アスリート引退後、デザイナーに転身。スポーツ&ビジネスに通用する北山ありの思考法

今回は、フリーランスのWEBデザイナーとして働く北山ありさんをお招きしました。

これまでのキャリアの歩み、アスリートからWEBデザイナーに転身したきっかけについて伺います。

 

アスリート引退後、フリーランスデザイナーに転身

–仕事内容を教えてください。

フリーランスのWEBデザイナーとして、デザイン全般の仕事を請け負っています。

スポーツ業界、伝統芸能業界、音楽業界 などさまざまな業界からお仕事を頂いていて、アスリートの名刺作成をはじめ事業やイベントに関するチラシ作成、HP制作、ポートフォリオサイト制作、SNS投稿のクリエイティブ制作、バナー制作、ファンクラブ運営のサポートなどを担当しています。

単に画像を作る役目として関わるのではなく、世界観の統一、情報の整理などを行った上で、目的に対して最も適した手段とクオリティを実現するために関わっています。

–アスリートの方も名刺を持っているんですね。

アスリートが名刺を持っているイメージはあまりないかもしれませんが、とても必要なツールです。メディアやSNSを通してアスリートの発信力が高まっていて、現役引退後のキャリアも考えなければならないとなった際、「自分が何者であるか」を示すものとして名刺は必ず必要になります。

アスリートの方にご相談を頂く際には「自身の影響力をより広く届けていくために名刺は必要です」と伝え、その方の今後のビジョンに沿ったデザインをご提案しています。

–やりがいを感じる瞬間はありますか。

元々は空手の選手で、実業団所属時代は物流業界に身を置いていました。当時はスポーツであれば空手、ビジネスであれば物流業界のことしか知りませんでした。

現在の働き方を始めてみると、仕事を通して空手以外のスポーツ、働いたことがない業界のことを知ることができ、自分の視野が広がっていくことが面白いです。

また、熱量を持って挑戦している方々と仕事を共にでき、その方々の役に立てることがひとつのやりがいになっています。例えば、プロバスケットボールチームのクリエイティブ制作の仕事のケースですと、元々はクリエイティブ制作を社内で行っていたそうです。私に任せていただくようになってから、「制作スピードが上がり、ファンに対してタイムリーに情報を届けることができるようになった。ファンが喜んでくれている」という声をいただけるようになりました。ファンとクライアントの両方を喜ばすことができ、とてもやりがいを感じました。

さらに、熱量を持ってスポーツに関わる方々と想いを理解し、真剣に話し合いながら仕事をできていることもやりがいになっています。

–仕事を通してどのような価値を届けたいと思っていますか。

私自身空手選手として打ち込んできて、人生かけて戦う選手たちをそばで見てきました。結果、成績を残せた人だけが生き残れる厳しい世界であり、メダルを取れてもその先のキャリアが保証されているわけではありません。

シビアな環境を戦い抜き、見る人に感動を与えてきたアスリートが身を置く歴史あるスポーツの業界が、より持続可能な形で盛り上がり続けていくことを願っています。そのために、選手としてではない別の形で自分ができることで貢献し続けたいと思っています。

–アスリートの方がビジネスをはじめとした他業界へ挑戦するケースが増えていますね。

芸能関係の方が芸能活動以外の仕事をすることが珍しくない時代になりました。一方、アスリートがスポーツ以外のことをやると良い印象がないのは、なぜだろう?と思うことがあります。(業界内に身を置いているので)ある程度の事情や状況はわかりますが、アスリートも24時間練習し続けられないですよね。練習以外の時間もあるじゃないですか。それをどのように使うかは自由であり、むしろその時間の使い方次第で以降のキャリアが大きく変わると思っています。

自分以外の何かに寄りかかってしまうような形ではなく、自立するために、将来のために現役アスリートが挑戦する時間をもっと作りやすかったらいいのに…と感じています。

 

環境を変え、新しい基準に合わせて成長してきた

–子ども時代、学生時代を振り返って、転機だったと感じる場面はありましたか。

東日本大震災は大きな転機になりました。幸いにも家族はみんな助かり、親族も元気でしたが、祖母の家が流され、実家も半壊になりました。

その日地震が起こった後には、私は中学校近くの避難先で待機。父は消防団の一員として自転車で周りに避難を呼びかけて回っていました。兄と母は合流していて、やがて避難所で兄と再会できました。

その頃外では、隣町では火事がひどく周りは赤く輝き、見慣れた町は津波で跡形もなくなり、車がひっくり返ってブザーが鳴り響いていました。

あの時死んでいたら今はない…と思うと、「たった1回の人生だからやりたいことをしよう」と考え方がシンプルになり、やらない後悔は無駄だと思うようになりました。

–どのような理由・経緯で大学を選びましたか。

小学校2年生から兄の影響で始めた空手が当時の軸でした。

県外からのオファーもあったのですが、高校までは地元(岩手県釜石市)で過ごしました。

その後空手選手としてレベルアップできる環境、体育の先生になる夢のために資格を取れる環境を求めて、県外の大学を選びました。

–在学中はどのように過ごしていましたか。

大学2年生の時、岩手県で開催される国体に向けた強化練習が始まりました。岩手県代表のチームのスペシャルアドバイザーとして参画していたのが、当時の帝京大学の監督。週の半分ずつ、日体大と帝京大学の練習に参加し、土日もその監督のもとで練習に打ち込むようになります。

日本代表選手ばかりがいる練習環境に入ると、「周りのレベルに追いつかなければ…」という気持ちになり、次第に自分のレベルも上がってきました。

臨んだ国体での成績は準決勝敗退…と優勝はかないませんでしたが、準決勝で対戦した選手との出会いがひとつの転機となりました。

–大学卒業後の進路はどのように考えていましたか。

その方は、(私が指導を受けていた監督が所属する)帝京大学の卒業生であり、日本を代表する選手でした。しかし、実業団に入って1度だけ代表から外れてしまった時期があり、翌年日本代表に復活。その復活した年が、ちょうど岩手国体があった年でした。私はその方と代表復帰の背景に興味を持ちました。

「高校年代から日本代表に選出されてきた中、一度代表から外されてしまうのはショックだったはず。そこから、どうやって復帰していったのか」

本人の精神面をサポートできる体制や環境があったのではないかと考え、ご本人に聞いたところ…まさに所属していた実業団の環境が支えになったとのことでした。それを聞き、自分もその実業団で空手を続けようと心が固まりました。

–独立の経緯を教えてください。

実業団選手を引退後、会社員として働きながら日体大のコーチをしていました。

日体大のコーチをしたくて東京に転勤してきたものの、会社員として拘束されている時間が長く、なかなか練習に出向くことができない日が続きました。仕事のために生きている感覚が強くなり過ぎていると自覚しながらも、とはいえコーチだけでは生活が成り立たない…と悩んでいました。

「自分で生活できるようになれば、自分で時間の使い方を選択できる」とも考えましたが、私の人生は空手に賭けてきたもので、空手以外には何もありませんでした。一方で、「今できること」はあまりなかったけれど、「何をしていきたいか」は考えられると思いました。

「これまでは自分のために頑張ってきて、周りに目を向けることは少なかった。周りのために何かできる人になりたい」と思い、「ゼロから何かを立ち上げることが好き」「何かを作り出すことが好き」という性格を活かしながらコーチ業と両立できるような仕事がないか探し始めました。

デザイナーは自分の強みを活かせると気づき、デザイナーの先輩に話を聞きに行きました。そこからデザイナーとしての知識やスキルを身につけ、デザイナーとして独立することになりました。

–独立後はどのように仕事を得ていきましたか。

独立する前、SNSで「次はこういうことやります」と発信していました。まだ学んでいる身のうちから、知り合いづてに興味がある人を募り、名刺作りから仕事を頂けるようになりました。

仕事を頂き始めてからは、自分で自分のことをわかりやすく発信していくことを大切にしていました。オンラインではポートフォリオを充実させ、SNSも活用しました。アカウントを通して発信できるSNSは無料の広告と言えます。

オフラインでは、さまざまな機会に飛び込んでみました。対面で話すからこそ築ける信頼関係があり、その関係性を土台に「自分が何をやりたいのか」「どんな人に会いたいのか」を伝え続けていました。一方で、私も相手の話を聞きながら、ご紹介できそうな人がいればお繋ぎしていました。

そうしたことをしていると、カフェの立ち上げを手伝う機会を頂いたり音楽業界の仕事を頂いたり…と広がっていきました。

 

昨日の自分より成長できれば、1年で365歩前進できる

–葛藤した時代はありましたか。

さまざまな転機がありましたが、思い出されるのは実業団時代ですね。当初なかなか成績が出ない時期がありました。このままでは環境を与えてくれている会社に顔向けできないと思い、追い詰められていました。自分の中でどれだけどん底の状況に耐えられるか、とシミュレーションをして最低でも三年間は出し切ろうと決めました。1年目は伸び悩んだものの、二年目に入ると世界大会で優勝することができ、調子が上がってきました。

自分がここで潰れずに済んだのは、日本代表レベルでコーチをしてきた方々が寄り添って支えてくださったおかげです。ご自身のコーチ業も忙しい中なのに、嫌な顔をせず、付き合ってくれました。 

–ご自身の経験から学び、今も大事にしていることはありますか。

メンタルの部分や考え方の部分など、いくつかあります。

1つ目としては、自分を否定しないこと。人が自分を否定したくなる時というのは、周りと比べてしまう時が多いです。比較自体が悪いことではありませんが、比較の仕方や相手を間違ってはいけません。

私自身も意識し、後輩選手にも伝えているのが「昨日の自分と比べよう。昨日の自分より何かひとつでも良くなっているのであれば、1年を通して365歩分成長・前進できているんだ」ということです。

そういう見方をすると、自分に成長実感をもたらすことができ、自信になります。

2つ目は、目標を小さく作ること。大きな目標から逆算し、小さな目標を立て、日々の行動に落とし込むことでこれまでの目標を達成してきました。スポーツからビジネスに足場を変えてからも、同じく意識しています。また、一度定めた目標や方向性はその後変えてはいけないということはありません。違うと思ったら、何度でも定め直していいものです。その試行錯誤の過程にこそ、学びがたくさんあると思います。

3つ目は、壁に対する捉え方。壁というのは、必ずしも登って乗り越えなければいけないものではないと思っています。避けてもいいし、隙間を見つけてすり抜けていったっていい…。「常に全力」「真っ向勝負」がいつも正しい訳ではないので、ここぞという時以外は柔軟に対処すればいいんです。

4つ目は、「わからないことは、すぐに聞く」。もともとわからないことはそのままにしておけない性分でした。漠然としていてわからないことがあれば分解して理解しようとしたり、専門性が高くてわからないことがあれば詳しい人に聞いたり自分以外の人に頼ったりしてきました。そうすることで、自分が停滞する期間を短くして、継続的な成長を実現できたと思っています。現在も仕事において同じ姿勢で臨んでいます。

–今後の目標や展望を教えてください。

冒頭でも触れましたが、自分が長く身を置いているスポーツ業界を盛り上げることに貢献していきたいと思っています。私が今できる「デザイン」では限界があるので、今後はマーケティングスキルプロジェクトマネジメント経験を身につけ、スポーツと地域創生に貢献できる幅を広げていきたいと思っています。

 

取材・執筆=山崎 貴大