「自分のものさしで生きていく」 梅ボーイズ 山本 将志郎の葛藤と挑戦とは。

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第617回は、梅ボーイズの山本 将志郎さんです。

大学から薬学の道に進み、製薬会社に勤めることを考えたり、社会人になるまでの間にニュージーランドへ留学をしたり、周囲も羨む外資系のコンサルティング会社に内定が決まったりしていた山本さん。しかし、その多くが、周りの評価に従いながら決めたことだったといいます。

「自分はどうありたいのか」と考え始めた中で、気づいたこと。そして、梅ボーイズとして活動することになったきっかけとは何なのか。ぜひ、最後までご覧ください。

負けず嫌いだった幼少期

ー簡単に自己紹介をお願いします。

和歌山県で梅干し屋をしている山本 将志郎です。
現在は、地域の若手梅農家さんと共に「梅ボーイズ」という名前で、活動しています。

梅ボーイズの名前の由来は、就職前のタイミングに、全国を周りながら兄が作った梅を広める活動をしていたのですが、そのときに一緒に回っていた子から「チーム名をつけたほうがいいね」と言われました。そして、その子が野球をやっていたこともあり、「梅ボーイズ」という名前に決まりました。


ーなぜ、その子と回ることになったのでしょうか。

その子は高校生だったのですが、担任の先生が紹介してくれました。梅干しをその子にあげた時に、「とてもおいしい。この梅を一緒に広めたい」と言ってくれたので、彼が高校を卒業するまで一緒に回ることになりました。


ー梅ボーイズの話も気になるのですが、ここからは山本さんがどのような幼少期を歩まれたのかお聞きできればと思います。ご自身でどんな幼少期を過ごしてきたか、教えていただけますか。

今と変わらず、負けず嫌いな性格でした。2つ上と4つ上に兄がいたのですが、何をしても幼少期は負けることが多く、ゲームで負けたらコンセントを抜くなど負けず嫌いだったなぁと思いますね。

学校の勉強も全く同じで、テストって点数が出ますよね。一学年50人くらいの小さな学校ではありましたが、誰にも負けたくないから頑張るという気持ちで、学年一位をひたすら目指していました。

ー中学校からテニスをしていたそうですが、そのテニスがきっかけでターニングポイントを迎えたそうですね。

住んでいるところが和歌山の田舎なので、3つくらいしか高校を選べず、入部した硬式テニス部は県全体を見ても、決して強いわけではありませんでした。そのため、部活内で一番の実力だったとしても、県大会では負けてしまいました。

でも、他の部員は、負けたとしても自分以上に悔しいと感じていなくて、悔しさを覚えたとしても、練習はそこまで本気でやっていませんでした。そのため、もっと頑張りたいけど、どうすれば他の部員がテニスを頑張るのだろうかと、孤独を感じながら考えていました。

感覚で決めた薬学の道

ーうまくいかない状況に歯がゆい思いをされていたのですね。そんな試練を経て、21歳に薬学の道に進まれるそうですが、山本さんはなぜ薬学の道に進んだのでしょうか。

大学は、北海道に行きたいから北海道大学(北大)を選びましたし、北大は入学してから学部を選ぶことができるので、薬学部を選んだ理由は、かっこよさそうだなという感覚で選びました。

ー研究がお好きだったのでしょうか。

もともとやったことはないのですが、研究自体は好きで、研究をはじめてしてから、性格としても合っていたんだと思いました。研究はコツコツ一人でやるため、チームプレーも必要ではなかったですし、ひたすら実験して失敗してを繰り返すものなので、研究室に週7で閉じこもって、研究をしていました。

ーその中でしんどい出来事もあったそうですね。

3年生から研究室に入って、研究にのめり込んでいくうちに、成果が出始めて、先生から褒められるようになりました。「薬を作れたらかっこいいな」と理想を抱いて大学に行っていたので、論文を発表して成果が生まれても、薬ってできないんだと思ったり、深夜まで研究をする生活が続いてしまうのかと思ったりしました。

先輩たちは製薬会社や薬局で勤めていたのですが、製薬会社に入っても自分の携わった仕事や薬が、世の中に出ることってほとんどないそうで、しかも、製薬会社で働き始めると、一つの仕事をずっと行う “縦割り社会” になってしまうと聞きました。

就職に向けて、製薬会社も見学したのですが、つまらなそうだと思いながら、日常の実験を遅くまでやる日々。そこで、これは何に繋がるんだろうという気持ちになっていました。

夢のニュージーランド生活のはずが…

ーその後、23歳のときにニュージーランドに行かれたそうですね。

大学院1年生で、就活がスタートするタイミングに、製薬会社で働くのはつまらなそうだと思いつつ、先輩たちもそこで働いているし、そこで自分は40年くらい働いていくのかと、ある程度納得して就活をしていました。

製薬会社の研究所は静岡に多くあるので、40年くらい研究者として静岡で暮らすのかと思いつつ、少しくらい遊びたいなと思い、1年休学をし、ニュージーランドで遊ぶことにしました。

研究室の教授からは、就職が不利になると反対されましたし、休学でなく現地の大学の研究室に留学すればいいのではないかと言われましたが、遊びたいという気持ちが強かったので、休学という形をとりました。

理系の学生で1年休学をするというのは珍しいことでしたが、製薬会社に勤め始めると1年休むということもできないし、海外に住むこともできないと考え、理想を抱いてニュージーランドに行きました。

しかし、実際のニュージーランド生活は、楽しくなくて。おしゃれなカフェで働くことが夢だったので、かなり英語を勉強して現地へ行ったものの、英語の理解ができなかったんです。現地でアルバイトするには、日本のようなウェブ申請ではなく、働きたい人自らが履歴書を持って回る形で、面接することになっていました。

50店舗くらい履歴書を持って回ったものの、1店舗も面接すら受けさせてもらえませんでした。英語が喋れなかったため、結局、日本人が経営していて、職場も日本人しかいないお寿司屋さんで働くことになり、ひたすら100円寿司のようなものを握る仕事をしていました。

給料が安く、物価が高いので、お金が貯まらず、ここで自分は何をしているんだろうと思い、この生活が耐えられませんでした。そして、ニュージーランドに1年逃亡したつもりがそこでの生活に耐えられず、半年で日本に逆逃亡しました。

ー半年で日本に戻られたのですね…。日本に帰ってきてからは、どうでしたか。

日本に来て悪かったこと、良かったことがそれぞれあって。悪かったことは、研究のことを全て忘れていたので、とてもコミュ障になっていたこと。一方でよかったことは、日本では何不自由なくコミュニケーションができたので、なんでもできるというメンタルに変わったことでした。

海外にいた時は分からないことを聞くことも、その人の時間をこれ以上奪っていいのだろうかと考えてしまい、知りたいことが聞けなかったり、やりたいことができない場面が多かったのですが、日本だと言葉が通じるので、なんでもできるじゃんと思えたり、分からないことがあれば聞けばいいでしょと捉えることができました。

これまでは、製薬会社しか見えていなかったですし、5年間薬学を学んでいたから製薬会社にいくしかないと思っていましたが、自分が抱いた“なんか違う”という違和感を大切にしながら、なんでもできるし好きなことをやればいいというマインドになったことで、視野が広がりました。

でも、製薬会社以外の企業を知らなかったので、まずは就職ランキングを調べることにしました。そして、自分の中でイケてる企業だった楽天から受け始め、他の企業を受験し、いくつかの会社から内定をいただきました。そして、最終的には、外資系のコンサルティング会社に就職しようと決め、そこで勤める気持ちでいました。

内定をいただいた会社に入社できることを、多くの友人が祝福してくれたのですが、ある友人から「その会社に入れたことはすごいんだけど、そこで将志郎自身はどうなりたいの?」と聞かれ、どうなりたいかなんて考えていなかったことに気がつきました。

職業としてコンサルタントになりたいと決めていたものの、人としてどうなりたいのかを考えていなかったので、友人の問いをきっかけに、自分がどうなりたいかを考え始めました。

考え始めて気がついたのは、高校や大学を選ぶときは偏差値で選んでいたことです。

高校や大学は偏差値ランキングの中で、自分の実力で一番いけそうなところを選んでいましたし、就職に関しても、就職ランキングの中から選んだりしていました。だから、何がやりたいのかを選んだことがなかったんです。

どうなりたいのか、どんな人生を歩みたいのか聞かれたときに、何も決まっていなくて、このまま周りの評価に従いながら生きていくのは虚しいなと思い、考えるようになりました。


自分の実現したい社会に向けて


ーそんなときに、お兄様の一言が大きかったそうですね。

何をやりたいのか考えた時に、社会を変えていけるリーダーになりたいと思っている自分がいました。わたしには梅農家をやっている兄がいるのですが、梅農家をやっていても、自分の栽培した梅が甘い味付けの梅干しになってしまうし、どの梅干し屋さんでどんな商品になっているか分からないから、育てがいが薄くなっているんだよねと言っていたんです。

そこに共感し、自分と親しい人の社会を変え、良くしていきたいなと思いました。そこで、就職までの1年間で何か出来ることはないかと考え、兄の育てた梅を漬け、販売し始めることにしました。

ーそれが、梅ボーイズとして全国をまわるきっかけだったんですね。
全国をまわり始めたのは、梅干しを作り始めてからどれぐらいのタイミングだったのでしょうか。

出来てから半年くらいでしょうか。札幌の小さなマルシェで販売し始めるところからスタートしまして。

売り上げが5千円くらいからのスタートで、買ってくれたら嬉しい気持ちになるものの、変えていきたいのは農業なのに、このままではいけない…と思い、まずは自分たちのことを日本中に広めなければと考えました。でも、手段が分からない…。そこで、日本全国をまわることにしました。

ーどれぐらい続けられたのでしょうか。

最初は2ヶ月のつもりでスタートしたものの、4ヶ月かけて日本を回り続けました。日本を回ったことをきっかけに、梅ビールを作ることにもなるなど、さまざまなつながりが生まれましたが、中でも、一番大きかったのは、買ってくれる人の顔が分かることでした。

現在は、ネットでも商品を購入できるため、どんな人が買ってくれるのかが直接分からないことが多いですが、実際に買ってくれる人が分かり、すごい熱量で話してくれる人がいたことで、こんな気持ちで梅干しを買ってくれているのかという気づきを得られました。

ー梅干しを作ってから、自分の軸のようなものが見つかったのでしょうか。

それまでは、安定していて高収入がいいという“社会のものさし”に従って生きてきたのですが、社会的な評価によって決断するのではなく、自分が実現したい社会に沿って、やりたいことを実現すること。そして、その様子を発信し、仲間ができ、その仲間たちと一緒に社会を変えていくのが自分にとっての幸せな状態だと思うようになりました。

やりたいことに従うことも、発信することも、自分の感情を表すことも苦手でしたが、失敗しても成功しても、一緒にいる仲間と「失敗したね」とお酒を飲みつつ言えればいいのかなって(笑)


ー梅干し屋の方は、どれぐらいまで展開していますか。

取り扱っていただく店舗が増え、北海道を中心に、全国では100店舗ほどになりました。
お店を回るたびに、名刺と梅干しを一粒添えて営業をしていったのですが、「日本の良いものを残していこう」というマインドを北海道の店舗の方は持っているせいか、取扱店舗の半数近くが北海道になっています。


ー山本さんが作る梅干しは、他の梅干しと何か違う特徴があるのでしょうか。

スーパーで売られている梅干しって、ほとんどが“調味梅干”といい、梅干しの塩分を抜いてから甘い調味液で味付けするものなんです。そのため、塩分濃度が低く、甘くて食べやすいものの、わたしが後世に残していきたい梅干しは、酸っぱくてしょっぱい、梅本来の味がする梅干しなので、わたしが作る梅干しは、梅と塩と紫蘇しか使っていません。今は、そういったシンプルな梅干しがスーパーでは手に入らなくなってしまったんですよね。


ー最後に、山本さんの今後の展望を教えてください。

今までは兄が作った梅を、漬けて販売していたのですが、今年からは地域の若手農家さんとチームを組んで、地域を巻き込んだ形として、農家初のブランドを作ろうと考えています。

梅干しは梅干し屋が作っているため、梅農家は自分達の梅がどの梅干しに使われているかが分からないんですよね。それだとお客さんの特徴も分からないので、梅農家が一緒になってブランドを作ることで、自分たちが作っている梅干しを発信できます。

なので、まずは今年ブランドを立ち上げて、今後はそれを拡大させていきたいなと思います。

ー山本さん、今回は素敵なお話をありがとうございました!今後のご活躍、応援しています!

取材者:渡邊 眞雪(Facebook
執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter
デザイン:安田遥(Twitter