あえてリスクをとれ!苦手な営業から逃げずにCOOまで駆けあがった安田翔のハック術

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第719回目となる今回は、株式会社営業ハックのCOO安田 翔(やすだ・しょう)さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

いまでこそ営業支援会社でCOOを務めているものの、もともと営業が苦手だったという安田さん。営業から逃げることなく挑戦し続けられたのは、学生時代の冒険的な経験から「あえてリスク」をとることの大切さを学んだからでした。

営業支援会社のCOOと中国人向け日本語教師のシナジー

ーまずは自己紹介をお願いします。

営業支援事業を展開する株式会社営業ハックのCOOを務める安田翔です。営業ハックでは、主に3つのサービスを展開しています。

ひとつは、営業代行。もうひとつは営業人材の紹介。そして、営業の知識やノウハウを伝える営業研修事業。最近では、3つのサービスを合わせて総合的なコンサルティングを提供するケースも増えてきました。サービスを通して、クライアントの「営業の悩みをゼロにする」ことを目指しています。

また、本業とは別に、副業で中国の方に日本語を教えています。

ーどのような経緯で日本語を教えるようになったのでしょうか?

大学在籍時に中国に留学したり旅行したりしていました。現地の方と出会い、助けられた経験から、何か恩返しをしたいと思うようになったのです。現地の人から「日本語を教えてほしい」と声をかけてもらうことも多かったため、副業として日本語教師を始めました。今ではオンラインで常時6、7名の生徒さんを教えています。

本業の営業活動で学んだコミュニケーションを生徒さんへの指導のなかで生かせることもあります。逆に副業で学んだことも本業で生かせるシーンも少なくありません。本業と副業のシナジー効果を生み出すことを常に意識しています。

リスクをとることで得られるものがある。計画のない中国旅で学んだこと

ーより詳しく安田さんのご経歴を伺っていきたいと思います。人生で最初のターニングポイントとなった出来事はありますか?

自分のキャリアを語る上で欠かせないのは中国での経験です。中国に興味を持ったきっかけは父の勧めでした。「これからの時代は中国語を学ぶべき」というのです。当初は中国自体に興味を持てず乗り気ではなかったのですが、試しに旅行で連れて行ってもらった上海でイメージががらりと変わりました。

ー例えばどのような点に魅力を感じましたか?

中国の路上を歩いている人、商店を開いている人、誰でもみんな声が大きいのです。自信が内向的な性格だったこともあり、堂々と話をする中国の人が対照的に見えて、自分もこうなりたいと思いました。

ーそこから中国語を学び始めたのですか?

中国人の知り合いや友人もいなかったので、ひとりで勉強をし続けることは困難でした。将来的にどのように役立つかも実感を持てず、高校時代はあまり語学勉強に身が入りませんでした。大学を選ぶときも、特に中国を意識することなく工業大学へ進学します。ところが今度は工業の勉強が手につかず、中国語の勉強にハマることになったのです。

ーそのきっかけは何ですか?

大学の講義で中国語を選択できたことも理由のひとつですが、一番影響が大きかったのは、自分が住んでいた学生寮で大勢の中国人留学生と仲良くなったことです。学んだ言語を身近な人とのコミュニケーションに生かせるという実体験が、もっと勉強したいという意欲を生んでいました。そのうち、友人のひとりから「地元に来てみないか」と誘ってもらい、夏休みを利用して中国へ留学することにしたのです。

その夏は3週間ほどしか滞在できなかったのですが、その後も何度か中国を訪れ、長いときは半年間ほど留学しました。長期留学のときは、現地でSIMカードを購入したり銀行口座を作ったりと、本当の意味で中国で生活をするための言葉を学ぶことができました。

ー中国でチャレンジしたことはありますか?

1ヵ月ほどかけ、北はハルビンから南は上海まで、中国を縦断しました。

当時、中国へ留学する日本人学生は年々増えていました。ただ語学勉強に行くだけでは、何も残すことができないと思い、中国を旅しながら日中の友好に貢献するような活動をしようと考えたのです。

旅費を工面するために、日本と中国の両方でクラウドファンディングを実施し、10万円ほどの資金を集めました。

ークラウドファンディングを成功させた秘訣は何ですか?

在学時からYouTubeやFacebookで中国関連の情報を発信し続けていて、一定のフォロワーがいたため、そこで支援を呼びかけたのです。

両国の架け橋になることを目的とした旅だからこそ日本だけでなく中国でもクラウドファンディングを実施しました。中国から日本への送金やネットアクセスに制限があることから、中国のサーバーに自分でサイトを作ったりもしました。

ー旅のなかで印象に残っているできごとはなんですか?

北京から天津まで約130kmの道のりを歩いて行こうとしたときに熱中症になってしまったときのことです。マップで調べれば、徒歩で27時間ほどかかる距離でした。

北京から離れるほどに人気がなくなり、工場と車しかないような田舎町が続くようになりました。ちょうど夏だったこともあり気温は40度近くまでに達し、水も持っていません。付近に売店もなく、ついに熱中症になってしまったとき助けてくれた人がいました。天津まで車で乗せていってくれた彼のおかげで、今も生きていられるのだという感謝の念は消えません。

ほかにも、中国語の聞き取りがまだまだできていなかったために、電車のチケットを“座席なし”で購入してしまい、13時間以上も混雑する電車で立ちっぱなしだったこともあります。大変なことはいろいろあったけど、今となってみれば楽しい思い出ばかりです。

旅の計画を詳しく決めることはせず、ホテルの予約もしてなかったので、道中は不安とワクワクがない交ぜでした。しかしその分多くの出会いがあった。あえてリスクをとることで得られるものがあることを学びました。

ー帰国後はどんなことをされましたか?

中国で学んだこと、経験したことを人に伝えたいという想いが強まり、ネットでの活動を継続していました。すると日中の友好団体に声をかけていただき、地元の北海道から岡山や福岡などで講演に呼ばれるようになったのです。

より大勢の人に体験を伝えるために『ごく普通の大学生が書いた夢の見つけ方』という本も出版しました。自分と同じような年齢の方で、夢を持つことを諦めてしまっている人をターゲットにした本です。いろんな大学の図書館に問い合わせて書架に置いてもらいました。ときには、ほかの大学の友達を巻き込んで入荷リクエストを送ってもらったこともあります。