自分の可能性を信じてケニアに移住! プロランナー 鈴木 太基の向上心に迫る

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第389回目とな今回のゲストは、プロランナーの鈴木 太基さんです。中学、高校、大学と駅伝に励んだ鈴木さんは箱根駅伝出場を経験し、実業団に就職します。しかし、ある出来事を機に、ケニアへの興味を抱いたことで人生が大きく変わりました。鈴木さんがこれまでどういったことを経験し、現在何を考えているのかをぜひご覧ください!

負けず嫌いは幼少期から

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。

4年間勤めていた実業団を2021年1月に退社し、そこから単身フリーとなって、2021年1月22日からケニアで生活をしています。現在はケニアのイテンという街で、マラソンの武者修行をしながらマラソン成功の日を目指して日々トレーニングに精進しています。


ーイテンはどんな街ですか。

ケニアの首都ナイロビから離れている田舎街ですが、アスリートがトレーニングするには適した環境で、世界各国のランナーやアスリートが集い、早朝からトレーニング風景が見られる街です。


ーケニアに移りプロランナーとして活動するまでに様々なことがあったかと思います。
過去についてもお聞きできればと思いますが、どんな幼少期を過ごされていましたか。

愛知県幸田町の出身で、小学生の頃はドッジボールやソフトボール、中学生の時は野球や駅伝をしていましたが、華奢な体格でした。ただ、小学校の時のマラソン大会で3度優勝するなど走ることには長けていましたし、どんなスポーツにおいても最後まで残って練習をしていたので、負けず嫌いな性格だったと思います。


ー駅伝とはどのようにして出会ったのでしょうか。

駅伝部は駅伝大会がある時に作られる臨時の部活で、
マラソン大会で優勝していたこともあり、駅伝部に入らないかと誘われました。


ーマラソンと駅伝の違いをどう捉えていましたか。

駅伝はチームスポーツということもあり、自分が失敗するとチームに影響が出ます。
だからこそ、自分が出した結果は自分だけのものではなく、皆の結果になるので魅力的だなと感じています。一方で、マラソンは自分が出した結果が自分に帰ってくる競技なので、そこは駅伝と違う点ですね。

 

ー中学で野球と駅伝をされていたということですが、
その後の高校はどのような進路選択をとったのでしょうか。

愛知県の豊川工業高校に進学したのですが、実は駅伝で全国1・2位を争う強豪校で、厳しい指導で知られている高校でした。受験時は、野球をとるか駅伝をとるかで迷っていたところ、中学の野球部の先生から「自分が狙える高校が駅伝で全国1・2位を狙えるならばその道を選んだ方がいいのでは」とすすめられ、豊川工業高校で駅伝部に入ることを目指しました。


ー高校時代はどんな成績を残せたのでしょうか。

試行錯誤をしながらの1.2年目を終え、いよいよ自分たちの代となりました。
わたしたちの代まで14年連続で全国大会に出場していたのですが、その年に東日本大震災の影響で仙台育英高校の選手が豊川市内のライバル校に加わることになったんです。そして、全国大会をかけた大会でその高校に負けてしまい、全国大会に出場することが叶いませんでした。

連続出場をストップさせてしまったこと、全国高校駅伝に出場できなかったことは競技人生の中で大きな出来事の1つでとても悔しかったです。

挫折を味わいながらも箱根駅伝に出場


ー心が挫けそうな経験を高校3年生でされたのですね。その後、鈴木さんはどのような選択を取ったのでしょうか。

埼玉にある大東文化大学に進学しました。きっかけは、高校の先生が大学の監督さんと連絡を取ってくださり、わたしのレースの様子を「いい走りだ」と評価してくれたことでした。全国高校駅伝に出場した先輩方が、引退後に箱根駅伝を目指していたこともあり、わたしも箱根駅伝に出場して活躍したいという気持ちがあり、関東の大学を目指していました。

大東文化大学は箱根駅伝の常連校でもあり、お声がけいただいた時はとても嬉しく、ここで結果を残せるという自信もあったので進学することに決めました。

ー実際に大学に入学して駅伝に励む中で、辛い経験もあったかと思います。

高校時代は監督やコーチが厳しく管理してくれていましたが、大学生になると自分で全てをコントロールしなければいけなくなり、それによるメンタル不調やケガで悩むことが多くありました。

その時期に自分を見つめ直す時間を設ける中で、「将来は海外に行きたい」とふいに思い始めました。そして、大学2年時に卒業後は海外に行こうと決めて、練習に励みながら大学内にある海外支援センターに通って、さまざまな相談もしていました。

ー怪我をして自分の将来について考えるきっかけを得られたのはターニングポイントでしたね。海外に対する憧れを大学以前から持っていたのでしょうか。

それまで海外に行ったこともなかったので、憧れはありませんでした。
しかし、高校で全国駅伝に出場したのちは箱根駅伝を目指して関東の大学を目指すといった”決められたレール”を自分自身は歩いているなと感じていました。そのため、一度きりの人生、もっと知らない世界を見てみたいと思い、海外への憧れを抱いたのかもしれません。

ー大学入学時から目指していた、箱根駅伝には最終的に出場できたのでしょうか。

3年目はエントリーしていたものの、当日変更で出場できず。ここでも挫折を味わいましたが、4年目に最初で最後の箱根駅伝に出場することができました。

箱根駅伝の前に開催される、全日本大学駅伝にも出場し区間4位という自分でも信じられない結果を残せたのですが、全日本大学駅伝・箱根駅伝の以前から、どうしたら試合で結果を残せるのだろうかと模索していました。
自分の課題はメンタルで、試合になると結果を出せないのはなぜかを考え続けた結果、全日本大学駅伝や箱根駅伝で自分が思うように走れたことで駅伝の面白みを感じ、実業団に就職しようという考えに変わり始めました。ただ、海外に行きたいという思いは変わらずに残っていたので、数年間は実業団で働いてお金を貯めたのちに、海外に行こうというキャリア観に変化していきました。

ケニアへの憧れを抱いて

 

ー実業団はどのような軸で選んだのでしょうか。

4年目の箱根駅伝が終わってから実業団の就職先を探したため、選べる実業団は限られていた中で、セラピストをしながら競技に取り組める実業団を選びました。接客業で仕事をしながらコミュニケーション技術を磨くことができ、海外のレースに出場できるという理由でした。

ーレースに出場するだけではなく、コミュニケーション技術も磨きたいという理由もあったのですね…!

実業団の中にはデスクワークなどの事務仕事が中心で、コミュニケーションを取らなくても良い企業もあります。ただ、わたしはやりがいのある仕事をしながら競技に取り組むことに魅力を感じていましたし、競技一本というよりも接客をしながらスキルアップを図れる仕事がしたいと考えていました。

ー実業団に所属し始める中で、転機があったそうですね。

仕事をしながら競技に取り組む中で、NIKE主催の「Breaking2」というプロジェクトに出ていた、世界記録保持者のエリウド・キプチョゲ選手のドキュメンタリー映像をみたときに彼の言葉に感激し、ケニアにいきたい世界に行きたいと思いました。そして、徐々にキプチョゲ選手やケニアに対して興味を持ち始めました。

ーキプチョゲ選手の競技感に魅力を感じていた鈴木さん、実業団3年目のときにケニアに行かれたそうですね。

同じ実業団のチームメイトがケニアに行かないかと誘ってくれました。
内心ではずっと行きたいと思っていましたが、一人で踏み出せなかったので、チームメイトが誘ってくれてとても嬉しかったのを覚えています。

その後、チームメイトと二人で2ヶ月間ケニアで合宿を行うための企画書を作り、社長に直談判したところ、OKをいただき、ケニア合宿が決まりました。

正直社長がOKを出したときは驚きました。他の実業団の場合は融通が効かなかったかもしれませんが、わたしが働いていた実業団は陸上部の歴史が浅かったこともあり、なぜ世界のトップを目指したいのかやなぜケニアなのかということを熱意を込めながら伝えたことで、理解してくれたのだと思います。

ー実際ケニアに2ヶ月行って、いかがでしたか。

文化や環境が日本と違ったので、到着してすぐに行ったのは「日本の当たり前をリセットすること」でした。現地での生活に慣れるのに精一杯の状況で、今までの生活リズムを続けたことで、自分のルーティンが崩れてしまい、最初の1週間は調子が崩れてしまいました。そこで、調子が崩れ始めた時に「郷に入れば郷に従え」という言葉通り、現地の生活リズムや食生活を取り入れたことで、徐々に調子も戻り始めました。

自分への可能性を信じた先に


ーこの2ヶ月のケニア生活が、ケニアへの移住につながったのですね。

ケニアから帰ってきた時には、またケニアに行くと心の中で決めていました。それだけ、自分にとっては大きなきっかけだったので、ケニアから帰ってきてから1年満たないタイミングでプロに転向することにはなりましたが、ケニアにいくタイミングをずっと見計らっていました。

ーケニアに行くことを決めた最大の要因は、どこにあったのでしょうか。

ケニア合宿で今までにない刺激を得られたり、自分への可能性を感じたことが一番の要因でした。コロナ禍でケニアに行くタイミングを見計らっていたものの、いつ終息するかわからない世界情勢だったので、「これを待っていても変わらない、自分が決断しないと変わらない」と思っていました。また、この閉塞的なムードがわたしのケニアへの新たな挑戦によって、人々の活力につながるのではないかと捉えていたことも、決断の後押しになりました。

ただ、スポンサーの獲得が難航したり、日本への帰国が難しくなる、大会参加がキャンセルになるなど、この決断にはデメリットも多くありました。しかし、ケニアでの生活を経験したことで日本での生活に満足できない日々が続いていましたし、少しでも自分が頑張れる環境に身をおきたいという思いが強く、ケニアに移住し、フリーになることを決めました。

ー実際に移住して4ヶ月。ケニアに身を置いてみて、感じていることを教えてください。

初めてケニアを訪れた時とは異なり、調子も上がり、充実した生活を送っています。
しかし、人間は面白いもので、刺激的な環境に毎日身を置いていると、その刺激が当たり前になってくるため、それまでとは違ったものを生み出したいという考えが内側から生まれてきています。今回は現地の人とのコミュニケーションからキャンプの手配や住む場所も自分で手配しているので、前回得られなかったスキルを磨ける環境にいるなと感じています。

ー言語の壁もある中で、現地の人と溶け込むコツは何かありますか。

ケニアの人は優しい方、フレンドリーな方が多いです。その中で大事にしているのは、食事のときになるべくコミュニケーションを取るように心がけていて、拙い英語を駆使しながらコミュニケーションを図っています。

自身を契機にケニアの生活を知ってもらうために


ープロランナーとして、鈴木さんは現在どこに目標を定めているのでしょうか。

世界最速記録を持っている、ケニア人のエリウド・キプチョゲ選手がタイトルとして獲っている「ワールドメジャーズマラソン」でケニア人に勝って、優勝することが目標です。

ー最後に、鈴木さん自身のこれからのビジョンを教えてください。

ケニアは貧困が故に、洗濯機などの家電はなくて洗濯も手洗いなんです。
わたし自身もその状況を経験して感じるのは、「生活することで1日が終わってしまう」ということです。
便利なものに頼れば楽に生活できたり、仕事や趣味に当てられる時間が増えると思いますが、アスリートであるわたしは生活するために1日が終わってしまうのも気に入っていて。生活することにフォーカスをあてつつ、トレーニングや睡眠に時間を割くことはアスリートにとっては健全なことであり、大切なことだと感じています。

先ほどお話しした、ケニアでのシンプルな生活や貧困問題から学べることは多くあるので、現地の人にプラスとなるように活動を支援したり、自分のマラソンでの結果やSNSの投稿からより多くの人にケニアの生活を知ってもらうプロジェクトを実施していきたいと考えています。

また、現地の小学校と日本の小学校をオンラインでつなぐというビジョンも立っているので、今後現地の人に恩返しができるように協業しながら活動していきます。

ー鈴木さん、今回は貴重なお話をありがとうございました!プロランナーとしてのご活躍をこれからも応援しています!

取材者・執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter
デザイナー:高橋 りえ(Twitter