独学で世界最高峰の美術系大学院へ!鈴木友里恵に学ぶ、挑戦から可能性を作り出す方法

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第465回目となる今回のゲストは、ロイヤルカレッジ・オブ・アート修士生の鈴木友里恵(すずきゆりえ)さんです。

江副記念リクルート財団第49回奨学生。2015年から現在までQSアート・デザイン部門で1位にランクインする世界最古の美大、ロイヤルカレッジ・オブ・アートで学ぶ鈴木さん。高校時代に一度アメリカの美大の単位を取得するも、訳あって総合大学に進学することに。総合大学から独学で大学院受験をし、今ではアートからデザインを軸足に研究しています。

アートやデザインは誰でも挑戦できる分野だと語る鈴木さんの大学院選びと価値観をひも解きます。

デザインとアートの垣根を越えた環境に進学

大学院図書館〜中庭より

ーまず始めに自己紹介をお願いいたします。

イギリスにあるロイヤルカレッジ・オブ・アート(以下、RCA)修士の鈴木友里恵と申します。専門はデザイン研究ですが、私が所属している学科はアートとデザイン両方の分野の先生や専門の学生が多くいらっしゃるため、授業では2つの分野を満遍なく学んでいます。

ー日本では、デザインとアートを学べる場所がそれぞれ分かれているイメージがあるのですが、RCAでは両方を織り交ぜながら研究されているのでしょうか?

そうですね。私の学科は研究課程という括りでファッションやアート、美術史など、他の専門の学生と所属がほぼひとまとまりになった構造なんです。専門的なデザインの講義はもちろん、現代アーティストの方を週に一度招いた講義もあります。学科の構造と授業内容、どちらもデザインとアートの垣根が低い環境で研究させていただいていると思います。

ーデザインの専門性を探究するだけではなく、ご自身が特化したい分野も柔軟に学べるのですね。

はい。学科では一年を通して研究テーマを見つけるゴールがあります。そのために柔軟に様々な専門分野に授業で触れていると理解しています。

幼い頃からものづくりが好き。書道が自分のアイデンティティ

ーここからは過去に遡ってお伺いします。3歳から書道を始められたそうですが、何かきっかけはあったのでしょうか?

母が書道教室に連れて行ってくれたのがきっかけです。書を続けようと思ったのは自分の意思でした。継続しようと思った理由として、幼稚園生から小学生の間に書道で成績を残せた成功体験があります。書が子供の頃自信を与えてくれたので、大学の後半まで続けようと思いました。

ー長く続けられているんですね!その間、一度でも書道から離れようと思った時期はありませんでしたか?

書自体を嫌いになった覚えはありませんが、小学校高学年の時期に結果が出なかったり、練習のキツさが嫌だなと感じた時期もあります。

ーそこでやめなかった理由は何が考えられるのでしょうか?

当時の自分から書を抜いたら、自分のアイデンティティがなくなると自覚していたんです。今でこそ書以外にもデザインやアートがありますが、やめる選択肢がなかった背景には、自分の存在感が薄くなるかもしれないと子どもながら焦っていたのだと思います。

ー書道がご自身のアイデンティティだったのですね。幼少期はどのような子どもでしたか?

幼稚園の先生から絵を頼まれたり、周りの子におもちゃ作りを依頼される物作りが好きなタイプでした。クリスマスにはみんな一人ずつサンタの絵を描いたのですが、先生が特に私のサンタを褒めて教室の12月のカレンダーの横に貼ってくれたことは今でも嬉しい思い出です。そこから「ゆりえちゃん、何か描いてくれる?」と頼まれごとが増えました。

ー幼稚園のときから頼まれていたのはすごいですね。その時からデザインの道に進むことが決まっていたように感じました。

そうかもしれません。頼まれて何かを描いたり、作ったりすることは高校生まで続けていました。今でも覚えている力作は、幼稚園時代に給食の牛乳のパックを回収して1人で作った小さい街ですね。当時、幼稚園の教室に女子がごっこ遊びできるおもちゃがあまりなかったんですよ。おかげで私が作った牛乳パックタウンでみんなが遊んでくれたのは嬉しかったですね(笑)。

このような体験の積み重ねがデザインや物作りを専攻する土台につながっていると思います。

ー幼少期から自分が作ったものを喜んでもらえる原体験は、とても貴重ですよね。そこから12歳のときに、人生でどん底の時期を過ごしたと伺いました。

はい。幼少期からずっと自信をつけていた書道で結果を出せなくなったんです。子どもながらにスランプで、同じ時期にタイミング悪く交通事故にも遭いました。60針縫う大怪我はするし、書道は結果は出せないこととダブルパンチで辛かったです。あの時間はもう過ごしたくないですね。

ー60針はかなりの怪我で辛かったと思います。書道で結果を出せなくなった理由は何があったのでしょうか?

何かを続ければ多くの人が通る道ですが、気の緩みや慢心だったかなと思います。それまでは、練習して書道作品を書けば成果が出る時期が続き、大会ではそれなりの成績を残していたんです。でも少し油断をして、成果に結びつけるのは意外と簡単だと思ってしまうと、気を引き締めて練習を続けることが難しくなりました。

イタリア旅行をきっかけに海外に憧れを抱いた学生時代

ーどん底から抜け出したのは何がきっかけだったのでしょうか?

私の状態を心配した親が、違う環境に触れてみたらと勧めてくれたのが海外旅行だったんです。母と一緒にイタリアへ行ったのが初めての海外でした。フィレンツェを中心に今まで見たことのない光景を味わえた経験が、自分の頭を切り替えるきっかけになりました。

フィレンツェは、ヨーロッパ有数の中世美術を代表する都市です。フィレンツェに滞在できたことで、海外に憧れを抱くようになりました。帰国後は市の交換留学制度を使い、姉妹都市であるアメリカのご家庭にホームステイも経験しました。ただ、ヨーロッパへの憧れが強く、現在もイギリスに留学しているので、最初の旅先にイタリアを選んだことは今でも人生に影響を与えていると感じます。

ーイタリアで目にした光景を言語化するとしたら、どういった表現になりますか?

スイッチを入れてくれたという感じです。フィレンツェにはサンタ・マリア・デル・フィオーレという有名な大聖堂(通称:ドゥオモ)があります。その建物の飾りがとても細かいんですよ。中に入るとさらに計算された美術の仕事があって、端から端までずっと見ていました。フィレンツェを代表する教会は内装が凝っており、歴史もあるので存在感があるんです。

テレビでしか見たことのない建物や景色が目の前にある実感は、落ち込んでいた感性を再びオンにしてくれました。

小学6年で見たイタリアには以来、高校までに3度ホームステイで滞在

ーイタリア旅行でどん底期から回復し、書道の結果も戻ってき始めたそうですが、そのあと進路で悩まれたそうですね。

高校生の頃、アメリカの美術大学(以下、美大)の単位取得ができるプログラムを受講していました。成績もよかったので、美大に入る素養もあるのかなと思えました。一方で、進路をアートだけに絞ってしまうことに覚悟が足りないと感じていました。その懸念が学部から美大に進路を絞る上で、自分に待ったをかけました。

また、アートだけに学びを絞ることは他の専門と縁を切ってしまうことと同義に感じたりして、最終的に美大に進学するのをやめることにしました。総合大学でアート以外に興味のあった内容を専攻することにしたんです。

高校時代、アメリカの美大単位取得で提出した1作品

ーそうだったのですね。どういった点が自信が持てなかった要因だったのでしょうか?

海外はともかく国内で美大受験をするとしたら、予備校に通ってデッサンの勉強をしなければいけないイメージを持っていました。でも私は美大の単位取得プログラムを受講するまで、全く美術教育を受けていなかったんです。

様々な頒布物など、自分の好きな時間に趣味で物作りをしてきたので、世間一般の美大受験者と自分を比べて本当に才能があるのか、趣味でやっている自分が美術に進路を絞っていいのか、またやっていけるのかが不安でした。

ー内発的な部分というよりは、美大受験の仕組みなど体系的な部分に対して自信が持てなかったのですね。

そうですね。海外の美大を受験していたらまた違っていたかもしれませんが、当時は日本の生活が長かったので、「美大受験=予備校でデッサン」のイメージが強かったんですよね。

それに、どうしても美大に行きたい気持ちが自分の中に隠れているなら、総合大学卒業後に大学院に進む道もある。思いが強ければ、アート業界に戻ってこれるだろうと考えたんです。あえてアートから離れて、違う分野で興味を試すのもアリではないかと思いました。

ーそのような意思だったのですね。総合大学に進学されていかがでしたか?

本音を言うと、独学は大変でした。大学の中盤で専攻の実験や研究室が始まってからは課題が忙しくなり、制作やデザインに費やす時間を捻出できない生活になりました。そのことはかなりショックでした。

入学前は、大学の忙しさをイメージできておらず、「アートの道に進みたくなったら、大学を中退してでも進路変更するだろう」などと転校や専攻を帰る手間を軽く考えていました。高校生が想像するよりも、中退・再受験はものすごいエネルギーが必要だと大学生に入ってから気づきましたね。

一方で、実際に大学生になって友達が増えると、総合大学にいながら独学でデザインや制作に携わる学生がいることも知る機会があって。アートのために大学をやめる必要はないとわかったので、大学はそのまま在学して卒業しました。

学部時代、卒業論文提出当日の学科