計画は立てるが依存はするな。教員・小貫寛哲の人生の行動指針とは

ベトナム転勤を目標に新卒の会社に入社

ー実際に社会に出てどうでしたか。

絶望しました(笑)。自分はなんでもできると思って会社に入りましたが、何もできなかったのです。僕は物覚えもよいほうではありませんし、気の利かない社会人だったので先輩や上司から怒られることが多かったです。

ー絶望の社会人と書いています。具体的に聞いてもいいですか。

僕は2つ理由があると思っています。

1つめは会社の雰囲気と社風が想像していたものと違っていたからです。僕は会社の国際グローバル開発部に配属されました。僕のイメージではインターナショナルで活発な雰囲気を想像していたのですが、実際は英語を話せる社員は数人で、常に上司の機嫌を伺いながら仕事していました。そのことに対する違和感は強かったです。

2つめはベトナムで日本語の先生をすることができなくなったことです。僕はグローバル開発部に入った後、ベトナムで日本語の先生をするキャリアプランを描いていました。

しかし、入社して半年目にベトナムの日本語教師のポジションがなくなってしまって。入社前に描いていたキャリアプランが狂い、会社に入社した意味を見失いました

ーその会社は10ヵ月で退職されたのですか。

そうです。次の進路が決まってから退職しようと考えていたときに、岡山支部への転勤の話が出たんです。今、岡山に行ったら会社を辞めるタイミングを見失うと思い、会社を辞めました。

当時は不安でこの決断が正しいかわからない状態でした。恩師の言葉にあった「それが失敗なのか成功なのかわからないけど歩きながら考えるしかない」です。

ー先生から教えてもらった言葉ですね。

この言葉が今でも残っているのは学生時代よりも社会人になって歩きながら考えるシチュエーションが多かったからです。社会人になると突然転機がくるため、歩きながら考えることを常に意識していました。

アメリカに渡り日本語教員として1年間働く

ー会社を辞めた後はアメリカに行ったと伺っています。

そうです。アメリカに行ったのは会社を辞めた後、高校時代の親友からアメリカで日本語教育に関する勉強をして先生になるプログラムを紹介されたことがきっかけです。ダメもとで応募してみたら受かり、アメリカに行くことになりました。まったく想定してなかったので、アメリカ行きが決まったときは自分でも驚きました。

ミズーリ州のセントルイスで勉強し、教員としてサウスカロライナ州オレンジバーグに派遣されました。生徒の95%が黒人のユニークな大学でした。

ーアウェイな印象を受けましたがいかがでしたか?。

アウェイでした。全校生徒が約2000人の小さな大学で日本人は僕1人。上司は日本語どころか語学の先生ですらない政治学の方でした。英語も話せないなか、右も左もわからない状況で授業をするのは大変でした

ープログラムで学んだことと実際に働くのは違いましたか。

まったく違いました。僕が日本語を勉強したのはワシントン大学のセントルイスで、アメリカの超名門大学でした。そこで研修を受けて教育実習もしました。授業を受ける学生は言われたこと以上をする学生だったため、教員としてはやりやすかったです。

一方で、僕が派遣された大学は一族で初めての大学生や、宿題をしたことのない学生などでした。試行錯誤しながらオリジナルのプログラムを作る生活は大変でしたが、楽しかったです。