなると、年間でかなりの映画を観ることになりませんか? そうなりますね(笑) 別に僕の中では「頑張ってる」という感じではないんですけど、昨年は毎日2~3本くらい、年間だと大体500本以上、多くて730本くらいは観ていましたね。 「孤独」への耐性がついた幼少期 ー最初に人生の転機となるのは小学生の時とのことですが、当時いじめを受けていらっしゃったとか…? そうですね。一般的ないじめという感じでした。理由は分からないんですけど、登校班の人が誰ひとり一緒に行ってくれなかったんですよ。でも学校に遊ぶ友達はいましたし、遠い地区の子と一緒にサッカーをしたり遊んだりしていました。なぜか登校班の子達だけは遊んでくれなかったですね。 他にも、僕が2年生の時に当時6年生だった人達が、僕にだけ集合場所を伝えず違う場所に集まり、抜け道から学校に登校するというのが起こるようになり、それがいつしか当たり前になっていました。 ーそうだったんですね…。当時のそんな状況を喜多山さんはどんな風に感じてらっしゃったのですか? 「別に学校は1人で行けるし、学校に行けば他に友達はいるし」という風に思っていたので、そんな深くは考えていなかったです。また、その登校班の子達が好きだったわけでもなく、学校で話すこともなかったので「この人達は自分の人生には関係のない人達だな」と思っていました(笑) あとは孤独に慣れていたのもあってそんなに気にならなかったですね。 ーすごく強いですね(笑) 孤独に慣れていたというのはどういうことでしょう? 当時はまだ一人っ子だったというのもあって、家にいてもひいじいちゃんぐらいしか構ってくれなかったんですよ。だから遊ぶとなると、ひいじいちゃんと一緒に遊ぶか、1人で壁当てをするという感じだったので昔から1人でいることには慣れていました。 ーなるほど。このいじめはいつまで続いたのですか? 中学校に入るまでです。親の関係の地区だけ変わったのですが、地区が変わっても同じことをされましたね。でももうそういう人達なんだなと思いました(笑) また、中学校に上がれば一緒にサッカーをしていた違う小学校の子達とも一緒になれると分かっていましたし、普段からその子達と喋っていたので全然苦ではなかったですね。 ーご自身としてはいじめが始まった当初からその状況を受け止めてらっしゃったんですね。そしてなぜこの経験が喜多山さんの人生の転機になったのでしょうか? いじめがあったからこそ「見返してやる」という気持ちが芽生えたのもそうですし、「群れないこと」への抵抗もなくなったのかなと思っています。 社会に出てもやっぱり孤独でいることはすごく難しいと思うんですね。一般企業から抜け出せないという方や、フリーランスになったり、1人で事業を起こしたりするときも、孤独に耐えられずに結局一般企業に戻るという方も多いなと。そういう意味でも、この経験があったから「孤独」への抵抗がなくなったのかなと考えています。 激動の高校生活。働き詰めの日々 ー高校時代は学校に通うだけではなく、アルバイトを始められたとのことですが? はい、高校1年生からやっていました。その時はバイトだけじゃなくて部活もしていたのですが、やっぱりバイトをしていたらダメだということで顧問ともめて、結局バイトを優先して部活を辞めることにしました。 そんな中ある日突然、水道周りの工事を個人でしていた父親から「ちょっとお前仕事来いや」と言われたのをきっかけにその仕事を手伝うようになりました。最初は週1でやっていたのですが、長期休みはほぼ毎日駆り出されていましたね(笑) 父親の仕事に加えて夜は焼き肉屋のバイトをしていたので、高校生の頃は学校で寝て夜の仕事に備えてたという変な学生でした(笑) 3年間ずっと同じところで働いていて、休む暇は全然なかったです。 ーすごく大変ですね…。ちなみにアルバイトは焼肉屋さんのどんなところを担当されていたのですか? 最初はキッチンをやっていたのですが、本当に何もできなくて 0 (ゼロ) と呼ばれていました。でもある日、ホールの手が全然足りず「ホールをやってくれ」と言われたのでやってみたんですよ。そうしたら、お客様とコミュニケーションを取るのがすごく楽しくて、気づけば「もうお前1人でホールできるよな」と言われるくらいになっていました(笑) そのおかげで、キッチンでの扱いもそれまでとは違うようになったんです。まさに0が愛嬌になって。そこから可愛がられるようになりましたね。 ーそうなんですね…!3年間続けられた要因は何だと思いますか?また、ホールとしての才能が開花するまで、0と呼ばれながらも諦めずに続けられた理由には何があるのでしょうか? 家にいたくないというのが結構大きかったですね。家にいても話すことがなく、学校から帰ったらすぐに家を出てバイトをするという生活でしたし。また、焼肉屋が「第2の家」という感じだったので、そこにいる時の方が居心地が良かったというのはあると思います。 そして、諦めなかったのは「好きだったから」だと思います。どれだけ言われても話を聞いているだけで面白かったですし、辞めても何もすることがないと思ったので「ここしかない」と腹をくくっていました。 あとは「途中で投げ出すのは嫌」「自分で決めたことは最後までそれをやり遂げる」という考えがあったからかもしれないです。 ーやはり振り返ってみると、この経験は人生の1つの転機だと思いますか? そうですね。「あの時はすごく頑張っていたな」とも思いますし「あの仕事はもう絶対にしたくない」という気持ちも強いので、いろんな意味で今の自分の礎になっている経験かもしれないです 。あとは人とコミュニケーションを取ることや、誰かを喜ばせたり楽しませたりすることが好きなんだと気づかせてくれた経験でもありますね。 ーちなみにこの時期はまだ「映画」というワードが出てきていないと思うのですが、当時将来の夢はありましたか? テレビを観る時間すらなかったので、映画にはほとんど触れていなかったです(笑)  また当時は、パフォーミングやテーマパーク自体がすごく好きだったので、テーマパークで働きたいなと思っていました。ぼんやりはしていましたが、誰かを喜ばせたり楽しませたりする仕事ができたらなと。それこそ、これはホールをし始めてから感じるようになった気がします。 海上自衛隊に入隊。MLMきっかけで知った未知の世界 ーテーマパークを目指していた少年が、これまたなぜ海上自衛隊に入ったのでしょうか? エスカレーター式で大学に通える高校に通っていたのですが、家族に「高校を卒業したら家にいるな」と言われたんですよ(笑) それで寮に住むか一人暮らしをするか考えてみたものの、どちらもちょっと難しいなと思って。 でもちょうどその頃、学校で就職希望者対象の説明会があり、その中に海上自衛隊もあったんですよ。そこで「面白そうやな」と思って興味を持ちました。しかも当時は海猿が盛り上がってた時期でもあったので「なんかいいやん」と感じて海上自衛隊に行きました(笑) ーそんな経緯があったんですね。海上自衛隊はどれくらいの期間勤めていらっしゃったのですか?また、入ってみて感じたギャップはありましたか? 勤めていたのは3年ですね。周りからは「自衛隊ってすごくしんどそう」と言われるのですが、実際入ってみて過ごしていくうちに「自分の高校時代の方がしんどかったな」と思ったので全然苦じゃなかったですね(笑)  高校時代は焼き肉のバイトが終わってからは3時間しか寝れなくて、高校に行って1時間目から6時間目まで寝るという生活だった一方、自衛隊は22時就寝、6時起床だったので「8時間寝られるやん(笑)」と思って(笑) そう考えるとやっぱり高校時代の方がしんどかったですね。 ー確かにそうですね(笑) この3年間という期間を経て、退職のきっかけになったのは何だったのですか? 最初から「3年」と決めていたんですよね。自衛隊の任期は、3年・5年・7年という風にあったので、最初の1任期である3年を区切りにしようと考えていました。 またその頃に、高校の時に部活でお世話になった先輩がネットワークビジネスを始めていたんですね。その先輩はリムジンに乗ってすごくお洒落なことをやってる感じだったので「面白そうやな」と思い、話を聞きに行ったことがきっかけです。 そして実際に話を聞いてみると、ネットワークビジネスがどうこうというよりかは、自分の知らない生き方をしている人がたくさんいることにすごく魅力を感じました。それまでは「自衛隊や一般企業に勤めなきゃいけない」という風な固定概念が強かったのですが、そうじゃなくていいんだと思って。「もっと自分で稼いでいける力を身につければ、ここじゃなくていいんだ」というのを思いましたね。それが自衛隊の退職に繋がったかなり大きな理由でした。 ー辞める時は次にすることを決めていらっしゃったのでしょうか?ちなみにまだ「映画」の話は出てきていないですよね。 いえ、全然決めていなかったですね(笑) 特に「これになりたい」というのもなかったです。 自衛隊はいろんな勤務地に行くのですが、そこで何もすることがなかったときに「せっかくだし割引で映画館に行こうかな」という感じで映画を観ることはありました。 ーなるほど!海上自衛隊を辞めた後はどんなことをされたのでしょうか? ドコモショップの営業ポジションにつきました。ショップ店員ではなくショップが依頼するセールスマンのような感じで、営業をかけたり家のネットや機種変更、タブレットやその他機器などの契約を取ったりしていました。でも、それが結構きつくて「営業向いてないなあ」と思いましたね。 ーそもそも営業自体が初挑戦の職種ですよね?どんなきっかけで始められて、どんなところがきついなと感じられたのですか? そうですね、初めてです(笑) ネットワークビジネスの知人から「一緒にやらないか」と声をかけられて始めたのがきっかけです。 一般的には1週間程度で終わる研修期間があるんですけど、僕の場合はそれに2ヶ月くらいかかってしまったので申し訳なくなったんですよね…。それに「演じる」「売る」ことに対しての罪悪感が重くのしかかって精神的にきつくなり、行くのも憂鬱になるほどになってしまいました。やっぱり焼肉屋さんでお肉をおすすめすることとは全然違った感覚でしたね。何というか、すごく悲しくなりました。 ーそうだったんですね…。それでもなぜ辞めずに続けられたのでしょうか? 紹介してくれた先輩や、かわいがってくれた人の存在が大きいですね。あとは契約件数が取れなくても、僕と喋るのが楽しいと言ってくれる店長さんがいたり、そのお店自体が楽しい場所だったりしたのも頑張れた背景にあったんだと思います。 人生を変えた恩師との出会い ードコモショップを辞められて、その次はどんな転機があったのですか? いわゆる「恩師」との出会いですね。「その人がいなかったら僕は今こうなってなかった」と思うほどの人です。 それこそ、営業でうまくいっていなくてどうしようと悩んでた時に知人に紹介してもらった人なんです。その人は元々営業もされていて、ある編集部の編集長アシスタントもされていました。 まだ営業の仕事を辞めていなくて「今後どうしようかな」と悩んでいた時に「別に辞めても、外で結果を出しちゃえばいいよ。結果を出せば誰も文句を言えないし」という言葉をもらったことで、プレッシャーやしがらみから解放されて、肩の荷が下りた気がしました。 ーその言葉を聞いた後、喜多山さん自身にどんな影響が出たのでしょう? それまでは「結果を出せなかったら次はない」というような考え方をしていて、「他のところに行って結果を出す」ということは考えてもみなかったので、視点が大きく変わりましたね。 ーなるほど…!そして次に挑戦されたのはどんなことですか? 実は営業だったんですよ(笑) でも携帯ショップではなく、ネットワークビジネスで結果が出ていない人やうまくいってない人、人生を変えたい人に対して、先ほど少しお話した編集長のコンテンツを借りながら営業をしていました。ちなみに営業の仕方は恩師が教えてくれました。 ー同じ営業でも結果が全然違ったと思うのですが、具体的にどんな違いがありましたか? 営業の基礎を身につけていなかったのが大きいですね。「ただ単に自分が演じて売るのではなく、しっかり相手に寄り添い、相手の悩みに対しての提案ができていない」ということを恩師に教えてもらいました。そんな風に営業を1から10まできちんと教えてもらったことで「営業ってこんなに面白いのか!」とも思えるようになりました。 そして、実際にやり方を変えてみて届けたかった価値を提供できた時に、クライアントが泣いて喜んでくれたり「ありがとう」と言ってくれたりすると、やっぱり「紹介して良かったな」とすごく満足できました。 ー高校の頃の夢だったテーマパークで働くというのはその流れでしょうか? そうですね、その後です。営業でコンスタントに結果が出せるようになってきたので、改めて自分がやりたかったことに挑戦してみたいなと思い、テーマパークに行こうと考えました。 映画との出会い。そして初めての書籍出版 ーここまで様々な経験を経てきた喜多山さんですが、映画を題材にお仕事を始められたのはいつ頃ですか? 結構営業と同時並行でしたね。恩師がアシスタントをしていた編集長とも繋がっていたのですが、その編集長の方の影響をかなり受けました。実際にその人経由で、人材育成家として有名な加藤秀視 (かとうしゅうし) さんや、放送作家として「奇跡体験!アンビリバボー」や「SMAP×SMAP」など数々のヒット番組を手がけてきた安達元一 (あだちもといち) さんとご飯に行ったり一緒に話したりしました。そしてその方々と話しているうちに「映画って才能とお金を大量に費やしているから超やばいよ」というのをたくさん聞いたんです。 それを聞いたときに「おお!すごいな…!」と思い、この人達は「映画」というものをそういう視点で捉えているのを初めて知ったんですね。だから僕みたいな若い世代が「映画」を噛み砕いて、もっと若い世代の人達に高度に伝えなきゃいけないという意識が芽生えました。 加えて、映画の話って共通点にもなるので営業の入りとしてもすごくいいんですよ。やっぱり「映画という身近にあるもので、そこで描かれている視点や価値観、考えなどを僕が代弁していけたらな」というのが活動の根本的なとこにありますね。  ーなるほど!そうだったんですね…! そうなんですよ。また、勉強していくうちに脳科学に行き着いたのですが、その脳科学界のトップにいると言える苫米地英人 (とまべちひでと) さんや、現在苫米地さんと一緒に仕事をされていて「コーチング」という言葉を作ったルー・タイスさんも結局映画や音楽を身近に取り入れているんです。 そう思うと改めて映画や音楽のすごさを感じますし、そのすごさを若い人達に伝えていけたらなと思って「自己分析より、映画観ろ。」という書籍や、映画から人生や哲学などを学ぶという取り組みに繋がりました。 また、これまでの取り組みをまとめて「映画教育」として広めていくことが今後の展望です。コンテンツを作り、学校や企業などに伝えていくことで、映画からの学びを身近なものに取り入れられるようにしていきたいと思っています。 ー映画のすごさを伝える手段はたくさんあったと思うのですが、なぜ「本」を選ばれたのでしょうか? 本って業界の上にいる人のように、ある程度リテラシーがないと読まないと思うんですよね。そういう人達への訴求方法として本が身近にあったというのがあります。実際にその本を出版してみて、TikTokで50万人というフォロワーがいる方に手に取ってもらうこともありました。 そういう人達に対して「映画教育というものを広める活動をしている若者がいる」ということを見せられますし、若い人達に対しても「作家」という方がより影響を与えられるんじゃないかと思ったので「本」を伝える手段に選びました。 ー喜多山さん自身、どんな想いがあってこの本を無料で配布されたのですか? 映画教育をできるだけ多くの人に広めたかったというのがありますね。 映画の感想をただシェアするだけじゃなくて、もっと映画の奥深さに注目してほしいなと思っていて。 映画というものは「多様性」をテーマにしているのが多いんです。だからこそ映画を通して人種差別や LGBTなどの当事者に対しての教養やリテラシーを身につけていけたらなと思っています。またトピックによっては日本にいて身近に感じられないものもあるので、そういう意味でも僕は洋画をすごく推していますね。 こんな風に映画教育をできるだけ身近なものにしたくて、若い人達でも手に取りやすいにように「無料」にしました。 ー実際に出版されてみて反響はありましたか? 結構ありましたね(笑) 思ったよりすごくて(笑) 小ジャンル4冠とAmazonだと総合ランキングの2位まで上がりました。それを見てやっぱり無料にすることでより多くの人に届けられたんだと思いましたね。 あと今回出版したことで気づいたこと2つがあって。1つ目が本の出版はオンラインで集まらなくてもオンラインで完結するということです。やっぱり本を作るときって、オフラインで集まって打ち合わせしてってなると思うのですが、別にそうじゃなくて出来るんだよというのを実証できたと思います。 そして2つ目が、「自分の得意不得意を見極め、チームで協力して1つのものを作り上げる経験」を若い人達にしてもらいたいなということです。僕は別に本を出すことが得意でも、本を書くことが得意でも、技術的なプログラム的なことが得意でもないです。だけど、自分の得意なところは自分がして、できないところは他の人に任せて今回の本を出版しました。例えば僕は表紙デザインができないので、冒頭で話した大学生のデザイナーの子にすごく助けてもらいました。 若い人達って「全部自分がやらないといけない」と考えている人が多いと思うのですが、そうじゃなくてもいいんだよって。自分の得意不得意、できるできないを見極めて、チームで協力することが大事だと思います。このことも若い人達にどんどん伝えていきたいですね。 ーこれまでたくさんのお仕事をされてきた中で、出版やプロデューサーという立場は初めてだと思うのですが、今のお仕事は楽しいですか? 楽しいですね!例えば、本を出したいと思っている作家さんがいて、その人達が表紙1つでどれにしようかなと悩んでいる姿を見るとこっちまでわくわくしますね。あとは文章でも同じようなことがあるんですけど、そのときも一緒に悩んだり「こっちの方が良いと思いますよ」という具合でアドバイスをしたりしています。 そんな風に「クライアントさんとわくわくを共有できる」「誰かと何かを作っていく」というのがとても楽しいです。 映画は人生のバイブル。作品を通じて人生を描く ーこれまでたくさんの映画を見てこられたと思うのですが、そんな喜多山さんが「何度も見返す映画」は何でしょうか? これは1つしかないですね(笑) それは、「イージー★ライダー」というカウンターカルチャー (対抗文化; サブカルチャーの一部) 時代の作品です。その1970年代はちょうどベトナム戦争があった時代で、しかもテレビが普及し始めて戦争をテレビで見れるようになった時代でもあります。 そんな当時、戦争を見た若者が「なんでこんなことしなきゃいけないんだよ」「そんなこと別にやりたくないし」というような反骨心で旅に出て、ルート66号線をバイクで走るというのが結構流行っていたんですよ。そんな時代を描いたロードムービーの中の1つがこの「イージー★ライダー」という作品です。 そして、この作品で描かれてるのが「自由とは何か」という大事なテーマなんです。「自由になりたい」「好きなことで稼ぎたい」と言っている若者が多いと思うのですが、「じゃあ結局その自由って何なの?」という話で。例えば、自由にしていいと言われても何をしたらいいか分からなかったり、自由になりたいと言っているのに自由な人を見るのが怖かったり。そんな「自由を問うのは簡単だけど、自由になるのが難しい」ということが描かれています。 さっきお伝えしたそうそうたる方々も、自由を目指して個人で活躍されているんですけど「自由になりたいわけではない」というのをおっしゃっているんです。結構そこがポイントだと思うんですよね。本当に自由になりたいのか、それとも自由ではなく他にしたいことがあるのか、という。 まとめると「何をしたいというよりかはどう生きていきたいか」「どんな人に影響を与えていきたいか」ということを考えさせられるような作品ですね。完全に僕のバイブルになっています。 ーそうだったんですね…!ちなみにこの「イージー★ライダー」という作品はいつ初めて観られたのですか?また当時はどんな心理状態だったのでしょう? ちょうど営業をし始めたくらいですね。当時「自由って何だろう」と考えていて。やっぱり人と出会う時に、みんな自由になりたいと言ってビジネスを始めるのですが、結局うまくいかない人は「自由」がそもそも分かっていないんですよ。 既存の価値観に支配されていて、本当に自分自身で価値があるものを分かっていない状態なので、結局目の前にニンジンをぶら下げられて走っている馬と同じなんですよね。そうではなく、本当に自分自身で価値あるものを見出すというのが大事だと思います。 あと思うのが、皆さん自身にとっての好きな作品を見つけてほしいということです。僕は結構この「イージー★ライダー」をおすすめするのですが、もちろん苦手な人もいるんですよ。問いを突き付けられているような感じがあったり、ただバイクで走っていくという映像だったりするので。だから、おすすめされたものが絶対だと思わずに、自分自身に合ったものを見つけてほしいなと思います。 ー最後に、喜多山さんが今後やりたいことや周りの方々に届けていきたいと思っていることなどがありましたら教えてください! やっぱり「感動体験の多い人生」にしたいですね。感動体験って自分の感性によるとは思うのですが、日常生活にたくさん溢れていると思うんです。例えば、親御さんが幼稚園で組体操をしている我が子を見て感動するみたいな。そういう小さなことでもいいので、皆さんにも日常に転がっている感動をたくさん見つけてもらいたいです。 そしてその手段の1つとして「映画」を取り入れてもらえたらなと。映画を通じて、人生の礎やスタンス、価値基準などを形成し、自分の人生をどう切り拓いていくのかを考え、主人公視点というよりかは監督やプロデューサー視点で自分の人生をデザインできる人を輩出したいと思っています。著書では「映画ジャンキー」と言っているのですが、この映画ジャンキーをもっと増やしていけたらなと考えています。 ー喜多山さん、本日は素晴らしいお話をありがとうございました!今後の更なるご活躍を楽しみにしています! 取材者:あおきくみこ(Twitter/note) 執筆者:庄司友里(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

フィットネスとコーチングで人の可能性を爆発させる!GOAL-B代表の中川晃雄の理念

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第306回目となる今回は、フィットネスとコーチングをかけ合わせた独自サービスを展開する株式会社GOAL-B代表の中川晃雄さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 子供時代は内向的だったという中川さんですが、現在はYouTuberとしてチャンネル登録者数12万人を越えるほど多くの人に影響を与える存在となっています。中川さんを変えたものとは一体何なのか?人生のターニングポイントを探っていきます。 世界一周を経て得た何でもできるという自信 ーまずは現在の中川さんの活動をお教え頂いけますか? 現在は自らが立ち上げた株式会社GOAL-Bの代表取締役として、フィットネスとコーチングの事業を推進しています。 会社を立ち上げたのは、一会社員として企業に勤めていた時です。学生時代からブログでアフィリエイト収入を得るようになり、会社員になってからもYouTuberをやりながらコーチングやフィットネスサービスを副業として行っていたんです。 2020年の4月に会社を辞めて、GOAL-Bの経営に専念するようになりました。 ーとても活動的な印象を受けるのですが、幼少期のころから経営やフィットネスに興味があったのでしょうか? 全くそんなことは無いんです。僕は、大学に入る以前の自分の生き方を僕はある一定の時期までめちゃくちゃ後悔していました。 変わるきっかけとなったのは大学受験の失敗でしょう。試験に落ちた頃、たまたま銀杏BOYZというバンドの「童貞ソー・ヤング 」という曲を聴いたんです。青春時代の素晴らしさを謳ったその曲を聞いたとき、自分はなぜ全力で生きてこなかったのかと激しく後悔しました。恋愛も勉強も部活でやっていたサッカーも全力を出していなかった。たった一度しかない青春なのになぜ適当に生きていたのかと。 それまでのミスをこれからの生き方で取り返そうと決意したんです。浪人中は、勉強の傍らひたすら本を読んで知識を身に着け、パワーを蓄えていました。 ー大学に入ってからはどのような経験をされたのでしょうか? 主にエネルギーを爆発させたのは旅ですね。 大学1年生の時、バックパッカーとなりインドへ廻ったのが最初です。日本では見ることのないような様々な人の生き方を目の当たりにしました。一生路上でバナナを売る人もいるし、何もしないで生きる人だっている。どんな風に生きてもいいんだと気付かされましたね。 その後は休学をして、所持金0円スタートのヒッチハイクで日本を一周し、アメリカを横断し、ユーラシアを横断し、アフリカを縦断してキリマンジャロへ登りました。 僕にとって旅とは成功体験の積み重ねです。見たことのないものを見て、食べたことのないものを食べ、触れたことの無いものに触れる。そんな小さな成功体験を積み重ねることで、自分は何でもできるんだという根拠の無い自信を身に着けることが出来たんです。 筋トレとの出会いが副業のきっかけに ー旅というよりは冒険のようですね。筋トレを始められたのもその頃からですか? 筋トレを始めたのは世界一周の旅を終えて帰国してからですね。当時の自分の体は今とは比べものにならないくらい細かったんです。中学生の頃にダンベルを買ってトレーニングをしてみた時期もあるのですが、なかなか筋肉がつかなくて諦めていました。 ところが旅から戻って、久しぶりに家に帰ってみると弟がマッチョになっていたんです。弟には負けられないと思って、本気になってトレーニングに取り組んだところで、2か月で8キロほど体重が増え、体は目に見えて変わりました。 「やれば変わるんだ。短期間でも必ず成果が出る。これが筋トレなんだ!」と感動しました。 やれば100%変われることなんて、筋トレ以外この世界に存在しません。これほど確実に自分をレベルアップさせる手段はないと、どんどんのめり込んで行きました。 旅に出たころからブログ「AKIOBLOG」を初めていたのですが、その内容も次第に筋トレを良さを伝えるものへと変わっていきましたね。プロテインやサプリメントを紹介することで、アフィリエイト収入も得られるようになりました。 ー筋トレをきっかけにして、ビジネスを学んでいったんですね。卒業後のキャリアを当時はどのように描いていたのでしょうか? 当時は特に何がやりたいという夢を持っていたわけではないんです。ただ大学院へ行くよりも実際に働きながら何かに挑戦した方が自分の成長につながるだろうという直感がありました。 試しに2社の採用試験を受けたところ、そのうちの一方のリクルートから内定を得ることができ、営業マンとして働き始めたんです。 ー就職された後も、YouTuberを始めるなどパラレルキャリアを歩まれてきたのには、どんな想いがあったのでしょうか? 就職したは良いものの、周りの先輩たちの中で惹かれるようなキャリアを歩んでいる人に出会うことができなかったんです。このまま会社の人と同じことをしていたら、学生時代に想い描いたすごい人物にはなれないと危機感を持ちました。 そこで、とりあえず学生時代から続けてきたブログで月100万円稼げるようになろうと考えたんです。結果的により一層筋トレに集中するようになりましたね。 毎朝5時には起きて出社までにブログを書きました。会社から帰ったら必ずジムへ行って筋トレをします。 ーそうしたことを毎日積み重ねることは簡単ではないと思います。モチベーションは何だったのでしょうか? やはり根源的な部分には青春時代の後悔があります。人生は一回しかないという危機感がすべての原動力でしょう。自分が何をしたいのか真剣に考え行動することが大事です。筋トレもブログも、中長期的に見て必ず自分の人生に利益をもたらすものだという直感がありました。 自分がやりたいことに真摯に向き合うことは確かに簡単ではありません。私の場合、コーチングに出会えたことで、そのための集中力を養うことが出来ました。 筋トレ×コーチングは最強の組み合わせ ーコーチングに出会ったきっかけは何だったんでしょうか? もともとは、人が変わる手助けをしたいと思うようになったことが始まりです。 ブログをやっていると「AKIOBLOGを見て僕も筋トレを始めました。おかげで変われました!」というコメントをよくもらうんです。そこにやりがいを感じて、もっと直接的なサポートをしたいと思うようになりました。 オンラインでトレーニングと食事の指導・管理をサポートするサービスを始めたところ、かなりの反響があったんです。トレーナーの資格も取得してパーソナルトレーニングのサービスも展開するようになったのですが、人生を変えたいと願う人をサポートするとき、体を変えてあげることだけでは一定のレベルにしか到達できないことを痛感したんです。 筋トレだけでは足りないものを補うものは何か。そんなことを考えているときに、会社の同僚からコーチングのことを教わりました。「これだ」と思いましたね。人生を変えるためにランクアップする鍵は筋トレとコーチングの組み合わせだと直感したんです。 すぐにコーチングを受けるようになり、自らコーチとなるための勉強を始めたんです。 ーYouTubeでもコーチングの素晴らしさを説かれていますよね。 ブログの収入が伸び悩んでいて何か方策は無いかと考えていたときに『 動画2.0 VISUAL STORYTELLING』(著:明石ガクト/NewsPicks Book)という本を読んだんです。 テキストの時代が終わり、動画の時代が来るというメッセージに感銘を受け、翌日すぐにヨドバシカメラへ行き、カメラを買ってYouTubeを始めました。 ただ、筋トレの動画をアップしているYouTuberはとても多くて、当初はなかなか差別化を図れなかったんです。YouTuberとして本格的にやっていくために会社を辞めようかとも考えたのですが、僕のパーソナルトレーニングを受けてくれていたある人の一言で踏みとどまりました。 その人は「あなたがただの筋トレYouTuberになっても意味はない。会社員として働きながら副業をやり、筋トレにも全力投球していることこそがあなたの強みなんだ」と言うんです。 自分の競合優位性がどこにあるのか、はっと気づかされました。 それからは、当時まだ流行ってもいなかったルーチン動画で僕のありのままの生活を公開していきました。「筋トレ大好きサラリーマンの一週間」などと題した動画が何百万回も再生され、登録者数は一気に数万人単位になったんです。 YouTuberとして認知されたことで集客ができるようになりました。当時既に友人を誘って、パーソナルトレーニングなどを分業していたのですが、会社にした方がやる気も高まると考えてGOAL-Bを起業したんです。 ー2020年の4月には会社を辞めて、GOAL-Bの経営に集中されるようになったんですよね?GOAL-Bを通して実現したいことはどのようなことでしょうか? 創業時、僕はGOAL-Bの経営理念として「すべての人に可能性がある」という標語を掲げました。 人は可能性の塊なんです。やればなんだってできる。フィットネスやコーチングを通して人の可能性を爆発させることで、圧倒的な現実をつくることがGOAL-Bの事業なんです。 行く行くはGOAL-Bを、個人だけでなく世界に影響を与えるような会社にしたいですね。僕自身がそうだったように、会社に頼らず個人でも生きられる時代になりました。そんな時代にあって、GOAL-Bという組織に所属する意義を社員と一緒に追求しくつもりです。 ー本日はありがとうございました!中川さんのさらなる挑戦を応援しています! 取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:海崎泰宏 デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

銭湯アイドル兼漫画家の湯島ちょこが語る、銭湯の魅力とは?

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第321回目となる今回は、銭湯アイドル兼漫画家としてより多くの人にとって銭湯が身近な存在になるように活動されている湯島ちょこさんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 小学生のころは陸上部で活動しており運動神経が抜群。加えて数多くの習い事をこなすというタフな生活を送ります。中学生のころには友人と交換漫画を始め、高校に上がってからは弓道にも打ち込む日々。高校卒業後は「漫画やイラストを描く学校に行きたい」と思い専門学校への進学を決意。そんな中、大切な友人を東日本大震災で失い、絶望しているところで偶然にも銭湯と出会います。そして専門学校に進学。在学中から漫画家のアシスタントやPR漫画の仕事をしています。また、「絶望の淵にいた自分を救ってくれた銭湯を守りたい」という想いから、銭湯を知ってもらうために銭湯アイドルの活動を始めたり、実際に銭湯の運営をしたりして現在に至ります。 幼いころから目まぐるしい日々を送っていた湯島さん。そんな湯島さんにとって人生の大きな転機かつ救いの手になったのが「銭湯」との出会いでした。その銭湯をもっと世に広め、守っていきたいとの想いで現在銭湯アイドル兼漫画家として活動する湯島さんが語る「銭湯の魅力」とは一体何なのでしょうか?   銭湯アイドル兼漫画家という仕事 ー本日はよろしくお願いします!現在のお仕事やこれまでの活動について教えてください。 漫画家銭湯アイドルとして全国の銭湯を回りつつ、銭湯やサウナ、温泉の紹介、そして銭湯絵師として全国の銭湯に絵がないところに銭湯絵を描くという活動しています。よろしくお願いします。 ー僕らがよく見かける、あの大きな富士山も描いているのですか? そうですね!あの絵も書いているのですが、あれは基本的に関東の文化なので関東から外れるとあまりなくなるんですよ。だから大阪に行って銭湯に入ると無いこともありますし、その富士山の絵が無い地域の人に「銭湯って富士あるよね」と言っても、やはりアニメやドラマのイメージが強いんです。 ーえ!そうなんですね!そうすると絵がないところはただのタイルが貼ってあるだけですか? ただのタイルが貼ってあるだけであったり、富士山っぽいもののタイル絵があったりです。大阪のように関西の方は結構タイル絵文化だったりするのでタイル絵で富士山が楽しめはするものの、私はペンキのあの感じが好きですね。 やっぱり今まで自分が好きだなと思ってきた銭湯の壁の絵がなくなるのは嫌だという思いもあって、関東以外の銭湯に入った時でもあの風景が見れるように銭湯絵の活動もしています 。   陸上、水泳、習い事。目まぐるしい幼少期 ー幼少期はどんな風に過ごされていたのでしょうか?得意不得意や好き嫌いなど記憶に残っていることはありますか? 小学生の時は、基本的に運動と物を作るのがすごく好きで、それ以外の教科はだいたい駄目でした(笑)。 教室で授業を受けるというのが本当に苦痛で。だからもう休み時間になるとだいたい飼育小屋に行って動物に触れて癒されていました。何にそんな精神をすり減らしていたのか、そこまで苦痛だったのかなと思うのですが、本当に嫌で。その一方で運動はすごく好きで得意でした。 ーその頃の運動はクラブに入ってしていたのですか? 小学生の時から部活があって、陸上部に入って長距離の選手をやっていました。 ー一般的には中学生ぐらいから部活が始まるイメージですけど小学生の頃からあったんですね!中高の部活のような感じだったのでしょうか? そうですね。珍しかったような気がします。部員もそこそこいて、練習は朝の時間帯にあって夕方にはなかったです。だから朝礼始まる時にはもう汗を流した後でしたね。今思えばよく行っていましたよね。朝起きて走って授業を受けるなんてすごいです(笑)。 ー他に水泳もやられていたとか…?体力が物凄くあるイメージですが、ご家族の中に運動神経良かった人っていらっしゃるのですか? はい。水泳部も結構な距離を泳いでいて。たぶん800mですかね。全然選手が出てこないような長い距離を泳ぐのが得意でしたね。 タフさしか自分にはないんじゃないかと思うぐらい当時体力がありましたね。小学生の頃はたぶん周りの男の子より足が速かったです。だから化け物って言われるほどで、ドーピングしてんじゃないのかとも言われましたね(笑)。 父方の祖父が運動神経が良かったらしく、その遺伝の可能性はあります。ただ、このタフさにはもう1つ理由があると思っていて。幼稚園生の時に弟が生まれたのですが、これまた幼稚園まで結構距離があったんですね。それに加えて自転車の後ろの席は1人用だったので私は走るしかなく、その長い距離を自転車と同じ速度で毎日走らされていたんですよ(笑)。「弟はさすがに走らせられないからあなたは横を並走してね」って自転車と一緒のスピードで毎朝10分から20分は走っていましたね。その頃から高校生ぐらいまであった異常な体力と足の速さは、この自転車の横を並走させられた毎日があったからだと思います。 ー習い事もかなり多くされていたのとことですが、やはり親御さんの勧めですか? 結構色々やっていました。習字、水泳、新体操など。ピアノも一瞬に習わされて嫌で辞めて。多かった気がするものの記憶がないんですよね。嫌すぎて(笑)。あと公文も行っていました。当時は学校が終わったら大体すぐ習い事に行かないといけなくて急いで帰っていました。それから公文はその日に1日行くんじゃなくて宿題があるんですよ。だから公文の宿題をやる日で他の予定も埋まるという。「なんかすごい忙しくない?」みたいな。ハードな小学校生活でしたね。 親が習い事をさせるのが好きだったのですが、私もやるかやらないかの意思決定は託されたはずなので、やると言ったのは最終的に私だったと思います。でも気づいたら、そんなに習う?という数になっていました。 ー何でも一旦やってみようというような感じでいろんなことに興味関心を持たれるタイプなんですね! 「どうせならやるだけやってみよう」というところがあったんでしょうね。ただピアノだけは合わなかったですね(笑)。音楽の才能がなかったです。だけど曲を作るのはその当時から好きで、ボイスレコーダーに作った曲を入れたり、ピアノを弾ける友達と一緒にこういう曲を作りたいと言って曲を作ったりしました。これも小学生くらいの時ですね。 ー小学生のころからとは!そのころ何かに影響を受けたのですか? 何で作っていたのか全く分かっていなくて、作った結果何が起きるのかも全く考えてなかったです(笑)。でも、音のようなものが浮かんでくるので「ちょっとこの曲をどうにかしないと」というのはありました。ストレスが溜まったら歌うこともありましたね。そういうので曲は小さい時から作っていました。 ー小さい時から湧き出てくるものを何かしらに表現したり外に出すことをされたりしてたんですね。 そうですね。 小さい時から物を作るのがすごく好きでした。   「漫画やイラストを描ける学校に行きたい」迷わなかった高校卒業後の進路 ー多くの人にとって中高での受験は大きな出来事だと思うんですが、特に高校はどんな風に選ばれましたか? 高校はすごく覚えていますね。私は小学生中学生とバケモンと呼ばれて生きてきたので、男子からとてもいじめられて、凄い嫌がらせをされたんですよ。物もすごくなくなったり、作品を作って賞を貰ってもそれがすぐなくなったりと結構大変でした。だからせめて男子がいない学校に行きたいと言っていました。あと弓道がしたかったので弓道ができる学校がいいというのを親に言って、親が弓道ができる学校を紹介してくれたのでそこに通おうと決めました。 ー弓道も!それは中学のころからやられていたのですか?どういうタイミングで興味を持ってどういうところに惹かれたのでしょうか? いえ。本当は中学の時に弓道部に入りたかったんですよ。でも中学校に道場がなかったんですよね。中学校の時は水泳部でした。高校はやっと念願の弓道がある学校に行けたので弓道をやっていました。 もともと弓道というスポーツがあることは知っていて、袴をはいて弓を引いているのがすごくかっこよかったので、このスポーツをやってみたい!と思っていました。やっぱりめちゃくちゃかっこいいんですよ!袴をはいて弓を引く自分を想像したらテンションが上がって「これやりたい!これやりたい!」となっていました(笑)。 それから、弓道自体はすごく楽しかった一方で、弓道部は古いしきたりがある謎の部でした。変な部活の規則がたくさんあってすごく厳しかったですね。ちなみに他にも不思議な伝統がある謎の部はありました。先輩との上下関係も厳しくて、そんな上下関係のように非効率なしきたりとかが苦手ですごく苦しみましたね。 みんなも首をかしげながら何の意味があるんだろうねと思いつつ適応していました。例えば、先輩の前で笑っている顔を見せてはいけないというのがあったのですが、先輩は笑わせてこようとするんですよ(笑)。そういう伝統といろんな矛盾があるような不思議な部でした。 ーそうだったんですね…!そんな高校時代には既に絵を描く友達がいらっしゃったとのことですが? そうですね!高校の時には携帯を持っていて、その時ぐらいからネットのサイトに登録して友達と一緒に絵の交換のように、絵で交流することを結構やっていました。大体学校に居場所がなかったので、そうやってネットの絵を描ける友達と一緒に絵の話をしたり、こういうのを描いたよと言ってその絵をあげて交流したりするというのが主でした。そこがある意味生き甲斐になっていましたね。 ー人やキャラクター、風景など様々なものがある中で、当時はどんな絵を書いてたのでしょうか? 当時はいろんなキャラクターをめちゃめちゃ作っていましたね。オリジナルのキャラクターを作ってそのキャラクターを描いたり描いてもらったりとかして。その友達の持っている世界の方に遊びに行かせたり、自分の持っている世界に友達のキャラクターを持ってきてコラボしたりして遊んでいましたね。それをネットでやっていました。 ーまた、別の学校の友達と交換日記ならぬ交換漫画をしていたとのことですが、それは当時周りでやっていて「いいな、私もやろう」という感じだったのですか? いえ、周りでやっていたのではなく自分たちで始めたものでしたね。中学生の時に絵が上手い人がいるというのを教えてもらって「あ、本当に絵が上手い子だ」と思ったのがきっかけで交換漫画を始めました。 その子は同じ学校でクラスが別だったのですが、手紙で世界観やキャラクターの設定を考えて、最終的にノートに3ページずつ毎週お互いページを更新していってというのをやっていました。 高校に上がってからはさすがに毎週3ページずつはできない時もあったのでたまに遅れることはありました。別の学校だけど、交換日記ならぬ交換漫画という形で話を進めていました。楽しかったですね。 ーなるほど…!交換漫画は交換日記をしているような感じでコミュニケーションを取れるんですかね? 自分が作ったキャラクターと相手が作ったキャラクターがコラボしている世界があるので何だか面白いんですよね。交換日記はあったことを書くけど、交換漫画はいろんな事が起きるので、お互いに相談しつつ「次はどうする?」といったことを言いつつ、ある程度自由にさせてもらいつつ。ある種交換漫画があるから、続きが楽しみだから頑張れるという感じの生活をしていましたね。 ーそういうこともあって絵を描くというのがここからだんだん湯島さんの身の回りにキーワードとして強くなってきているんですね。そんな中で高校卒業後の進路はどのように考えたのでしょうか? 親的には「いい大学行った方が安定じゃない?」と心配はしてくれていて。でも自分にとっていい大学行けるかというのもありましたし、いい大学に行った先に幸せになれるかというのがあって。いい大学に行くに越したことはないですが、「その先にやりたいことはなくない?」と思ったんです。 その一方で絵を描くのはずっと好きでしたし、漫画やイラストを描く学校に行きたいという話になり行くことにしました。割と迷わなかったですね。 ーなるほど。実際に通った大学はどんな人が通われていたのでしょう?また、どんなことをされていたのですか? イラストや漫画を描く学校に進んだのですが、みんながみんな「絶対絵で食べていくんだ」とか「アーティストになりたいんだ」という感じではなかったんですよ。割と「絵をなんとなくふんわり描けたらいい」「学校には進まなきゃいけないから何となく進んでみた」という人が圧倒的に多くてちょっとびっくりしましたね。 ーやっぱりその年で専門の道に歩み出そうと思う人って、その先それで食べて行こうという人がいるんだろうなというイメージをしますよね。 そうですよね。自分も大丈夫な身ではないのに、この子達大丈夫かなみたいな。こんなふんわりしてていいんだと思ってびっくりしましたね。 ーいざ行ってみたら想像と違う世界というか、ギャップを感じられたと思うのですが、そのギャップとはどのように向き合っていったのでしょうか? 専門学校に関しては好きなもので集まっている人達なので、特に争いごともなく。人を攻撃するような人もいなかったですしね。そつなく仲良くできて比較的穏やかでした。 それから、この時ぐらいに漫画のアシスタントの仕事に行ったり、PR漫画の仕事をもらうことがあったりしたので、この頃からPR漫画を描いていました。この時期はPR漫画が流行っていないというか、漫画の仕事として認められていない時期でしたがよくやっていましたね。   親しい友人の死。絶望の淵での銭湯との出会い ーそろそろ銭湯との出会いが近づいてくると思うのですが、どんな時に銭湯と出会ったのですか? 銭湯と出会ったのは、18歳の時、まだ大学の学校見学をしている頃ですね。 当時交換漫画をしている人とは別の人で、ネットで相談をしたり、絵の交換を葉書でしたりする友達がいたんですよ。でもその頃に東日本大震災が起こって、その子と震災の後に連絡が取れなくなったんです。ちょうどその子は宮城県の石巻に住んでいた子で。最初は携帯の調子が悪いのかなと思っていましたが、よくよく考えたらそういえば石巻って津波が酷い地域だったなと。そしてその日から更新がなくなったんですよ。もしかして死んじゃったのかなと思って、すごく寂しかったのはよく覚えています。 ーそれはお辛いですね… 絵を描くのも好きだったし、悩む必要もなかったのかもしれないのですが、本当に今まで生きてきた中で人と馴染めないことが本当に苦痛でした。人の顔色を伺って足を遅くしたりしようとか、ちょっと目立たないようにしようということはできないし、機嫌をとることもできないし、そんな器用さもなかったのでそういうのがちょっと苦しくて。散々バケモンとも言われ続けてきたので異性とも別に仲良くすることもなかったですし。家庭も家庭で結構ぐちゃぐちゃになっていたので、家にも学校にも居場所がなくて本当に息苦しかったです。そんな中ネットで相談をしてた友達もいなくなってしまって。 そうして生きるのが辛くなって死のうかなと思った時に、偶然銭湯の煙突を見つけて、急に死ぬ前にお風呂に入ろうかなという気分になったんですよ。そしてその銭湯で入り方が分からなくて困っていたら、知らないおばあちゃん達が「初めてなの?」という感じでたくさん気にかけてくれたんです。知らない人なのに石鹸をくれたり他にもお世話をしてくれたりとか。とにかくおばあちゃん達がすごく優しかったんです。 ーそんなことがあったんですね。 スーパー銭湯とかには行ったことがあるものの、下町の銭湯に行くことは今までなかったんです。生まれて初めて行ってみたら、こんなに人が喋りかけてくれるんだと思って。本当にその時落ち込みすぎていて人と喋れるような状態ですらなかったのですが、こんなに喋りかけられるの?という新鮮さがありつつ、喋ることによって少し気が晴れたんですよね。 そして私の落ち込んでいる様子を察してか、湯船に入っているとそのおばあちゃん達が天気の話以外にも、自分たちの暗かった話を笑いながら話すんですよ。「旦那さんが亡くなったけど元気にやっているわ」「自分達が生きていればいいよね」というような感じで。でもそれって笑ってする話じゃないよねと思いながら。そんな暗くて人生の一番辛いところを経験しているような人たちがこうやって笑って喋っている湯船っていいなと思いましたし、今は自分の生きている意味が分からなくて苦しいけれど、それでも将来笑い話にできたらいいし、今死ななくてもいっか、という気持ちになれました。 ーなるほど。そこからだんだん今の活動に繋がっているのですね。 はい。それで踏みとどまったのがあり、銭湯っていいかもと思っていた時に、「若い子珍しいね」とお店の人から声かけられたんです。それから、今銭湯がどんどん無くなってきているから来てくれると嬉しいよという話をしていただいて。でもそれを聞いた時にこんなにいい所がなくなっているんだという衝撃とショックを受けました。だって自分はここに来たことによってすごく救われたし、無かったら死んでいたかもしれないぐらいだったのにと思い、こんな素敵な経験をさせてもらった場所がなくなっているんだったら何かしてあげたいなと思いました。 やっぱり無くなってほしくないですし、自分と同じような心境の人がいっぱいいると思ったんです。降りた駅も自殺者が物凄く多い地域だったので普段はここで飛び降りする人がたくさんいる。だけど自分は銭湯に行って救われた。こんな風に今銭湯があることによって救われる人がたくさんいるから、自分は銭湯の紹介や銭湯がなくならない仕事をしたいと思い、銭湯の漫画を描いたり銭湯アイドルとしての活動を始めたりしました。 ーそういう経緯があったんですね。ちなみにそこからは自分で色々銭湯行ってみようかなという風になり始めたのですか? 銭湯に色々行ってみようかなという風になりましたし、 銭湯の近くに住みたいなと思ったんですよ。そしてその後くらいに家を出て銭湯の近くに住み始めて、日常的に銭湯行くという生活を始めましたね。 ーそれは部屋を借りて1人暮らしという感じですか? そうですね。ちょうど学校に行かないといけないのもあったので、学校に通うという口実で銭湯の近くに住み、近所の銭湯に行きながら生活していました(笑)。   「誰かの心の温まる場所」なのが銭湯の魅力 ー現在も含めて、これまでどんな風に銭湯をキーワードに活動をされてきたのですか ? 今までは「まずは銭湯を知ってもらう」ところから始めようという活動していました。銭湯をいっぱいはしごする「オフろう会」というものを使ってファンと一緒に銭湯を巡ったり、メディアに出たりしていましたね。 他にも、親しんでもらえるように何か別のものとコラボしたほうがいいんじゃないかとも考えました。やっぱり銭湯に興味がない人は銭湯の話をしても聞いてくれないですし、そこで押し売りしてもしょうがないんですよね。 だけど「銭湯=いいもの」というのは分かり切っているし、みんながこれを知ることで幸せになってほしいなと思っていたので、みんなが好きなものに合わせて銭湯を紹介できたらなと考えました。その結果、ボードゲームを作ってみたり、アイドルというコンテンツだったら興味を持ってくれる人がいるんじゃないか思い、銭湯アイドルの活動を始めたりしました。 そうやって今までは既にユーザーがいる層に向かって銭湯というものを紹介する活動をしてきたのですが、今は銭湯をみんなでやるという段階に入っていて、若い人たちだけで銭湯を回し、今なくなってしまいそうな銭湯を守ろうという活動をしていますね。   ーなるほど。そういう活動をされているんですね! 今はもう銭湯で働き始めていて、釜の仕込みや配管の整備、夜中の掃除などもしていますね(笑)。 ー湯島さんの他にも若くて銭湯がお好きな方が働かれているのですか? 私みたいに銭湯がなかったら死んでいたという子はもう1人います。その子はうつ病で苦しんでいたんですけど、その時銭湯との関わりで助かったんです。たぶんその子は私と似ていますね。あともう2人は銭湯がなんとなく好きというところがあるものの、なんとなく好きではできないハードワークをやっているので、一緒にできて嬉しいなと思っています。 ー好きなものの裏側は楽なことばかりではないと思うのですが、銭湯の裏側も見てきた湯島さんが思う「銭湯ってやっぱり素晴らしいな」と思うポイントにはどんなものがあるのでしょうか? 全部が全部すごく魅力ですね(笑)。だけれど、その中でも「誰かの心の拠り所になれる場所」というのがすごいと思うんです。それが湯船だったり、ある種そこにできたコミュニティーだったりもするんですよ。以前好きな銭湯に行った時、お店のロビーにおばあちゃん達がいたのですが、このおばあちゃんはお風呂から5分10分で出てきて1、2時間ぐらいロビーでずっと喋ってるんです。「私はここに話をしに来てるの」って言って。でもそれは家に誰も話す人がいないからなんですよね。だからもしこの銭湯がなくなってしまったらどうなるんだろうと。 そういうどこにも居場所がない人の拠り所になれる場所でもあるので、そんな施設はとても素敵だなと。お風呂に入るという目的ではなく、「誰かの心の温まる場所」なのが銭湯の魅力だと思います。 ー「温まる」にも色々あるんですね。お話を聞いているとますます守るべきものだなと伝わってきます。この温かさって家にも会社にもない感覚がありますよね。 「お風呂に入るのであれば別に家でよくない?」とは言われますね。いろんなスキンケアとか一式を置いているわけだからそれを持って銭湯まで行くのは確かに面倒くさいですし、やっぱり便利さ的に家のお風呂で済ませたいという気持ちもあります。 だけど、銭湯は便利か否かではなくて、無くしてはいけない場所なんですよね。温泉があるわけでもサウナがあるわけでもないけれど、そこに来ることによって助かる人や、そこを拠り所にしている人たちがいるわけですよ。それを思うと、銭湯が無くなることがどれだけ絶望的なことなのかと。 ーこれまで銭湯の数がどんどん減ってきましたが、最近は若い人も銭湯やサウナに興味を持ち始めているので流れは確実にきているような気がします。 そうですね。今までは散々「お年寄りの趣味だ」「温泉ないのに何で行く意味あるの?」「サウナとか何で行くの?」といった感じでずっと言われ続けてきましたけど最近流行ってきましたね(笑)。 だけど今「時代はサウナだよね」「銭湯いいよね」と言って若い人たちが行くの見ると「なんだこの変な感じは?自分が銭湯を好きになった10年前と比べると全然違う」と。今まで散々虐げられてきたのに急に受け入れられてとても嬉しい気持ちと、もっと早くそうなってくれていれば無くならずに済んだ銭湯もたくさんあったのになという複雑な気持ちがあります。 それでも、やっぱり若い人たちが好きだと言ってくれると、その人たちが今後新たな銭湯を引き継いだり、銭湯の支えになったりしてくれる人になるのかなとも思えてすごく希望があるんですよね。 ーこれまで決して追い風とは言えない状況の中で、何が活動を続ける支えになったのでしょうか? 「銭湯は絶対に良いものだ」と信じ切っていたところがあると思います。「これは絶対良いもので、みんなが入ることで絶対幸せになれるものだから、みんなに知ってもらいたい」「お風呂に入るという意味を抜いても、この場所は無くしたら多分生きていけない人がいるくらいの場所だ」という風に信じて止まなかったんですね。 だから活動を続けてこられました。そしてこれから先、過去の私のように絶望の窮地にいて生きていく気力もないような人たちがきっとここに来ると思うんです。そんな時、やっぱり銭湯は何か救われたり変われたりする力のある場所だから無くしちゃ駄目だとずっと思っていました。 ーものすごく今銭湯に行きたいです(笑)。ちなみに今後の活動のイメージや展望などはありますか? 今はもう銭湯をやる!となっているので、自分たちの銭湯の集客数をどうにかして増やしたいですね。近くに大きくてスーパー銭湯並みのハイスペック銭湯があるのですが、私が本来好きだった銭湯はそういうものではありません。誰かの心の拠り所になれて誰かの人生を幸せにできるような、そこがあったから自分は今すごい幸せに生きているよ、という風になれる銭湯をみんなで作っていけたらなと思っています。 ー銭湯が好きでよく利用するだけでなく、働き手として裏側も見てきている湯島さんが作られる新たな場所を楽しみにしています。最後にU29の世代にメッセージをお願いします! 私がやっている銭湯だけではなくて全然いいので、苦しいことや悲しいことがあった時に1人で悩んで絶望しないでほしいです。U29の方々はすごく展望があったり頑張っている方々がたくさんいらっしゃると思うので、息詰まることも大きい壁にぶつかることもあると思います。だけどその時に誰かと繋がれたり、絶望の淵から救ってくれたりする温かい場所があるので、よかったら近所の銭湯に行って、大きいお風呂に入ってリラックスしてみて、また新しい時代を作る担い手になってください! ーみなさんこれを機に銭湯に行きましょう!(笑)。 湯島さん、本日は素晴らしいお話をありがとうございました!今後の更なるご活躍を楽しみにしています! 取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:庄司友里(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

15年後目指すは「時価総額10兆円」!エンタメスタートアップ代表が描く人生計画とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第317回目となる今回は、株式会社Plott 代表取締役社長 奥野翔太(おくのしょうた)さんをゲストにお迎えし、幼少期のエピソードから現在の事業運営に至るまで詳しくお伺いしました。 大学時代にインターン先で「経営者」という人間に魅せられ、学生起業。現在では80歳までの人生計画を立てている奥野さんの野望に迫ります。 小さい頃から周りを楽しませることが好きだった ー まず簡単に自己紹介をお願いします。 株式会社Plott代表取締役の奥野翔太と申します。三重県出身で、筑波大学在学中に学生起業をしました。 PlottはYouTubeでオリジナルアニメを制作・配信している会社でして、「テイコウペンギン」「混血のカレコレ」「秘密結社ヤルミナティー」などといった作品を手掛けています。 YouTubeのチャンネル総登録者数は250万人を超え、特に代表作である「テイコウペンギン」は約90万人ほどの登録者数を抱えています。 YouTubeはここ5年ほどで一気に加速した市場なんですが、アニメは制作コストが高いので、他のコンテンツに比べると市場の発達が遅かったんです。僕たちがこの事業を手掛けはじめたのは2019年の1月からなのですが、2019~2020年頃にアニメ・漫画領域の市場がかなり成長したかなと思いますね。 今後もYouTubeのアニメ・漫画領域を礎に頑張っていこう、というエンタメスタートアップを経営しています。 ー 登録者数230万人!すごいですね。少し奥野さんの過去にも遡ってお話を伺っていきたいと思います。どのような幼少期を過ごされたのでしょうか。 両親が関西人だったこともあり、活気溢れる家庭で育ちました。加えて、親の転勤による転校が多く、小さい頃から新しく人と関わりを持つことにはとても前のめりでした。人との出会い、別れが多かったので、自分自身で道を切り開いていきつつ、周りの人と楽しんでいくというのが身についたのが小学生の頃ですね。 ただ、転勤族に対して厳しいことも多く、僕や家族に対するよそ者扱いやいじめなどもありました。周りが楽しくできているかどうか、に関して多感になっていたかなと思います。 根性がついたのも同じ頃ですね。小学校から高校までサッカーをやっていたのですが、小学校の頃に在籍していたサッカーチームが戦術やテクニックよりも根性や気合を大事にするチームだったんですよ。気合で押し勝っていく、というのが自分の根本にあるかもしれないですね。 あとは小さい頃からお年玉があれば漫画を買っていて、お小遣いを漫画以外に使った記憶がないです。BOOK OFFや古本市場などの古本屋にもよく立ち読みしに行ってて、当時は「浦安鉄筋家族」や「金色のガッシュ!!」が大好きでしたね。今の漫画好きにも繋がっていると思います。また、小説もこの頃はよく読んでました。小学校の頃は休み時間を図書室で過ごすことも多かったです。この世代の人は分かると思うんですが、低学年は「ゾロリ」から始まり「デルトラクエスト」や「ダレン・シャン」などにどっぷり浸かった小学時代でした。 ー その後、18歳の頃に最初のターニングポイントが迎えたそうですが、何があったのでしょうか? 高校3年生の頃は、与えられるレールに疑問しか出てこないまま、モラトリアムを過ごしていました。なぜ周りのみんなは目標も無いのに勉強出来るんだろう?と本気で疑問に思っていて、受験勉強は正直真面目にやった記憶がありません。 そんなときに高校の親友から「お笑い芸人になるんやけど、一緒にやらへん?」と誘われまして。人を楽しませることや、みんなが笑っている空気感が好きだったので、一度は親に「芸人になります」と宣言したくらい真剣に悩みました。ちなみに親も受け入れてくれて、「事務所をサンミュージックにしてくれるなら…...」という謎のオーダーをしてきてました(笑) ただ僕はタレントになりたいというより、仕組みとしてのエンタメに興味があったんです。3DCGアニメーションに関わったり、アプリでゲームを作りたいと思って、最終的に筑波大学の情報科学類に進学しました。 道は違えど、彼は個人のタレントとしてエンターテイナーになる、僕は一人じゃできないようなことをみんなとやることによって、違う形でエンターテイナーになろうと決めたのが18歳の頃でした。 とはいえ、エンタメも幅広い言葉なので自分としては方向性がバシッと定まっていたとは思っていません。身近に経営者もいなかったので、起業家という選択もほぼ思い描いていなかったです。ただ、この選択は3,4年後将来のキャリアを選んでいく上で、非常に大事な指針にはなりました。 「経営者が僕の天職に違いない」半ば思い込みで踏み切った学生起業の道 ー 筑波大学に進学されて、どのような大学生活を過ごされたのでしょうか。 なんとなく道はきったものの、みんなほど無心で頑張れるものがなくて、大学の意義がいまいち掴めていませんでした。「本当にみんな興味あんの?」とか「コールしないと盛り上がれないなんてダッサ」と本気で思ってる痛い奴でした。 転機となったのはサークルを自分で立ち上げたことでした。当時あったフットサークルサークルにも入ったんですが、プレイヤー同士の交流も特になく、ただ体を動かすコミュニティで面白くなかったんです。 僕の中でサッカーやフットサルの好きなところは周りとコミュニケーションを取れるところだったので、2年生の時に自分で新しくフットサルサークルをつくって、その運営を2年生の間は頑張っていました。斜に構えるのを一度やめて、自分が楽しいと思うこと、面白いと感じることをやっていたのが19歳の頃かなと思います。 結果150人規模のサークルとなり、小さい成功体験になりましたし、後輩に運営を引き継いでいく上で組織を継続することの難しさを学びました。 人は何か目標がないと動けないとか、大きな方向と実務を担当する人は別で良いとか、オペレーションはマニュアル化すべきだとか、どうやったら人を集められるかなど、この時に体感で学んだことは今振り返ると多くありますね。 ー サークル活動に没頭した奥野さんですが、21歳の頃にはベンチャー企業でのインターンを開始したそうですね。新しいチャレンジに踏み切った経緯を聞かせてください。 情報科学科に進学し、僕自身も授業ではプログラミングをやっていたんですが、筑波大学は世界大会にも出るようなトップ層のエンジニアも集まってくるような場所。自分が生きていきたいのはそのフィールドなのか、と懐疑的でした。自分の強みはもっと違うところにあるような気がしていたんです。 そこで生きる道を探すためにベンチャー企業でインターンをさせてもらいました。 ー ベンチャー企業のインターンではどのような業務をされていたのでしょうか。 バイト紹介のサイトやアパート紹介のサイトを運営していたんですが、入社当時は5人ほどの規模だったのでなんでもやりました。採用や営業、クリエイティブのディレクション、どういう形で事業を回してくかのオペレーション設計などですね。 様々な経験をさせてもらいましたが、インターンの経験の中で僕にとって一番影響が大きかったのは「経営者」という人間を知れたことです。ここまで生き生きと働ける人たちがいるということに衝撃を受け、感動しました。 経営者の仕事は事業を通してユーザーへ「楽しい」や「便利」といった価値を提供していくことです。ただ、それを一人でやっていくことではなく、組織でやっていくのが経営者の仕事。お客さんの楽しさだけでなく、社内の人間の楽しさも追求できるところに面白さを感じました。総合格闘技のようなこの仕事は自分の得意な領域でもあり、天職に違いない、と思ったんです。 その後、すぐに大学を休学して起業しました。 ー そうして学生起業されたんですね。最初はどんな事業をされていたのでしょうか。 一番はじめに手掛けた事業はゲーム制作です。好きなことで一発ドカンと飛ばしたいと考えていました。周りのみんなも好きなことだからやっていて楽しいし、その結果、コンテンツを触ってくれる人たちも楽しいと思ってもらえたら最高だと思ったんですよね。 ゲーム制作の後も色々な事業にチャレンジしたのですが、実際やってみると想定以上に大変で、なんでもできるという無根拠の自信は全て打ち砕かれました。自分では考え付かないような事柄がたくさんあり、市場に育てられたというのが正直なところです。 事業を立ち上げる際はタイミングが非常に大事なのですが、最初の1年間はとにかくタイミングをはかり続けた1年でした。ARのゲームやVTuber事務所なども検討し、結果、YouTubeアニメ領域に辿り着き生まれたのが「テイコウペンギン」です。 僕の中で転機になったのは、「テイコウペンギン」が伸び始め、会社の規模が大きくなったタイミング。メンバーが増えたことで「起業家」から「経営者」となりメンタリティの変化があったんです。 それまでは「ビジネスは戦いだ」と本当に殺気立って仕事をしていました。でも本質的な部分に立ち返ると自分はエンターテイナーになりたかった。当然ビジネスには戦いの側面もありますが、「分かち合う」という気持ちが大事だったんです。 自分の中で面白いと思うこと、楽しいと思うことを、メンバーと分かち合っていくことが重要なんですよね。経営者として自分の主張が強くなりすぎてしまう部分もあったのですが、そのあり方が変わったのが24歳くらいの頃だったかなと思います。 ー いま組織は50人を超える規模になってきたそうですが、プレッシャーに押し潰されそうな瞬間はないのでしょうか。 ないといえば嘘になりますね。人が増えれば増えるほどお金に関わることや健康に関わることなど色々な問題が起こるんです。潰れそうになったことはないですけど、自分の中の会社の重みがどんどん増えていくのは感じています。 一方で、人数が増えたことによって得られる喜びが増えました。例えば、起業当初はみんな週7で働いていたのですが、あるとき週5で働くことができるようになりました。そのタイミングでメンバーが土日に奥さんとバスケをしたと楽しそうに話してくれたんです。その人の人生が自分たちの頑張りによって少し彩られているんだなと感じ、とても嬉しかったですね。組織が大きくなるにつれて大変なことも増えましたけど、その分小さな幸せがとても増えました。 ー 周りの人のことも自分ごとに捉えられるのはすばらしいですね。昔からそうだったのでしょうか。 変わったのはここ2,3年くらいで、高校まではエゴイズムが強いタイプだったように思います。自分が好きだから人を楽しませる、といったように人の気持ちとかは考えているようで考えていなかったと思います。 でも事業や組織を運営する中で、自分の経営者としての器をすごく考えさせられ、ここ2年くらいで向き合うようになりました。自分のエゴイズムなんてどうでも良くて、その人の人生の1ページに挟まれるかどうかの方が僕にとっては大事だと認識したタイミングがあって、そのタイミングで人への接し方は大きく変わりました。 すぐに変わることはできないですけど、今までの自分に気付くことができたら、その過去の自分を置いていくことができるんです。自分の心の中には過去の自分はまだいるけれども、人から捉えられる概念としては切り替わったように見えるかもしれないですね。 「エンタメ領域で日本を代表する企業をつくりたい」 ー 事業についても伺わせてください。テイコウペンギンがヒット作品となった要因はなんでしょうか。 「テイコウペンギン」は、元々Twitter漫画家のとりのささみ。さんという方が描かれたキャラクターを僕らがアニメ化したコンテンツになります。まだまだ伸び代はありますが、一定のファンの方に愛してもらえるようになった理由としては3つあります。 1つはYouTubeでの漫画、アニメ市場の興隆。2つ目は原作キャラクターのエッジの立ち方や社会的な刺さり度。もう一つは最先端で戦い続けてきたからこそのYouTubeノウハウかなと思います。 当時、僕たちはVTuber市場にいてYouTubeをずっと見ていたので、その中でキャッチしたノウハウをすぐに事業に落とし込んだんです。YouTubeでアニメを作りたいという僕たちの想いに賛同してくださるクリエイターの方もすごく多くて、そういったところが具現化したのかなと思います。 ー すでに総登録者数は250万人を超え、うまくいっているように見えますが、今後の事業領域についても教えていただけますか? 僕らがつくりたいYouTubeコンテンツはまだまだたくさんあって、まずはYouTubeアニメ市場で大ホームラン作品を生み出していきたいと思っています。 そのためにYouTubeで面白い動画を投稿していくのはもちろんのこと、YouTubeの枠に囚われず様々な角度から面白いものを体験できるインフラをつくっていきたいです。 今後3〜5年はYouTube×アニメのメインプレイヤーとしてもっと市場を拡大していきたいですし、僕たちのコンテンツが届く領域を増やしていきたいと思っています。 その先のお話をすると、全然違う未来を考えています。Plottはアニメの会社ではなく、本気のアソビ(=僕たちが面白いと心から思えるもの)で世界をアッと言わせたい会社なんです。 なので、5〜10年後はゲームの会社になっているかもしれないし、音楽の会社になっているかもしれない。小説を出しているかもしれないし、漫画を出しているかもしれない。どちらかというと全部やっていきたいと思っています。僕らが本気で面白いと思うものを世の中にずっと伝えていきたいです。 僕個人としての計画としては、5年後の30歳までにPlottをユニコーン企業に育てたいと思っています。国内で大ヒットアニメを生み出し、YouTubeアニメ領域を代表する会社になれたら良いなと思っています。 その先の10年、つまり今から15年後でいうと時価総額10兆円を目指しています。時価総額10兆円がどれくらいかというと、NetflixやDisneyといったプレイヤーがいる場所なんです。そのためには日本国内だけに止まらず、グローバルで大ヒットするようなIPを生み出す必要がある。さらにコンテンツを持っているだけでなく、何かしらのプラットフォームを持っていることが必要になってきます。そういった挑戦をしたいと思っています。 ユニコーン企業は一定生まれる可能性があると思うのですが、日本の企業はなかなかその先にいけない。まだまだ非現実な計画であり、目標なのですが、この15年でどう実現できるかが僕の挑戦になると思います。 50歳になったころにはPlottというコミュニティを完成させたいと思っています。後継者を探しつつ、エンタメ領域以外に何かできたら良いなと思っています。 Plottがエンタメ領域以外をやっているかもしれませんし、僕が退任して他のインフラをつくる事業をやっているかもしれないし、それはわからないですが、とにかく世界にたいして何か価値を提供できていたら良いなと思います。 60歳ではもっと抽象度を上げて環境問題や貧困問題など課題解決が難しい領域に取り組んでいきたいです。ビルゲイツさんは財団を持って活動していますよね。そんな風になれたらと思います。 70〜80歳の頃には、また次の自分のような人間が出てくると思っているので、そうした人間にバトンを渡したいですね。 今はとにかくエンタメ領域でやりたいことが山ほどあるので、環境問題などに心を向けられる脳のメモリが僕には残っておらず、日々考えられてはいません。ただ、常に今の挑戦をやり切った後に何をしたいかを考えています。 ー 最後にU29へのメッセージをいただけますか。 直近、MARVELシリーズが世界的に大ヒットしたり、韓流ドラマがNetflixで流行っていたりしますよね。 僕自身は日本のアニメ、漫画、ゲームといったコンテンツがとても好きで、そうしたコンテンツに育てられてきたのですが、10年後、20年後、30年後にそうしたコンテンツが日本から生まれてないかもしれないかもしれません。 この状況に誰かが一石を投じないといけないと思っていて、PlottがYouTubeから本当に新しいコンテンツを生み出せれば、この先10,20年くらいは日本のYouTubeから生まれるアニメが世の中でウケていくと思うんです。そうした挑戦を続けていきたいです。 僕たちの世代から世の中を変えていくことをもっとしていきたいですし、できるできないではなく、変えるためにはどうするかという部分に目を向けていくことが必要だと思います。諦めずにトライを繰り返していくことが重要なことだと思っているので、そうした灯火を一緒に灯せる仲間を探しています。 取材者:増田稜(Twitter) 執筆者:うえのるいーず(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

フリーランスエンジニアで気候変動対策に挑む!やりたいことを諦めないためには

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第303回目となる今回は、プログラマーのテヘラニ ・ダニエルさんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 工業高等専門学校へ入学後、独学でブロックチェーンを勉強。当時参加していたブロックチェーンのカンファレンスで出会った方に開発を依頼され、プログラマーとしてキャリアをスタートします。その後、中退を決意しブロックチェーンのスタートアップに入社。現在はフリーランスエンジニアとして独立し、気候変動問題の解決のためにも動いているダニエルさん。ユニークなバックグラウンドをお持ちのダニエルさんに、ブロックチェーンに興味を持ったきっかけや、環境問題への取り組みについてお話しいただきました。 ブロックチェーンを通して自分のやりたい道を切り開く -まずは自己紹介をお願いします。 テヘラニ・ダニエルと申します。現在は、Shopifyというオンラインで物販可能なサイトを作ることができるプラットフォームのアプリ開発をメインで行なっています。以前はブロックチェーンエンジニアをやっていたこともあり、現在もウェビナーなどで話をしたりしています。また、気候変動にも関心があり、気候変動対策などの活動も行っています。 -ありがとうございます!ここからはダニエルさんの人生を振り返りたいと思います。高校は工業高等専門学校に入学されたとのことですが、理由を教えて下さい! 中学の頃から独学でやっていたプログラミングが楽しく、自分に合っているなと思い工業高等専門学校を選びました。当時は将来の夢など持っていませんでしたが、時代の流れでソフトウェアなどが流行っていたため、プログラミングのスキルを身に付けておけば強いだろうなあという気持ちで始めましたね笑 -当時から将来のことを考えていてすごいです!その後2年生で中退されるとのことですが、経緯を教えていただけますか? 工業高等専門学校に入学してからブロックチェーンという技術に出会い、深堀りしていくとすごく面白く、ブロックチェーンで起業をしたいと考えるようになったことが中退へのきっかけです。しかし、どうやって販売していくかなどが知らない側面が多く起業へは至りませんでした。 その後、ブロックチェーンのカンファレンスで出会った方が開発を依頼してくださり、その仕事が事業として成り立ちそうだと思い、そのまま休学し復学することなく中退しました。 -中退に対して抵抗はなかったのですか? はい、抵抗はなかったですね。ブロックチェーンで事業をやることが、自分のやりたい道でしたし、両親がサポートしてくれたことも大きかったです。中退後はカンファレンスで声をかけてくれた方の会社で受託開発を行なっていましたが、その後ブロックチェーン関連の別会社に入社し働くことになりました。 入社した会社では、NFTという映像などのデジタルアート作品が複製できないように、アート作品を含むデジタルデータの所有権を保証する技術を利用したサービスを作っていました。 やりたいことを実現するために、働き方を変える -ブロックチェーン以外にも気候変動について興味があるとのことですが、興味を持ったきっかけや、活動のきっかけを教えてください。 何かきっかけがあるという訳ではなく、ドキュメンタリーなどを観て「今、気候変動が大変なんだ」と感じ、そこから徐々に興味を持つようになりました。その後、会社に入社するために上京してきたタイミングで、気候変動の団体に参加しました。気候変動の活動をしたいから団体に参加したというよりは、単純に自分と同じ10代〜20代の人が活動を行なっていたため、その人達と関わりたいという思いの方が大きかったです。 また、団体参加後にIPCCという気候変動について研究している機関が発行した報告書を読んで、気候変動の深刻さが具体的な数値で分かったことが活動したいと思うようになったきっかけですね。 -お仕事をしつつ、土日で気候変動の活動をされていたのですね!その後、会社を辞めてフリーランスエンジニアになりますが、なぜフリーランスになろうと思ったのでしょうか? シンプルに会社の事業がうまくいかず、チームが解散してしまったからです笑 チーム解散後は転職する選択もありましたが、フリーランスエンジニアを選んだ理由としては、当時自分のやりたいことが気候変動の課題解決であったものの、明確に何をすればいいかのか分からず「自分は何をすればいいのか」を考える時間が欲しかったため、自分で時間が管理できるフリーランスエンジニアを選びましたね。 -ダニエルさん自身、今後は気候変動対策をライフワークとしてやっていきたい気持ちが強いんですね。 そうですね。今後は気候変動の課題を解決することをライフワークとしてやっていきたいと思っています。ただ、少し前までは「世界のシステムを根本から変えるブロックチェーンを作りたい」「気候変動問題も解決したい」と、両方したいけど両方ともできないなというジレンマに悩んでいました。 しかし今は、気候変動対策1つに絞ってやっていきたいという思いもありますが、自分がこれまで学んできたブロックチェーンの知識を活かしつつ、気候変動問題にアタックできる方法がないかも考えています。 ブロックチェーンと気候変動対策、どちらも諦めないための模索 -企業に勤めることと、フリーランスで働くことのメリット/デメリットを教えてください! 企業で働くメリットとしては、他の人から学ぶことがあったり、チームで働く楽しさがあることですね。逆にデメリットは、時間的な制限がある場合が多く、自分のやりたいことができないことです。 フリーランスに関しては、メリットはやはり時間的制限がないため、自分のやりたいことができることです!デメリットは、個人で働くことが多いためチームメンバーから学ぶことができなかったり、自分自身でモチベーションを保たないといけないことですね。 -実際にフリーランスになって、自分のために時間が使えているという実感はありますか? はい、ありますね!もちろん色んな仕事が来ると、それぞれ期限があるため結局時間が無くなることもありますが、1つのプロジェクトを短期間で終わらせることもできるため、また自分のやりたいことをすることができています。 -現在ダニエルさんが力を入れている気候変動対策に関して、今後は多くの人が意識を向ける必要があると思っていますが、解決に向けてメッセージはありますか? 気候変動は、殆どの人が思っている以上に大変な問題です。今後安全な食料や水がない生活を強いられる可能性もあるため、そのような未来にしたくないのであれば、CO2をなるべく出さないなど、できる範囲でやっていくことが大事だと考えています。 また、気候変動のことについて調べて自分ごとに捉えて欲しいなと思います。調べるだけではなく気候変動に関する小説もあるため、読んでみるといいかなと思います。 -今後やりたいことや、長期的なビジョンを教えてください! ブロックチェーンの考えを用いて、気候変動の解決策を研究していきたいなと考えています。また、実際にブロックチェーンを使ってCO2の排出量を減らすシステムや温室効果ガスを吸収する仕組みなど、研究と実装の2つをやっていきたいです。 -貴重なお時間ありがとうございました! 取材者:中原 瑞彩 執筆者:藤川 結貴(Facebook/note) デザイン:五十嵐 有沙(Twitter)

なりたいになれる未来を。Builds CEO 橋本竜一がオンライン×コーチングビジネスを手掛けるまで

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第290回目となる今回のゲストは、株式会社Builds(ビルズ) CEOの橋本 竜一(はしもと りゅういち)さんです。 大学時代に起業し、組織崩壊を経験。その後も諦めることなく、3つの事業を展開していきます。そんな橋本さんが「なぜ挫折経験後に疲弊することなく、前向きに突き進んでこれたのか」お伺いしました。 初めて敗北感を覚えた中学時代。先生の一言で東大受験を決意 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 株式会社Builds代表の橋本竜一と申します。大学3年のときに株式会社Buildを立ち上げ、最初は高学歴特化の採用媒体「JobShot(ジョブショット)」を立ち上げました。 その後コロナの時期から2つの新規事業を走らせています。1つが現役東大生によるオンライン個別指導の「スタディコーチ」。もう1つは遺伝子解析を用いたオンラインパーソナルフィットネス「CLOUD GYM(クラウド ジム)」です。 ー本日は、橋本さんが会社を立ち上げ3つの事業を展開するまでの経緯について、幼少期からさかのぼってお伺いできればと思います。子供時代、どのように過ごされてきたか教えてください。 小学生の頃から勉強が好きで、負けず嫌いな性格だったので、テストでは毎回1番を取りたいと思っていました。小4までは成績上位だったのですが、小5で横浜の学校へ転校したときに事態が一変して。 周りが全員中学受験をする状況で、「今まで僕はそこそこ頭がいいと思ってたけど、レベルが全然違うじゃん」と太刀打ちできないことに気づいたんです。 ー橋本さんも中学受験することに? そうですね。周りは小4の終わりくらいから中学受験の勉強を始めていたのですが、私は小6の春頃から始めたので、圧倒的な差をつけられていました。 受験直前に成績が伸びて、難関中学も受けれるレベルまで達したものの、結局第3志望まで落ちてしまって。そのときに「負けるってこういうことなんだ」と実感しましたし、上には上がいて、自分は努力しないと勝てない人間なんだと気づきました。 ー中学時代はどのように過ごしましたか? 中高一貫校で良い友達に恵まれ、入学後は後悔なく楽しく過ごしました。 ただ、中学受験で負けた感覚は強く残っていたので、勉学には熱心に励みました。仲の良い友達同士でテストの点数を公開し合って、誰が一番かを競ってましたね。すると自然とみんな成績が伸びていったんですよ。 それでも東大を受けるようなレベルではなかったのですが、高1のある日、先生が「東大とか目指してみたら?」と言ってくれて。「こんな僕でも、東大受けていいんだ!」と思ってから、東大受験を目指し始めました。 東大受験で人生2度目の敗北。負けず嫌いが加速する ー東大を目指すことは、周りに伝えましたか? 親や友達に宣言しておけば逃げ道がなくなると思ったので、あえて周りには積極的に伝えていました。 ー周りの反応は? 親は「え、東大……?!」と驚いてましたね。 ー「無理だよ」、「辞めときなよ」といったネガティブな言葉はなかったですか? それはなかったのですが、私が通っていた中高一貫校は毎年東大に受かる人が1人いるかいないかだったので、「何でそんなに勉強してるの?」という空気はありました。 周りの誘惑や視線に負けないよう勉強し続けるのは、大変ではありましたね。 ーそこも、負けず嫌いな性格から乗り越えられたのかもしれませんね。受験の結果は? 結果、落ちてしまって。中学受験の失敗も含め、「また負けたのか」という敗北感が残りました。 あと、当時の親友が高1くらいまでは頭が良くなかったのですが、いつも私と一緒にいたので自然と勉強するようになり、成績も伸び始めたんです。そこで私が「お前も東大受けてみれば?」と煽ったら、ほんとに東大受けて現役で受かったんですよ。 落ち込んでるときに追い打ちをかけられて、さらに「負けたくない」という気持ちが強まりましたね。 ―それはものすごく苦しいですね。 ただ、そこで負の感情を抱いたわけではなく、「もう1回勉強をやり直そう」と浪人を決意したんです。浪人することは怖かったですが、結果そこでも良い仲間に恵まれました。 「今の政治に対してどう思う?」と聞かれて、「何も考えてなかった……」と焦ることも多々あり。視座が高い友達と1年間授業を共に過ごして、「こんなこと考えて生きてるんだ」という発見もあり面白かったです。 勉強のストレスは勉強で発散!勉強漬けの浪人時代 ー浪人時代のタイムスケジュールを教えてください。 最低でも8時間は寝たいと思っていたので、起きている時間はすべて勉強に充てていました。お手洗いへ行く時間やご飯を食べている時間、お風呂に入っている時間、移動時間などのデッドタイムには、イヤフォンで予備校の授業を倍速で聞いてましたね。 今まで2回受験に失敗したことから、才能はないと実感していたので、勉強量で何とかしてやろうと思っていたんです。 ー勉強漬けにすることでストレスもたまると思うのですが、どのように解消していましたか? 勉強のストレスは勉強で解消するというサイクルを作っていました。 模試の成績が悪くて落ち込むと、みんな現実逃避して遊ぶことで切り替えようとしがちじゃないですか。でも本来は、成績が悪かったのならすぐに勉強し始めた方が合理的ですよね。 だから私は落ち込んだときこそ勉強に集中して、「こんなに問題が解ける!」、「ここ忘れてたけど、思い出せて気持ち良い!」と思うことでストレス発散をしていました。 ー勉強で失った自信は、勉強で取り戻していたんですね。それでも気持ちをコントロールするのはなかなか難しいと思うのですが、工夫されてたことはありますか? 負けず嫌いだったので、先に東大に合格した親友に負けたくないという気持ちを原動力にしていました。 あとは周りに支えられましたね。受験直前3日間は特にメンタルが不安定になって、思考が急に止まってしまって。そのときは中高の友達がくれた色紙を見たり、メモに残していた先生たちの名言を見たりすることで精神を安定させていました。 ー1年浪人されて、見事東大に合格したんですよね。合格発表の日、結果を見たときの気持ちは? 結果を見た瞬間は、安堵感でいっぱいになりました。「これで親を安心させられたかな」とホッとして。合格発表日の帰りに、予備校メンバーと一緒に祝勝会へ向かう電車の中で、初めて「嬉しい」という感情があふれてきたんです。 親友の変貌した姿を見て、長期インターンに可能性を感じる ー東大に入学してからどのように過ごされていたか教えてください。 入学後、3か月くらい経つと普通の大学生活に飽きてきて。せっかく東大に入ったのに、他の大学へ行った人たちと変わらないことをしてるなと思い、イベント企画サークルへ入りました。 1,000人規模のイベントを企画するサークルで、周りの人は1つのイベントに対して平均3~4人くらい誘っていたのですが、私は100~150人くらい誘いました。先輩とか関係なく、ぶっちぎってやろうと思ってたんですよね。 ーここでも負けず嫌いを発揮したんですね。 その甲斐あって、後にインターンすることになる会社の人にお声がけいただき、それから長期インターンを始めることになりました。 ー長期インターン時代、印象的なエピソードがあれば教えてください。 インターンしたベンチャー企業の社長が太っ腹で。インターン生が寝泊まりするためだけに部屋を借りてくださって、週4~5日はそこに泊まって「事業アイデア10個出すまで寝れません」という遊びをしながら学んでいました。 ーそこからどのように事業アイデアが思い浮かんだのでしょうか? 私が長期インターンを始めた頃、親友が全然就活うまくいってなかったのがきっかけです。東大経済学部にいてTOEICもほぼ満点でコミュニケーション能力もあるのに、何で上手くいってないのか不思議だったんですよ。 そこで「今長期インターンやってるから、修行しに来なよ」と親友を誘ったんです。するとみるみるうちにとんでもない難関企業に何個も受かり始めて。それを目の当たりにしたときに、「もしかしたら長期インターンで人生が変わるかも」と思ったんです。 ー実際に事業化するまでの流れをお聞かせください。 インターン先の方に、「本当に長期インターンで人生は変わるのか試してみたいので、ベンチャー企業を集めて欲しいです。僕が高学歴の学生100人くらい連れてくるので」とご相談したことで、イベントを開催することができました。 そのイベントをきっかけに、実際にインターンを始めてくれる学生が何人もいて。企業さんも満足してくれました。「人生が変わった」、「今まで何となく生きてきたけど、本気で考えることができた。ありがとう」と言ってもらえる機会が増えたんです。 「人生が変わった」っていう言葉って、そんなに人から言われることないじゃないですか。そこに面白さを感じて、「これ企画じゃなくてサービスとしてやってみたら面白いんじゃないか」と思い、起業を決意しました。 組織崩壊を乗り越え3つの事業を展開。みんなが “なりたい未来” を描けるように ー起業して「JobShot」を立ち上げるまではとんとん拍子でしたか? まったくそうではないです。JobShotの立ち上げまでに、一度組織を崩壊させてますしね。 当時は売り上げを作れていなかったので、社員を不安な気持ちにさせてしまってたんです。あと、すべて自分1人で抱えて上手く役割分担できていなかったのも、社員が離れてしまった原因だと思います。 ー社長たるもの全部知ってないといけないというプレッシャーがあったんですね。 そうですね。組織崩壊を経験したからこそ、「社員には社員の人生がある」ということに気づけました。一人ひとり描いている人生があって、その中で私の会社をどう活用するか考えるのが当たり前だと思ったんです。 ー組織が崩壊して、再度奮起できたのはなぜ? 友達が「俺が一緒にやるから、頑張ろうよ」と言ってくれて、「こんな状況の中でも一緒にやってくれる人がいるんだ」とハッとしたからです。あと、せっかく起業したのにここで立ち退いたらダサいと思ったのもありますね。 ーここでも負けず嫌い精神と、周りの環境が作用したんですね。JobShotを立ち上げてから、2つのサービス「スタディコーチ」と「CLOUD GYM(クラウド ジム)」を展開した経緯をお聞かせください。 コロナが流行り始めた頃、もしかしたらパンデミックになるかもしれないと予感して。そうなると会社に余裕がなくなり、新卒採用や長期インターン市場は縮小していくと思ったんです。 これだけ優秀な社員が人生をかけて頑張ってくれているのに、JobShotだけだと船を沈ませてしまうかもしれないことを危惧して。そこで当時興味があった「オンライン×コーチング」のビジネスを展開しようと決意し、立ち上げました。 ー2つのサービスは現在順調ですか? まだまだではありますが、2つとも事業としては成立しそうなラインまで来ています。ここからどのようにお客様を獲得して、継続させていくか考えていくフェーズに入っていますね。 ーここで改めて、株式会社Buildsのミッションをお伺いしてもよろしいでしょうか。 「なりたいになれる未来を」をミッションとして掲げています。私も良き師匠や仲間と出会ったことで、なりたい未来が定まり、そこに向かって努力しているので幸福度は高いと思っていて。 一方で、自分が何をしたいかわかってない人はたくさんいると思うんですよね。そういう方たちに対して、「なりたい未来を決めて、それに対して努力できる」手段を提供したいと思っています。 ー最後に、これから起業したいと思っている方へのメッセージをいただきたいです! 起業したいと思っている人が1万人いるとしたら、実際に行動に移す人は10人くらいだと思うんですよ。その中で継続できる人は1~2人だと思ってて。起業したいと思っているのであれば、まず登記を取っちゃえば10人には入れますよね。 特に学生時代は会社を潰したとしても1番リスクが低い時期だと思うので、とりあえず起業して、ダメならダメで就職すればいいと思います。そのとき反省して、もう1回起業することもできますしね。 失敗しても失うのは20~30万円の登記費用だけなので、とりあえず登記を取りに行くことをおすすめします。すぐに行動できる人ほど正しい時期に正しい師匠と仲間に出会えると思うので、ぜひ考えるより行動してみてください! ー橋本さんのお言葉で、起業しようか迷っている方も一歩踏み出せそうですね。橋本さんの今後のご活躍も楽しみにしています!本日はありがとうございました。   取材者:吉永里美(Twitter/note) 執筆者:Moriharu(Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

経験と個性を活かした、ライフスタイルブランドHinakoSun代表・山野貴絵にとって大事なこと

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第393回はライフスタイルブランドHinakoSunのデザイナー兼代表の山野 貴絵さんにお話をお伺いしました。山野さんが大事にされていることがどうライフスタイルブランドの立ち上げにつながったのか。大学時代の日々を中心に、現在に至るまでの経緯をお話しいただきました。 ゆっくりできる時間を作るきっかけを考える日々 ーまずは簡単な自己紹介をお願いします。 今年の3月に大学を卒業し、現在はライフスタイルブランドHinakoSunの代表、ディレクター、デザイナーを務めています、山野 貴絵です。初めはアパレルを中心としていましたが、現在は器やお茶などを通して人が意識的に毎日ゆっくりできる時間を作るきっかけづくりなどをメインに行っています。 ーHinakoSunを始めたきっかけは何だったのでしょうか。 1年間大学を休学した際に、毎日のようにサービス業で働いていたのですが、忙しい日々を送る中で幸福度が下がっているなと感じるポイントがありました。そんな時にアルバイト先の隣にあったケーキ屋さんで金曜の夜にお姉さんがケーキを買って帰る姿を見かけたんです。ある人にとっては一人でケーキを買うこと、ある人にとっては一人でカフェに寄ることや、どこかにいくための服を買ったりすることが息抜きとなっていて、それがその人の幸福度をあげているんだなと感じました。一人一人が衣食住を大事にし自分のハッピーポイントを持つのが大事だなと感じたことから、そんなハッピーポイントを見つけるきっかけづくりをしたいと思ったのがきっかけです。   社会に出る抵抗から自ら選んだ大学生活 ー現在に至るまでの山野さんのターニングポイントについても教えてください。どのような学生生活を送られていたのでしょうか。 熊本の女子校に通っていたのですが、商業クラスだったため、大学は行かずそのまま就職するのがマジョリティの環境にいました。私は高校を卒業して社会に出ることに疑問と抵抗があったため、大学に進学することに決めました。 ー社会に出ることへの疑問と抵抗についてもう少し教えていただけますか。 学校の先輩など、周りを見ていると3~4年働き、結婚・出産というパターンが当たり前ということが多くて、それとは違う生き方はないのかという疑問や、まだ働きたくないという抵抗、でしたね。 狭い世界にいて、外の人と関わる機会がなかったので自分も先輩や周りの人と同じように就職して結婚・出産をするのか。このまま何もせずなんとなく人生が終わってしまうのかと考えていたんです。簿記や経済、マーケティングの勉強は楽しかったのでもう少し勉強したいという気持ちもあったのでまだ働きたくないと思っていました。 ー大学に進学してみていかがでしたか。 入学してみると、自分が想像していた大学とは正直異なりました。 高校時代に熊本にあった国際交流館のような場所で外国人の方と交流する機会があったことから、語学勉強などにも興味があったのですが、大学には学生団体がほぼなく、留学に行く人やボランティアをしている人なども少ない状況で、またなんとなく4年間が終わってしまうのではないかと危機感を感じました。ちょうど熊本地震が起こった翌年に大学進学したこともあり、日常が当たり前には続かないことを実感していたからも余計、このままでいいのかと感じたのだと思います。   好きだった洋服への興味からブランドを立ち上げ ーそこからどのような大学生活を送られたのでしょうか。 海外のいくつかの国では爆弾と隣り合わせの人がいたり、韓国では自殺問題が深刻化していたり、日本では相対的貧困が課題となっていたり、と国際問題や社会問題に目がいくようになり、海外ボランティア活動を行っていました。 一方で、人間関係がうまくいかず、大学時代は摂食障害にもなってしまい、課題をただ解決するだけではなく、個人が幸せである状態を作ることが一番大切なことだと感じるようになりました。 ー行われていた海外ボランティアについて教えていただけますか。 初めはフィリピンに、その後タイに行きました。タイでは、山岳民族が暮らしている村にホームステイしたり、多くの民族が自分たちのアイデンティティを大切にしながら共存している環境が日本にない感覚でした。多様性を受け入れあっているのがとても印象的でしたね。 また、日本で開催された日本の大学生と海外の大学生が70人ほど参加する3泊4日のプログラムにも参加したのですが様々な国の人と一緒に過ごして感じたのは、自分の意思を大事にしているのが多いこと。バリ島から来ていた女の子は全く化粧をしていなくて、なぜメイクをしないのか聞いたらその方が自分らしいからと教えてくれました。なんとなく日本では大学に入ったらメイクをする、しなければならないという風潮がありますが、自分の意思でそういった選択をする人がいることがとても新鮮でした。人と違うのはよくないのではないかとそれまでは思ってきた節がありましたが、それ以来、個性は自分の武器ともなると信じて個性を大事にしています。 ーブランドの立ち上げまではどのような経緯があったのでしょうか。 経済格差についてとある教授と話していた際に、フェアトレードタウンとしてファッション業界の裏側を描いた映画の上映会を紹介していただき、その映画を見たのが初めのきっかけでした。服は好きだったのでファッション業界の現実・問題を知って衝撃を受けました。安い賃金で作られている服があること、服を作る過程で有害物質が発生していることなど、知らなかったことがあまりにも多くショックだったんです。 その後タイに行った際に、タイには10部族以上の民族がおり、それぞれに民族衣装があるものの、民族衣装がどんどん廃れていっていることを知りました。特にモン族の民族衣装は刺繍が綺麗でその文化を残したいと思い、服を作りたいと思ったのがブランド立ち上げにつながりました。が、すでにモン族の刺繍の多くは中国やベトナムなどの工場に外注されており、モン族の手刺繍の物は少ない状況でした。現地だからこそ作れるデザインがあるのではないかと思い、いろいろ探しましたが、モン族の手刺繍を取り入れるのは難しく… 結局刺繍は実現しませんでしたが、ご縁があって、ルワンダとタイで服が完成するところまではいきました。にもかかわらず、コロナが流行してしまい、国内でブランド立ち上げに切り替えることとなりました。 摂食障害と海外での経験を活かして、自分らしさを前面に。 ーそんな経緯があったんですね。コロナで大きく方向転換をせざるを得なかったかと思いますが、どのように切り替えられたのですか。 全てが白紙になり、熊本から出られない状況になったものの、コロナを理由に諦めるのはだめだと思い、学業と並行してブランドの立ち上げを進めることにしました。 そのタイミングでMAKERS UNIVERSITYというメンターと呼ばれる経営者の方々が毎月進捗などを一緒に確認してくれる次世代のイノベーターを育成するプログラムの5期生に選んでいただきました。このプログラムを通して、自分の好きな洋服と社会問題をどうやってつなげていくかを考えることに。通常であればマーケットがあるからサービスを作るということが多いですが、自分がしたいことをサービスにするということを肯定してもらえた一年でもありました。自分が楽しんでいればみんなが楽しんでもらえるのでは、とメンターに言ってもらえたことは新しい発見でしたね。 ーブランド立ち上げにあたっては服についての知識も必要だったと思いますが、何か勉強はされたのでしょうか。 縫製のお仕事をされている方のところに行って教えてもらいました(笑)縫製をやったことがなかったのでまずはやってみようと思ったんです。どんなにすごい人もみんな初めは初心者だったのだからと思い、とにかくやり続ければできるようになるのではないかと。 実際服を作るのはとても手間がかかり、大変でした。美術が昔から得意科目で、洋服が好きだったからこそできたことかもしれません。たくさんの工程を経てできた服はとても尊く、洋服を買う時もそれまでは違った視点で服を見るようになったと思います。 ーそこからアパレルブランドではなくライフスタイルブランドとして様々な取り組みをされていますが、その背景も少し教えていただけますか。 服は海外でのボランティア活動がきっかけで実現したことの1つでしかなく一人一人が衣食住を大事にし自分のハッピーポイントを持つのが大事だと感じたことから、そんなハッピーポイントを見つけるきっかけづくりをしたいと思ったのがきっかけです。摂食障害で考えた幸福に過ごすということ、海外で気づいた自分らしくいていいということ、そして自分らしくいることがまた幸福につながるということ。私だからこそできるブランドとして、人がのんびりする工夫を作っていきたいと思ったんです。 ー今後取り組んでいきたいこと、挑戦していきたいことは何かありますか。 どんなに忙しい人でもここに帰ってこればホッとできるような工夫をもっと作っていきたいです。服だけではなく、常に温かい時間を過ごしてもらえるようにお茶会をどう工夫すればいいのかなどもっと考えていきたいと思っています。 「山野貴絵」という人物がこれから作り出す、普通とは違ったファッションや自分らしさを最大限に表現したモノづくりをこれから温かく見守っていただければ嬉しいです。   インタビュー:新井麻希(Facebook ) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

夢を語れなくなった少年が旅とコーチングに出会い、フリーランスの道へ 森越一成

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第416回目のゲストはフリーランスでコーチとして活動している森越一成さんです。  旅、そしてコーチングと出会ったことで自分の人生を切り拓いた森越さん。幼いときには夢がたくさんあったものの、年齢を重ねるにつれて、その夢を語れなくなってしまったそうです。優等生らしい選択ばかりしてきたなかで、旅を愛する人々と出会い、再び夢を語るようになります。   大人になるにつれて失われていく無邪気さを求めて、コーチングを提供している森越さんの夢の変遷を追いました。   夢を描いていた少年、受験を境に現実思考に  ー本日はよろしくお願いします。森越さんの現在の活動について教えてください。 森越一成です。2021年4月にコーチング事業で独立をし、現在は地元の静岡県を拠点として活動しています。 名古屋大学経済学部を卒業後に、広告事業を扱うベンチャー企業でプロダクションマネージャーとして働いていました。7か月就業した後に退職し、転職期間をはさんで教育系ベンチャー企業で塾の校舎長となりました。そこで3年3か月務めてから、現在の個人事業主の働き方にシフトしたんです。   ーコーチング事業で人と関りながら、コミュニティ運営にも意欲的でいらっしゃいますが、どのようなビジョンを掲げているのでしょうか? 「この世の命がみんな友達」という世界を作りたいと考えています。人と自然が生活のなかで共存している少年のような状態が、僕にとって理想です。人間って幼い頃は、敵意なんてまったく持たずに過ごしていますよね。「あの子のこと好きだな」「一緒にいて楽しいな」そういうシンプルな感情が溢れる世界を実現したいんです。そのために、コーチングや対話が手段として有効だと感じています。   ー人とのつながりに重きを置いている森越さん。幼少期から人と関わることが好きだったのでしょうか? 父が人を笑わせることが大好きな人で、その影響もあって、「目立つことをして人を笑顔にしたい」という想いを小さい頃は抱いていたと思います。元気でわんぱく、とにかく目立ちたがり屋で、学級委員などの選出があれば進んで手を挙げるタイプの子どもでした。 小学校4年生のときには授業参観でコントを披露して、それが大ウケで…あのときの夢はお笑い芸人でしたね。   ー人前に立つことが好きなお子さんだったんですね。 進学した中学校が合唱に力を入れている学校だったので、クラスごとに「歌おう実行委員」という合唱のリーダーのポジションが用意されていたんです。中学時代は実行委員に熱中していました。振り返ってみると、いまの活動にも通ずるものがあると思います。 ひとりひとり声って違いますよね。その音色が響きあって、ハーモニーができあがっていく。コーチングも、ひとりひとりの違った個性を引き出すもので、それが響きあう世界を目指しています。きっと当時から、多様性ある空間が好きだったんでしょう。   ー高校時代も、やはりグループを引っ張っていくような存在だったのでしょうか? 高校では、なにかの役割に就くこともなく、正直、あまり楽しめませんでした。思えば、僕はなにかのポジションを与えられることで、花開くタイプだったんです。あの頃は、人からどう見られるかを過剰に気にするようになってしまっていて、異性と話すことすら恥ずかしくてできませんでした。   ーかつてはお笑い芸人になりたいと思っていたように、大きな夢を描く少年だった印象を受けました。年齢を重ねてどのように変化していきましたか? 高校受験を前にすると、自分の実際の学力ばかり注視するようになりますよね。そうなってから、段々と夢ではなく、自分ができる範囲で一番良さそうな選択を重視するようになっていました。なので、高校の志望校も、自分の偏差値で合格できる一番いいところを選びましたし、大学だってそうでした。 名古屋大学の経済学部に進学したのですが、経済学部を選んだのは、中学校の夢の名残でした。本が好きで、「ブックオフの社長になる!」と思ってたんです。そこから社長という憧れだけ残り、「じゃあ、経済かなあ」と進学を決めました。   旅を通じて、夢を語る仲間に出会う ー大学では、どのようなことに熱中されていましたか? 学園祭の実行委員となって、お笑い芸人さんを誘致したイベントの企画運営に奔走していました。2年時までは、講義と学園祭準備にほとんどの時間を費やしていましたね。引退したときには、喪失感を覚えたほどでした。 就活を終えて4年生になった頃に、Twitterでたまたま「TABIPPO」のことを知りました。TABIPPOは、「旅で世界を、もっと素敵に。」をビジョンに掲げた会社で、イベント事業やメディア事業を通じて旅をする文化を広めています。 TABIPPOの企画のひとつに、「BackpackFESTA」という旅人を対象としたイベントがあるんです。全国で開催しているのですが、その初名古屋開催の運営メンバーを募集しているツイートを見かけたことが始まりでした。イベントごとに興味を惹かれていて、400人も集客をして開催する過程に携われるのは魅力だったんです。運営として参加し、僕はイベント内の新しいコンテンツ作りを担当しました。演劇サークルと共同で、お客さんも巻き込んだ参加型の演劇を上映することにしたんです。   ーTABIPPOとの出会いは、その後、どのような影響を森越さんに与えましたか? TABIPPOで活動しているメンバーにとって、旅は当たり前のものでした。それまで、僕には全然旅へ行く習慣がなく…ただ、みんなから旅の魅力を聞き、はじめて行ったタイで、僕自身もその魅力にハマっていったんです。旅先では、自分のことを知っている人が誰もいません。「真っ新な自分だからこそ、なんでもできる!」そんな気持ちになれました。 また、TABIPPOと、それを通じて出会った人々の存在は、就職した後にも影響を受けました。   ー就職は、広告系ベンチャーにされたんですよね? CM制作などを行う会社でプロダクションマネージャーとして働いていました。就職の決め手は、社長が語っているビジョンへの共感だったのですが、いざ入社してみると、そのビジョンが全く根付いていなかったんです。就職活動のときに行った自己分析が浅く、自分にフィットした環境を選べていなかったと感じました。また、激務のために会いたい人に会うことも叶わず、環境を変える必要に気付いたんです。 何よりも、その会社の内定が決まったのが、TABIPPOと出会う前だったので、そのときから僕自身の価値観が大きく変っていました。   BackpackFESTAのコンテンツのひとつに「世界一周の夢を叶えるコンテスト DREAM」というものがあるんです。自分がやりたいことを大勢の前でプレゼンして、一番支持を集めた人には世界一周航空券がプレゼントされます。そこで夢を語る人を見て、「自分のやりたいことって声に出していいんだ」って気付かされました。それまで自分の周囲には夢を語っている人がいなかったんです。夢を語り、それに耳を傾ける人がいるその空間に感化されました。 「自分のやりたいことや夢を発信して、それを叶えられる社会になっていけばいいな…」そんな思いから、転職活動を始めることにしました。会社を7か月で退職する決断ができたのは、TABIPPOで出会った同年代たちも同じように就職した環境で悩んで、同じように違う道を選ぼうと退職していたからです。背中を押してもらえました。   夢を語る人を応援したい ー自分の中の夢に目を向け、次のステップに向かったんですね。転職後はなにか変化がありましたか? 転職期間の2か月を経て、教育系のベンチャー企業に就職しました。夢を持つ人たちのサポートがしたかったからです。ただ、塾で働く仕事だったので、どうしても目的が大学受験合格になってしまいます。子どもたちはそれぞれに、素敵な夢を持っていましたが、それを本気で応援することができませんでした。そんなときに知ったのがコーチングです。   ー夢を応援する手段としてコーチングを学び始めたのはどうしてでしょうか? 子どもたちと接する中で、思っていることを伝えるには限界があるという葛藤が生まれました。僕との相性によって、提案を喜んでくれる子もいれば、逆に反発する子もいました。それで、その子たちの夢と向き合うには別のアプローチが必要だと感じたんです。相手が考えていることを引き出す、コーチングに興味を持ち、2020年1月から独学で勉強を始め、その後、養成講座にも参加しました。   ー約1年後、コーチとして独立をされたそうですが、フリーランスを選んだ理由は? やっぱり、「旅をしたい!」という気持ちが大きかったからです。旅の楽しさを知ったのが大学4年生で、社会人になってからはなかなか行けずにいました。それで、フリーランスになれば、世界一周だって行けると思ったんです。コロナウイルスの感染拡大の影響により世界は一旦白紙となりましたが、1か月半かけて日本一周の旅には出掛けました。 あとは、組織に所属して働くことをつまらないと感じるようになっていたからです。昔から他人の目を気にして、周りに期待された役割を果たそうとしていました。自分がやりたいことよりも、上司が望むことを優先してしまっていたんです。フリーランスとして個人で働くことで、自分のやりたいことに従って行動できると考えましたし、実際にそうなってみて、自分主体で働けているという手応えがあります。   ーかつての森越さんが夢を語ることを忘れたように、自分のやりたいことの実現を困難に感じる人もいると思います。 コーチになる過程で受講した講座で、「自分らしいコーチングを届けよう」というテーマで存在意義を考えたんです。そのなかで、「無邪気を呼び起こし、遊ぶように物語を繋ぎ、新しい世界を創る」が、僕の存在意義だと導き出しました。 自分のヒストリーを辿って、昔はあんなに無邪気だったのに、高校受験を前にしたときから周りの声ばかり聞くようになってしまっていたと思い返しました。僕のような人はたくさんいると思います。心から湧き上がる無邪気な感情が、いまの社会には不足していると感じるんです。もっと自分の感情を大事にしてほしい。難しい場面も多いと思いますが、実現のためにも、誰もが無邪気になれる場所を提供できるようになりたいです。   ー森越さんのいまの夢はなんですか? コーチングに軸を置きながら、まちづくりがしたいです。多様性に触れ、豊かに生きられるようなまちです。そこに来れば自分のペースで、自分と向き合うことができて、自分の個性を表現できるような場所を、対話を通して作っていきたいと思います。 ー本日はありがとうございました。 森越一成さん(Twitter/note) 取材:大庭周(Twitter) 執筆:野里のどか(Twitter/ブログ) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

自分の書道アートには誰かを救う力があるーー夢を言葉にすることで未来を切り開いてきた書道アーティスト Junpei Hagihara

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第381回目となる今回は、書道アーティストとして世界で活躍するJunpei Hagiharaさんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 大学在学中から活動を開始したHagiharaさんですが、書道は全くの未経験。なぜ書道という表現方法にたどり着いたのか。そして作品を通して実現したいことは何か深堀りしていきます。 未経験だけど無縁じゃないーー書道を始めるきっかけと続けられたモチベーション ーまずは自己紹介を含め、どのような活動をされているか簡単に伺えますでしょうか? 現在29歳。書道アーティストとして活動しています。書道を始めたのは20歳になってからで、特に誰かに師事することなく我流で自分のスタイルを探していきました。21歳の時から個展を開催して、ありがたいことに様々なエキシビションにもお招きいただいています。 2019年にはパリで作品を展示する機会に恵まれ、多くのクリエイターとコラボするきっかけとなりました。 2022年には、シンガポールの国立博物館にも作品を出展することが決まっていますね。 ーまったくの未経験から書道アーティストとしてのキャリアをスタートされたことに驚きました。きっかけは何だったのでしょうか? そもそもは大学受験に失敗したという挫折経験が影響しているんです。第1志望の大学に行くことが出来ず、それまで支えてくれた両親や塾の先生を落胆させてしまった後悔から、「これまでの失敗経験をバネに、何かしらの成果を残して卒業してやる」と入学式の日、校門をくぐる時に決意したんです。 暇を持て余すことが嫌いという性格もあって、最初の1年は学業に専念しながらアルバイトを6つも掛け持ちしていました。2年生になったとき少し時間の余裕が生まれてきて、今まで挑戦できていないことで自分の時間を充実させようと思ったんです。 ーそこで出会ったのが書道だったんですね。 はい。何か自分を表現できることに取り組みたいと思っていたんです。当時はカメラを趣味とする人も大勢いましたが、「人口が多い分野に飛び込んでも、突き抜けることは難しい…競合が少なく突き抜けやすい分野にしよう」と考えました。 そんなとき、小学生の頃から好きだったEXILEの元ヴォーカル・清木場俊介さんの書道の作品を思い出したんです。清木場さんは、ご自身の価値観や思いを筆に託し、我流の書道作品として発信されていました。 私は小学校から中学校まで剣道をやっていたのですが、試合に望むために自分のギアを上げるような時に清木場さんが書いた言葉に励まされていたことを思い出したんです。 また、私自身も小さい時から字をほめられることが多かったんです。両親が達筆だった影響もあり、幼稚園の頃からひたすら両親の字をまねてきたからだと思います。 書道は自分に影響を与えてくれたものでもあり、自分が人に褒められるとい原体験に紐づくもの。だからこそ、自分も書道で人に影響を与えるような存在になれるんじゃないかと思い至ったんです。すぐに最初の筆を買いに行きました。 ーそれまで書道は未経験だったんですよね。二の足を踏むようなことはなかったのでしょうか? 基本的にやらない後悔よりやる後悔を優先して生きてきました。失敗という経験は財産でもあります。書道を始める時も、やってみないとわからないというシンプルな動機だったのではないでしょうか。少なくとも、売れなかったらどうしようとか悩むことはあまりなかった。やってみたいのにグダグダ踏み出せずにいることの方がダサいと思っていましたね。 今でもそうで、ネガティブに物事を考える時間ってめちゃくちゃもったいないと思っているんです。もちろんリスクヘッジして行動することは大事ですが、それとネガティブに考えることは違います。 むしろ、良いことが起こると想像したり成功している自分をイメージしたりしていれば、自然と良いことが引き寄せられる気がするんです。 スポーツ選手にも、そのようにポジティブな思考でプレーの品質を高めようとする人が多いと聞いたことがあります。私も人に喜んでもらうことをイメージすることがモチベーションになっていると思います。 ーなるほど、やってみたいというシンプルな想いに素直になることで、現在へ至るキャリアが拓かれていったんですね。一方で、それを続けることは決して簡単なことではないと思います。書道を続ける原動力になったような体験はあるのでしょうか? 書道を始めて間もないころ、携帯の待ち受け画像用に書を書いていたんです。「あなたが好きな文字や言葉を書にして待ち受けサイズにしますよ」って。結構口コミで広がって、たくさんの人の待ち受けに僕の書が飾られました。 当時はスマホがまだ普及していなくて、ほとんどの人がガラケーを使っていました。ガラケー時代の待ち受け画像って、今では考えられないぐらい皆こだわりを持っていたんです。 そんな時代にあって、大学の後輩が「僕は飽き性でしょっちゅう待ち受けを変えてきました。こんなに長く僕の待ち受けをジャックしたのは、Junpeiさんの書が初めてです」って言ってくれたんです。 人の日常に僕の書が入りこんでいること。そして、その人の日常にわずかでも影響をあ与えているんだという実感を得たことが大きな手応えになったんです。 目標を口に出してこそ叶えられることがある ーHagiharaさんの、実行力ともいえるエネルギーはどのように身についたと思いますか? まずは、小学校から中学校まで続けた剣道の経験が生きていると思います。全国優勝を本気で目指すような強豪道場に所属していて、とにかく目標に向かってひたすら努力するという体育会系気質が自然と身に付きました。おかげで大阪府代表として全国大会入賞の成績を残すことができました。 もう一つは昔から好きだったEXILEの影響ですね。影響を受けすぎて、彼らのドキュメンタリー番組もVHSが擦り切れるほど見ていました。パフォーマンスだけでなく、彼らの普段の姿を通して学んだのは、お客様のために普段から何をするべきなのか考え、議論し、すべきことや夢を口にして、それを叶えるために必死に努力しているのだということ。一流とも言える彼らがそのようにストイックなら、私もそうでなければいけないと思ったんです。 私も目標を口にするようにしています。宣言したことに対して努力をするという経験をしているかどうかは、人生に大きな差を生むものでしょう。もちろん成果を残すべきですが、万が一実現できなかったとしても約束を守ろうとする努力をすることが人として大事なんです。 ー目標を口に出して実行するってとても大変ですよね。 ハードルが高いとは思っています。宣言したことで、嘘になってしまうことだってありますからね。 ただ、意外と自分が宣言したことなんて周りは覚えていないものなんです。よっぽどの有名人でワイドショーに取り上げられるような人物ではない限り。だから、ある意味ドライに考えるといい。自分自身に宣言したことが実現できなくても、叩かれたり縁を切られるようなことはないんです。失敗した時を考えず、とりあえず宣言してみることも大切でしょう。ただし成果を出すための努力は絶対に怠ってはいけません。 ー宣言することで周りからどう見られるかを気にするのではなく、宣言することで得られるエネルギー、モチベーションを大事にされているんですね。 特に日本人は周囲の目を気にしすぎていると思いますね。人とは違うことをせず、足並みをそろえることを美徳とする文化で育った人が未だに多い。自分がいいなと思ったことでさえも、周囲の目を気にして実行できないでいる。一度吹っ切れてしまえば、気持ちは楽になると思うのですが…。 ー出る杭は打たれる風潮は確かにあるかもしれません。萩原さん自身そういう経験はないのでしょうか? むしろ、人と違うことをポジティブな個性と捉えられる感覚を両親に育んでもらったと思っています。特に両親は協調性を持ちながらも人と差別化をはかることが得意でした。 小学生に入学する時、私のランドセルに緑色を勧めてきたのですが、「ちょっと人とは違うランドセルを背負うだけで注目されるし、違う見られ方をするからいいんじゃない?」と言うんですね。 だから僕はランドセルを他の男の子と同じ黒色にしたいと思ったことは一度もないし、人と違う色が自分のアイデンティティだと思っていたんです。   書道だけど書道じゃない。自分だけの作品で人を救いたい。 ー近年の活動についても伺いたいと思います。最近ではどのような作品を発表されているのでしょうか? 現在の活動で軸としているのは、書道をベースとした新しい現代アート作品を発信することです。書道にも見えるし、アートにも見えると捉えてもらえるような作品を目指しています。 インスタを中心に作品を発表しているのですが、最近特に反響があったのは誰もが良く知っているひらがなをすべて反転させて作品に落とす「ひらがなリフレクション」という取り組みです。 例えば、ひらがなの「あ」って誰でも書けますよね。ただそこには書き順など一定のルールが存在します。なぜ書き順を逆にしてはいけないのでしょう。横棒を書くとき右から左へ筆を走らせたっていいじゃないですか。 つまり「ひらがなリフレクション」は、常識を疑うことを裏テーマに、ひらがなをアート作品とする試みなんです。大事なのはグラフィックとしてかっこよかったり、可愛かったりすること。そういう軸で文字を見ると新鮮な体験を得られると思いました。 とある彫師の方からは「タトゥーとして彫ったらかっこいい」と評価していただきましたね。自分の作品がタトゥーのデザインとして見られるなんて思ってもいなかったのですが、それは書道の枠を超えたグラフィック作品として捉えていただけているということでもあります。手応えを感じましたね。 ー既存の書道の概念にとらわれない作品を目指すことで、萩原さんのフィールドも広がっていくんですね。 作品そのものを好きと言っていただけることも嬉しいのですが、「あなたのスタンスに惚れている」といって応援してくれる人もいるんです。アーティスト冥利に尽きますね。 自分が良いと思ったものを大事にしてくれる、共感してくれる人がどれだけいるかがアーティストとしては重要と思っています。 ー自分が何を大切にするのか、どんなスタンスを取るのか悩む人もいます。Hagiharaさんはそのような軸をどう見つけたのでしょうか。アドバイスはありませんか? 振り返れば自分がワクワクできるかどうかを判断基準にしてきたのではないかと思います。昔から無心になってできたこと、没頭できたことが何かを振り返れば自然と軸は見えてくる。個人的には軸を探さなきゃと焦るほど、大切なものに気付けないと思うんです。 あるいは、親に聞いてみるのも良いのではないでしょうか?自分の一番の理解者は絶対家族 だと思います。気恥ずかしさから聞けない人は多いでしょうが、親は子供のことをしっかり見てくれているものです。案外、自分の軸となるような意外な一面が見つかるかもしれません。 ーありがとうございます。最後に今後の展望を伺っても良いでしょうか? 実は最近、自分のビジョンを見直すようなきっかけに恵まれたんです。最近流行っている音声SNSの「Clubhouse」で、ありがたいことに大勢のアーティストやクリエイターとの面識を得ました。中には特定のジャンルで一流と評価されるような方も少なくなく、彼らと対話することである気づきを得たんです。 それは、一流の人はビジョンがとてつもなく大きいということ。聞く人によっては笑ってしまいそうなほど大きな夢を平然と語れるんです。そしてそれを本気で実現しようとしている。 私も長年、自分の作品で人を喜ばせたいと考えてきましたが、もっと大きな夢を持ちたいと思うようになりました。 折しも世の中はコロナショックによって大勢の方の命が危険にさらされている時でもあります。医療従事者の苦悩や、無くなった感染者の話を聞くたびに何かできることはないかと考えていたんです。 大きな夢を持ちたいという想いと、苦しむ人の助けになりたいという想いを抱え込んだとき、やはり思い出したのは僕に書道を始めるきっかけをくれたEXILEでした。 EXILEのメインヴォーカルだったATSUSHIさんが、「自分の歌で誰かを救いたい」と言っていたことを思い出したんです。これだと思いました。私も作品を通して人を救いたいと思ったんです。 突拍子もなく、因果も説明つかないような夢かもしれません。ただ、これまでもそうだったように、臆さず口に出し続けることできっと叶うと信じています。そういう気持ちで発信する作品には、例えば病気の人の何かを変えるような、生きることに悩んでいる人の支えになるような力が宿ると思うんです。 そんな作品を今後も作り続けたいと思います。 ー本日はありがとうございました!Hagiharaさんのさらなる挑戦を応援しています! 取材者:新井麻希(Facebook) 執筆者:海崎泰宏 デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

複業から自身の会社一本へ。「好き」と「自由」を形にーーハピラフ代表・富田竜介

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回は、ゲストとして以前お話を伺った方のその後に迫るべく、2020年3月31日公開記事のゲスト・富田竜介さんに追跡インタビュー。 前回のインタビュー時はブライダル事業のリクシィと自身の会社ハピラフの複業をしていた富田さん。転職後も複業を続けましたが、あるタイミングで独立してハピラフ一本でやっていく意思を固めたそうです。独立への迷い、独立後に起きた変化、これから力を入れたい分野について語っていただきました。 ▼会社員と企業家として複業をしていた頃の富田さんのお話は、前回のインタビュー記事で。 3,500人のフォロワーで月商500万円。Instagramで大切なコンセプトメイキングとコミュニティ意識 「やりたいに素直な世の中を作る」がハピラフのミッション ー前回の記事公開から1年4ヶ月経ちましたが、現在のハピラフの事業概要と力を入れている点を教えてください。 ハピラフでは現在3つの事業を展開しています。1つが自社メディアの運用。約90のInstagramアカウントを運用し、累計フォロワー数は160万人ほどです。アンケート機能を使ってフォロワーのニーズを探るなどしています。例えば「節約チャンネル」というアカウントでは主婦向けの節約レシピや収納についての情報を発信しています。Instagramの他にwebメディアとYouTubeチャンネルも運用中です。 2つ目がSNSの運用代行とコンサルティング。3つ目が、今一番力を入れているD2C事業です。最終的にハピラフはものづくりの会社としてやっていきたいと思っています。これまでも自社商品は出したことがありますが、今回は足掛け1年7ヶ月かけて開発した渾身のバスソルトをMakuakeでリリースすることになりました。 ーーMakuakeでのリリースの話も後ほどお伺いしたいと思います。ハピラフはどんな社風ですか? ハピラフはハッピーとラフ、つまり幸せかつ笑顔でいる場所を作るために「やりたいに素直な世の中を作る」をミッションに掲げています。役員は3人いますが、会計やマーケティングなどそれぞれがやりたいことをやっています。 役員の他に業務委託のメンバーもいて、例えばもともと事務職をやっていた人が本当は商品を作りたいのであれば、化粧品の開発をしていただいています。やりたいことがあるけどやれていない人にハピラフが場所を提供するイメージです。やりたいことをやる方が人生楽しいので、やりたいことを素直にやれる人たちを応援したいです。 ーー「好き」や「やりたい」を大事にしているのですね。 そうですね。嫌いを削ぎ落としていくとやりたいことが見つかると思います。2社目の化粧品会社でライフウェイクシートというものをやったのですが、そのシートで生まれてから現在まで、どんな時に人生のメーターが上がったり下がったりしたかを洗い出しました。 例えば単純作業の皿洗いのバイトは向いていなかった、商品を作っている時は楽しかった、など。自分の人生を振り返って、最終的にたどり着いたのが「誰と働くか」です。ハピラフは幼なじみと創業したのですが、彼といるとゲームをしていてもつまらないことをしていても楽しいです。 人・物・金が揃ったタイミングで複業からハピラフ一本に ーー前回の記事公開から現在までの変化で一番大きかったのは複業からハピラフ一本に絞った点だと思いますが、どのような経緯があったのでしょうか? 前回インタビューを受けた時はリクシィに勤めていましたが、コロナ禍でブライダル業界が打撃を受けてしまって。5年間で5社ほど経験しましたがスタートアップとベンチャーしか経験したことがなかったので、上場している大きな会社で働きたいと思い転職活動を始めました。 C2Cのプラットフォーム事業をやっていて、アプリのプロモーションができる会社を探していたところ、クックパッドマートというサービスを知り、クックパッドに入社しました。 ーー大企業を選んだ理由を詳しく教えてください。 大企業で何かをしたいというよりも、社内の動きがスタートアップやベンチャーとどう違うのかを知りたかったのが大きな理由です。上場企業だと株主がいて、動かせるお金の額も違うので。クックパッドは大きい会社ですが意思決定を迅速にする設計がされていて参考になりました。 ーー転職後の気持ちはいかがでしたか? クックパッドでもっとやりたい気持ちはありましたが、そのタイミングでハピラフが伸びて来たのでそちらに注力したいとも思いはじめました。悩んでいた頃クックパッドJapanの代表と話す機会があり、その人に独立した方がいいのではとアドバイスをいただきました。 ーー独立の決め手になったのは何でしょうか? 決め手は人・物・金が揃ったことだと思います。揃ったタイミングでやらないと自転車操業になってしまうので。これまでの事業でポートフォリオと基盤ができていました。 冒頭でお話した通りハピラフは幼なじみの公認会計士と共同創業したのですが、僕がクックパッドのことで迷っている時も彼は会計士として独立する強い意思がありました。それなら自分も今が独立の時だと思い、二人の独立のタイミングが重なったのが大きかったです。これからは自分の会社一本に絞る意思が自分にも固まりました。 ーー代表からのアドバイスと人・物・金がそろうタイミングが決め手だったんですね。ここからは独立後のことについてお伺いします。独立後に起きた変化はありますか? 1つは、意思決定のスピードと自由さが上がったことです。サラリーマンだと重大な意思決定は階層を上げてやりとりをしなければなりませんが、自分の会社だと全部自分で決められます。自分の意思で100%納得のいく決定ができるようになりました。 ハピラフの役員は3名ですが、業務委託を含めると100名以上が関わっているので、意思決定を早くして迅速に進められるようにしています。現在ハピラフでは一気に20商材ほど作っていますが、普通の会社ではなかなかできないスピード感だと思います。僕はこれくらいのスピードでやっていきたいんですよね。 もう1つは、時間的制約がなくなったことです。例えば、小さいことで言うと好きな時間に美容院やジムに行けるようになったこと。最近だと平日に社員旅行に行きました。自分たちの会社なので好きなように時間を使えるのがよかったです。グランピングにもよく行きます。オフィスから環境を変えて、焚き火やキャンプをしながら仕事をしました。 ーー焚き火を囲むとアイデアが出やすくなると言いますよね。 そうですね。あとドライブ中もよくアイデアが出ると思います。パソコンを持っているとつい何でも調べてしまいますが、ドライブ中は会話に集中するしかないのでよい刺激になります。 ものづくりの会社を目指して。Makuakeでオリジナルバスソルト「​​BATHFUL(バスフル)」をリリース ーーアイデアがひらめくといえば、お風呂の中でもよく考えが浮かびませんか? まさにそうなんです!僕はお風呂ってとてもいい場所だと思っていて。体にいいし、コミュニケーションの場でもあります。子供がいる人や夫婦など、お風呂で話すことも多いですよね。 一人で入るとしても、自分の好きなように時間を使えることは大事だと思います。ボーッとするのもいいし、Netflixを見たり音楽を聴いたりするのもリラックスできます。そんな中でアイデアが浮かぶことはもちろんあります。 ーー富田さん自身、子供の頃からお風呂が好きだったとお伺いしました。お風呂へのこだわりはありますか? お風呂が好きすぎて、日本中の入浴剤を全部試したんじゃないかというくらい色々試しました。今はバスグッズを紹介する「お風呂大好きTommy〜バスグッズマニア〜」というチャンネルを個人でやっています。 しかし、香り・濁り方・肌触り・匂いの残り方など僕がこだわるポイントにおいて一番納得できる入浴剤がなかなか見つかりませんでした。今回Makuakeでリリースするバスソルト「​​BATHFUL(バスフル)」は、試作して何回も作り直してようやく納得できるものが作れました。お風呂にこだわりがあるからこそ本当にいいものを作りたかったので、リリースまで1年7ヶ月かかりました。 ▼Makuakeのリリースはこちら おうち時間を充実させるBATHFUL バスソルトで至福のひとときを。 ーー富田さんの熱意が感じられます。商品について簡単に教えてください。 森林・柚子ジンジャー・ホワイトフルール・バスフルの香りの4種類を用意しました。一番おすすめは商品名にもなっている「バスフルの香り」で、香水をイメージした香りです。香りの想起って強いですよね。先日デパートに行ったら「イソップの香りがする」と思ったのですが、そういう脳内のマインドを取っていきたいです。 バスフルは雪の結晶のようなめずらしい形のバスソルトで、これが濁り方につながります。見た目にも映えますよね。今までにない入浴体験になると思います。他にも肌に良い成分や匂いの残り方にもこだわりました。 ーーお客様のニーズはどうやってリサーチしたのですか? ハピラフで当時100万人ほどいたInstagramのフォロワーアンケートを取り、好きな香りのリサーチをしました。発汗したい人、リラックスしたい人、肌に良い成分を求める人など入浴剤に求めるものは様々だと思いますので、香りと掛け合わせて開発をしていきました。 ーー2社目で化粧品会社に勤められてた富田さんが、ご自身が関心のある美容とお風呂を掛け合わせて生まれた商品なのですね。 はい。これはずっとやりたかったので自分の会社で形にできて嬉しいです。今後はバスフルのブランドで横展開で商品を出す予定です。サボンやロクシタンのように、スクラブやハンドクリームなど。Makuakeでのリリースが終わった後はshopifyなどを使って自社サイトやポップアップ(期間限定で開設されるショップのこと)で販売していきたいです。 ーー冒頭でD2Cに注力したいとおっしゃっていたのがここに繋がっているのですね。ハピラフの今後の展望について教えてください。 もともとメディアをやってきて、Instagramのノウハウを基にコンサルや運用代行をしてきましたが、今度はそのメディアのユーザーを活用しながらものづくりをしていきたいです。今後は自社工場を持ってオリジナルで作りたいですね。目標は5年以内です。 「自由」がキーワード。社会人経験も大切にしつつチャンスを逃さないように行動。 ーー富田さん自身の今後のビジョンは? D2Cの業界の構図を変えていきたいです。赤字になって広告費を投下して、あとでサブスクで回収するというモデルが多いように思います。赤字で売却することもあります。資本主義なので市場規模が大きいものを目指したいのは分かりますが、それって本当に幸せかな?と。 僕らの会社は売り上げと利益が死ぬまでにいくらあれば幸せかを出していて、それ以上は大きくしないと決めています。17時まで仕事をしたら帰って子供と遊ぶ時間を作るなど、日本人は一人ひとりに合った幸せをもっと追求してもよいと思います。「自由」が僕のキーワードです。 資本主義でお金を稼ぐことが第一になると、お客様のことを考えられないビジネスができてしまいます。僕たちはお客様が購入を自由に選べることを大切にしているので、プロダクトの誠実さを伝えたいです。買ったことがない商品を定期で買うのは会社の都合でマーケティングをしているように感じるので。 また、株主を入れると会社は株主のものになってしまいます。自分が社長なのに株主に引っ張られて自分の意思決定ができないという例をスタートアップで見たこともあるので、できるだけ自己資本の方が融通も効くし自由にできるという成功事例を出していきたいです。 ーーユニーク世代のネオ資本主義という感じで面白いですね。最後に、ユニーク世代で独立を迷っている人へのメッセージをお願いします。 今の時代複業として2足や3足のわらじを履く人は増えているので、いきなり1本に絞らなくていいと思います。やりたいことを裏側で積み上げてもいい。僕は5年間サラリーマンをしましたが、社会に出て働いたからこそ現場目線が分かるようになりました。マネージャーはどんなことを考えて動かしているのか、上下関係はどうすればいいのか、など。 サッカーでも高校からいきなりJリーグに行くより大学に行ってからJリーグに行く人が重宝されることがあります。例えば長友選手のような。礼儀や人間性を大学サッカーで学べるからだと思います。 僕たちの世代で独立したい人は多いですよね。途中でもお話しましたが人・物・金が揃うタイミングは必ずくるので、それまでは社会人として経験を積んで結果を出しつつ、独立のチャンスを逃さずに行動すれば実現できると思います。 ーー富田さん、力強いメッセージをありがとうございました! 富田さんが1年7ヶ月かけて開発した入浴剤のブランド「BATHFUL(バスフル)」は、2021年7月27日までMakuakeにてクラウドファンディングを実施中です。富田さんのこだわりを、ぜひ体験してみてくださいね。 ▼Makuakeのリリースはこちら おうち時間を充実させるBATHFUL バスソルトで至福のひとときを。 インタビュー・執筆:小山志織(Twitter/note) デザイン:藤井蓮

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