今回は、視覚障がい者柔道選手の田中司さんをお招きしました。
これまでのキャリアの歩み、パラスポーツとの出会いについて伺います。
障害を持っているから伝えられることがある
–現在の活動内容を教えてください。
会社に所属しながら、視覚障がい者柔道選手として活動しています。私にはスポーツの普及・発展や社会貢献をする役割があると思っており、具体的には自治体、社会福祉協議会とコラボして活動したり障害者採用に関するアドバイスを提供したりしています。
障がい者採用に関しては、当事者の目線から「もっとこうしていただけると、障がい者の方が仕事で活躍しやすいと思います。チームに定着しやすいと思います」という意見を伝えています。ここで重要なのが、障がい者がそれぞれ抱えている「できること」「できないこと」を明確に示すこと。それがわかれば協力したりできるのですが、周囲からみてわかりにくいことに加え、本人もできないことを言い出せないということがあります。障がい者を雇用する組織やチームの生産性向上のために、自分の経験をもとにしてお伝えしています。
柔道選手としてのキャリアはまだ浅く、2023年まで12年近く陸上競技選手として活動してから柔道に転向しています。
これまでに陸上競技を通して培ってきた知識や能力を土台としながら、柔道に特化した能力を鍛えているところです。全日本視覚障害者柔道大会では強化指定選手に勝利することができ、少しずつ自信と実践経験を積み上げています。
–学校へ出張授業に出向く機会もあると伺いました。
自分自身が中学生で視覚障がいを発症した時は困惑しましたし、周りにすぐに打ち明けられないまま抱えていた時期がありました。(自分の場合は)スポーツがあったことで救われたことがありましたが、同じように悩みや不安を人に相談できず抱えてしまっている生徒がいるんじゃないかと思っています。
当時の自分や今の時代を生きる生徒たちの気持ちになって、自分の経験から伝えられることを(出張授業の際に)話すようにしています。
「自分にも打ち明けられない悩みや痛みがあるが、相手に伝えることが大事だと分かった」というコメントをいただけると励みになりますね。私自身が挑戦する姿を通して、さらに勇気や元気を届けたいと思っています。
中学時代に難病を発症し、野球の道を諦めた
–子どもの頃のことを教えてください。
子どもの頃は徳島県にある小学校に通っていました。小さな町で、子どもがスポーツをするといえば、サッカーか野球か…という雰囲気でした。男子は野球をする子が多かったですね。
私は体を動かすのが好きで、放課後には公園に行って野球したりサッカーしたりしていました。よくアニメに出てくるような、バットを片手に自転車に乗っている子どもでした。小学校時代は野球漬けの毎日。チームメイトがそれぞれの役割を全うし、自分達よりも強いとされる相手に勝った時に野球の楽しさを感じていました。
中学時代には前評判を大きく覆して県で3位の成績を残すことができたのですが、その時もドラマチックな局面があり、その度に野球にハマっていきました。
–中学時代に発症した時のことを教えてください。
野球に打ち込んでいたので、当然のように「甲子園出場」を目標に掲げ、将来も野球に携わる仕事がしたいと思っていました。「もし選手として出場できなくても、応援団でもいいからあの場に行ってみたい」というほどには甲子園に憧れていて、進学先も当時考えられる中では最も野球部が強いとされる高校へ推薦でいく予定でした。
病気を発症したのは、その高校への入学が決まった後のことです。左目が見えづらいと感じ、病院へ行くとレーベル病との診断を受けました。叔父も同じ病気を高校生くらいの時に発症していて、難病とされる病です。頭が真っ白になり、「なんで、自分が…」と思いました。
病気が発覚したのは1月で、2ヶ月後には中学を卒業するという時期。一度は落ち込みましたが気を取り直し、地元のソフトボールチームを見学したり他の選択肢を探したりしていました。
それまでは野球に打ち込んできましたが、片目がほとんど見えない状態では高いレベルで野球を続けることは不可能でした。
–その後、どのようにしてまたスポーツに打ち込むようになられたのですか。
私が患った病は、まだ治療法が見つかっていないと言われる難病でした。それでも家族が治療法を探してくれて、鍼灸治療が効果的だという仮説に行きつきました。さまざまな病院を訪ねた末に、大阪にある鍼灸院に通い始めました。
その鍼灸院の先生が相撲部屋の親方を紹介してくださり、「相撲ならできるんじゃないか」と声をかけていただいたことをきっかけにその相撲部屋に入門することを決意しました。相撲教習所で指導を受けた後、両国で土俵に立ち、序の口勝ち越しというところまで成績を残すことができました。
–相撲から他のスポーツに転向したのはなぜだったのですか。
右目の視力が下がっていってしまい、その後に突発性難聴も発症してしまったのです。相撲をやめて地元に戻り、その後3年間は盲学校に通っていました。
今度は陸上競技を始めることになり、練習場所を探してたところ大阪にある障がい者スポーツセンターにたどり着き、投てきチームの一員として練習できる機会と場所を頂けることになりました。それからは投てき種目やり投げに挑戦し始めます。
その後、2018年頃から年々世界的にレベルが上がっていく中で、自分のレベルが追いつかなくなってきたと感じていました。そこで第一線を退くことを決断します。
最初から完璧な成果は求めず、試行回数を増やす
–柔道転向の経緯を教えてください。
相撲部屋に所属していた頃に入院したことがあり、大部屋でとあるおばあちゃんと仲良くなりました。今の状況を話したら、(そのおばあちゃんの)息子さんが障害者スポーツ協会で働いているという話になり、すぐに紹介すると言ってくれました。
当時は全盲に近い状態だったので、本を読むにもネット情報を見るにも、大変で。字を読むのにとても時間がかかり、あまりに労力がかかるために途中で諦めたくなることもしばしば。
ちょうど東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まる前の時期で、一般的に公開されていて検索できる情報があまりなかった頃だったのでとてもありがたいご縁でした。実際にお話ししてみると、「視覚障がいがあってもプレーできる競技はたくさんある」とのことでいろいろと教えていただきました。それから競技を柔道に転向します。
–これまでの経験から大事にしていることはありますか。
転機ごとにさまざまな方との出会いに恵まれて、その都度大事な学びを得ることができました。運やご縁というものもあったと思いますが、自分自身で心がけていたこともあります。
例えば、私がパラスポーツ関係者の方に会いたいと思ったとします。以前は、一発でパラスポーツ関係者の方に会える方法を探してしまいがちでした。今は多様な可能性を想定して「身の回りの方に相談すれば、誰かが繋がっているかもしれない」と考え、まずは日ごろからお世話になっている方に相談をします。
そうしてできることからトライして、自分が求めている情報よりも多くの情報や良き出会いにたどり着くのです。10人に相談してみてパラスポーツ関係者に繋がっている方はいなかった…という結末もあり得ますが、それでも行動する前に比べると10人が自分の活動や存在を知ってくれたことになりますよね。広報活動ができたと思えば、大きな収穫ですよね。
–今後の目標を教えてください。
まず、2028年にロスで開かれるパラリンピックへの出場を目標としています。
また、それ以外では子どもたちと接する機会を大事にしています。パラスポーツを通して視覚障がいのことを知ってもらうことで、ものの見方に変化をもたらしたいと思っています。それによって、好奇心が湧いてくるような新しい気づきを見つけられたり不安だったことに対する勇気が感じられたりすることがあると思うのです。
–読者へのメッセージがあれば、お願いします!
私はたまたま得意なことがスポーツで、スポーツ選手として生きてきました。これからも私自身が地道に努力を重ね、取り組み続ける姿が他の誰かの勇気、元気になればと願っています。もし周りに打ち明けられないことを抱えている方がいても、少しずつでもオープンにできれば、いつかきっと人生が開ける可能性はあると思います。諦めず、自分のペースで挑戦してみてください。
取材・執筆=山崎 貴大