人は“情報”では動かない。映像作家・久保田徹が感じる“体験”の価値

今回は、ドキュメンタリー映像作家の久保田徹さんをお招きしました。

これまでのキャリアの歩みとドキュメンタリー映像を制作する際に心がけていることについて伺います。

 

撮影者として見たもの、感じたことを映し出す

–自己紹介をお願いします。

神奈川県に生まれ、現在はドキュメンタリー映像作家として働いています。

慶應大学法学部在学中の2014年からロヒンギャ難民の撮影を開始したのがドキュメンタリー制作のスタートです。それ以来、BBC、 Al Jazeera、NHK Worldなどでディレクター、カメラを担当してきた他、社会の辺境に生きる人々、自由を奪われた人々に寄り添いながら静かにカメラを向け続けてきました。

–どのような映像をお撮りになるのですか。

〈ミャンマーの光と影〉-Myanmar and Democracy-
〈難民と入管行政〉-Asylum Seekers-
〈森友問題と遺族の記憶〉-Government Fraud-
〈東京リトルネロ〉-Tokyo Ritornello-
〈ドキュ・ミーム 社会運動としての映像〉-Docu Meme Shorts-

こちらのポートフォリオサイトを見ていただくと、それぞれの説明とリンクがあります。

https://www.torukubota.com/films

一見すると、日本人とはゆかりのない外国で起きていること、日本人の日常生活とは関係がないことのように感じるテーマもあるかもしれませんが、自身と関連がある部分を見つけながら鑑賞いただけたらと思います。

–映像を制作する上で心がけていることはありますか。

自分たちが制作しているのは、映像(フィルム、ムービー)。像を映すと書きます。撮影者がその目で見て、感じたものがあり、それらが映し出されているものが映像。例えば、小さな子どもの成長の様子を記録したホームビデオも映像です。そこには撮影者がレンズを通して見て感じたものがあり、それが映し出されています。

制作する際には、撮影者としての自分が反映されたものを作るようにしていて、無機質なものは撮らないようにしています。

 

留学中に見た映像と学生団体の出会いが転機に

–子供の頃はどんな生活をしていましたか。

小学生の頃は、神奈川県にある実家から電車で小学校に通っていました。(その小学校には)離れた地元から自分のように通学する子も多く、通学路を班で登下校するみたいなことはありませんでした。

中学〜高校は東京にある学校に通いました。高校時代には交換留学でアメリカを訪れ、日本人が周りにいない環境で過ごしました。キリスト教の教えに基づいて運営される学校で、日本人でありキリスト教にも馴染みがなかった自分は完全なマイノリティ。生活しづらい点も多く、日本にいては感じられない少数派としての体験を得られた期間でした。

–高校卒業後の進路はどのように考えましたか。

受験の際は一貫校の環境から抜け出て挑戦してみようと思い、大学を調べました。AO入試の際には、アメリカ留学中に見た映像で描かれていた「ロヒンギャ」のことに触れた小論文を書きました。

大学入学後、入った学生団体の先輩がロヒンギャのことを知っていて、意気投合。館林市にあるロヒンギャのコミュニティのもとを一緒に訪れました。当時はまだ現地の実情も知らないままで現実味が得られない感覚でした。

「どうして私たちがミャンマーを逃れて日本に来なくてはならなくなったのか。本当に辛い部分、苦しみをわかっていない」

その一言を聞き、実際にミャンマーに行こうと決心します。

同じ学生団体の3人で取り組んだ『ライトアップロヒンギャ』の制作を通して、国民として認められない民族の姿やそもそも民族がどのように作られているのかなど…を深く知る機会になりました。

–2018年頃、映像制作が仕事になり始める時期がありますが、どのような経緯から仕事を得ていったのでしょうか。

90年代のミャンマーに留学していた経験を持つ映像作家岸田浩和さんと共に仕事をさせていただくようになり、映像制作の仕事で自活するようになりました。

ミャンマーで制作したドキュメンタリーをYahoo!ニュース個人及びYahoo!クリエイターズに掲載したり、VICEやAl Jazeeraなどの会社から映像制作の仕事を請け負うようになったのもこの頃です。

–2019年、ロンドン芸術大学の修士に進学した経緯を教えてください。

海外の作品の方が映像として幅広いものがあると感じ、修行しに行く気持ちでロンドンへ行きました。

しかし、新型コロナウイルスの感染拡大があり、一時帰国。現地に戻れないとなってしまい、ひとまず休学することにしました。

世間は自粛ムードで、自分自身としても今後どうしていこうかと考え込んだ時期でした。それでも映像を撮るべきだ考え、制作を再開。ドキュミーム(DocuMeme)というプロジェクトを開始し、NHK BS1スペシャル『東京リトルネロ』を制作しました。制作過程ではドキュメンタリー制作者の松井至さんと内山直樹さんと共に働き、常にフィードバックを頂くことで自分の成長に繋がった転機になったと感じています。

その後、内山直樹さんは日本各地の伝統工芸の職人の技と歴史についてのドキュメンタリー制作も行っています。

–2022年、ミャンマー現地の国軍に拘束されてしまったことがあると伺いました。当時のことを教えていただけますか。

2021年2月、ミャンマーでクーデターが起き、政権トップのアウンサンスーチー国家顧問ら政府高官が次々と拘束されました。それに対して、市民らは大規模な抗議活動を始めます。

僕の友人たちも逮捕され、行方がわからなくなった人も多くいました。クーデターが起きて1年半が経ち、現地の友人のことが気がかりだったことに加え、「彼らの姿を映すことで、ミャンマーの現状を伝えることができるのではないか」と思うようになりました。

2022年7月にミャンマーに入り、ミャンマーの都市ヤンゴンで国軍への抗議デモを撮影しに行きました。その撮影中、乗用車から軍人と思われる私服の男性2人が降りてきて、ライフルを突きつけられ、そのまま拘束されてしまいました。その後、扇動罪など3つの罪で計10年の禁錮刑が言い渡され、111日間を獄中で過ごし、解放されました。

▼拘束〜獄中の生活について語られたインタビュー

https://dot.asahi.com/articles/-/211135?page=1&fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTAAAR1CX8zXH_3GTvJlPm1YXLRCsecxxxKg6r4Eh1MPDwkKd0Fb8E4z9wVceqM_aem_AceyjBEnbsc2jOjKtbNZ3qjPm3wDWs5ahTEcJuNe9OhFQXxFHquanBXLRZvTfKWQlBV-mHcDEmGg3dSVuCLlRWYc

–困難や試練があった時、映像制作を続けようと思える気持ちを支えているものは何ですか。

何の仕事をするにも大切なことだと思いますが、「誰に向けて、何をしているのか」を常に考えています。僕には、「この人のために撮ろう」と思わせてくれる現地の友人やこれまでの出会いがありました。

また、50年後に見た時にもまた心を動かされるような本質的なものを映し出したいと考え、追究し続けています。

 

当たり前が崩れ、再構築される時に成長する

–これまであらゆる経験を身をもって得てきたと思います。自分の目で見て、体験することで得られる一次情報にはどんな価値があると思いますか。

人間は、結局は情報では動かないものだと思います。物事の根幹から少し距離を取った「情報を得る」というスタンスでいると、それによって簡単に切り捨てられてしまう大切なことやエゴによる思い込みが入ってしまうことが多くあります。

自分の身をもって感じないとわからないことがたくさんあり、(感じたことを自分の身に取り入れることで)それまでの自分にとっての常識や当たり前が崩れ、再構築される時に人は成長し、感度を上げていくものではないではないかと思っています。

–今後実現したいこと、展望を教えてください。

2023年からミャンマーのジャーナリストを支援するプロジェクト「ドキュ・アッタン(Docu Athan)」を開始しました。ミャンマーで撮影され編集されたドキュメンタリーなどを公開しているほか、現地の映像作家やジャーナリストへ金銭的な支援をしたり使われなくなったカメラやSDカードなどの寄贈を日本で呼びかけ、無償で貸し出す取り組みです。

「ドキュ・アッタン(Docu Athan)」を通して、「映像を通して経験を分かち合うことで何が生まれるか」「映像を媒介にして何ができるのか」というところを突き詰めていきたいと思っています。

 

取材・執筆=山崎 貴大