17歳で画家になることを選んだ私の自由な世界。画家・萌白(mejiro)

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第283回目となる今回は、18歳の画家 萌白mejiroさんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

辛かった学生時代を経て、画家として生きていくことを決めた萌白さん。決断の背景やここまでの半生を詳しくお伺いしました。

元気な幼少期からインドアに。波乱万丈な学生時代

ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。

17歳から画家として活動をしております、現在18歳の萌白mejiroと言います。

現在は画家と絵画教室をメインに活動しています。

ー萌白mejiroさんの幼少期について詳しくお伺いできますか?

ほとんどが母から聞いた話ですが、箱いっぱいに詰めたダンゴムシを母にプレゼントしたり、木登りをしたり、とのびのびと育ってきました。

また、幼稚園の時の将来の夢はアイドル歌手だったので、友達に自作の曲を披露したりもしてましたね。アイドル歌手が将来の夢になったきっかけは、昭和のアイドルをみてかっこいいな、と思ったことでした。

ー幼稚園時代は活発な女の子だったのですね。小学校時代はがらりと変わってインドアになったとのことですが、どんな経緯があったのでしょうか?

小学校1年生の時、学校の同級生とは仲がよかったのですが、同じ地区の女の子たちとの相性が悪かったです。当時元気いっぱいだった私と比べ、同じ地区の女の子はどちらかというとお淑やかな子が多かったので性格が合わず、仲の良い女の子ができなかったです。

自由奔放な母だったので、どちらかというと同級生の男の子のお母さんと仲がよかったです。また、私のことをよく思っていない同級生のお母さんにしてもいないような内容の噂を流されてしまって、登校も下校も1人でした。中休みや放課後も本を読んでいたり、友達と遊ぶこともなかったのですぐに家に帰っていました。

私は覚えていないのですが、「学校に行きたくない」と大泣きしたこともあったそうです。

ーこの時からすでにインドアだったとのことですが、すでに絵を描くことはしていたのですか?

幼稚園の時から絵を描くことは好きで、ずっと書いていました。小学校の時も、授業中のノートに落書きばかりで母に怒られていました(笑)

ー中学生時代に中二病を発症とありますが、詳しくお伺いできますか?

「アニメに憧れて」ではなく、「私なんて生きてる価値ない」のようなことを考えるようなネガティブな中二病でした。

最初は見たものに影響されて真似をしていただけでしたが、「病は気から」のことわざがあるようにどんどん私は生きてる価値がないと本当に思うようになってしまいました。当時の友達も私と同じような考えの子が多かったですね。

両親も私のことを心配して叱ってくれましたが、それを煩わしく思うようになり、家族との折り合いも悪くなっていきました。

ー高校に進学をきっかけに中二病が改善してきたとのことですが、具体的にはどんなことがあったのでしょうか?

中学3年生から好きだった方と交際が始まったことがきっかけでした。

当時付き合った彼に変に思われたくなくて、自分を変えようと決意したことでどんどん中二病が改善されていきました。その後、別れてしまいましたが今でもとてもいい思い出です。

ー中二病の時期だったり、恋愛で気持ちが上向きになった時で作風は変わってきましたか?

そうですね。作風は変わっていました。中二病の時はちょっとグロテスクなものが多かったのですが、今はとにかく綺麗な作品を書きたいと思っています。