YouTubeチャンネル登録者数10万人に至るまで!堀口英剛さんの物事の考え方に迫る

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回は株式会社ドリップCEOとして活躍する傍ら、ご自身のYouTubeチャンネルでも積極的に活動されている堀口英剛さんです。  小さい頃からモノを集めるのが好きだったという根っからのモノ好き堀口さんですが、現在のインフルエンサーとしての活躍に至るまでの経験や考え方について、今回は伺いました。   YouTubeの面白いところは、双方向のやりとりにある ー簡単に自己紹介をお願いします。  堀口英剛と申します。今年30歳になるのでアンダー29ギリギリの歳です。株式会社ドリップという会社を経営しており、私を含めた様々なインフルエンサーさんとモノづくりをしている会社さんを繋ぎ、新しい発想と確かな技術を元にして今までに無かった製品や長く愛されるような製品を皆様に届けるお手伝いをしています。  それと並行して、「monograph」というYouTubeチャンネルを持っており、暮らしに関するお話や新しい電化製品やガジェットなどを紹介しています。自分の好きなものを発信する活動は、大学2年生から続けているので10年ほどやっていますね。初めは、ブログでテキストと写真を組み合わせての発信を始め、去年頃からYouTubeへ移行しました。本業で会社をやりつつ、複業としてYouTubeでの活動をしています。   ーまだYouTubeは始めて2年ほどなのですね。  はい。私の場合、ブログでの発信経験があったので立ち上がりも順調でした。始めてからの伸びが早いのがYouTubeの良いところではないでしょうか。ある程度コンセプトや質がしっかりしていれば、YouTube側が勝手に集客してくれます。コアな層にはブログ時代にアプローチできていたのですが、より広いマス層にYouTubeを通して知ってもらえたと感じています。  ブログでは物撮りが多かったので基本的に顔出しをしていなかったのですが、YouTubeでは顔出しが基本なので、街で声をかけられることが増えました。顔だけでなく声で気づいていただくことも多く、動画だと五感を通してコミュニケーションが取れるので面白いです。   ー他のSNSではなく、YouTubeならではの面白さなどはありますか?  沢山ありますが、双方向のやりとりができるのは面白いです。ブログの頃は読者からの反応を知れる機会は多くはありませんでした。しかしYouTubeではチャンネル登録機能や、コメント機能によって段違いに反応をいただく数が増えたので、それがやりがいに繋がっています。  また、YouTubeの方が分析機能も充実していますね。例えば直近であげた10本の動画のうちどれがどのような層に人気なのか、などを事細かに教えてくれるんです。そしてその分析を踏まえて改善していくと確実に再生数も伸びていくので、ゲーム感覚で楽しめます。   ーどのような比率で本業と複業をおこなっていますか。  本業:複業が、5:5か6:4くらいですね。時間でいうと圧倒的に本業の方が長く働いていて、朝や夜の空き時間にYouTube用の動画撮影や編集などを行なっています。合間の時間にYouTubeをしているような感じです。   自分のペースでも、やることをしっかりとやっていれば結果は自ずとついてくると気付いた学生時代 ー幼少期はどんな子どもでしたか。  思えば、小さい頃から好みの本質は変わっていなくて、物を集めたり何かを作ることが好きでした。小さい頃の夢は発明家でした。昔は機関車トーマスや魚、今は植物を集めてみたりと、その時々で興味のあるものを収集する癖は変わりません。  モノづくりと言っても、かかと部分が無いダイエット効果が期待できるスリッパのような今までにない新しいアイデアの製品を作るのが夢でした。今のお仕事では新しいアイデアを持った人と物を作ることが出来ているので、夢が叶った部分もあります。   ー小学生の頃は、剣道をされていたとか。  はい。剣道は何となくで始めました。当時はとても楽しかったのですが、いま思うと剣道は大人になってからの使い所が無いなと思っています。学生時代に球技などにハマっていたら、もう少しスポーツを続けていくことへのハードルが低かったのかなとも思います。  もちろん、剣道をやっていて良かったなと思うことはあります。剣道は基本的に1対1の個人戦なのですが、決勝へ勝ち進んだときに沢山の人から注目される場面で声を出して緊張に打ち勝ちながら力を発揮して相手を倒すという経験から、人前で何かをしたり話すことへの場慣れが出来たと感じています。チーム競技ではなく個人競技ならでは、周りから注目されることへの耐性が付いた気がします。   ーその力に気付けているということも素敵ですね。そのまま剣道を続けていたのですか?  いえ。高校は男子校に通っていて、チームで何かをやりたいなと思ったので吹奏楽を始めました。当時通っていた高校の吹奏楽部がとてもかっこよく見えたからです。楽器であれば今後の長い人生で続けていけることや、音楽は生活の中にも取り入れることが出来ることなどが選んだ理由にありますね。本当に楽しかったです、まさに青春でした。   ーちょうどこの頃に自分のペースを掴むことを学んだとお伺いしています。  当時通っていた高校が「自主自立」を大事にしていたので、制服も校則もなく、全てが自己責任の学校でした。当時、私は朝にすごく弱かったので昼から登校して、出席しなかった分は自分で勉強して補っていました。その時に、型にハマらずともやることさえしっかりやっていれば結果も出るし、認められることを学びました。おかげで、社会人になってからも自分のペースで仕事や生活が出来ています。   ー周りに流されないようにするコツはありますか。  やることをやっていないと、他のことを心から楽しめていないと気付けるかは重要かもしれません。「あれをやらなきゃ、これをやらなきゃ」と気にしている時間が勿体無いので、気になる前にさっさと終わらせてしまえば、効率も生産性も上がって一石二鳥です。   大切なのは、こなす量と継続すること ーその後、大学へ進学されて、ブログを始められたんですね。始めるきっかけとは、何だったのでしょう。  そうですね。ここが私のターニングポイントだったと思っているのですが、当時の通学時間が片道2時間半ほどありました。初めの頃は当時流行っていたパズドラをずっとやっていてたのですが極めたら飽きてしまって、何か別のことをしようと思いmixiを始めました。そこで映画や漫画の感想などを発信していたら周りから好評で、友人しか見ることが出来なかったmixiよりも、さらに多くの人に見てもらえるようにとブログを開設しました。とにかく時間があったので、多いときは1日で5記事ほど書いた日もありました。当時は大学の授業を受けつつ書いたりと、とにかくハマって書いていました。   ーネタが切れたりなどは、無かったですか。  元々、ネット上の記事を読むのが好きだったので1日に1000記事くらい普通に読んでいて、そうするとその中で1,2記事は確実に面白い記事があります。その面白い記事の紹介もしていたので、ネタが尽きませんでした。   ーそれぞれのスキルはどうやって磨いていったのですか。  一定のレベルまでは量で補っていました。自分の型を決めて目に見えないような1、2%の改善を重ねて少しずつ質を上げていった結果、自分の色が出てきました。これはスポーツも似ていると感じていて、例えば5球しか投げない時よりも100球を投げ続けた方が一定のレベルまで身体も覚えて改善しやすいですよね。  そこからは、続けることです。ブログやYouTubeの数字が跳ねたのは、全て日々努力を続けた結果に過ぎません。   一歩を踏み出す事が成功への近道 ー新卒での就職先はどのように決めたのですか。  2,3社から内定は頂いていましたが、最終的にYahoo! JAPANに入社を決めました。自分の性格と合っていて働きやすそうだと感じたからです。というのも私は、力を注ぐ一つの軸を持ちつつ他のことにも挑戦してみたくなってしまう性格なので、一社に全身全霊は捧げられないと思ったのです。   ーなるほど、当時からパラレルキャリアを意識されていたんですね。  そうですね。最近は複業OKの会社も増えてきていますが、実際は「業務は通常通りやった上で副業をしてね」という場合がほとんどです。例えば週3出勤がOKであったり、15時の退社が認められるなど、一定の自由が認められなければ本質的に副業OKとは言えないと思っています。その点Yahoo! JAPANは当時から副業に対しての理解があり、柔軟さがありました。   ーその後独立をされてますが、なぜ決断されたのですか。  Yahoo!JAPAN!では、新規事業をやるよりも既存事業で成果を出して親会社のソフトバンクに利益を還元する考えが根本にありました。しかし私は新規事業をやりたかったので、当時人事だった伊藤羊一さんに相談したところ独立を勧められ、起業を決めました。   ー一歩を踏み出すのは怖くなかったですか。  恐怖心はなかったですね。もともと好奇心が強いのもありますが、気になるものがあったらまずやってみる、現状維持よりは新しくチャレンジしてみることが成功への近道だと考えています。私の知り合いでも、「YouTubeってどんな感じなの?」と話だけ聞いてくる人と、面白そうだからやってみた人とどちらもいますが、後者の一歩を踏み出せる人の方が圧倒的に成功している印象です。  よく言われることではありますが、まずは一歩を踏み出してみて、そこで分かったことを元に改善していくやり方の方が最終的に成功する確率は高くなりやすいです。この事を実体験ベースで私は知っていたので、起業する事にためらいはありませんでした。   自分の中のポジティブな感情を大切にする ーどのようにして新しいことに挑戦し続ける原動力を生み出していますか。  自分が楽しいと思えることを意図的に集めて、パワーを出しやすい環境を自ら作るようにしています。例えば私自身は、オススメしたものを友達が気に入ってくれた時にとても楽しいと感じます。なので、仕事にもその要素を取り入れるようにしています。  Yahoo!JAPANで営業をしていた時も、取引先の方に「(当時から好きだった)家電やガジェットについてなら何でも答えられます」と毎回言うようにしていました。その結果、取引先の役員の方とドラム式洗濯機を買いに行ったこともあります。(笑)自分が楽しいと思えることを仕事に付け加えていくことで、自ずと力が出しやすくなり結果として仕事もうまくいく好循環が回り始めます。ぜひ皆さんも、自分が楽しいと感じる要素を見つけ、日常に取り入れてみてはいかがですか。   ー最後に、今後目指す姿や未来について教えていただけますか。  これまでは0→1ベースでメディアや会社をつくる経験をしてきたので、次はそれらを1→100に広げていくフェーズに取り組んでいきたいです。   ーありがとうございました!堀口さんのこれからの活躍を期待しています!! 堀口さんのYouTubeチャンネルはこちら👇 取材者:吉永里美(Twitter/note) 執筆者:たるちゃん デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

決断と挑戦を積み重ねてきた「リレーションデザイナー」川口 ゆりの生き方に迫る!

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第211回は、フリーランス広報・ライター・モデルの川口 ゆりさんです。高校1年生の時に空手部で経験した挫折を機に、高校3年生の時にはミス・ユニバース・ジャパン 北海道大会へ応募することになった川口さん。これまで幾度の決断と挑戦をしてきた川口さんに、これまでの人生やそれぞれのターニングポイントで大切にしてきた思いなどを伺いました。   広報ライター、企画・モデルのマルチな生き方だからこそ時間を大切にしたい ーまずは自己紹介をお願いします。 北海道札幌市出身で、2019年6月に札幌から上京しました。現在はフリーランス広報・ライター、企業広告のモデルなど幅広く仕事をしています。元々、学生時代から女性の社会進出や働き方に関心があり、「世界三大ミスコンテスト」と呼ばれるMiss Universe Japanの地方大会の最終やMiss Internationalの日本代表選出大会に出場した経験もあります。 その後、Missの経験を生かしながら、北海道中を駆け巡って様々な自治体に呼んでいただき、講演会を開いていただきながら、新卒で入社した旅行会社では、法人支店で法人・教育・MICE旅行の企画手配や営業サポートのを経験しました。その後、転職先のファッションEC×TECH企業では人事・採用広報・広報PRとして経験を積み、昨年独立をしました。 ー現在はフリーランスの広報・ライター・モデルとして活動されていると思いますが、1日の仕事の流れについて教えてください。 フリーランスとして常に同時並行で様々な企業の広報部門や編集部でお仕事をしていますが、自分で自由に時間を組み立てて業務内容を決めています。人事や広報、イベント企画などのキャリアを活かした仕事もも多いですが、執筆・編集だけではなくモデルとしても担当するPR記事や広告出演など、目的達成の為には自身が表に立つこともあれば黒子として企画サイドに入ることもあります。 また、最近では都内の社会実験のための複合施設で「女将」という肩書で、イベントの企画と渉外調整、広報、接客を担当していました。まだ見ぬ価値を持っている様々な人々や物事を繋げる場所で様々な物事に関わりたいため、時間の使い方を考えながら常に新しい物事に挑戦したい気持ちがあり、マルチでフレキシブルな働き方を模索しています。 好奇心と強いチャレンジ精神は学生時代が原点だった ー過去の話を伺えたらと思うのですが、どんな幼少期を過ごされていましたか。 幼少期は、マイペースで様々なことに興味を持っていました。幼稚園の遠足の時は、みんなでワイワイするよりも、一歩引いた目線で周囲にある建物や人などに関心を持ち、1人だけ先生のところに駆け寄り、色々と質問をすることも多かったです。好奇心旺盛な点は小学生の時も今も変わらないですね。小学4年生の時に両親に買ってもらったコンポではよくFMラジオを聴いていて、小学5年生の時にはラジオ番組にメッセージを送ったりするなど大人びていました。 「自分の知らない世界が世の中には広がっているんだろうな」と見えない未来に想像を働かせることがとにかく楽しみで、小学校で見る目の前の風景よりも、大人になってからの自分の人生の方が楽しみで仕方なかったです。 また、小学生の頃から後輩の面倒を見て気にかけることが得意で、生徒会長をしながら下級生のクラスに手作りの紙芝居の読み聞かせをしにいくなど、誰かの喜びや幸せを真剣に考えていました。自分の好きなことに熱中しありたい姿を追いかけ続けるところはは今の自分に繋がりますね。 ー高校はどういったところを選んだのでしょうか。 実は、高校受験に失敗してしまって、第一希望の高校への進学ではなく全校生徒1300人を超える、日本で最多の甲子園出場を誇る私立高校に進学しました。人が多く集まる学校は、必然的に挑戦できる物事が多いだろうと思ったからです。実際に面白い先生がいる場所で、英語の先生と国語の先生と一緒にバンドを組んで学園祭で演奏することもありましたね。 また、高校1年生の時に空手部に入り、空手の選手を経験しました。しかし、空手部での試合中に足を怪我してしまい、挫折をしてしまいました。最初は空手を続けたいという気持ちがあったものの、休んでいる間にどんどん周りと自分との差がついていく姿からを見て感じ、退部することになってしまって…。 新たに挑戦できるものを探していた時にMiss Universe Japanの存在を知る ーそんな時に今の川口さんを作るきっかけとなった出来事があったそうですが、何に挑戦されたのでしょうか。 高校3年生の時に、Miss Universe Japanの北海道大会に応募しました。空手部を退部した後の1年後の高校2年生の時、スポーツではなく何かに挑戦して成長したいと考えていた際、札幌駅前を歩いているとMiss Universe Japan のポスターをたまたま発見しました。詳しく見ると募集要項の年齢制限が18歳〜27歳とあり、高校3年生になったら応募できると思い、高校2年生の時から本格的にダイエットを始め、18歳になったタイミングで応募しました。 Miss Universe Japanについてはテレビで厳しいトレーニングの様子を拝見したことがあり認識はしていましたが、地方からでも応募できることに驚き、勇気を出しました。コンテストは自分と他者の違いを徹底的に知り戦略的に行動する必要があるため、マイペースになりきれず周りの目を気にして生きてきた自分にとっては良い経験だろうと思い、興味を持ちました。 ー結果はどうだったのでしょうか。 初めてのMiss Universeは北海道大会に出場し、エントリー総数200人から書類審査・一次審査、最終審査を経てファイナリスト8名に選ばれました。日本大会には出場できなかったものの、史上最年少でのTOP8入りでした。ただ、1度コンテストを受けただけでは、やはり自分の思う結果を残せないなと悔しさを抱き、結果発表が行われたステージ上では仲間と抱き合いわんわん泣きました(笑) ー応募してからファイナリストになるまでの間にご自身が変わったなと思うポイントはありますか。 自分の強さも弱さも含めて自分なのだと思えるようになりました。コンテストに応募する前は、他者評価=自信でしたが、ビューティーキャンプというファイナリスト限定の2週間ほどのトレーニングを通して自分とはどういう人で、どんな生き方をしていきたいのかを真剣に見つめる時間を経験しました。その経験を通して、本当の意味で自分を深く知り、自己を肯定できるようになっていきましたね。 ーその後はどうされたのでしょうか。 それでも、Miss Universeでは納得の行く結果ではなかったので、一度だめでも何度でも諦めずに応募する過程で成長を望めるのではと思い、同時に最初から全国大会に進める大会に挑戦したいと思い、Miss Universeと同じ世界三大ミスコンのMiss International 2014 日本代表選出大会に19歳の時に応募しました。 19歳の時に出場したMiss International 2014 日本代表選出大会は結果としては約3000人の応募者の中から最終の22人まで進みました。将来を考えた時に、ミスコン経験者のセカンドキャリアとして予想されるタレントやモデルなど、人前に出る仕事をメインにすることも検討したのですが、画面越しではなく社会の近くにいながら人と関わることが自分らしさだと思い、まずはビジネス領域で幅広く様々な領域に携わりたくて就職活動をすることにしました。それでも本当に表舞台に立ちたかったら、いくらでも社会に出てから挑戦するだろうと自負もありました。 学生時代はモーターショーへの出演やMCを経験していたのですが、仕事自体は面白くてもまずは就職してみたいという思いが強かったですね。 自分らしさを大切にし、納得できる選択をする ー就職活動を通じてどういった企業を選んだのでしょうか。 様々な会社を見ていく中で、一般の方にもそうでない方にも身近な存在でありながらも、仕事を通して関われる業種が多く、グローバルな視点が持てる分野で働きたいと考えていたため、大手の旅行会社に就職しました。 旅行会社では、企業や学校、学会・大会などMICE(Meeting、Incentive tour、Convention・Conference、Exhibition)を担当しました。既存のパッケージ商品を販売する個人旅行向けの業務だけではなく、お客様の要望に沿ってオーダーメイドの旅程を企画し、情報を集めるといった、要望に応えるだけでなくお客様がより満足するための提案をする面白さがありました。 しかし、入社した会社は日本で一番古い旅行会社で、社風が堅く、あらゆる場面で会社の看板を強く意識する必要があり、自分らしく振る舞えないことで、不自由さと葛藤を感じていました。 ー会社にギャップを感じていた中で、どのようにして気持ちを立て直したのでしょうか。 その会社を選び入社をした事実に変わりはないので、自分の捉え方を変えようと思いました。捉え方を1つ変えてみると、大手企業の仕組みを社会人として早い時期に学べたことで、今後の社会ではどんな会社が求められていくのかを考える期間にできると思いました。 当時は「これからのキャリアをどうしようか」と多少の不安もありましたが、3年間会社としてのを考えつつ、自分がより伸ばせる能力に気づいていく社会人3年目までの期間として捉えていたので、後悔はありませんでした。 新卒で入った会社を3年続けるかという点で悩まれる方もいるかと思いますが、私は3年いるのが必ずしも良いとは思っていませんし、自分が違うなと思ったらすぐに会社を辞めてもいいと思います。しかし、まずは自分の決めた道を納得がいくまでやってみてから考えるのでも遅くないですし、そこで仮に「失敗した」と感じたとしても、なぜ失敗したのかきちんと振り返ってから次の判断をするのも一つだと思います。 ーそこからの転職先は以前の会社と全く異なる会社に進んだのでしょうか。 様々なファッションブランドのECサイトをワンストップで行っているIT企業にWantedlyでのスカウトがきっかけで転職しました。 異業種・異職種での仕事でしたが、転職前にセルフコーチングの本を買って、数ヶ月かけて自分にとっての幸せと徹底的に向き合っていたので、会社に出会った時に「この会社なら自分らしく働ける」と確信を持てていたのが大きかったです。自分の中でその道に進むか進まないかを考えた時に不安よりもその先の世界が見たい、壁を乗り越えた先に自分はどうなっているのかに関心があったため踏み出せました。 ー転職先の企業ではどのような仕事をしていましたか。 転職した会社では、最初は人事と採用広報の担当者として札幌の人事部門の立ち上げを担当し、エンジニア、デザイナー、マーケターの採用を担当しました。また、支社が本社化するタイミングと重なり広報にも力を入れる必要があり、人事部門だけではなく広報の仕事も行いました。 未経験から人事や広報として活動するのは最初は心細いこともありましたが、当時の上司の力強い後押しや、人事部門でパラレルキャリアを実践している知人がビジネスパートナーのように壁打ち相手になってくださったり、挑戦したことのない仕事の機会をくださることもあり、仕事とは一人で完結するものではなく、良い意味で周囲に影響を受けながら協力しあうものなのだと感じ、このあたりから周囲との関係性を凄く大事にするようになりました。 次第に、もっと視座を高めて様々な世界をを見ることで今の仕事により活かせるのではないかと思い始め、複業を検討するようになったのですが、当時働いていた会社が複業禁止だったため、当時の上司と相談し、業務委託に切り替えてみないかということで自然と独立をすることになりました。 そこから、上京するまでの半年間は札幌で採用担当と採用広報を行いながら、東京に通いながらフリーの仕事を受注していくようになりました。「なぜ独立したのか」と周りによく聞かれますが、当時の会社の仕事に従事しながら自分が大切にしたい部分を叶えていくための一つの手段でしかなかったため、最初から独立することが目的ではありませんでした。 人との関わりと関係性を大切にしながら、社会に温かな循環を生み出す象徴的な存在でありたい ー広報とライターを中心とした独立を選んだのは、なぜだったのでしょうか。 旅行会社の法人支店での企画手配や人事職など、目の前にいる人と本気で向き合う仕事を一貫して続けてきたのですが、組織や事業の可能性以上に人が大好きなことに気がつき、目の前の人の良さをより多くの人に知ってもらいたいという気持ちを大事にしながら働きたいと感じたためです。 そのような純粋な内発的動機や組織内の関係性を丁寧に表現したいと考えた時に、企業の人事・広報PR視点を持てる仕事も一つだと思ったのです。 ー実際に独立をして、いかがでしたか? 実は、独立をして仕事を一から作らなくてはならないタイミングと同時期に婚約を機に上京を経験したので、最初はそのような状況下で仕事が来るのか少し不安でした。しかし、会社員時代からTwitterやnoteで顔と名前を出して発信を続けていたため、独立の機会に一緒に仕事がしたいと言ってくださる企業に恵まれたり、ひょんな出会いから自分が経験したことのなかったウエディング業界などの職種に関われるなど、一気に世界が広がりました。会社や何にも縛られず、学生時代からの経験を全て生かして仕事ができることを知り、人生には無駄なことなどないのだと感じましたね。 今は、人事経験を生かしてHR領域のライターをしながらも「関係性」という軸でウエディング業界を中心としたライターやと企業広告の商品着用モデルなど、幅広く経験しています。2020年にはBOOKOFFの新サービス「すてるより、すてき。」のイメージモデルにもなりました。 表舞台も裏方も含めて、その時々に合わせて自分が生かせるスキルを生かしながらも知見を深め成長していきたいと考えているため、何をやるかは特にこだわりはありません。自分自身がどうありたいか、という視点でいたいですね。 ー独立をして、大変なことはありますか? 案件ごとのチーム関係も多く、仕事が終わる寂しさを感じることはありますね。また最近では、コミュニティマネージャーに近い「女将」という存在として、場所を持って人と関わる経験をしましたが、場所や時間に縛られても、誰かが毎日会いにきてくださる幸せを感じたので「自分はこういう働き方ではなければならない」という思いこみの枠を外し、様々な働き方を経験しながら幸せを追求したいですね。 ー川口さんが目指す今後の生き方について教えてください。 関係性を大事にする人がその場所にいることで生まれる価値を追求していきたいですし、まず自分自身がそのような存在でありたいと考えています。誰かを愛することで誰かからも愛され、愛されることで誰かを愛せるといった好循環を作っていきたいと常に考えていて、「愛するために、愛される。愛されるために、愛する」という個人理念を元に生きていきたいですね。10代の頃から挑戦と決断を大事にして生きてきたので、事業や自分の成長をスピード感を持って追いかけていくことも喜びではありますが、それだけが人生ではないとも考えています。 その場に関わる人々が安心して働ける環境を作ることや、自分も他者も肯定できる空間や関係性を強く守りきることも自分にとっては等しく大事なことで、周囲を大事にすることなくして会社の成長を追いかける必要はあるのかとも常に問い続けながら生きています。 ー最後に、同世代へのメッセージをお願いします。 世の中には様々な人がいて、生きる上での価値観は多様にあり、日々多くの情報が溢れていますが、その中で自分らしさを作る鍵とは、世の中の動きがどのような視点で常に動くかではなく、どんな時も自分の頭で考えて、胸の中にある本当の気持ちにいかに誠実に向き合いながら社会を見つめることではないかと思います。そこに誠実であれば、たとえ過去には考えもしなかった新たなキャリアを拓くとしても、振り返ったときに「あの決断で良かった」と肯定できると思うので、日々過ごしている中で自分がどういった時にで幸せを感じるのかを丁寧に受け止め、大事にし続けたいですね。 ー川口さんのお話を通じて、自分が何に幸せを感じるのかを切り口にどんな生き方をしていきたいのか、どうありたいのかを考えるきっかけになりそうですね。今後のご活躍を応援しています! 取材者:あおきくみこ(note/Twitter) 執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

お菓子を作る人が、幸せに働ける業界づくりを目指す。飲食業界に新たな風を吹かせる林巨樹の挑戦

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第222回は株式会社Bross代表の林巨樹さんをゲストとしてお迎えしました。 幼少期からの夢であるパティシエの夢を叶え、さらに飲食業界の働き方に変化をもたらすべく幅広く活躍されている林さん。その原点は何なのか、どのような道を歩んでパティシエになったのかなど、林さんの人生のこれまでや飲食業界への思いなどをうかがいました。 飲食業界の働き方に切り込む新気鋭 ー簡単な自己紹介をお願いします。 株式会社Brossの林巨樹です。僕はパティシエとして、お菓子を作る仕事をしています。その中で感じた課題をどうにか解決できないかなと思いながら、これまで様々なアクションを起こしてきました。2020年10月に会社を設立して、新しい働き方の提案や、飲食のプロのステージ作りなどをやっていく事業を進めています。よろしくお願いします。 ー具体的な活動内容や日々どのような働き方をしているのか教えてください。 1年半くらい前までは、東京のトップクラスのパティスリーで、パティシエとして働いていました。そこを辞めてから1週間後には自分でデザートバーを始めました。お客様に今ベストなスイーツを提供して、アルコールドリンクをペアリングでつけるというものを、お休みのレストランや使ってない時間帯のバーを間借りして、やっていました。 プロのパティシエとしてある程度スキルを持っていても、経営や人を雇う、育てる経験を持っていなかったので、お店を運営することには非常に難しさを感じました。料理人がなかなか経営できなかったりとか、お店がうまく回っていなかったりするのは、職人であるが故にどうしても経営の勉強を疎かにしてしまうからなのではないか、と考えるようになりました。 ちょうどその頃、元メルカリでメルペイの取締役を務められていた松本龍祐さんが、カンカクという会社を起こし、ITや最新テクノロジーで飲食店を作っていくというお話を聞き、僕は飲食周りのサポート担当として関わらせていただくことになりました。KITASANDO COFFEEという完全キャッシュレスのコーヒースタンドの立ち上げを行ったり、TAILORED CAFEというモバイルオーダーでアプリから事前に注文をしてコーヒーを買いに行くものや、サブスプリクションでコーヒーサービスを行うといった飲食にITが入ってくるような部分をサポートするお仕事をしていました。 テクノロジーが入ると、飲食の働き方って変わるんです。お金を使わないと衛生的な作業ができますし、レジでお客さんにメニューをお渡しして、注文を受けて、スタッフに伝えて、作ってもらってという数分間に渡るオペレーションコストも下げられるので、カフェで働く人はラテを入れるとか、バリスタをするとか、パフォーマンスに注力できて、やりがいに特化した仕事に就いてもらうことができるんですよね。 この経験を経て、ITで飲食業界の働き方は変えられるんだという確信を持ちました。ITを導入して、もっと料理人やパティシエためのサービスを作れるんじゃないかと思い、僕が総合的に勉強してきた部分を活かしながら新しい会社を立ち上げて進めています。 マカロンをきっかけにパティシエを志す ー1番最初のターニングポイントである、10歳の時のできごとについて教えてください。 今から15年前の話で、ターニングポイントというか、ここからはじまったという感じです。マカロンは今じゃみんなが好きなお菓子ですが、当時はブームがぼちぼち始まってきたという時期でした。それ以前からマカロンを売るお店はありましたが、国民的には「マカロンって何?」という人の方が多かったです。 10歳の時、羽田空港に行って、マカロンをお土産に買ってもらって食べました。200円もする高価なものでしたが、子どもの口でも一口で収まっちゃうくらいの小さなお菓子にとてつもない幸せを感じました。変な話、子どもって300円渡されて、お菓子を買ってくるというような金銭感覚で1,000円札をもらうことなんてないじゃないですか。 僕の中では300円でうまい棒を30本買うとコスパがいいと思っていました。なので、お菓子の価値というのはうまい棒で換算されていて、200円のマカロン1つがうまい棒20本分に勝った瞬間だったんですね。うまい棒20本20種類を楽しむよりもマカロン一口の方が圧倒的に幸せでした。 これが衝撃を受けた瞬間で、その年のバレンタインデーにマカロンを作りたいなと思い、本屋さんを探し回って、やっと見つけたレシピでマカロンを作ってみました。もちろん味見をしながら作れるので、完成した時には半分くらい食べてしまって、60個できるはずが30個くらいになっていました。(笑)そこで作る楽しさとワクワクと自分が食べてハッピーになるという体験を経ました。 残りの30個は配ることにしたのですが、小学校の同級生はマカロンが何かわからないんですよ。食べてもらうと、僕とまったく同じ「何これー!」という嬉しそうな反応をしてくれました。さらに、親御さんたちはマカロンを知っているけど、食べたことはなかった。「こんなものを小学生が作れちゃうんだすごい!」みたいな反応をもらい、黄色い声援のようなものが聞こえてくるのが僕にとってはすっごい楽しい瞬間でした。 これを仕事にしたら楽しいのではないかと考えるようになりました。しかし、ケーキ屋さんといえば女の子がなりたい職業ランキングベスト3に入ってくるようなものですよね。だから、女性がやる仕事だと思っていました。ただ、「パティシエ」って調べてみると男性しか出てきません。有名な方はみんな男性で、男の人も仕事にしていいということを知りました。 さらにマカロンに関わるパティシエを調べると、ピエールエルメという人が出てきます。彼はマカロンをカラフルに彩り、パティシエ界のピカソと呼ばれるようになったすごいパティシエです。彼の存在を知り、これはパティシエになる以外選択肢はないなとその時に決めました。 父親の理解を得られずとも、自分の気持ちは曲げなかった ー15歳のときにモチベーションが下がっていったということですが、詳しく教えてください。 今でこそエネルギーに変換できているんですけれども、この時間が一番辛い時間でしたでした。15歳の時の話です。 フランスには修行制度があり、14歳からパティシエを目指して修行をすることができます。フランスにはもうパティシエの道を進み始めている子たちがいるというのに、中学2年生の僕は、進路を決めている段階です。 前述のマカロンのピエールエルメが僕にとって大きい存在となっていましたが、ピエールエルメは14歳の時点で実家のパン屋さんで、修行を始めているんですよ。もともと実家がパン屋でハンデも大きいですし、アルザス地方というフランスのクラシックで非常に美味しい伝統菓子が溢れているエリアでキャリアをスタートされています。14歳で恵まれたスタートを切り、10代後半にはパリに移って歴史を塗り替えていく人をお手本にしていたので、僕は中学卒業の段階ですでに遅れをとっているパティシエキャリアを、いかに早くはじめるかということしか考えていませんでした。 しかし、日本では中学を卒業してから働ける場所はなく、高校卒業もしくは専門学校を出てから就職するという流れが一般的だったので、どう頑張ってもしばらくは学生をするしかないことが明らかになり、どうしようかと思っていました。 その頃、地元に調理国際科ある公立高校があることを知りました。お菓子の分野ではありませんが、幅広い食材知識や、製法や調理の技術を学び、調理師免許を早めに取るため、生き急ぐように必死に入学に漕ぎ着けました。いざ、ここから調理の道を歩むぞというタイミングで家庭内の大騒動が起きました。 父親は厳しい人間で古典的な考えをする人だったので、長男が台所に立つことを望ましく思っていなかったんですね。僕は、これからは大学を出ることが必須ではないし、景気が悪くなってもスキルを持っていることが力になるのではないかという考えを持っていたので、調理国際科に進む際には納得してもらうために話をし続けました。ようやく許可もらって通えたわけですが、父親からするとあまり面白くはなかったと思います。それなりのキャリアを積んできた父親だったので、社会的地位が低く、お給料ももらえなくて、休みも少ないイメージのパティシエという道に父親は魅力を感じてなかったようです。 高校生になって、体も大きくなって、父親と対等に戦えるようになってしまったタイミングで、バチバチぶつかり、その流れで父親が出ていく形で、事実上の離婚。家庭が崩壊しました。経済的に厳しくなる一方ですし、高校出た後に専門学校に行けるのか、フランスに修行に行けるのか不安なっていきました。 ケーキ屋さんに頭下げて「バイトさせてください」とお願いしたりもしていました。高校生だったので掃除ばかりしていましたが、モチベーションに変えて、自分の気持ちを曲げずに、どうにかしてパティシエはやるんだっていうことを意識して生活していた高校生でした。 ーいざ洋菓子の世界へ!ということですが、高校を卒業されたあとに進まれるんですよね? 高校を卒業して、調理師免許を取得しましたが、お菓子の勉強は高校ではしていなかったので、お菓子のプロになるのであれば、製菓の教育機関を出るべきだなと思い、世界の辻とも呼ばれる世界3大料理学校のひとつである辻調グループの学校に入学しました。 本来専門学校って2年通って、座学をたくさん受けて、資格を取れる場所が専門学校なのですが、僕は早くパティシエになりたかったので、1年間の座学が少ないコースをあえて選びました。学歴としては専門学校を卒業ではなく、高卒です。しかし、パティシエのキャリアにおいて大学や専門学校の卒業はいらないかなと思っていたので1年でも早くパティシエのキャリアを始めないと、ピエールエルメが先にいっちゃうという焦りがありました。 高校での座学の知識があったので、専門学校では実習とお菓子の勉強、フランス語の勉強を1年間でさせてもらいました。高校まではお菓子が好きな男の子はいなかったんですけど、専門学校に行くと同じ志を持ったまさに同士がわんさかいて、毎日楽しいと思える幸せな時間でした。 専門学校を1年で卒業したあとは、そのまま辻調グループの東京校で講師として働きました。その後、19歳後半はフランスで勉強をして、ピエールエルメが生まれたアルザス地方で1年間働きました。彼はここで美味しい食材と収穫したての小麦で作る小麦粉からできたお菓子やパンを食べて育ち、作っていたということなので、同じ食材に触れることで少しでも彼に近づけたかと思います。その後、日本に帰国しました。 人を幸せにするためのケーキを作る人が、幸せじゃない状態 ーフランスから帰ってきて、どのような生活を送られたんですか? フランスから帰国後は、東京の日本橋にあるオクシタニアルというケーキ屋さんで働きました。この時に国内コンクールでトップになり決勝にいかせていただきました。コンクール自体は30代前半の方が次のシェフになるセカンドシェフから自分のお店を持つまでのキャリアを作るために出てくる大会だったので、パティシエとしての総仕上げのような大会なのですが、この大きな大会に20代前半が出てくることが珍しく、社会人の卵のような若造が同じ表彰台に乗ってしまい、チヤホヤされる時もありました。しかし、僕の皮肉な発想では、逆に今22歳の僕枯らしたら10年、20年修行したとしても若造に勝てないんだと感じました。 洗い物や雑用をさせられて10年経って、若者に負けてしまうのであれば、コンクールで優勝してキャリアを作ることが本質的に間違っているんじゃないかなと思いました。10年修行するのが当たり前という価値観ですら、正しいものではないんじゃないかとさえ思うようになりました。頑張ってチャンピオンになって優勝してお店出すとなっても経営が勉強できてなくて、人を育てた経験がないような人が組織を作れることもなく、お店は壊れていく。世界大会で勝ち抜いているレジェンドの方々がお店を出しても、2、3年で潰してしまうケースは平気であります。 また、若手がやりがいを求めて、華やかな仕事が待っていると思ってこの世界に飛び込んできても現実にぶち当たってしまい、うまくいかないということもよく聞きます。 人を幸せにするための嗜好品であるお菓子やケーキを作っているのに、作っている人が組織によって幸せではない状態は僕としては認めたくない現状でした。 そんな頃、若者の料理人やパティシエを集めたコミュニティを運営していたんですが、そこにベースフードという会社の代表の橋本舜さんが来てくださいました。当時ベースフードは完全栄養を含んだパスタを開発していました。僕もサプリメントなどを摂りますが、主食に栄養素を含ませようなんて発想を1ミリも持ったことがありませんでした。ペペロンチーノにしてもカルボナーラにしても、例えば嫌いな食材があるならそれを抜いたとしても、栄養素が全部取れてしまう。これは社会的意義があることだと思いました。例えば、少食な人や好き嫌いがある人や子どもたちにもさりげなく食べてもらえる主食に栄養素が含まれているので、たくさんの人を健康にすることができます。 その後、ベースフードとしてパンを作りたいというお話を聞きました。しかし、パンにすると膨らまないんだという相談を受けて、開発に携わることになりました。橋本さんは元DeNAの新規事業を進めていた方なので、いわゆるIT企業としての仕事の進め方、速度感を持っています。僕が開発に入って3ヶ月後には完全栄養パンを作り上げて、リリースするというスケジュールが組まれていて、こんなスピードでやったことないぞと思いつつ、どうにかパンを膨らませて商品開発を進めました。 パンとパスタは製法が似ていますが、パンは8000年も歴史がある古い主食です。8000年あって誰もここに栄養素を混ぜようと考える人はいませんでした。心のどこかで僕には絶対できないと思っている節もありましたが、奇跡的にできてしまったので、本当にすごいことをやったなという感覚です。 1ヶ月でたくさんの数のパンが出荷され、たくさんの人の健康を、僕のスキルが支えたんだと思うと、非常にやりがいがあるプロジェクトでした。ショートケーキを1日に5台、6台作ったとしても、1ヶ月間には150台程度しか作れませんが、パティシエのスキルによってたくさんの人の健康に貢献することもできると考えたら、働き方はやはり変えていく必要があると、心が決まりました。 そのタイミングでオクシタニアルを辞め、自分でデザートバーを始め、食のイノベーションに携わるようなフリーランスの仕事をするようになりました。そこから繋がりに繋がって、カンカクに携わることになりました。 シェフが料理を作ることに注力できる新しい働き方を提案 ー今面白そうだと思っていること、これからチャレンジしていきたいことはありますか? 会社を起こしたタイミングなので、いろんな妄想が膨らんでいます。本当は3年後に作りたいと思っていたモデルがあります。これが、シェフはシェフとして料理を作るだけのパフォーマンスをすればいいという新しい働き方の提案です。 例えば港区にあるビストロだったら、最低でも3人が働かないとお店は回りません。料理人であるシェフと、サービスマンであるソムリエ、レジ係や雑用をするウェイターの3人なんですが、仕事を分解していくとお金を受け取るレジ係や日中にかかってくる予約の電話対応など、手をあけておいて営業が回るようにする仕事、食事を提供したり、メニューを伺うのサービスマンの仕事、そして料理を作る仕事。3つの仕事が存在するのですが、もしもキャッシュレスで事前に予約をして決済まで済ませられれば、レジ係も電話係もサービスマンも必要ありません。 仮にカウンターが20席ほどで、シェフ1人で見渡せる範囲内であれば、シェフが予約に合わせて事前に仕込みをしておいて、目の前のお客様に料理をお出しするだけというモデルができるかもしれません。目の前でシェフが作ってくれるスタイルでも、料理に関する説明をしながらパフォーマンスができるので、非常に楽しいエンターテイメントに変えられると思います。 人件費は3分の1に安くなりますし、1日8時間しか働けないので、24時間ある1日を3分割すれば、1つの店舗で3つのお店をやれる可能性もあります。すると、場所代人件費に関しては普通の飲食店の9分の1のコストでステージを作れます。それ以外にかかるコストである、システムの運用や事務作業、マーケティング、ブランディング、SNS運用などは本部が巻き取れると初期投資がかなり安いステージ作りができますよね。つまり、シェフの方の個性、磨き上げたスキルを披露する場所作りができるのです。 これを3年後に作ろうと計画していましたが、コロナの影響で対面のパフォーマンスは現状リスクが高いので、一旦は形を変えて、パティシエがオンラインショップを作るためのステージを作りたいと考えています。 ー大会などで若手ながら活躍し、他の人よりはキャリアが浅い中で勝ってきた理由やポイントは何だったのでしょうか? 僕個人より優れている人はいっぱいいると思っているのですが、僕が唯一持っている強みは、体力と努力なのかなと思っています。パティシエの大会は必ずって言っていいほど、飴細工の種目があります。この飴細工は浅草にあるような棒状につけた飴細工とは違って、手で100度以上の高温の飴を触って細工をしていくのですが、つまりは根性焼きをずっとしている状態なんです。なので、はじめは手の皮膚の皮を分厚くするために手を焼く作業から始めるんです。何でこれがパティシエの必要なスキルなんだって思いますが、僕は家庭が厳しい環境だったこともあり、父親の暴苦に耐えてきた根性があるので、正直全然怖くもないし、熱くも感じないんです。楽しい時間の痛みは少しも苦しいと思っていなかったので、仕事終わりから次の日の仕事がはじまるまでずっと飴細工の練習をし続けられます。 また、物事を客観的に捉えて、本質的に理解しなおしたり、構築しなおしたりすることが好きです。分析化できたっていうのもあって、今あるお菓子の最先端のスキルからさらに無駄を省いて新しいものを作り出すことも得意なのかもしれないです。 ー今後のビジョンやここから成し遂げていきたいことは何ですか? 飲食の働き方を変えていきたいです。まさに時代は変わり始めたと思っていて、ハッピーな人がハッピーなものを作って人をハッピーにしていかないと、料理や場所、空間を本質的に楽しめないと思います。このままでは東京の美味しいものを作っていく人たちが潰れていてしまって、最終的にはどこも同じ味とか、コンビニの味になっていくのかもしれません。飲食のプロに新しい働き方の新しい提案をするのと同時に、東京の食文化を守る、継承するということをハッピークリエイターとして、ハッピーを作る目線からやっていきたいと思っています。頑張ります! 取材者:増田稜(Twitter) 執筆者:大野雛子(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

25歳で年収1000万!バーバーショップオーナー・吉田奈津樹がたどり着いた本当のシアワセとは?

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第241回目のゲストは、PARK BUILDER株式会社CEOの吉田奈津樹(よしだなつき)さんです。 現在5店舗の理容室を経営しながら自らもオーナースタイリストとして現場に立ち続ける吉田さんは、専門学生時代から数々のコンテストでタイトルを取り続けるコンステスターでした。独立後は、確かな技術力とテックの力を生かした店舗経営で理髪店事業のみで年商1億円を達成します。 そんな吉田さんの20代前半はまさに苦悩の日々だったとか。サロンワークにとどまらずコンサルタントやバーバーYouTuberとして活躍する吉田さんの今までの人生に迫ります。 なんとなくで入った理美容の道 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 現在29歳で、理容室の経営やそれに付随する仕事をしています。 24歳のときに人生で初めて独立起業し、理容室を立ち上げました。そこから派生して様々なお仕事をいただくようになり、今はお店で髪を切っているのは週2、3日くらいです。 ー高校3年生で理美容の道へ進むことを決めたようですが、それまでの経緯を教えてください。 受験が近付いてきて進路を考えたときに、そもそも世の中の仕事をほとんど知らなくて。その段階でなりたいものを探して進路を決めろと言われても僕はピンと来なかったんですよね。 特に何かやりたいことも無かったので、何をやりたくないのかを考えて消去法で仕事を削っていきました。 元々勉強が好きではなく、成績も良くなかったので、デスクワークは無しだと思い、世の中の仕事の大半は無理だなと思ったんです。 そのときに自分の唯一好きだったことは何だろうと振り返りました。 高校時代の頭髪検査で、直前に校則違反を回避するために友達から「なんとかセットかカットで誤魔化してよ!」と言われることが多かったんです。 頭髪検査のとき以外にも、髪の毛を切ってほしいと言ってくる友達もいて。自己流だったのですが、皆喜んでくれたんですよね。これを仕事にしたら人も喜んでくれるし、自分も楽しめると思って、理美容の専門学校を選択しました。 ー最初は強い意志があったわけではなかったのですね。 今でこそそんなことないのですが、高校時代は自分に自信が無かったんです。 何をやっても1位になれず、頑張っても報われないなら頑張るのをやめようと考えるタイプで。 とりあえずその場が楽しかったら良いやという人生の選択をしていたんです。進路も何をやりたくないか、どうなりたくないかという消去法だけで選んでいましたね。 ー進学先の学校はどのようにして選んだのですか? 僕は地元が福井なんですが、福井にも理美容師の資格が取れる学校はあったんです。 でも、どうせ勉強するなら一流の学校でしたいと思い、日本で一番厳しくて、一番国家試験の合格率が高い学校である大阪の高津理容美容専門学校を選びました。その当時学生の技術大会のほとんどの部門で全国1位を取っていたのがこの学校だったんです。 栄光の学生時代と苦悩の社会人生活 ー専門学校に入ってからはどのような日々を過ごしていたのでしょうか? 専門学校の男子寮に入っていたのですが、朝起きてから寝るまでずっと同じ空間で友達と生活していました。 皆ととても仲良くなったのですが、テスト期間に遊びに誘われても僕は断って練習したりしていましたね。それでテストで1位を取っていたので、嫌な奴だったと思います(笑) それでも、そんな僕のことを皆分かっていて、とがめられることもなかったです。後々「お前こっそり練習してたもんな」と言われました(笑) 皆わざわざ地方から出てきているので、努力することを馬鹿にする人はあまりいなくて。そのような恵まれた環境だったからこそ頑張れたのだと思います。 ーコンテストでも賞を取りまくっていたそうですね! 「出るからには賞を取らないと意味がない」と思って練習していたので、審査員の好みを分析して戦略的に賞を取りにいっていました。 賞を取るためにはやみくもに練習するだけじゃダメだと思っていて。効率化して最短距離でトロフィーを取ることを常々考えていました。 ー卒業後、就職するお店はどのような軸で決めたのでしょうか? 日本の中心、東京で挑戦したいと思い、東京のすごい勢いで成長しているお店に入りました。 勢いがあって店舗展開も多数しているITベンチャーのようなお店でしたね。 学生時代はコンテストで賞を取りまくるコンテスターだったのですが、就職してからの目標はコンテストで優勝することではないと考え、あえてコンテストばかりやるお店は選ばなかったんです。 ー就職してからは苦労の日々だったようですが、この当時はどのようにして過ごしていましたか? 僕の入ったお店はITベンチャーのような雰囲気だったので、タイムカードがなくて。上司も部下の労働時間を把握していないんですよね。だから定額払ったら労働者を使い放題で、拘束時間がとても長かったんです。 当時の社長から「自分の給料を時給換算するのはやめろ」と言われていました。100円とかとんでもない金額になりますから(笑) でも、無茶をして頑張った過去があるからこそ、今普通の人からしたら無茶に見えることでも普通にできるので、マイナスな経験だったとは思わないですけどね。 ーこのがむしゃらに働く中で、すでに独立は決められていたんですよね? 日々のブラックな環境の着地点はどこなんだろうと思えてきて。合理的な僕からしたら、ただやみくもに毎日働くだけの日々が苦しくなってきたんです。 「誰よりも早く独立して誰よりも早くお金持ちになってやろう」というのがそのときのモチベーションでした。そんな気持ちで1年目から過ごして、独立のために1年目の初月から貯金をしていましたね。 ーそこからさらにどん底の日々が訪れたようですが、何があったのでしょうか? 僕は先輩や上司よりも業績が良かったので、新店舗の店長に社会人2年目で選ばれました。 そこで、僕自身が努力をして結果も出していたので、同じレベルを周りのスタッフや部下にも求めてしまったんですよね。 本当にマネージメントスキルのない店長だったんです。部下に対して「やる気ないなら帰れば」とか言ってしまったりして。もちろん付いてきてくれる人もいましたが、部下やスタッフからはかなり嫌われてしまいましたね。 人間関係が上手くいかないと、色々なことが上手くいかなくなって。自分でも知らないうちにストレスがたまり、どんどん体調が悪くなりました。 お客さんと接するのが好きだったのですが、人と接することが苦しくなっていったんです。当時は、「独立して誰よりも成功したい」という気持ちと、「もう二度と人と関わらなくて済む仕事に転職したい」という気持ちが同時にありましたね。 ーそれから1年後くらいには復活したようですが、どのようにして立ち上がったのですか? 元々負けず嫌いな性格なので、このままのたれ死んでいくのも違うなと思いはじめました。 20代のうちに独立しようと思っていたのですが、このような状況なので一刻も早く独立して一刻も早く結果を出そうという気持ちが強くなっていったんです。 とりあえず始めてみて、ダメだったら改善しながら区切りを決めて続けるかやめるかを決めれば良いと思い、半ば勢いで独立することにしました! 年収1000万円を達成して見えた世界 ー独立して自分のお店を構えてからは、順調でしたか? 最初はびっくりするほどお客さんが来ませんでした。 予約表が空っぽで、1日お客さんが来ないまま営業時間を終えてチラシ配りをしに行く日もありましたね。 美容業界では、元々自分のいたお店の顧客情報を持ち出してお客さんに営業をかけるパターンがとても多いんです。でも、それで出店して上手くいっても嬉しくないなと思って、僕は顧客情報を持ち出しませんでした。 オープン初月の僕の給料はたった3万円。固定費がかさんで通帳の残高がどんどん減っていくのを見て焦りましたね。 でも、今思えば人間関係のストレスとお金がなくなっていくストレスを比べると、お金の方は自己破産してアルバイトなどで働けばいい話なので、店長時代に人間関係で思い悩んでいたときよりは頭を抱えていなかったように思います。 ーそれからはすぐに結果が出たのでしょうか? そうですね。HPなどを整え終わったのがオープンと同時くらいだったので、3ヶ月後ぐらいにやっと結果が出始めたんです。 オープンしてから3ヶ月後ぐらいには1ヶ月先まで予約が取れないお店になりました! ー25歳で念願の年収1000万円を達成されたそうですね!その当時はどのようなことを感じましたか? 年収1000万円は1つの指標だと思うんです。 経営者は自分が一番上になるので、自分のことを認めてくれる人がいないんですよね。唯一自分のことを認めてくれるのが数値的な指標で、年収1000万円を達成したときに、「俺ってちゃんと頑張ったんだな」と思えて嬉しかったですね。 一方で、ずっと目標にしていたことではあったのですが、お金の無かった20代前半の頃に比べて何倍も幸せかと聞かれるとそこは疑問でした。 最初に達成したときは馬鹿みたいにお金を使っていたのですが、意外とコスパが悪いことに気付いて。月に何十万と買い物をしても、それに対する人生の幸福度はそれほど高くないという感覚に陥りました。 ーでは、そんな吉田さんにとって人生の幸福度を上げるものは何なのでしょうか? 「やっぱり人ですよね。」 誰かと一緒に何かをやって結果が出て、それを喜び合える瞬間が一番幸せです。 うちのスタッフにも「吉田さんの元で働いて良かった」と言ってもらいたいと常々思っています。 お金のないBBQでも良いですが、信頼し合える人間関係の輪の中で何かをやっているとき、人生の幸福度は最も高いと実感しています。 「命あるものからしか人は幸せを感じられない」という言葉がありますが、本当にその通りだなと感じます。動物とか人間とかから得られる幸せの方が持続するんですよね。 ー吉田さんの今後のビジョンを教えてください! 自分の年収や資産を増やすことは、とりあえず考えていません。 今後はうちの会社の年商を30代で10億円までもっていくのが目標ですね。 年商は個人ではなく、会社としてどれだけ結果を残したのかということなので、従業員と共に達成していきたいです。 僕は常々「突き抜けたい」と思っています。30代の土俵には、とてつもなくすごい人たちがたくさんいますが、ヘアサロンの事業だけで年商10億円を達成している人はなかなかいないので、達成できれば突き抜けられるかなと。 それ以外では、僕と接している周りにいる人たちに幸せになってほしいです。「みんなでやってきて良かった」と言い合いながら年商10億円を達成できれば30代をハッピーに生きられると思います! ー本日はありがとうございました!吉田さんの今後のさらなる活躍を期待しています! *店舗公式サイト* PARKBUILDER KINGSMAN TOKYO BARBERSHOP 公式 KINGSMAN TOKYO BARBERSHOP 多摩センター本店 KINGSMAN TOKYO BARBERSHOP 多摩センター2号店 KINGSMAN TOKYO BARBERSHOP 立川店 FREEDOM BARBER&Co. KINGSMAN TOKYO ONLINESHOP BUDDY MOTORS 取材者:増田稜(Twitter) 執筆者:五十嵐美穂(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

創業84年の”ベンチャー風老舗”建設会社へ!「誰よりもクールで熱い男」西村組 西村幸志郎の夢

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第233回目のゲストは、株式会社西村組取締役・経営企画室長・採用担当の西村幸志郎さんです。 流氷の来る北海道の湧別町で、84年間建設業を営む株式会社西村組の長男として生まれた西村さんは、幼少期から跡取り息子として制約の多い生活を送っていました。 メンターとの出会いで、「死ななきゃ何をやってもいいんだ」と知った西村さんは、大学4年時日本一周を決意。その道中で50社以上から内定をもらうなど、一般的な就活とは異なる方法で「誰よりも真剣に就活をしない就活」をされたそう。 日本一周を経て、家業を継ごうと決意した西村さんのこれまでの人生に迫りました! 自分の色を出せずにいた幼少期 ーまずは自己紹介と、現在のお仕事について教えてください。 株式会社西村組4代目後継者として取締役・採用担当をしています。 北海道の日本で唯一流氷が来る場所に住んでいて、海と流氷と共存しながら海を守る「海洋土木」をメインに仕事をしています。 ー幼少期の印象的な体験はありますか? 2歳下の弟が生まれたときですね。 今までずっと一人で母の愛情を受け取っていたのですが、弟が生まれたことで唯一の理解者である母親をすべて持っていかれたような気持ちになりました。 弟が生まれてからは何かにつけて自分が怒られる。怒られる原因が喧嘩だったり、弟を叩いてしまったりとか今思えば母に見てもらいたくてやっていたのですが。 ある日、意を決して母に、「僕っていらない子なの?」と聞きました。 それを聞いた母が僕をぎゅっと抱きしめて、「そんなことないよ」と言ってくれたんです。そのときに自分は生きている価値があるんだと思えました。 3歳くらいのときにこの経験をしてからは、自ずと自己肯定感がなくなることはなかったように思えます。自分の生きている価値を教えてくれた経験になりました。 その後はあまり構ってもらえなくても、「自分は愛されている」と分かったので、不安になることは無くなりましたね。 ーその後、小学生の頃にはどのようなことがあったのでしょうか? 小学3年生のある日、体の大きいT君に多目的教室に呼び出されたんです。彼とは犬猿の仲でした。 当時の僕はスポーツが得意だったので、T君はそれが気に入らなかったんだと思います。 急に呼び出されて、「お前調子乗っててウゼーんだよ。ガリガリ!」と言われました。「お前の方がウゼーんだよ。デブ!」と言い返したら、次の日からT君が3日ほど学校に来なくなって。 相手の親から学校に電話があって、母とT君の家へ謝りに行くことになりました。 T君の親からは、「人の体の特徴について悪口を言うのは信じられない」と言われたんです。 先に言ったのはT君なので、理不尽だと思いましたが、それでも母が僕の頭をグッと持って「とりあえず謝りなさい」と。 田舎では大きな会社だったので、普段から「社長の息子だから我慢しなさい」という無言の圧力があったんです。この出来事でより自分の本心が言えなくなりましたね。 ー中学時代はどのようにして過ごしていましたか? 隣の隣の町にあるサッカーチームに所属していました。 サッカーは小学校3年生からしていたのですが、町にサッカーチームが無かったんです。親に送迎してもらって1時間半くらいかけて通っていました。 僕は選抜に選ばれていたのですが、その中にプロサッカー選手に兄をもつ子がいたんです。その子は別のポジションをやっていたのに、兄の影響で僕のポジションがやりたいと言い出して。 僕の方が圧倒的に経験も身長もあってポジションを確立していたのですが、僕がスタメンで出ると彼が嫉妬するんですよね。 そこから遠征に行くたびに、宿舎ではぶかれたりするいじめを経験して。今までいじめられたことが無かったので衝撃的でしたね。 ーそのような苦しい状況の中、3年間西村さんを支えたものは何だったのでしょうか? やはり「サッカーが好き」という気持ちですよね。 小学校中学校と学校が楽しくなかったのですが、サッカーだけは楽しくて。これだけは誰にも取られたくないと強く思っていました。 仕事においても同様で、人間関係の良さももちろん大事ですが、その仕事が好きか、今取り組んでいることに一生懸命になれるかどうかが最も重要だと感じています。 夢をもって高校へ進学するもキバを抜かれる ー現在にも繋がる価値観を形成されたのですね。そこから高校時代、さらにサッカーに没頭されたようですが、どのような出来事がありましたか? 高校はサッカー推薦で入学し、札幌へ飛び立ちました。 ようやく田舎を出られると思って乗り込んだのですが、サッカー部に入って3日目くらいで先輩から「お前の目つきなんか気に入らないな」と言われて。練習後に3時間正座をさせられたんです。 また、入ってすぐの練習試合では周りから高評価を得て、約100人の部員がいる中「次からBチームでは出られる」と言われていました。 しかし、うちのチームのディフェンスはヘディングができなければ評価されなくて。僕は今までヘディングをせずにディフェンスをこなしてきたので、ヘディングが苦手だったんです。そのため、「試合では使えない」という評価を下されました。 先輩からいじめを受け、さらに自分が一番苦手なヘディングができなければならないと知り、挫折を味わって。 希望を持って田舎から出てきたのですが、どん底状態で寮に一人暮らしをすることになりました。 「自分には生きている価値が無いのではないか」と考えて、部屋の窓から飛び降りたいとさえ思っていましたね。 つらかったのですが、親から背中を押されて札幌に出たので、「自分のためより親のために頑張りたい」と思って乗り切りました。 「幸志郎がサッカーをしている姿が好きだ」と言ってくれた親のために、自分を捨てて走り続けた3年間でしたね。 ー高校でも怒涛の3年間を過ごされたのですね。卒業する時に顧問の先生から言われた言葉が印象的だったと伺っていますが、どのような言葉だったのですか? 「お前はキバを抜きすぎたな」という言葉です。 今でこそ僕は変わった人だと思われがちですが、当時は本当に自分をゼロにしていました。高校の頃は、周りを立てるようなナンバーツーとしての働きしかしていなくて。 最初は自信満々で高校に入って、否定された瞬間ゼロになって。間のバランスが取れていなかったんですよね。先生の言葉を聞いて、「自分を出していいんだ」と気付き、今の人格が形成されたのだと思います。 型破りな方法で人生を切り開く ーそこから大学に入って、メンターとの出会いがあったようですが、詳しく聞かせてください。 バイト先のラーメン屋の社長なのですが、「かっこいい生き方」とはこのような生き方を指すのだと感じさせられる方でした。 その方から、「人様を傷つけたりしなければ、死ななきゃ何をやってもいいよ」と言われて。単純なのですが、すごく深いと感じました。人生何をやってもいいと思えるようになったんです。 そこからちょっとずつ自分がおかしくなっていって(笑) 大学3年生の冬にアメリカに行こうと思ったんです。バイト先のラーメン屋の社長が修行した店がアメリカにあるので、そこに行こうと。 でも、ちょうどアメリカの政権交代のタイミングで、外国人に就労ビザが出なくなって。じゃあほかに何をやったら面白いかと考え、日本一周を始めることになりました。 ー日本一周では「誰よりも真剣に就活をしない就活」をされたと思いますが、具体的にはどのようなものだったのでしょうか? 地元の人しか知らない優良企業から全国的に名の知れた企業まで、たくさんの方から「うちに来ないか」と声をかけていただきました。 最初は特に就活のことを考えずに旅に出たのですが、結果的に就活もできていましたね。 スーパーの駐車場で歯磨きをしていたら「お前いい顔してるな!うちで働くか!」と言ってもらえたりして。普段の生き方を大人は見ていると思いましたね。 普段の礼儀正しさとか楽しそうな雰囲気とかを評価してもらえることが多かったです。 ー日本一周で、様々な経験をされた後、北海道に戻って今のお仕事をしようと決心するまでどのような経緯がありましたか? 車で日本一周をしていたのですが、運転時間が長く1日10時間ほど運転している日もありました。そんな中、「自分の生きる意味」や、「自分は何者なのか」について考えたんです。 考えているうちに、自分の中で3つの夢が出てきて。 1つ目が「他人からカッコよく思われたい」 2つ目が「有名になりたい」 3つ目が「”人の幸せを志す男”という名前の由来通りに生きたい」と。 今までは社長の息子であることや、地元に対してネガティブな印象しかありませんでした。 しかし、「長男として生まれて家業を継げるチャンスがあるのに、逃げるのはカッコ悪い」と感じ、北海道へ帰ることを決めたんです。 日本一周から帰ってきて、父に気持ちを伝えた直後に会長だった祖父が亡くなって。 ちょうど家業継承のタイミングが来たと思えましたね。 ー西村さんの今後の展望を教えてください! 「誰もが知っている、誰も見たことがない建設会社」を目指しています。 ビジョンやミッションを再策定したばかりなのですが、84年間無借金で経営していて、土台・歴史・技術・ネームバリューもある中で再スタートするのを楽しみにしています。 「ベンチャー風老舗」と銘打っているのですが、そのようなビジョンにワクワクしてくれる仲間を募集しています! 個人としては、「カッコよく生きる」、「有名になる」、「幸せを志して生きる」の3つの軸で人生を送っていきたいです! ー本日はありがとうございました!西村さんの今後のさらなる活躍を期待しております! 取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:五十嵐美穂(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

大学入学後にキッチンカー運営に挑戦! 自身が抱いた興味や違和感を原動力に行動し続ける 山田 璃々子の生き方とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第231回目となる今回のゲストは、慶應義塾大学に通いながら学内キッチンカーを運営されている山田 璃々子さんです。大学入学後にキッチンカーあったまるを立ち上げ、現在はお茶の販売や産地への訪問など多岐にわたり活躍されている山田さんにキッチンカーあったまるの誕生からコロナ禍での活動、さらには自身が大切にしている考えをお話しいただきました。 自分自身がほっとする場を欲していた ーまずは自己紹介をお願いします。 慶應義塾大学2年の山田 璃々子です。私は、大学でキッチンカーあったまるというキッチンカーを中心としたほっとする空間をつくっています。その他に自分でお茶について調べ、生産者さんに直接お話を聞きに行くなどお茶にまつわる活動をしています。 ー大学ではどういったことを学ばれていますか。 ランドスケープと呼ばれる分野の勉強をしています。主に、フィールドを調査し、建物や周辺のまちの在り方を提案しています。最近は、人々がまちについて語るアーバンデザインセンターを京都の宇治に作るということで、そのためのフィールドワークをしていて、そこでお茶農家さんにお話を伺いました。 ーアーバンデザインセンターでお茶農家さんに出会ったのですね。 あったまるで販売しているお茶とは別ですが、まちの方にお話を伺う一貫で出会ったお茶農家の方がもっとお茶を深めたいと思うきっかけを与えてくれました。ちなみに、元々このゼミを専攻しようと思ったのは、キッチンカーを中心とした空間をつくっていたこともあり、空間づくりについてしっかり学びたいからでした。 ーキッチンカーについてもお聞きしたいのですが、「あったまる」はどこから着想を得たのでしょうか。 大学に入学したときに、私は直感でほっとする場所が欲しいなと思いました。大学の特性上、ひとりひとりの時間割が異なっているため、授業から授業への移動は盛んにあるものの、何か立ち止まって休む時間を自分も含めて取れていないと新入生ながら感じていました。そこでどうすればよいのか考えたときに、夕方頃、大学構内に並ぶキッチンカーの周りで学生が4~5人立ち話している姿を見て、ここに椅子があったら人が来てほっとする空間になるのではないかと思ったのがきっかけで始めました。 始めるときに名前をつけようと一緒にキッチンカーを運営している子と話をしていて、心身が温まるほっとする空間を作りたいという意味、たまたまそこにいた人同士が話をして気付いたら輪(=丸)ができているという意味を込めて「あったまる」と名付けました。 直感を大切にして大学を選ぶ ーここから過去のお話を伺えればと思いますが、ご出身はどちらでしたか。 出身は兵庫です。 両親の仕事の都合上、福岡に一時住んだこともありますが、小学校の途中から家族全員で東京に暮らしています。 ー転勤が多いとその土地に慣れることは難しいと思いますが、その点はいかがでしたか。 大変ではあったものの、次第に適応能力がつき、どんな新しい場所でも自然体でいられるようになりました。結果的に3つの小学校に通うこととなったのですが、学校が変わった時は友人関係よりも新しい環境に慣れるまでに体を壊してしまうことがありました。 ー人間関係よりも住んでいた環境に影響されたのでしょうか。 それもありますし、幼かったのでなぜ私だけ転校するのか?という思いがありました。 毎日行っていた場所や会っていた人から離れるのは嫌で、せっかく生やした芽がすぐに飛んでいくことが繰り返されていました。 ーどんな学校生活を送っていましたか。 小中高一貫の学校に通っていて、中高時代はミュージカル部に入り、朝昼放課後は部活という生活をしていました。 ーその後、大学はどのような基準で選びましたか。 もともとは理系の科目が好きだったことから理系の大学に進もうかと漠然と思っていました。しかし、進路相談会の時に当時私が目指そうとしていた学部の先輩が急遽来れなくなり、高校時代の担任の先生が私を慶應の環境情報学部(以下、SFC)の枠に入れてくれたんです。その時に見たSFCのホームページの様子に一目惚れして、ここに行こうと決めました。 いつも直感を大事にしているのですが、幼少期から海外の映画を見ながらみどりに囲まれた大学に行きたいと両親に話していたので、SFCの環境にビビッと来たのだと思います。兵庫に住んでいた時の家の周りに川やみどりがあり、毎週末に父や兄弟と虫取りや川遊びをしたりとしていたことでいつのまにかみどりのある空間好きになっていました。 違和感がきっかけでキッチンカー「あったまる」がスタート ー大学入学前と実際に入ってからはどういった違いを感じましたか。 大学に入るまでの私のイメージはまさに大学のホームページで、原っぱで学生が会話をしたり、一人一人の強みを生かしあってどんどん新しいプロジェクトが生まれるイメージでした。しかし、実際に大学に入ると、入学前にイメージしていた学生像に自分自身がなれていなかったと実感しました。学校の授業が終わるとすぐに帰るだけの生活になっていて、大学は勉強するだけの場所でないという思いから、この環境を変えるには自分でやるしかないと思いました。 そこで、キッチンカーを活用した空間をつくりたいと様々な人に話をしていたところ、同じようにキッチンカーをやってみたいという子に繋いでもらい、一緒に活動をすることになりました。 私はサークルにも所属していましたが、何か共通項を持った人が出会う場所はサークルで補えるものの、偶発的な出会いは共通の場所でない方がいいのではないか、食べることは誰もが関心があるのではないかと思い、キッチンカーを用いました。 ー「共通項のない人たちが集まれる場所があったらいいのでは」という考えに至った経緯を教えてください。 SFC生がいろいろな活躍をしているのは大学前から知っていたので、いろいろな人を知りたいと思ってたのと、たまたまの出会いがきっかけでキッチンカーを始めたので、決められた出会いではなくたまたま今日ここにしかない空間を作りたかったんです。 ーキッチンカーを学内で立ち上げる上で、大変だったことを教えてください。 最初にどうすればいいのか分からなかったため、学校側に相談したところ、学内に出しているキッチンカーの人に話してみてくださいと伺い、キッチンカーを運営されている方に相談しました。すると、ありがたいことに協力するとお話しいただいたので、翌月からキッチンカー運営を始めようと思っていました。 しかし、学校内で食品を出すことにハードルがあったり、食中毒といった学生では責任を負いきれない問題もあり、学校側は難色を示していました。そこで、私は食品衛生責任者の資格を取得し、キッチンカーを運営されている方にご協力いただき、料理を作るところはキッチンカーの方にお願いし、料理提供や空間づくり・企画を私たちが行う形で役割を調整をし、学内でキッチンカーを運営できることになりました。 最初は、自分たちでキッチンカーを買って、料理を一から作るものだと想像していましたが、全て友人と二人で出来るわけではないと実感したことで、私たちに協力してくださった方々の存在が大きいなと思うし、何度も学校側に私たちの思いを伝えたことは貴重な経験だったと今振り返ると思います。 ー学校の学内発表をしたとお聞きしました。大学内でも活動が認められるようになったのではないでしょうか。 あったまるは、直感的に始めた活動で、徐々に育てていった活動でした。 大学入学直後は、休み時間という時間はあるものの移動するための休み時間でしかないと感じていまた。ホッとする空間でたまたま出会った人と話したり、学校に来て良かったと体感してほしかったんです。 どうやって進めていけばいいか手探りでしたが、やってきたことを言語化し、今年の11月の学会でアウトプットしたのは貴重な経験で、結果的に奨励賞をいただけたことはすごく嬉しかったです。 コロナ禍で「あったまる」を通してやりたいことを再考する ーコロナ禍で環境が変わったかと思いますが、どのように対応していきましたか。 キッチンカーあったまるという名称ながらキッチンカーを出せない状況となり、キッチンカーを通してやりたいことは何なのかを考え直す期間になりました。その時に、根本にあるのはほっとすることで、ほっとするための1つの方法がゆるい関わりをつくることだと思いました。 授業やプロジェクトでの人との関わりは、何かを成し遂げるという目的に向かう上での関わりですが、目的のないゆるく関わり合う空間を作ることがほっとする1つの要素で、ほっとする空間はどうしたら作れるのかということをずっと考えていたのだとわかりました。そこで、ほっとする場を作るためにオンラインでお茶を販売したり、SFC生限定で週末ストレッチ会を毎週末オンラインで行っていました。 ーキッチンカーでの関わり合いは副次的なもので、ほっとするというところにフォーカスをしてコロナ禍でも活動されていたのですね。 あったまるの活動は、コロナ禍になってからより必要性を感じる側面がありました。コロナによる自粛期間は、大学の授業もオンラインになり、意識的に休憩をとらないと休むことができないと感じていました。今までは学校へ通学している時間にぼーっとできたものの、コロナ禍では家の中で1日中過ごすことが多くなり、ぼーっとする時間を作りにくくなってしまったので、お茶を淹れている時間だけでもほっとできたらいいなと考えました。 さらに、一人一人がフランクに今日あったことを話せる空間が欲しいなと思い、週に一回ストレッチ会やお茶会も設けました。1週間頑張ろうとみんなで励まし合う風土が作れたらと思いながら活動していました。 ー先ほどのお話から出てきている、お茶との出会いについて教えてください。 茶道は、父の親戚がやっている姿を見て、憧れを持っていました。 私の性格上、何かに没頭するとほっとする時間や自分を整える時間を後回しにしてしまうので、大人になっても続けられる趣味をつくりたいなと思い、茶道部に入りました。 ーその後、茶葉の開発もされるかと思いますが、そのきっかけを教えてください。 茶道を始めてみると、茶道の精神だけでない1杯のお茶がつくりだす空間に感動し、その感想を知人に話した時にお茶で起業されている方と出会いました。 コロナ禍のタイミングでその方にお茶で何かしたいとお話ししたところ、一緒にやってみようということで農家さんを繋いでいただき、農家さんと一緒にお茶をプロデュースして販売することになりました。 ー茶葉を作ることは、具体的にどんなことを考えながら進んでいくのでしょうか。 静岡の農家さんと一緒に行なったのですが、地形的に育てやすいお茶の種類は決まっていて、それをどのようにして消費者に届けるかを私たちは考えました。 キッチンカーの活動が足止めになっていたこともあり、コロナ禍で出来る事がないかを探していたときに、家の中でほっとする空間や時間を作ることはできると考え、お茶の商品名や販売方法、購入用途などを友人と考え、実行しました。 お茶の名前を“環”と名付けましたが、そこには「輪」という意味が込められています。あったまるとお客さんの輪、生産者さんとお客さんの輪、さらにはお客さんが大切な人や今会えない人のための贈答用にこのお茶を通してその人との輪を作って欲しいという思いがあります。 自分のために気になることはまずやってみる ーあったまるの活動以外に司会業や執筆業など多方面でも活動されていますが、一貫して大切にしていることがあれば教えてください。 気になった事があったらやってみたいというのが根底にあり、これまでの人生を振り返るとやってみないと分からないことがたくさんあると感じました。中高時代に入部したミュージカル部も直感で入るなど、いつもワクワクする気持ちに従って過ごしていました。あとは、誰かのために何かがしたいという原動力よりも自分のためにやっている活動が多いです。 ほっとする空間は、今では誰か(学生)のためとなっている活動のようにも見えますが、最初は自分がそういった場が欲しくて始めましたし、司会のお仕事や声を使うお仕事も自分のワクワクが起点になっていて、好きを重ねていく方が私は過ごしやすいなと感じています。また、自分のことを大切にできれば自ずと他人のことも大切にできるのではないかと信じています。あったまるの活動も1人1人にほっとする時間を通して、自分を大切にすることを知って欲しく、つい頑張って自分をすり減らして頑張っている人に届けたいです。 ー最後に、山田さんの今後のビジョンを教えてください。 お茶の生産者さんと実際に会った時に、お茶にはそれぞれ個性があると感じたので、これからは研究として生産者さんにお話を聞いたり、どのようにしてこのお茶が生まれたかを調査していきたいと思っています。 あったまるの活動もコロナ禍に合わせて、学校でのほっとする空間よりも家でほっとする空間に変わっていくと友人とも話していますが、暮らしを探究する上で私はお茶という方面からあったまるに貢献できたらと考えています。 ー大学入学前と入学後のギャップや環境を自分で変えていく姿勢が素晴らしいと感じました。 今後の山田さんのご活躍を応援しています! 取材者:中原 瑞彩(Twitter) 執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

二度の休学を経てクラフトビールで起業!株式会社Story Agent代表取締役副社長・藤戸淳平

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第224回は大学入学後に世界一周を経験したことをきっかけに学生醸造家として活動されている藤戸淳平さんです。現在、横浜市立大学に在籍中の藤戸さんは実はすでに2回休学をされているそう。世界一周・海外インターンと2度の休学を経て、藤戸さんが何を感じ、どういった思いで起業を決意することとなったのか。これまでの経緯をお話いただきました。   他人の目を気にしていた中、世界一周を決意 ーまずは簡単な自己紹介をお願いいたします。 横浜市立大学に通いながら今年の7月にクラフトビールの製造・販売・Eコマース事業を中心とした株式会社Story Agentを立ち上げました、藤戸淳平です。現在、Travel Triggerというブランド名のクラフトビールをベトナムでインターンさせていただいた会社に製造委託し、日本での販売を目指して動いています。 その他にも千葉県の古民家をお借りし、20代前半のメンバーを中心に「地球ともっと生きることを楽しく」をテーマに半自給自足の古民家改修プロジェクトに取り組んでいたり、バンライフ事業に取り組まれているCarstay株式会社より業務委託を受け営業やカスタマーサクセスのお仕事をさせていただいたりしています。 ー様々なことに積極的に活動されていますが、昔からいろんなことにチャレンジされるのは得意だったのですか。 いいえ。今のようにいろんなことにチャレンジをするようになったのは大学に入ってからで、それまではどちらかというと周りの反応を気にして生きていました。小学生の頃はサッカーと少林寺拳法を、中高もサッカーを続けていたので所謂サッカー少年でした。また、進学した地元の中学校がヤンキーの多い中学校だったので周りの影響もあり授業に真面目に出席することはなく、優等生からは程遠い学生でした。 良い意味でも悪い意味でも転機となったのは中学2年次に先生になぜか勧められて学級委員をさせてもらったことでした。学級委員になったことでこれまで自分がどれだけ周りに迷惑をかけてきていたのかに気づくことができ、そこからは他人に迷惑をかけないように生きようと改心したんです。一方でそれ以来、必要以上に周囲の反応に注意をするようになり、常に他人の目を気にする性格になりました。 ーそこからどのように今の藤戸さんに変わっていかれたのでしょうか。 大学を休学して世界一周に行ったことが大きかったです。もともと英語が好きで大学へは指定校推薦で国際学部に進学することが決まっていたのですが、サッカー以外の何を大学でしたいか考えた中で見つけたのが世界一周でした。海外に行ったことがなかったので、漠然と大学では国際ボランティアか留学をすることを考えていたのですが、その中でたまたま見つけたのがNICEという団体がされているぼらいやーというプログラムでした。説明会で、「旅×ボランティア×あなたのやりたいことを実現する1年」という言葉を聞いて直感的にこれだと思いました。誰にも相談することなく休学して世界一周をしようと決め、応募をしました。   再度休学し、海外インターンを経験 ー実際に世界一周してみて、いかがでしたか。 約10ヶ月かけて35か国まわったのですが、国ごとにこんなにも人って違うということを知ることができて面白かったです。ぼらいやーの参加者の多くは目的やテーマを持って世界一周されていたのですが、私はただ違う世界がみたいという思いで世界一周を決めていたのでとにかくたくさんの国にまわっていました。 その中でも印象に残っているのは約4ヶ月滞在した中南米です。陽気な人が多く、毎日楽しそうに、遊ぶように暮らしている中南米の人を見て、せわしなく生きている日本人とのギャップを感じました。これから自分はどう生きていきたいかについて考えるきっかけとなりましたね。 ー帰国後、具体的に生き方を変えられたりしたのでしょうか。 そうですね。自分がワクワクする生き方を実現するにはどうするのかいいか考えた結果、とりあえずやってみたいと思うこと全て挑戦してみようと決めました。それからは日本一高い橋でバンジージャンプに挑戦したり、国内でヒッチハイクをしてみたり、クラウドファンディングに挑戦し企業協賛を得て日本縦断の旅をしてみたり。中高の頃はずっと周りの目を気にしていて挑戦することに対するハードルが高かったのですが、世界一周をきっかけに周りの目を気にするのではなく自分は何をしたいかを基準に動けるようになっていきました。 そうやってやってみたいと思ったことを順番にやっていく中で、次にやりたいことが見つかり、また挑戦するというサイクルが続いたのですが、その流れで次は海外で働いてみたいと思うようになりました。 ーそれも、挑戦されたのですか。 はい。すでに1年休学していたのでもう1年休学することに対して迷いもあったのですが、一度やっぱり海外で働いてみたいと思ったので休学を決め、トビタテ留学JAPANの奨学金制度を使用して再び海外へ行くことを決めました。 具体的には、自分の好きなことに関わる仕事をしたいと思ったので日本酒関係の仕事をしたいと思いインターンをさせてくれそうな海外の会社を探しました。初めはスペインで日本酒を作っているスペイン人の方を見つけて連絡を取ってみたのですがあいにくインターンは募集しておらず…時間もなかったのでとにかくお酒関係の海外インターン先を、と調べる中で見つけたのがベトナムのクラフトビール会社7Bridges Brewing Co.でした。   クラフトビールの魅力はそれぞれの醸造ストーリー ーそれがきっかけでクラフトビールでの起業を考えられたのですか。 はい。とはいっても初めは起業したいという思いは全くなかったんです。ダナン本拠地の会社だったのですが、インターン生にも関わらずたった2週間の研修の後ホーチミンの営業全てを任されることになり…。1人でホーチミンの営業、発注管理、イベントの企画運営を担当していました。 クラフトビールはアート職人が作る作品と同じように、職人の思いやストーリーが込められており、その醸造背景を伝えながら営業するのはとても面白かったです。クラフトビールにはそれぞれ異なった醸造ストーリーがあり、ビールとしてただ味を楽しむのではなく、そのストーリーを知った上で飲むと更に楽しむことができます。しかし販路を広げるための飛び込み営業をしていると、どうしてもストーリーを伝えることよりも売ることに意識がいってしまいました。その頃から少しずつ自分の思いを込めたクラフトビールを自分で作って売りたいなと思うようになったんです。 ー具体的にその後起業するまでにどのようなステップを取られたのですか。 インターン先の社長と副社長に、自分のブランドを立ち上げて自分のクラフトビールを作りたいというお話をさせていただき、残りのインターンは営業ではなく、ビールづくりを学ばせてほしいとお願いしました。快く承諾していただいたのですが、そのタイミングでコロナが流行してしまい…日本に帰国することとなってしまいました。 それでも何もしない訳にはいかないと思い、帰国後とりあえずブランドを作ることを決意。ビール作りは学べなかったので、インターン先に製造を業務委託する形で日本でオリジナルビールを販売することを決めました。 ーどのようなクラフトビールの製造・販売を決められたのでしょうか。 クラフトビールは現状、ビール好きにしか飲まれていないというのを感じていたので、ビールやアルコールが苦手な方でも飲める、アルコール度数1%以下のクラフトビールを作ることにしました。第一弾としてはベトナムらしさを出したパッションフルーツのラドラースタイルのビール発売に向けて今年7月にクラウドファンディングを行い、無事目標額を上回るご支援をいただきました。   理想の生き方・働き方を目指して ーすごいですね。クラフトビール以外にもいろいろと取り組まれていますが、これらに共通することは何かあるのでしょうか。 全て自分が面白そうだと思ったこと、ですかね。あとは、自分の目指すライフスタイルに合いそうなものというのが共通点です。30歳になった時にどんな働き方をしていたいかと考えた時に「旅をしながら生きたい!」と思いました。理想はバンライフをしながら、世界各地でビールを作り、DIYや農作業をしながら生活すること。そのために今所属している団体や会社を手放しても、個人で何かできるような人でありたいなと思って今かんばっています。 ー最後に、今後の目標などがあれば是非教えてください! 直近の目標としてはクラウドファンディングをご支援いただいた方に無事クラフトビールを届けること、そして完成したクラフトビールをより多くの人に知ってもらい、楽しんでもらうことです。また、第一弾はベトナムで醸造したクラフトビールにしましたが、「旅をするきっかけを作る」というコンセプトの元、今後も新しいクラフトビールの開発に取り組んでいきたいです。このクラフトビールで乾杯することで新たな友達が出来たり、このクラフトビールを飲んだ人が世界に出て、世界でまた新たな友達を作ってくれたら嬉しいです。そうやって友達の輪がどんどん広がることで、「他人」がどんどん減っていき、それぞれがそれぞれのことを思いやれる世界になっていってほしいなと思っています。 実は第二弾に向けてすでに動き出しており、次は台湾を舞台にしたクラフトビールを考えているところです。ぜひ楽しみにしていてください! 取材者:山崎貴大( Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)      

海外旅がきっかけで大転換! 工藤 美奈が人生で後悔しないために大切にしていること

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第235回目となる今回のゲストは、絵画アーティスト/デザイナーの工藤 美奈さんです。大学時代の海外旅、交通事故の経験が人生の転換期となった工藤さんに海外旅や交通事故のエピソード、さらには将来の夢についてお聞きしました。 表に出ることが苦手だった幼少期 ー簡単に自己紹介をお願いします。 フリーランスでデザイナーと絵画アーティストをしている工藤 美奈です。 2020年の3月に大学を卒業し、今は在学中からの仕事を続けています。 デザインは紙媒体中心で、ロゴやパッケージのデザインを作っていて、直近ではクッキーのパッケージを作っています。絵画アーティストとしては、絵を描いて展示したり、店舗に飾る大きい絵を描いたりしています。 ーデザインと絵描きを2年独学で学ばれたとお聞きしましたが、 新卒でフリーランスの道を選ばれたことは勇気がいる決断ではなかったですか。 周りのほとんどの人は、就活をして就職をする道を選ぶ中で、新卒でフリーランスの道を選ぶのは勇気が必要でしたし、周りからの様々な意見があり、すごく悩みました。 ただフリーランスという働き方がやっていて楽しかったですし、自由な性格である私に合っていると感じていました。また、在学中から少しずつお仕事を受けていたこともあり、このまま頑張ってみようと思いました。 ーここから少女時代のこともお伺いできたらと思います。幼少期はどう過ごされていましたか。 すごくシャイで物静かな女の子でした。 幼稚園の時も周りに馴染むことが苦手で、制服を着ていくことに抵抗したりしていました(笑) シャイな性格が中高時代まで続きました。表に出る事が苦手で、静かに生きていたいと思っていましたし、当時の流行にあまり興味がなく、静かに絵を描いたり、好きな小説を読んだりと自分の世界に没頭していました。   ー中高時代に熱中していたことは絵を描くことや小説を読むことだったのでしょうか。 絵を描くこと、赤毛のアンをはじめとする小説を読むこと、あとは学校の文化祭にハマっていました。高校の文化祭は、有志でチームを作って自分たちの好きなことを出来たので、とても楽しかったです。 ーどんな事が楽しかったのでしょうか。 お店を作るとなると、看板やロゴ・チケットが必要だとなり、その頃からデザインやロゴを作る事が楽しくて、Tシャツのデザインに自分から積極的に関わったりしていました。 ー美術部に入ろうとはならなかったのでしょうか。 一回見学に行きましたが、入りませんでした。絵を描いてはいましたが、絵を描き始めることは面倒だったりするので、絵を仕事にしようと当時は思っておらず、趣味の一つとして捉えていました。 自分が変わるきっかけとなった台湾旅 ー大学を選択するときの選択軸を教えてください。 将来やりたい事が全く分からなかったため、当時好きだった世界史が学ぶことのできる名古屋大学の地理学を選びました。 家庭の事情により、大学は地元という制限がある中で、名古屋大学の文学部であれば、入学後でも専攻を選べることもあり、選びました。 ーその後、海外への一人旅に行かれると思いますが、そのエピソードについて教えてください。 もともと海外に対する憧れがありました。 小学校の時に地元で愛・地球博が開催され、そこに何度も足を運んだり、クリスマスプレゼントに国旗図鑑が欲しいと言う女の子でした。国旗を眺めたり、いろんな国があることを知る事が楽しかったんです。 大学生になったら海外に行きたいとずっと思っていて、大学2年生の6月に初めての海外旅行となる台湾へ4日間行きました。パスポートを取得したり、自分で宿や航空券・保険を決めたり、親を説得したりといろいろな準備が必要で大変で、あれだけ憧れていた初海外にもかかわらず行く前は不安でいっぱいだったのですが、行ってみたらとても楽しかったんです。 自分で計画したプランを実行して、120%楽しんで日本に帰国できたことがすごく嬉しく、そこから旅にハマっていきました。 ー台湾への旅で具体的に思い出に残っているところを教えてください。 夜市です。台湾には多くの夜市があり、道の両側にいろいろな店がありました。 フルーツ、野菜、肉や魚、革製品、マッサージ屋などが広がり、匂いや熱気に圧倒されました。家族や友人と当たり前のように歩いて食べて楽しんでいる、現地の台湾人の様子を見て、私がこれを知らなかっただけで、台湾のこの場所では何十年何百年続いてきたのかと思うと、すごい事だなと感動しました。 ー台湾への旅がきっかけでご自身に変化があったのでしょうか。 自分にとって「やりたいけど、できるかな」と思っていたことを乗り越えた事で1つ自分の中で自信になり、そこからいろいろなことに挑戦していけるようになりました。 ー海外に行きたいと思われていた中で、なぜ一人旅を選んだのでしょうか。 もともと一人で行動するタイプであったのと、バックパッカーのバイブルと呼ばれている「深夜特急」という小説を台湾旅の前に読んだことが影響し、その小説と同じ旅のスタイルを自分もしてみたいと思い、一人旅を選びました。 レールに縛られずに自分のやりたいを大切にして良いのだと気づく ーその後はどういった国に行かれましたか。 東南アジアのタイ、カンボジア、ネパールに行きました。 長期休みのたびに、お金を全て旅行に費やしていました。 ーこの3ヵ国を旅した時のエピソードを教えてください。 印象に残っているのは、ネパールです。 ネパールには、1週間はボランティア、もう1週間は観光の合計2週間行きました。 2015年にネパールで大きな地震があったので、ボランティアでは瓦礫を撤去したり、子どもたちと遊んだりしました。その際、ネパール人の家族のところにホームステイしていたのですが、印象的だったのはネパールが停電が頻繁に起こり、1週間に1度しかシャワーを浴びれないほど水が貴重であること、首都のカトマンズにさえ信号がないことです。日本の生活レベルと比較すると格段に不便でショックを受けました。 しかし、そんな中でも彼らの暮らしをみているとどこかすごく幸せそうだったのです。家族や友達との繋がりが強く、頻繁に親戚の家に行って一緒にご飯を食べたりどこかへ出かけたりしていました。実際にネパール人は、何もない中で、何もないことを楽しんでいると話をしていて、幸せはお金から来るものではないのだと教えてもらった気がします。 ーその後、スペインに行かれたそうですが、その時のことを教えてください。 将来やりたい事が分からず、旅を満喫しきれなかったので、1年間休学をして、旅に出ました。 スペインにサンチャゴ=デ=コンポステーラというキリスト教の三代聖地のひとつがあるのですが、その聖地を目指して巡礼路を1ヶ月以上かけてひたすら歩く旅をしていました。 ここを選んだきっかけは、高校時代の世界史で学んでいた時から憧れを持っていたからです。 もう1つのきっかけは、小説「深夜特急」が時間をかけてゆっくり陸路で東から西に進んでいく旅で、旅をする過程で周りの文化や国、景色、人が移り変わっていく様子を肌で感じながら旅をするスタイルに憧れていました。ゆっくり西に向かっていく旅という意味でも、スペイン巡礼はいいなと思いトライしました。 ーこの旅の中で、一番感じたことを教えてください。 様々なバックグラウンドをもった世界中の人と知り合えたことです。彼らと語り合いながら、スペインの大自然や絶景の中を雨の日も雪の日もひたすら歩いた日々が強烈な印象に残っています。 ー色々なことを感じた中で、一番は「人」だったのですね。 大学の中に閉じこもっていたら出会えなかったような人や価値観、生き方にリアルな感覚で触れ合えたことで視野が広がりました。 皆同じゴールを目指して歩く仲間なので、励まし合ううちに家族のような絆が生まれました。言語の壁があっても語りあいたいことや伝えたいことが毎日溢れていたので、その気持ちが前に出て不思議とコミュニケーションが取れていたような感覚があります。 ー休学時は何がしたいか分からないということでしたが、旅の経験が工藤さんの生き方に影響を与えたのでしょうか。 旅を通していい意味でネジが外れ、思考が自由になりました。 そして何がやりたいかは当時まだわかりませんでしたが、レールに縛られずにゆっくりと自分がやりたいことを探していこうと考えるようになりました。同時に、就活をして就職をする道を必ず選ばないといけないわけではないのだと痛感しました。 ーその後に挑戦したのが、東京でのインターンだったんですね。 貧しいと呼ばれる国を旅する中で、恵まれない子どもたちの姿を見てきたことで、 将来は発展途上国の貧困を救うような仕事につきたいと当時は考え、そのような業種の会社でインターンをしていました。 ー当時はどんな関わりがしたいと考えていましたか。 ボランティアとしてではなく、ビジネスに関わりたいと考えていました。 ボランティアやNPO、NGOだと出来ることに限界がありますが、ビジネスだと持続的に地域に関わったり、支援を続けやすいと思い、バングラデシュで革製品を作っている会社のボーダレスジャパンの「ジョッゴ」をインターン先に選びました。 ただ、ボーダレスジャパンのインターンに応募したものの一度落とされてしまいました。 しかし、この会社に将来就職したいと当時は思っていたので、ダメ元で社長に直談判したところ、採用していただき、インターンすることになりました。 死を意識したとき、人生を後悔したくない気持ちが強まる ーインターンの最中に大きなターニングポイントを迎えるということですが、具体的に教えてください。 東京で3ヶ月のインターン中に交通事故に遭いました。 骨折はなかったものの、全身を打撲・捻挫してしまい、半年近く病院に通わなければいけませんでした。事故直後は、歩いたり、手をあげたり、シャワーを自分で浴びれなかったり、服を着替えるのに一苦労したりと大変で、気持ちも落ち込みました。 ー出来ることが限られてたからこそ、考える時間が多かったと思います。どんなことを感じたり、考えられていたりしていましたか。 事故にあった時点では、インターンを続けていたもの、自分がやりたいことが当初イメージしていたことと何か違うなと感じ始めていたので、なぜ違うのか考えたり、将来何がしたいのかを考えていました。 同じタイミングで、友人の知り合いが開催している個展に参加したのですが、その個展にとても感動しました。子育てをしながら画家をしているシングルマザーの方の個展でしたが、画家として生きるのが大変な中で、自分の夢を追い続けている生き方や作品に感動し、自分の中にあった「絵がやりたい」という気持ちを思い出しました。 事故に遭ったことで、1mでも1秒でも違っていたら轢かれて死んでいたかもしれず、人生はこんなにも簡単に終わってしまうのだとリアルな感覚を得たことで、絵をやらずには死ねないとその時に思いました。そして、本気で絵に向き合って追求してみたいと思い、絵を描くことに決めました。 ーその後、絵を独学で描き始めると思いますが、どのようにはじめましたか。 学校にいかなければいけないのではと思っていたので、ネットやSNSを使ってイラストレーターさんやデザイナーさんの経歴を調べ、そもそも独学で絵を学べるのか調べるところからスタートしました。 独学でもなれることが分かったので、ネットを使ったり本を購入して、勉強したりして、独学していきました。 ー趣味で絵を描くこと、仕事で絵を描くことにはギャップがあると思ったのですが、そこを楽しめた理由を教えてください。 作品を生み出す過程は苦しいのですが、お客さんが必要としているものを自分が好きなデザインや絵で力になれる感覚や実際にお客さんが喜んでいる様子や満足してくれる姿を見ると、すごく嬉しいです。 ー独学で絵を学ばれた中で、どのように仕事へと繋げたのでしょうか。 知り合いのご縁です。 最初に仕事をいただいたのが、東京のベンチャー企業で働いていた角田さんです。角田さんとは今でも一緒に仕事をしていますし、その会社のつながりで名古屋にあるコワーキングオフィス「ジユウノハコ」を紹介してもらい、現在はそこに所属しながら仕事をしています。 そこはデザイナーやクリエイターが多数所属してお仕事をしている場所で、いろいろな人やプロジェクトが集まっているので、そこからお仕事をもらうことも多くあります。 ーフリーランスという働き方はイメージできていましたか。 在学中にフリーランスとして実際に働いていたので、イメージしやすかったです。 当時は生計を立てる収入はなかったものの、卒業してからもこのまま続けていきたいと思っていました。 旅をする中で、人生の一番長い時間を占める「働く」時間を我慢したり、自分が好きになれないものに時間を費やすことはしたくないと思っていました。 そして、自分がやっていて心地良いものに時間を割きたいと思ったので、お金や不安定な要素よりも自分が何をやっていて楽しいのかを大事にしていました。 満足するまで絵を追求する ー交通事故で死を意識し、絵やデザインを再開されたと思います。 工藤さんはこの先どのように生きていきたいと考えていますか。 あまり長いスパンで人生を考えないのですが、 自分が好きな絵を満足するまで追求していきたいと思います。 もう一つの夢は、将来本を作ることです。もともと旅が好きなので、多くの旅を経験し、旅先で出会った人のイメージを絵にし、その人のストーリーを添え、それを集めた綺麗な絵と言葉の作品集を作りたいです。 ー最後に、工藤さんの今後のビジョンを教えてください。 直近だと、個展を開きたいです。 将来的には、自分の作品をただ展示するのではなく、異なる分野の方とコラボをして、来場者が絵だけではない要素も楽しめる空間づくりが出来たらと思っています。 ー人生で後悔しないように自分のやりたいことを追い求める、工藤さんの今後の活躍を応援しています! 取材者:吉永 里美(Twitter/note) 執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

自分の人生を生きる人を増やす。女性経営者・金井芽衣が描くキャリアカウンセリングの可能性

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第240回目となる今回は、ポジウィル株式会社・代表取締役の金井芽衣さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 「POSIWILL CAREER(ポジウィルキャリア)」でキャリアのパーソナルトレーニングという新しい概念を作り上げた金井さん。なぜ、ここまで真摯に人のキャリアに向き合うのでしょうか。金井さんの幼少期の原体験から、ポジウィルキャリアの着想までを語っていただきます。 キャリアカウンセリングに見出した、虐待解決の糸口 ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 ポジウィル株式会社で代表取締役をしている金井と申します。現在は「ポジウィルキャリア(旧:ゲキサポ!)」という、キャリアのパーソナル・トレーニングサービスを運営しています。端的に言うと「キャリア版ライザップ」のようなサービスですね。 ー金井さんの子供時代について教えてください。 昔から人とあまり群れず、虫や雨の水滴を眺めているような子供でした。人に流されたりせず、自分の世界に閉じこもってずっと考えているような子供で(笑) ー学生時代はどんな勉強をされていましたか? 一度保育系の短大に入学し、2年通ってから4年制の大学に編入しています。編入先の大学では主にキャリアデザインについて学びました。 私自身が子供時代に両親の離婚で辛い思いをしてきたので、自分の子供にはそんな思いをさせたくないと思い、初めは保育について学ぼうと思っていました。当時は短大の授業と実習、さらに編入試験の勉強をしていたので正直とても大変で。1年間くらいは睡眠時間2時間くらいでした。 辛すぎて保育の免許は諦めようとも思っていたのですが、母に「自分で決めたことなのにやりきれないの?」と厳しい意見をもらって……。「そこまで言うならやってやる!」と母の言葉をバネに保育士免許を取得し切りました。 ーすごくハードな学生生活だったのですね……!短大から4年制大学に編入したのはなぜでしょうか? 保育園や養護施設での実習で、日本には虐待を受けていたりご飯さえ食べられなかったりする子供がいることを知って。私も辛い経験をした子供だと思っていたのですが、両親には大事にされていたし、恵まれていたんだと衝撃を受けました。 しかし、虐待は100%親が悪いわけではなく、虐待せざるをえないストレスや環境に問題があると思ったんです。だからこそ、ストレスや環境に問題がある社会構造を変えられる仕組みを作りたいと思うようになりました。 そこで初めて「キャリアカウンセリング」の存在を知りました。人生の大半を占める仕事での悩みが減れば、虐待に繋がるようなストレスが減るんじゃないかと。もっとキャリアを深く学びたいと思い、キャリアカウンセリングの日本の第一人者である宮城まり子先生先生がいる、法政大学のキャリアデザイン学部に編入を決めました。 「金井はリクルートに受からない」と言われ、無我夢中でしたOB訪問 ーそれで就職もキャリア関係の会社に進んだのですね。 はい。新卒では人材紹介事業を行う、リクルートエージェント(現:リクルートキャリア)に就職しました。キャリアに関わることがしたいと思いが強く、人の人生の分岐点に関われる人材系の会社だけを6社受けました。 周囲の方からは「金井は受からない」と思われていたんですよね。そこで元リクルート社員が経営しているバーで「お金はいらないので働かせてください!」と頼みました。バーにはリクルートの社員さんが多くいらっしゃったので、さまざまな方にOB訪問をしていました。 OBの方にも「金井さんじゃ受からないよ」など、厳しい言葉もいただいていました。本当に悔しくて。そんな悔しさをバネにして、リクルートに内定をもらいましたね! ー金井さんは人生で多くの厳しい言葉や批判を受けている印象を受けるのですが、どうやってやる気に変えているのでしょうか? 「信念を持つこと」が重要だと思います。 就活や起業の時にも「お前なんかにできるわけない」と厳しいお言葉をいただいてきました。でも結局、否定をしてくる人はその人の感情を満たしたいだけで、相手にうまくいってほしくないだけの人は多いです。私を応援してくれない人のために、脳の容量を使うこと自体がもったいないなって。 もちろん、真っ当な意見をくださる方は大切にしたほうがいいです。でも「応援してくれない人の言葉は自分の人生には必要ない」と割り切って、聞き流すことをおすすめします。 ーリクルート時代はどんな社会人でしたか? 最初の1年半くらいは売れたり売れなかったりを繰り返していて、正直、中途半端な社員でした。私自身もいままで自分でやり切ってきた自負があったので、今思えばとても生意気な、扱いにくい新人だったと思います(笑) 契約社員さんよりも売り上げていないのに給料が高く、「金井さんは全然仕事ができていない」なんて厳しい言葉もいただきました。今まで比較された経験が少なかったので、当時は非常に傷ついていましたね。 ーどんなきっかけで成績が上がったのでしょうか? 2年目で本気で私に向き合ってくれる上司との出会いです。上司に言われた「お客さんは営業を選べない」「中途半端な仕事しかしない金井さんが担当になったお客さんが可哀想」という言葉がきっかけで、「私はいままでお客さんや会社など他責にしていた」と気づいて。そこからもっと本気で仕事に向き合おうと思ったんです。 その後、また上司が変わったのですが、この方もまた私に本気で向き合ってくれて。「これだけやってもらっているのに成果出なかったら申し訳ない。3ヵ月で成果がでなかったら辞めよう」と腹を括りました。 その2つの出会いがきっかけで、周りの目を気にしない、他人と比較をしないようにしたら無双状態になってましたね。 ー当時、成果が出なかった理由は何だったのでしょうか? 「このまま頑張ってれば、いつかは勝手に報われるだろう」と思っていたことですね。でも、努力は自分で報いに行かないと報われませんから。 また、人の目を気にしていたことも要因でしょうか。今思うと「人の目を気にするくらいなら、自分のことを気にしたほうがいいよ!」とは思います(笑)当時はそのくらい余裕がなかったのかなと。 サービス成功のポイントは「誰へ何をするか」をわかりやすく伝えること ーどんな経緯で独立・起業をされたのでしょうか? はじめは「頑張りたくなかった」から独立しました。 もともと会社に長くいるつもりはなく、いつかキャリア関係での独立は考えていたんです。実際に26歳で独立を決めて、27歳で独立したのですが、当時は会社員を辞めた方が楽そうに見えたとか、人材紹介や研修でお金を稼げるアテがあったなど、甘い考えで独立を決めましたね。 独立したては、人材紹介や研修講師と、組織コンサル、単発のキャリアカウンセリングなどの仕事をしていました。でも、時間に余裕のある生活は私に合わなくて。頑張りたくないから独立したのに、頑張っていない自分が辛かったんです(笑) そんな時、少しずつスタートアップ業界の方とお会いしたり、Twitter経由で投資家の方からお声がけをいただける機会が増えました。 初めて投資をしていただいた投資家の方に「このままだと、適当に会社作って偉そうにしている人になるよ」と言われまして。悔しかったけど、その通りだと思ったんです。 ーそこからそうだんドットミーを作ったのですか? いいえ。そうだんドットミーの前身として30分500円でキャリア相談ができる「ミレニティ」というサービスを作ったのですが、課金ユーザーが1人しかいなくて。投資を受けてから本格的にそうだんドットミーを作りました。 ーミレニティとそうだんドットミーの違いはどんなところに? 正直に言って、ミレニティとそうだんドットミーのサービスの中身はほとんど同じなんです。同じことをしても見せ方次第で結果が変わるんですよね。 ミレニティのときは誰向けのどのようなサービスかがわからなかったので、そうだんドットミーではターゲットを明確にして、わかりやすくしただけなんです。例えば、「カウンセリング」や「コンサルティング」という言葉は敷居が高いので、日本でも浸透している「相談」という言葉を使いました。 サービスが多くの人に愛されるかどうかは、伝え方がとても大事だと実感しましたね。 「相談だけでは人生は変えられない」点を線へと変化させた『ポジウィルキャリア』 ーそうだんドットミーからポジウィルキャリア(旧:ゲキサポ!)に事業を転換した理由を教えてください。 単発のキャリアカウンセリングであるそうだんドットミーだと、ユーザーへ十分な価値提供ができないと思ったからです。 ある時そうだんドットミーのイベントで、サービスを5回も利用しているのに軸が決まらず、転職もうまくいかないユーザーさんに出会いました。どれだけキャリア相談しても「点ばかりで線になっていない」、今のサービスはまったくユーザーの価値に繋がっていないと痛感したんです。 そこで「5万円で、私がマンツーマンでキャリアのサポートします」と提案したんです。結局そのユーザーさんは希望の会社に転職することができて、変化するまで伴走するこの事業のほうが意味がある事業だと気が付きました。 キャリア相談にももちろん意味はあります。しかし、単発の相談だけでは人生が変わるところまでアプローチするのは難しいと気づいたことが転機でしたね。 ーその後、ポジウィルキャリアはいかがですか? ポジウィルキャリアのユーザーさんは「人間が変わる」と確信しています。 ポジウィルキャリアでは、今までの人生をすべて振り返る機会があります。怒りや恐怖、男性不信……そんな悩みの根本には両親や友達との関係があることがほとんどなんです。サービスの入り口はキャリアですが、カウンセリングを受ける中で自分の価値を認識でき、人生の意味を見出すことができるのがポジウィルキャリアです。 また、キャリアの悩みはもちろんですが、使ってくれたユーザーさんからはそれ以上に「自分を肯定できた」との声をいただいています。これまでの環境や経験で認知が歪むことで、自己肯定感が低くなってしまっている方もおられます。難しい問題ですが、結局はどう捉えるかが大事です。 今までの経験は変えることはできませんが、だからこそ捉え方を変えて人生の糧にすることが大切だと思います。 自分の人生を生きる人を増やす。ポジウィル代表・金井芽衣が描く ー金井さんが実現したいのはどんな世界でしょうか? 会社のミッションである「あるべき、こわそう。」の通り、固定観念を壊したいと思っています。 生きていると「いい会社に入らなきゃ」「いいお母さんでいなきゃ」など、縛られてるものが大きいんですよね。でも、自分が本当にいいと思って選んだらそれでいいと思うんです。自分の人生には誰も責任とってくれませんから。 自分の考えで自分の人生を生きる人を増やしたいと思っています。 ー金井さん自身のビジョンはありますか? 「家庭が幸せであるか」はとても大切だと思っています。 ただ、私自身人生をかけて叶えたいミッションもありますし、会社のメンバーやユーザーさんが大好きなので今はそこに集中して頑張りたいです。 仕事は極論「大事な人たちの役に立ちたい」という考えの延長線上にあると思っていて。また、その総量を増やし、少しでも誰かの人生にとっての意味のある存在になれたらいいなと。 公私共に後悔しない人生を送るべく、今やるべきことにコミットして成果を出していきたいです。 ー最後に、U-29世代へメッセージをお願いします! 私は20代で頑張ったことが人生の武器になるなと思っていて。20代の期間で自分の価値をどれだけ高められるかが30代、40代に影響します。 その期間をいかに悔いなく生きられるか。私も失敗はたくさんしましたが、すべてが今の私の糧になっていると思います。ぜひ皆さんにも20代を楽しんで、やりきって欲しいです! ーありがとうございました!金井さんの今後の活動を楽しみにしています! 金井さんが代表を務めるポジウィル株式会社が運営する、キャリアのパーソナルトレーニングサービス「POSIWILL CAREER」の詳細はこちら。 執筆・インタビュー:えるも(Twitter/ブログ) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

「法教育を通じたいじめ問題解決」をテーマに『こども六法』を出版した教育研究者・山崎聡一郎さんの人生史

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第221回のゲストは教育研究者の山崎聡一郎さんです。 「こども六法」という本を皆さんはご存知でしょうか? 2019年に発売された一冊で、日本国憲法・刑法・民法・商法・刑事訴訟法・民事訴訟法の6つの法律からなる「六法」を、子どもから大人まで誰でも読めるほどわかりやすく説明がされている本であり、その秀逸さから瞬く間に話題の図書となりました。今回のゲスト山崎さんはその本の著者でもあり、また他にもミュージカル俳優、社長、写真家という様々な肩書きを持ちながら活動をしています。 そんなマルチな分野で活躍をされている山崎さんですが、彼が実現したいことは一貫して「法教育を通じたいじめ問題解決」というものでした。山崎さんがこの想いに至った今日までのストーリーや、やりたいことを実現していくためのエッセンスなどを幼少期から振り返ります。 被害者・加害者の立場から「いじめ」に向き合った小学校・中学校時代 ー多彩な肩書きを持つ山崎さんですが、改めて今のお仕事について教えてください。 このインタビューも実は、今社員旅行で来ている箱根からお送りしてる、というところで一つは「Art&Arts」という会社を持っており、具体的には演奏会のマネジメントやコンサートの企画運営を行っています。あとは、「教育研究者」としていじめ問題に関する調査・研究・執筆を行っており、その中の一つの活動として2019年に「こども六法」を出版しました。その他にも、ライフワークとしてミュージカル俳優をしていたり、写真家としても活動を行っています。 ー盛り沢山の内容で、でまさに四足の草鞋を履いている状況ですね…すごい!さて、ここからはそんな今の山崎さんを作った過去の話を聞きたいのですが、幼少期はどんなお子さんだったんですか? 登下校中歌って踊りながら歩いているような子でしたよ(笑)とにかく変な子だったな、と思います。 そのせいで小学校の時にはいじめを受けていて、それが僕の「いじめ」と向き合う最初のきっかけとなりました。本当にその時は辛くて幼いながらに「死」というものを考えたこともありました。ですが、その時に生きる支えになったのが唯一、自分が勉強ができることだったんです。なので、いじめから逃れるためにも中学校受験を考え始め、地元から離れた中学校を選んで受験をしました。 両親も、昔ながらのいい学校に行っていい企業に勤めて安定した人生を送って欲しい、と思っていたので、中学校受験には賛成してくれたことも幸いでした。 幼いながらに、小学校時代は力が強い人が権力を持つという構造だったけど、将来的には勉強ができる人が社会的地位の上になる、世の中の仕組みを作る人は勉強をちゃんとしてきた人だ、と思っていたので、ひとまず受験に向けて勉強は頑張っていました。 ー小学校の大変それはそれは辛かったことと思います…。しかしその経験をバネに勉強に力を入れて中学校受験されたのはご自身の中でも大きな出来事になったのではないかと思いました!実際に中学校に入学されてどうでしたか? 人間関係はここでリセットされたので、いじめはなくなってたんですがやはり自分は浮いてましたね(笑)友達関係のパワーバランスも、以前と比べてあまり変わらないし、今度は先生から嫌われるということもありました。そんなことがありつつも、部活は3つくらい掛け持ちしたりしていて、いずれも積極的に活動も行っていました。 一つが写真部、二つ目が放送部、三つ目が自分で作った囲碁愛好会です。 写真は、小学校4年生の時に祖父のカメラコレクションを見て興味をもち、その一年後のクリスマスプレゼントには、コニカミノルタ製APSフィルム用コンパクトカメラをもらってからずっと写真は撮っていました。 放送部は、当時アナウンサーになりたいという気持ちがあったので入部し、中学二・三年生の時に放送コンクールに出場ました。 囲碁は、4歳で初めて出会ってからはかなりのめり込んでいき、小学生時には地元の大会で優勝したりするほどの熱中具合だったのですが、進学した中学校には部活がなかったんです。そこで愛好会を立ち上げて堂々と囲碁を楽しめる環境を自分で作ったというわけでした。 ー現在の仕事もそうですが、小さいことからいろいろなことを一変にやることが得意なんですね!部活にかなり忙しい日々を送っていたことと思いますが、何かそこで印象深い出来事はあったりしましたか? 中学でもまた「いじめ」と向き合う印象的な出来事がありました。小学校はいじめの被害者だったのですが、そこで辛い思いをしたはずの僕がまさかの中学ではいじめの加害者になってしまったんです。 きっかけは囲碁愛好会でのトラブルした。当時は全く自覚がなかったのですが、気がつけば自分が一番悪としていた加害者であると気がついた時は、本当にショックでしたし、そんな自分をなかなか受け入れることはできませんでした。 これからの進路を決定する現体験を経た高校生活 ーショッキングな出来事が続いた小学校・中学校でしたが、高校もまた新しい環境になり何か変わったことはありましたか? 通っていた中学校は中高一貫校ではあったものの、僕は公立高校を受験しました。それが本当に吉と出ましたね、今どの時代に戻りたいと聞かれたら真っ先に高校時代を選択します。 中学校は、私立ということもあって校則が非常に厳しかったでのですが、高校はその真逆で本当に自由な環境が与えられていました。ただ「自由」は保証される代わりに、今度は自分自身で何が良くて何がダメなのかの線引きを考えろ、と言われていたのでそういった意味でも自分に合った高校を選んだなと思いましたね。またここで、法的なものの見方やバランス感覚を身につけたことが、後の「こども六法」の出版に生きていきました。 ーなるほど!これって良い面も悪い面もあるなと思っていて、校則があることによって自由はないけど生活する上で生活の過ごし方を自身で考えることがないのですごく楽である、という捉え方もあると思うのですが、その中で山崎さんが自由な環境を楽しめた理由ってなんかあるんですか? 自由であるからこそ、やりたいことが全部できたのでそれが理由ですかね。縛りが厳しい学校だと、学問を極めることと、とことんまで遊ぶということが、遊びは遊び、勉強は勉強でどうしても別れてしまうと思うんですよね。でも高校は、だからこそ学問だけに止まらずなんでも自由にチャレンジできる場があったんです。むしろ、「勉強だけを頑張るなら誰でもできる。勉強以外のことと両方を極めることこそ大事だ」ということをずっと言われていました。「とにかくまずは勉強をしろ」と言われていた中学校とは、とことん真逆な環境だなと思いますね(笑) ー高校は、山崎さんの中でもこれまでとは全く違う環境に身を置いて、それがご自身にも非常にマッチしていたんですね!高校では、そんな環境でどんなことにチャレンジしていたのですか? メインの部活として「音楽部」いわゆる合唱部をやっていて、他にも生徒会執行部と社会科研究部と、その他二つの委員会に参加して、全部で5つの部活に入っていました。そのいずれも今の自分の活動に繋がっていますね。 「生徒会執行部」というのがこれまた特徴的で、うちの高校は生徒で三権分立が成り立っていて、生徒会長と副会長は選挙で選ばれます。ただ、その下で活動する執行部は部活になっていて誰でも入部することができるのです。 もう一つの「社会科研究部」は、「生徒は学校内外において政治的活動をしてはならない」というルールを廃止するという時代の産物のような目標を掲げて愉快な活動を行っていました。 「法教育」との出会いで自分の取り組む新しい道が拓ける ー高校での部活動は、どれも今の山崎さんの活動に生きているんですね。そんな濃密な高校生活を経て、大学進学はどのように決められたのですか? 高校一年生の終わりに失恋した時に「あなたは勉強はできるけど、人の気持ちがわからない」と言われて、これは人として致命的だなと考えさせられまして。そこで、もっと「普通の人間になりたい」と思うようになり、頑張って普通の人になろうと努力したんですけど無理だったんですよね(笑)その時、「もう僕には勉強しかない」と思い、東京大学一本に絞って、受験勉強に励みました。ただ、結果は東大不合格というもので、親や祖父に勧められた慶應義塾大学へ進学することになりました。 大学では、入学前から入部を決めていた100年以上歴史のある有名な合唱団に入ったり、ゼミにも2つ入ったりして相変わらず色々やっていましたね。一つは、「先端法学」というまだ法律の整備が追いついていない領域で新しい法制度を考えていくゼミ、もう一つは「学習環境デザイン」というストレスが少なく頭に残りやすい学習の環境作りを考えるというゼミに入っていました。 ー大学時代から法律や教育といった分野に軸足が置かれていたんですね。その決め手になった理由というのはあったんですか? 法律は元々興味関心がある分野だったので、勉強したいと受験の時から思っていました。そのきっかけとなったのが、まさに先ほどお話しした高校生活での生徒会の仕組みなどですね。ただ、法律は勉強したいけど果たして弁護士になるのか…?ということは受験時に考えていて、その職業選択は自分の中ではないという結論に至りました。法学部ではなく、総合政策学部に進学したのもそう言った経緯があってのことです。 もう一つの教育に関しては、自分の小学校や中学校時代のあまり良くない思い出がベースにあって、みんなが行かなければいけない学校つまり「義務教育」において、こういった良くない環境があるということはどうにかしなきゃいけないと想い、教育の分野に乗り出したというのはありました。 まずは法律の方から勉強を始めたのですが、そこで僕が今現在もテーマにしている「法教育」という自分のもう一つの興味のある分野でもある「教育」を掛け合わせた分野を知り、そこからはその分野を学部では学んでいきましたね。 ーなるほど、法教育というのは山崎さんの興味を掛け合わせた理想的な分野ですね。そこから研究者の道を歩み始めると思うのですが、最初からその道を決めていたんですか? 最初は、教育系シンクタンクや教育系企業に勤めるというのを考えていて、ただそう言ったところではマネタイズの兼ね合いで僕が研究したいと思っていた「いじめ問題」に関する取り扱いがないということが懸念点としてはありました。また、シンクタンクに進むには院卒であることがマスト条件でしたので、そこで大学院進学をすることに決めました。 ただ、学部の時に自分が作った「こども六法」を生かした研究が大学院では難しいという現実に直面したんです。研究というのは、本来積み重ねであり、先行研究で今まで積み上げられたものの上で成り立つんですよね。なので、まだまだ学問としで出来上がったばかりの「法教育」、前例のないこども六法、いじめと法教育を関連させていく研究も存在ない、という状況の中で上記のような研究の定義に当てはまらない、ということになってしまったんです。 僕の学校自体は、「誰もやっていないことを自分がやるのは面白い」という発想があるんですが、研究においては誰もやっていないだけが自分がやる理由にはならないんです。そもそも研究で「誰もやっていない」という事実がある場合には、一つはやる価値がない可能性がある、二つ目は不可能だから誰もやっていないという二つの理由が考えられます。また、教育実験ともなると対象者は人になり、倫理的に難しい場合もあるのでそこも障壁となっていました。 以上のことから、自分のやりたかった「法教育教育を通じていじめ問題に効果があるか」という実験を検証するのは不可能であるという結論に至りました。そこで、法教育ではなく「いじめ問題」にフォーカスして学びを深めていく方向に転換していきました。 「法教育を通じていじめ問題を解決する」を社会で体現していくために ーなるほど、そう言った経緯で大学院は社会学研究科なのですね。大学院後の進学をどのように捉えていったんですか? 自分が研究テーマにしていた「いじめ問題」については、人生的なミッションとして発信していくのが適切であろうと考えていました。研究の中で完成した成果の一つとして「こども六法」があるわけなんですが、これは全てのクラスに置かれることが最も大切なことだと学部の頃から思っていました。だからずっと紙媒体の本にすることにこだわったのです。しかしこれは非常に難航し、どこの出版社も取り合ってくれませんでした。そこで出版費用をクラウドファンディングで集め、ようやく弘文堂からの刊行が決まりました。 ーそういうわけで、教育研究者として今もその問題に向き合われているということなんですね。ちなみに冒頭にご両親は「良い学校に入り、良い企業に勤めることを理想としていて」と言った話があったかと思うのですが、企業への選択などは念頭にはなかったのですか? 「法教育を通じていじめ問題を解決する」という自分のやりたいことをできそうな会社を当初は探していましたが、結局見つかりませんでした。そこで僕の選択肢から就職は消えたんですよね。やりたいことができない未来は、自分にとって魅力的に映らなくて。また、やりたいことがあるのであれがその実現を優先すべきと考え、企業への就職ではない方を選択しました。 ずっと音楽をやっていたのですがアーティストになりたいと思ったことはなくて。実は音痴だったりもするので(笑)音楽で仕事をするというのは最も実感から遠いものがあったんですが、劇団四季のオーディション受けたら受かるという奇跡があったので、プロとして向き合うようになったのはそこからですね。受けたきっかけは、ずっと挑戦したかった演目を劇団四季がやることにやって、キャスティングは公募するというのをみて応募したことにありました。 ー応募して劇団四季に受かってしまうのがすごい…!最後に、これまでいろいろなことにチャレンジ、それを大成させてきた山崎さんですが、やり切るコツみたいなのはご自身の中でありますか? いかに飽きないようにできるかということですね。元々は飽きっぽい性格なのですが、色々なことに取り組むことによってそれぞれが自分にとって息抜きになっていて、ちょうど良いバランスなんです。 また、「できること」と「やりたいこと」を分けるようにしているのもポイントかと思います。最初からできないことにトライすると自分の中でも難しくなってしまうので、まずはできることから始めるというのにフォーカスしてみると良いかもしれませんね。すると気づいたときにはいつの間にかできることが増えていたりします。 ーなるほど。自分のできることにまずはフォーカスしてそこからつなげていくことが大切なのですね。今日は多岐に渡るお話本当にありがとうございました! 取材:高尾有沙(Facebook/Twitter/note) 執筆:後藤田眞季 デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

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