渋谷からJリーグを目指す。サッカークラブ運営・酒井翼が語る「人を動かす力」

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第378回目となる今回は、酒井翼さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

選手でもトレーナーでもなく、サッカークラブ運営という形でビジネスとしてサッカーに関わことを決意した酒井さん。2冊の本との出会いがその道へのレールとなりました。縁あってサッカークラブの立ち上げに学生時代から参画。クラブを法人化した後はより地域に応援される存在になっていきました。

酒井さんのサッカーとの関わり方について、ルーツから苦難の日々、そして現在に至るまでのお話をお伺いしました。

「ビジネスとしてサッカーに関わる」 運命の本に出会う

ー自己紹介と現在の仕事内容を教えてください。

渋谷からJリーグを目指すSHIBUYA CITY FCというサッカークラブを運営している酒井翼と申します。スポンサーへの営業からバックオフィスまで幅広い業務に当たっています。フルタイムで働いているメンバーも少ないので、運営していると言いつつ何でも屋さんみたいな感じですね。

ーSHIBUYA CITY FCとの関わりはいつから?

SHIBUYA CITY FCの前身であるTOKYO CITY F.C.の立ち上げから関わっているので、足掛け7年ほどこのクラブに携わっています。2014年の立ち上げ当初、僕はまだ大学生でした。若い人たちが熱狂するかっこいいサッカークラブ作りたいという想いが根底にあり、渋谷という街の可能性と元々のメンバーの熱意やご縁があって法人化に至りました。

ー酒井さんの人生にサッカーが深く関わっているのですね。幼少期からサッカーを始められたのですか?

僕は4人兄弟の末っ子で、生まれた時兄がキャプテン翼にハマっていたので翼という名前になったそうです。でも実は父は野球派だったんですよね(笑)。父のすすめで野球をやっていたこともあるのですが、僕は結局サッカーの方にハマりました。

サッカーを始めたのは小学3年生の時です。練習をすればするほどボールを遠くに跳ばせたり、ドリブルができるようになったりと、できることが増えるのが楽しかったです。

小学校時代の酒井さんが所属していたチーム

ー中学、高校とサッカーを続けられたそうですが、サッカー選手になる道は選ばなかったのですか?

中学でクラブチームに入ったのですが、周りのレベルが高くて自分はプロにはなれないなと思いました。成長痛がひどかったこともあって練習に打ち込めなくなり、ちょっと斜に構えていたところもあったかもしれません。悩ましい中学時代でした。

サッカーは好きだったので高校でも続けましたが、その先のことは分かりませんでした。進路を考え始めた高校2年生の時、ある本に出会って「自分のサッカーとの関わり方はこれだ!」と直感しました。

ーどんな本に出会ったのでしょうか?

1冊目は浜田満さんが書かれた『サッカービジネスほど素敵な仕事はない―たった一人で挑戦したFCバルセロナとの取引』という本です。浜田さんは今日本でも有名な久保建英選手がFCバルセロナに行くきっかけを作った方で、「選手や現場のスタッフ以外でも、ビジネスとしてサッカーに関わる方法があるんだ」と知ることが出来ました。

また、もう1冊が広瀬一郎さんの『サッカービジネスの基礎知識―「Jリーグ」の経営戦略とマネジメント』という本です。この本の帯に、元日本代表・岡田武史さんの「Jリーグができて最初の10年で選手がプロ化、次に監督がプロ化、これからは経営者がプロ化する時代だ」という旨の言葉が書かれていて非常に印象的でした。

ー2冊の本に強く惹かれた理由をご自身ではどのように考えていますか?

自分のルーツを辿った時、父方の祖父のことを思い出しました。祖父は僕が生まれるずっと前に亡くなったので会ったことはないんですが、戦後の焼け野原の東京に出てきて薬の問屋をしていたそうです。

やがて従業員を300〜400人も抱える大きな会社に成長させるほどビジネスの才覚がある人だったという話を小学生の頃に聞いて、自分にもビジネスの才能があるかもしれないと根拠のない自信を持っていました(笑)。

本屋でその2冊に出会って、自分のルーツとサッカーが結びついたような気がしたので惹かれたのだと思います。

TOKYO CITY F.C.と出会った大学時代 ゼロからのスタート

TOKYO CITY F.C.の立ち上げに参画した酒井さん

ーまさに本との運命的な出会いだったのですね。そこからの進路はどのように決めましたか?

スポーツビジネスが学べる早稲田大学スポーツ科学部を目指すことにしました。大学生になったら世界を旅したいと思っていたので、センター試験の英語と世界史で満点を取るという目標を掲げました。

ーセンター試験で満点を目標に!それはすごいですね。結果はいかがでしたか?

無事英語は満点、世界史は1問ミスでパスすることができました。英語は模試でもなかなか満点を取ることができなかったので本番で達成できて本当に嬉しかったです。世界史は転記ミスだったので悔しい思いはしましたが。人生で初めて「あきらめずにやればできるんだ」という根拠のある自信が持てた瞬間でした。

ー自分で目標を立てて達成できたことは素晴らしい体験ですね。念願の大学生活はいかがでしたか?

想像以上に楽しかったです。勉強にサークル、旅など、かっこよく言えば忙しい学生生活を送っていました。仲間にも恵まれて意見交換やディスカッションも活発に行いました。4年間のテーマは、いろんな経験をしてサッカービジネスで具体的に行動する領域を絞ることと、仲間を集めることだったので、よい学生生活が送れたと思います。

ーそんな中でTOKYO CITY F.C.との出会いがあったのですね。

はい。学生生活は楽しかったのですが、もっとサッカービジネスの現場を見たいと思っていました。そんな時にTwitterでフォローしていたスポーツ系企業の役員の方が、あるスポーツ系のアプリを広めてくれる学生インターンを募集していたのを見てぜひやりたと思い、応募しました。その時の役員が現在弊社の代表であり、僕をTOKYO CITY F.C.に誘ってくれた人です。

ーTOKYO CITY F.C.はゼロからの立ち上げだったとのことですが。

最初はとにかく「かっこいいサッカークラブを作ろう」というコンセプトで動き始めました。チームはまだないのにビジュアルだけ考えて、ロゴやユニフォーム、Webサイトをまず作りました。最初はJリーグを目指すなんて思っていなかったので、僕も選手として出場し、サークル活動の延長のような感じでしたね。

ー大学時代、他にもサッカーに関わることはしていましたか?

実はJリーグの事務局でバイトをしていましたが、現場を知って自分は何もできないことを痛感しました。一方、この頃からビジネスやカルチャー、エンタメなどあらゆる分野が盛んな渋谷を拠点にして、TOKYO CITY F.C.でJリーグ入りすることができれば無限の可能性が広がっているのではないかと考えるようになりました。そのためにはまず営業や組織作りを学んで力を付ける必要があると思い、就職活動を始めました。

法人営業の経験を積むため就職。苦難の日々

動画系ベンチャー時代の酒井さん

ーTOKYO CITY F.C.の活動を続けつつ就職活動が始まったとのことですが、具体的にどんな軸をお持ちでしたか?

先に述べた法人営業や組織作りが学べること、渋谷が本社であること、社員の方々が自分のタイプと合っていそうかどうかなどを中心に考えました。特に法人営業の経験はマストだと思っていましたね。本気でJリーグ入りを目指すのであれば稼げないと話にならないので。そのためにはスポンサーメニューなどの無形商材を提案できる力をつける必要がありました。結果、従業員50人くらいの渋谷の動画系ベンチャーに就職しました。

ーいろんな条件の重なりから出会えた会社だったのですね。社会人になって変化はありましたか?

かなり打ちのめされましたね。自分なら活躍できるだろうと思っていたのは驕りだったと知り、全然ダメでした。泣きながら上司に慰められることもありましたね。2年間、苦しいことが95%でした(笑)。でも、これから成長していくベンチャーのいいところも悪いところも経験できてよかったと思います。

ー状況が変わったのはいつ頃ですか?

TOKYO CITY F.C.が東京都リーグ3部(J9に相当)で優勝し、東京都リーグ2部に昇格が決まったタイミングで、このまま遊びの延長のサッカークラブで終わるのか、もっと上を目指すのかという話になりました。激しい議論の結果、ついに法人化してJリーグを目指すことに。もちろん、Jリーグ入りはゴールではなく、「Football for good “ワクワクし続ける渋谷をフットボールで”」というビジョンも出来ました。その時いよいよ覚悟を決めて動画系ベンチャーを退職することにしました。

TOKYO CITY F.C.法人化。期待と不安で手探りの状態

TOKYO CITY F.C.を法人化した記念日

ーついにTOKYO CITY F.C.が法人化されたのですね。どんなお気持ちでしたか?

元Jリーガーや元日本代表の選手もチームに入ってくれて、これからどんなチームになっていくんだろうというワクワクはありましたが、同時に不安もありました。フルタイムは僕一人だったので実質なんでも屋でしたし、要であるスポンサーへの営業も本当に大変でした。できたての、それも”J8”相当の何も実績がないサッカークラブの話を聞いてくれる人は本当に少ないんですよね。

ー渋谷という場所についてはいかがですか?

まず地域にどう根付くかを考えました。地域の誇りになれないと意味がないと思っていましたから。実際問題として、地域の方々に応援してもらえないとグラウンドを使えなかったり、行政からの協力を得られなかったりと苦労する点はあります。

ー人や地域を巻き込んでいくと生まれる苦労もあるかと思いますが。

そうなんです。法人化する前から組織としてTOKYO CITY F.C.は存在していたので20人ほどのボランティアメンバーがいました。しかし、法人化して僕がフルタイムになって自分だけ給料をもらう立場になると、温度感や関係性が変わってしまった部分もあります。

 

僕はお金をもらう立場になったのだからまず自分がやらなければならないと思い悩みましたし、組織のために稼がなければならないプレッシャーもありましたね。

地域の人からの応援を受けてSHIBUYA CITY FCに改名

渋谷にて初めてのホームゲーム

ー立場や環境の変化によっていろんなことが起こったと想像しますが、現在はどのようなマインドで組織を運営されていますか?

今はすごく楽しいです。フルタイムの優秀な仲間も増えましたし、何より地域の方々に応援してもらえるのが嬉しいです。実は、今年から名前をSHIBUYA CITY FCに変えました。

2週間に1回原宿・表参道でゴミ拾いをしたりサッカー教室を開いたり……といった活動をしていると地域の方から「もう(TOKYO CITY F.C.ではなく)SHIBUYA CITY FCだね」と言ってもらえたんです。名前を変えた結果、ますます応援してもらえるようになって僕たちも元気と勇気をもらっています。

ーコロナウィルスの影響でスポーツ界は厳しい状況かと思いますが、どのように乗り越えてきましたか?

4月18日に初めて渋谷でホームゲームができました。渋谷はコートが少ないためなかなか地元開催が叶わず、これまではさまざまな場所で公式戦をしてきました。しかし、SHIBUYA CITY FCに名前を変えたタイミングで行政やサッカー協会など様々な方の協力も得られてようやく念願叶って渋谷での開催できることに。

コロナ禍なのでチケットは事前応募制にしたのですが、上限300人の枠がすぐに埋まり僕らとしても驚きがありました。

ーコロナ禍にあってもスポーツへの熱量はなくなっていないんですね。

はい。その試合では1つ1つのプレーに拍手が起こりました。アンケートには「地元にサッカークラブができて嬉しい」「目の前で迫力のあるプレーを見られてよかった」という声も寄せられました。大人も子供も喜んでくれて、自分の小さな目標が一つ達成できたような気がします。

人を人らしくするのは感情。心を揺さぶるサッカーを

ー酒井さん自身は今後どのようなビジョンを描いていますか?

キーワードとして「人を人らしくしたい」という言葉を掲げています。世の中はどんどん便利になっていきますが、合理的になることと幸せになることはイコールではないと思います。喜怒哀楽の感情や豊かな人間関係が増えて、人らしく生きていくことが一番の幸せだと思っています。なので、日本の、世界の中心である渋谷から、サッカーを通じて感情を揺さぶられる人が増えてより幸せな人が増えていけばいいなと。

ー具体的にどんな感情が動きますか?

サッカーって、楽しいだけでなく怒りの感情もあると思うんです。応援しているチームのプレーがうまくいかなかった時や負けてしまった時など、つい怒ってしまいますよね。でも怒りも人間らしく尊い感情です。怒りがあるからこそ喜びが特別に感じることもあります。喜怒哀楽があるからこそ人はもっと幸せになれるんじゃないかと思います。

ーサッカーと感情が結びついているのは意外でした。最後に、不安や迷いのあるU-29世代にメッセージをお願いします。

人とのご縁を大切にしてほしいと思います。すぐには解決に至らなくても、自分が何かをやりたいと声を上げた時に一人でも協力してくれる人が後から現れるかもしれません。僕自身、学生時代の友人、前職でお世話になった人、地域の方々などいろんな人に助けられてここまできました。何事もまずは目の前の1つ1つのご縁を大切にすることが大事だと思います。

ーサッカーで人と人とをつなげるというお話もありました。酒井さん自身がご縁を大切にしているからなんですね。酒井さんの今後のご活躍を応援しています。本日はありがとうございました!

取材:高尾有沙(Facebook/Twitter/note
執筆:小山志織(Twitter/note
編集:えるも(Twitter
デザイン:高橋りえ(Twitter