思いやりを広げる人を増やす。社会福祉士・一條仁が人との出会いで見つけた人生の使命

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第554回目となる今回は、社会福祉士の一條仁さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

スタンディ株式会社でのマネージャー業務や人材採用・育成業務、「ペイフォワードカフェ」の開催、社会福祉士事務所「ふくしまソーシャルワークラボ」の代表など多方面で活動している一條さん。福祉の仕事に至るまでの経緯や大切にしている価値観について伺いました!

一條ではなく六條さん?!福島で幅広い業務に携わり活動中

ー自己紹介をお願いします。

一條仁と申します。福島県福島市出身で、今も在住しています。福祉系のベンチャー企業で、障がいのある方々の就労支援をしています。

複業では、恩送りの活動を広げる「ペイフォワードカフェ」の開催、社会福祉の認知を広げるための啓発活動として高校・大学での講演を行っています。本日は、よろしくお願いします。

ー自己紹介だけでも、仁さんが色んな活動をされていることがわかりました。

社内でも複数の役割を担っています。事業所のマネージャー、採用活動や研修の組み立てとか。一言でまとめると、しっちゃかめっちゃかって感じですね!一條ではなく、六條くらい色んなことに取り組んでいます(笑)。

全てに感謝をするきっかけをくれた「ヤスさん」との出会い

ー現在の福祉の道に至るまでのお話を伺います。高校時代で印象に残っている出来事を教えてください。

「ヤスさん」との出会いをきっかけに、色々なことに挑戦するようになりました。僕の人生で最初のターニングポイントです。

ヤスさんは福島県の他校の高校の先生で、バレーボールを通じて出会いました。通っていた高校のバレーボール部を辞めた後、社会人バレーのチームに入りました。そこで、コーチをしていたのがヤスさんです。

高校生のうちに、自分がなりたいと思うモデルパーソンに出会えたのはラッキーでした。ヤスさんみたいになりたいと思ってから、がんがん自分を出せるようになりましたね。

ーヤスさんのどんなところに憧れを抱いたのですか?

1番刺さったのは、ヤスさんの高校着任時のエピソードです。教職員と初対面の場で、ドラゴンボールZの「フリーザに殺されるクリリン」のモノマネをやったそうです。その場にいた教職員全員を凍りつかせた最悪なスタートから、教職員のチームビルディングをされた話を聞いて、むちゃくちゃヤスさんみたいな大人になりたい!と思いました。

面白さと熱さ、それ以上の真面目さのギャップがかっこいいなと感じました。誰よりも努力していて、人のことを考えているけれど、あえて見せないところがすごいなと思いましたね。

ー学生時代で人生に影響を与える人と出会えるって、うらやましいです。

ヤスさんは実家の葬儀屋を継ぐために、新潟に帰ることになったんです。帰る前に、「仁、鍋に行くぞ」と誘われて、お店ではなくヤスさんの自宅に招かれました(笑)。

鍋を突ついている時に言われた「何にでも感謝しろよ。全部に感謝しろ」という言葉がすごく心に残っています。例えば、誰かに注意されたら、自分の至らなさを知る機会を与えられているんだと教えてくれました。

東日本大震災での被災経験から、強くなる福島への想い

ーその後、大学進学をされた時の、仁さんの選択や取り巻く環境を教えてください。

大学受験を考えていた当時、福島にいることがとてもつまらないと感じていました。遊べる場所が少ないし、デートスポットもないし…バラ色の学生生活を歩みたいと思っていたんです。漠然と東京に行きたい!と考えていました。

母子家庭だったので、都内の国公立の大学を目指して勉強を続けました。ですが、学力が及ばず、地元の福島大学に進学しました。

福島を出たかったのですが、結果的にずっと福島にいるんです。今は福島がめちゃくちゃ大好きです。福島を出たかったけど出られなかった。ずっと福島にいたことで、地元の良さに気づきました。

ーなぜ、福島に対する気持ちが変化したのでしょうか?

大学進学のタイミングで、東日本大震災が起きたことが大きいです。震災時、福島は国内外の色んな地域や団体からたくさんの支援を受けていました。僕も支援を受けたひとりで、感謝しかありませんでした。

例えば、「東日本大震災復興プログラム」。渡航費や滞在費がほとんど掛からず、アメリカをはじめ海外に3回ほど行かせてもらいました。

現在の自分があるのは、国内外の支援のおかげという気持ちが大きくなりました。支援の目的は復興なので、福島のために自分も役に立ちたいと強く思うようになりました。それで、ずっと福島に残って活動しています。

ー復興プログラムでは、どのような活動をされていたのですか?

震災での経験の発信や、現地の学生との交流をしました。他には、MicrosoftやStarbucksなどの大企業に訪問させてもらう貴重な経験をしました。

ー地元に残る選択をされて、大学の4年間はどのように過ごされたのですか?

大学1年生の頃は、大学の授業を受けたり、サークル活動をしたり学生生活を謳歌していましたね。

2年生になってからは、福島の震災復興に力を注ぎました。活動が評価いただけて、海外に行かせてもらう機会が増えました。海外での経験を経て、3、4年生では英語教育の研究を始めました。当時、「福島の現状を世界に伝えられる若者を輩出したい」と強く考えていました。

教師か研究者になれば、自分の夢が叶えられると思い、自分の性格に合っていると感じた研究者になる道を選びました。

ー高校時代のヤスさんとの出会いもあるので、教師になる選択もあったと思います。なぜ研究者を選ばれたのですか?

ヤスさんは英語の教師で、自分も追いかけているところはありました。教職の過程も途中まで進んでいました。

ですが、教師の実態を知るにつれて、ブラック過ぎると感じました。英語教育に関わる時間があまりに少なく、時間を抽出しようとするとサービス残業になると知ったのです。部活動や生徒指導に費やす時間が多く、自分の1番やりたいことができないと思ったので、研究者の道を進みました。

研究者になる夢を手放し、福祉の面白さに触れる

ー研究者への道を選び、論文も最優秀賞を取られて実績も残されていたそうですね。順調そうな中、大学院時代に挫折経験があったと伺いました。

一言で表すと、井の中の蛙でした。論文で最優秀賞を取ったのは、地方の国公立の中での話で、全国レベルには及ばないんです。痛切に思い知らされたのが大学院時代でした。

全国の院生やマスターの方は、どんどん面白い着眼点の論文を書いていて、自分の力不足を実感しました。

自分の研究内容は、学習者の動機付けでした。人はなぜ学習したいと思うか、学習を継続するにはどうしたらいいかなどの心的要因を研究していました。心的要因は心理学の統計も関連してくるのですが、数学が大嫌いなんですよ(笑)。数学の壁にもぶち当たって辛かったですね。

色んな挫折経験から、本当にこの道でいいのだろうか?と考え始めました。奨学金を借りていて、高学歴ワーキングプアになってしまう不安を感じていました。悩んだ結果、研究者の夢を諦める決断をしました。

周囲の人に夢を宣言するタイプで、「将来、大学の先生になります」と言いまくって応援してもらっていました。道半ばでの挫折で、しんどかったです。これまで人に夢を伝えて成し遂げる経験を重ねてきたので、精神的にダメージを大きく受けました。

ー夢を宣言して実現してきた成功体験があったからこそ、仁さんに取っては辛い経験だったのですね。

ポジティブに言い換えれば、大学院での挫折があったから、キャリアの見直しができました。休学をして海外に行ったり、アルバイトをしたり……色んな経験をしました。その中で1番心に刺さったのが福祉でした。

ー福祉が刺さったのはどのようなタイミングだったのでしょうか?

NPOでのボランティア経験ですね。障がいのある方々の就労支援の団体でした。障がいのある人と一緒にパンを作っているパン屋さんでボランティアをさせてもらいました。
そこの施設長さんと初対面の時に「子どもや高齢者や障がい者、そんなこと関係なしに、タテヨコ繋がって、一緒に生活できたら、いい世の中だよな」と言われて、自分にはない視点で感銘を受けました。

福祉の面白さを実感し、大学院中退後、正社員になりました。

ー中退したタイミングで、人生の転機のひとつとなる出来事が起こったそうですね。

福島駅にいつもいるホームレスの方から「100円ください」と声をかけられたんです。多くの人はスルーすると思うのですが、話してみたくて「100円は何に使うのですか?」と聞いてみました。

「おにぎりを買いたいんです」と言われて、一緒にコンビニで買いに行きました。すると、だんだんその方が自己開示をしてくれて、大阪にいた頃の話や、仕事をクビになった話などホームレスになる前の出来事を教えてくれました。

ーどうしてホームレスになってしまったのでしょう?

老齢年金がもらえなくなってしまったそうです。厚生年金が未払いで受給要件を満たしておらず、住む場所もない。ホームレスをする選択肢しかなかったと。

ホームレスの方と話をしたのが、老齢年金の受給要件が引き下げられたタイミングでした。今までは25年以上の支払いが必要でしたが、10年以上の支払いで年金がもらえる制度に変わったんです。たまたま法改正がされたことを知っていたので、その情報を伝えてから別れました。

ーその後、どうなったのかが気になります。

その後、いつも目にしていたホームレスの方を見かけなくなりました。自分が情報提供して、年金を受け取って住む場所を見つけられたのかもと思いました。

自分がした些細なことで、ひとりの人間の人生が好転したのかもしれないと感じました。

この経験は、「全く知らない誰かにほんの少しのいいことをすると、世の中がめちゃくちゃ良くできるんじゃないか」という可能性に気づかせてくれました。

「ほんの少しのいいこと」が循環する仕組みを作れないかと思い、「ペイフォワードカフェ」の取り組みをするようになりました。

ペイフォワードカフェは、お好きなカフェメニューと前のお客様からのメッセージカードを贈り物として受け取ることができるコンセプトカフェです。お代は一切かかりません。

もし、他の人にも同じ経験をしてもらいたいと感じたら任意の金額をギフトする(寄付する)ことができます。こうすることで、ほんの少しの優しさが循環する場所にしています。

「思いやりを広げる人を増やすこと」が人生の使命

ー社会福祉士になって、印象に残っている出来事はありますか?

東日本大震災で被災した若者のために、「2ヶ月海外で自分で考えた企画を実施する」プログラムで、シドニーに行ったことです。福島に戻った時に震災復興に役立てるのが狙いです。

僕の企画案が大きく3つあり、ペイフォワードカフェを行うこと、ソーシャルワーカーとつながること、現地の福祉施設でボランティアすることでした。

プログラムに参加して、福祉に対する価値観が大きく変化しました。

ーどのような部分に、シドニーと日本の違いを感じられたのですか?

大きな違いは2つあります。まず、ホスピタリティですね。例えば、東京駅で大きなキャリーケースを持って階段を登っていたら、「邪魔だな」と見られることがあると思います。

シドニーでは、同じ状況で「Can I help?」と声を掛けられるんです。大変そうな人がいたら、面識がなくても声を掛けて助けることが当然な文化に驚きました。

日本で知らない人に声を掛けたら、防犯ブザーを鳴らされることもあるじゃないですか(笑)。相手に不安を与えない程度で、思いやりのある行動をしようと思いました。雨が降っているのに傘を持ってない人を見かけたら、傘をあげるとか。

ーもうひとつの違いを教えてください。

寄付文化ですね。シドニーと日本で、ペイフォワードカフェを行った時に実感しました。

寄付額が、日本は一人あたり平均500〜600円でしたが、シドニーだと平均2000円だったんです。ちなみに、来場者数は同じくらいでした。日本で寄付いただいた金額もかなりすごいと思っていましたが、シドニーは寄付文化が発達しているなと感じました。

ーシドニーの文化に触れて、仁さん自身の価値観や福祉への考え方がアップデートされたのですね。

シドニーのホームステイ先では、自分の人生の使命を見つけるきっかけがありました。ステイ先に、脳性麻痺を患うカンガ君という小学生のお子さんがいて、一緒に生活しました。

シドニーで過ごす最終日に、カンガ君のお父さんから手紙をいただいたんです。カンガ君からの手紙として、お父さんがカンガ君の気持ちを代筆してくれました。

手紙には深く心に響く言葉が書いてありました。「なんでこのように自分が生まれたのか聞かれるんだよね。それはこの世にもっと思いやりを広げる人をふやすためなんだよね。ちょっとずつでいいからよろしくね。まってるよ」この手紙を読んで、思いやりを広げる人を増やすことを僕の人生の使命にしようと決めました。

ー今後の仁さんの展望を教えてください。

話したり、伝えることを通して更に成長していきたいです。現在、noteでのアウトプットや、関係各所での講演等の発信活動を行っています。

機会があれば、福祉でもペイフォワードカフェでも色んな話を多くの方に届けたいです。気になる方は、ぜひお声がけいただけると嬉しいです。

今後も、「思いやりを広げる人を増やす」という軸を持ち、色んな活動をしていきたいと思います!

ーありがとうございました!仁さんの今後のご活躍を応援しております!

取材:新井麻希(Facebook
編集:杉山大樹(Facebook/note
執筆:たかはしなおこ(Twitter/note
デザイン:高橋りえ(Twitter