死は誰にでも訪れる。あの世とこの世の境界線に立つ中澤希公に学ぶ “死との向き合い方”

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第560回目となる今回のゲストは、15歳で母との死別を経験し、展示会を通じて死を想う体験を提供している中澤 希公(なかざわ きく)さんです。

中澤さんがどのように死別体験と向き合い、「あの世とこの世の境界線に立つ女子大生」として活動するに至ったのか、幼少期から振り返ってお伺いしました。

ママの癌が発覚。癌は治ると思い、習い事や勉強に明け暮れる

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。

現在、慶応義塾大学環境情報学部の2年生で、学校外の活動として『死んだけどあのね展』『死んだ父の日展』『棺桶写真館』など、日常の中で死を想えるような作品を作っています。

ー『棺桶写真館』は、2021年の10月末まで渋谷で展示されてましたよね?

はい。2021年10月29日から31日まで、棺桶に入り、自身の死に想いを馳せることができる体験型展示イベント『棺桶写真館』を行いました。後悔のない生き方を送るためには死を意識し、生を見つめ直す機会が不可欠だと考えています。

ー棺桶に入る機会はなかなかないので、貴重な体験ですね。どのようなきっかけで開催に至ったのでしょうか。

中学3年の時に、大好きだったママが亡くなりました。とてもショックだったので、ママの死をどのように受け止めていくべきかを常に考えていました。

死別から約3年が経ったとき、「ママが死ぬ時はどんな感覚だったのだろう……」とふと疑問を抱いたのです。そして、死を体験できる “入棺体験” というワードを知り、広島の棺桶工場まで体験しに行きました。

それから、私だけではなくて、もっと多くの方に死の疑似体験をして欲しいと思い、『棺桶写真館』を企画しました。

ーご自身の経験がきっかけだったのですね。様々なことを乗り越えて今の中澤さんがあると思うので、本日は幼少期にさかのぼってお話を伺えればと思います。幼い頃は、どんな子どもでしたか?

保育園の頃は、けっこう甘えん坊でした。幼い頃からママが大好きで、どこへ行くにもママについていって楽しい日々を過ごしていました。

ただ、小学1年生のときにママの癌が見つかって……。それからは、抗癌剤治療へついていくようになったり、保護者会にママが来てくれなくなったりして、小学校に入ってから環境がガラリと変わりました。

ー幼少期の中澤さんは、幼いながらにお母様の病気とどのように向き合っていたのでしょうか。

小学生でママの癌がわかったときは、癌は治療すればすぐ治る病気だと思っていたので、入退院を繰り返したり、抗がん剤で髪の毛が抜けたり、吐き気を催したりする姿を見て「ママ、どうしちゃったの?」と思っていました。

ーお母様の癌がわかった小学生の頃、具体的にどのように過ごされていたかお聞かせください。

学校が終わった後、ママが病院へ行っている間にクラシックバレエの教室へ行ったり、塾へ行ったりと、忙しい日々を過ごしていました。当時はママが死ぬことを想像していなかったので、お見舞いに行く時間もあまり取れませんでした。

これはママの死後に聞いた話なのですが、ママは、自分がいつ亡くなっても私が良い大学へ入れるように、早めに塾へ入れさせてくれたみたいです。

ママの死と向き合い「やるべきことをやる」と決心する

ー中学生になってから、印象的だった出来事はありますか?

中学では中高一貫校へ入学し、創作ダンス部へ入部しました。全国大会に出場したり、自分で作品を作ったりと、ダンスに熱中して毎日踊る日々を送っていましたね。

ー徐々にお母様の状態も理解できる年齢になり、向き合い方に変化はありましたか?

中学になると、病院の先生からママの病気について詳しく説明される機会が増えて。もしかしたら死ぬかもしれないという状況を理解できるようになりました。

ただ、入院して肺の水を抜くと元気な姿で帰ってきていたので、「また入院して帰ってきたら元気な姿を見れるはず」と、自分の気持ちをごまかしながら生きていました。

どんどんママと向き合わなくなってしまって……。当時は髪の毛がけっこう抜けていてウィッグをつけていたので、相当悪い状況だったと思うのですが、「治るだろう」と思わなければ自分もどんどん辛くなると思い、部活が忙しいからとお見舞いに行かずにいました。

また、ママから「癌のことは誰にも言っちゃだめだよ」と言われていたので、学校の先生や友達に知られないように、部活やテスト勉強に励んでいました。

ーお母様自身、いろんな思いがあったのですかね。

そうですね。そんな日々を過ごしていて、中学3年生のときにママが天国へ行きました。

ママが亡くなったのはちょうどテスト期間中で、「寝不足だと思うからお見舞いに来なくてもいいよ」とママから言われていた時期でもありました。

亡くなる直前も、「深夜だから子供たちは呼ばないで、寝かせてあげて」と言っていて。そのまま亡くなってしまったので、最後を見ることもできずに天国へ行ってしまったのです。

ー当時はどのように、お母様の死を受け止めていましたか?

朝5時に、父から「ママが亡くなった」と言われて、その瞬間は肩の力が抜けました。

約10年間、闘病しているママの姿を見てきて、誰にも癌のことを言えずに私自身疲れてきていたので、「私ももうママの病気と闘わなくていいんだ」とわかり、すごくホッとしました。

ママが亡くなった後すぐに学校へテストを受けに行ったのですが、自転車に乗っているときや電車の中で勝手に涙が出てきて……。悲しみも大きかったのだと思います。

ー精神的にはしんどい時期が続いたと思いますが、どのような心の変化がありましたか?

学校へ行くと、友達がいつものように接してくれたり、ママのお葬式にたくさんの友達が来てくれたりして、「自分は1人じゃないんだ」と気がつき、落ち込むことなく日常に戻っていきました。

ママの死は事実として受け止めて、悲しみつつも、自分のやらなければいけないことはやると決めていましたね。

ダナ・ファーバー癌研究所で建築・空間デザインに興味をもつ

ー高校生になり、印象的な出来事があれば教えてください。

先生や友達のお母さんがお弁当を作ってくださり、周りにたくさんサポートしていただいたおかげで生きてこれて、「私も強く生きなきゃいけない」と気がつきました。

それから、癌について深く勉強したいと思い、学校の留学プログラムを利用してアメリカのボストンにあるダナ・ファーバー癌研究所へ行くことに。

ー実際に行ってみていかがでしたか?

施設の方に最新の研究について聞きたかったのですが、英語能力がなさ過ぎて聞き取れず、病院内をふらふら歩いていたときに、森林が植えられてて小鳥のさえずりのBGMが流れている空間を発見しました。

そこにいる患者さんがすごく穏やかに過ごされている姿を見て、「これからの医療に必要なのは、医療従事者が提供できないような癒しや過ごしやすい空間なのかもしれない」と気づき、建築・空間デザインに興味をもつようになったのです。

ー日本へ帰国してから印象的だった出来事があればお聞かせください。

高校2年生のときに、遺品をモチーフにした創作ダンス作品を作りました。肉体がなくなったとしても、遺品を介してその人がまた生きられるという作品を作ったのですが、そこでママの死との向き合い方も変わったと思います。

ー具体的に、どのように向き合い方が変わったのでしょうか。

「自分がママにしてあげられなかったことは何だろう?」ということに向き合うようになりました。病院へアートを届ける活動(ホスピタルアート)をしたり、いろいろな行動に移したりすることで、後悔を取り戻していましたね。

ーホスピタルアートの活動について、具体的に聞かせていただけますか?

ボストンから帰ってきて、日本の病院の現状を知るために学校帰りに病院を回って、空間デザインを1人で見て回りました。

30〜40件ほど回り、色の数値を採取したり、通幅を測ったり、どんなカフェが入っているか調査したり……。自分なりにいろいろ分析しました。

また、病院には有名な画家さんの絵が飾られていたのですが、本当にそのアートを患者さんが欲しているのか考えると、違うなと思って。患者さんが作ったアートや、患者さんが欲しているアートを取り入れたいと思い、ホスピタルアートの活動を始めました。

ーやりたいと思ったことを行動に移すのはなかなか難しい中で、実行できたのはなぜ?

やっぱり、ママの死が大きいです。「自分には何ができたのだろう?」と考えたかったので、1人でいろいろな病院を回っていました。

ただ、最初は1人で回っていましたが、活動を手伝ってくれる友達が増えていったのです。一緒に病院へ行ってくれたり、患者さんと共にアート作品を作るワークショップを手伝ってくれたりと、仲間が増えて楽しかったですね。

 “グリーフケア” と出会い200名以上の死別体験を聞く

ー高校は、大学受験を検討する時期でもあると思います。どのように大学を選びましたか?

ボストンで建築・空間デザインに興味をもったのですが、それだけでなく医療や心理などいろんな分野を学んで、ママにしてあげられなかったことを実現したいと思い、慶応義塾大学のSFC(総合政策学部/環境情報学部)を受験して無事受かりました。

ー入学当初は、どのように過ごしていましたか?

入学当初はコロナが広まっていたので、あまり友達にも会えず、ホスピタルアートの活動も完全に中断しました。

ー活動ができない間は、どのように過ごされていたのか教えてください。

本当にホスピタルアートをやりたいのか考えていました。その答えを出すためには、ママを亡くした原体験ともっと向き合うべきだと思い、亡くなる前の自分の行動や、亡くなったときの自分の感情を振り返るようになりました。

そこで、死や悲しみについて調べていたときに、 “グリーフケア” という、大切な人を亡くした方を癒すケアを発見。今の自分にはグリーフケアが必要だと思い、良い遺族会を見つけたので足を運んでケアをしてもらいました。

ー遺族会ではどのようなことをされたのですか?

いろんな方々の死別体験を聞いて、それに対して自分の死別体験を振り返っての繰り返しでした。

「こんな死の捉え方や、悲しみの癒し方があるんだ」とわかり、自分の心のケアにつながるだけでなく、他の方を助けるための方法も学べました。

ー他の方の死別体験を聞くのは、勇気がいりますよね。

実はそれ以外でも、死別したことをSNSで発信しているとDMで「相談させてください」という連絡がたくさん来るようになって。

死別体験をして落ち込んでいる方々に、自分が声をかけても良いのか迷った時期もありましたが、できる限り私ができることはしてあげたいと思っています。

また、ママを病気で亡くした私と、事故や自死で大切な方を失ってしまった方とでは、悲しみや死の需要の仕方も変わってくるので、話の聞き方を変えて、自分の悲しみと他人の悲しみを比較しないように気をつけていました。

百人百様な死の捉え方をして故人を想えるように

ー現在大学2年生で、他に活動されていることがあればお聞かせください。

大学でデザインを学んでいて、「デザインをもっと深く学ぶためにDJやってみない?」と声をかけていただいたのをきっかけに、DJ活動もしています。DJ活動によって、表現の幅が広がりました。

例えば、アンパンマンマーチの「あいとゆうきだけがともだちさ」という歌詞を聞くと、「私はこれから何を大切にして生きていこう?」と、人生を問い直せるかもしれませんよね。

音楽を通じて、いろんな方の新しい発見につながってほしいと思い、曲選びをしています。

ー学校の授業では、どのような勉強をされていますか?

大学では建築デザインと心理を学んでいます。大学でデザイン系の方々と関わるようになり、自分のスキル不足を実感していますね。

自分の描きたい世界を作るためにプロジェクトを進めるだけではなくて、勉強に励みスキルアップしていこうと思ってます。

ー今後、中澤さんが実現したいことがあればお聞かせください。

あの世とこの世の境界線をなくした世界を作りたい」とずっと思っています。

取材でママの話をしたり、ママを思い出して作品を作ったりしていると、ママの肉体がこの世に存在しなくても隣で一緒に生きてくれているような感じがするので、これからもママを忘れずに生きていきたいです。

私以外にも死別体験をされた方はたくさんいるので、いろんな死の捉え方が広まると良いですよね。私はママがずっと隣にいると思っていますが、生まれ変わったとか、お星さまになったとか、その方が過ごしやすいように故人を想ってあげると良いのかなと思います。

ー死について、もう少し他人と話せる機会があると良いですよね。

実は、死別体験についてSNSで発信していると、中高の友達から「希公と同じ時期に、お母さんを亡くしてたんだよね」という連絡が来て。

当時は自分だけが死別経験をしたと思い込んでいましたが、悲しみをもっている方が他にもいたということに気がついたのです。その友達ともっと早く共有できていたら良かったですが、ママを亡くした当時は難しかったですね。

ー最後に、今まさに悲しみと向き合うタイミングにいる方々へメッセージをいただきたいです。

現在関わっている株式会社むじょうの代表の言葉なのですが、「悲しい気持ちはいつまでも続くものではない。喜びも同じ。また別の悲しみや喜びもやってきては消えていく。すべてのものは移り変わる。それは当たり前のこと。」という言葉をプレゼントしたいです。

私はこの言葉にとても救われました。死別体験だけではなく、彼氏・彼女と別れた、プロジェクトメンバーを失ってしまったなど、いろいろな別れの形があると思います。

そのときは悲しいかもしれないけど、いつかは悲しみも受け入れられる瞬間がくると思います。今はとにかく悲しんで、自分を大切に過ごしてください。

ー今生きている方と向き合うことは、この瞬間から取り組めますよね。本日はありがとうございました。中澤さんの今後のご活躍、楽しみにしています。

取材:山崎貴大 (Twitter
執筆:もりはる(Twitter
デザイン:安田遥(Twitter