20代はとことん挑戦。nowhere代表・酒井大輝が思う暮らしの大切さ

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第621回目となる今回は、nowhere株式会社代表・酒井大輝さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

ミュージシャンとして活躍し、今は渋谷で焚き火を眺めながらシーシャが楽しめるCafe&Bar「BUTTER tokyo」を経営している酒井大輝さん。今までの経験を通じて暮らしに重きを置いて過ごすことの大切さを話してもらいました。

溶けるをテーマにシーシャ屋『BUTTER tokyo』を経営

ー簡単に自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか。

nowhere株式会社代表の酒井大輝です。今は去年の5月に渋谷で火を見ながら深呼吸できる場所が欲しいなと思って作ったシーシャ屋さんを経営しています。今年はシーシャ屋さん以外にもいろいろ展開しようと仕組みを作っている最中です。

ー元々シーシャ屋さんのような場所作りをやろうと思っていたのですか。

構想したのは2020年の10月ぐらいです。それまでは音楽しかしていません。日本一のミュージシャンになると思って生きていたので、まさか20代後半はこんな展開になるとは思っていませんでした。

ー今の事業はどんなところにこだわりがあるのでしょうか。

「焚き火のあるシーシャ屋さん」で展開してるのがこだわりです。既存のシーシャにもう少し自分のスパイスを加えようと思いました。

「自然の中で焚き火しようよ」と伝えても、忙しかったり時間が合わなかったりする方がまわりにいたのです。好きなところに連れて行くのは自分の傲慢かなと思いつつも、焚き火の価値には自信を持っていました。

東京の大都会の渋谷で、火を見ながら深呼吸できる場所があったらみんな来てくれるんじゃないかなと思い、「深呼吸する手段」としてシーシャがとても適していると考えたのです。

ー名前の由来を教えていただいてもよろしいでしょうか。

「溶ける」をテーマにしています。自分のお店に来た人は1人で空間に溶けていてもいいし、前の席の方と話すことで関係性が溶けることもあっていいと思ってます。

ぼくらが始めるときはまだシーシャに怖い、アングラなイメージを持ってる方が多くいました。シーシャのイメージをも溶かすようなスタイリッシュな空間を作りたいと思ったときに、溶けるものを表す『バター』になりました。

ー事業のやりがいや楽しさを教えていただけますか。

自分がずっとミュージシャンだったので、自分を好いてくれる目の前の方々とコミュニケーションを取れる仕事はずっと続けたいと思っていました。いいなと思ってきてくれる人がいて、その人たちが幸せそうにしてると僕も幸せになるのでとてもやりがいを感じます。

ー一方で大変さや難しさはどんなところでしょうか。

難しさはルールもまだまだ決まりきっていないので日々のオペレーションをどうやって

確立していくかです。毎日ルールが変わることもあるので、大変ですがスタッフたちと一緒に議論をかわしながら楽しくやっています。

音楽の日々、世界一周で自分を見つめ直す

ー最初は音楽をされていたとのことですが、どのように過ごされていたのでしょうか。

中学1年生のときから音楽を始め、自分はミュージシャンになるんだろうなと思っていました。大学に進学しても就活をせずに音楽ばかりで、卒業したあとはフリーターになり、毎日バイトで生活費を稼ぎながら空いた時間で音楽をしてました。

ただ、音楽よりも生活費を稼ぐほうが自分の時間を占めていて「なんのためにフリーターになったんだっけ?」と苦しかったのが、22歳、23歳だったのを深く覚えています。

のちに結成する大学の友達と久しぶりに銭湯にいく機会があり、お互いミュージシャンを目指していたので一緒に組んだら面白そうだと話が進み、結成に至りました。

自分は夢を叶えられると思い込んだり、まわりの人に「こうなる」と伝えたりして、自分にプレッシャーをかけてやるしかない状況に追い込みました。

ー結成されてからはいかがだったのでしょうか。

大学時代のサークル仲間を誘い3人でユニットを結成しました。「20代で結果が出なかったら売れない」と言われていたので、ラストチャンスにしようと仲間とゴールを共有してユニットを組んだのが24歳です。

1人でくすぶっていた自分を救ってくれたのも当時組んでいた2人で、仲間がいてくれる心強さからできないものは何もないと思っていました。自分の人生を振り返ってみてもとても高揚していた期間です。

そこから音楽活動をする中で、このメンバーならいけると確信を深めていきました。ただ、活動初年度のワンマンライブで250から300人ほどの会場を埋めたのですが、音楽だけで食べていくにはまだまだ難しく、結果とは裏腹に夢と現実の乖離に焦っていたのを覚えています。

どうやったら日本一のミュージシャンになれるのか、もっと自分たちの音楽を聞いてもらえるのか、さらには音楽で食べていくにはどうしたらいいのだろうかと考えました。

もちろんとても幸せでしたし、当時の思い出は今も鮮明に覚えています。素敵なライブを終えられた達成感と同時に、来年への恐怖が生まれてきたのが25歳の終わりでした。

そこから、もうすこし奇想天外なことをしてバズらせたりだとか、自分たちが有名になるためにどうしようと、3人とも動いたなかで「世界一周しながら音楽したら面白いかも」という話になって。

クラウドファンディングでお金を集めて、当時応援していただいたファンの方々や友達に支援していただいて、世界一周ツアーに出たのが26歳です。

ー世界一周ツアーにいってみていかがでしたか。

今思い返しても最高の経験でしたし、素敵な出来事もたくさんありました。ただ、自分の存在を無理やりにでも見つめ直さなければいけない日々の連続でした。

毎日やることはあるし、やらなくてはいけないこともあったのですが、日本での日々と比べると、毎日がとても自由なんです。明日どこに行ってもいいし、どこで歌ってもいい。でも、「制約のないなかで生きるのは実はこんなにつらいんだ」と感じたのを強く覚えています。

ファンの方たちの応援を胸に旅を続けていましたが、海外での格安旅は予想以上に過酷で、メンバーとの関係も悪化していきました。最早、旅を続けることが目的となってしまい、自分たちの音楽を広めたいなんて考えられなくなっていました。

そんななかで、いろんな国を周るなかで仲良くなったインドの同世代の方に「お前は日本に生まれただけうらやましい」と言われたのです。

自分の志次第で何にでもなれて努力で人生を変えられる、でも僕はこの国じゃ何もできないんだよ、と言われたときに、勝手に自分の限界を決め付けていた自分がダサいと思ったのです。

ー世界一周ツアーの後もまだまだ音楽活動はされていたのでしょうか。

いろいろあって、世界一周の途中に旅なかばで帰国しなくてはいけなくなってしまいましたが、音楽活動は続けていました。2019年の8月には小さいステージでしたが『サマーソニック』に出演しました。