中1でビジネスを開始!? 高校生エンジニア大森駿斗の原動力とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、中学1年生からブログ・コンサル・エンジニアなどの仕事を経験している16歳の大森駿斗さんです。若いうちから積極的にビジネスに取り組む大森さん。中学3年生のときには、日本テレビの「スッキリ」でも取材を受け、注目を集めています。一体どのようなきっかけでビジネスに取り組み始めたのか、詳しくお話を伺いました。 中1からビジネスを始める。きっかけは、マーク・ザッカーバーグ ー本日はよろしくお願いします! まずは、簡単に自己紹介をお願いします。 大森駿斗です。中学1年生のときにブログを始めて、その後はブログ開設などをするコンサルの仕事をしていました。現在ではエンジニアとしても活動をしています。また、バンタンテックフォードアカデミー高等部にも通っていて、先生と一体になって仕事をしたり、プログラミングやビジネスを学んだりしています。 ー中学生のときからビジネスをしているんですね!何がきっかけで始めたのですか? 13歳のときにマーク・ザッカーバーグの動画を観たのですが、Facebookを起業したときのキャッチコピーが「人と人とのつながり」で、自分がやりたいことはこれなのかなと思ったことがきっかけです。当時からSNSを有効活用して海外の人と交流をしていたため、自分にも何かできるのではないかと感じました。 ーそうだったんですね! その後、どのようなアクションを起こしたのですか? やりたいことがたくさんあったので、最初は定まっていなかったです。多くの選択肢を考えた結果、世界中に発信できるツールとしてブログを始めるようになりました。 ーどのようなジャンルを書いているのですか? また、収入に繋げるのは難しくなかったですか? 最初はジャンルを問わず書いていました。収入に繋げるのは非常に難しかったのですが、ある程度書くことで力がついてきました。当時はサッカーにも励んでいたので、かなり忙しかったです。 ー忙しいなかでも、ブログを続けることができた理由は何ですか? 収入が発生したときに面白さを感じたからです。また、もともと発信をしたい思いがあったので、それも大きなモチベーションになりました。 ー周囲には、ブログをしていることは伝えていましたか? 最初は伝えていなかったです。その後、伝えたときには「自分もやってみたい」と言う友達が多く、ブログの始め方などを教えていました。じつは当時、SNS上でも「ブログを始めたいが、始め方がわからない」という声が多く、それがきっかけでブログ開設のコンサルをすることになったんです。 厳しいサッカーの練習が人生を変えた ーサッカーをしていたとのことですが、いつから始めたのですか? 幼稚園のときから始めています。じつは小学2年生のときに一度辞めているのですが、4年生のときにワールドカップでサッカーが流行り始めたことがきっかけで、再び始めました。その後は熱中し、中学まで続けることができました。 ー練習は厳しかったですか? 練習量が多く、指導も厳しかったです。しかし、その経験があったからこそ今の自分があると言っても過言ではありません。サッカーは、肉体的にも精神的にも自分を成長させてくれました。 一般的な高校には進まず、バンタンテックフォードアカデミーへ進学 ーバンタンテックフォードアカデミーでは、何を学んでいるのですか? ビジネスやプログラミングを学んでいます。バンタンテックフォードアカデミーは、一般的な学校とは方針が異なり、大人の世界など世の中のことまで教えてくれる学校です。詰め込み型の教育ではなく、社会に出ても役立つ実践的なことを教えてくれます。 ーなぜバンタンテックフォードアカデミーに進学したのですか? 普通の高校に将来性が見出せなかったからです。中学までは一般的な科目も勉強していたのですが、途中から自分がなぜ勉強をしているのかわからなくなりました。その後、いろいろ調べているうちにプログラミングに興味が出てきたんです。マーク・ザッカーバーグなど、有名な起業家もプログラマー出身が多かったので、同じ道に進みたいと感じました。 ー同級生には、どのような人が多いですか? やる気のある人が多いですね。また、やると決めたらすぐ行動に移すスピード感のある人が多いです。技術力の高いライバルのような存在の同級生もいて、常に自分を奮い立たせてくれるんです。その影響もあってか、自分も毎朝8時に学校に行って、夜9時に帰ってきて、その後はプログラミングを勉強するという1日を過ごしています。 ー1日を通してインプットもアウトプットも繰り返していますが、常に思考をすることの大切さは何でしょうか? 思考を止めず、常に何かを考えることはアイディアを出すうえで一番重要なポイントだと思います。自分自身は新しいアイディアを世の中に提供したい側なので、常に何かを考えていたいんです。なので、思考は絶対に止めないようにしています。 将来は、広範囲でスペシャリストを目指す ーブログやプログラミングなど、大森さんは並々ならぬ努力をしていますが、努力を継続させるコツを教えてほしいです。 自分は、とにかく新しいことに興味を持つことでモチベーションを保っています。しかし、世の中にはやりたいことが見つからない人も多いですよね。やりたいことがある人もない人も、とりあえず今やれることを全力でやれば、そこから何か見えるのではないかと思います。 ー今後はどのようなことに挑戦したいと考えていますか? 学校では「広範囲でスペシャリストになれ」と言われています。なので、自分がスペシャリストと思える分野を数多く持つことが大切だと思います。近い目標としては、プログラミングに集中して取り組み、自らの力で新しいものを生み出したいと考えています。 ー今後の活躍が楽しみですね! 大森さん、本日はありがとうございました!   取材者:中原瑞彩(Twitter) 執筆・編集者:下出翔太 デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

SMAPになりたくて起業!? HeaR代表・大上諒が「青春」をミッションに掲げる理由

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、HeaR株式会社の代表取締役社長・大上諒(おおうえ・りょう)さんです! 「青春の大人を増やす」をミッションに掲げ、事業を展開するHeaR株式会社を起業するに至った背景はもちろん、学生時代や新卒時代のエピソードなど、大上さんのこれまでの人生についてに迫りました。 いつか起業したいと考えている方、これから社会人になろうとしている方にはもちろん、「最近、仕事が楽しくないな」「学生時代に戻りたいな」と悩んでいる方にも響く、大上さんの「働く」に関する考え方とは…? 人気アイドルグループ「SMAP」の姿に心を打たれ、起業家という選択肢を志す! ー大上さんの自己紹介と、現在のお仕事を聞かせてください! 僕の経歴は、新卒でサムライト株式会社に入社しまして、24歳の終わりに起業しました。今は26歳でHeaR株式会社を運営しています。 僕たちは社名も2回変わっており、事業内容も5回くらいピボットを繰り返して色々な変遷をしてきて、現在は企業の採用支援と、toC向けに転職支援サービスを最近立ち上げました。 ー事業を5回!すごいですね。それまではどのような事業を? 創業当初はeスポーツ+プラットフォームを組み合わせた「エスプラ」という社名で、その名の通りeスポーツ領域の事業をやっていました。 ただ、それがなかなかうまく行かず、事業内容をピボットしようと考え、とはいえ事業内容と社名は親しいほうが良いよねということで、次は「シニアル」という社名にしました。 こちらは高齢化社会の課題を解決したいという想いから、シニア(Senior)に可愛らしい雰囲気の“ル”をつけ、高齢者向け住宅のマッチングメディアを作っていました。 続いて、PRテックとしてメディアと企業のマッチングプラットフォームを作り、その次はオープンイノベーションで大企業とスタートアップ企業のマッチングサービスを作って、その間に「孫レンタル」という高齢者向けのシェアリングエコノミーサービスのようなものもやっていました。 しかし全てあまりうまく行かず、結果的に今のHeaRで行っている採用支援に行き着いたという感じですね。 ー高齢者サービスからオープン・イノベーションサービスまで、幅広いように感じますが事業コンセプト等はどのように考えるのですか? 僕個人は、起業家として「100年先の日本に責任を持つ」というミッションを軸にしています。その軸に沿って先述の事業はすべてチャレンジしました。 上記ミッションに加え、自分自身の心が燃えるものが事業になっていると良いと考えており、さらに今後伸びていく市場かどうか・これまでの自分の知見や経験が活かせるかどうかという点を重視しています。 ーユニークな発想でいいですね。そもそも起業家にはずっと憧れていたのでしょうか? 僕が起業した要因になったのは、17歳で経験した東日本大震災です。その当時は高校2年生で、学校にいたのを覚えています。 地震と津波で日本が大変なことになっている中、何もできない自分に悔しいと感じました。僕は、そこで当時活躍していた“SMAP”に心を打たれたんです。 ーあの、解散してしまった「SMAP」ですか? そうです。もともと、ジャニーズが好き!というわけではなかったのですが、SMAPの木村拓哉さんがすごく好きで、SMAPも好きだったんです。それまではただカッコいいな〜と思っていたSMAPへの憧れが、東日本大震災を経て尊敬の念に変わりました。 理由は2つ。1つ目は、当時放送していた「SMAP×SMAP(フジテレビにて約20年間放送された人気番組)」でずっと東日本大震災の義援金を呼びかけていたんです。グループを解散するまで、この一貫した行動が素晴らしいなと思いました。 もう1つは、福島の被災地でコンサートを開催したことですね。そこで、現地の人たちを元気にするためにうたった歌をすごく覚えています。それを聴いた福島の人たちの顔もすごく輝いていて…。高校生の僕は「あんな大変なことが起きたのに、こんなにも人を笑顔にする力ってすごいなぁ。SMAPになりたい!」と考えたんです。 ー「SMAP」になりたかったんですね!では事務所に…? まさか……(笑)ジャニーズになるためには色々足りません、言わせないでください……(笑)そこで「僕のやり方で、SMAPみたいになるにはどうしたら良いんだろう?」と考えたんです。その時の選択肢が医者か教師か起業家の3択でした。 起業家は、東日本大震災の際に、ソフトバンクの社長であった孫正義さんが多額の寄付をしたというニュースを見てなんとなく夢の選択肢に入っていました。そこで当時の担任の先生にこの3つのどれかになりたいと相談したいんです。 ーその先生はなんて…? まず、僕は当時文系を専攻していたので、医者になるのは難しい上に理系に変わったとしても医者になるのに何年もかかると言われて諦めました。 次に教師はどうだろう?と先生に尋ねたところ、「俺もお前くらいの年に起業家になるか、教師になるか悩んで、結局教師になったけど後悔しているんだ」と言ったんです。「なぜなら、目の前の生徒を幸せにする自信はあるけれど、教師は幸せにできる人数に上限があるからだ」と。 担当するクラスメート40人は幸せにできるけれど、それ以上の人間を幸せにする術がない教師になったことを後悔しているとその先生に聞かされ、「お前はここで教師ではなく、もっと多くの人を幸せにするSMAPのような存在になったほうが良いぞ」と言われ、起業家という選択肢が将来の夢になりました。 未だにその先生とは節目節目でやり取りが続いており、僕にとっての恩師ですね。   社会人として最も伸びる「ゴールデンエイジ」に、自ら負荷をかけられる環境へ新卒入社! ー高校生のときに進路を選択して、その後はどんな人生だったのでしょうか? SMAPのように多くの人を幸せにするため、起業家を目指すと決めてから、高校を卒業して大学に進学し、大学時代は様々な企業でインターンとして働いていました。 内定をもらった会社はちょうど上場準備に入っている時期だったので「将来起業する時のためにも、上場を間近で見れるのは面白そう」と思っていたんですね。そこで内定者としてインターンシップも行っており、週3〜4日ほどは働いていました。 しかし、上場準備に向けて勤怠管理も厳しくなるため、どんなに働きたくても20時には帰らないといけないんです。これは、僕が思い描いていたバリバリ働くスタートアップの姿とは少しズレているなと感じました。 ーズレているというのはどのような感覚ですか? 言葉を選ばずに言ってしまえば「このままでは僕自身の働き方が、ぬるくなってしまう」と感じたんですね。よくスポーツやトレーニングに例えて考えるのですが、最初に高負荷をかけるのか、低負荷をかけるのかによって、その後の“当たり前の基準”って変わると思うんです。 新卒で入社して働くのであれば、もっと高負荷を自分にかけられて、もっと働ける会社にいようと思いました。当時の僕は、労働時間が長いほど成長も早く、起業も早くできるだろうと捉えていたので、申し訳ないことに内定承諾した企業を入社直前の3月に辞退しました。 ーあと1ヶ月で入社なのに!その後はどうなったんですか? 1ヶ月で職探しをしないといけない!となってたまたま本屋に行ったところ、『未来を創るスゴいベンチャー101』という本が目に入ってきました。これは良いテレアポリストができた!と思って、片っ端から「就職したいのですが、空いている枠ありますか?」と電話したんです! そこで、運良く巡り会えたサムライト株式会社に新卒入社しました。 ーすごい(笑)100社もテレアポ…!それで新卒入社の会社に出会えたわけですね。 サムライトは「枠は空いているけれども選考を受けてほしい」という流れになり、選考で2日間実際の業務を行うプログラムに参加しました。 その時は選考だったので、定時で帰るルールではあるのですが、以前働いていた企業と比べると、1日が非常に濃くて体感時間が全く違いました。5秒で1日が終わると思えるほどだったんです。こんなに仕事が楽しく、濃い時間が過ごせるのか…!と感じたのが入社したいと思えた理由でした。 ー入社後はどうでしたか? 仕事はめちゃくちゃ楽しかったですね!優秀な先輩も多く、どうやったら追い抜けるのか・勝てるのかと考えながら日々働いていました。新人にも対等に接してくれ、周囲の方々に本当に恵まれた1社目でした。 先輩方とディスカッションしたり仕事をする上で、もちろんいつかは勝ちたいですし、仕事の知識や経験も足りなかったので、まずは働く時間・量で勝負しないと!と思ったんです。そこで、会社に泊まる許可を社長からもらい、12時まで働いて銭湯に行き、会社に泊まって仕事をするのが日常になりました。 ー大上さんは、なぜそこまで負荷をかけて働くことができたんですか? よく「なんで土日も働き続けるの?」と聞かれることがありますが、僕は仕事をスポーツや受験勉強と同様に捉えていますので「五輪出場を目指す選手は土日も練習はするし、受験勉強には土日も休みもないから」と回答しています。 これには、かつて僕自身がプロサッカー選手を目指していたことが関係しています。 僕にとっては、プロサッカー選手を諦めたことが結構なコンプレックスになっていたのですが、プロを目指して練習している人とはそもそも日常生活から違っていたんです。カードゲーム等で遊んでいた僕なんかより、何倍もの努力量をこなしていたんです。 子供の身体能力、運動能力が著しく発達する一生に一度のタイミング…いわゆる“ゴールデンエイジ”があるように、社会人にもそのゴールデンエイジはあると思っていました。 社会人としての基盤とその後成長する力をつけるのは、社会人1〜2年目なのではないかと考え、なるべく負荷をかけて働きたかったんです! ーたくさん働ける会社という点以外に、会社選びで大切にしていたことは? 伸びていく市場かどうかをチェックしていました。 内定はコンサルティングファームや他の企業からもいくつかもらっていたのですが、たしかに優秀な方が多いですし自己成長の場になるかもしれないけれど、毎年成長している市場か?と問われると少し違うなと感じていました。 市場が伸びていくのに応じて、会社や自分がこの先どう伸びていくんだろう?という好奇心に勝るものはなかったですね。   起業、そしてHeaR株式会社が誕生。「青春の大人を増やしたい」というミッションの理由 ー起業を決めたタイミングはいつだったのでしょう? 学生時代に起業することは決めていたので、あとはタイミングの問題だったのですが、最初は新卒入社してなんとなく30歳くらいで…と考えていました。 ですが様々なニュースやメディアにどんどん年下の起業家が登場するようになって、カッコいいと思う反面、悔しくなってしまって…。打席に立たなきゃ、ホームランは打てない事を悟った僕は、「早く起業したい!」と思うようになっていました。 そこで四捨五入して「20代で起業しました」と言うためには、25歳になる前に起業をしたいとなり、24歳10ヶ月目にして登記しました。起業のタイミングはそんな理由でした(笑) ー起業時、事業内容はどうやって決めていったんですか? サムライトに入社して1年半が経ち、起業を早くしたくなったので「辞めます」と言ったんです。すると「まだ全然力がないから、もう少し働いてから考えた方が良い」と言われ、働く期間を伸ばしました。 その期間に、1週間に1個は事業内容を考えて40個以上の事業アイディアを溜めて考えていました。サムライトの皆にはすでに起業したいことと、そのために辞めたいことは伝えていたにも関わらず、ありがたいことに作った40個ほどの事業内容の壁打ちに付き合ってくれました。 ーそして起業後しばらくは冒頭の事業内容の変遷に戻るわけですね。現在のHeaRでは、なぜミッションに「青春」を選んだのですか? 起業の大前提は、「100年先の日本に責任を持つ」ですが、これは日本の社会課題を解決したいという想いがあるからです。これを事業内容に紐付けて考えているのですが、現在の事業内容の“採用”に関しては、日本人の仕事満足度が世界35ヵ国中最下位という結果を見て考えたものでした。(※Indeed調べ) この課題を解決するために、どこが最も問題なのか?を考えた際に、まずは採用の時点で企業と候補者のミスマッチが原因なのではないかと考えたんです。なので採用に関わる事業をスタートしました。 なぜそこで”青春”なのか?というと、僕がずっとサッカーをやっていたので、割と身近な言葉だったという理由があります。 そして青春って、学生時代のものと捉えがち。社会人になった仲間と久しぶりに集まると「楽しかった学生の頃に戻りたい。青春時代に戻りたい。」という人も多いですよね。 しかし僕は、大人になってからも青春はできると思っています。それを伝えたいので、あえて「青春」というワードを使って証明したいと考えています。何歳になってもイキイキしている、大人になっても青春している。そんな社会を創りたいなと思います。 ▼大上さんが企業の想いを綴ったnoteはこちら ー「青春」とは目に見えないものですが、仲間同士でどう認識を合わせているのですか? 最初は、僕がトップダウンで青春の定義を決めていました。すると、仲間同士で青春の定義についてズレが生じてしまったんです。 「青春って、自分の心で実感するものだよな…」と気付き、トップダウンで決めるのではなく各々の青春の感じかたがあっても良いと考え、「仕事に恋をしている瞬間=青春」としました。 また、恋をしている瞬間や恋に落ちる瞬間も人によって異なりますよね。僕にとってはかつて流行った“脳内メーカー”のように、仕事のことで頭がいっぱいになっている状態だと捉えています! ーHeaRに欠かせない、一緒に働く仲間はどういった目線で採用しているのでしょうか? 大前提として、一緒に青春をしたいと思える仲間かどうか!ここは絶対にブレない基準ですね。 また、僕たちにとっては採用活動であり、求職者さんにとっての転職活動は、Win-Winになっているものだと考えています。僕たちが掲げる事業のミッションや事業で解決したい社会課題が複数あって、そのうち求職者さんが解決したい課題がマッチして、課題解決をするスキルがあるのであれば一緒に働きたいと採用をしています。 僕が人を採用する立場になって大事にしていることは、社名にもあるように「Hear=聞く」ことです。働く前に全部聞こう・言おうというコンセプトは大事にしています。なので僕たちの課題も考えていることも全部話しますし、求職者さんの想いも全部開示してほしいなと思っています。 ー大上さんが仕事に夢中だというのがすごく伝わってきます。起業してから今までずっとモチベーションを高く保ってきた秘訣とは? 辛いことや困難はたくさんあります。けれど、モチベーションが高い・低いという考え方は、HeaRの皆ともしないようにしています。 例えば、プロのサッカー選手が何かプライベートの問題が起きたとして、プレーで手を抜くなんて考えられないですよね。モチベーションの浮き沈みでパフォーマンスにも差が出てくるようなプロフェッショナルではダメだと考えています。 僕がそもそも設定した軸である「100年先の日本に責任を持つ」や「青春の大人を増やしたい」からブレていなければ、モチベーションはずっと100のまま推移していくと思います! 今後、5年…10年はHeaRの事業で青春の大人を増やすために尽力しながら、憧れのSMAPに近づけるように頑張りたいと思っています! ー働くって何だろう?と考える機会になりました。素敵なお話をありがとうございました!   ▼大上さんの想いをもっと知りたい場合はコチラ! ※note ※Twitter ※HeaR株式会社について 取材:増田 稜 執筆者:MOE デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

大学時代、200人以上の社会人と話して見つけた流拓巳の人生におけるビジョンとは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第160回は株式会社ガイアックスの人事マネージャー、流拓巳さんです。仕事以外にもよさこいチーム須賀IZANAI連、HR Buddy運営事務局、yentaエヴァンジェリストなど複数のコミュニティに所属し、活動されている流さん。 大学時代に寮の先輩からの紹介がきっかけではじめたインターンで自分の人生を長期的に考えはじめ、就職活動では200人以上の社会人と話す中で見つけたミッションとビジョンとは何だったのか。就職先を株式会社ガイアックスに選ばれた理由や、人事を担当することとなった経緯なども含めて詳しくお伺いしました! 会社を内部からよりよくするべく人事部門を立ち上げ ーまずは現在のお仕事について簡単に教えてください。 新卒で入社したIT系企業、株式会社ガイアックスにて人事支援チームと労務チームのマネージャーを務めています。もともと人事専門部門はなかったのですが、働き方の自由度が上がり、グループの規模も拡大したことで取り組むべき課題も増えたことから今年、人事支援チームを立ち上げました。 株式会社ガイアックスは社会課題を解決する事業を生み続けることを目標としており、新しい事業がどんどん子会社として独立していくことを前提としています。そのため多くの企業の人事部では、いかに長く働いてもらうかをフォーカスしているかと思いますが、株式会社ガイアックスでは長く働き続けてもらうことを目的とせず、新しい事業を作るポテンシャルを持った方を採用し、いかに個人のミッションが実現されるかを大事にしています。 ー新卒で現在の会社に入社されたとのことですが、どのように企業を選ばれたのですか。 就職活動では業界を問わず様々な会社をみていました。コンサル会社と最後まで迷ったのですが、株式会社ガイアックスを選んだ理由は自分自身が人生を通して成し遂げたいと思ったことが、株式会社ガイアックスの世界観とマッチしたからです。 人事は経験してみたかった多くの職種の1つで、やるのであれば就活生を経験してすぐの方が自分の経験を役立てることができると思っていました。この組織を内側からよくすること、そしてそのカルチャーを発信していくことに関わりたいと思い、事業部ではなくバックオフィス業務を志望しました。   幼少期の妄想癖は今でも健在 ー後程流さんの成し遂げたいことについてもお伺いできればと思いますが、まずは過去のお話もお聞きできればと思います。どのような幼少期を過ごされたんでしょうか。 山口県の田舎で長男として育ちました。父は大阪と福岡を往復するフェリーの船長をしており、家を長期で留守にしていることが多かったです。また母もパートで働いていたため、友達や親戚の家に預けられることが多い幼少期だったのではないかと思います。しかしそのおかげもあり、人見知りしなくなりました(笑) また少し前までは恥ずかしくて人には言っていませんでしたが、小さい頃から妄想力が高く、一人で妄想を繰り広げることが多かったです。例えば小学校2年生からサッカーをはじめたのですが、サッカーワールドカップがある年は全試合を具体的な試合展開まで脳内でシュミレーションしてみたり、小学校からはじめたよさこいに関しては架空の衣装やチーム名を落書き帳に書いてみたり。人事になった今も、誰をどこに配属させたらどうなるか、どんな会社になるかを日々妄想しています。 ー地元の公立中学に進学後はどのような学校生活を送られていたのですか。 小学校とほとんどメンバーが変わらない環境だったので、人間関係なども小学校から大きく変わりませんでした。小学1年の時に好きだった担任の先生が、中学のバレー部の顧問をされていたのでバレー部に入部しました。が、入部一年でその先生が転任され、新しく連れられてきた学外のコーチは、ちょっと問題があるくらいバイオレンスかつわがままで、想像とは違った部活生活となりました。また、当時から責任感が強く、自分の学年に生徒会長をやりたい人がいないのを察して自ら立候補して生徒会長を務めましたね。 バレー・ラグビーと好きなことを続けた中高生活 ー勉強の方はいかがでしたか。 田舎の中学では勉強熱心な人は少ないので、宿題とテスト前の勉強だけしていればあまりがんばらなくても成績上位をとることができていました。高校でもバレーを続けることを考えていたので、たまたま幼少期に遊んでくれていた近所のお兄ちゃんから、彼が通う進学校のバレー部が人数不足で廃部の危機だから来て欲しいと言われ、中三の秋頃から急遽そこを志望校に勉強を頑張ることにしました。 ぎりぎり合格できたのはよかったのですが、高校に進学して初めて周りが両親共に大卒で、子供も大学を目指すのが当たり前という環境になり、自分よりも勉強ができる人たちに囲まれることとなりました。中学では常に成績上位でしたが、高校に入って初めて成績最下位を経験しました。 ー予定通りバレーは続けられたのでしょうか。 はい。廃部寸前で人数が足りていなかったこともあり、入部直後から主力選手となれたのですが、前述の近所の先輩(キャプテン)と何度も揉めてしまい1年生のうちに退部してしまいました。そしてたまたまバレー部同様、部員が足りず困っており、入学時からずっと誘ってくれていたラグビー部に入ることとなりました。 ーまさかの1年経たずしてバレーからラグビーに変えられたんですね!高校生活も部活漬けの日々を過ごされたんですか。 両親から「留年はするな」とは言われていましたが、その代わり3年間好きなことをやっていいし浪人も1年は認めると言われていたので部活中心の生活を送っていました。そんな中、2年の夏にラグビー部に経験豊富で優秀な後輩が入部してきて、早稲田大学で開催される全国の高校生対象のラグビーキャンプにその後輩と参加しました。その時に見た早稲田大学のラグビー部の選手たちがすごくかっこよく、こんな風になりたいと思って早稲田大学に行きたいと思ったんです。 ー勉強するモチベーションはそうやって見つけられたんですね。 はい。ただ、勉強の仕方もよくわからないまま勉強して、自分にも甘く、さらには分不相応に早稲田大学スポーツ科学部しか志望していなかったので、当たり前ですが、合格することはできず…浪人を決め、北九州予備校というとにかく厳しいことで有名な寮制の予備校に通い始めました。 2浪を経て、大学へ進学 ー2度目の受験で合格できたのでしょうか。 初めは面白いくらい成績が伸びたのですが、同じ浪人生の彼女ができ、心の支えができたと思ったのも束の間、彼女の相談にのっているうちに自分自身もメンタルをやられてしまいました。自分よりも人の問題に寄り添うタイプだったのが裏目にでる結果となり、心も体も壊してしまい、勉強がままならないので成績も下がってしまうという悪循環で、受験は再び失敗してしまいました。 親不孝だとは思いつつも、母親から「まだ頑張れると思うなら、もう1年浪人しても応援するよ」と言われ、もう1年浪人生活を続けることに。2年目は通いの塾に変更し、自分の目標と調子に合わせた無理のない生活を自分で組み、自分で自分をコントロールするようにしました。 ーそしてついに早稲田大学スポーツ科学部に進学されたのですか。 それが、勉強していく中で経営学に興味を持つようになり、早稲田大学スポーツ科学部ではなく商学部に志望校を変更しました。また、結果的に早稲田大学には合格できませんでしたが、その次に行きたかった立教大学の経営学部に進学を決めました。 ーなるほど…!大学ではどのように過ごされたのでしょうか。 浪人時代の先生に「流に合うと思う」と紹介していだいた学生寮和敬塾に入り、寮生活を中心とした大学生活を送っていました。というのも和敬塾が60年の伝統があり、かなり体育会系な寮で、大学の長期休みにも寮対抗で1ヶ月にも及ぶ体育祭があったり、役職者は土日も寮運営の会議があったり、とにかく忙しかったんです。 寮以外では、大学でもあまり友達を作らない中、自分が2年生になった時に早期退寮をすることになった先輩に人材系インターンを紹介してもらったのをきっかけに一緒にインターンをはじめることとなりました。ヘッドハンターのアシスタントの業務をする中で多くの社会人の経歴をみる中で、業界や会社規模を見て就活するのではなく、自分の人生を長期的にみて考えようと思いはじめました。就職活動をはじめてからも、最初の半年で200人程の方に自分の頭の中をぶつけることで、自分が長期的に成し遂げたいミッションとビジョンも見つけることができました。   見つけたミッションと2つのビジョンに向けて ー様々な方と話す中でたどり着いた、長期的に成し遂げたいミッションとは何だったのですか。 人生における自分自身のミッションは「理不尽な制限によって生まれる“勿体無い“をなくすこと」だと気づきました。またより具体的なビジョンの1つは「世の中から他人事という概念をなくす」ということ、もう1つは「自分に自信がない成功体験がないことが理由でチャレンジできない人がチャレンジできるためのきっかけを作ること」です。 そのための手段として何が適切かは分からなかったものの、生きる目的が決まったので、手段が決まるまでに先にやらなければならないことを考えました。その結果、「やるべきこと」としては、誰にでも自信を持って語れるほどのビジネスでの実績を複数作ることや、どんな領域に進んでも第一人者と繋がれるくらいの人脈作り、世の中の最先端を知れる仕事をすることなどだと思いました。また、自分自身の「在り方」としては、人と誠実に向き合うことが重要で、そのためには心と時間とお金に余裕を持ち続けられる環境に自分を置くことが大事だと考えました。 ーそれが冒頭の就活時の企業選びの軸となった訳なのですね。 そうです。株式会社ガイアックスからは逆求人サービスからオファーがあり、面接を受けました。将来的に作りたい社会像が自分のミッションとかぶっていたこと、社員の皆さんがそれぞれ個々にミッションをしっかりと持っているところに惹かれました。この会社であれば、自分のミッションやビジョンを忘れることなく働き続けることができると感じたんです。 実際に入社以来、部署関係なく広く事業を手伝うことで自分のミッションを忘れることなく働くことができているなと感じています。また、自社でできることだけではミッションを果たせないと思い、人事コミュニティの運営やオンラインサロンへの所属、踊りを通してアプローチすることも目指してよさこいチームにも所属しています。 ー社外でも幅広く活動されているんですね。日々行動する際に意識されていることなどはありますか。 プロジェクトにおいても、人生においても、ゴールをしっかりとイメージすることです。入社した時は自分が思う完璧な30歳像をイメージし、言語化できるレベルにまで明確化しました。そしてその30歳像になるために何をしないといけないか細かく1ヶ月単位にまでブレイクダウンします。私の場合、最終的には30分単位にまでブレイクダウンしてやることを休憩時間さえもあらかじめいれながらグーグルカレンダーのスケジュールにいれています。ここまでできたらあとはカレンダー通りに生きるだけなので計画ができた時点で8割は成功していることになります。 ー全て細かく計画されているんですね…!今後その計画にはどのようなことを組み込まれているか、ぜひ教えてください。 今は自分のミッション・ビジョンに対する手段として現在の仕事がベストだと考えているので、まずは会社の可能性を広げる仕組み作りに全力で取り組む予定です。様々な社会課題を解決する事業を輩出できるよう、最適化した組織に変えていきたいと思っています。 個人としては、これまで1対1での影響力を生かすが多かったですが、自分の影響を受けた人が、また誰か別の人に影響を与えることができるような、対大人数向けの活動もしていけたら考えています。これからは一人で課題に向き合うのではなく、みんなで一緒に課題に向き合って解決していく時代だと思います。だから他人を頼れる人や他人がヒントを与えやすい人であることが大事になってくるのではないかと思います。私自身も会社だけではなく様々なコミュニティを通して、ビジネスでは届かない領域に対しても仲間と一緒に課題に向き合っていき、よりよい社会を作っていきたいです。   取材者:高尾有沙(Facebook/Twitter/note) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

「自分の人生に納得できるように」島根県益田市へIターンした大庭周の生き方

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第157回は一般社団法人豊かな暮らしラボラトリーで働かれている大庭周さんです。新卒で入社した会社を3年待たずして退社。その後地元静岡ではなく、生き方見本市を通して出会った島根県益田市にIターンされた大庭さん。現在は三足のわらじを履かれている大庭さんに、現在のお仕事の詳細から、今までに至る経緯をお話いただきました。 島根と東京で三足のわらじ ーまずは現在のお仕事について教えてください。 今年の3月より島根県益田市にIターンをし、居場所づくりとひとづくりを行う一般社団法人豊かな暮らしラボラトリー(ユタラボ)の職員として働いています。また、東京にあるソーシャルバーPORTOで日替わり店長を務めている他、これからの生き方について考える「生き博」の東京・静岡の代表もしています! ―島根では具体的にどのような活動をされているのでしょうか。 学校(職場)と家庭以外で人と人が繋がれるサードプレイスの運営や「どう働くかではなくどう生きるか?」について考えるライフキャリア教育の場を提供しています。ライフキャリア教育については益田版カタリ場をはじめ、市内4高校と連携をした事業や高校生のマイプロジェクトの伴走支援を行っています。その他には、大人のマイプロジェクトの伴走・関係人口向けの情報発信などがあります。 ―と同時に、東京のバーでも日替わり店長として働かれているんですね。 そうですね。東京の有楽町にある、日替わり店長24人で営業している「ソーシャルバーPORTOで毎週第4土曜日に働いています。毎日店長が変わるため、来る日によってコンセプトが異なり、来られるお客様の年代や職種も異なるのが特徴です。毎日違うお店に来ているような雰囲気を味わえる、会話を楽しむことを目的としたお店になっています。現在はコロナのため、オンラインで参加したりしていますが、コロナが落ち着けば月に1回東京に戻り店長を務める予定です。  ―そして3つ目の「生き博」とはどのような活動になるのですか。 生き博では様々な働き方・生き方をされているゲスト(話題提供者)を迎えたトーク&交流イベントを開催しています。当時は、働き方見本市という名前でスタートしましたが、諸事情があり生き方見本市に名称を変更して「生き方」にフォーカスを当てたイベントとなりました。日本各都市で開催されているのですが、私自身が静岡出身ということもあり静岡での立ち上げを行うと同時に東京の代表を引き継ぐこととなり、現在は2拠点の代表となっています。   友人の死は今でも忘れられない経験 ー過去のお話も伺えればとおもいます。どのように小学生の頃は過ごされていましたか。 率先して動くタイプでクラスのためになにかしたいという思いから学級委員長をする一方で野球にのめり込んでいました。 野球漬けだった自分にとって、忘れられない出来事が中学2年の時にありました。小学校6年の頃から仲の良かった友人が病気で入院し、お見舞いに行ったのですがその翌日に他界。初めて人の死を身近に感じたと同時に、もっとたくさん話しておけばよかったと今でも後悔の残る出来事でした。彼が亡くなってから、彼と一緒に過ごした記憶がどんどん薄れていく怖さを感じて人と過ごす時間をもっと大事にしたいと思うようになりました。また、今でも彼が生きたかった人生が絶対あるので自分の人生を無駄にはできないなと思いながら生きています。 ―そんな経験を経て、どのような高校生活を送られたのでしょうか。 地元の公立高校に進学し、野球も変わらず続けていました。が、自分たちの代になって試合になかなか出場できないもどかしさを感じていました。その時に自分なりに考えた結果、どんな形でもいいから試合に出て貢献したいという思いからピッチャーから野手へポジションを変更しました。このポジション変更をきっかけにやっと野球が楽しいと思えるようになりました。 というのも、小学校から野球をはじめたのは父の影響が大きく、自分から練習したいと思うことは少なかったんです。何のために野球をやっているのかと高校に入ってから考えることも多かったのでポジション変更するという決断をしてよかったと思っています。 ―野球は大学でも続けられたのですか。 野球以外の事に挑戦したいと思ったものの、野球以外をやってこなかったので何をしていいか分からず…結局、友人に誘われて見学に行った野球部の雰囲気がよかったので大学でも野球をしていました(笑) そんな野球漬けの日々でしたが、高校時代の先輩に作家の乙武洋匡さんが主宰している乙武社会塾という勉強会へ誘われ参加したところ、取り上げられていたテーマがたまたま福祉でした。この勉強会へ参加がきっかけではじめて福祉の実情や課題について考えるきっかけを持つことができ、福祉をはじめとする社会課題が他人事から自分事になりました。また、この勉強会で出会った人とのつながりがきっかけとなり就職後、生き方見本市(現:生き博)に関わることとなりました。 行き詰まった時に思い出したのが生き方見本市だった ー生き方見本市は就職後に出会われたんですね。 いえ、実は入社前の2月にもお声がけしてもらって参加者として参加をしました。当時は何か心に響いたかというと、そうではなかったんです。ですが入社して2ヶ月後に仕事に行き詰まることがあり、その時にふと思い出したのが生き方見本市でした。 ―なるほど。就職してから行き詰ったとのことですが、どのようなお仕事をされていたのですか。 実家が金属加工や窓のサッシの製造会社だったということもあり、多くの人に触れてもらえて、かつ日常生活になくてはならない物に関わりたいという思いから建築資材のメーカーへの就職を考えていので、株式会社LIXILに新卒で入社しました。営業に配属になり、毎日必死に働いていたのですが、ふと将来のことを考えた時に、今のままでは仕事だけで人生が終わってしまうように感じました。また、目標の数字達成に向けて頑張るという営業スタイルが自分には合わないなと感じることも多くありました。数字を達成できなくても、自分の事を頼ってくれる人のために仕事をしたいなと思ったんです。 そんな時に思い出したのが生き方見本市でした。見本市ではゲストスピーカーの方々が自分自身で道を開かれ、自分のこれまでの生き方に自信を持って話されている姿をみて、自分も仕事以外のことも充実させて生きたいと思ったんですよね。  ―そういった経緯があったんですね。 生き方見本市ではイベントの運営や広報、会計外部との交渉など幅広い役割に関わらせていただきました。そして関わる中で、静岡県出身としてゆくゆくは静岡でも開催したいと思うようになりました。 静岡は東京に近いものの、やはり東京に比べるとイベントやコミュニティが少なく、生き方について考える機会も少ないのが現実です。東京で開催していた生き方見本市を少しカスタマイズし、静岡でも開催できればと思いSNSで呼びかけてみた結果たくさんの反応をいただき昨年の10月に初開催が実現しました。   反対もあったなか、島根県益田市へIターン  ―島根へのIターンもやはり生き方見本市がきっかけとなったのですか。 はい。生き方見本市で登壇していただいた方が今の上司になります。Facebookで彼の投稿を見たり、久しぶりに話を聞いた時に島根に移住してライフキャリアコーディネーターとして人と繋がりながら、豊かな暮らしを体現されているのが素敵だなと思いました。 そしてたまたま島根に遊びにこないかと誘われ、初めて昨年の3月に訪問したところ、益田市のみなさんに歓迎していただきました。その半年後に、4月から団体を立ち上げるから一緒に働かないかというお話をいただき、今しかないと思い移住を決めました。 ―Iターンに対して周りからの反対や抵抗、不安はありませんでしたか。 職場の上司や両親からは会社を辞めて島根に行くことを伝えた時は猛反対されました(笑)が、私の決意は揺らぎませんでしたね。友人がほとんどいない地域に引っ越すことや東京で働いていたときよりも年収が下がることに対して不安がなかったというともちろん嘘になります。でも自分の人生なのでその時に後悔しないように生きたいと思い、悩みながら考えた結果、自分が優先したいこと・大事にしたいことは島根にあると感じました。島根県益田市は過疎発祥の地と言われ、面積は広いものの人口が少ないことで有名な街です。そんな街だからこそ人と向き合う時間を大切にできる環境があると思いました。  ―まだ島根での生活は始まったばかりかと思いますが、最後に今後の目標があれば教えてください。 島根に来てから、新たな出会いがきっかけで新しい仕事に繋がるチャンスがありました。これからも引き続き人との出会いやつながりを大切にし、想いを形にできる人になりたいです。またいつかは実家の会社を継ぐことも考えています。その時には家業と並行して島根で出会った人やコミュニティを使って何か新しい仕事や活動ができたらなと思っています。  これからも選択を迫られることがでてくるかと思いますが、もし失敗したとしても自分の責任だと思えるように自分が納得できているかということを大事に決断していきたいと思っています。自分の気持ちに正直に、小さな決断を積み重ねていきたいです。   取材者:中原瑞彩(Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)  

この瞬間を生きる。75か国を旅した細見渉が贈る主体的な人生の選び方

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第146回目のゲストは、旅好きITコンサルタント 細見渉(ほそみ わたる)さんです。 「No Day, But Today,(未来でも、過去でもなく、あるのは今、この瞬間なんだ。)」 ブロードウェイミュージカル映画「RENT」の劇中歌に強く影響を受けた細見さんは、学生時代に75カ国を一人旅した冒険家。大学入学をきっかけに主体的に人生を選択し、ドイツ留学、インドネシアで日本語教師、世界一人旅、世界青年の船事業を経て、「ワクワク」を見つける方法を確立しました。二年間の海外滞在を経験し、旅でさまざまな現場を目撃した細見さんに、世界に飛び出す勇気を取材しました。   幼いときから海外とのつながりをもつ ー自己紹介をお願いします。 細見渉です。現在社会人2年目で、外資系のIT企業でシステム導入のコンサルタントとして働いてます。具体的には、製造業のお客さんが使用するシステムの設計書を書いたり、プロジェクトマネジメントの支援をしたりすることが業務です。旅が好きで、いままで75カ国を旅してきました。 ー学生時代には75カ国も訪れたそうですね。記念すべき一カ国目はどこだったのでしょうか。 小学校のころのシンガポールへの家族旅行が、はじめての海外渡航でした。ナイトサファリが印象的で、暗闇の動物園が心底怖かったことを覚えていますが、小さかったのでほとんど記憶に残っていません。 ーその後、海外へ対する関心が増していったのでしょうか。 中学生のときにはイギリスへ行きましたが、海外への関心が高く、積極的に行きたがったわけではありませんでした。両親がチケットをとっていて、僕としては部活を優先したいなっていうのが本音だったくらい(笑)エマ・ワトソンみたいな容姿端麗な人が普通に街中を歩いていたり、当たり前ですけど、みんな英語を淀みなく流暢に話していたり…国の違いをまざまざと実感しました。当時の僕は、「ハンバーガー、フィッシュアンドチップス」などの食事の名前しか話せず(笑) 「宿題はいいから、ミュージカル見てこい」。RENTはモチベーションのスイッチを切り替えた ー国際関係の学部への進学を目指していた浪人生活の中でも、海外への関心は育まれていたのでしょうか。 大学の進路選択ではたまたまテレビでやってた神戸特集をみてこの街に住んでみたいと思い、神戸大学を第一志望に掲げていました。しかし、本格的に受験勉強をはじめたのが高校3年生の後半で…残念ながら不合格という結果に。 あるとき、予備校の講師に「お前ら、宿題はいいから、ミュージカルでも見てこい」と言われたんです。「浪人生なのに勉強しなくていいの?」と内心驚きつつ、息抜きとして鑑賞しました。そのときに観賞したのが、『RENT』と呼ばれるブロードウェイ発祥のミュージカルです。 若者がニューヨークで生活を送りながら、それぞれにさまざまな問題を抱えながらも前を向いて生きる様子を描いています。リアルなアメリカ文化を目にすることができて、英語を勉強したいという意欲は高まりました。 劇中で特に印象深かったのが、「No Day, But Today」というフレーズです。これは「彼らが生きているのは、過去でも未来でもなく今なんだ」という意味が込められた言葉。当時、僕は大学受験に失敗し、浪人生活をなんとなく過ごしていました。しかし、この言葉が受験に真剣に向き合うきっかけを与えてくれたんです。それを機にミュージカルというものの素晴らしさに気づき、英語や海外文化についてもっと学習したいと思うようになりました。 ー無事に東京外国語大学に合格し、それ以降たくさんの国へ渡航されていますが、最初のきっかけはなんだったのでしょうか。 上京した僕は学生寮に住んでいて、ルームメイトがインドネシア出身だったんです。僕に現地での暮らしをいろいろと話してくれました。僕が「インドネシアいいな、行きたい」と口に出したら、その日を境に彼が「いつくるの?」「ホテルとったの?」と質問をしてくるようになって(笑)それに答えていたら、知らないうちに旅行計画がどんどん決まっていたんです。そして、彼が帰省するタイミングで一緒にインドネシアに渡航しました。 ーその後、長期留学の経験も積まれていますね。 もともとはイギリスに留学したいと思っていましたが、私費留学では学費が高く、交換留学で行けるほど校内の成績がよくなかったため、断念。文部科学省の「トビタテ!留学JAPAN」という政府奨学金プログラムを利用して、ドイツに1年間留学するという道を選択しました。 ドイツに留学に行くので公用語も理解できた方が、現地での学びをより多く吸収できると思い、日本でドイツ語を学習していました。そしたら思いのほか勉強が楽しくなり、英語でも可能だった大学出願を、ドイツ語で書類提出し、現地の授業もドイツ語で受講しました。 ードイツに滞在している間も旅をされていたのでしょうか。 ドイツはヨーロッパの各国に足を運ぶのが簡単なので、留学中にヨーロッパ各国をほとんどめぐりました。イタリアなんて、公共交通機関を利用して片道3,000円で移動できちゃうんです。モロッコやトルコなど、合計で30〜40カ国は行きました。 現地では友人に案内してもらい、そこにしかない魅力を発見することを楽しみにしていたんです。観光地に加えて、地元民が通う場所に多く訪れていました。人との交流も旅の醍醐味でしたね。宿泊するときには、ホテルやアパートを借りるのではなく、ゲストハウスを選択し、そこでの出会いも旅の思い出となりました。 ー地元の人と近い体験や、人との出会い…さらに旅でこそ得られた経験はありますか。 大自然を体感したことですね。世界周遊の旅で、チリの砂漠で満天の星空を眺めたり、アイスランドで壮大な氷河に向かい合ったりしました。大自然に触れると、自分の五感すべてで目の前のことをでまるごと体感する感覚があり、身震いするくらいのワクワクを憶えました。 ー世界青年の船事業も、価値観の形成に強く影響を受けたそうですね。 10か国240人の青年と1ヶ月船上生活を過ごす中で様々な価値観や文化に触れて、色々なことを議論し、社会全体そして自分自身について深く考える機会を得られました。特に印象強かったのは、音楽が国境を超える実感を得たことです。船上では毎晩のようにパーティーがありました。音楽が鳴り始めると、みんなが歌ったり踊ったりするんですよね。言葉という共通言語を共有していなくとも、音楽や踊りで同じ気持ちを共有している感覚が最高に楽しかったですね。 乳搾りロボットや配車サービス、移動中の夜行バスが就職の選択軸を形成 ーITコンサルタントを選択された理由として、ITへの興味や考えることが好きだとありましたが、何がきっかけだったのでしょうか。 ドイツ留学中、僕はHofgut Oberfeldという牧場で1ヶ月の間、ファームステイをしていました。ドイツでのファームステイ以外でも、エストニアで2週間・アイスランドで2週間農場で働いたり、ドイツやオランダのいくつかの農場を訪問しましたが、そこで、、ロボットが乳牛の乳を自動で絞っているのを目の当たりにしました。「農業にも、ITが導入されてるんだ!」と衝撃を受けました。 大学4年生のときには、国際交流基金アジアセンターの日本語パートナーズ派遣事業に6ヶ月間参加し、インドネシアで日本語教師のアシスタントとして働いていたときには、ITが交通インフラを劇的に変える瞬間を目撃したんです。僕が滞在をはじめたばかりのときには、運賃が法外な値段のタクシーしか移動手段がありませんでした。しかし、その半年後、ITを利用した配車サービスが登場していました。運営の基準を満たした運転手のみ登録が許されているので、利用者は安心して乗車できます。さらに、既存タクシーよりも低価格で運賃を設定する運転手が多いので、利用者は既存タクシーよりも低価格でタクシーを利用することができるようになったんです。短期間で便利なサービスが一気にまちに普及し、人びとの生活を変える。IT分野の可能性を強く感じました。 また、旅は、僕に考える時間を多く与えてくれるものでもありました。夜行バスに乗車しているときには、その日めぐった場所を思い返しその国の時代背景や社会情勢について思いを巡らせていました。カンボジアの虐殺現場を訪れたときには、「なぜ虐殺が起きてしまったのか」と考え、3つの宗教の聖地であるエルサレムを訪れたときには、「もし3つの宗教が聖地として認定すれば、周辺諸国にどのような影響が及ぶのだろうか」と。そんな時間を過ごし、目の前の問題や課題に対して考えることが好きなのかもしれないと気付きました。そして、将来は、思考力を使う仕事をしたいと思ったんです。 ワクワクを発見するコツとは ー周りの方の助言を受け入れて一歩踏み出し、そこから世界が広がっているような印象を受けました。周囲に対しての柔軟性が高いのはどうしてですか。 いろいろなことに対しての好奇心が強く、新しいものを敏感に認知するからだと思います。通販番組を見かけると、つい買いたい衝動に駆られますよね。その衝動が、他の人よりも強い感覚があるんです。それは、ワクワクを主体的に選択する考えを根本に持っているからだと思います。自分の考えが人生の選択の軸にあるからこそ、他人の意見にも柔軟に耳を傾けられると思います。 ーワクワクを発見するコツはありますか。 自分の周辺をもっと注意深く見渡してみてください。FacebookやInstagramで友人が食事の写真を投稿していて、それを目にしたとき、なにに目がいきますか。店内の内装、一緒に写っている人、料理…どれに関心が引かれるかが、ワクワクの合図です。料理にワクワクしたのなら、提供するレストランの名前や料理の材料などを調べたり、自分でレストランに行って味を確かめたり、行動に移してみましょう。 旅も、ワクワクに触れるための一つの選択肢だと思います。旅は他者の日常を経験することができるんです。その土地で出会う人、建物、乗り物は地元の人にとっては日常。しかし、僕にとっては非日常です。非日常を体験し、自分の日常を振りかえると、新しい発見や価値に気づきます。そういうことにワクワクするんです。 ーいままでたくさんの挑戦を重ねてきた細見さん。今後の展望はありますか。 誰かの人生や生き方を後押しできたらいいなと思っています。人にきっかけを与えてもらい進んできた人生だったので、自分自身も誰かにきっかけを提供できたらと考えると、ワクワクしますね。そのためにはまず、僕自身がワクワクする生活を営むことが大切なので、日常生活を丁寧に送ることも心がけたいですね。 また、2022年から世界をめぐる旅を計画しています!ホームステイをして世界各国を転々としながら、それぞれの国の家族や生活のあり方を観察したいと考えています。そこで出会った価値観を、日本に暮らす人たちに発信する活動がしたいです。 ーとても楽しみな未来ですね!本日はありがとうございました。 取材者:山崎貴大(Twitter) 編集者:野里のどか(ブログ/Twitter) 執筆者:津島菜摘(note/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

中学生でフリーランスになり高校時代は年収4桁万円。 「頑張らない人」浦邉勇さんのモットーとは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第134回目のゲストは、IT企業で12社の採用統括、保育園の経営、大学講師として情報関係の授業を受け持つなど、幅広い分野でご活躍中の「頑張らない人」こと浦邉勇さんです。 経営、採用を強みとする元料理人・浦邉さんの仕事の極意は「頑張らない」。中学生の頃からプログラマーとして働き始め、高校時代の実体験を機にそのモットーを掲げ始めたそうです。 料理人を止むを得ない事情で断念し、その後任された営業職では数々の表彰を受け、活躍の幅を広げています。 そんな浦邉さんにとって最も忘れられない出来事は、15歳の時に参加した東日本大震災の被災地でのボランティア。帰京した浦邉さんは、「一円でも多くを被災地に寄付したい」というその一心で、高校生にして年収1000万円を超えるほどプログラミングに専念したそうです。今でも寄付を続けるその理由とは… 自分の持ち味と与えられた環境を活かし、成果を出すためのヒントが詰まった浦邊さんの半生に迫りました。 採用×経営で活躍の場を広げる元料理人 ー自己紹介をお願いします。 浦邉勇です。「頑張らない人」と自己紹介させて頂くことがあるのですが、これは自分の生きる姿勢を端的に表しています。 現在、東証一部上場のIT企業で、子会社12社のグループ全体の採用統括をしています。新卒・中途の採用や採用戦略の決定などはもちろんのこと、会社の課題解決にも関わっています。他には、保育園の法人経営、飲食店の採用支援をしています。 ーこれまでは採用関連のお仕事を中心にされてきたのですか。 前職では人材紹介に携わっていました。現職になってから、採用が仕事になりました。入社以来掲げてきた目標は、採用費なしで新卒エンジニアを採用することでした。現在、ほぼ達成済みです。今後は、このやり方を会社全体で仕組み化していきたいと思っています。 ー保育園の経営はどういった経緯で始めましたか。 祖父が創設した保育園があります。祖父に続き、祖父から経営を受け継いだ父親も共に病に倒れ、僕が経営を任されました。最も古い保育園は50年以上の歴史を誇ります。 保育園の経営といっても書類関係の仕事が中心で、現場を見学する機会は無いに等しいです。 時々、僕が経営する保育園に足を運ぶことがあります。純粋無垢な子どもたちをよく観察していると、自分の初心を思い出すようで。子どもたちの人生経験はまだ浅いですが、見習いたくなるところがあるんですよ。 ー飲食店の採用支援はどのようなきっかけで始められたのですか。 僕は調理師学校の出なので、周囲に料理人の知人が多いんです。彼ら・彼女らは料理の専門家ですが、全員が経営の道に明るいわけではありません。僕が持っている飲食業界と経営についての知見を活かし、彼らの夢を応援したいと思って始めました。 支援内容は、料理人たちの経営にダメージを与えない範囲の人材紹介です。例えば、料理人たちが新しいメニューを開発したい時、使用したい食材・取り入れたい調理技法を得意とする人材を探し出し、お繋ぎしています。 ー採用と経営に強みを持つ浦邉さん。古巣の飲食業界にとっては「救世主」です。 親の離婚でプログラミングにのめり込む ー10歳の頃にプログラミングを始めたそうですね。  友達の家に遊びに行った時、お兄さんが書いたコードを見たことがきっかけではじめました。「なんだこの謎の文字は!」と興味を持ち、その方から、プログラミングやIT業界について教えてもらったんです。 当時は、堀江貴文さんが注目を集めていた時期。テクノロジーがとても大きな影響力を持っていることを幼いながら理解していました。また、好きだったゲームが作れることも知って、「興味あります!習いたいです!」とその場で打診し、お兄さんからプログラミングを習えることになったんです。 一番最初の作品は、簡単なアンケートをプログラムしました。なんとなく作った作品でしたが、それが動いた瞬間、一気にはまりましたね。 ー当時、その年でプログラミング技術を持つ中学生はとても珍しかったのではないでしょうか。 そうですね。プログラミングをしていたのは、ほんの数人の友達だけでした。 遊びで始めたプログラミングが、両親の離婚を機に、いつの間にか生活の中心になっていきました。 親が離婚したのは、私が13歳の頃でした。元々、父親は家族より仕事と釣りを優先し、滅多に家に帰ってきませんでした。それを見兼ねた母親は、ある日「離婚する」と妹を連れて家を出ていきました。父親は、僕に「住宅ローンは返済済みだから、ここに住んでいていいよ。仕送りは父さんがするから生活の心配はいらない」と言い残し、千葉に引っ越してしまいました。 ーご両親のどちらかに付いて行くことなく、一人暮らしを始めたのですか。 それまで家族4人で暮らしていた4LDKで、突然一人暮らしが始まりました。家には僕しかいないため、文句を言われることなく、プログラミング浸けの生活を送るようになりました。親の離婚で精神的なダメージを受けるどころか、自由の身になれて最高の気分でした。 ー親御さんの離婚がご自身にプラスに働いていたことがわかります。プログラミングがみるみるうちに上達したのではないですか。 その通りです。中学生の頃からプログラミングの仕事を貰うようになったんです。 当時、先ほどお話しした、プログラミングを教えてくれた方が大学を卒業し、エンジニアとして働き始めました。いつの間にか、その人の仕事を僕と友達が委託されるようになっていたんです。そのつもりはなかったのに、突然「納期」という言葉が出てきて、「あ、これはお金を稼いでいるんだ」と。 ー中学生フリーランスは意図せず誕生したんですね。 僕がしていた仕事は、企業のホームページ作成がほとんどでした。今ではよく見かける副業に特化したウェブサイトもなかったので、仕事に慣れてくると、自ら仕事を積極的に取りにいくようになっていました。 プログラミングの報酬の高さに驚きながら、「どんな風にしたらもっと稼げるのかな」と考え、絶えず試行錯誤していましたね。 ープログラミング以外に関心ごとはありましたか。 株に興味を持っていました。学校の授業で株について扱われた機会があり、お金が増える仕組みがあることを知って自分でも投資したくなったんです。そして、プログラミングで稼いだお金を元手に、株をはじめてみました。面白いゲームをしているような感覚でしたね。 人生観を塗り替えた震災ボランティアの経験 ー浦邉さんの中学・高校時代で一番印象に残っている出来事は何でしょうか 中学校を卒業した直後に参加した、東日本大震災の被災地でのボランティアです。僕の人生観がガラリと変わった体験でした。 ー何を思って参加されたのですか。 実は、暇潰しでした。東日本大震災が起きたのは、中学校の卒業式の直後です。計画停電になったり、高校入学が遅れたり…僕の生活にも影響がありました。その一方で、時間を持て余していたため、軽い気持ちで参加したんです。 ー被災地を目にした時、何を思いましたか? 被災地に着くなり、生なましい被害が残る、絶望的な光景を目にしました。「比較的被害が少ない地域」と説明を受けて行った先は、とても「被害が少ない」と入れるような状況ではありませんでした。 全国各地からボランティアの人たちが集まっていました。僕には、胸を張って言えるような参加理由がなかったのに対し、ある人が「阪神淡路大震災で被災した時にボランティアの人たちにお世話になった。だから今度は恩返しに来た。」と話したんです。 見ず知らずの人のために働く、利他的な人たちの影響で、自分の価値観が大きく変わっていきました。誰かのために働く大きな意味に気付くと同時に、「自分さえ良ければいい」という生き方をしてきた自分を恥ずかしく思いました。 ーボランティア活動で考え方が180度変わったのですね。その後、ご自身の行動にどんな変化がありましたか。 ボランティアを機に、被災地に寄付するため、プログラミングの案件でもっと収益を上げることを目指しました。被災地で活動中、僕が一番価値を生み出せるスキルはプログラミングだと気付くんです。瓦礫撤去のボランティアに充てる時間をプログラミングに投資すれば、被災地に倍以上貢献できると。 ー人のために働く大切さに気付き、すぐに実践されたのですね! ボランティアを終えて東京に戻ると、プログラミングの案件を大量に引き受け、中学時代の稼ぎの倍以上の収入を得るようになりました。学校の勉強はすぐ理解できたので、授業中は睡眠をとり、夜の時間はプログラミングに費やすような生活を送っていたんです。 ー高校生でそこまで稼ぐことができた要因はなんだと思われますか? 現在と比べて、ウェブ開発の市場が圧倒的に小さかったことが関係していると思います。今より受注も簡単で、こちらで選べる案件が多かったんです。そのため、費用対効果を基準に、受注したいかしたくないのか線引きしつつ、手が回らなければ断りました。単価が高いサーバーサイドの受注は優先的に受けていました。 あとはやはり、被災地で湧き上がってきた「人のために働こう」という衝動に突き動かされたといいますか。プログラミングのし過ぎで死ぬことは無いですが、体力が尽きるまでなら、出来る限り仕事を引き受けようと腹を括っていました。 エンジニアから一転 調理師として就職 ー高校卒業後の進路はどうされましたか? 高校は進学校だったので大学進学を選択する人が多かったのですが、私は調理に興味を持っていたので、料理学校に1年通いました。その後、2年ほどブライダル系の会社で調理師をしていたんです。エンジニア業からは離れました。 料理っておもしろいですよ。例えば化学だと、何と何を混ぜるとこんな物質ができる、という公式がありますよね。料理の場合、何と何を混ぜたらどんな味になるかはわかりません。それを探求することに飽きがくることは一生ないでしょう。 ー今後は料理一筋の社会人生活を送られたのですね。 それを望んでいましたが、予想外の展開を迎えました。やむなく営業職の配属になったんです。 20歳になってお酒を飲むようになったある時、アルコールアレルギーだということが判明しました。それまでも手荒れで悩んでいたのですが、どうやらその原因はアルコールだったようなんです。手が荒れていると厨房で食中毒を起こす危険があったため、調理師として働くことを諦めなくてはいけませんでした。 元々調理師をしたかったので、営業の仕事にはもちろん、結婚式そのものに全く興味がありませんでした。営業先に行っても、自分がなにを話しているかも分からないくらいで、正直、本当に無念に思いました。 ーそのようなこころもちのなか、どのような工夫をして営業に臨んでいらっしゃったのでしょうか。 社内ではとても不評で、先輩たちからはお叱りの言葉をいただくこともありましたが、他の人と違う営業スタイルを貫いたから、結果を出すことができたのでは、と自負しています。 ウェディング・プランナーは普通、新婦に営業をかけます。昔は、新婦さんの両親が挙式代を払うことが多かったんです。しかし、現在は新郎の親が負担することが少なくありません。そのことに目を付け、僕は、新郎に売り込むことにしました。 新郎は式をどこで挙げるかだとか、結婚式自体にはあまり興味を示さないことが多いんです。しかし、お金の話は違います。関心を寄せる方が多いので、新郎に積極的にお金の話をシェアするようにしました。すると、それまであまり主張しなかった新郎が前のめりになるものですから、新婦も驚きと共に喜んでもらえます。この営業スタイルで成約が増えたんです。 蓋を開けてみると、青山地区の新規受注率で1位を獲得し、社内の歴代営業記録を総塗り替えしました。 ーその後はどのようなキャリアを歩まれたのでしょうか? ウェディングプランナーをした後、偶然、求人広告で見つけた人材紹介の会社に転職しました。社員が3,4人のかなり小規模の会社でした。営業として、BtoBもBtoCも経験し、2年目にひとりで営業利益8,000万円を達成。表彰される機会にも多く恵まれました。その年に二度目の転職を決めて、現在に至ります。 「頑張らない人」の戦い方 ー未経験から始めた営業で大活躍された秘訣はなんだったとお考えですか? 成績を残すことができた背景には、「他の人がしない方法でやってみる」という心がけがあります。この意識が芽生えたのは、プログラミングをしていた時に「頑張ることに意味はない」と痛感したある出来事がきっかけです。  当時、被災地に寄付するために、がむしゃらに頑張ってお金を稼いでいました。しかし、その頑張って稼いだ金額よりも、株で得た利益のほうがずっと大きかったんです。日経平均株価が約2倍になっていたことと、好きなゲーム会社の株を買っていたのが、スマホゲームブームのおかげで伸びたことが理由でした。 プログラミングは報酬が高いと思っていたのに、労力を費やしていない株の還元利益の方が高い。「僕が寝る間も惜しんでさばいた大量の案件は何だったのか」と… ここにきて初めて、「頑張ることをやめよう」と決意しました。しっかり地に足をつけて考え、他の人と違う最適な手段を取ることが、結を出すことへの近道なんだと気付きました。 ー具体的に、意識されていることはありますか。 頑張らずに成果を出すために他に必要なことは、世の中の流れを知った上で動くこと、でしょうね。 ビットコインが話題になる前から投資していたんです。メディアで取り上げられるようになった頃には、最初は3、4万だったビットコインが120万くらいになっていました。世の中の流れを知るには、単純にみんなと同じことをするのではなく、みんなが当たり前だと思っていることを疑うことも大切ですね。 細かい点で意識していることは時間を割くなら、自分の得意なことに充てる。苦手な事務作業などは積極的に人に頼んで、効率よく動いていたんです。 ー浦邉さんの今後のご活躍から目が離せません!今日はお話をありがとうございました。 取材 : 青木空美子  (Twitter) 編集:野里のどか(ブログ/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter) 執筆:Yuka(Twitter)    

「挑戦の仕方は1つではない」WEIN隊学生部隊リーダー石坂健が目指す世界とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回は一橋大学法学部の1年生にしてWEIN隊の学生部隊リーダーを務められている石坂健さんにお話をお伺いしました。多くの人が一度は聞いたことがあるであろうWEIN隊についてや、石坂さんがWEIN隊に関わっている理由などについてお話いただきました。 コロナ禍で将来への漠然とした不安を抱えている学生さん、必読です! 自分の可能性が広げられる場所を求めて 一まずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 現在WEIN隊の学生部隊リーダーを務めています、石坂健です。4月に一橋大学の法学部に入学し、オンラインで授業を受ける日々を送る中で「このままだとまずい」と感じていた時にたまたま知り合いの方がWEIN隊について投稿されているのを見て応募し、7月からWEIN隊に関わらせていただいています。 今は10月17日(土)・10月18日(日)に開催を予定している、1万人規模の学生が集う、国内最大級のオンライン学生カンファレンス「WEIN STUDENTS SUMMIT(WEIN SS)」を成功させるために、日々奮闘しています。 ー様々なコミュニティがある中、WEIN隊へ応募を決められた理由は何だったのですか。 WEIN隊は、サッカー選手でもあり挑戦者の本田氏・ネスレ日本元社長の高岡氏・元 FiNC創業者の溝口氏の3人による日本から挑戦者を増やすことを目的としたファンド「WEIN挑戦者FUND」によって、発足されました。WEIN挑戦者FUNDは、21世紀の課題である孤独・退屈・不安をなくすことを目標としています。 私自身は起業に興味があった訳ではなく、自分の可能性が広げられる場所を探していた時にWEIN隊と出会いました。WEIN隊であれば幅広い問題解決の領域に関わることができ、 学生に加えて、学生でない方々とも繋がれるというところに惹かれました。また、WEIN隊は1,400人規模のコミュニティで発足し、規模がかなり大きいところも魅力に感じましたね。 ー1,400人もいらっしゃるんですね。具体的にどんな方が集まっており、どのような活動をされているのですか。 WEIN隊1,400人の約4割は学生ですが、残りは起業家・社会人・フリーランスの方など様々です。その他にも、WEIN.TEAMというWEIN隊に応募してくれた方々のコミュニティもあり、こちらには約4,000人の方が所属されています。 活動内容としては様々ですが、WEIN挑戦者FUNDが関わるプロジェクトに挑戦したいWEIN隊のメンバーが関わっていくイメージになります。直近では国内最大級のスタートアップカンファレンスInfinity Ventures Summit(IVS)が完全オンラインで開催するにあたり、WEIN隊が運営のサポートを行いました。 ーそのWEIN隊の学生部隊リーダーに大学1年にして選ばれたのですね。 はい。挑戦に対する熱量が誰よりも強いこと・WEIN挑戦者FUNDのビジョンが自分の思い描く世界と一致していたことを自分なりに表現し、WEIN学生部隊のリーダーに選んでいただきました。 WEIN学生部隊リーダーとして、今メインの仕事としてはWEIN STUDENTS SUMMIT(WEIN SS)を成功させることが使命だと感じています。このイベントを開催するにあたって、現在各大学に支部リーダーの方々が70名程いらっしゃるのですが、みなさんに協力していただきながら、WEIN隊学生部隊リーダーを務めさせていただいています。 不登校になり社会との接点がなくなった中学時代 ー少し石坂さんの過去のお話についても聞かせてください。どのような中高生活を送られていたのでしょうか。 中学は神奈川県の公立に進学したのですが、入学してすぐにいじめを受け不登校になりました。不登校にはなったものの、幸いだったのは地域の適応指導教室にお世話になりそこで自分を応援してくれる方々に出会えたこと、そして両親が転校という選択肢を提示してくれたことでした。中学2年で桐蔭学園中等教育学校に転校し、新しい学校では先生や友人に恵まれて楽しい学生生活を送ることができました。不登校の期間の勉強の遅れを取り戻し、卓球部に所属し、中学3年からは模擬国連の活動も始めました。 ー高校もそのまま順調な日々を過ごされたのですか。 実は父のシンガポールへの転勤が決まり、一緒にシンガポールについていくことを決めました。日本に残るという選択肢もあったのですが、中学でいじめを経験した時が人生のどん底だったので、シンガポールに行ってもし失敗したとしても大したことはないだろうと思い、挑戦を決めました。シンガポールに行けば、将来の選択肢が広まるかもしれないという気持ちもありシンガポールにいくことを決意しました。 ーシンガポールに行かれてみてどうでしたか。 インターナショナルスクールに入ったのですが、初めは言語が分からず、やはり苦労しました。そしてなんとか授業についていけるレベルになったところで、シンガポールで1番レベルが高いインターナショナルスクールの一つと言われているUWCSEAへの編入に挑戦することを決めました。UWCSEAには、高校1年の頃からシンガポール国立大の教授と生物学の研究をしている友人や、宇宙開発系のベンチャーでインターンをしていた友人など、いわゆる天才と呼ばれる人がたくさんいたため、この頃から自分の強みは何なのか、強みをどう伸ばしていけば世界で戦えるのかについて考えるようになりました。 また、シンガポールに転居するまではずっと神奈川県で生まれ育ってきたため、自分の知っている日本の姿は神奈川県に限定されていました。シンガポールで友人に「日本はどういう国なの?」と聞かれた時に、神奈川県以外の日本の姿について話せないことに気づきました。これがきっかけとなり、高校1年の夏休みに3週間日本に帰国し、秋田県大館市でインターンをすることを決めました。 ーどのようなことをインターンではされたのですか。 市役所の観光課と教育課、まちづくり課でインターンをしました。観光課では海外からのインバウンドを増やすアイディアをレポートにまとめたり、教育課では地元の小学校と中学校と高校にお邪魔して先生のアシスタントをしたり、まちづくり課ではどうすれば住みやすい街を作ることができるのかについて幅広く学びをえることができました。 初めて地方での生活を経験し、都市部にはない人の繋がりや温かさを実感した3週間となりました。このときの経験が、次の年の挑戦につながりました。秋田県大館市でインターンをしたことで、大館市が抱える「若者不足」という問題に気づきました。また同時に、同級生で圧倒的に能力が高いにもかかわらず、「高校生だから」という理由で社会と接点を持てない高校生が数多くいる課題も、シンガポールの高校生との比較から感じていました。そのため、高校2年の夏には、若者を呼びたい大館市と、自分の周りで社会との接点を持ちたかった高校生の友人をつなげることによって、県外からくる若者と地元の人々との協力によって、新たな価値を生み出したという経験をすることができました。   それぞれが自分らしく生きられる世界を目指して ー高校を卒業後の進路についてはどのように決められたのでしょうか。 シンガポール・イギリス・アメリカ・カナダ・日本の大学を検討しましたが、海外の大学は奨学金なしでは金銭的に進学が難しく、日本の大学を選択することとなりました。帰国子女の入試は、大半の私立大学が9月までには入試を終える一方で、国立大学は一般生と入試日程が同じであるため、3月まで続く長丁場になります。当然、9月の私立大学の入試で合格を手に入れて、残りの半年間は遊ぶ、という選択肢もありましたが、大学を調べる中で、カリキュラムが海外のリベラルアーツカレッジに近く、他学部の授業が受けやすい点、生徒数が比較的少ない点、留学の選択肢もある点から一橋大学の受験に挑戦することを決意しました。 法学部を選んだ理由は、秋田でのインターンの経験以来、地方に興味を持ったことがきっかけです。社会学部と最後まで迷ったのですが、地方の問題の多くは中央政府が実権や財源を握っていることに起因します。中央政府と地方政府のパワーバランスを考える上で「強い地方自治体とは何か」を考え始めた時、自治体の機能的性格を定義するのは行政法であると考えたため、行政法に関わる部分を勉強したいと思い、法学部に決めました。 ーまだ大学生活もWEIN隊での活動も始まったばかりかと思いますが、最後に今後の目標やチャレンジしたいことがあれば教えてください! 個人としては、それぞれが自分らしく生きられる世界を実現させたいと思っています。これまでの経験から、世の中の大多数の人々が生きづらさを抱えているなと感じています。特に「男らしさ・女らしさ」であったり、「高校生だから」といった肩書きによる生きづらさ。そういった生きづらさのない世界にしたいです。WEIN隊を通しても挑戦の仕方は1つではないこと、それぞれが自分らしい選択をすれば能力を最大限に発揮できることを伝えていきたいと考えています。それが、WEIN挑戦者FUNDの掲げる21世紀の課題である、孤独・退屈・不安を解消することにつながるはずだと思っています。 直近の目標としては10月に開催予定のWEIN STUDENTS SUMMIT(WEIN SS)を成功させることです。WEIN SSは、日本中の大学生・高校生と大物YouTuber・起業家・著名人・文化人・アーティストなど各界を代表する挑戦者が一堂に会す、オンラインカンファレンスです。10月17日(土)・10月18日(日)の2日間に渡り、国内最大級の規模で開催いたします。 コロナ禍で思うように活動ができず、将来に対して漠然とした不安を抱えている学生も多いのではないのでしょうか?今回のWEIN SSはそんな方々を対象に、やりたいことが見つかる場を提供するべく、様々なジャンルでご活躍されている挑戦者をゲストにお呼びし、直接オンラインで対話ができる機会を設けました。また、学生向けの大規模なイベントとしては珍しく、高校生の方も参加対象者に含まれています。僕は高校時代に、同級生や先輩、社会人の方から受けた刺激が、自分の価値観を大きく変えた経験があるので、ぜひ高校生の方にも参加してほしいです。 学生であれば、誰でも無料でご参加できますので、ぜひ興味ある方はご確認ください!参加応募はこちらから! 取材者:西村創一朗(Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

サッカーの持つチカラで日本をハッピーに!新卒フリーランス・土海真帆の夢

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、“新卒フリーランス”として、現在パラレルに活躍中の土海真帆(どかい・まほ)さんです。 土海さんは2020年に大学を卒業後、日本のサッカーチーム「TOKYO CITY F.C.」、アメリカと日本のスポーツコンサルティング会社「Blue United Corporation」、スペインから発信するサッカー戦術ウェブメディア「スーペルクラック」編集部と現在3つの企業に所属しているんだとか。 そんな彼女のこれまでの半生と、サッカーとの出会い、そして新卒で3ヶ国を股にかけるフリーランスという選択肢をしたキッカケについて伺いました。   アメリカ移住も、サッカーがあったから楽しめた!「なでしこジャパン」の優勝で将来を決めるキッカケに ー新卒でフリーランスという働き方を選択した土海さんは、現在どのような仕事をしているのでしょうか? 今は日本のサッカーチーム「TOKYO CITY F.C.」と、スペインの企業とアメリカの企業の計3社でお仕事に関わっています。 サッカーチームでは、主にチームマネジメント活動をしています。練習や試合に参加し、選手たちの練習環境を整えることをメインに活動しています。他にもTOKYO CITY F.C. では様々な取り組みを行っているのでプロジェクトごとに携わらせていただいています。 アメリカの「Blue United Corporation」という企業の仕事では、企業のSNS運用やスポーツビジネスのリサーチ等をしています。今後は女子サッカーに関わるような取り組みもできたらと考えています。 スペインの企業は、スペインサッカー戦術メディア『スーペルクラック(スペクラ)』の編集部に所属しており、主にSNS運用や記事作成など、メディアの編集全般を行っています。! ーサッカー漬けの毎日を送っているのですね!そもそも土海さんが、サッカーにのめり込んだキッカケは? サッカーを始めたのは、小学校2年生の時。高校1年生で辞めてしまうまで続けていました。小学校6年〜中学校3年生までの4年間は、父の仕事の都合でアメリカに住んでいたので、その期間はアメリカで女子サッカーをしていました。私の中ではその4年間がすごく楽しかった思い出です。 ーアメリカに移住していた際、サッカーとの思い出は何かありますか? 海外に住むということは、文化も違いますし言葉も通じなくて大変なことも多かったです。でも私の場合、サッカーを通じて友人ができたり、サッカーがあったからこそ学校も楽しく通えるようになったので「サッカーありがとう!」という感じでした。 特に印象に残っているのが、2011年のワールドカップです。当時アメリカに住んでいた私は、友人たちと「日本とUSA、どっちが勝つと思う?」と議論をしたり、一緒に試合を見て盛り上がったり、サッカーという共通点があったからこそ友人やチームメイトと仲を深めることができました。 また、2011年は日本で東日本大震災があった年だったので、私は日本にいなかったけれど日本が大変なことになっている暗い時代だったような気がしています。そんな時に、ワールドカップで“なでしこジャパン”が優勝し、サッカーが明るいニュースを日本にもたらしたのを見て、「日本のサッカーがもっと強くなって盛り上がっていけば、日本をもっとハッピーにできるかもしれない!」と考えたのが、サッカーを仕事にしたいと思えたキッカケでした。 ーなでしこジャパンの優勝はすごく印象的でしたよね!帰国してからはどのような生活をしていたのでしょうか? 日本で高校進学をできるように、父より少し早めに帰国して日本の高校に入学しました。制服や学校生活など、日本での学生生活に元々あこがれていたので嬉しかったです! 高校入学後もサッカーを続けようと女子サッカーのクラブチームに入ったのですが、話したい内容や空気感がどこか合わず、そのまま他のチームに移ることもなく辞めてしまいました。熱量はすごく高いチームだったのですが、面白いと思える共通の話題が持てなかったのが原因です。「誰とプレーするのか?」ということも非常に大切だと感じました。 ーその後の高校生活は? サッカーを辞めてからは、とにかく遊びまくってました!(笑)友人と「青春だー!」と思えるようなことは何でもやろうと思って。満足するまで思い出を作った高校生活でした。やり残したことはないほど遊び尽くしました。 ー良いですね〜青春!その後の進学先はどう考えていたのでしょう? 帰国子女として試験を受けられるチャンスを活かそうと思い、AO入試で立教大学を受験し、進学しました。立教大学の存在は、アメリカ在住の際にオハイオ州で出会った日本人の先輩が入学したと聞いて知っていました。それで「私も立教大学にいきたい!」と思って進学したのが理由です。 サッカーに関わることがやりたいと思っていたので、スポーツ系の学部に進学しようと思っていたのですが、「もし飽きてしまったらどうするのか?」と先生に言われ、ハッとしたんです。確かにそうだなと思って。それで、汎用性のある学問に触れて幅広い知識を付けられるように…と経営学部に進学しました。   カンボジアでやりたいことを見つけ、スペインでフリーランスという働き方を選んだ ー大学入学時、やりたいと思っていたことは? なでしこジャパンが優勝した時から、日本のサッカーが男女関係なくもっと強くなるためには、多くの選手がもっと海外に出ていって、活躍して欲しいと考えていました。 ただ、サッカーでスキルを磨くために自分を追い込むだけでなく、海外生活に馴染むために生活面でも努力するのはかなり大変なこと。私自身もアメリカに移住して、色々同時に頑張るのは結構ストレスを感じていました。 なので、そういった自分の経験を活かしてサッカー選手がハイレベルな環境でプレーに集中できるよう、生活面や異文化に馴染むためのサポートを出来るようになりたい!と考えたんです。 私には家族がいたから大丈夫だったけれど、海外に出てきたばかりの孤独な選手を支えられる人になりたい・親のような存在になってあげたかったです。そうしたら、もっと海外で安心して強くなれる日本人選手が増えそうだな!と思っていました。 ーそのために取り組んだことはありますか? 「アイセック・ジャパン」という、海外インターンシップを運営しているNPO法人かつ学生団体に所属していました。 アイセックの事業は、日本のサッカー選手を海外に送り出すというシステムと仕組みが似ていたので興味を持ちました。加入して1〜2年生の頃は「自分のやりたいこととは何か?」等、とことん自分や将来のことに向き合ったりして、次第にプロジェクトマネジメントや、リーダーシップをもってなにかに取り組む姿勢を学びました。最終的には、日本人の学生を海外に送り出す事業に関わっていました。 ーアイセックで、特に印象的なエピソードはありますか? たくさんあります!中でも特に、カンボジアにて海外インターンをした経験は印象深いです。 私はアイセックで海外インターンの支援をしている側だったけれど、自分自身がアイセックのサポートを受けた経験がなかったので、サポートされている側の人の気持ちがわかるように、私自身もアイセックを通じてカンボジアに行きました。 そのカンボジアがすごく楽しかったんです。カンボジアの子たちがすごくハッピーに過ごしていて、それをすごく覚えています。 アイセックでは、将来どうなりたいか?どんな社会を創りたいか?を問われるタイミングが多々あるのでずっと考えていました。でも、カンボジアの子たちをみて「この先、何がどうなるかなんて分からない。でも今をめいっぱい楽しんでいるカンボジアの子がいる。どうしたら、目の前にある“一瞬のハッピー”を作れるんだろう?ハッピーを感じる瞬間を増やせるんだろう?」と考え、「やっぱり私はサッカーを通じて、その場にハッピーを感じる人を増やしたい!」と強く思い始めました。 カンボジアで出会った日本人のカキ氷屋さん「Fresh Fruits Factory」の経営者の方に、その夢を語ったところ、「一緒にお互い海外で頑張ろうね!」という約束もしたので、今でも思い出すと頑張ろうという気持ちになれますね。 ー大学生だと就職活動もありますよね。就活はどのように行っていましたか? 就活ではサッカーを通じて何かを実現できる人になりたいという思いで、サッカーチームやスポーツ事業を行っている企業を見ていたのですが、多くの企業では、やりたいことがあるのに違う部署に配属になってしまうことに疑問を感じました。結局、1つも企業の面接などを受けることなく、就活そのものをストップしました。 また、就活時代に私以外の家族がスペインに住んでいたので「サッカーも好きなんだし、スペインに一度来てみたら?」と母から声をかけてもらって、大学を休学して1年間スペインに遊びに行きました! ー就活をストップして、サッカー王国スペインに!そこではどんな事がありましたか? 「本当に自分はサッカーが好きなんだろうか?この先もサッカーに関することを続けたいのか?」という気持ちを確かめにいこう、と決めて行きました。 スペインでは、実際に日本人のサッカー選手が留学している地域・環境を見てみたいと思ってたので、スペインに住む選手へのサポート内容や、選手にサッカー留学を決めた時の気持ち・思考をリサーチしていました。 ーそこで見たもの、学びは? サッカー留学に関する学びについては、選手の話を伺ったところ、想定していた以上にサポートはあまりなくて手薄な印象でした。ただ、よく話を聞いてみると、サポート側の問題だけではなくて選手側のマインドも課題があるという気づきもありました。 もっと選手1人1人が何を考えているのかという考え方への理解と、異文化理解のサポートは必要だなと感じましたね。 その際に、現在関わっているスペインの企業に出会ったんです。その企業に出会ったことで、「ここで何かできるかもしれない!」と感じて、現在もお世話になっています。 ースペインの企業との出会いはその時だったんですね。就職をしなかったのはなぜ? 個人的に、1つの企業でずーっと働くより、複数の企業で色々なことに一気にチャレンジする方が性に合っていると思いました。私は、パラレルな人生のほうが向いてるのかなと思ったんです。 さらにスペインへのワーキングホリデー中に出会った友人たちは、大学卒業後もすぐに就活をしない子たちがいました。あまり焦る様子もなく、自身のタイミングを大切にしていて気持ちが良いなぁとおもい、参考にしてます(笑)   3ヶ国の企業でパラレルに活躍する、新卒フリーランスに! ーキャリアを選択する中で、不安はありましたか? 日本の友人が就職していくなかで、皆と違う方向に行くことに不安も多々ありました。でも、そもそも休学をしたのでスタートの時期が違いましたし、人と比べても仕方ないと思ってあまり気にしないようにしました。 ー就職活動を再開しよう!とは思いませんでしたか? 確かに就活再開しようかなと、スペインにいた頃は自分のキャリアについても悩んでいました。 しかし、「日本では、新卒入社すると社会人としてのマナーを教わるけれど、それって自分で調べたり勉強すれば出来るようになることだな」って思えたんです。そしたら、そこまで新卒にこだわる必要ってないなと思い始めました! また、これからの長い人生を見た時に、「私がサッカー業界で成し遂げたいことは、45歳までに達成しよう!」と決めました。もし達成できなかったら、それ以上はやめようと期限を決めた瞬間、スッキリと自分のキャリアの方向性を決めることができました。 ー新卒でフリーランスになったものの、実際なってみてどうでしたか? ちょうど2020年の3月が卒業・就職のタイミングだったのですが、コロナウイルス感染症が大流行してしまい、サッカー業界も大打撃を受けました。 この先どうなるか分からないという不安もたくさんありましたが、まずは目の前の仕事と、自分にできることをコツコツやろうと決めました。 振り返ってみて「あの時、もっとやれたのに!何で頑張れなかったんだろう」といって後悔だけはしたくなかったので、全力でやれることに向き合い、結果はあとから付いてくるだろうと信じてがんばりました。 ースペインの企業以外の2社との出会い・キッカケは? 「TOKYO CITY F.C.」は、スペインから帰国して大学に復学したタイミングで、関連会社の選考会にたまたま参加したんです。そこで代表の方と話す機会がありました。 そこで私のやりたいことを話したところ、「あなたのやりたいことは、TOKYO CITY F.C.の方なんじゃない?」と言ってくださり、そこからご縁があってチームのマネージャーのお仕事をさせていただくことになりました。 もう1つの方は、復学後にアメリカの大学院進学を検討していて、先輩に話を聞いてみたところ、現在働いている「Blue United Corporationという企業でインターンの募集があるよ」と教えていただき、参加したのがキッカケです。結局インターンとしてジョインしてから期限を延長してもらって、そのまま今も一緒に働かせていただいています! ー国も職業も違うお仕事で、スケジュールはどうやって調整しているのでしょう? アメリカのお仕事を平日の昼間にやっていて、スペインの企業は全社員がスペインにいるので、日本時間の17時以降(スペインが昼間)になったら仕事をしています。 サッカーチームの仕事は、平日の夜や土日に、試合や練習があればやっています! ー約半年フリーランスの活動を振り返ってみて、どうでしたか? この選択は間違ってなかったと思っています。今年はもっとコツコツとお仕事をやって、来年は自分でもう少しお金を動かせるような仕事をやってみたいと思ってます! ーサッカー選手の近くで仕事をしてみて、何か発見はありましたか? 私が中学でサッカーをやっていた時、プレー中はほぼ感覚で動いていました。 でも今所属しているチームの監督や選手たちはすごく早い動きでプレーをしながら、空いているスペースの使い方などすごく色々なことを瞬時に考え、判断しているのでその凄さは近くで感じており、楽しみながら学ばせてもらっています! ー最後に、今後の夢や挑戦していきたいこととは? 最近は、男子サッカーと女子サッカーの間にまだまだジェンダーの壁があるように感じることがあって、私も女子サッカーのプレイヤーだったことと女性であることを踏まえて、もっと女子サッカーの発展に取り組んでみたいと考えています。 また、新卒からフリーランスでパラレルにやりたいことをやれている経験を活かして、ビジネススキルや実績ももっと手に入れたいです。 女子サッカーの発展のためには、強化の側面だけでなくビジネス面での女性活躍も重要だと思っています。だからこそ、女性として「サッカー業界で稼げる人材」になることが今のゴールの一つです! これからの活躍が楽しみです!素敵なお話、ありがとうございました!   ▼土海さんのnoteとTwitterでは、日々サッカーやスポーツビジネスのことを発信中!ぜひチェックしてみてください。 ・Twitter ・note 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆者:MOE デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

野球一筋から教育へ。誰もが夢を追い続けられる世界を創る NowDo・ビジネスマネージャー津田将信さん

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、本田圭佑氏がCEOを務める、NowDo株式会社でサービスマネージャーとして活躍する津田将信(つだ・まさのぶ)さんです。 プロ野球選手になりたいという夢を持ち小学校から野球に打ち込んだ津田さんですが、辛い指導から野球を楽しめなくなってしまいます。中学、高校と進学する中で改めて野球に触れ、自分で考えることの重要性や正しい指導法の存在に気付き、教育に興味を持ち始めます。 野球一筋から、どのように本田圭佑と出会い、ビジネスで教育を変えることを志すようになったのか。津田さんの過去に迫りました。   本田圭佑との出会い ー 本日はよろしくお願いします!まずは簡単に自己紹介をお願いします。 改めまして、津田将信と申します。今は本田圭佑がCEOを務める会社、NowDo株式会社でサービスマネージャーをしています。 現在メインで運営しているのは、中高生が月額1ドルで社会人のライブ講義を好きなだけ聴くことができるオンラインスクールです。社会で活躍されている社会人の方を「プロフェッショナル」と呼ばせていただいていて、これまでの人生であったり、ここでしか聞けない本音の話をしていただき、チャットでディスカッションを行うインタラクティブなオンラインスクールです。プロフェッショナルによっては1時間も話ができるかと不安がられる方もいらっしゃるんですが、参加者と一緒にの本音を聞き出していくことを目的に講義を行なっているので、中高生の熱量も非常に高く、質問が終わらず延長することも度々ありますね。 ー 普段伺えないようなことが気軽に伺えるというサービスはかなり良い影響を受けられますね。サービスマネージャーとはどのような職種になるのでしょうか。 ユーザーエンゲージメントの向上からプロダクト価値の模索、UX設計など業務範囲は多岐にわたっていますね。毎日行うライブ講義のコンテンツ企画から司会などのオペレーション、SNS運用やマーケティングメッセージを考えるなどのマーケティング業務、ユーザーインタビューなども行なっています。 サービスのクオリティを高く保つため、ユーザーと一番近いところでプロダクト改善をずっと考えている職種になるかと思います。 ー本田圭佑さん、NowDo株式会社とはどのように出会ったのでしょうか。 ブラジルワールドカップやロシアワールドカップなどの影響で様々なメディアで本田が取り上げられていた頃からファンでした。 最初は僕も一選手として興味をもち、日本代表戦などを見るようになったんですが、ACミランで10番を背負いながらも、起業家としてサッカークラブを開いていることを知ったんです。 彼の言動をみていくうちに生き方や考え方にとても共感して、彼が運営するメールマガジンにも登録をしました。本田はOneTokyoというサッカークラブの発起人でもあるんですが、当時メールマガジン内のコミュニティでサポーターと作るサッカークラブの構想がシェアされ、興味がある人を募集していたんです。そこに興味があると手をあげたところ、本人から連絡がきて、コンタクトを取るようになったのが本田との出会いですね。   指導法の違いから、自分で考え、意思決定することの重要性を学ぶ   ー 当時サッカー選手と起業家を両立される姿は本当に新しかったですよね。ここからは少し時間を遡って津田さんの幼少期について伺いたいのですが、野球に熱中されていたようですね。 そうなんです。僕は小学校1年生の頃から野球が好きで、野球チームにも所属をしていました。ただ所属していた野球チームの練習が非常に厳しくて・・・。朝8時から夜8時まで練習をしたり、小学生ながら何キロも走り込む練習があったりと、根性論の指導をする野球チームだったので、だんだんと野球が楽しめなくなってしまいました。 言われたことをひたすら守っていたのですが、コーチによって言うことや感覚が違ったんですね。いろんな意見に対し、全て真面目に取り組もうとしたことで、野球の技術がよくわからなくなってしまい、言われたことだけをそのままやり続けることに対して、疑問を感じるようになりました。 結局体調にも支障をきたし、その野球チームは6年生の頭くらいにやめることになります。中学に入るまでは父親とキャッチボールをしたり、バッティングセンターに通ったりしたのですが、やはり改めて野球は好きだなと思い、中学では学校の軟式野球部に所属をしました。 中学の軟式野球部ではキャプテンをするようになり、練習メニューなどを任せてもらいました。そこで初めて本当に大事な練習は何なのか、自分の体の状態はどうなのか、など自分で色々調べ始めるようになり、言われるだけの指導法でなく、自分で考えることの重要性を感じましたね。一方で参考文献によって言っていることが異なったりもするので、自分で考えることの難しさも学びました。 ーなるほど・・・。中学で野球に打ち込まれていたときはメンターのような方もいらっしゃったのでしょうか。 中学3年生の頃に、部活とは別に野球塾に行く機会があり、そこでプロの方に指導をしていただいたのですが、その経験が非常に衝撃的でした。自分が今まで何ヶ月も悩んでいた課題がたった30分で解決するんです。 例えば自分一人で練習をしていると、腕や手や肩だけプロ野球選手の動きを真似してしまいますよね。でも骨盤の動きを修正する必要があると指導をしてもらったところ、プレー全体が変わったんです。 本質が見えているというのはこういうことか、と衝撃を受けたと同時に、人生経験や野球経験を先に積まれている方の意見の重要さを知り、教育に進みたいと思ったきっかけにもなりました。 さらにプロの指導者に教えてもらったことで、正しいトレーニングや正しい指導法があるのだと思い、スポーツ系の大学に進学したいという夢を持つようにもなりました。高校3年間も野球をしていたのですが、甲子園を目指しながら正しい指導法にも着目し、自分の能力をあげることに注力をしていました。 高校では中学よりもさらに練習が個人の裁量に任されるようになったのですが、僕は高校生のトレーニングのレベルが分からなかったので、3年生の先輩の練習にひたすらついていきました。自分の知識レベルでは分からないこと、知らないことがあるという前提で、自分より経験のある先輩の真似をする方が良いと思ったんです。先輩の真似をした上で、自分に合うか合わないかを判断し、練習メニューを組んでいきました。 完全に自由という環境を貰えたからこそ、自分で考えたり、自分で考えられないところは経験を積んでいる人の真似をする、というのが習慣づきましたね。 今でもロールモデルを探すことは習慣化しています。様々な領域に置いてロールモデルを探し、自分の基準をあげるようにしているんです。ただ、意思決定の場面では誰かの真似をするだけではなく、自分自身で選択することを重要視しています。自分の納得感が非常に大事ですし、自分自身が納得していないと、そのあとの行動にも身が入りませんから。自分よがりになるというではなく、誰の意見を聞くか、ということ自体、自分で意思決定をして納得感を持つことが重要だと感じています。 ー その後どのような大学生活を送られたのでしょうか スポーツ系の大学では受験に実技が必要なのですが、技術が足りず結局落ちてしまいました。ただ、そこでスポーツと関連して教育をもっと良くする選択肢が他にもあるのではないかと思いだしたんです。自分と同じように苦しんでいる子供をより多く救うにはビジネスという手段もあるのではないかと、次の年は経済学部などを中心に受け、ビジネスを学ぶことができる学部に進学をしました。 大学に進学してからは、自分の志をビジネスに落とし込む活動をするようになるのですが、きっかけになったのは東京で開催されていたインターンでした。 僕は当時、郊外の大学に通っていたのですが、インターンで多くの東京の学生に出会い、自分との見ている世界の違いに愕然としたんです。僕が見ていた世界は、自分が考える中で思いつくものでしかなく、自分の夢を成し遂げるためにはもっと外を見なければならないと感じました。そこからは東京に行ったり、セミナーにオンラインで参加させてもらったりすることも増え、自分の中での基準が上がりました。 大学後半からは「教育を変える」という夢を実現する一手段として、自分で事業を作ることも検討したのですが、ビジネスの基礎も知らないですし、自分の実力も分からなかったので、自分の力を最大限試せるところに入るため、新卒でコンサルティング会社に入社をしました。 入社した企業は世界中に支社があり、海外とのやりとりも頻繁にある企業だったため、ビジネスが大きく動くところに携われている感覚もありましたし、楽しかったのですが、自分のやりたいと思っていたことはできず、転職をしました。 2社目は大学時代にメンターをしてくださっていた方が経営するベンチャー企業に入社をし、自分の原体験となっている子供向けの習い事教室を立ち上げました。 実際に入ってみると、コンサルティング企業で学んだことをアンラーニングすることが課題でした。コンサルではデータを用い、論理的に考えることが必要とされるのですが、新しい事業には正解がないですよね。それよりも何がしたいか、周りが納得感を持って進められるか、目の前のユーザーは何を求めているかが重要だと思うのですが、どうしてもコンサル的な考え方を捨てるのが難しくて、最初の数ヶ月は全くバリューを出せていませんでした。意思決定のスピードの違いにも悩まされましたね。 (世界中の)誰もが夢を追い続けられる世界を創る ー 当時やりがいのある事業をされていたと思うのですが、そこからNowDoにジョインしたきっかけはなんだったのでしょうか 自分で事業を作る中ででより多くの人に届けたいなと思ったこと、そして楽しく上達するのはスポーツだけにこだわらないと思ったことがきっかけですね NowDoは「(世界中の)誰もが夢を追い続けられる世界を創る」をビジョンにしているんですが、この言葉を聞いたときにとても腹落ちしたんです。自分の中ではそれがまだ明確に言語化できていなかったのですが、この一言に自分のやりたいことが詰まっていると感じました。いろいろなことをやってきましたが、NowDoが目指すところと僕が目指すところが一緒だと感じたため、入社するしかないと思いました。 ー 段階を経て自分の志を磨きつつ、いろんなチャンスを掴んでおられたんですね。今後必要とされる教育、指導はどんなものでしょうか。 最近では詰め込みがダメだとか、学校が今の時代に合っていないとか様々な意見があると思うのですが、僕自身はあまりそこに対してネガティブなイメージは持っていません。今の教育がダメだから新しい教育が必要、という風には思っていないんです。 ただ、この教育をより良くしていくためには個人にフォーカスされるべきだと感じています。自分の目指したいところに対して、自ら考えながら進んでいけるような力を教育の中で磨くことが大事かなと思いますね。 NowDoでもプロフェッショナルの講義が聴き放題で合ったり、無料で入れる同世代のコミュニティがあったりと、自発的に成長していけるような環境を用意しています。今はいろいろな情報があふれていますから、その中で自分の力で成長していく環境をどんどん与えることが必要だと思いますね。 ー 今後ご自身としてどんな環境でどんなことをなさるのか、展望を教えてください。 NowDoのビジョンを体現するためにやれることは全部やります!NowDoでは目指したい姿から、それを成し遂げるためには何をしたら良いかを0ベースで考えるので、普通の人なら考えない目標を立てるんです。まずNowDoの目標を達成し、ビジョンを達成することに注力していくことが自分のやるべきことかなと思います。 NowDoにはトップがたくさんいますが、自分自身の影響力やスキルも上げていきたいと思っています。 ー本日はありがとうございました!これからの津田さんを応援しています! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === 取材:山崎貴大(Twitter) 写真:津田さんご提供 執筆:うえのるいーず(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

UXリサーチャー・松薗美帆さんに聞く!社会人学生として「好き」を貫く選択

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第148回目のゲストは、株式会社メルペイのUXリサーチャーとして働きながら、現役大学院生という肩書を持つ松薗美帆さんです。 株式会社メルペイでUXリサーチャーとして働きながら、大学院に進学した松薗さん。「社会人学生」として、自分の「好き」を貫く人生を生きている松薗さんに、UXリサーチャーの魅力と「好き」を貫く人生の生き方についてお聞きしました。 UXリサーチってどんなお仕事? ー本日はよろしくお願いします。まずは松薗さん経歴についてを教えてください。 もともと地元は九州で、大学進学をきっかけに東京に来ました。ICUで文化人類学を専攻。卒業までユーザーインタビューや現地のフィールドに実際に入って調査をするみたいなことをやっていて、卒業後は新卒でリクルートに入社をしました。その後、 UXデザインの中のさらに専門職であるUXリサーチャーという職種で、株式会社メルペイに転職して、今年の4月から大学院に通っています。   ーありがとうございます。ちなみに現在されているUXリサーチャーという仕事はどんなお仕事なんですか? プロダクトとかサービスの企画にあたってUXデザインはよく重宝されるスキルですね。 企画の時の大事なの考え方とか、うまくいくやり方の体系的な方法論みたいなものでして、ユーザー中心に考えてサービスをもっと良くしていくための方法ですね。 ユーザー中心に考えるためには、ユーザーさんに実際にインタビューしてみたり、考えている途中の企画を、ユーザーさんに実際に触ってもらってフィードバックをもらうことも。 企画を作るためのアイデアをもらうためのリサーチ、アイデアをもっとよくしていくためのリサーチをやっています。   ーUXリサーチはユーザーさんから直接直接お声をいただいたものを元に、サービスを良くしていくのですね。ツールを使って調査するのがメインなのかなって思っていました! そうですね。ツールを使うこともあるんですけど、ユーザーインサイトみたいなものをとにかく定性的に、定量的にも集めるっていう感じです。   ーなるほど。あくまでユーザー目線が大切になるってことですね。実際にユーザーインタビューのどんなところに、面白さを感じたのか教えていただいてもよろしいですか? 私は普通の人は誰もいないと思っていて、すべての人や場所にユニークなストーリーがあると思っています。インタビューをするたびに、毎回いろんな発見があって、自分の人生の見方が豊かになっているような気がして、それをお給料が貰える仕事としてやれるのがすごい最高だなって。 いろんな視点を知っておくと、電車に乗っている時も、乗客の人にもそれぞれ面白いストーリーが絶対あるんだろうなって思えるんですよ。仕事だけでなく、日常のワクワクにもつながっているのも仕事の面白さでもありますね。   ーすごい!自分の仕事が日常のワクワクにもつながっているというのはまさに天職ですね。UXリサーチャーの方は、ユーザーさんの生の声などを分析して実際の業務に反映すると思うのですが、どんな判断軸で業務に反映されてるのでしょうか? ビジネス上結果につながらないと、UXリサーチャーの存在意義はないと考えています。現在の課題を見つけてその課題を解決することを優先度高くやっていくので、学術的なリサーチとは違うんですよね。ユーザーの多様な意見の中の似ているところを見つけたり、同じ価値観を見つけて、実際の業務に反映させることが多いです。 あとはビジネス的な視点に加えて、今までは見つけられなかった軸で挑戦もします。単純に自分的に面白い発見だったとしても、ビジネスで成果が出なければ意味がないので、あくまでビジネスで成果を出せそうなことですね。   自分の好きな英語がコンプレックスに ーちなみに大学で文化人類学を専攻されてたってことなんですけど、文化人類学に興味を持ったきっかけはなんですか? 実は大学を選んだときは、文化人類学を知りませんでした。私はもともと途上国開発とか仕事をしたかったので、開発学を学びたかったんです。でも、私の大学は2年ほど、いろんな授業を受講して、3年目から自分の選考を決めるリベラルアーツ教育をやっている大学だったので、とにかくいろんな授業を取りました。 その中のひとつに文化人類学の授業があって、授業中に教授が、「人類学ってのは相手の目から見た世界を知ること」って仰っているのを聞いたのがきっかけですね。教授の話を聞いて、途上国開発を知るよりも、その国に住んでる人のを見てる世界とかを知りたい方が強かったなと自分でも気づきました。 あんまり聞いたことない学問だし、親には「文化人類学なんて金にならないと思うよ」って言われたんですよね。でも「研究者になるわけじゃないし良いかな」って気持ちで文化人類学を専攻することにしました。   ーそうなんですね!中学に入学して、まず最初にアメリカにホームステイをされたっていうことなんですけれども、こちらはどんなきっかけがあったんでしょうか? 中学生ぐらいのすごい前の話なんですけど、小学生ぐらいからずっと英語を勉強していましました。海外はテーマとしてすごく興味があったんですけど、自分の住んでいた鹿児島市に交換留学制度みたいなのがあって、応募したら受かったって経緯ですね。 私の知っているアメリカのイメージと結構違って、ヒスパニックの感じというかちょっと怖そうなお兄ちゃんって感じの方がいました。最初は自分も気づかなかったんですけど、よく考えたらお母さんいない家庭だなぁって。 よく遊びに来るお母さんみたいな人がいたんですけど、英語が話せないので、事情はよく聞けなかった。お父さんは移住してきた方なので、英語がほとんど話せず、お兄ちゃんにあたる人だけが頼りみたいな感じの家庭でしたね。   ーそこから国連のNGOなどに興味を持ったとのことなんですけど、ホームステイとどういうつながりがあったんですか? 実際にホームステイに行ってみて、全然英語はやっぱ通じなかったのがすごい悔しかったんです。もっとしゃべれるようになりたかったですし、海外に行きたいと漠然にそう思っていました。 あとは中学生の時に「世界が100人の村だったら」って本がブームでして、それのワークショップをやる機会がありました。実際に100人の村人になって、自分の役割を作るワークショップをした経験がすごい印象に残っていて、世界中の困っている人たちと関わる仕事がしたいと思っていたのです。   ー「世界が100人の村だったら」は当時流行ってましたよね!そこから国連やNGOに行きたいと思われて、大学にICUを選んだ理由は、国連やNGOを見据えていたからですか? そうですね。でも第一志望は違う国立を目指していました。ICUは英語にかなり力を入れている大学で英語ができる前提の大学なんですよ。私は受験の時は英語が1番得意な科目だと思ってたし、テストで点数を取れる稼ぎ頭でした。でも大学には帰国子女や留学生の方が多くて、英語のテストで一番下のクラスだったんですよね。 海外経験のない日本人を「純ジャパ」って呼んでるんですけど、うちの大学では「純ジャパ」はどちらかというとマイノリティ。留学に行ってるか、子供の頃は海外で過ごしていた方ばかりでした。でも自分には受験英語しか経験がなくて「こんなにできないのか」て入学してすぐに、できない自分にコンプレックスを抱えるようになったのです。 大学は寮暮らしで、みんな日常的に英語コミュニケーションを滑らかに行っていました。でもその一方で、自分の思っていることをうまく伝えられない自分がいて、学校英語では会話がほとんどできないんだなってショックを受けた感じです。国連やNGOも、海外の大学院などに出なければ就職するのが難しい職種。バリバリ英語が話せる人たちと戦うと知って、ズタボロになりましたね。   ー英語を当たり前のように話せる方ばかりが周りにいると、劣等感を抱いてしまいますよね。今は英語ができないコンプレックスを克服できているのですか? 今も英語がそんなにできる方ではないと思っています。大学ではNPOで働くようにして、海外の途上国というテーマとはちょっと違うんですけど、引きこもりの支援というのを国内でやっていました。 英語がハンディキャップにならない環境の方が、自分の力が発揮しやすいって理由もあります。また思い描いていたテーマと違っても、自分が実際にやってみて、関心を持てるようになることならテーマってよりも、自分の働き方や仕事に打ち込めるかどうかの方が大切だなと。   ー英語を使わずに活動することで、自分のできることをどんどん見つけていったという感じですかね? そうですね。大学の途中から地方活性化みたいなテーマで論文を書くようになったんですけど、地域活性化と途上国開発は課題とか構造とかが似ているような所もあって、地域活性化にはまったっていう感じですね。   ー地域の活性っていうのは具体的にどんなことをされてたんですか? そうですね。島根県の津和野町という小さな町を拠点にしていました。津和野町は若い人を呼び寄せて地域おこしをやっている先進的な町でしたので、私はインターン生としてそこに携わるようになりました。 農業とや観光などいくつかのテーマごとに、学生たちがプロジェクトを作って、現地の人と協力して一緒にやっていく流れ。私は何かをやるというよりも、みんなの活動を観察して、こで得た知識や経験を論文にまとめていました。   リクルートで感じた仕事に対する違和感 ー地域おこしの活動を経て、リクルートに入社されたんですよね。なぜリクルートに入社しようと考えたのですか? 地域おこし協力隊の制度を使って町おこしを仕事にする道に進むか、リクルートを選ぶかの2択で、最後まで悩んでいました。会社に勤める選択肢だと、最初から自分がバリバリ仕事ができるいわゆるベンチャー的な企業が良かったんです。下積みが長いのは自分には合わないなと。だからすぐに活躍できるフラットな社風がいいなって考えていました。 インターンシップで島根に行っていた時にお世話になった方が、もともとリクルートの起業家の方で、当事者意識がすごくあってリクルートの社風そのままの人でした。 就活でリクルートと地域おこし協力隊の選択肢があって、最初は地域おこし協力隊にしようと、リクルートを断ったんです。でも当時のリクルートの人事の方に、「地域おこし協力隊を3年終えた後に自分ができるようになっていることを想像してほしい」と言われたのです。 地域おこし協力隊から中途でリクルートに入ろうと考えると、経歴が特殊なキャリアになるため、入れるかわからない不安もあります。さらに地域おこしを自分が生涯かけてやりたいテーマなのかどうかが確信を持てない自分がいること。そして、興味、関心がその時によって変わってしまうこと。 だからまずはリクルートに入社して、働いているうちに、地域おこしをやりたいと思ったら、そっち行けばいいと考え、リクルートに入社しました。   ー島根のインターンシップでの出会いがリクルートの入社に影響を与えていたんですね。新卒入社されて最初はどういったお仕事をしていたのですか? 最初は人材系のグループ会社で、タウンワークやとらばーゆをやっている企業のデジタルマーケティングをしていました。 最初は面白いと思っていたんですけど、億単位の予算の仕事を任されるので、ずっと数字を追うように仕事をしていたのです。あまりユーザー近くない仕事をずっとしていたため、なんのために仕事をしているのかがわからなくなってしまいました。   ー扱う金額が大きすぎると全体感として見れないっていう感覚はありますよね。仕事の意義が感じられないみたいな思い悩むところがあったと思うんですけど、そこから社内でジョブチェンジされたんですよね? デジタルマーケティングを勉強しているときは、新しいことを学ぶことは面白かった。でもしっくりこないと思っていた時に、「文化人類学を昔学校でやっていた」っていうのを社内で話す機会があったんですね。その時に上司に「UXデザインとかそっちの仕事が向いているんじゃない?」と言われました。その時はUXデザインをよく知らなかったし、開発に近い仕事はかなり専門性が高いので、経験のない自分は無理だろうなって。 でもいろんなタイミングが重なってUXデザインの部署に異動になったんですよね。   UXのキャリアの始まりと転職 ー部署異動から松薗さんのUXのキャリアが始まっていくと思うんですけど、最初はどんなお仕事から始められたんですか? 初めはエンジニアと一緒に開発の勉強をするところから始めました。UXをやりたいと言ってみたものの、やっぱり開発の知識プログラミングとかプロダクトは作れなかったので、まずは勉強し始めました。 でも勉強しているうちに「あれ?自分には合わないかも」と思うようになったのです。自分の運が良かったのか、WEBディレクターが足りないと社内でなりましてプロダクトマネージャーの方が合っていると感じ、少しずつシフトしていきました。 はじめはそのプロダクトの意思決定をするプロダクトマネージャーの見習いから入って、その中でUXの知識が必要だったので、少しずつ身につけていった感じですね。   ーなるほど。専門的な分野の知識習得って大変なイメージなんですけど、どうやって毎日学びを続けられたんですか? やはり、会社に教えてくれる人がいたのが大きいですね。あとは休みの日にウェブ上のサービスで学んだりしていました。専門的な知識をつけていくうちに、UXデザインが楽しくなりました。   ーそこから今の会社に転職されたのは、どういうきっかけがあったんでしょうか? そうですね。リクルートではプロダクトマネージャーにもいろんな業務があって、ディレクションや企画を作るなど本当に多岐にわたる業務があるんですね。業務の中で、プロダクトマネージャーとして突出した部分が必要だと思って、自分はそこには到達できないと感じました。 自分の強みがなければ、何でも中途半端にしかできない人でしかないと思うようになりまして。プロダクトマネージャーとして、自分が得意、好きだなと思えることを考えるようになりました。 ユーザー調査をしてから企画を考えることが大学でやってたことに近くて好きですし、他の人より得意かもしれないと思えたので、その分野でまずは突き抜けた方が、一本柱のあるプロダクトマネージャーになれるかなって思っていた。 ただリクルートにはユーザー調査だけの専門家の職種がなく、ジェネラリストであることの方が推奨される会社だったんですよね。自分がやりたいことは、UXデザインの中でも、UXリサーチと結構特殊な一業務のスペシャリストでした。 アメリカではUXリサーチの担当部署もあるんですけど、当時の日本ではUXリサーチ専門の人がいない状態。そんな時にメルペイが、UXリサーチをメイン業務としたい人を応募していたので、そこに飛びついたって感じですね!   ーこれからUXリサーチに挑戦してみたい人や、興味がある人に向けてアドバイスをお願いします! そうですね。UXデザインは企画やプロダクトに携わる人はみんな知っておいたほうがいいと思っています。プロダクトの企画に携わらなくても、セールスでプロダクトを売る相手をユーザーだと考えると、業界のリサーチは必ず行なっているはず。だからどんな人でも勉強しておいて、損はないかなって。   ー確かに業界のリサーチはどんなセールスでも行うため、必要なスキルになりますね。ちなみにどんな人がUXリサーチャーに向いている人だとお考えですか? リサーチのプロセスを楽しく感じられる人や、ユーザーインタビューを楽しんで続けられる人ですね。 UXリサーチは企画を作っていて、華やかなイメージを持たれがち。「UXリサーチャーになりたい」って声をよくいただくんですけど、思ったよりも泥臭くて、インタビューの為の日程調整やインタビューの文字起こしをして、分析をしています。だから、泥臭いことを楽しめる人が、向いているんじゃないかなと。 UXリサーチはスキルやものの考え方とかも書籍やインターネットで学べるので、実際に学んでみて、面白そうと思ったら自分は向いているかもと分かるかもしれないなと思います。   社会人学生という道を選んだ理由 ー松薗さんの個性というかあの形作るものをとしては社会人学生というところなのかなって思うんですけども、就職したまま学生になろうと思ったきっかけはなんですか? 自分が大学生の時は、自分が大学院に進むとは全く思ってなかったんです。でもUXデザインをやっていく中で、UXデザインを専門的にで学んでたわけじゃなかったので、そういう学部出身の方を見ると全然知識が足りないなぁって。 もちろん実戦経験はありますが、専門的な知識を深く知らなかったり、体系立てて深く理解しているわけじゃないので、たまたまうまくいっただけで再現性がないんじゃないかなとかそういういうところを考えた。 あとは海外に住んだり、学んだりしたいって気持ちがずっと残っていて、自分の英語力にコンプレックスもあったので、それを克服したいなと。   ー学生時代のコンプレックスを克服したいと考えられたんですね。いつ頃から社会人学生になろうと考えていたのですか? リクルートで働いていた時です。最初は海外のデザイン学校に行って、1,2年UXデザインを学ぼうといくつか海外の学校を調べていました。知り合いがデンマークにあるCIIDに行って「面白かったよ」って言ってくれたので、夏休みの2週間だけ授業を受けられるサマースクール期間に社会人5年目ぐらいの時に応募して行ってみました。   ー実際に短期留学をされていたんですね。留学という選択肢があった中で、留学を選ばなかった理由はなんですか? CIIDはいろんな国から来ている学生と1週間プロジェクトをやりながら授業をやるという感じでした。でも自分の英語力では、現地の人に英語でインタビューして深く聞けなくて。自分の強みとしていたUXリサーチが、海外に行くと逆に弱みになってしまいました。 言葉の壁が大きかったのと、インタビューひとつ取っても、現地の人をよく観察しないとわからないですし、文化背景が分からない、言葉もちょっと拙ないだと全然浅い感じになっちゃうなあっていうのが改めて思いました。実際に行ってみて、英語力がなければ、現地だと何もできないと感じてしまいました。 あとCIIDで学べることが自分のやりたいことと違ったっていう理由もあります。社会人でUXデザインについて学べる学校に行けるといいなぁと思ったので、今通っているJAISTっていう大学院と、武蔵野美術大学の社会人コースの2つを検討しました。その結果、JAISTに行くことに決めたのが去年の話ですね。   ーいろいろ検討して決められたと思うんですけど、両立が大変そうだなって思っていて、社会人学生になる決断を下す上で、迷ったことや悩んだことってありますか? そうですね。自分のキャリアやライフステージが変わったりとかを考えると、30歳ぐらいまでにどうしてもキャリアを積み切らないとって思っていました。 たとえば子供が欲しいと思った時に、実質的に距離的が離れて学校に行けなくなったりなどですね。そんなことを考えていると早く行かないといけないってずっと思い込んでいました。自分の中で焦りがあったため、社会人をやりながら大学に行く人を紹介してもらいました。   ーそうなんですね。お会いした方の中で印象的なお話はありましたか? はい。海外のデザインスクールに行く女性の方がいて、その方はお子様がまだ1歳ぐらいだったかな。その女性は子どもと夫を置いて、留学に行っていると知った時ですね。   「そういうやり方もあるんだ!」と年齢や環境は言い訳にしかならないと気づきました。やっぱり自分のやりたいことにチャレンジした方が悔いが残りませんし、自分の30代のキャリアにも絶対いいなと。いったん国内の大学院に行って、留学制度を使って海外に行くとかも無理ではないっていうのにいろんな人の話を聞いて気づけた。   ー松薗さんは社会人学生として、好きを貫く選択をしていると思うのですが、年齢が思い込みだったと気付いた後にいくつになっても大学院に行けると先延ばしする人も多くいます。自分の好きなことを今やろうと思った理由はありますか? そうですね。悩む暇があるならまずやってみるみたいなところはあります。実は、研究としてこういう領域をやるのが好きっていう自信はありません。それよりも早くやりたいことを試した方が、向き不向きを早く知ることができるのかなと。自分の好きなことを仕事にした方がいいのか。それとも学術的に極めた方がいいのかを早く判断したかったのが理由です。   ー松薗さんのこれからのビジョンについてお伺いできますか? 実は、正直先のことをあまり考えることがありません。っていうのもその時に、自分の興味ややりたいことが変わるからです。だから今はテーマを色々変えつつも、UXリサーチャーを極めたいと思っています。 業界を代表できるようなUXリサーチャーになりたい。もし学術的な方が面白ければ、博士課程も受けてみたいですね。とにかく今は先のことを考えず、UXリサーチャーを極めていく時期だと考えています。   ー今はプロフェッショナルを極めていきたいと考えつつも、先のことは気の向くままに進めていきたいということですね。本の執筆もされているとお伺いしたのですが、プロフェッショナルを極める中での一環というイメージでしょうか? UX デザインの本は結構出てるんですけど、海外発のものを訳したものが多いんです。知識を受け取るだけじゃなくて、自分が培ってきた知識を世の中に発信していきたいなとずっと思っていました。実際にUXリサーチャーを1年ほど経験し、知識や経験が溜まってきた自負があって、そこでとあるご縁で本の執筆の機会をいただけたという感じですね。   ー松薗さんの、今後の挑戦に期待しています。本日はありがとうございました! === 取材:中原瑞彩(Twitter) 執筆・編集:サトウリョウタ(Twitter/note) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

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