自分の理由を軸に。MEDRiNG・CTO三浦笑峰の壮大な挑戦を面白がる生き方

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第403回目となる今回は、MEDRiNG株式会社のCTO・三浦笑峰(みうら しょうほう)さんをゲストにお迎えし、現在に至るまでの経緯を伺いました。

世界中に最低限の医療を提供する、という大きなミッションの元で活動されている三浦さん。壮大なミッションに立ち向かいつつも、それを不可能に感じさせない独特の空気感には、中学主席卒業での気付きや、アメリカ留学での価値観の変化があるのかもしれません。
力強く着実に、でも楽しさは忘れない。ベトナム・ハノイを皮切りとした、三浦さんの挑戦についてお伺いしました。

ー自己紹介をお願いします!

MEDRiNG株式会社執行役員CTOの三浦笑峰です。
2018年に東京大学工学部を卒業、同大学院に進学し、入学半年後にプリンストン大学コンピュータサイエンス専攻に留学しました。帰国後、2年間の休学を経て退学しました。

今の企業へは、休学1年目に参画しました。医療系スタートアップ企業として、ベトナムを拠点に医療全般のビジネスをしています。
僕自身も、2020年10月にベトナムのハノイへ活動の拠点を移しました。

 

ーベトナムで事業を展開されているとのことですが、具体的にはどんな活動をされているんですか?

世界中に最低限の医療を提供することをミッションに、医療の整備が不十分なベトナムを第一の拠点として活動しています。
具体的な活動としては、2020年12月頃にスマート診療所の「METiC(メティック)」を開設しました。
現在は、電子カルテの開発や、遠隔診療で日本の医師に診てもらえるような仕組みなどを構築しています。

 

ー医療水準の底上げに向けてテクノロジーを活用した仕組みづくりをされているんですね!
ここからは、三浦さんご自身の過去のお話もお伺いしたいと思います!

 

日本と中国のダブル文化で育つ

ー幼少期はどんなお子さんでしたか?

母親が中国出身で、北京で生まれました。
3歳からは東京で暮らしており、家庭でもずっと日本語を話してきましたが、学生時代は定期的に母の実家に帰省していました。

 

ー日本と中国の二カ国で育ったんですね!小学校ではどんな生活をされていたんでしょうか?

小学校4年生の頃から卓球をしていました。
それまでサッカーをしていたのですが、よく怪我をしてしまうのが嫌だなと感じていました。一番怪我の少ないスポーツは何か考えた時に、「これだ!」と思い、卓球を選びました。

 

ー怪我が少ないというのはユニークな観点ですね。卓球というと中国のイメージがありますが、ご自身のルーツとも関係しているんでしょうか?

自分から興味を持って始めましたが、少しは関係しているかもしれないですね。
屋外の卓球場がある北京の街並みや、親戚のおじさん達が皆とても上手なことから、中国で国民的に愛されているスポーツという認識はありました。

 

ー日本と中国のダブル文化で暮らしてこられた背景について、当時何か感じられていたことはありましたか?

自分の出生が特殊であるということは、当時から自覚していました。ですが、アイデンティティとしてどちらかの国に帰属しているという意識はなかったです。

 

 

文武両道になり「努力で可能性は広げられる」と知る

ー中学に入学してからはどんな学生だったのでしょうか?

東京の私立の中高一貫校に進学しました。
中学進学後も卓球を続けていましたが、勉強はあまり力を入れていませんでした。
ですが、3年の時に成績が良かったので、勉強も頑張ったところ、中学を主席で卒業できたんです。
その時に「良い景色だな」と感じ、高校入学後も文武両道であり続けようと努力しました。勉強も卓球も成績上位をキープして、高校の授業料も免除してもらっていました。

 

ー部活も勉強もどちらもトップであり続けたのはすごいです!並大抵の努力では成し遂げられないですよね。

一般的に、勉強ができる人はスポーツがダメで、スポーツができる人は勉強がダメ、と思われがちじゃないですか。そういう固定観念に反抗している感覚が楽しかったんですよね。
皆が毎日同じように勉強と部活で時間を使うのなら、そこで一番になってやろう、と。

この時の経験は、今の自分の基礎になっています。
毎日努力を続ければ成し遂げられるということ、努力で可能性は広げられることは、信念と自信に繋がりました。

 

ー努力で成し遂げられた経験は力になりますよね。その一方で、どうしてそこまで努力しようと思われたんでしょうか?

一つは、頑張ったら自分にもできる、ということに気付けたからですね。
中学を主席で卒業できたタイミングで、その可能性を発見できたからこそ実現しようと思えたんだと思います。

もう一つは、自分は何でもできる才能溢れた人間ではない、ということを自覚していたからです。日々の努力の積み重ねでしか変えられないということを知っていたので、コツコツやっていこうと思いました。

 

 

アメリカ留学を経て、自分の理由で生きるように

ー大学はどうやって選ばれたんでしょうか?

中高の生活がとても充実していたので、学生生活の良い幕引きをしたいと考えていました。そこで、日本で一番良い大学ということで東大を選び、塾に通わず入学しました。

 

ー塾なしで東大進学されたんですね!入学後はどのようなことをされていましたか?

進学はしたものの、集大成としての選択だったので入ってからの目的がなかったんですよね。
入学後は、自分は一つの専門分野の中ではなく、何かと何かを掛け合わせるようなことが向いているのでは、と感じていました。人と話すことと、海外や異文化が好きだったので、それを背景としたビジネスがしたいなと漠然と考えていました。

そんな思いの元、大学2年でビジネスの本場であるシリコンバレーに行きました。
ロサンゼルスやサンフランシスコを周遊しながら、自分たちの力でビジネスをしている人たちの姿に刺激を受けました。
帰国後に何か始めたわけではないですが、当時ブームだったAIに興味が出て、データ分析を勉強することにしました。

 

ーAIやデータ分析で大学院も進学されたんですね。学生時代を通して、特に影響を受けた経験はありましたか?

大学院1年でのアメリカ留学ですね。
価値観が大きく変わり、第二の人生が始まったと言っても過言ではない経験でした。

大学入学から大学院に入学するまで、自分のやりたいことを見つけられずにいました。AIを学んでいたのも、研究でもビジネスでも潰しが効くという理由からで。
AIやデータサイエンティストが来ると言われていたこともあり、誰かのお墨付きを自分の選択にしていたんですよね。

ですが、アメリカでは皆がそれぞれの理由で生きていたんです。
抽選で一番最初に結果が来た大学に進学したという人もいれば、将来は中国に帰って仕事がしたいという人、同じ民族の人としか結婚しないという人。
それまで、起業をする人が多いコミュニティにいたので、何となくそれが普通のように感じていました。人と違うことをすると「レールを外れる」と言いますが、レールを外れる人がたくさんいたことで、それが自分にとってのレールになっていたんです。そんな中、色んなバックグラウンドを持つ人が集まった環境に身を置いたことで、ある意味しがらみがなくなって。自分が思った「こうしたい」を理由に行動しようと考えが変わりました。

 

ー留学を経て価値観がガラッと変わったんですね。その後、何かアクションを起こされたんでしょうか?

帰国後は、大学院を休学しました。
何かすることがあるから休学する、という理由が必要なイメージが世間的にあると思うのですが、ただしたいからという理由でしたんです。

また、中学以来遠ざけていた中国語の勉強を再開しました。
それまでは、中国語を勉強する時間を英語に充てていたんですよね。中国人も英語を話せて、ビジネスでも英語が使われる場合が多いので、潰しが効くという理由でそうしていました。中国語よりも英語を勉強した方が良い、という周りの声に影響されていたのかもしれません。

自分は、あまり人の目を気にしないタイプだと思っていました。でも、アメリカでの経験を通して、自分の選択や価値観は、知らず知らずのうちに世間の風潮に影響されているんだなと自覚しました。
世間の誰かの批評に従う必要は全くないんです。何をしようが構わない、自分のやりたいことをやろうと思うようになったきっかけでした。

 

 

世界の医療水準底上げという壮大さと楽しさ

ー現在CTOを務められているMEDRiNG株式会社は、どのように出会われたんでしょうか?

休学してから半年後に今の社長と出会い、気付いたら一緒にやっていて今に至りますね(笑)。まだベトナムの話もなかった、創業に近い段階からジョインさせてもらっています。

 

ー「気付いたらいた」というくらい夢中になった理由は何だったんでしょうか?

未知のこと・新しいこと・規模の大きいこと、という3つが出来れば、自分は満足できるなと思っていて。その3つの条件が満たされるものだったからです。

創業者と出会う少し前に、規模の大きいことをしたいと思い、起業を視野に入れ始めました。
そんな時に、海外でクリニックを作るという話を聞いたんです。生きている間に自分のクリニックを開設するなんて、普通なら出来ないですよね(笑)。そんなところにとても惹かれました。

 

ーなかなか簡単にできることではないですよね(笑)。そんな中、やってみようと思ったのには、何か根拠があったんでしょうか?

日本含め、医療業界はIT化があまり進んでいません。一方で、自分はIT業界で知識やスキルを磨いてきました。活躍の場を移すことで、自分が価値のある存在になれるという直感があったんですよね。

あとは、とにかく事業が楽しそうだという一点でした。伸びそうだという感触はありましたが、伸ばすのは自分なので、事業のポテンシャルはあまり考えていなかったです。
ベトナムでクリニックを作っている人はいないので、とにかくユニークな存在になろうと思いました。

 

ー「起業は『何をやるか』より『誰とやるか』」とよく言いますよね。実際に起業をしてみて、どう感じられましたか?

人ももちろん大事ですが、個人的には「誰とやるか」と同じくらい「何をやるか」も重要だと思っています。
事業が大きくなる理由はプロダクトが良いからで、それによって面白い人が集まったり、一緒にやっている人が楽しめるようになってくる。事業そのものが魅力的でないと、成長しないので続かないのではと思いますね。

 

ー実際にベトナムで事業を始めてみてどうでしたか?

事業で大変なのは、法律に明記されていないルールがあることです。明文化された規制自体は日本よりも易しいんですが、社会主義国ならではの難しさがありますね。

一方で、人との距離が近いというのは、中国とも似ているところがあります。
お店の店員さんと気兼ねなく話せたり、コミュニケーションの取り方が日本よりもフランクだったり。平均年齢も低いので若い人が多く、エネルギッシュな国だなと感じています。

 

ー最後に、これから三浦さんがやっていきたいことについて教えてください!

現在、電子カルテの開発をメインで取り組んでいるので、それをどんどん進めていきたいですね。他の医院への導入なども、推進していきたいです。

個人としては、興味の持ったものをこれからもやり続けるんだろうなと思っています。チャンスを見つけたら、とりあえずやってみる、ということはスタンスとして持ち続けたいですね。

 

ー今後のMEDRiNG株式会社と三浦さんの活躍に期待ですね!三浦さん、お話ありがとうございました!

 

取材者:大庭 周(Facebook/note/Twitter)、武海夢(Facebook
執筆者:中原瑞彩
デザイナー:髙橋りえ(Twitter