100人で100歩!日東社の大西 潤が語る、家業を継ぐまでの軌跡

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第646回目となる今回は、日東社 大西 潤さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

現在家業である日東社で勤務されている大西さん。家業に戻られるまでの経緯や、今後の展望について語ります。

家業の影響ではじめたテニスで、全国大会出場

ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。

株式会社日東社の大西 潤と申します。

弊社は本社が兵庫県の姫路にありまして、1900年にマッチの製造会社として創業されました。現在は紙おしぼりやウェットティッシュなど様々な商品を製造販売するほか、国内外で屋内テニススクールを運営しているノアインドアステージ株式会社など様々な事業を展開しています。

私はこちらの2社を家業として継ぐ予定の5代目です。よろしくお願いいたします。

ー大西さんはどのような学生時代を過ごされたのですか?

家業がテニススクールを営んでいることもあり、母に勧められて4歳からテニスをはじめました。テニスは個人スポーツなので、自分でかかげた目標を達成することに面白さを感じています。

対策を練って練習に励み、目標を達成する。振り返ってみると、目標までのプロセスを進むことと結果を得ることで満足感を得ていましたね。様々なスポーツを経験しましたが私にとってテニスは一番得意であり、小学生の頃から全国大会への出場も経験しました。

ー全国大会まで出場されたのですね!そのままテニスは続けられたのですか?

結論から申し上げますと、中学3年生のときの大会をきっかけにイップスになり、テニスを辞めようか迷うほど落ち込みました。

※イップス…スポーツの動作に支障をきたし、突如自分の思い通りのプレー(動き)ができなくなる症状のこと。

硬式テニス部が強い中学校に進学し、中学3年生のときに団体戦で全国大会の決勝まで勝ち上がりました。5本勝負の中、最後に私が勝てば優勝という局面で、うだるような暑さのなか通常1時間程度で終わる試合が4時間以上も行われ、私も相手も限界の戦いでした。

最終的には勝つことはできましたが、身体的にも精神的にも極限まで戦った影響で、その後試合はおろか練習ですら打てなくなってしまったのです。

ーテニスができなくなってしまったのですね……。

そうですね、イップスに気がついたのは高校1年生の4月の大会でのことでした。

1年で一番大切な兵庫県予選でのできごと。本戦の1回戦でランキングでは自分のほうが上の同級生に当たりました。練習ではなんとかできていたもののいつもなら勝てる相手に力及ばず、自分はもうテニスができないと自覚しました。

どうすれば打てるようになるか考えたとき、今まで結果を残していたシングルスからダブルスをメインプレーに転向することを決意しました。打てなくなったのは利き腕である右腕(フォアハンド)だけだったので、高校生では主にコートの半分だけを使用するダブルスに転向して左腕(バックハンド)をメインでつかう技術を高めていったのです。

ーシングルスからダブルスに転向されて、一番大きな変化は何でしたか?

一番大きいのは、団体戦に関しての考え方がまるっきり変わったことです。

実は中学生でキャプテンをしていたとき、個人戦の延長線上でしか団体戦を考えていなかったのです。団体戦は5本勝負なのですが、強いチームメイトばかりだったので一人ひとりが頑張ればそれでよいと考えていました。

ですが高校生でイップスになりダブルスに転向してまわりを見たとき、チームメイト一人ひとりの力が合わさることがチームの勝利への第一歩だと気づいたのです。そこからは勝ち上がっていくためにどのように練習していくかをみんなで話し合い、キャプテンとしてチームメイトと進むことができ、高校でも団体戦で全国大会ベスト4に輝きました。

テニスコーチの経験から、「利他の心」を学ぶ

ー高校卒業後は大学進学をされたとのことですが、どのように進路を選ばれたのですか?

中高大一貫校に通っていたのですが、内部進学でなく関東の大学に進学しました。

理由は2つあって、1つは受験をするなら内部進学先より2ランク先の大学を目指したいと考えたからです。もう1つは祖父と父の影響がとても大きいということです。

先代である祖父も父も、兵庫県内の大学に進学して卒業後すぐに家業に専念しているのです。もちろんそれも選択の1つですが、私は住んでいる地域や会社だけでなく他の世界も知りたいと感じました。「人が変わるには付き合う人を変える・住む場所を変える・時間配分を変える」という言葉を聞いたことがあります。私にとって関東に出ていく選択は、自分にとって正解だったと思っています。

ー大学で上京されたのですね。大学生活はいかがでしたか?

大学でもテニスをプレイしたいと考え、関東で大会準優勝したこともあるテニスサークルに入会しました。

サークルは部活と違い、テニスに専念するというより勉強や遊び、アルバイトなどを両立しながら切磋琢磨するものでした。キャプテンになったときには、出身地も価値観もバラバラなメンバーの方向性を統一する難しさを感じたものです。

ー大西さんもアルバイトをされていたのですか?

はい。家業であるノアインドアステージでアルバイトをしていました。

入学した年にノアが大学の近くにできたとのことで、その新規校のコーチから突然「テニスコーチをやってくれ」と連絡が来たのです。そのコーチは、私が小学校6年生のときに新入社員研修で入社当初姫路にいたときに毎週練習してくれていたんですよ。そのつながりでまさか在学中に自分の家業の会社に入るとは思いませんでした(笑)。

ノアのアルバイトで、様々な考え方をするメンバーに出会ったり、ノアが大切にしている考え方を学べたりできて、とてもよい経験をすることができました。

ー大学生でテニスコーチを経験されたのですね!コーチをする上で大切にされたことはありますか?

お互いの長所と短所を理解した上で、みんなで進んでいくことを大切にしていました。

テニスコーチは専門家の集まりなので、もちろんテニスの技術は大切です。ですが、しっかりとお客様とコミュニケーションを取り、ニーズをくみ取って教えることでお客様感動を実現します。

父が若い頃は仕事人間で、とにかく数字・結果しか見ずに仕事をしていたようです。ですがある時を境に周りとコミュニケーションを取るようにしたところ、みるみる内に業績が上がったのだそうです。

ノアの行動指針に「利他の心」という言葉があります。人間誰しもが自分のことを最優先にしがちです。父の話を聞いて、働く上で「誰かのために」と考えて動くことは非常に大切なことだと改めて感じました。