今回は、合同会社Yaoを立ち上げ、代表を務める中川ももさんをお招きしました。
これまでのキャリア、今後の活動の可能性について伺います。
日本にまだないブランド・カルチャーを広めたい
–現在の仕事内容を教えてください。
合同会社Yaoを立ち上げ、3人のメンバーと共に運営しています。ガーナで製造から販売まで行われているアフリカンファブリックを、現地の大手メーカーから仕入れ、日本で正規販売店として販売しているところが特徴です。
「新しいアフリカンファッションを作り出す」という思いを持ち、先進的なデザインと高い品質が評価を受けている現地のWoodin社と取引をしています。
–事業や取り組みを通じて伝えたいこと、実現したいことを教えてください。
アフリカ布に出会ってから、たとえ(現時点で挑戦した先に想像できる)将来が不確実でも、未来へのワクワクを指針としてアフリカ布ブランドを立ち上げ、身を投じることを決めました。その後、アフリカ布ブランドを立ち上げたことで得られたさまざまな出会い、経験があり、人生が変わりました。
遠いアフリカの地にあるアフリカンファブリックという存在、誇りを持って作っている人々、オリジナルの洋服を楽しむ文化を、より多くの方にも知っていただきたいと思っています。
また、この仕事を通して日本の繊維産業のことを知り、自分の国の愛すべきところや課題について真剣に考えたり政治や経済のことを知ろうとしたりするきっかけを得て、今後に向けて自分にできることを考え始めました。
私たちが、日本の技術で、アフリカ布製品を作り、届け続けることが社会への貢献にも繋がるようにしていきたいと思っています。
中学生から志した航空業界。就職直前で進路に急展開
–学生時代のご自身のことを教えてください。
祖母が音楽の先生をしていた影響もあり、小学生の頃は合唱部に所属していました。年に3回程度あるコンクールや発表会に向けて朝と放課後、土日の半日は熱心に練習をし続けていました。
目には見えない無形の価値を大人数と共に作りあげていき、互いのバイブスが重なり、納得できるクオリティを出せた時にはやりがいを感じました。
中学生になってからはバスケ部に入部し、年に2回ある大きな大会や練習試合に向けて朝と放課後、土日の練習、合宿に取り組みました。
–高校生以降の進路はどのように考えていましたか。
先輩からのいじめを受け、学校に通えない時期が1年半ありました。当時は楽しみがない日々を送っていて、今でもほぼ記憶がなく…その頃の唯一の楽しみが航空業界を舞台にしたテレビドラマでした。
中学3年生になり、学校に復帰してからはテレビドラマで見た航空業界に進むことを目指し、日本航空大学校の附属高校の受験を決意しました。
高校入学後は飛行機が学校の中にあるような環境で航空業界に関する授業を受け、部活動は柔道部のマネージャーを務めていました。
日本航空大学校に入学すると授業の専門性が高まり、実務演習の他にも語学や手話コミュニケーションなどを学ぶ機会も用意されていました。航空業界をより身近に感じられる環境だったものの、高級業界に就職すること自体が目的になっていったことに違和感を覚え、次第にワクワクするような気持ちがなくなっていきました。
それでも5年間寮生活を共にした仲間たちとは家族のような関係性となり、互いに支え合いながら暮らしました。
–就職活動を行っていた当時のことを教えてください。
入学してすぐ就活が始まると、ありがたいことに先生方から期待していただき、グランドスタッフ職の内定を頂くことができました。一方で、本名として目指していた大手航空会社の選考は2次試験で落選し、落ち込みました。
–アフリカ布との出会いは、いつ頃、どのような場面だったのでしょうか。
同じ時期、小学校時代からの友人がセネガルへ留学に行き、SNSでアフリカ布の写真をあげているのを目にしました。一眼見て「かわいい…!」と感動し、直感的に「日本の人に知ってほしい」と思いました。
長期的に取り組めるような目標を持てたのはこの時が初めてで、私にとっては将来への希望に感じました。
–航空業界からアフリカ布…大きな進路変更ですね!
「自分が(日本で)アフリカ布を広めるんだ」と決意してからはビジネスを学ぼうと考え、経営者のそばで働ける機会を探し出しました。
企画書を手に持ち、「アフリカ布を広めるために、ビジネスを学びたい」と伝え続けたところ、ある名古屋の会社に拾っていただくことができました。
日々熱心に取り組んでいたものの、新型コロナウイルスの影響を受け、業績が低迷してしまい…「このような状況で自分が居続けることが会社の負担になってはいけない」と考えて退職を申し出たと同時に「これからは自分でやろう」と決断しました。
–その後はどのようなことから動き始めたのですか。
まず、アフリカ布に興味を持った当初から関連ブランドのSNSを見てリサーチを行っていました。アフリカ布を扱う店舗に出向いたり関連業界の方に会いに行ったり…イベントに参加したりなどを通して業界コミュニティで認知していただくところから注力しました。
アフリカ布には模倣モノがあり、不透明なものを扱い、広めていくことはしたくないと考え、調べていくと(現在取引を行っている)Woodin社の存在を知りました。同社製品は現地では高級品とされていて、その品質を理解し、伝えていくためには自分が学ぶ必要があると思い、繊維について調べたり現地への視察を検討したりし始めました。
日本の繊維業は高い技術や品質を誇るものであり、日本の戦後の復興を支えてきた産業でありながら、今は(産業として)苦しい状況にあることを知りました。日本のアパレル商品は国内で製造されているものはわずか2%のみ…とも言われているほどです。
そんな中で、どうにか日本にその技術や歴史を残していこうという思いを持っている企業の方や工場が今も残っています。愛知県、長野県にある現地の企業へ出向いて話を聞くと、希望を捨てず、使命感を持って産業を守り、良い製品を世に届けようとする方々がいました。
「日本人として、若い世代の1人として、これを見て見ぬふりをしてはいけない。私たちの時代で途絶えさせてはいけない」
そう思い、愛知県の縫製工場と業務提携の上、オーダーメイドによる(アフリカ布で作られた)洋服の製造・販売も行っています。
日本の繊維業×アフリカンファブリックで新ブランド構想
–これまでの経験を踏まえ、現在大事にしていることはありますか。
独立すると、時間の使い方をはじめ…さまざまなことを自分で決められるようになったわけですが、自由だからこそ自分を律する心や習慣が必要になることを痛感しました。日々自分と向き合い、内省を繰り返し、自分が前向きでいられる習慣、メンタルをコントロールする方法などを編み出していきました。
そうした中で、あるとき…作業やタスクに追われ、目指す明るい未来と日々業務に追われることのテンションの差、ギャップを感じるようになったことがありました。
それ以降は、ある程度の頻度でクリエイティブな時間を設けるようにしました。例えば私の場合は音楽を聴く、自然に触れるなど、自分の生命力を感じられたり感性を刺激されたりすることをします。
この時に湧いてくるビジョンやモチベーション、内発的な創造性こそ行動・発想の源になるんです。
–今後もご自身に根ざしたアイデア、意欲をさらに発揮し、これから挑戦していきたいと考えていることを教えてください。
日本の繊維業とアフリカンファブリックを軸としたブランドコンセプトを作っていこうと考えています。ブランドとしては、立ち上げ以来の大きな取り組みであり、変革のタイミングになります。
取材・執筆=山崎 貴大