中国をもっと身近に。ちゃおず代表・範東洋彦が、負と感じていたルーツを強みにするまで

仲間外れの原因となった中国ルーツが武器になると直感する

ー中学へ進学してからのお話をお聞かせください。

中学でも名字が珍しいことや、中国出身ということから「なんで?」と質問されることがよくあって、精神的にどんどん孤立していきました。

中学2年になると違う居場所を求め始めて先輩とつるむようになり、徐々に道を踏み外していきました。学校外の人ともつながることで仲間意識をもち、学校も行かなくなって……小学校の頃は母親を召喚していたくせに、中学校になって母親を泣かせて衝突する機会が増えましたね。

ー道を踏み外した中で、高校の進路はどのようにして決めたのですか?

中高一貫校だったので自動的に高校へ進学したのですが、16歳のときに中退して。「もう高校は行かなくていいや」と思っていたときに、父親から佐賀県の最南端にある学校を紹介されました。

佐賀に15〜16年住んでいても聞いたこともないような、佐賀市内から電車で1時間半、往復で3時間ほどかかるところでした。ロン毛に茶髪の状態で受験会場へ行き、無事に受かり、その高校へ行くことになったのです。

ー新しい環境で過ごしてどうでしたか?

すごく良かったです。1年生の頃はまだ強がっている自分がいて、入学式の日に高3の先輩を呼び出したり、先生から何度も指導を受けたりしました。ただ、サッカー部の監督と出会ってから人生が一変しました。

ー具体的にどんな出来事があったのか教えてください。

私は小学生から中学生までずっとサッカーをやっていて、入学前からサッカー関連で私のことを知っていたサッカー部の監督が、入学式の日にいきなり「とよひこ!サッカー部入ってよ!」と話しかけてきたのです。他の先生は生徒指導モードで話しかけてくる中で、その先生だけはひとりの人間として接してくれているような気がしました。

ずっとサッカー部に入れと言われて「嫌だ」と断り続けていたのですが、学校でソフトボールのクラスマッチをしたときに僕が横跳びでキャッチすると、先生から「素晴らしい横跳びだ。キーパーしろ!」と言われて。キーパーだったら走らなくていいし楽そうだなと思い、サッカー部に参加するようになりました。

先生も同じ佐賀県内に住んでいたので、一緒に学校へ向かう中で距離が徐々に縮まり、気がつくとサッカー部のキャプテンに就任していました。責任を任された使命感から、不思議と勉強もきちんとやるようになり、なんと体育祭でも実行委員長をしたのです。結果、絵にかいたような青春時代を送ることができましたね。

ー高校時代、進路はどのように決めたのですか?

ここでもまた父親が登場します。久しぶりに上海から仕事で帰ってきた父親と進路の話をしていると、突然「社長になってみない?」と言われたのです。その言葉は当時の自分にすごく刺さって、純粋に「社長ってかっこいいな」と思いました。

中国ルーツに対して今まではうしろめたさを感じていたけど、それを活かして世の中に価値を提供できるのではないかと思ったのです。そこで、経営学科がある「国立佐賀大学」へ進学するため必死で勉強し、合格しました。

やると決めたらとことん研究。スーパーの餃子を食べつくす

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ー大学生活はいかがでしたか?

もともと起業したくて大学に入ったので、大学1年のときにまずは中国語の講座で起業しましたが、1日100件ほど家を回って営業したものの挫折。その後、中国語を活かして佐賀で何かしたいと思い、地域の観光協会へ行って相談しました。

そこで「今度地域のイベントがあるから出店してみない?」と誘われ、何で出店しようと考えたときに「水餃子だ!」と思ったのです。5歳から家で作っていたし、中国式の餃子は茹でて提供するので油も飛び散らない、粉から生地を作るという売りもある。それが水餃子の起業のはじまりです。

当時大学のプログラムで台湾留学があったので、餃子留学のために行くことにしました。2ヵ月という短期間でしたが、スーパーにある餃子コーナーの左から右まで食べつくしたり、有名店へ行って餃子と台湾茶の組み合わせを試したり、毎日研究していました

ー留学後はどのように過ごしていたかお聞かせください。

台湾の餃子留学を終えてすぐに、佐賀の駅前で水餃子のお店をオープンしました。学生でありながらお店の営業もあったので、大学のテストが終わったお昼に学校を抜け出して、お店のランチ営業をしてまた学校に戻ったりしていましたね。

それから規模を大きくするために餃子の工場を出したり、ふるさと納税の返礼品に採用されたり、百貨店やスーパーとの取引が出てきたり……法人として設立する目途が立ってきたので、大学4年のときに「東洋プロダクト株式会社」を設立しました。