アイデンティティに悩み、挫折した先に見つけた 「ウィム サクラ」だから出来ることとは。

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第627回は、PlusBase inc.代表のウィム サクラさんです。自分らしさに悩んだ過去を持つサクラさんがPlusBaseを立ち上げるまでには、大きな挫折や、挫折から這いあがろうとする幾多の行動がありました。PlusBaseを通して、サクラさんが叶えたい世界とは。ぜひご覧ください。


アイデンティティってなんだろう?と悩んだ幼少期


ー自己紹介からお願いします。

現在は、心療内科で看護師・認定心理士として勤めながら、ナースの心を守る仕組みづくりを行うPlusbaseを立ち上げ、Plusnurseという取り組みをスタートさせています。

わたしはもともと日本人ではなくスリランカをルーツに持っているのですが、4月に生まれたことをきっかけに、「サクラ」と名付けてくれました。

 

ー小学1年生の時、私(インタビュアー)のクラスメイトにいた外国籍の子がクラスにうまく馴染めないということがあったのですが、ウィムさんはそういったことはあったのでしょうか?それとも、何も問題なく過ごすことができたのでしょうか。

生まれたのは日本でしたが、幼少期はスリランカに行ったりもしていたので、当時は自分が日本人なのかスリランカ人なのか、よくわかっていませんでした。

小学校に入学後、自分が日本人ではないのだと徐々に認識し始め、日本人でないにも関わらずサクラと呼ばれている現状に、自分が生きている意味ってなんだろう?ここになんでいるんだろう?と思っていました。そんなこともあり、目立ちたくないな、サクラという名前があまり好きではないなと感じていた幼少期でした。

 

ー自分と向き合う上で、どういったアプローチをしていたのでしょうか。

わたしはスリランカ人の両親を持ちながら、日本で生まれ、小中高と日本で過ごした中で、両親から、スリランカの子どもたちがどんな環境で過ごしているのかを聞かされていたので、日本で暮らしている自分は、恵まれた環境で過ごしているのだと思うようになりました。

見たこともないし、話したこともないけれど、いろんな生活をしている人がいるという他者意識は強かったです。クラスで1人だけの外国人ということで、いじめもありましたし、他にも辛い経験をしました。でも、当時は、周りの人と自分は違うという事実に気付いていませんでした。

自分と周りが違うという事実に、落ち込むこともありましたが、人との出会いから「自分だから話すことができる」「自分だからいいんだ」と思ってくれる人がいることに気づきましたし、中高生になると、この顔でサクラ!?(笑)とギャップゆえ呼ばれる・覚えてもらえることが増え、自分の名前をポジティブに捉えられるようになり、今のような明るい性格に変わりましたね。

 

ーサクラさん自身が、他者と自分のちがいを認識したからこそ、誰かと「ちがうこと」に対する受け皿が大きい印象を受けます。

今の時代、多様性・ダイバーシティという言葉がよく聞かれますが、幼少期から誰もを受け入れていたと思います。壁を作らないタイプながら、みんなと同じようにしなければいけないという同質性を感じていて、サクラと名付けられたからサクラらしくいなければと考え、努力していた時期もありました。しかし、大和撫子を目指してもなれないように、みんなに同調的になるのは無理だと諦め、自分らしさってなんだろうという問いの答えを、中学生くらいまで探していました。

 

ー中学になると、少しずつサクラさんらしさが出来上がったのでしょうか。

小学生と中学生の大きな違いは、心と体が大きくなったことでした。
小学校の頃はバレーボールをしていたのですが、とあるきっかけで吹奏楽がかっこいいと思い、吹奏楽部に入部しました。

音楽や芸術って、自己表現をしたり、自分と向き合うプロセスがあったりしますよね。吹奏楽部でいい演奏をするためには自分と向き合って、自己表現をしなければいけない。でも、自己を見つめることを小学校の時にはしてきませんでした。

しかし、音楽で自己表現する過程で自分を見つめたことを機に、他の人とちがうわたしが嫌だという思いが、同じ楽器でも自分にしかできない吹き方や自分が感じた思いを大切にしていいんだと考え方が変わったんです。外国人の子が部活に混じっていたとしても、音色にしてしまえば関係ない。言語や人種、ルーツといったカテゴライズをされてきましたが、カテゴライズが関係ないフィールドに移ったことで、殻が破れた感覚がありました。

そして、当時進んだ中学校の学年の人数が多かったこともあり、自分が知らなくても、相手が自分のことを知ってくれているということもありました。最初は嫌でしたが、徐々にこれはいいことなんだと思えるようになって、生徒会活動にも関わるようになりました。そこで、「自分はサクラでいいんだ」と、考えられるようになりました。

日本の進んだ医療で世界に貢献したい


ー自分の名前につけられた思いを体現するかのように、サクラとして生きることを決めたわけですね。ちなみに、現在の看護師という仕事にはどのタイミングで出会ったり、志すようになったのでしょうか。

中学2年時に自分にしかできないことを模索していたタイミングで、子どもの頃から恵まれた日本という環境で育ち、その環境で過ごしてきたことがありがたいと思っていたので、ここでの学びをどこかへ活かしたいと考えていました。そんなとき、国境なき医師団に所属する女性の助産師さんが、アフリカで活躍する様子が描かれたドキュメンタリー番組をテレビで見る機会がありました。その姿に1週間くらい衝撃を受け続けましたね。

アフリカは生まれてすぐの赤ちゃんが亡くなることが多い一方、日本は、世界で一番新生児の死亡率が低い。生まれた環境によって、こんなにも格差があるのかという事実、アフリカという地に出向き、活躍している助産師さんがいるのかという気づき・感動・衝撃がありました。そして、日本の進んだ医療で世界に貢献したいという気持ちが芽生え、助産師になる。助産師になるために、まずは看護師の資格を取ろう。そう、中学2年生の時に決めました。

 

ー中学から高校にあがるときは、受験は経験したのでしょうか。そして、中学にした決断が揺らぐことはなかったのですか?

高校入試を受け、看護師になって世界で活躍したいと面接で話した記憶があり、中2で看護師になりたいと決断したことは変わりませんでした。そして、その後の人生をより具体的に考えたのが、高校時代でした。

高校入試の時に東日本大震災があり、そこで、災害が起きた時に看護師は活躍できる存在なのだと実感し、自分にとっての看護師像が変わりました。そこから、災害医療にも興味を持ち始め、国際看護学や急性期の看護、救命救急の分野が自分だからできる領域なのではと思うようになり、高校卒業後は、看護学校に進みました。

人生最大の挫折。そこから立ち上がるまで。


ー卒業後、急性期(ER)の看護師として社会人生活をスタートしたそうですね。

絶対に看護師になる、私は一生看護師として生きていくと意気込んでましたが、実際の現場は想像を絶していました。今思えば、死に向き合う機会が少なかった自分にとって、関わっていた人がみるみるうちに弱っていく姿は衝撃的でした。

「もっとこうしていれば患者さんは助かったかもしれない」
社会人1年目の自分にできることは限られていたにもかかわらず、責任感が強かったので、自分を責め続けることもありこともありました。そして、日勤と夜勤という生活習慣の変化によって、心と体のバランスが崩れていきました。そんな状況でも、前向きに物事を捉えられるのが自分の性格だと思っていたため、物事を前向きに捉えられなくなっている自分に気付かず、周囲からのストップにより休職することになりました。この出来事が人生最大の挫折で、そのときはもう2度と看護師には戻れないのではないか思いました。

 

ー誰かのために貢献したいという外へのベクトルが強いあまり、自分へのベクトルが向けられていなかったのかもしれないですね。もし、休職前の自分に戻れるとしたらどんな言葉をかけたいですか。

教科書で看護師はバーンアウトしやすいと書いてあったものの、周りの友人からは「サクラは明るいし、たくましいから絶対病まないよ」と、言われてたんです。

自分が「病むことはないだろう」と思っていたわたしは、逆に誰にも相談できていなくなってしまっていました。そんな事実を受け入れた上で、なぜ自分がそうなってしまったのかを知りたいと思い、通信制の大学に入り心理学を学び始めることにしました。

人の死に向き合うときや何か出来事があった時に、私たち人間が辿る考え方のプロセスがあることを知りました。そして、誰かの死を迎えたとき、自分がどんな反応をするのか客観視できていなかったことにも気づいて。そのとき、これは自分自身の性格が悪いのではなく、思考のクセなのだと。自分を縛り付けている考え方のクセはあとからでも整理してあげれば、物事に柔軟に対応していけるのだと。そして自分が看護師に向いていないわけではないのだと、気付くことができました。

また、私たちは看護師として、患者さんを救うために疾患や体の仕組みなどを学びますが、患者さんを救っている自分自身を守る術は学んでいなかった。だから、看護師として、社会に出る前に学んでおいた方がよい「自分の守り方」を学生や新人看護師さんへ伝えようと思い、現在の事業へとつながりました。

 

ー心理学を学んでいく中で、少しずつ社会復帰をされたそうですね。

心理学を学んで、心の守り方を学んだけれど、実際に看護師として命の現場に復帰するのは勇気がでなかったですね。しかし、いろいろなご縁があり、当時インターンをしていた病院の看護部長さんから連絡をいただき、看護師でなくとも、できることからはじめればいいのでは?とアドバイスをいただきました。

そして、看護助手として、外国籍の患者さんの病棟や特別室の対応をする部署から現場復帰しました。最初はうまくいかないだろうと思っていましたが、自分の心の守り方を学んでいたこと、国際人としてアイデンティティが生かされる場面だったこともあり、3ヶ月後には看護師として現場復帰できる状態になりました。

その後は、整形外科やオペ室の部門に復帰し、2年ほど実務経験を積みました。
3年目・4年目になり、後輩を指導する立場となり、過去の自分と同じようになっていく後輩を目にしましたし、尊敬していた上司も同じように心のバランスを崩していく姿をみてきました。自分と同じようになっていく人がなぜ多いのだろう、どうすれば救えるのだろうと悩みました。その中で、病院内から変えていくのには限界があると気付きました。

疲弊していく看護師を救うためには、その人たちを救う持続可能な仕組みづくりが重要だと感じました。そして、これは病院内では限界があり、病院外からできることはないかと考え、世の中にある社会課題を解決するソーシャルビジネスに興味を持ち始め、自分にできることは何なのかを考えるようになりました。

誰もやらないなら私がやる

 

ーそこから、どうなったのでしょうか。

自分が感じた課題をどうにか解決できないだろうか、一刻も早くこの問題をなんとかできないだろうかと思っていた矢先、経済産業省とJETROがやっている「グローバル起業家育成プロジェクト:始動」があり、そこで自分のアイデアを採択していただきました。

そのプロジェクトで様々なことを学び、事業が明確になっていく中で、自分の原体験が大きな原動力になっていることが分かりました。当時はなんとなく、働く人の心を守りたいという思いでしたが、自分の原体験がペルソナとなり、過去の自分のような思いをしている人を救いたいのだという気持ちに気づきました。

正直、自分一人では何もできないなと思っていました。そこで、いろんな人を巻き込んでいく必要があると思い、まずは自分にできることとして、手をあげ、この課題について旗を振ることだと思い、一年前から活動し始めました。

 

ー誰かがやらなければいけないと、業界で働いている人の中にはいたと思います。
言い出しっぺになることは勇気のいる決断かもしれませんが、うまくいくかどうか分からないという不安より、何かを変えたいという気持ちの方が強かったんでしょうか。

「自分にできることって、何?」と自身へ問いかけた時に出てきたのが、手を挙げることでした。
看護師の現状やメンタルヘルスの問題はコロナによって、第三者の視点が当てられるようになりました。そんなとき、疲弊した現場は助けを求めることすら難しくなるため、そこで手をあげて発信していく。そして、医療界に目を向けてもらい、他業界からの視点を入れてもらうことで、看護師の課題を顕在化させることができ、さまざまな業界からの視点を入れ、改善させられるのではないかと考えました。

そのため、「手を挙げて、業界を知ってもらう」ことをすれば、必ず共感してくれる人がいると思いましたし、自分が感じている課題は日本だけでないと思っていたので、世界中の知恵を集めて、仲間を集めて立ち向かえれば、何かしらいい方向に向かっていくだろうという信念がありました。そして、同じ思いを持った人とこの課題にどう立ち向かえば良いのかと考え、会社(PlusBase)をスタートさせることになりました。

多くの人に知ってもらい、ストレスフリーな人を増やす


ー現在、PlusBaseではどういったことをされているのか、詳しく教えてください。

心の守り方を学んでいくためのWebサービスを開発しています。
例えば、心の矢印が外に向きがちの看護師さんに自分に向き合ってもらうためのきっかけづくりを提供して、職業に特化したストレスチェックやスクリーニングのようなサービスを通じ、自分にも矢印を向けてもらいます。さらに、自分の状態に応じた心の守り方やセルフケアの方法を学んでいただけるようなものを看護師の方向けに開発しています。

日本では、まだまだカウンセリングに気軽にいける風潮ではないので、自分ではどうにもならないとなったとき、「人に助けを求める」ハードルを下げようと試行錯誤しています。現在は看護師に特化していますが、看護師は看護師なりの考え方やメンタルヘルスが危ぶまれるタイミングにも特徴があるので、そこにフォーカスをして、サービス提供をしています。


ーPlusBase以外の部分でも、看護師100人カイギもスタートさせたみたいですね。

コロナ禍によって、特に医療従事者は、感染拡大防止のため、職場と家の行き来にならざるを得ず、外部の人との交流が少なくなってしまいました。しかし、わたしがドキュメンタリーを見て、看護の道を志すようになったように、この状況下でも、さまざまなロールモデルと出会うきっかけや夢をもらえる場をつくりたいという思いもあります。

そんな思いから、看護師100人カイギは、看護師の方はもちろん、業種・職種に問わずいろんな方が参加できる仕組みにしていています。第三者の人たちに医療界・看護界のことを知ってもらい、また看護に従事している方も、普段と違った外からの新鮮な知識を得て、視野を広げてもらえたらという願いを込め、運営しています。

ー今の仕事をしながらも、急性期の看護師になりたいという思いはずっとあると思います。サクラさんは、どのように折り合いをつけたのでしょうか。

急性期で学んだ技術を世界に活かしたいという夢は、まだ諦めていないです。でも、自己犠牲が伴った状態で誰かを救うことは、持続的ではなく、限界があります。

自分のコップを水でいっぱいに満たしていないと、患者さんの空のコップを満たすことはできない。
自分の心を満たす、心身ともに健康で、社会ともつながりのある状態が保たれていないと、世のため人のために力を発揮できません。

だからこそ、まずは自分のことを幸せにしてあげる、自分を守りながら仕事に取り組めるような看護師を日本中に増やすことがミッションです。ナースの心を守る仕組みを整えたのちには、日本で学んだ技術をもとに世界の人々に貢献したいという夢を叶えたいです。


ー最後に、今後のビジョンを教えてください。

命を守る人の心を守る仕組みを、日本で一般化していきたいと思っています。
心の問題は、医療者に限らず多くの人にとって深刻な問題です。にもかかわらず、日本は働く人の心を守る取り組みが遅れています。だからこそ、まずは命を守るナースから守っていきます。その思いが、エンジニアや教育現場といった他の業界で働いている人にも共感され、業界問わず一緒に取り組んでいき、メンタル不調の心配なく働ける人が増えれば、いいなと考えています。

 

ー自身のアイデンティティに悩み、挫折を経験しながらも、ナースの心を支える取り組みをしようと決めるまでの素敵なお話でした。サクラさん、本日はありがとうございました!

 

取材者・執筆者:大庭 周(Facebook / note / Twitter
デザイン:高橋りえ(Twitter