様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第891回目となる今回のゲストは、平日はOL、週末はグラフィッカー山内 あかり(やまうち・あかり)さんです。
小さな頃から感受性の高さに悩まされてきたあかりさん。そんな山内さんが、ベトナム・インドでの経験や人との対話から、新しい価値観を軸にして自分自身を受け入れられるようになった過程についてお伺いしました。
グラフィックレコーディングは自分の頭の中と似ていた
ー自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか。
平日は好きな会社で働き、仕事終わりや休日にグラフィックレコーディング(グラレコ)を行なっている、あかりと申します。よろしくお願いします。
ーそれぞれの具体的な内容について伺えますか?
平日に働いているのはIT系のプロジェクト単位で動く会社です。メンバーが必要に応じて意思決定を行うティール型組織のため、いろいろな立場の人がひとつの目的に応じてプロジェクト単位で集まり仕事を進めることが多いですね。
グラレコでは3つの活動を行っています。1つめはコミュニティの中で行われる授業・講演の内容を記録すること、2つめはインタビュアーと組み、インタビューの内容を描き起こすことです。
最後は「あなたの人生、絵にします」という個人での活動です。人の人生・キャリア・旅の経験を描いています。
ーITと絵のお仕事は毛色が違うなと感じるのですが、それぞれの決めたきっかけを伺えますか?
現在の就職先を決めた理由は「この会社で働くと、私が生きたい世界に近づけそうだな」と思ったからです。「この先どうやって生きていくことが一番自分にとって幸せなんやろう?」と考えたときに、旅を続けてもいいし、バイトをしてもいいと思っていました。
せっかくこの時代の日本に生まれることができたのだから、会社組織に所属して働く体験をしてみるのもおもしろいかなと思い就職しました。
どんな人も存在が承認されるような社会になったらいいなと思っているので、自分の考えにつながるビジネスモデル・組織形態を探して決めた会社です。
ー次にグラレコをはじめたきっかけはありますか?
大学の授業でグラフィックファシリテーションの方が来校される機会がありました。告知で貼り出されていた絵を見たことがグラレコをはじめたきっかけです。
見た時に「自分の頭の中と一緒だ」と衝撃を受けました。授業は教育実習があり出られなかったのですが、この絵を描いた人に会いたいと強く思い、教授に頼み込んで授業とは別で講座を受けることができました。
ーグラレコを仕事にするためにどのような活動をしていましたか?
絵を描くことに自信がなく、コンプレックスに思うこともあったほどなので、仕事にしようとはまったく思っていませんでした。描きはじめようと思ったきっかけと、今も続けられているのは印象的な言葉があったからです。
グラフィックは「人の感情の深層部分に触れ、言葉になっていないものを色や形、イラストで表現をしていく手法である」と学びました。
学びから「言語化はできないけど、青い気持ちとかぐちゃぐちゃな気持ちとかは小さい頃の私にもあったなぁ」と思い出しました。色や形で寄り添ってもらえていたら当時の自分ももっと楽だったなと。
過去の自分に今から会いに行くことは難しいですが、これから先、人や自分に対して言葉だけではなく色や形で寄り添える人になりたいと思いました。寄り添いたい思いから派生して、結果的にできることや、価値が加わり、現在の仕事に繋がっています。
日々感じるものに不安を抱え、抵抗したかった幼少期
ー小さい頃のお話がありましたが、どんな子どもでしたか?
感受性が強い子どもでした。
小学1年生の時に腕がない人を見て強く衝撃を受けて体調が悪くなったことがあります。自分の反応に対しても差別的だとショックを受けました。
友達の家で遊んだり、ショッピングモールに行ったりする楽しい時にも、衝撃を受けるものを見たらどうしようと常に不安を抱えていました。
ーどういったものに衝撃を受けていましたか?
衝撃を受けていたものは自分と違いすぎる人や、街にあるカビ、ゴミの塊、いつか自分も死んでしまうという事実。日曜日の午後から雨が降った時の悲しさや、冷たさ、何も理由がないのに悲しい、怖いといったすべての事象です。
ー具体的なものではなく、あかりさんの気持ちに対して衝撃を受けることが多い印象を持ちました。小学生の間はずっと不安が続いていたのですか?
日常に衝撃的なものが溢れすぎていたので、小学生の間は見てしまったらどうしようと不安で怖い気持ちを常に抱えていました。
その状態では生きづらかったので、小学生なりに「感じない」「大丈夫」と自分に言い聞かせていました。感受性をあえて鈍くすることで、すべてを受け止めすぎないように、無意識に感受性の調整をしていたと思います。
ー感受性の調整をやめるきっかけはありましたか?
大学生の時にベトナムの戦争証跡博物館と孤児院に行ったことがきっかけで変わりました。実際に訪れて感じたことは「生きるとは何で、死ぬとは何なのか?」という疑問です。
ひどい怪我や障害を負わされて生きてた人々の写真・展示を目にした時に「心臓が動いていたら、それは生きているのか?」「何をもってして生きるといっていいんだろう?」と疑問が湧きました。
戦争の影響で重度の障害をもつ子どもたちに会った時も、「私が生きてきた環境だと子どもには未来がある、という価値観があるけど本当にそうか?」「この現実を見てそれでもなお、私は生きるっていいって言えるのか」と。
いろいろな思いが湧き上がって、涙がとまらなかったです。