田村空が今の自分を作ったギャップイヤーの経験とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第472回目となる今回は、 プロダクションマネージャーの田村空さんをゲストにお迎えし、大学時代のギャップイヤーの経験から現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

何かに夢中になりたかった学生時代

-まずは簡単に自己紹介をお願いします!

田村空と申します。現在は株式会社イグジットフィルムという映像プロダクション会社で、プロダクションマネージャーをやっています。具体的には、企業や団体から受注委託を受けて映像を作成しており、社内のメンバーやクライアントとコミニケーションをとり、プロジェクトを進めていく役割を担っています。

-ありがとうございます。ここからは、田村さんの幼少期について深掘りしていこうと思います。小学生〜高校生はどのような学生でしたか?

親が共働きということもあり、小学生の時はテレビっ子でしたね。アニメやバラエティなど様々なテレビ番組を見ていましたが、特に宮藤官九郎さんのドラマが好きでした。現在にも通じる話ですが、映像が好きになったのは、テレビが原体験かもしれません。

高校生では、よく友達とアニメのパロディをやったり、学校のマラソン大会で24時間テレビのマラソンのパロディとして、ふざけてコケたりするなど周りを巻き込んで色々やっていましたね(笑)今考えると、部活も途中で辞めていたので何に打ち込んでいいか分からず、周りを巻き込んで何かすることで、人に認められたいという承認欲求を満たしていたのかもしれません。ただ、当時は純粋に楽しかったです!

-その後、大学生になり20歳の時に国内外で旅をされていますが、まず国内で旅を始めたきっかけと印象的なことを教えてください!

きっかけは、大学生の時にヒッチハイクをした先輩の話を聞いて面白そうだなと思ったことがきっかけです。当時は大学受験にも失敗していて高校の延長で何かに没頭したいと思っていた気持ちもありました。そんな中、先輩の話がきっかけで国内ではヒッチハイク、海外ではバックパッカーをしましたが、国内と海外で体験し感じたことは全然違いましたね。

国内に関しては、大学の春休みと夏休みを利用して友人と2人でヒッチハイクをしました。それぞれ目的地を決めて、北は北海道の宗谷岬、南は鹿児島県の佐多岬を目指しました。東北では実際に震災を体験した方の話を聞いて心に響くものがあり、ボランティアをやったりしましたね。国内でのヒッチハイクは本当に楽しかったです。

打ちのめされるも考えが変わった海外旅行

-国内だけでなく海外でも旅をされていますが、行きたいと思ったきっかけや大変だったことを教えてください。

国内でヒッチハイクしている時に世界一周した自衛隊員の人と出会って話をしたことが、海外に行きたいと思ったきっかけです。バイトでお金を貯めて1年休学して海外へ行きました。海外に関しては、国内と比べて言語や文化、国際情勢など様々な障壁がありズタボロにされましたね…(笑)

大変だったことは身体面でいうと、中国に行った時期が梅雨の時期ですごく湿気が多く、日本と比べて気温も高く体力的にきつかったです。また、周りが喧騒に包まれ臭いもきつく、お腹を下すこともありました。精神面では、英語が伝わらなかったり、そもそも英語が使えなかったりと日本から一歩外に出ただけで生活出来ない自分に対し「20年間自分は何をしてきたんだろう?」とこれまでの人生の過ごし方を悔やみ、きつかったですね…

-言語の障壁などはどのように乗り越えていったんですか?

言語に関しては、旅をしながら英語を勉強したりしていました。その後旅に慣れてきて、周りで起こっていることに目を向けれるようになり、知らないことをたくさん知れたことは経験として大きいなと思っています。その後帰国し復学しますが、英語も含め知らないことを勉強しようという姿勢になれましたね。

-旅の中で特にシリア難民に興味を持たれたようですが、興味を持ったエピソードを教えてください!

シリア難民に興味を持つようになったのは、トルコのイスタンブールで経験したことがきっかけになっています。当時、時期的に多くのシリア難民の方がトルコに来ていて、「I am Syria.」とテロップを持った男の子が物乞いをしていてお金をあげていました。するとあるトルコ人の方から「彼らはシリア難民じゃないかもしれないのに、なんでお金をあげているんだ?もしかするとお金を貰うために言っているだけかもしれない。」と指摘され、情報を表面的にしか見ておらず考えが浅はかだった自分に気づき、そこからシリア難民に対しても特別な意識が生まれるようになりました。

そこからシリア難民についてもっと知りたいと思い、現地のNPOに訪問したり、シリア難民の人とファームステイする機会を得てコミュニケーションを取ったりしました。この経験でシリア難民の方達がどういう人たちなのか自分の中に取り入れることが出来たことは貴重な経験でしたね。

-その後ドイツ留学をされますが、ドイツ留学を決めたきっかけがシリア難民だったとか?

そうですね。これまでニュースとかで得た情報だけでレッテルを貼っていた難民像が、ファームステイで知り合ったシリア人と話をして徐々にですが自分の中でシリア難民像が変わっていきました。実際、家族もいて、仕事もしていて、食べ物の好き嫌いもある。難民としてではなく、ファームステイで知り合ったアリさんやモハンマドさんとして個人たちと関係値を作れたことが貴重な経験でした。

そこからもっと彼らについて知りたいという想いと、難民として逃げきてきたその先の生活を見てみたいと思いドイツ留学を決めました。

ギャップイヤーで行動した先に見つけた自分の道とは

-ドイツでは1年間難民支援団体でされていたんですか?

はい。ドイツではアメリカのように州があり各州で制度や教育方針が違い、留学ではニュルンベルク、ハレ、ベルリンの3つの州を周りました。ニュルンベルクとハレでは、草の根的な活動をしているNPO団体が実施しているコミュニケーションカフェという場所で難民の方にドイツ語を教えたりしていました。当時は自分もドイツ語を勉強し始めたばかりだったので、難民の方からドイツ語を教わっていました(笑)

また、自分は日本人なのでドイツの方とも難民の方とも違うバックグラウンドを持っていたからか、珍しさ含めフレンドリーに話しかけてくれて色々な話をすることができました。そこではドイツの社会に入って頑張っている方と、言語や文化の壁にぶつかって葛藤してる人がいて、様々な価値観に出会うことができました。

-最後に行ったベルリンではスタートアップで難民の方の映像を撮影していたとのことですが、良かったことを教えてください。

スタートアップでは、難民の方にインタビューした動画をYoutubeで発信していました。映像を作ることで良かったことは、やはりカフェなどで難民の方と普通に話すより深く関われたことですかね。彼らがなぜ難民としてドイツに来て、どのような感情を抱えているのかを深く聞けたことは良い経験でした。

また、スタートアップで活動を行う前は、もともと映像というものが漠然と好きで映像で何かを伝えたいとは思いつつも始める勇気がありませんでした。しかし難民の起業家の人と話をするにつれ、制約がある中で新しい挑戦をしている姿勢に鼓舞され、自分で言い訳を付けて行動できていないのはあり得ないと思い開始することができましたね。

-帰国後は映像制作会社に就職されますが、就職も悩まれたとか…?

そうですね。帰国後も再度休学して映像制作会社や、社会問題を取り上げているメディアの会社でインターンを行っていました。インターンをしながら、どういう風に仕事をして、どのようなキャリアを積んでいこうか悩みました。NPO団体に入ることも検討していましたが、やはり映像という表現を使って、自分の気になるテーマでドキュメンタリーを作りたいと思い今の会社に入社しました。

現在は日々の業務が忙しく自分の創りたい映像を作れていないんですが、将来は映像という表現で社会問題を色んな人に伝えれたら嬉しいなと思います。また、当事者の方と映像制作したりワークショップをしたり、彼らが寄り添える場所などを作っていきたいです!

-最後にU-29世代に伝えたいことをお願いします!

ギャップイヤーを取って国内や海外を旅して色んな人に会ったことで、迷いつつではあるものの自分のやりたいことを決めることができました。ギャップイヤーじゃなくても余白の時間を作って自分の選択肢を広げる時間を設けて欲しいなと思います。

-貴重なお時間ありがとうございました!田村さんがこれから作る動画も楽しみにしています!

取材者:松村ひかり(Facebook
執筆者:藤川 結貴(Facebook/note
デザイン:安田遥(Twitter