表現活動で「心震える瞬間」を。小田 紗友理が皆に届けたい、豊かな人生とは。

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第863回目となる今回は、小田 紗友理(おだ さゆり)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

小学校教員として勤務するかたわら、表現活動や場づくりに取り組む小田さん。そこには、「心震える瞬間」を皆に届けようとする、まっすぐな姿がありました。

表現活動との出会い

ー自己紹介をお願いします。

新潟県新潟市在住の小田紗友理です。新潟市で小学校教員をしています。教員以外の活動としては『100人100日ミュージカルプログラム』や『50人の先生チーム(JUMPER!!)』など、表現活動を軸とした場づくりをしています。

ーなぜ教員になろうと思ったのですか?

私の身内に教育関係者がいるからです。私は国語、算数、理科、社会よりも図工や体育、音楽といった表現や、行事が大好きです。

小学校の思い出といえば、運動会や合唱などの行事であることが多いと思います。私は、普段の授業はもちろんですが、子どもたちの記憶に残るような経験をさせたいと思っています。

ー教員は忙しいと伺いますが、どのようなバランスで活動されていますか?

残業がよくあるため20時ごろまで教員の仕事をして、帰宅したら活動の連絡を見ています。土日が忙しいときもありますが、そうでなければ活動しています。活動が趣味になっていますね。

ーここからは小田さんの人生を振り返ってお話を伺います。小田さんはどのような子どもでしたか?

幼いころから目立ちたがりでした。小学生のときは姉が入っていた応援団や吹奏楽部に入って活動を始めました。姉に対して憧れと対抗心があったのです。中学校でもそのまま吹奏楽と応援団を続けました。

高校ではダンス部に入りました。ダンス部に入ろうと思ったのは先輩が踊っている姿がとてもかっこよかったからです。しかし、運動音痴な私では上手くいかないだろうと思いました。体験入部で部員の半数は初心者であることを知り、思い切って入部を決めました。

ーダンス部ではどのようなことをしていましたか?

ダンスの練習をしたり、発表会に出たりしていました。その中でも特に創作ダンスの大会に向けて振付を考えるのが好きでした。一つひとつの振付に意味を持たせて、踊りを通してメッセージを人に伝えようと努力しました。

「感動したよ」という感想もたくさんいただいて、「ダンスには人を感動させる力がある」ことを学んだ高校時代でした。

ー大学生になってからはどのようなことをされましたか?

1年の浪人期間を経て入った埼玉の大学では、児童発達学科に所属していました。

大学ではダンスをしようとは思っていませんでしたが、先輩を送り出したり、新入生歓迎会を開いたりするときには、ダンスの振付を考えて踊ることもありました。いろいろな場面で踊っているうちに、やっぱりダンスは楽しいと気づいたのです。

残りの大学生活が2年しかないというときに見つけたのが『コモンビート』でした。

コモンビートとの出会いと新潟での活動

ー『コモンビート』とはどのようなものでしょうか?

ミュージカルサークルです。私は子どものころからミュージカルに憧れていました。大学生になってから、素人でもできるサークルはないかと探していたときに見つけたのがNPO法人コモンビートでした。コモンビートでは100人のメンバーが、100日間で作り上げるミュージカルのプロジェクト(100人100日プロジェクト)を行います。

はじめて参加したときに、観客が2000人も入る大きなホールでミュージカルを行うと聞いて私は驚きました。練習の雰囲気はよく、年齢を問わずみんな仲の良い感じだったため入会しました。

ーコモンビートに入ってみていかがでしたか。

コモンビートには年齢や職業、学歴、性別の壁を超えた空間がありました。具体的にいうと参加者自身のバックヤードを知るアクティビティや、世間での出来事について考える対話の時間がありました。ミュージカルの練習だけではなく、教育的要素を大切にしているプログラムでした。

活動を通して舞台上での表現はツールでしかなく、「人と人とつながること」や「お互いを知る」ことに重きを置いていると気づきました。そのことにとても共感したのを覚えています。

この団体に入ったころの私には学歴コンプレックスがあり「こんな自分なんか受け入れてもらえない」と思っていました。しかし実際には違って、暖かく受け入れてもらえました。「ここにいていいんだ」と思えたのがありがたかったです。

ー大学卒業後はどのように過ごされていましたか?

東京で何年か働いて、コモンビートの方々との縁を活かして視野を広げることは自分の人生を豊かにするのではないかと思うようになりました。

その後、新潟に帰りコミュニティ探しをしましたが、「コモンビート」のような関係性の団体はありませんでした。「コミュニティがないなら作れば良い」と気づき、コモンビートの活動を新潟でも広げようと思いました。

新潟でもコモンビートを立ち上げたら、同じようなマインドを持つ人が100人集まるはずだと思ったのです。

ー決心したあとはどのように進んでいきましたか?

東京でミュージカルをしていた弟や、仲のよい友だちが協力してくれると申し出てくれて。その流れでコアメンバーを集め、コモンビートの事務局にも許可をいただきました。新潟でもコモンビートを立ち上げたいと申し出たのです。

その後、県内のイベントや新聞やラジオなどのメディアで宣伝させていただきました。模索状態でしたが少しずつメンバーを集めていき、無事にホールも確保できました。

ーメンバーは何人ほど集まったのでしょうか。

集まったのは76人でした。100人集まらなかった悔しさはありますが、ほとんどゼロからのスタートと考えると、よくがんばったと思います。本番には3400人程度の集客がありました。満員に近い集客でしたが、青少年無料招待の枠もあったので、少し悔しさの残る、大成功だったと思います。

このプロジェクトを1回で終えるのはもったいないし、地元に根付かせたいという強い想いから、2年後に2回目の公演を行うことにしました。最高のスタッフ陣で、キャストも100人以上集まったのですが、2020年はコロナ禍の影響で中止になってしまって。表現活動は不要不急だとする世間の流れもあり、あきらめかけていました。