今回は、鎌倉市教育委員会教育総務課教育企画担当に所属し、併せて一般社団法人まなびぱれっと 代表理事を務める小泉志信さんをお招きしました。
これまでのキャリアの歩み、教育業界で新しい取り組みを実現してきた原動力について伺います。
実体験を活かし、教育業界のより良い未来を考える
–仕事内容を教えてください。
鎌倉市教育委員会 教育総務課の教育企画担当で働いています。教育大綱作成や文科省事業などに携わっています。
教育委員会に身を移してみると、元々教員として働いていた頃とは異なる視点を得ることができ、より広く、解像度高く(教育を)捉えられるようになりました。また、「教員がパフォーマンスを発揮できている裏側には、こうした支えがあったんだ」と改めて気づき、今後教育の質が高まる土台づくりに貢献していきたいと思っています。
一般社団法人まなびぱれっとでは代表理事を務め、先生と先生以外の方々が混ざり合う場を提供しています。教員に対して居場所と成長機会を提供することで、教育業界がより明るいものになっていけると考え、取り組んでいます。
▽鎌倉市教育委員会
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kyouiku/kyouiku/iinkai/
▽一般社団法人まなびぱれっと
–仕事上、心がけていることを教えてください。
教育の最前線である現場で働く先生の姿を常に思い浮かべながら、「いかにして長期的な利益を生み出せるか」「最終的に最大幸福を生み出せる方法とは…」と考え続けています。その次に短期的な話題に入ることで、関わる方々と同じ未来を見据えながらギブしあえるようになります。
そうすることで、先生をはじめとしたさまざまな方々が幸せややりがいを感じるきっかけを作りたいと思っています。
コロナ禍・教員1年目に社団法人を新規設立
–ご自身の子ども時代のことで覚えていることはありますか。
子どもの頃は物分かりが良い方で、周囲の人から感じていた期待を背負って過ごしていました。期待に応えようと努力し、達成していく日々でした。その過程で苦しい時期があり、自分自身の価値を見失うこともありましたが、最終的には自分自身よりも周りの人の幸せを願うような考え方になりました。当時小学6年生だったと思います。
–子ども時代、学生時代に打ち込んでいたことはありますか。
進学校に通い、勉強と部活動を両立しようと励んでいました。勉強をおろそかにしないように注意しながら、学生時代の部活動では柔道とラグビーを経験しました。
入部した柔道部は全国大会出場歴を持つレベルの強豪で、初心者ながらも必死に食らいついていく日々でした。ラグビー部でも強度の高い練習に打ち込む毎日で、(学業も合わせて)朝から夜まで余裕の少ないスケジュールでした。
–教員を目指すにあたって、影響を受けた過去の経験はありましたか。
教員を目指した背景には、家庭環境の影響がありました。というのも、週末になると父の知り合いが家に集まるようになり、いつの間にか連れて来られた子どもたちの面倒を見るのが私の役割になっていたんです。今思えば、この頃から日常の中に「教育」があったのだと思います。
高校時代には、当時得意だった理系科目を活かして進学できる教育学部を調べて受験に挑戦。センター試験で思うような成績を残せなかったものの、先生と話す中で話題にあがった特別支援教育の文脈から東京学芸大学の試験を受け、合格しました。
進学後は、特別支援学級の補助や聴覚障害のお子さんに対する個別指導を経験しました。生徒個人への関わり方が磨かれた一方で集団への指導力にはまだ自信が持てず…考えた末に大学院進学を決断しました。
–教職大学院在籍時、卒業後に学校教員になることを決意した経緯を教えてください。
教職大学院に在籍している間に社会人や学生起業家と一緒に働く機会を得て、教育以外の領域で働く人材の優秀さを目の当たりにしました。たくさんの学びを得られたと同時に、彼らの一言が自分の決意を固めるきっかけになりました。
「本当に先生になるの?先生になったら苦労するだろうけど、大丈夫?先生は(起業家やビジネスパーソンとは違って)保守的な人ばかりだろうけど、自分の才能を潰してしまわないようにね」
私が見ていた先生たちは、決してそのような人ばかりではありませんでした。むしろ、真剣に学年や子どもたちのことを話し合っている姿はカッコよくて、尊敬できるものでした。
「なぜ、この姿が業界外に伝わらないんだろう」と疑問に思い、教育現場の現状把握をすること、現場で日々働く先生方と対等に対話ができる経験と関係性を築きあげるために教員になろうと決意しました。
–社団法人の設立経緯を教えてください。
前身となる学生団体を大学院時代に立ち上げていたのですが、その当時に関わりのあった後輩から連絡を受けたことがきっかけになりました。
「先生になったら今ある居場所を失ってしまうんじゃないか、繋がりがなくなってしまうんじゃないか…と考えると怖いんです」
コロナ禍で小学校1年生の担任を務めていたのですが、後輩が不安に思う声をそのままにはしておくことができず、一般社団法人まなびぱれっとを設立して先生と先生以外の方々が混ざり合う場の提供を始めました。
※今回の取材ではテーマと時間の都合上触れることができなかった小泉さんの教員としての活動内容については、こちらの記事でまとめられています。ご興味のある方は、本記事と合わせてご覧ください。
前例がない新しい挑戦に立ち向かうマインド
−教員1年目、コロナ禍ながらも決断できた理由を教えてください。
まず、自分自身のことを振り返ってみて、忙しく働いていた教員1年目に外との繋がりがパタっと途絶えてしまった経験があり、居場所が職場だけになってしまうことによるデメリットや大変さを実感していました。
次に、「他の人が歩んでこなかった道を新たに開拓することが、周りのためになるはず」「新たに切り開いた道を辿って自分より優秀な人たちが未来を形にしてくれるだろう」と考え、「教員2年目よりも1年目にやった方が大きなインパクトを残せる」と思いました。
大変な場面では、(大学時代に)特別支援学級に携わっていた頃に見た生徒の人間らしい姿を思い出すようにしていました。大切にしたいものを大切にする純粋な姿が印象的で、その素敵な一面をより多くの生徒、教育現場から引き出していきたいという気持ちが支えになってくれました。
–新しい取り組みを立ち上げていく推進力やスキルはどのように身につけてきたんですか。
スキルよりもマインド面の話になると思います。これまでの経験を振り返ると、周りの人たちが「成功確率が高いとわかっていることしかしない」という中で、私は「成功確率が低くても、できる」というマインドでいました。
なぜそう思えたのか…と言われると(言葉にするのは)難しいですが、「できる」と思える理由の中に「自分の能力や経験」だけではなく「周りの協力者の能力や経験」も踏まえて考えています。1人では実現が難しいことも「できる」と感じられ、ワクワクしてくるんです。
そうなると、まずは口に出して誰かに話すことでやらざるを得ない状況を自ら作ります。立ち上げた後は学生時代からこれまでの間の経験から培われた体力を土台として、目指すところに向けたトライアンドエラーを繰り返し、都度失敗していく過程から得た学びを次に繋げ続けるだけです。
–ご自身と関わる活動を通した今後の展望を教えてください。
教員経験を経て教育委員会に身を移しましたが、改めて「(現場で働く)教育者の力はすごい!」と思っています。全国に良い実践者がいて、日々愚直に汗をかきながら取り組んでいます。
ゆくゆくは教育関係者のやりたいことにヒト・モノ・カネが集まるようになり、先生のクリエイティビティが最大限発揮され、教育業界のために体を張り続けている方々の取り組みが報われる社会になっていくことを願っています。
取材・執筆=山崎 貴大